ボリショイ・バレエ『スパルタクス』(1月31日)


  ああ、久々の感動ー!

  クラッスス役のアレクサンドル・ヴォルチコフの生腕と生フトモモが超ヤバイ!

  きれいな筋肉が付いた、形の良い長い手足 まさに理想 なんてセクシー

  ヴォルチコフの生腕と生フトモモに悩殺され、そして、しなやかな身体全体で美しい弧を描く、迫力満点のエビぞりジャンプ連発に即死。(ヴォルチコフ、後で派手に転んじゃったけど……)

  息を吹き返したあとは、ひたすらヴォルチコフの腕とフトモモばかり凝視してました。こんなにキレーな腕と脚を、でっかいフリル付きのシャツだの、ぶ厚いタイツだので隠すなんてもったいない。プログラムに載ってるヴォルチコフの舞台写真は、クラッススのやつが断然魅力的です。

  スパルタクス役のイワン・ワシーリエフは相変わらずでした。全力投球で一生懸命。本当にイイ兄ちゃんだ。ところで、ワシーリエフの肩書きが「ミハイロフスキー劇場プリンシパル・ダンサー」になってます。これ、あの「レニングラード国立バレエ」のことですよね?

  昨年の12月に移籍したそうですが、なんで移籍したの?レオニード・サラファーノフが、マリインスキー劇場バレエからレニングラード国立バレエに移籍した理由はなんとなく分かるし、デヴィッド・ホールバーグが、アメリカン・バレエ・シアターからボリショイ・バレエに移籍した理由も納得できます。でも、なんでワシーリエフが?

  ボリショイ・バレエによほど何か不満があったか、レニングラード国立バレエによほど何か魅力があったかだろうけど、ロシアのダンサーがモスクワからサンクトペテルブルグに移って、普通やっていけるもんなの?

  特に、見た目でも踊りでも、ボリショイ・バレエを体現してるようなワシーリエフが、ワガノワ系ど真ん中のバレエ団で何をやるんだろう?まさか、コンテンポラリーで新境地を開こうとか簡単に考えてるのかな。謎だ。

  エギナ役のエカテリーナ・シプーリナがすごく官能的で魅力的でした。役柄的には、現代では明らかにエギナのほうがフリーギアに勝ってます。フリーギアって、嘆くか悲しむかしかしないでしょ?スパルタクスにすがってばっかり。でも、エギナは自分の野心のために、クラッススを叱咤して奮起させて、自分も積極的に動いて立ち回る。
 
  NHKの朝ドラでいえば、「ゲゲゲの女房」や「ひまわり」のヒロインのどこがいいのかはさっぱり理解できんが、「カーネーション」のヒロインは観てて気持ちいいのと同じ感じです。

  私は今回が『スパルタクス』生観劇なんで、軽々しくはいえません。しかし、今夜の舞台の全体的な出来はたぶん、「わるくはないが、取り立ててすばらしいと言うほどでもない」というのが妥当だろうと思います。

  理由はまだ分かりませんが、

  1.現代のダンサーたちには振付があまりに難しすぎる
  2.今回来日したダンサーたちが総じて二番手、三番手ばかりである
  3.今回来日したオーケストラの団員たちも二番手、三番手ばかりである
  4.1977年の映画版(ウラジーミル・ワシーリエフ、マリス・リエパ、ナターリャ・ベススメルトノワ、ニーナ・チモフェエワ主演)と脳内比較するほうが無理(映像は良いところを切り貼りできるし加工もできる)
  5.単なる気のせい

のいずれかでしょう。これが他のバレエ団のパフォーマンスなら手放しで大絶賛のレベルです。でも、ボリショイ・バレエですから。普通のバレエ団じゃないですからね。

  とりあえず明日の公演を観てみます。
  
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ローラン・プティ『スペードの女王』と「悲愴」

チャイコフスキー:交響曲第6番
バーンスタイン(レナード),チャイコフスキー,ニューヨーク・フィルハーモニック,イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック


