坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

保守化というか、優生思想

2013年12月30日 | 坊主の家計簿
【何かに縋りたい。何かに所属したい。そんな欲求も強い。特に若者だ。かつては全共闘運動もあった。しかし、今はない。反戦運動もカッコ悪い。それに、自分が弱くなった気がする。その点、愛国心・ナショナリズムの方は、国家と一体になり、自分が強くなった気がする。】(鈴木邦男。宝島社『日本の右翼と左翼』P2より)

やろ。
念仏の問題やね。あ、私のね。関心なんてそれぞれやし、課題もそれぞれ。押し付けるのは鬱陶しいというか、縁起の無視。

商品価値

2013年12月30日 | 坊主の家計簿
http://www.ishida.co.jp/cm2014/

国生さゆりのこのCMが無茶苦茶面白い。

人間の価値判断なんて、こんなもんやろ。世間は商品化という価値判断をする。

で、なしてそれに迎合しないといけないの?
それを再生産しなければいけないの?

カット良く「俺なんかタダで売られてもエエ存在やで」と言いたいけど、やっぱり無価値に扱われると腹が立つ。そして、やはり、自他にたいして価値判断を付けている。
そんな愚かな存在として、同じ価格やん(笑)

人それぞれ、とかいう思考停止

2013年12月30日 | 坊主の家計簿
人それぞれ、とかいう思考停止 : アルファルファモザイク http://alfalfalfa.com/archives/7019685.html


15 風吹けば名無し :2013/12/28(土) 16:23:41.04 ID:tskZg6Y2
【人それぞれ】 クソつまらん趣味嗜好・他者への悪口に対する同意を強要された時に使う言葉。


これが端的。つか、まとめサイトにこの文を載せて、赤字にした感覚も好き。

「バラバラで一緒」
という言葉を在日コリアンのご近所さんが言ってた事が象徴。

つか、12月の寺の通信に「人生いろいろ」でも書いたけど、誰かが「人それぞれ」と言った時は、その人にとってしんどい状況やからやろ。その人の人生の事、知らないわけだし。勝手に判断してるだけの話だし。

有頂天ならそんな事は認められない。
んが有頂天も迷いだし、それも含めて「人それぞれ」と認める。あ、許さんが(笑)落すが(笑)

仕事納め

2013年12月30日 | 坊主の家計簿
今日は仕事納め→諸々整理。

年賀状も整理。あ、さっき一件投稿したか。

恩師の年賀状も捨てれない。あ、当たり前か(笑)

泥酔…

うちの恩師はとっても変な人。つか、変な人だから、ほぼ交流がなかった大谷専修学院本科時代から気になっていた。そして四年後に別科に戻った時に出会った。

元々クソ生意気な学生だった。それは専修学院卒業後も変らず。あ、今もたいして変らんかも知れんが。だから、上から目線での評価。

専修学院は岡崎と山科の学舎に別れている。別科は授業内容も少し違う。
授業内容でなら、断然山科だった。唯識もあるし、清沢満之もある。結局、岡崎だったので腹立って勝手に自習したけど。
でも、岡崎には恩師が居た。ずっと気になって居た恩師が居た。だから、自分では選べなかったけど、上から目線で「授業内容なら山科やけど、岡崎には埴山先生が居てるからなぁ…」なんぞと。

念仏との出会いって、人それぞれだと思う。文献読んで出会う人も居てるみたいだし、そんな出会いを否定する権限は私にはない。
ただ、私にとっては恩師だっただけの話。無名な年齢的にとそんなに離れていない先輩が善知識になっただけの話。

映画グッド・ウィル・ハンティング。師弟の出会い。

恩師は私が起こした問題にたいして「それは俺の問題でもあるねんけど」と。それだけの話。ただ、それまでに色んな流れがあって、たまたま、その時。今まで感じた事のないような感覚。それだけの話。

