ただいま帰省中

  実家に帰っております。こちらは明日から本格的な暴風雪となるようです。交通機関にもかなりな影響が出ることと思われます。無事に東京へ戻れるかしらん(何年か前のような目にまた遭うのはちょっと・・・)。

  さて、今日の大晦日は家事で忙しい一日となりました。おまけに、組長(注:町内会のです)となった母親(←病的なまでのパソコン恐怖症)に代わって、組関係(再び注:町内会のです)の書類を作らされ、ロクに紅白も観れない始末。まあ、紅白にはあまり興味はありませんが。

  今年の思い出といえば、やはりなんといっても、アダム・クーパー4年半ぶりの来日でしょう。その公演、ウィル・タケット版『兵士の物語』が今日の午前にWOWOWで放送されたようですが、みなさまご覧になりましたか?

  近年、ミュージカルの出演が専らだったことを考えると、今年はラッセル・マリファントとの共演といい、『兵士の物語』といい、ようやく彼がいちばん本領を発揮できる場所でまた活動してくれるようになったな、とすごく嬉しいです。

  できれば、来年もこのペースで活動してほしいものですが・・・どうなんでしょうね~?

  それはともかく、この一年、更新の遅々として進まない当ブログ、そして当サイトを訪れて下さり、みなさま、本当にどうもありがとうございました!

  来年がみなさまお一人お一人にとりまして、毎日の生活のいかなることからも学び、そしてその意義を汲み取れる年となりますよう、心からお祈り申し上げます。

  どうぞみなさま、よいお年をお過ごし下さいませ。
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マリインスキー・バレエ「オールスター・ガラ」(4)

  (3)から日にちが少し空いてしまったので、最後の『海賊』組曲について書きます。

  『海賊』組曲の構成は、第三幕から「華やぎの国」(←早い話がハーレムの女たちの群舞)、3人のオダリスクの踊り、第二幕からパ・ド・トロワ(←パ・ド・ドゥとしても踊られる、あの有名なヤツ)、再び第三幕から「華やぎの国」だったと思います。

  登場人物はメドーラ(アリーナ・ソーモワ)、コンラッド(エフゲニー・イワンチェンコ)、アリ(ウラジーミル・シクリャローフ)、ギュリナーラ(エフゲーニヤ・オブラスツォーワ)、3人のオダリスク(マリーヤ・シリンキナ、ヤナ・セーリナ、エリザヴェータ・チェブラソワ)、そしてハーレムの女たち(コール・ド)です。この『海賊』組曲は、『海賊』の中から、特に有名ないくつかの踊りを見せるだけで、ストーリーとかは基本的に関係ありません。

  この最後の演目は、ピンクのチュチュとピンクのヅラ姿でバラのアーチを持った女性コール・ドがひしめいて踊り、見た目にゴージャスで華やかです。最後の演目としてはふさわしいのかもしれませんが、正直あんまり楽しめませんでした。私の場合、ストーリーなしの踊りオンリーの作品は、せいぜい10分までが限界です。35分間というのはきついです。

  女性コール・ドによる「華やぎの国」も、なんかごちゃごちゃしてて、そんなに美しいとは思えませんでした。大体、あのピンクのヘンテコなヅラはなんですか。ヅラ反対派の私としては、あれだけで減点対象です。

  3人のオダリスクの踊りは、申し訳ないですがまったく記憶に残ってません。観ている最中は、たぶん「きれいだな~」とか思っていたんでしょうが。

  コンラッドを踊ったエフゲニー・イワンチェンコは、前髪を下ろした髪型で登場しました。マッシュルーム・カットになってて、ちょうどホトちゃん(蛍原徹)みたいでした。堂々たる風采で、海賊のイケメン親分という役柄には合っていたと思いますが、パ・ド・トロワでの踊りが少し不安定だったような覚えがあります。

  エフゲーニヤ・オブラスツォーワがギュリナーラ役として出ていました。「グラン・パ・クラシック」があまりにひどかったので、怪我でもしたのかと思っていましたが、いつもどおりのほんわかした笑顔できれいに踊っていました。といっても、ギュリナーラは群舞に絡んでほんの少し踊るだけなので、とりたてて云々するほどの印象は残っていません。

  アリを踊ったのはウラジーミル・シクリャローフでした。ヴィクトリア・テリョーシキナを相手に踊った『眠れる森の美女』では、一皮むけたたたずまいと踊りを見せてくれたので、今回も応援モードで見ていました。

  そしたら、残念ながら、この演目ではシクリャローフの良くない部分が出ていました。それはつまり、アリとしての演技を忘れて、素の顔でテクニックを披露したがっているのがミエミエだったこと、しかもわるいことに、たぶんシクリャローフ本人的にはまだ成功率が100%でないらしい技に、公演という場でトライしたことです。その技が成功したとたん、「できた!やったー!」という嬉しそうな表情をあからさまに浮かべていて、それでもプロのダンサーか、とがっかりしました。

  シクリャローフは、2年前に比べてリフトやサポートは確かに上手くなったし、テクニックも上達したと思います。でも、ダンサー的にKYなのはいただけません。

  メドーラを踊ったアリーナ・ソーモワに対しては、なんだか身体が常にクニャクニャしてるなー、という印象が残りました。身体の芯がしっかりしていない感じです。でも、踊り方がすっごいひどい、見苦しい、とまでは思いませんでした。ただ、グラン・フェッテは相変わらず汚かったです。なんでマリインスキー・バレエの教師が矯正しないのか不思議です。

