余市蒸溜所の建造物9棟は国の登録有形文化財です。
「札幌オリンピックでニッカの笠谷幸生選手が金メダルに輝いた時 竹鶴政孝は大喜びをしたそうです。 長野オリンピックの金メダリスト船木和喜選手は余市出身でしたから、生きていたらそれはそれは喜んだ事でしょう。」と、ガイドさんが話していました。
造り酒屋の三男として生まれましたが兄二人がそれぞれの道を進んだため、大学の醸造科へ進学し、卒業後家業を継いだ政孝は学校で酒造りを学んでいるうち洋酒に興味を持ち大手洋酒メーカーに入社。
そこの社長よりスコットランドへ行ってモルトウイスキーの勉強をしてみないかと言われ、当時の洋酒は中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素を加えたイミテーションが主流。だがいつまでもイミテーションの時代が続くわけではないと、単身スコットランドへ行きグラスゴー大学の応用化学科に聴講生として入学。
ここで豊富なウイスキー関係の文献とウイリアム博士に出会い博士の紹介でウイスキーづくりの本場、ローゼスという町に下宿しました。
ハイランドと呼ばれるこの地方は、多くの蒸溜所が点在していたのであちらこちらを訪れては製造法を学びました。
見た事、習った事を全てその日のうちに克明に記録したノートは、後に「実習報告」として残され、日本における本格ウイスキーづくりのために大いに役立つこととなったそうです。
この地で一生の伴侶ジェシー・ロベルタ・カウン 愛称リタと出会い船で帰国しますが、帰国時は深刻な戦後不況 本格的なウイスキーづくりの計画が実現できず会社を去ります。
寿屋(現・サントリー)の社長 鳥井信治郎に本格的なウイスキーをやってみたいと誘われ1923年入社そして1929年4月1日に日本人が日本で初めてつくった本格ウイスキーが世に出ました。
1934年3月10年間の契約期間を終え寿屋を退社し、自らがウイスキーの原酒づくりには理想の地と以前より心に決めていた北海道・余市へと赴きます。
余市は寒さが厳しく良質な湧き水があり霧の立ち込める朝と、スコットランドとそっくりな土地だった事で、ここ余市に新会社を設立。1934年10月に余市蒸溜所が完成。いよいよ念願のウイスキーづくりが始まります。
モルト原酒の熟成を待つ間にリンゴジュースの製造も手掛けるなどして、貯蔵庫に眠るモルト原酒の熟成をただひたすら待ち続けていました。そのため社名も「大日本果汁株式会社」としていたそうです。
念願の第1号ウイスキーは1940年10月に出荷されました。
ウイスキーの名は「大日本果汁」の「日」と「果」から「ニッカウヰスキー」と命名し、政孝と妻のリタは従業員たちと共に整列して、馬車で出荷される「初荷」を感激に胸を熱くして見送ったそうです。
旧竹鶴邸
創業者 政孝とリタ夫人の住居を移築、復原し公開していますが、入り口と入ってすぐの部屋のみ公開されていました。
見学は自由に回ってもいいのですが、無料でガイドさんが案内をしてくれます。説明だけ読んでいるより生のお話を聞くほうが楽しいです。何人か自由に見学されていましたが、私たちは2人でガイドさんに案内していただきました。
ちょっと雪で建物が隠れている部分もありましたが、雪は雪でまた楽しっ!人が居ないから静かに見学できました。
詳しくは こちらで・・・ 余市蒸溜所
楽しい見学が終わり小樽に帰ります。正面が 余市駅 です。
春先の余市のニッカ・・・今度は緑の中を歩いてみたいです。
雪も・・・ 童話の世界 みたいでとてもステキでした。
小樽旅行記はニッカでおしまいです。お付き合いいただきありがとうございました。
「札幌オリンピックでニッカの笠谷幸生選手が金メダルに輝いた時 竹鶴政孝は大喜びをしたそうです。 長野オリンピックの金メダリスト船木和喜選手は余市出身でしたから、生きていたらそれはそれは喜んだ事でしょう。」と、ガイドさんが話していました。
造り酒屋の三男として生まれましたが兄二人がそれぞれの道を進んだため、大学の醸造科へ進学し、卒業後家業を継いだ政孝は学校で酒造りを学んでいるうち洋酒に興味を持ち大手洋酒メーカーに入社。
そこの社長よりスコットランドへ行ってモルトウイスキーの勉強をしてみないかと言われ、当時の洋酒は中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素を加えたイミテーションが主流。だがいつまでもイミテーションの時代が続くわけではないと、単身スコットランドへ行きグラスゴー大学の応用化学科に聴講生として入学。
ここで豊富なウイスキー関係の文献とウイリアム博士に出会い博士の紹介でウイスキーづくりの本場、ローゼスという町に下宿しました。
ハイランドと呼ばれるこの地方は、多くの蒸溜所が点在していたのであちらこちらを訪れては製造法を学びました。
見た事、習った事を全てその日のうちに克明に記録したノートは、後に「実習報告」として残され、日本における本格ウイスキーづくりのために大いに役立つこととなったそうです。
この地で一生の伴侶ジェシー・ロベルタ・カウン 愛称リタと出会い船で帰国しますが、帰国時は深刻な戦後不況 本格的なウイスキーづくりの計画が実現できず会社を去ります。
寿屋(現・サントリー)の社長 鳥井信治郎に本格的なウイスキーをやってみたいと誘われ1923年入社そして1929年4月1日に日本人が日本で初めてつくった本格ウイスキーが世に出ました。
1934年3月10年間の契約期間を終え寿屋を退社し、自らがウイスキーの原酒づくりには理想の地と以前より心に決めていた北海道・余市へと赴きます。
余市は寒さが厳しく良質な湧き水があり霧の立ち込める朝と、スコットランドとそっくりな土地だった事で、ここ余市に新会社を設立。1934年10月に余市蒸溜所が完成。いよいよ念願のウイスキーづくりが始まります。
モルト原酒の熟成を待つ間にリンゴジュースの製造も手掛けるなどして、貯蔵庫に眠るモルト原酒の熟成をただひたすら待ち続けていました。そのため社名も「大日本果汁株式会社」としていたそうです。
念願の第1号ウイスキーは1940年10月に出荷されました。
ウイスキーの名は「大日本果汁」の「日」と「果」から「ニッカウヰスキー」と命名し、政孝と妻のリタは従業員たちと共に整列して、馬車で出荷される「初荷」を感激に胸を熱くして見送ったそうです。
旧竹鶴邸
創業者 政孝とリタ夫人の住居を移築、復原し公開していますが、入り口と入ってすぐの部屋のみ公開されていました。
見学は自由に回ってもいいのですが、無料でガイドさんが案内をしてくれます。説明だけ読んでいるより生のお話を聞くほうが楽しいです。何人か自由に見学されていましたが、私たちは2人でガイドさんに案内していただきました。
ちょっと雪で建物が隠れている部分もありましたが、雪は雪でまた楽しっ!人が居ないから静かに見学できました。
詳しくは こちらで・・・ 余市蒸溜所
楽しい見学が終わり小樽に帰ります。正面が 余市駅 です。
春先の余市のニッカ・・・今度は緑の中を歩いてみたいです。
雪も・・・ 童話の世界 みたいでとてもステキでした。
小樽旅行記はニッカでおしまいです。お付き合いいただきありがとうございました。
グリムスキーワード エコバッグ