だからと言って鬼神、カリスマにはしない。恩師が福島差別をするような話、まあ、同朋新聞に書いてあるような話をそのままするのなら当然徹底批判するし。そんな関係だし。

世の中が、自分が「そのまま居てイイんだ」と。ある事件で怒ってくれた事を機縁に。

恩師は私が友達が自殺して居てもたってもおられなくなって逃げた時に、ずっと「帰って来なさい。待って居るから」と電話で言ってた。実際に朝に帰ると、講堂で寝てた(笑)

今年の年賀状には池山先生の「オネガイダカラ、スグキテオクレヨ」を午年にかけて書いたけど、何かの干支の時には「帰って来なさい。ずっと待ってるから」も書こ。

ドラマ相棒の死刑囚のヤツ

2013年12月30日 | 坊主の家計簿
大阪ローカルかも知れんけど、今日の昼間にドラマ相棒の死刑囚のヤツをやってた。

何となく録画してさっき観てたけど、凄い。ええわ、これ。

特に最後辺りに元ARB石橋がエエ。石橋が裁いてしまった人と、その遺族の出会いが素晴らしい。

許す。

ドラマの中でも出て来たけど、法務大臣経験者で任期中にハンコを押さなかったのは左藤恵。真宗ブックレットに書いた文書を読み返す気力は泥酔状態の今、全くないけど。

教団言いなりのイエスマンではない。んなもん、今の福島差別に繋がるような被曝記事は散々批判しているけど、死刑の度に抗議する大谷派は素晴らしい。

人権という概念は仏教にはないけど、縁起。人権よりも縁起的生命を生きる煩悩具足のわれらという人間観の方が好きやな、やっぱり。

まあ、ええわ。

どんな状況を生きたどんな人でも決して見捨てない。だから、死刑を認める事は出来ない。

だからと言って、死刑廃止の運動を、行動を「しなければならない」とも全く思わない。それも縁起の無視だろ。やりたければ、やればいいだけの話。つか、集会やデモに行くだけが行動とも思わないし、新聞記事をマメにチェックして、誰が死刑になったのかどうかをチェックするのも縁起やろ。

力強い縁起もあれば、哀しみで連帯する縁起もある。

ただ、自分を認める事が難しい人には死刑廃止運動や障害者解放運動に参加する事を勧めたりもする。だって、自分を嫌いって、どこで判断してるの?「こんな私は嫌い」=「あんなヤツは認められない」やし。

運動だって、念仏申す機縁にもなる。あ、「運動するのが真宗や」は、テメーのこだわりを他人に押し付けるだけのガキなので、殴るの面倒やし、自分で自分をイジメとけ。それがイヤなら、念仏申せ。


http://www.tv-asahi.co.jp/aibou_06/contents/story/0019/

仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている

2013年12月29日 | 坊主の家計簿
仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている、

このことが一番大切で、本願だの念仏だの、その後の問題です。

仏から信ぜられていることが信ぜられないのを難信と申します。

-昭和41年9月10日、越後東三条・大谷派別院での女同行へのお言葉-

(曽我量深 昭和41年11月『中道』第49号)


http://homepage3.nifty.com/daihi/hondou/ryoujin2.htm

極楽は極苦

2013年12月29日 | 坊主の家計簿
仏陀釈尊は目覚めた人であるが故に仏陀と呼ばれる。んじゃ、仏陀でない私は眠った人。というか、「私」という思いの中で生きている人。

昨日テレビで追っかけ再生した映画「グッド・ウィル・ハンティング」は編集がクソだった。つか、あの映画を編集する隙間はないと思うが、娑婆のテレビだから仕方がないか。

色んな事を考えさせられる映画だけど、やっぱり師弟。師弟が友であり、かつ共に心の傷を感じ合える関係が故に心を開ける。開いた世界は現実。当然変わらず「私」という思いの中の世界だけど、「君は悪くない」「君は悪くない」と、同じ傷付いた人、隣人だからが故に、世界と出会える。現実に出会える。
リアル。