  うーむ、今年最後のバレエ鑑賞だったのに、悪口ばかりになってしまって、書いていて後味がわるいです。でも、仕方がないですね。そう感じたんだから。

  でも、今回のマリインスキー・バレエの公演を観て、2~3年前に観た若手ダンサーたちが上手になっているのを目にできて、こういうのはあまりない経験だったので感嘆しました。この次はいつになるのか分かりませんが、再び彼らの踊りを観るのが楽しみです。
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マリインスキー・バレエ「オールスター・ガラ」(3)

  『シンデレラ』(アレクセイ・ラトマンスキー版)より第二幕のパ・ド・ドゥ、ディアナ・ヴィシニョーワ、イーゴリ・コールプ。

  プログラムによると、舞踏会に来たものの、場になじめず寂しく思っているシンデレラと、社交界に飽き飽きした王子が出会って恋に落ちるシーンだそうです。音楽はプロコフィエフのおなじみの同名曲ですが、このシーンで使われていたのは、シンデレラが舞踏会に現れるシーンで用いられる曲と、「グランド・ワルツ」だったと思います。

  シンデレラ役のディアナ・ヴィシニョーワは白い袖なしのドレス、王子役のコールプは白いシャツに白いズボンという衣装でした。これまたプログラムによると、ラトマンスキー版『シンデレラ』は現代ロシアに話を移しかえたものらしいです。だから現代風の衣装を着ているというわけ。舞踏会の客たち役のコール・ド(というのか?)も冒頭に登場しましたが、彼らもみな現代風のドレスやタキシード姿でした。

  『シンデレラ』については、私の場合はフレデリック・アシュトン版が絶対のものなので、ヴィシニョーワとコールプの踊りを観て、ラトマンスキー版を観たいなどとは思いませんでした。でも、ヴィシニョーワとコールプは、わずかな時間であっという間に、何もない舞台上にラトマンスキー版『シンデレラ』の世界を作り上げてしまいました。二人ともプロフェッショナルだな~、と感心したのが第一の印象です。

  振付の良し悪しは分かりませんが、振りはそんなに独特というわけではなく、また典型的なクラシックというわけでもありませんでした。ラトマンスキーの「ややコンテンポラリーっぽい」作風に属すると思います。でも、複雑なリフトやサポートの多いパ・ド・ドゥでした。

  ところが、ヴィシニョーワもコールプもとにかく踊りが凄いというか、会話を交わすようにすらすらと踊っていくのです。あれほど息の合った踊りを観ると実に爽快です。うむ、プロだ、とまたまた感心しました。

  そうそう、プログラムのディアナ・ヴィシニョーワの履歴を読んでいて、またバレエ雑誌などで目にしたヴィシニョーワのインタビューなどを思い出して、蒸し返した疑問があります。

  ワガノワ・バレエ学校の優等生で、在学中からマリインスキー・バレエの舞台に立ち、マリインスキー・バレエに入団した翌年にプリンシパルに昇進し、また数々のバレエ・コンクールで優勝するという、超エリートの道を歩んでいたはずのディアナ・ヴィシニョーワは、いつの時点で、どんな理由で、エリートの道から外れてしまったのか?なぜ海外のバレエ団でゲストとして踊って名を揚げるという「搦め手作戦」によって、マリインスキー・バレエのプリマの地位をつかまざるを得なかったのか?

  『シンデレラ』での彼女の踊りを観ると、また以前に観た彼女の踊りを思い出して感じたことには、ヴィシニョーワは身体能力に恵まれているし、磐石のテクニックを持っているし、自分独自の表現で踊ることのできる、天才型(というより鬼才型?)のダンサーなんでしょう。ただ、彼女の踊りに出てしまう個性、そして、ロシアのバレエ界って厳しいよな、と思いますが、彼女の外見と体型が、ロシアのプリマ・バレリーナに求められるそれでない、ということが、ヴィシニョーワが中途で挫折した理由なんだろうな、と漠然と感じます。

  踊り方、外見と体型による制約がそれほど厳しくない西側のバレエ団に、ヴィシニョーワが活躍の場を求め、西側で得た名声を、マリインスキー・バレエ内での自分の地位向上に利用したのは賢明な判断だと思います。大体、マリインスキー・バレエに入団した翌年にプリンシパルになった女性ダンサーが、それからほぼ10年ものあいだオデットを踊ることがなく、はじめてオデットを踊ったのが、日本のバレエ団の『白鳥の湖』公演でだったなんて、私からみればかなり異常なことです。

  話がそれましたが、マリインスキー・バレエがヴィシニョーワを冷遇してくれたおかげで、こんな優秀なダンサーの踊りをしょっちゅう日本で観られるようになったんだから、結果的にはこれでよかったのでしょう。

  「瀕死の白鳥」、ウリヤーナ・ロパートキナ。この人はマリインスキー・バレエの女王様みたいなイメージがありますが、履歴を見ると意外と苦労人のようです。ヴィシニョーワが天才型なら、ロパートキナは努力型、もしくは職人肌なのかもしれません。

  You Tubeでロパートキナのオーロラやニキヤの踊りを観ると、テクニックではヴィシニョーワに到底敵わないのは明らかです。ですが、彼女は恵まれた体型に加えて、地道な努力でもってマリインスキー・バレエを代表するプリマになったのでしょう。天才型にも努力型にもそれぞれ苦労があるんだな~、と思いました。

