15日後

  もうあの地震から2週間も経ったんですね。長かったのか、短かったのか…。

  姉がアメリカから帰ってきました。ぎりぎりまでメールでやり取りして、向こうの家族や友人とよく相談するよう勧めたのですが、自分の目で日本の今の様子を見ないと気がすまない、帰る、と姉は書いてきました。

  ユナイテッド航空の飛行機で来たのですが、機内の搭乗率は3分の2くらいと少なかったものの、不思議なことに日本人乗客は少なく、アメリカ人乗客がほとんどだったそうです。

  姉は品川のホテルに一泊して、翌日に実家に帰省してきました。おりしも福島第一原発の件でみなが不安な気持ちでいる最中です。ホテルの宿泊客もいつもより明らかに少なかったそうです。でも、姉は日本に帰ってきて逆にホッとした、と言っていました。ホテルのドアマンやボーイさんたちが、マスクもつけずにいつもどおり仕事をしているのを見て、ぐっときた、とも。

  私と母は秋田空港まで姉を迎えに行きました。到着口から乗客たちが出てくると、その中に日本赤十字の作業服を着た人たちが何人かいました。到着口に迎えに来た人々の中には、「バス 盛岡行き」と書かれた大きな紙を持った人がいました。

  実家に向かう途中で、ある道の駅(国道のSAみたいなもの)に寄りました。大型車輌専用の駐車場に、何台もの赤い消防車、迷彩色の大型車がずらりと並んでいました。北陸の消防署と陸上自衛隊の車輌でした。車の前面に「緊急」、「災害派遣」というプレートが貼られていました。

  車輌の周辺では、オレンジ色の制服を着た消防隊員、迷彩服とヘルメット姿の自衛隊員の人たちが一休みしていました。あるおじさんの消防隊員は温かいメロンパンに照れくさそうにかじりつき、ある若い自衛隊員は携帯電話に見入っています。彼らはここで小休止して、秋田から盛岡、そして被災地に入るのでしょう。彼らの姿を見て、なんともいえない気持ちになりました。また、今は震災の只中なのだ、と実感しました。

  秋田のほうは、燃料事情はだいぶ好転してきていて、特にここ一両日の間にいきなり劇的に変わりました。国道を大手燃料会社の大きなタンクローリー車が何台も走り、営業していないガソリンスタンドを見つけるほうが今では難しくなっています。給油を待つ車列ももうありません。

  スーパーは、どうやら店ごとに調達できる商品の得意分野と不得意分野があるらしく、A店では卵はないが納豆はある、B店では卵はあるが納豆はない、といった感じです。ですから、たとえある店で必要な物が買えなくても、別の店に行けば買えることがほとんどです。

  依然として品薄なのは、いちばんがパンとカップラーメン、次が乳製品(ヨーグルトや乳飲料)です。その他の加工食品はだいぶ入ってきています。

  『週刊文春』と『週刊新潮』を買って読みました。『週刊文春』3月31日号に掲載されている、日本の原子力事業をめぐる記事は読み応えがありました。早い話が、日本の原子力事業は、電力会社、企業、官庁(例の「原子力安全・保安院」も含む)、日本の原子物理学界のお金儲けと既得権益の保護のために行なわれているのだ、ということです。

  辰巳琢郎さんがブログで書いていたように、『週刊文春』には、テレビでは映されない現実を写した写真も掲載されていました。

  それを見たら、涙が出てきて止まらなかった。

  そこに写っていたのは、東北の漁港のどこにでもいるおばちゃん。割ぽう着姿で、いつもどおりに過ごしていた。地震が起こらなければ、いつもどおりにその日が終わるはずだった。寝て起きたら、またいつもどおりの一日が始まるはずだった。

  姉によると、アメリカではもっと残酷な映像や画像が報道されたそうで、それを見たら、やはり泣いてしまったそうです。

  なぜ姉がこんなときに帰国を強行したのか、なんとなく分かりました。
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