これまた大好きな映画「ベルリン天使の詩」。天使が天使を辞めて人間世界に降りて来る。今までは天使。傷付いた人の側に居て肩を抱くと傷付いた人は癒される。「もうダメだ」と言っていた人が「大丈夫かも」と思える。そういう天使の仕事を辞めて人間世界に降りて来た天使は初めてコーヒーの温かさを知る。個人的な一番の名場面。

真宗仏教は楽になるのではない。楽を目指すワケでもない。心の持ち方、考え方の操作をするものではない。まあ、過程としては「こういう考え方もある」というのはとても大事だと思うが。「私」という思いの中の先日だけでしか考えられなかった事が色んな方向から考える事によって「楽」に生きれるようになるのなら、それはそれで構わない。だって、生きれるんだから。考え方ひとつ、心の持ち方ひとつで自暴自棄にならずに済むのなら、それはそれで構わない。死ぬより生きて居た方が、まあ、ええ。死ぬ事も別に構わないが。それも人生なんだし。

極楽は極苦だと思う。
責任逃れ出来ない世界だし。辛い事はより一層辛くなる。苦しい事はより一層苦しくなる。誰にも責任転換出来ない、自立した、独立者の世界だから。

誰かを悪者にして責任転換なんぞ出来ない。「あいつのせいで私はこんなに苦しいんや!」とは言えない。言ってしまうが、それは違う。心の持ち方で解決するのでなく、事実。相手のせいにしても何も変らん。愚痴でしかない。愚痴は愚痴であって、事実ではない。事実としては愚痴を吐いている私が居るだけ。

生きているのは他人の人生でなく、私の人生。他の誰でもなく、私の人生。

極楽は極苦。
言い逃れする主人公から、全責任者たる自分の人生を歩み出す事が出来る。

歎異抄 第十四章後半

2013年12月26日 | 坊主の家計簿
歎異抄 第十四章後半 
                           

※ 表題 「白道」

※ 本文

 念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。

※ 現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生の間の、ありとあらゆる思いは、すべて迷いの生活へつなぎ止める鎖となるから、いのちが終わるまで、念仏を称え続けてはじめて往生が可能であろう。
 ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに遭あうかもわからず、身心の病の苦しみに責められ、臨終に心が乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。その間の罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。
 われわれを摂め取って捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも遭い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで、直ちに往生を遂げることができるのである。
 また、いのちの終りに念仏が称えられたとしても、それは、いままさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終に心の乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。

※ 語意・語註

(一)業報
 一般的には、過去の善悪の行為が現在の報いをもたらすという意味である。つまり、経験の蓄積が人間を形成していき、善悪の行為の結果が現在の自己の状況となっているという、存在の責任感を表す言葉。ここでは、この責任感の重圧に苦しめられる人間存在に対して、如来のはたらきにまかせれば解放されるということを述べている。
 
(二)正念
 一般的には、八正道のなかのひとつ。仏道に叶かなった正しい想念の意。ただし親鸞は、称名念仏を「正念」と理解している。

※ 関連語句

(一)浄肉文

     涅槃経に言く  
     人・蛇・象・馬・獅子・狗・  
     猪・彌猴・驢  十種不浄肉食  
     又言く、三種浄肉  
     見聞疑  見といふは、わが  
     目の前にて殺す肉を食するなり。聞との  
     いふは、わが料に獲りたるを食  
     するをいふ。疑といふは、わが料  
     かと疑いながら肉食するを  
     といふなり。この三つの肉食を  
     不浄といふ。この三つの様を  
     離れたるを三種のきよき  
     肉食といふなり。

 十種の不浄肉:人、蛇、象、馬、獅子、狗(イヌ)、猪、狐、猿、驢馬(ロバ)

 三種浄肉:
      「見」は目の前で殺された動物の肉を食べること      
      「聞」自分のために殺された動物の肉を食べること      
      「疑」自分のために殺された疑いながら肉を食べること 
    