  ロパートキナの「瀕死の白鳥」は、やっぱり生で観ると感動します。一つ一つの姿勢や動きが美しく、音楽にも合っていて、同時に峻厳さや凄絶さをたたえている。これぞ「正道」の「瀕死の白鳥」なんだろうな、と感じます。

  「タランテラ」(ジョージ・バランシン振付)、ヴィクトリア・テリョーシキナ、レオニード・サラファーノフ。

  速いテンポの曲に乗って、男女二人が一緒に、またかわるがわる出てきて踊る作品。細かい足技と回転、跳躍がてんこもりでした。テリョーシキナとサラファーノフの見事なテクニックを単純に楽しめました。途中から二人がそれぞれタンバリンを持って出てきて、それを打ち鳴らしながら踊ります。ますます小気味良かったです。

  テリョーシキナが両足の甲を外に向けてポワントで立ったまま、非常に深いプリエを何度もしたのには仰天しました。サラファーノフは本当に楽しそうに飛び跳ねて踊っていて、非常に生き生きしていました。こういう作品のほうが好きなんでしょうね。

  これでテリョーシキナは見納めです。まだまだ将来が楽しみなバレリーナです。また近いうちに日本に来て踊ってほしいですが、マリインスキー関係の公演じゃないと無理なのかしら。私としては、サラファーノフなんか(←ごめんね)より、テリョーシキナにこそ、ゲストとかでバンバン来日してほしいと思うのです。でも、彼女は今は、マリインスキー・バレエの中で、じっくりと着実に育成されていくべき時期にあるのかもしれないですね。

  『海賊』組曲についてはまた後ほど。    
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マリインスキー・バレエ「オールスター・ガラ」(2)

  続きを書くのが遅れてしまってすみません。毎年恒例、秋冬の不調に加え、年末の仕事の忙しさも加わり、時間の余裕というよりは気持ちの余裕が持てませんでした。わたくしもトシをとりましたわ~。いや、調子の悪いとき、忙しいときは無理をしなくなった、っていう意味で。

  おかげさまで、最近はケガとか病気とか全然してないですもん。新型インフルエンザにもまだ罹ってないし。どうせ罹るんなら、今年のバレエ観劇が終わっている今から、またバレエ観劇が始まる年明け(←1月6日のレニングラード国立バレエ『バヤデルカ』♪)までの間に、罹っておきたいのですが。もちろん、罹らないに越したことはないですけどね。

  さて、マリインスキー・バレエ「オールスター・ガラ」の続き。もう記憶が薄れちゃっているので、印象に残っていることだけっすね。

  『ジゼル』第二幕のパ・ド・ドゥ、アリーナ・ソーモワ、ミハイル・ロブーヒン。まず、ガラ仕様のためでしょう、振付が音楽から遅れていて、踊っていくうちに徐々に音楽に追いつく、というものになっていました。個人的には、これが非常に違和感がありました。ここの音楽でこう踊るはずなのに踊らない、というのは、思った以上に戸惑うものです。

  たとえば、ジゼルが舞台の中央で右脚をゆっくりと高く上げていくはずのところで歩いていたり、ジゼルがアラベスクをしたまま静かに一回転するはずのところで脚を上げていたりすると、もうそれだけで気持ち的に乗れないのです。

  加えて、『ジゼル』は全幕で観たほうがよい作品であって、一部を抜粋してガラ公演で観るのに適した作品ではないと思います。いきなり舞台のライトが暗くなって、それですんなりと夜の森のウィリたちの世界に入れるというわけではありません。逆にいえば、ガラ公演で観客を一気にウィリたちの世界にいる気分にさせられるダンサーはすごい、ということになりますが・・・。

  ご存知のとおり、アリーナ・ソーモワは賛否両論の激しいダンサーです。私はソーモワの踊りを2006年と2007年にも観ています。演目は『白鳥の湖』(大きな白鳥)、「エチュード」(ソリスト)、「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」、『眠れる森の美女』(グラン・パ・ド・ドゥ)です。

  正直言うと、私にはソーモワの踊りのどこがそんなに良くないのか、まだいまいち分からないのです。あの伝説的(笑)な「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」(07年マリインスキー・バレエ&ボリショイ・バレエ合同ガラ)の映像をくり返し観て、ようやく「なるほど、こういうふうに脚をむやみにぶんぶん振り上げる(しかも乱暴に)ところとか、パートナー無視で自分勝手に踊るところとか、ついでに音楽も無視でどんどん踊っていくところとか、ポーズがイカかタコみたいにグニャグニャしていておかしいところとかがいけないんだな」と辛うじて納得できたくらいです。

  そのアリーナ・ソーモワのジゼルですが、意外に風情がありました。特にソーモワの表情が良かったです。伏し目がちにした表情が、思ったよりもはかなげで雰囲気が出ていました。ただ、ジゼルにしては元気すぎるといいますか、たとえば両足を揃えて跳ぶ「ジゼル跳び」は、ぴょんぴょんというよりびゅんびゅん跳んでいて、墨を吐きながら超高速で敵から逃げるヤリイカを連想してしまいました。

  あと、両腕を緩く前に差し出した「ジゼルアラベスク」をして舞台から退場するところは、なぜか両腕を後ろに反らせるように伸ばす「オデットアラベスク」になっていて、マリインスキー・バレエの『ジゼル』はこういう振付なんでしょうか???