ボリショイ・バレエ「スペードの女王」「パッサカリア」 [DVD]
ニコライ・ツィスカリーゼ,イルゼ・リエパ,スヴェトラーナ・ルンキナ,ボリショイ・バレエ,ジョルジー・ジェラースキン
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  ローラン・プティが、ボリショイ・バレエのニコライ・ツィスカリーゼのために振り付けた『スペードの女王』(“Pique Dame”)という作品がありますね。

  ツィスカリーゼ(ゲルマン)、イルゼ・リエパ(伯爵夫人)、スヴェトラーナ・ルンキナ(リーザ)、ゲオルギー・ゲラスキン(チェカリンスキー)主演による舞台が映像化されています。この作品に使用される音楽は、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」です。

  全曲を使っていますが(たぶん)、曲順は変更しています。


   第一場(ゲルマンの登場とソロ):第1楽章の前半部分
   第二場(舞踏会):第2楽章
   第三場(伯爵夫人の登場とゲルマンとの出会い):第1楽章の後半部分
   第四場(ゲルマンが伯爵夫人を脅して秘密を聞き出す):第4楽章
   第五場(賭博とゲルマンの死):第3楽章


  振付と音楽とが絶妙にマッチしていて、プティのこの『スペードの女王』は名作だと思います。ツィスカリーゼの踊りはもちろん、鬼気迫る表情も大いに見ごたえがあり、強い印象を与えます。

  そういえば、ツィスカリーゼは最近、ボリショイ劇場側と悶着を起こしたようですが、その後はどうなったのでしょうね。大がかりにリニューアルされたボリショイ劇場の非機能性と安普請さを指摘したんですって?

  どの国であれ、公的な箱物事業には砂糖に群がる蟻のような連中が、しかもまさに蟻よろしく大群にいるものでしょう。ツィスカリーゼは独特で個性的な雰囲気、柔らかい身体と優れたテクニックとで、他の男性ダンサーたちとは一線と画する別格な存在だけに、劇場内のセコくてつまらん政治的トラブルなんぞが原因で、立場的に追いつめられないとよいのですが。

  ところで、お恥ずかしい話ですが、私は『スペードの女王』を観るまで、「悲愴」をまともに聴いたことがなかったんです。第1楽章の前半の有名な「ちゃらららららら~ら~らら~」しか知らなかったです。

  『スペードの女王』を観てから、「悲愴」をまともに聴いてみようと思い立ち、たまたまレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック演奏の録音盤(1986年)を買いました(←アマゾンで検索したら最初に出てきたから買った)。

  このバーンスタイン/ニューヨーク・フィルハーモニック録音盤のほうを聴いたら、『スペードの女王』の舞台が目に浮かぶようで、まったく違和感がなかったんです。演奏の感じとか、テンポがほとんど同じ。第3楽章の演奏速度が、バーンスタインのほうがやや速くて、雰囲気もちょっとあっさりしている感じなだけでした。それで、「悲愴」はこんなもんだなと思っていたわけです。

  ところが、後でアマゾンのレビューや、クラシック音楽ファンの方々のブログを読んでびっくりしたことに、このバーンスタインの1986年録音盤は、賛否両論を巻き起こしたんで有名なんだそうです。

  なんで賛否両論を巻き起こしたかというと、とにかく演奏速度が異常に遅いからだそうです。とりわけ第4楽章の演奏速度の遅さは異様なほどなんだそうです。前代未聞の遅さらしいですよ。更に、演奏がひたすら暗くて重くて陰鬱なのも特徴だということです。

  バーンスタインのこの1986年録音盤は、のめり込んで病みつきになる人と、徹底的に嫌う人と、両極端に分かれてしまうんだそうですね。

  プティの『スペードの女王』の演奏とバーンスタインの1986年録音盤の演奏が同じだったので、それらの「悲愴」をヘンだとまったく感じてなかった私は、へ?そーなの?と不思議に思い、比較対象としてヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏の録音盤(1976年)を買って聴いてみました。