    この三つの肉食を不浄といい、この「見」「聞」「疑」を離れたものを     
    三種の浄き肉食という。

(二)女犯偈
       行者宿報にて設い女犯すとも
       我玉女の身と成りて犯せられん
       一生の間能く荘厳して
       臨終に引導して極楽に生ぜしめむ

 以上二つは、親鸞聖人が同じ紙に書いている。

 滅罪について考えている時に思い立ったので。

(三)滅罪出来る才能(優劣)

【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人々に平等に慈悲をおこして、あまねく一切を摂め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。】
(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』129頁より)

(四)一念多念文意

【当時法然上人のお弟子たちは、それぞれに自分の考えを主張されたので、いろいろの異義(信心が異なること)が生まれ、あらそいが起こりましたが、その一つにこの一念多念文意の問題もありました。これは念仏を称えることについての一念か多念か、つまり一念でいいのか、それとも多念仏でなければならぬのかという問題であります。
 一念の側に立つ人々は、一念仏の中に限りなく利益が与えられるということを、お釈迦さまが無量寿経の下巻の終わりのところで弥勒菩薩につげられたお言葉を根拠として、一たび念仏すればそれで一切は解決されると強く主張されたのでしょう。多念の側に立つ人は、人間は死ぬまで妄念や妄想は消えないのだから、一生涯をつくして念仏にはげまなければならぬと考えるのでしょう。どちらも一理あることです。
 しかしこれは結局人間の考えに立って念仏の二通りにはからっているのであって、問題は念仏にあるのではなく信人にあると見ぬかれたのが親鸞聖人であります。

(中略)

 信の一念を頂いたところに一切は終わるという考え方と、そうではなくて一生念仏を頂いていかねばならないというのと、この対立の問題を解明されようとしたところに「一念多念文意」をおつくりになった動機があるとうかがえるのであります。
信を頂いたところに、浄土はもはやそこに開かれている(即得往生)、人間は終わった、こういう意義はありましょう。だからすべては終わった、こういうことも大切であります。しかしだからといって文字通り何もかも終わった、もう何もかも終わった、もう何も必要でないというのは、かえって信心の意義を忘れたこと、言いかえると自分を忘れたことにもなりましょう。たしかに信は仏の心が実現したことであります。信心は仏でありましょう。だから聖人は「信心仏性」といわれるのであります。しかし次の瞬間、人間は凡夫にたちかえっております。一度得た信心がそのまま固まったような形で人間にあると考えるなら、それは信心を物質化してしまったことでしょう。
 私たちは心を純粋に心として考えられないようになっています。どうしても心を物質的に考えるくせがあります。人の親切も物に換算してしまうことがあります。信心や自力なども物のように考えて、貰ったとか捨てたといっている場合もあるようです。我執という心も根強いものでそう簡単に消滅してしまうものではありません。たしかに信心があらわれている時に我執はありません。しかし全く無くなってしまったのではなく、意識の裏側にかくれているのであります。だから信心が消えた時は我執はたちまちにあらわれて参ります。
 求道のきびしさはここにあります。なればこそいつでも聞法しいつでも一念に立ちかえらなければなりません。聖人はこれを示すために本願のおことばを「多念をひがごとと思うまじき事」の最初に引いて、「本願文(第十八願)に乃至十念と誓ひたまへるにて知るべし、一念に限らずということを」と申して居られるのであります。
私たちは一生聞いていかねばなりません。そしていつでも一念に立ちかえらなければなりません。一念を卒業するのでなくいつでも一念、これを後念相続といわれるのでありましょう。乃至というのは、それがどれだけ続くか分からないけれども、一生を通じてといわれるのではないでしょうか。どれだけ念仏すれば卒業というのではありません。それで次に「いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数定まらずということを」と数えられるのであります。】
(仲野良俊『やさしい聖典道しるべ』真宗大谷派 名古屋別院(東別院)・名古屋教区・教化センター http://ohigashi.net/oshie/read/seiten/ より) 

思い悩むな

2013年12月25日 | 坊主の家計簿
【「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」】(マタイ6章25~34)