  アリーナ・ソーモワはこの後の『海賊』組曲でメドーラを踊ったので、ソーモワについてはまた後で。

  ソーモワよりもある意味強く印象に残ったのがミハイル・ロブーヒンのアルブレヒトでした。いやー、あのラベンダー色のタイツは強烈だったな。フトモモがむっちりと見えちゃって、似合わないのなんの。ロブーヒンの踊りも王子っぽくなくて、ちょっと体育会系でした。

  『ジゼル』第二幕のパ・ド・ドゥだけでこんなに書いてしまった・・・。では次。

  「グラン・パ・クラシック」、エフゲーニヤ・オブラスツォーワ、マクシム・シュージン。ダンサー(オブラスツォーワ)といい、作品といい、最も楽しみにしていた演目だったのですが、最も不可解な演目になってしまいました。

  アダージョ、男性ヴァリエーションまではさくさくと進んで、さて楽しみな女性ヴァリエーションが始まりました。オブラスツォーワが横に跳び、それから足の甲を外側に向けてトゥで立ったときのポーズを見て、テクニック的にはそんなに過度に期待しないほうがよいことは分かりました。

  ところが、半回転しながらアティチュードをして静止するところで、オブラスツォーワの脚はあまり上がっておらず、静止もほとんどしませんでした。「グラン・パ・クラシック」はこう踊ってもいいのかな?いや、それにしても、とやっと違和感を覚えました。

  女性ヴァリエーションの中で最も見どころとなっている、軸足のかかとを上げ下げしながら片脚を前に振り上げ、それからゆっくりと一回転するところで、オブラスツォーワの踊りに目に見える異変が生じました。この動きをしながら、舞台の右奥からゆっくりと斜め前、つまり舞台の前中央に進んでくるはずが、オブラスツォーワの体が前に進まないのです。

  脚は上がらず、軸足がグラつき、上半身のポーズまで不安定になっていて、オブラスツォーワの体は回転しながら右に左にと迷走するばかりでした。オブラスツォーワの笑顔が徐々に歪んでいきます。これは明らかにおかしい、オブラスツォーワはどこか痛めたに違いない、と思いました。

  でも、回転しながら舞台を一周するところはきちんと踊ったし、コーダにも出てきて最後まで踊りました(脚をまっすぐに伸ばすフェッテもやった)。この後の『海賊』組曲でもオブラスツォーワはギュリナーラ役を踊りました。ということは、彼女はケガをしたのではないだろうと思いますが、それにしても、あのヴァリエーションははっきり言ってひどすぎました。が、あんな踊りに過剰に大きな拍手と喝采が送られたことは、もっとひどいことだったと思います。

  当初の予想に反して長くなりました。(3)に続きます。
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マリインスキー・バレエ「オールスター・ガラ」(1)

  12月10日(木)の公演を観に行ってきました。

  「シェエラザード」全編は、ファルフ・ルジマトフのガラ公演でしか観たことがありませんでした。そのときは金の奴隷がファルフ・ルジマトフ、ゾベイダがユリア・マハリナ、スヴェトラーナ・ザハロワでした。その他のキャストは、確かインペリアル・ロシア・バレエのダンサーたちだったと思います。

  その「シェエラザード」を、マリインスキー・バレエの公演で観られたことがまずよかったです。本家本元による上演を観られたこと自体に意義があったというか。ルジマトフのガラ公演はテープ演奏で、しかも序曲に相当する「海とシンドバッドの船」は削除されていました。

  それが今回、たとえボロボロのモップを引きずったようなひどい音であっても、生のオーケストラによって「海とシンドバッドの船」が演奏されて、「ほー、これが序曲とされていたんだ」と知ると同時にちょっと感動しました。

  「カレンダー王子の物語」が始まると同時に幕が上がって、今度は舞台装置の美しさに見とれました。特に、天井一面を風をはらんだ船の帆のようにうねりながら覆っている、オリエンタル風の大胆な図柄と鮮やかな色彩の幕が印象的でした。

  マリインスキー・バレエで観られてよかったなー、と再び思ったのは、舞台の前面で3人のオダリスク(アナスタシア・ペトゥシコーワ、エフゲーニヤ・ドルマトーワ、リュー・チヨン)が踊りだしたときでした。

  いずれも長身で手足が長く、両の腕をしなやかにくねらせ、また後ろに振り上げた長い脚は背中にくっつくくらい反り返り、その動きの線が非常にきれいです。

  ゾベイダ役はウリヤーナ・ロパートキナでした。チュチュ姿のときとは印象がまったく違いました。顔がとても小さくて、華奢で細身でした。ガウンからのぞいた手首なんか、折れんばかりに細かったです。ロパートキナのゾベイダは、視線が鋭く、ほとんど無表情で、冷たい雰囲気さえ漂う美女でした。

  でも、ロパートキナのゾベイダはどことなく悲しげで孤独な感じがしました。ゾベイダは夫であるシャリアール王(ソスラン・クラーエフ)を愛していて、彼女なりに必死で夫の心を自分に引き寄せようとするのですが、夫はなぜか彼女に冷たく、他にも多くの妾たちがいます。私がロパートキナのゾベイダに最初に感じたのは、ゾベイダは夫のシャリアール王を本当に愛しているが、夫のほうは彼女に冷淡で、そのせいでゾベイダは孤独の中にいる、ということでした。

