京都幕末ロマンの旅-5(光縁寺2)
明治維新を迎えると、新選組は賊徒として扱われました。近藤勇は官軍に投降して斬首され(慶応四年=明治元年、1868)、その首は京都、ついで大阪で晒されました。結果的に新選組に協力した人々も、不安な日々を送ることになりました。新選組が屯所としていた八木家もそうでした。八木為三郎はこう述懐しています。
「近藤達が京都にいなくなって薩長土(薩摩・長州・土佐藩を中心とする官軍)の世の中になってからは、新選組の宿をしたというので、何かこう絶えず睨まれているような気持がして、近藤先生の首が晒されたという話は聞きましたが、見に行く事さえ出来ませんでした。」(子母澤寛『新選組遺聞』)
凡誉和尚の話によると、光縁寺も新選組の菩提寺だったということで、ずいぶんと居心地のわるい思いをしたようです。また、光縁寺の敷地は元来はもっと広かったそうですが、嵐山本線に線路用地を提供するため、墓地を縮小せざるを得なかったとか。なんと、今は嵐山本線の線路になっている土地のまさにその上に、新選組隊士たちの墓があったんだそうです。
というわけで、本堂の裏手にある墓地へ。墓地の北西の隅に新選組隊士たちの墓三基、どうやら沖田総司の関係者らしい、「沖田氏縁者」だという氏名不詳の女性の墓一基があります。
水色の塀の向こうは嵐山本線の線路です。四基の墓石は東を向いています。住職によると、もともとは南向きで、今は線路になっている土地の上に並んで建っていたそうです。嵐山本線への用地提供にともなって墓を移設する際、光縁寺では移葬する墓をみな掘り起こし、墓の下に残っていた遺骨を収集して、現在の墓にあらためて埋め直したそうです。
現存する新選組の墓は、合葬墓がほとんどです。
家族を合葬するのは理解できますが、赤の他人同士をぎゅうぎゅうづめに葬ってあります。これは現代の私たちには理解不可能な神経です。墓石に刻まれている名前と命日とを照らし合わせると、彼らの命日は近かったり同じだったりで、死んだ順番に無造作に葬ったのが分かります。
幕末の当時は火葬ではなく土葬がメインでした。合葬墓だったせいもあるでしょうが、住職曰く、墓の移設に際して遺骨を掘り起こしたものの、棺はもちろん遺骨もすでに朽ちて混ざってしまっており、どれが誰の骨なのかは分からなかったそうです。
赤の他人同士を同じ墓に、死んだ順番に次々と放り込んでいくという、この無造作な葬り方で、新選組が人の死というものをひどく軽んじていたことが知られるわけです。これには複雑な気持ちになりました。
墓地には私の他には誰もいません。寺の両隣りは塀を挟んですぐにアパートと住宅になっています。静まり返った中、どこからかピアノの音がかすかに聞こえ、風がそよぎ、鳥が鳴いています。目の前には山南敬助らの墓。
山南敬助は脱走に失敗して切腹して死んだ人物で、他の隊士たちもみな似たり寄ったりな、悲惨な死に方をしました。
横死した隊士たちに対する、新選組による扱いのあまりな雑さには納得できませんでしたが、「でも、こんなに静かな良い場所で、骨をちゃんと拾ってもらって、きちんと供養されてるんだからいいのかもな~」と思いました。京都と大阪で晒された近藤勇の首は結局行方不明になったし、土方歳三に至っては、函館のどこで戦死して、どこに葬られたかすら分かっていない状態です。
こんなことを考えながら墓地の中でなごんでいると、住職がやって来ました。新選組関係の墓の元来の位置とかは、このときに住職から聞いた話です。
ここからはまったく私の憶測ですけれども、伊東甲子太郎ら御陵衛士たち4人の遺骸が、最初は光縁寺に葬られたというのは可能性が高いと思います。光縁寺の過去帳の記録と対照すると、伊東ら4名が暗殺された慶應三年(1867)十一月十八日から、同年十二月八日までの間に死亡した隊士たちの墓石が見当たりません。
おそらく、伊東たちも一基の墓に合葬されたのだと思います。それが翌慶應四年三月、晴れて官軍の身となった旧御陵衛士たちの生き残りによって、伊東たちの合葬墓が掘り起こされ移葬されていったものでしょう。埋葬後まだ4ヶ月余しか経っていませんでしたから、どの棺に誰が納められているのかはまだ判別できたと思います。
光縁寺の住職と話していて、ふとこう思いました。新選組なんていう無頼の集団の横死した人々を、あえて受け入れて供養したにも関わらず、維新後は賊(新選組)の菩提寺だったということで白眼視された。更に、明治中後期から昭和の戦後にかけてはどこの寺も直面した問題とはいえ、経済難で墓地の土地の一部を切り売りせざるを得ず、それでも地下の骨を丁寧に拾い集めて改葬し供養してきた。
一方で、新選組のために何かしたわけではなく、実質的にほとんど関係がないのに、新選組ブームが起きてから突然「新選組ゆかりの地」を謳い上げ、見学料を徴収して「新選組人気利権」に与っているところがある。私が光縁寺なら釈然としないだろうし、不合理ささえ感じたかもしれません。
幕末はまだ終わっていない、と感じたのはこういう理由からです。
さて、光縁寺の本堂は規模が小さめにも関わらず、豪壮な雰囲気の漂う、風格ある建物でした。
文政二年(1819)の建立だそうです。
檀家さんの墓も含め、多くの墓石の前に、故人の戒名などを書いた薄い小さな板が置いてありました。幅が10センチ弱、高さは30センチぐらいだったかな。帰り際に住職と話していて、あの小さな板は何ですか、と聞いたら、小型の卒塔婆とのこと。寄進は一枚数百円なり。光縁寺は浄土宗の寺です。こういう小さな卒塔婆は、東北に多い曹洞宗の墓では見ないですよ、と私が言ったところ、住職、「曹洞宗は禅宗やからな、こんな小さいことして稼がんのや!」と言い放ちました。
さすがは浄土宗、あえて俗に徹する姿勢が見事です。大衆のような弱い者、新選組のような厭われ蔑まれた者をこそ救うのが浄土宗です。凡誉和尚に浄土宗の意地を見た思いがしました。
四条大宮に出てバスに乗り、東山にある『幕末維新ミュージアム 霊山(りょうぜん)歴史館』に向かいます。どういうところかまったく知らずに行くことにしたのですが、着いて呆然、すわ、こは何の因縁ぞ!と心の中で叫ぶことになってしまったのでした。
(続く。ごめんねしつこくて。でも次でたぶん終わり)