  そしたら、確かにカラヤンのは全然違うんです。同じ作品とは思えないほどでした。カラヤンの指揮による演奏というと、清澄、繊細、流麗、軽快というイメージがありますが、「悲愴」もそんな感じの演奏です。

  決定的に違うのはやはり演奏時間でした。バーンスタイン1986年盤とカラヤン1976年盤、両者の演奏時間を比べると、


   第1楽章:バーンスタイン 22分32秒;カラヤン 18分22秒
   第2楽章:バーンスタイン 8分30秒 ;カラヤン 9分1秒
   第3楽章:バーンスタイン 9分51秒 ;カラヤン 8分24秒
   第4楽章:バーンスタイン 17分9秒 ;カラヤン 9分50秒


  第4楽章に至っては、バーンスタインはカラヤンのほぼ2倍の時間をかけて演奏してます。これは素人の私でも、こんなことができるんだなあ、と驚くほどです。

  ところで、問題は(というほどでもないが)、バーンスタインの86年録音盤「悲愴」がそれほど特異だというなら、なんでプティの『スペードの女王』で演奏される「悲愴」と、ほぼ同じ演奏速度、ほぼ同じ雰囲気なのか、ということです。

  バレエ音楽として使用される場合、演奏速度が遅くなりがちであるというのはよく聞きます。最も有名な例は『白鳥の湖』でしょう。でも、プティが「悲愴」に踊りを振り付けた結果、演奏速度がバーンスタインの録音盤と偶然同じになったとはどーも思えないんです。

  プティは最初からわざと、バーンスタインの1986年録音盤に合わせて振り付けたんじゃないかと思うんです。演奏速度が同じというのに加えて、あの重くて陰鬱な雰囲気の演奏を、そのまま『スペードの女王』に反映させた気がします。

  プティが鬼籍に入った今となっては、もう分かりようのないことですけれどね。

  興味のある方は、『スペードの女王』映像版とバーンスタインの1986年盤を聴き比べてみて下さいませ。面白いほど同じですよ。ただし、前の記事にも書いたように、「悲愴」はどよ~んとしたどん底な気持ちであれ、ハイテンションな気持ちであれ、ともに増幅してしまう作用があるので、気持ちのバランスがとれているときに聴いたほうがいいと思います。

  今週の火曜日から、ついにボリショイ・バレエ東京公演が始まります。今の私に必要なのは、『スパルタクス』のパワーだぜ。楽しみ~♪ 
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ふと気づいた

  クーパー君の公式サイト、『雨に歌えば』の公演日程がさ、“Previews 4th Feb 2012, Official Opening 15th Feb 2012, Booking to 29th Sept 2012”って書いてあるのが、なんか妙に思ったんだけど。

  プレビューが2月4日からで、本公演が同月15日からっていうのは分かりますが、“Booking to 29th Sept 2012”という書き方になってるのが気になりました。予約は9月29日までということは、公演の出来と客の入りによっては、それ以降の公演期間延長もあり得るということでしょうか?

  たぶんそうなんでしょうね。『雨に唄えば』の公式サイトも、「2012年2月4日から」としか書いてませんから。

  今日は1月24日。思えば、公演開始まであとたった10日なんですね。

  先走って書いちゃうと、チチェスター・フェスティバル公演に対する各紙レビューの評価が総じて四つ星か五つ星だったのだから(あの『タイムズ』でさえ四つ星を出した)、今回のウエストエンド公演が成功するのは、もうほとんど分かりきってる…と言っちゃっていいのかな。

  それに、今年の夏にはロンドン・オリンピックがあります。オリンピック開催下のロンドンで、ジーン・ケリーの映画で有名な『雨に唄えば』の公演がある。観に行かない人はいないでしょう。クーパー君は久々に驚くほどの強運の持ち主ぶりを発揮したなー、と思います。

  今回の『雨に唄えば』は、アダム・クーパー40代の代表作になるような予感がします。

  いろいろと紆余曲折を経たけど、「なせば成る」とか、「好きこそ物の上手なれ」とか、まさにアダム・クーパーに当てはまることばですね(他に「石の上にも三年」、「はらぺこあおむし」とか)。