  ゾベイダというと、夫のシャリアール王の目を盗んで金の奴隷との逢瀬に耽る妖艶な魔性の女、というイメージがあったので、ロパートキナのゾベイダはかなり新鮮でした。しかも、象徴的に置かれていた大きな鳥籠が示すように、ゾベイダは後宮の中に閉じ込められていて自由のない女性です。彼女には夫の愛しか拠りどころがないのに、その夫には自分の他にも多くの愛妾たちがいる。ゾベイダがシャリアール王にしなだれかかるシーンは、他のキャストで見ると、夫を欺くための巧妙な演技に見えたりしますが、ロパートキナがやると、夫の気を引こうとする不器用な愛の表現に見えました。

  だから、ゾベイダがなぜ金の奴隷と愛し合うのか、ということもすんなり納得できました。その金の奴隷はダニーラ・コルスンツェフでした。コルスンツェフの金の奴隷の雰囲気は、ロパートキナのゾベイダとちょうどよく合っていました。コルスンツェフが走り出てきた瞬間、そのたくましい体つきに思わず見とれてしまいました。男はやっぱりマッチョじゃなきゃな、とつい思いました。

  脇道にそれますが、金の奴隷が出てくる前に大量に出てきた男の奴隷たちも、みな長身で均整のとれたたくましい体つきをしていました。みな上半身はほとんど裸です。まさに目の保養、眼福眼福。

  本題に戻ると、コルスンツェフの金の奴隷は、ゾベイダが好きで好きでしょうがない、という感じでした。一途に真剣にゾベイダのことを愛している。そうした雰囲気が、ロパートキナの一途に真剣に愛を求めるゾベイダと合っていました。ロパートキナのゾベイダが求めているのは肉体の愛ではなく、真摯な愛情だからです。

  「若い王子と王女」で、ゾベイダと金の奴隷は激しく愛し合う踊りを見せます。ロパートキナとコルスンツェフの息はぴたりと合っていて、「やっぱり踊れる人たちが踊るとすごいな~」とただただ見とれるばかりでした。実を言うと、このシーンでは、あまりロパートキナやコルスンツェフの表情やら演技やらは見ていなかったのです。踊りに集中していました。というより、踊りに集中させられていました。踊りで表現できる人たちというのは、踊りですべてを物語ることができるのでしょう。しかも、きれいな踊りを見ているというよりは、ゾベイダと金の奴隷が交わしている感情や言葉をそのまま感じる、聞いているような感覚でした。

  コルスンツェフについてもう一言。彼はジャンプが高くて、しかも着地が柔らかで、足音をほとんど立てないことに感心しました。金の奴隷はバンバン跳びますが、コルスンツェフの動きは猫っぽく、たくましいけどしなやかで静かでよかったです(でも顔は忠犬ハチ公系だと思った)。

  マリインスキー・バレエで「シェエラザード」を見られてよかった、とつくづく思ったのは、後宮の女たちと男の奴隷たちの感情が最も高まって、金の奴隷を中心に人々が踊るシーンになったときでした。乱雑に見えても、「踊れる人たち」が一斉に踊っているのですから、熱気というか迫力が実に凄かったです。金の奴隷のコルスンツェフが豪快な回転を続け、その周囲で後宮の女たちや奴隷たちも激しく踊っていて、まさに狂宴といった感じの凄まじい迫力に溢れていました。

  シャリアール王たちが乗り込んできて、後宮の女たちや奴隷たちを皆殺しにした後の、ロパートキナの演技を見て、やっぱりゾベイダは本当は王をいちばん愛していたんだな、と思いました。ゾベイダは最後まで王にそのことを分かってもらいたいのに、王はそれを理解しようとしません。ゾベイダは王を凝視したまま、顔色ひとつ変えずに自分の胸に短剣を突き刺します。絶望して死んだというよりは、夫への愛を証明するために死を選んだように見えました。

  ゾベイダが死んではじめて、王はようやく失ったものの大きさに気づきます。シャリアール王役のクラーエフの演技がよかったです。シャリアール王は死んだゾベイダの体を抱き起こし、両手で顔を覆って嘆き悲しみます。

  純白のチュチュを着て、汗ひとつかかず、きれいに端正に優雅に踊る、といった印象のロパートキナが、ゾベイダをどんなふうに踊り演ずるのかと興味津々でしたが、彼女がステロタイプな妖艶さの表現に陥らず、夫の愛を得られない孤独の中にいる哀しい女性として、ゾベイダを表現したことに感心しました。
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マリインスキー・バレエ『眠れる森の美女』(2)

  オーロラ姫のヴィクトリア・テリョーシキナは、全体的にいえば、うーん、まだこなれていないかな、という感じでした。

  たとえば、ローズ・アダージョは、そんなに熱狂的な拍手喝采を送るほどのできばえではなかったと思います。アティチュードでのバランス・キープはグラつきがちでした。07年秋に行なわれたマリインスキー・バレエとボリショイ・バレエの合同ガラ公演で、テリョーシキナは「グラン・パ・クラシック」を踊りました。そのとき、アダージョでのバランス・キープがやや不安定だったことを考え合わせると、テリョーシキナに苦手科目があるとしたら、それはバランス系なのかもしれない、と思いました。