御厨・中央軒

2013年12月21日 | 坊主の家計簿
中来軒
http://tabelog.com/osaka/A2707/A270703/27017223/?cid=ml_rstdtl_app_i_shr


仕事帰りに東大阪のカインズホーム。私服に着替えてお買物。

買物終って空腹だったので食べログで5キロ圏内ラーメン検索。地図表示にしてて帰り道方面を見てると美味しそうな餃子の写真が…。予定変更して餃子280円と塩チャンポン680円。
味はそこそこ。町の中華屋で近所に会ったら嬉しい程度なんだが、この店、スゲェ…。
何がスゲェって、まずカウンターの端に座っていた常連らしき人物に店の人が「なんかオゴルから出前に連れてって」と。冗談かと思ってたら、ホンマに行く(笑)
そして、頼んでない小鉢に入ったオデン登場。サービスらしい。そしてそして、そろそろ食べ終る頃にオバちゃんが「コーヒーはアイスかホットかどっちにする?」と。いや、コーヒー飲まれへんねん…。そしてそしてそして、280+650=900円に。30円はコーヒー飲まなかったからなんだろうか…。

とりあえず、味はそこそこなのでワザワザ行こうとは思わんけど、店のスグ近所が昨日忘年会で一緒に呑んでた親しい先輩の寺だし、先輩寺に行く時とか、カインズホームの帰りにまた行くかも知れん…。

御厨、恐るべし…。

餃子の王将

2013年12月20日 | 坊主の家計簿
【社長追悼餃子なぅ。】社長死亡で追悼セール催促するバカッター民達 : あじゃじゃしたー http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/8182502.html


え?王将やろ?何がアカンねん?王将をバーミヤンとか大阪王将と間違えてないか?

という事で今晩は王将。久々のジンギスカンも。

ジンギスカンで有名なのは、北海道と岩手と長野・信州新町。ちなみに全部でジンギスカン食べたぜ(笑)
だが、餃子の王将を忘れてませんか?

餃子の王将。最初に行った時はまだ京都王将と大阪王将に別れてなかった時代かな?まあイイや。ジンギスカンを最初に食べたのは王将だった。あ、最初は物珍しさだったけど、20前後ぐらいの時は金が無かったから。ホイコーローと同じ値段やって、焼肉より100円以上安かった。なのでジンギスカン。青春時代の貧乏飯。自炊が面倒で疲れて王将に行って、ジンギスカンと餃子と白飯とか。「焼肉にしよかな~」と悩むが、ジンギスカン。なので、北海道系なのかジンギスカンが偉そうな顔して大阪にやって来た時は「お前の居場所はここにはない」と。王将で450円(値上げしよったの。当然やけど)で食べれるもんを焼肉値段で食べる酔狂もんは江戸には居てるかも知らんが浪速には居らん。

しかし、シェア先まとめを作ったヤツは関西人か?関西人でも大阪でなら北摂の山の方の人間と違うか?まあ、その理屈で語ってくれるのもええけど、鼻で笑うわ。王将とスーパー玉出って、そんな扱いやろ。誰と一緒に居てくれた会社やねん。京大近くの王将なんか皿洗いしたらメシ、タダやぞ。焼飯・天津飯・中華丼と餃子でお腹一杯になって500円ぐらいで、かつ、あの店の感じ。勢いのあるガサツさ。お前ら、玉出の肉の色が変わってて怒るヤツやろ。来るな、鬱陶しいから。

リーガルハイ最終回

2013年12月19日 | 坊主の家計簿
リーガルハイ最終回、素晴らしい…。

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「やっぱり君は救えないなぁ」と古美門。

「僕のどこが間違ってるんです」と詰め寄る羽生に、

「間違ってないと思っているところだよ」と即答。

「君は、人間は愚かだと言ったな。全く同感だ。
どいつもこいつも愚かで醜く卑劣だ。
(略)
ワガママで勝手でずるくて汚くて醜い、底辺のゴミ屑ども。
それが我々人間だ」