  「正統的なバレエ」ではないマシュー・ボーンの『スワンレイク』で人気を博したこと、そして「低俗な」ミュージカルに出演したことで、アダム・クーパーを貶めてバカにした人たちって、たくさんいたのね。バレエが本質的に至上の芸術だと根拠もなく思い込んでる、頭の良くない人たちね。私はそういう文章を雑誌でもネットでも多く読んだし、そういう人たち(←某有名バレエ団の連中)を実際に目にしましたよ。今でも忘れないです。

  かくいう私も、ミュージカルに出演するアダム・クーパーというのを、なかなか受け入れられませんでした。しかし、もうこうなった以上、私の負けを素直に認めざるを得ません。よく頑張ったよ、クーパー君。あなたの選んだ道は正しかった。

  アダム・クーパーのおかげで、私は人為的に作られた芸術のヒエラルキーに洗脳されずに済んだんです。アダム・クーパーが、その手の先入見や偏見を持っていなかったからです。

  本当に感謝してるし、もともとそういう人だったからこそ、彼のファンになったんだと思います。

  『雨に唄えば』ウエストエンド公演で一つ心配なのは、生真面目で実直な彼のことだから、以前と同じように、大真面目に連日毎回出演するつもりなんではないかということです。

  ほとんど怪我しない人なので、今回も身体を痛めたり、体調をひどく崩したりすることはないと思いますが、またどんどん痩せていくんではないでしょうか。『スワンレイク』のときも、『オン・ユア・トウズ』のときも、見る見るうちにげっそりしていきましたよね。公演期間中はよく眠れないし、あまり食欲がない、と昔の日記に書いていました。今はこの癖(?)は治ったのかな。

  もうおじさん(笑)だし、もはや2児の父。良い意味で図太くなってくれているといいんですが。もし私が観に行った回にクーパー君が出てなかったら、私は次の回の公演を当日券で観に行きますよ。ロイヤル・バレエの公演を蹴ってでもね。だからねー、もう自分の体を大事にして、休んでくれてもいいんですよ。

  今ごろは毎日リハーサルでしょうね。会場のパレス劇場では装置の据え付けが始まって、スタッフたちがあわただしく出入りし始めてるのでしょうか。

  つつがなく公演が開催されますように。
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「ニジンスキー・ガラ」(1月14日)-2

  ここ1ヶ月間の東京の乾燥は本当にひどいね。私、先月に1回風邪引いて、今年も正月早々に風邪引きましたよ。乾燥で喉が炎症を起こしちゃいました。毎日静電気にバチバチ感電してるし。


  「レ・シルフィード」(振付:ミハイル・フォーキン、音楽:フレデリック・ショパン)

   プレリュード:小出領子
   詩人:木村和夫
   ワルツ:高木 綾
   マズルカ:田中結子
   コリフェ:乾 友子、渡辺理恵


   また悪口になってしまいます。困ったな。もっとも、東京バレエ団の「レ・シルフィード」は、2007年に観たときも好きになれなかったのを思い出しました。

   いちばん気に入らないのは、照明の異様な明るさです。真っ昼間。幕が開いた瞬間に既視感が。あっ、前の公演でもこんなふうにヘンに明るかったんだ、と気づきました。

   なんか意図があるのかもしれません(当時の上演形態を再現してるとか?)けど、日光が燦燦と降り注ぐ昼日中の森で、妖精たちと生身の人間の男が一緒に戯れてるなんて薄気味悪い。夜ならまだ許せますが、昼から妖精と遊んでるなんて、この詩人は売文の徒というにも及ばない、まさしく無為徒食の輩ですな。

   今回それに加えて気になったのは、妖精を踊った女性ダンサーたちの動きです。総じてみなシャープで直線的な印象で、妖精らしい曲線的で柔らかな動きや、重量感のないふんわりした感じとかがないように思いました。いつか観た東京バレエ団の『ジゼル』でも、ウィリがまるで軍隊みたいにきびきびし過ぎていたのを思い出しました。