  ただし、これはまったくの憶測なのですが、ひょっとしたら、テリョーシキナは、男性ダンサーにサポートされるとバランスを崩してしまう癖があるんじゃないでしょうか。なぜだか分かりませんが、テリョーシキナは、一人で踊っているときのほうが絶好調で完璧に見えます。合同ガラで踊った「グラン・パ・クラシック」でも、ヴァリエーションでのテリョーシキナは鉄壁でしたからね。

  思いもよらなかったことですが、サポートやリフトの苦手な男性ダンサーがいるように、サポートされたり、リフトされたりすることが苦手な女性ダンサーもいるのかもしれません。自分のペースやタイミングを乱されやすくなるのでしょうか。テリョーシキナはもしかしたらそのタイプの女性ダンサーなのかも、と感じました。

  でも、もちろん、全体的には、テリョーシキナのテクニックは本当にすばらしかったです。隙がありません。また、先週の『白鳥の湖』のオデットやオディールとは、踊りの質や雰囲気自体がまったく違っていることに感嘆しました。腕の動き方やポーズがどこか違うんですね。たとえば、テリョーシキナのオデットの踊りには硬質な透明感があったのですが、今回のオーロラ姫の踊りには柔らかな暖かみと、そして曲線的なフェミニンさがありました。

  テリョーシキナの演技も良かったです。テリョーシキナはクールで気の強そうな顔立ちをしています。でも、テリョーシキナのオーロラは意外にも(といっては失礼ですが)たおやかでおしとやかなお姫様でした。柳のように華奢ではかなげな風情です。これは演技のせいもあるでしょうが、テリョーシキナは基本的にフェミニンな人なのだろうと思います。だからオデットのような役も当たり役になったのでしょうね。たぶん、ジゼルなどを踊っても、まったく違和感がないと思いますよ。

  あとは、オーロラ姫を踊りこんで、自分のものにするだけだのことだと思います。表面的に演技して完璧なテクニックで踊るだけじゃなくて、舞台の上でオーロラ姫そのものに自然になりきることができれば、オーロラ姫もテリョーシキナのはまり役になるでしょう。場数をこなすだけの問題な気がします。

  ちょっといい話。ローズ・アダージョで、オーロラ姫が男の子たち(←全員日本人。バレエ・シャンブルウエストの子たちだそう)の肩に手をかけながら、アラベスク・パンシェをくり返すところで、テリョーシキナが最後の男の子の肩に手をかけて、アラベスク・パンシェをして顔が男の子の顔のすぐ横に近づいたとき、テリョーシキナは男の子の顔をのぞきこんで、ニコッと笑いかけたのです。

  テリョーシキナのその笑顔が、どうも演技という感じではなくって、まるで「練習も頑張ったし、緊張もしたよね、ありがとうね」とお礼を言ってる感じで、きっと素でやったのだと思います。テリョーシキナの人柄の良さを表わしているようで、とてもほほえましかったです。

  デジレ王子はウラジーミル・シクリャローフでした。今日いちばんの驚きは、このシクリャローフでした。

  シクリャローフの踊りをはじめて観たのは、2006年のマリインスキー・バレエ日本公演、そして最後に観たのは、翌2007年のマリインスキー・バレエとボリショイ・バレエの合同ガラ公演ででした。両方の公演とも、シクリャローフの印象は最悪でした。シクリャローフはパートナリングが致命的にヘタで、そのくせ、ソロで踊るときには、粗いテクニックの大技をこれ見よがしに乱発するダンサーだったからです。

  私が今日の公演を選んだのは、あくまでテリョーシキナが観たかったからでした(あと、オーロラ姫を踊る他のキャスト、ディアナ・ヴィシニョーワとアリーナ・ソーモワが好きでないという理由もある)。シクリャローフに対してはまったく期待していませんでした。

  ところがです。2年ぶりに見たシクリャローフは、立派なダンサーに成長していました。第二幕でシクリャローフのデジレ王子が出てきた瞬間、まずその立派な容姿に驚きました。身長が以前より高くなったようにも思えるし、あと体つきが大人になったというか、均整のとれた堂々たる体躯で、まさに「王子体型」です。

  顔つきも大人の男になっていました。顔がやや長くなって、彫りが深くなり、直線的な眉と切れ長の目を持つ、苦味のあるイイ男になっていました。オールバックがよく似合います。

  そして、表情、また全身から醸し出される王子オーラ!仕草、挙措、ポーズは実に優雅で、演技も自然です。

  あのヘタレなガキんちょだったシクリャローフが、いつの間にこんなハンサムな大人の男に、と見とれていたら、シクリャローフはソロを踊り始めました。シクリャローフの踊りを見てまた仰天しました。

  まずアラベスク。端正なポーズをたもったまま、片脚をぐぐーっと後ろに伸ばす。根元からよじれるように片脚が後ろに高く上がる。伸ばし方も伸びた脚の線も実に美しい。ジャンプ。思わず息を呑むほど高い。しかも滞空時間が長く、空中でのポーズもすごくきれい。ジャンプからの着地。柔らかく、優雅に降りる。足元がグラつかない。回転。ブレない。止まるときもガタつかない。

  すべてのステップとポーズは気品と優雅さに溢れており、私の周囲の観客たちからも、シクリャローフが踊っている最中に、「おお~」と思わず感嘆の声を上げる人、「ほうっ」とため息をつく人、小さく(音を出さずに)拍手する人が続出しました。