「だから、だからそれを導こうと」

「それが違うんだよ。
まずそこから降りろ。
自分も底辺の醜いゴミ屑の一匹であることを自覚しろ」

「晴樹は醜くないじゃない」とジェーンが口をはさむも、

「いや、相当醜いねぇ」と古美門。

「自分の理想の実現のために、裁判を利用し、
人をたらしこみ、騙し、操る」

「自分の賢さにうぬぼれ、人のために尽くす自分が大好きで、
犯す危険に酔いしれる」

「違う!」と叫ぶ羽生。

「皆を幸せにしたい。ウインウインにしたい。
だが、それらは全て、しょせん、君個人の欲望だ。
皆から感謝され崇め奉られ、ファンレターを一杯もらい、
ベストジーニスト賞まで私より先に獲得して、
さぞ満足だろう。

だが、君がやってることは、ウインウインじゃない。
小さなルーサーをたくさん作って、
君一人がウィナーになることだ。

いいか、君の本性を教えたるから、よぉく聞け。

君は独善的で、人を見下し、いい男ぶった、
薄ら笑いが気持ち悪くて、
スーツのセンスがおかしくて、
漢字もろくに書けなくて、
英語もサッカーもそれほど上手くない、
でたらめなことわざを作る、
甘くてぬるくてちょろい、
裏工作をしてみたら、たまたま上手くいっただけの、
ゆとりの国のポンコツヘタレ、
短足クソ王子だ、バーカー!」

そこまで言われて、古美門に掴み掛りそうになった羽生は、

その場に泣き崩れ。

そこに、古美門は鏡を置き、

「いい顔になったじゃないか。人間の世界へようこそ」
と告げる。

そして、しゃがみこみ、羽生に語り掛ける。

「もし君が、皆が幸せになる世界を築きたいと
本気で思うなら、方法は一つだ」

パチンと指を鳴らし、

「醜さを愛せ」

http://s.webry.info/sp/subarukun57.at.webry.info/201312/article_25.html

だまされた?

2013年12月13日 | 坊主の家計簿
「だまされていたという便利な言葉で一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易な態度は、日本国民の将来に暗澹たる不安を感じさせる」
http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2013/1212.html


まあ、どこぞの流行歌手(あんなもんなロックとは死んでも呼ばん)が「ウソだったんだね♪」などと歌ったり、「安全神話に騙されていた!」などと少なくとも同年代より上の世代がいうなら「文字、読めます?」としか言いようなないお気楽なムードに吐くほどの嫌気がさしたりするんだが。

【リーガルハイ2】横わけ侍『古美門研介』が民意に挑む!9話名シーン後半

2013年12月13日 | 坊主の家計簿
【本当の悪魔とは、巨大に膨れ上がった時の民意だよ、自分を善人だと信じて疑わず薄汚い野良犬がどぶに落ちると一斉に集まって袋叩きにしてしまう。そんな善良な市民たちだ。】

リーガルハイは単なるコメディーに留まらんからハマってまうねんなぁ…


【リーガルハイ2】横わけ侍『古美門研介』が民意に挑む!9話名シーン後半

罪を知らぬ者だけが人を裁く

2013年12月08日 | 坊主の家計簿
「人生は教訓に満ちている、しかし万人にあてはまる教訓は一つもない、殺すな、盗むなという原則でさえ絶対ではないのだ」

「こんなことを云うのは、おれ自身が経験しているからだ」と去定は云った、「どんなふうにと説明することはないだろう、おれは盗みも知っている、売女に溺れたこともあるし、師を裏切り、友を売ったこともある、おれは泥にまみれ、傷だらけの人間だ、だから泥棒や売女や卑怯者の気持がよくわかる」

罪を知らぬ者だけが人を裁く。(略)罪を知った者は人を裁かない。

以上、山本周五郎「赤ひげ診療譚」より。

まあ、罪を知って(体感して)も裁いてしまうのが生身の人間なんだろうが…。