   ちなみに、私は決して「レ・シルフィード」自体が嫌いというわけではないと思います。他のバレエ団でこの作品を観たときには、むしろ見入っていたくらいですからね。

   主役的な妖精を踊った小出領子さん、詩人役の木村和夫さんは、ともに足の動きが、なぜか途中で引っかかるように、しょっちゅう止まっていたのが目につきました。

   小出さんはステップをこなすので精一杯な感じがしましたし、木村さんも動きが硬いように思いました。木村さんについては、後ろにジャンプしたときに、背面に蹴り上げた片脚の膝をいつも異様に曲げていて、それがなんというか、見ていて少し違和感がありました。あまり美しくないのです。

   例外だったのは高木綾さんで、妖精らしいしなやかさと軽やかさをもって踊っていました。両腕の動きは柔らかで、また、ジャンプしたあとに両足を前後に重ねるようにして、音もなくふわり、と着地する、この一連の動きが非常に美しかったです。

   高木さんの、微笑を浮かべた表情も魅力的でした。高木さんの踊りを見て、そうだよな、こんなふうに踊れる人が踊れば、ちゃんと見ごたえがあるんだよな、と思いました。


  「ペトルーシュカ」(振付:ミハイル・フォーキン、音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー)

   ペトルーシュカ:ウラジーミル・マラーホフ
   バレリーナ:佐伯知香
   ムーア人:後藤晴雄
   シャルラタン:柄本 弾


   以前に観たときは、ペトルーシュカ役のダンサーしか見てなかったのですが、今回はバレリーナ、ムーア人、シャルラタンはもちろん、街の広場を行きかう人々の踊りや演技の全体に、おのずと目が行きました。

   プログラムを買わなかったので、それぞれの役をどなたが担当されたのかは分かりません。でも、互いに芸を競う少女たち、コサック風ダンスを踊る若者たち、ロシアの民族舞踊を踊る女性たち、黒い猫(?)の踊りなどが印象に残ったし、広場の雑踏の風景全体から、賑やかで楽しげな人々のざわめきが聞こえてくるようでした。

   「ペトルーシュカ」は、この広場の雑踏の各シーンで、いかに観客を楽しませることができるかが、実は最も重要なポイントじゃないかしらん。ペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人だけじゃ、構成的に間がもたないもん。

   シャルラタン役の柄本弾さんが不気味でよかったです。シャルラタンの登場シーン、見世物小屋の幕の間から顔だけをのぞかせて、目を左右にぎょろり、と動かして睨むように見るのがナイス演技でした。

   後藤晴雄さんは、動物園にいるゴリラっぽい仕草と、そしてぶ厚い黒塗りメイクのせいで表情がまったく見えず、ナニ考えてるのか分からないのとで、あくまで人間ではない、人形の世界のお話という雰囲気をよく作り出していました。

   他のダンサーのパフォーマンスと比べてばかりだと、すっげー嫌味なのは分かってます。けど、比べてはじめて違いが明らかになるとも思うのです。なのであえて書きますが、今回のマラーホフのペトルーシュカは、ローラン・イレールが4年前に踊り演じたペトルーシュカに及びません。

   イレールが身体を隅々まで完璧にコントロールして動かしていたのに対して、マラーホフの動きはやや雑なようでした。

   演技についても、イレールは基本無表情でしたが、それが逆に心を持ってしまったにも関わらず、しかし人間のように感情を表現することができない人形の哀れさを強く感じさせました。一方、マラーホフの表情は人形というよりは人間のそれで、またマイムが少しオーバーすぎるように思いました。

   あと「牧神の午後」と共通していたことには、マラーホフは肩の力を抜いてやっているというか、イージーゴーイングな姿勢で役に臨んでいるというか、とにかくそんな感じがしたんです。「伝説的な昔の作品」を、現代の人間が距離を置いた視点から踊り演じてみて、まあこんなもんです、とどこか冷めているような。うまくいえないのですが。もっとも、これもまたダンサーの個人差の問題なんでしょうが。

