『月夜の駒音』(エッセイ)は、『将棋世界』誌で連載されているが、7月号(今月号)の「精神文化を学べ」には異論がある。
内館氏は『週刊新潮』(4/25号)の≪入玉でコンピュータと引き分け、「塚田九段を泣かせた非礼感想戦」≫という記事で、
塚田九段が流した涙の理由のひとつは、ソフト「Puella α」の五十代開発者の
「入玉対策はしていたが、なおざりだった。名局と言われた前の2戦に比べて、つまらない将棋になってしまった。勝ちを逃がしたけど仕方ないです」という言葉だという。
同誌はこの言い方に対し、記事中の「ベテラン棋士」の言葉
「棋士は、自分が指した悪手を“つまらない手”だと言うことはあっても”つまらない将棋”だとは絶対に言いません。(中略)やはり、それは相手に対して、尊敬の念を持って戦っているからです」
に考察を重ねて、内館氏は
「五十歳にもなって、教養がないんだなァ。相手にするだけ無駄だわ」と思ったとして、相手への敬意として文化や精神(相手を思いやる心)を学ぶ姿勢がないと批判している。
私自身、『週刊新潮』の記事を読んでいないので、内館氏の引用した部分のみで判断するにとどまるが、まず、『週刊新潮』の記事について考えてみたい。
まず、開発者の伊藤氏は入玉対策について、実際には「なおざり」ではなく「おざなり」と言っている。「おざなり」と「なおざり」は両方とも「いい加減な対処をする」という意味ではよく似ているのだが、「おざなり」のはその場限りの間に合わせで、「なおざり」は何もせず放置しておくような様を表わしている。
大きな差はないが、この対局について言うと、「入玉対策は適当で不十分だった」と「入玉対策には手をつけていなかった」となり、かなり違う。
次に、「つまらない将棋」と発言した状況の描写も不十分で、実際は「私がやるとつまらない将棋になってしまう」というふうに述べていて、塚田九段に対して発した言葉ではない。
さらに塚田九段の涙の理由も疑問だ。
塚田九段は、対局直後のインタビューとその後の共同記者会見とで、2度、涙を流している。2度とも「団体戦なので負けられず、(敗勢であっても)投了はできなかった」という主旨の言葉であった。もちろん、心の内をすべて語ったわけではないが、一度目の涙の時点では、伊藤氏は将棋の内容や感想については話しておらず。塚田九段へのインタビューの後に「つまらない将棋」云々の言葉を発している。(2度目の涙に関しては、影響を与えた可能性はある)
上記の理由で、『週刊新潮』の記事で伊藤氏を批判するのは早計のように思える。
さらに、ベテラン棋士の発言にも疑問を感じる。
「つまらない」という言葉には、①面白くない。興味・関心がない。②価値がない。③取るに足らない。ささいである。ちいさい。④無駄である。甲斐がない。などの意味がある。
伊藤氏は自分を卑下して①②の意味で発したと思われる。
棋士が「つまらない手」と口にする時は②であることが多いが、「つまらない手を指してしまった」という場合は「うかつな失着」という意味で③の意味を含む場合もある。「つまらない手」と「迂闊な手」はほぼ同意と考えて良いかもしれない。
さて、『棋士は「つまらない将棋」とは言わない』とベテラン棋士は断言しているが、私自身、よく耳にし、文章でも目にしているように思う。この言葉は②の意味で発せられることもあるが、①~④とは別の意味で使われることが多い。
別の意味とは「自分の意図していた将棋とは全く違う展開になってしまった」という意味で、しかも多用されているように思う。
実際、昨日の棋聖戦第1局、羽生棋聖・王位・王座×渡辺竜王・棋王・王将戦での感想で、羽生三冠はこの表現を用いている。中継ブログによると、
「▲7一歩成(39手目)は新手だったみたいです」という言葉を受けて
羽生三冠「そうですね、早めに捨てておかないと危ない変化もあるんじゃないかなと思いました。意味としては同じなのですけどね。昼休で8五桂がなかなか取り切れないので、つまらない将棋にしたかなと思っていました」と答えている。
私は「アンチ内館」ではなく、氏のエッセイは楽しみにしている(時々異論を持つが)。
しかし、今回は考察不足のように感じた。
内館氏は『週刊新潮』(4/25号)の≪入玉でコンピュータと引き分け、「塚田九段を泣かせた非礼感想戦」≫という記事で、
塚田九段が流した涙の理由のひとつは、ソフト「Puella α」の五十代開発者の
「入玉対策はしていたが、なおざりだった。名局と言われた前の2戦に比べて、つまらない将棋になってしまった。勝ちを逃がしたけど仕方ないです」という言葉だという。
同誌はこの言い方に対し、記事中の「ベテラン棋士」の言葉