  シクリャローフのソロが終わった途端、客席から熱狂的な大きな拍手と喝采が湧き起こりました。私も思わず両手を高く上げてバチバチと大きく拍手しました。「シクリャローフ、見事に化けやがった」と舌を巻きました。

  でも、問題はシクリャローフのパートナリングです。デジレ王子がオーロラ姫の幻影と踊るシーンになりました。驚いたことに、シクリャローフのパートナリングも上手になっていました。でも、あくまで2年前と比べたらの話であって、まだ完全に「上手」ではなく、「ちょっと下手」なレベルです。ぎこちなさが目立ちました。

  ただ、そのぎこちなさも、女性ダンサーの体勢が整ったのを確認してから、次のサポートやリフトに移っていると分かるものでした。丁寧なあまりのぎこちなさですから、単にヘタなよりは好感が持てました。また、第三幕のグラン・パ・ド・ドゥでは、基本的にぎこちなさは感じられませんでした。特に「ろくろ回し」がすっげえ上手になっていました。最も難しいと思われる、デジレ王子がオーロラ姫を逆さに支えてポーズをとるところは、実に自然にスムーズにうまくいきました。

  2年前はダメダメ君だったあのシクリャローフがここまで劇的に変貌したこと、ダンサーの成長を実際に目のあたりにできたことに本当に感動しました。シクリャローフは私にとって、これから先の成長がまだまだ楽しみなダンサーとなりました。

  ひとつだけ難を言えば、第三幕で、シクリャローフがオールバックの髪全体にラメをふりかけて、頭がピカピカ光っていたのがヘンでした。必要ないと思います。

  第三幕でのディヴェルティスマンを踊ったダンサーたちについては、みなそれぞれに良かったと思います。ただ、青い鳥のパ・ド・ドゥはちょっとな~、と思いました。青い鳥役のアレクセイ・チモフェーエフは動きがどんくさく重たげでした。彼は『白鳥の湖』でも第一幕のパ・ド・トロワを踊っていましたが、そのときも同じ印象を持ちました。マリインスキーの有望株には違いないのでしょうから、これから成長していくのでしょうが。

  また、フロリナ王女役のマリーヤ・シリンキナは、180度開脚横ジャンプをやったり、えびぞりのような凄まじいアラベスクをしたりしていました。が、なんとなく功名心が先に立っているような感じがして、あまり好感を持てませんでした。

  白い猫役は、クセーニャ・オストレイコーフスカヤが怪我のため、ヴァレーリヤ・マルトゥイニュクに変更になりました。マルトゥイニュクの動きはコミカルで、しかもしなやかで色っぽくてよかったです。思わず実家の猫を思い出しました。ウチの猫を擬人化したらまさにこんな感じだろうなー、とか。

  ヴィクトリア・テリョーシキナのオーロラ姫とウラジーミル・シクリャローフのデジレ王子、また観てみたいものです。これからも成長していくことを感じさせる(というか絶対にそうなるであろう)若いダンサー2人の舞台を観ることができてよかったと思います。
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マリインスキー・バレエ『眠れる森の美女』(1)

  マリインスキー・バレエの『眠れる森の美女』は、『白鳥の湖』と同じく、コンスタンチン・セルゲーエフの改訂振付版(1952年)を用いているそうです。

  セルゲーエフが加えた振付は、マリウス・プティパの原振付に負けないくらい複雑で難しい振りのように思えました。オーロラ姫をはじめ、リラの精、他の妖精たち、そして女性コール・ドの踊りにまで、難しいステップが付け加えられていたようです。

  今日の『眠れる森の美女』を観てはじめて、プティパの『眠れる森の美女』はテクニック的に難しい作品であり、またセルゲーエフ版は特に難しく、マリインスキーのダンサーたちでさえ苦労するほどなんだ、と実感しました。

  また、セルゲーエフ版では、やはりマイムがほとんど削除されていたばかりか、第一幕では、しょっぱなから「花のワルツ」が始まりました。その前に本来はあるはずの、王宮の広場で女たちが編み物をしていて儀典長に取り上げられ、フロレスタン王が女たちの死刑を命じ、王妃が女たちの命乞いをするシーンがなくなっていました。

  音楽のテンポは、時には異常に速かったり、時には異常に不自然に遅かったりしました。ダンサーの踊りに合わせていたためです。

  ほんとに「踊りだけで勝負!」なのだなと思いました。それはそれで一つの主義だと思いますが、『眠れる森の美女』は演劇的だとより見ごたえがあるので、マイムや演技のみのシーンがほとんどなくなっていたのは残念です。

  キエフ・バレエのコフトゥン版もマイムはほとんど削除していました。おそらく、知識がないと分からないクラシック・マイムは、時代的に嫌われた、もしくは排除せざるを得なかったのでしょうね。

  おかげで、セルゲーエフ版もコフトゥン版も、カラボスがオーロラ姫にどんな呪いをかけたのか分かりづらく、リラの精がその呪いをどんなふうに変えたのかも分かりにくいです。だから、第一幕でオーロラ姫が指を編み針で傷つけて倒れる展開が唐突に思えます。また、狩猟の途中でふと暗い表情を見せるデジレ王子が、何を思い悩んでいるのか、そして何を求めているのかも分かりません。