   私はマラーホフの全盛期というか、元気に飛んだり跳ねたり回ったりしていた時期を知りません。もう年齢的にそういう技で見せるのは無理だろうけど、でもそれなら今の年齢に合ったことをやればよく、また今の年齢だからこそできることがあるだろうと考えるわけで、牧神やペトルーシュカは、その点でちょうどよい役なんじゃないかと思ったんです。

   キャリアを重ね、円熟の域に達した今のマラーホフが踊るからこそ、さぞ見ごたえがあるだろうと期待していたのですが、期待ほどではなかったというのが正直な感想です。

   新年から散々勝手なことを言ってしまって、本当にごめんなさい。  
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「ニジンスキー・ガラ」(1月14日)-1

  この「ニジンスキー・ガラ」は、もともとは2007年の秋にウラジーミル・マラーホフをゲストに上演されるはずでした。しかし公演直前、マラーホフが怪我で降板したため、マラーホフが踊るはずだった役にはすべて代役が立てられて上演されました。

  代役といっても、あらたにゲストとして招聘されたのは、シャルル・ジュド(「牧神の午後」)、ローラン・イレール(「ペトルーシュカ」)、フリーデマン・フォーゲル(「レ・シルフィード」)、マチアス・エイマン(「薔薇の精」)という超豪華な面々。結果は、マラーホフが降板した穴を埋めて余りある優れた舞台となったのでした。

  今回は2007年公演の本来の主役であったマラーホフを迎えての公演です。

  会場に着いて、オーケストラがいたので驚きました。チケット代からいって、てっきりテープ演奏だと思ってたのです。演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はワレリー・オブジャニコフ、「ペトルーシュカ」でのピアノ独奏は尾崎有飛さん。

  先に言いますが、オーケストラの演奏が非常にすばらしかったです。ウェーバー、ドビュッシー、ショパン、ストラヴィンスキーと、作曲者が猫の目のように変わる音楽を、鑑賞に充分に値するほどの高いレベルで演奏していました。「レ・シルフィード」は観ててヒマだったから(おっと)、眼の焦点をずらして音楽だけ聴いてました。


  「薔薇の精」(振付:ミハイル・フォーキン、音楽:カール・マリア・フォン・ウェーバー)

   薔薇の精:ディヌ・タマズラカル(ベルリン国立バレエ団)
   少女:吉川留衣

   どういう踊りが薔薇の精の理想なのか、比較する対象がないのでよく分からないのですが……。

   私はイーゴリ・コルプ(マリインスキー劇場バレエ団)、マチアス・エイマン(パリ・オペラ座バレエ団)の踊る薔薇の精しか観たことがありません。この二人のうち、圧倒的に印象に残っているのはイーゴリ・コルプです。

   コルプはアクの強い、個性的な雰囲気の漂う人です。それが薔薇の精という役にはよく合っていたと思います。性別のよく分からない、また善霊とも邪霊ともつかない不思議な雰囲気、そして柔らかい腕の動きとしなやかな身体能力、ガゼルのような高い跳躍、すべてが圧倒的でした。

   タマズラカルは何年か前に別の作品で観たことがあります。確か『海賊』の有名なパ・ド・ドゥ(←すみません。『コッペリア』の間違いでした。ミハイル・カニスキンかヴィクトル・イシュクと混同してしまった模様)と、ブルノンヴィルの作品(←「ゼンツァーノの花祭り」)だったと思います。あと、去年のベルリン国立バレエ団日本公演『チャイコフスキー』(ボリス・エイフマン振付)でも観ました。

   『チャイコフスキー』は作品そのものが良くなかったので、大して印象には残りませんでした。でも、数年前に初めて観たタマズラカルの踊りには驚嘆した記憶があって、それでこの「薔薇の精」も楽しみにしていました。

   しかし、正直言って、タマズラカルの薔薇の精には、いまひとつどころか全然物足りませんでした。雰囲気も踊りも真面目すぎるというか、端正すぎるように感じました。雰囲気は、妖精というよりは王子様でした。踊りのほうも、跳躍のときの脚の伸びと開きが弱く、回転する前にも準備姿勢で間を置きすぎて、踊りの流れが切れてしまっていました。