「棋士は、自分が指した悪手を“つまらない手”だと言うことはあっても”つまらない将棋”だとは絶対に言いません。(中略)やはり、それは相手に対して、尊敬の念を持って戦っているからです」
に考察を重ねて、内館氏は
「五十歳にもなって、教養がないんだなァ。相手にするだけ無駄だわ」と思ったとして、相手への敬意として文化や精神(相手を思いやる心)を学ぶ姿勢がないと批判している。
私自身、『週刊新潮』の記事を読んでいないので、内館氏の引用した部分のみで判断するにとどまるが、まず、『週刊新潮』の記事について考えてみたい。
まず、開発者の伊藤氏は入玉対策について、実際には「なおざり」ではなく「おざなり」と言っている。「おざなり」と「なおざり」は両方とも「いい加減な対処をする」という意味ではよく似ているのだが、「おざなり」のはその場限りの間に合わせで、「なおざり」は何もせず放置しておくような様を表わしている。
大きな差はないが、この対局について言うと、「入玉対策は適当で不十分だった」と「入玉対策には手をつけていなかった」となり、かなり違う。
次に、「つまらない将棋」と発言した状況の描写も不十分で、実際は「私がやるとつまらない将棋になってしまう」というふうに述べていて、塚田九段に対して発した言葉ではない。
さらに塚田九段の涙の理由も疑問だ。
塚田九段は、対局直後のインタビューとその後の共同記者会見とで、2度、涙を流している。2度とも「団体戦なので負けられず、(敗勢であっても)投了はできなかった」という主旨の言葉であった。もちろん、心の内をすべて語ったわけではないが、一度目の涙の時点では、伊藤氏は将棋の内容や感想については話しておらず。塚田九段へのインタビューの後に「つまらない将棋」云々の言葉を発している。(2度目の涙に関しては、影響を与えた可能性はある)
上記の理由で、『週刊新潮』の記事で伊藤氏を批判するのは早計のように思える。
さらに、ベテラン棋士の発言にも疑問を感じる。
「つまらない」という言葉には、①面白くない。興味・関心がない。②価値がない。③取るに足らない。ささいである。ちいさい。④無駄である。甲斐がない。などの意味がある。
伊藤氏は自分を卑下して①②の意味で発したと思われる。
棋士が「つまらない手」と口にする時は②であることが多いが、「つまらない手を指してしまった」という場合は「うかつな失着」という意味で③の意味を含む場合もある。「つまらない手」と「迂闊な手」はほぼ同意と考えて良いかもしれない。
さて、『棋士は「つまらない将棋」とは言わない』とベテラン棋士は断言しているが、私自身、よく耳にし、文章でも目にしているように思う。この言葉は②の意味で発せられることもあるが、①~④とは別の意味で使われることが多い。
別の意味とは「自分の意図していた将棋とは全く違う展開になってしまった」という意味で、しかも多用されているように思う。
実際、昨日の棋聖戦第1局、羽生棋聖・王位・王座×渡辺竜王・棋王・王将戦での感想で、羽生三冠はこの表現を用いている。中継ブログによると、
「▲7一歩成(39手目)は新手だったみたいです」という言葉を受けて
羽生三冠「そうですね、早めに捨てておかないと危ない変化もあるんじゃないかなと思いました。意味としては同じなのですけどね。昼休で8五桂がなかなか取り切れないので、つまらない将棋にしたかなと思っていました」と答えている。
私は「アンチ内館」ではなく、氏のエッセイは楽しみにしている(時々異論を持つが)。
しかし、今回は考察不足のように感じた。
なお、電王戦第4局はコンピュータvs人間の勝負で見ている人には高評価で、将棋の内容を見る人には低評価の気がします。 私は電王戦第3局の中終盤の人間同士とは一味違う攻防を生放送で感動しながら見たあと、第4局を期待値MAXで観戦したので、その中終盤の内容のあまりの落差にがっかりでした。
コメント、ありがとうございます。
>私も内館氏のエッセイはいつもたのしみに読んでいますが、今回の『月夜の駒音』はちょっとおかしいなと思っていました。(特に伊藤氏への批判) 英さんの日記を読んで納得しました。
内館氏のエッセイを他の雑誌でも拝見しますが、共感することがほとんどです。
『将棋世界』誌でも、共感することは多いのですが、時々、将棋について理解が浅いまま書いてしまうことがあるようです。
>第4局を期待値MAXで観戦したので、その中終盤の内容のあまりの落差にがっかりでした。
コンピュータ対人間の視点で見れば、確かに、面白かったと思います。
しかし、「コンピュータ対棋士」として観た場合は、不満が大きいです。
塚田九段の準備不足、それに指し手や指し方も浅かったです。