  『白鳥の湖』でのオデットの「自己紹介」マイムなんぞは別になくてもかまいませんが、『眠れる森の美女』では、マイムが作品の中で大きな役割をなしており、マイムがあると非常に効果的だと思うので、残されなかったのが惜しまれます。ふと、マイムを残している版、たとえばフレデリック・アシュトン版、ケネス・マクミラン版、アンソニー・ダウエル版やモニカ・メイスン版を、マリインスキー・バレエが上演したら、演技と踊りがともに見ごたえがあって面白いだろうに、と思いました。他にも、たとえばマリシア・ハイデ版をやったらどうなるでしょ!?カラボスは鉄板レオニード・サラファーノフだな(笑)。

  でも、キエフ・バレエの『眠れる森の美女』よりは、マリインスキー・バレエの『眠れる森の美女』のほうが、みんなきちんと演技もしていてよかったです。フロレスタン王(ウラジーミル・ポノマリョーフ)は威厳のある王様で、しかも良いパパだし、王妃(エレーナ・バジェーノワ)は超美人な王妃様だし、カタラビュット(ソスラン・クラーエフ)は笑えました。

  プロローグで、カタラビュットはお約束どおり、怒ったカラボスによって髪の毛をむしり取られてしまいます。おかげでカタラビュットはカッパハゲになってしまいます。面白いのが、オーロラ姫が成長した第一幕から、オーロラ姫の結婚式の第三幕まで、カタラビュットはずっとカッパハゲのままなんです。それが、第三幕の終盤で、舞台の奥でフロレスタン王がカタラビュットの頭にさりげなく部分ヅラをはめてやり、そのままカタラビュットの頭をぽんぽんと撫でます。オヤジ同士でほのぼのしてて妙におかしかったです。

  リラの精はダリア・ヴァスネツォーワでした。長身の美女で、上半身が逆三角形で、手足がすらりと長い、いわゆる「プリマ体型」をしています。身体が非常に柔らかく(マリインスキーの女性ダンサーはみんなそうだけど)、姿勢がきれいで、とても見栄えがします。ただ、高貴さと優しさとをあわせ持った威厳があまり感じられず、存在感も強かったとはいえません。もっとも、これはリラの精からマイムと演技とを奪った演出のせいもあります。

  ただ、第三幕のリラの精のソロでは、ヴァスネツォーワは堂々とした見事な踊りを見せました。長い脚が耳の傍すれすれまで鋭く上がって、私の周囲の観客がほうっとため息をついたほど。

  優しさの精(マリーヤ・シリンキナ)、元気の精(アンナ・ラヴリネンコ)、鷹揚さの精(エレーナ・ユシコーフスカヤ)、勇気の精(ヤナ・セーリナ)、のんきの精(ヴァレーリヤ・マルトゥイニュク)それぞれの踊りは、なかなかだったとは思いますが、みな必死に踊っているのが分かって、優美でさりげなく見えても、プティパの振付は本当に難しいんだな、と思いました。

  リラの精も加わって、妖精たちが一緒に踊るところでは、男性ダンサーたちによるサポートは一切なしでした。妖精役のダンサーたちはみな一人で回転していました。みなで数珠つなぎになったまま、片足ポワントでゆっくりアラベスクをしたときには、見ていて仰天しました。

  妖精のお付きの妖精たち役の女性群舞はすばらしかったです。プロローグ、第二幕、第三幕とずっと出てきて踊りますが、腕の動きや脚の上げ方が美しくてしかも揃っていて、群舞にそこまで要求するかー!的な複雑なステップもよくこなしていました。特に第二幕で、デジレ王子がオーロラ姫の幻影と踊るシーンでの群舞は整然としていて、非常に美しかったです。

  そーいえば、マリインスキーの『眠れる森の美女』はヅラ率が高くて、登場人物は人間も妖精もほとんどがロココ調のヅラをかぶっていました。でも、ヨーロッパ人だから似合うんですな。ヅラが浮いて見えません。民族の壁は厚いぜ。

  カラボス(アントン・ピーモノフ)は黒衣に長髪の白髪、という姿で登場しました。別に悪役メイクをしているというわけでもなく、アクの強い表情をするわけでもなく、鼻筋のとおったキレイなお顔立ちが分かってしまって、まあ、ハンサムなおにーさん、と思ってしまいました。

  それに、このセルゲーエフ版のカラボスは、リラの精にてんでかなわないのです。呪いをかけた後、カラボスはリラの精にすごいあっさりと追い払われてしまいます。

  第一幕で、カラボスは頭からマントをかぶって現れ、オーロラ姫に花束を渡します。その中に編み針が混じっていて、オーロラ姫は指を傷つけてしまいます。目的を遂げたカラボスはあざ笑いながら姿を消します。その後の第二幕、デジレ王子が眠るオーロラ姫のもとへやって来たとき、カラボスはまた現れるんだろう、と思っていましたが、なんと、カラボスは登場しませんでした。いくらなんでも存在感薄すぎだろーが、と思いました。

  カラボスの家来たちのほうが面白かったです。ゴリラみたいな仮面と黒い服の家来、コウモリらしきグレーの耳と羽根をつけた家来の2種類がいました。ゴリラ家来のほうは、仕草も両腕を前にだらんと下げ、体を落ち着きなく横に揺らしていて、サルっぽかったです。「オズの魔法使い」の「ウィンキー」を参考にしたのでしょうか。 
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