   もっとも気になったのが、腕の動きにまったく柔らかさやしなやかさがなかったことでした。薔薇の精は柔らかい動きが最も大きな魅力だろうと思います。タマズラカルの動きと雰囲気はともに硬くて、観ていてあまり引き寄せられなかったです。


  「牧神の午後」(振付:ヴァツラフ・ニジンスキー、音楽:クロード・ドビュッシー)

   牧神:ウラジーミル・マラーホフ
   ニンフ:上野水香

   幕が開いた途端、レオン・バクストのデザインによる美しい背景に見とれました。背景と、やがて現れたニンフたちの衣装の大胆で鮮やかな色使いと紋様は、初演からおよそ100年を経た今の時代にも充分に通用します。

   この「牧神の午後」に至っては、私はシャルル・ジュドと井脇幸江さん(東京バレエ団)の舞台しか観たことがありません。

   ですが、4年前のあの舞台の、異様なまでの静謐と緊張感は今でも忘れられません。静かな音楽の中で、自らの動きと表情とを完璧にコントロールして抑制し、姿勢、動き、表情に一分の隙もなく、そのために表面的には静かに見えながらも、動物的な野性味、野卑、咆哮、感情の激しい昂ぶりが聞こえ、目に見えるかのようだったジュドの牧神。ジュドの牧神を見つめる、井脇幸江のニンフの、強烈な光と感情とを放っていた瞳。

   ジュドと井脇さんの間には、間違いなくめったに目にすることのできない「化学反応」が起きていました。あの舞台こそいわゆる名演というのだな、と今でも確信しています。

   畢竟、あの舞台と今回の舞台とをどうしても比べてしまったわけでして。

   マラーホフの牧神はわるくいえば「おちゃらけ牧神」、表現を穏やかにすれば「ポップな牧神」でした。ジュドはニジンスキーの妹であるブロニスラヴァ・ニジンスカから、「牧神の午後」を直接指導されたと聞きます。ジュドの牧神に対する思い入れの強さは、尋常なものではないでしょう。一方、マラーホフは男性ダンサーとしてはもう中堅とはいえ、やっぱりまだ若いですから、これは世代差というものなのかもしれません。

   それはカーテン・コールでのマラーホフの態度からも思ったので、というのは、マラーホフは牧神のあの有名なポーズ(指をぴんと伸ばした両腕をやや前に差し出す)のまま、カーテン・コールに出てきて、それは観客の笑いを誘っていたからです。

   雰囲気的には、バンジャマン・ペッシュ(パリ・オペラ座バレエ団)が踊ったトンデモ版(←誰の振付だか忘れたよ)「牧神の午後」とノリが似ていました。

   了見が狭いかもしれませんが、シャルル・ジュドの牧神とマラーホフの牧神を比べると、どちらが優れているのかは、文字どおり一目瞭然でした。雰囲気や演技どころか、動きそのものが全然違うのです。私はジュドの牧神はまた観たいです。でも、マラーホフの牧神はもう観なくていいです。   

   ニンフを踊ったのは、上野さんをはじめとする東京バレエ団の女性ダンサーたちです。東京バレエ団は、お約束的なクラシック・バレエでない、こういう異質で斬新な動きの作品を上演するのに秀でているなあ、とあらためて思いました。

   私が観た作品に限っていえば、モーリス・ベジャールの「春の祭典」、「ボレロ」、イリ・キリアンの作品、そしてニジンスキーの「牧神の午後」は、たとえ日本の他のバレエ団が上演したところで、とても東京バレエ団にはかなわないでしょう。

   ニジンスキーの作品では、「春の祭典」がアメリカのジョフリー・バレエ団によって復元され、今では世界各国で上演されていると聞きます。東京バレエ団なら、ニジンスキーのオリジナル版「春の祭典」を充分に上演できる能力があると思います。ぜひ検討してほしいものです。
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