違いのわからない女~おばんざい編~

  先週の土日は京都に行っていました。仕事で行ったのです。仕事は土曜日だけでしたが、せっかくの京都ですから、土曜日の夜は京都に泊まり、日曜日はプチ観光をして、夕方の新幹線で東京に戻ることにしました。

  観光の時間は半日しかありませんでした。多数決(割と大勢で行った)により、嵐山散策ひとつに絞るということに決定しました。

  京都駅から嵯峨野線に乗り、嵯峨嵐山駅で下車しました。まず天竜寺に行きました。天竜寺は修学旅行のときに来たことがあります。そのときの記憶はほとんどありませんが、ただ寺の境内を流れている小川に、黒い鯉が大量に生息していた覚えがあります。小川に指を突っ込むと、指をエサと間違えて群れなして食いついてきました(←我ながらアホなことしか覚えてない)。

  その小川の川底がコンクリート製になっていて、黒い鯉たちの姿はまったく見えませんでした。ちょっと残念。

  夢窓国師がデザインしたという庭はとてもきれいでした。嵐山の濃い緑の森を背景にして、その下に大きな池があり、石で流水を描き(石庭)、処々に四季の草花が植えられて、実に絶妙な配置です。

  度重なる火災により、寺の現在の建物はほとんどが明治時代に再建されたものだそうです。それでもオリジナルの姿を忠実に再現しているのでしょう、平安時代っぽい建物が面白かったです。上の写真も天竜寺です。雨戸に相当するものなのでしょうね。名前は同行者の一人が教えてくれましたが、高校の古典の授業で「源氏物語」とか「枕草子」とかに出てくるような名前で、忘れちゃいました。

  お昼ごはんはちょっとお値段の高い和風レストランで食べました。「湯豆腐とおばんざい御膳」です。前の日、土曜日の晩ごはんは仕事の延長の立食パーティーで、出された品は東京の食べ物とまったく変わりませんでした、それで、「湯豆腐とおばんざい御膳」を前にして、ようやく「京都」らしいものが食べられる、と気分はウハウハでした。

  湯豆腐は嵐山の名物らしいです。食べ方は東京と変わりません。でも、豆腐の他に水菜みたいな野菜も入っていたかな?「おばんざい」とは京都の家庭料理のことだそうです。黒豆の入ったおこわ、鶏肉とかぶとちらし卵のお吸い物、野菜や湯葉の煮物、刺身、漬物などがありました。

  やっと京都らしい料理にありついたと思ったのですが、食べているうちになんだか段々と飽きてきてしまいました。なぜかというと、漬物と湯豆腐の漬け汁(醤油ベース)を除いて、他の各料理の味つけがすべて同じなのです。つまりお出汁の味です。どれを食べても同じような味がしました。

  食べているうちに、徐々に料理を「食べている」というよりは、「片づけている」という感じになってきました。味のない(と私には感じられる)カボチャの煮物をもそもそと食べているうちに、京都の人は、本当に毎日こういう味の薄いものばかり食べているのだろうか、飽きないのだろうか、と思えてきました。

  お昼ご飯の後は嵐山を登って化野念仏寺まで行きました。大雨が降った翌日とあって、蚊に刺されまくりました。でも竹林に挟まれた小道が実にきれいで、盛んに写真を撮っていると、同行者の一人に「写真の通は竹林そのものを撮るのではなく、西日が射して地に影を倒す竹林の根元を撮るものだ」と言われました。

  私がそのとおりにしようとしたところ、その人は今度は「デジタルカメラでは良い写真は撮れない」とケチをつけてきました。私はかまわず写真を撮り、撮った画像をその人に見せつけてやったところ、その人は一転して「お、うまく撮れたじゃん、後でデータを送って」としゃあしゃあと言いました。

  タクシーを拾って京都駅に戻りました。夕ご飯は車窓の風景を眺めながらの駅弁ですませるつもりでした。もう京都の「おばんざい」は充分に堪能したし、味の濃い料理の駅弁を買おう、と思いました。

  ところが、私が立ち寄った駅弁販売コーナーは、「京都のお弁当」専門店でした。急いでいた私は(←発車5分前)販売員のお姉さんに聞きました。「どれがいちばん売れ行きがよいですか?」 お姉さんはニッコリ笑って言いました。「こちら、『京のおばんざい弁当』となっておりま~す♪」 しまった、と思いながらも、聞いちゃった手前、私はその「京のおばんざい弁当」を買いました。

  静岡の浜名湖を通過したあたりでお弁当を開きました。お昼に食べたおかずとほとんど、というかまったく同じおかずでした。ただご飯だけが普通の白米でした(上にじゃこを散らしてあった)。あと牛肉の煮たのがありました。

  箸に挟んだ煮たカボチャを見て、「デジャ・ヴュだな~」と思いました。結局、お昼に食べたのとほとんど同じおかずを黙々と「片づけて」いきました。最後に牛肉の煮たのを口に含んだ瞬間、お出汁の味がしました。味のない(と私には感じられる)牛肉をもぐもぐと食べながら、心の中で「もう勘弁してくれえ~!」と叫んでいました。

  同時に、私の脳裏にはある疑念が湧いてきました。嵐山のレストランといい、駅弁といい、これら観光客向けの「おばんざい」というものは、わざと激薄な味つけにしてあるのではないか?ということです。

  京都の地元の人は、もっと味のあるおかずを食べているのではないでしょうか。私が「おばんざい」には味がない、と感じたのは、決して私が東北出身であることだけが理由ではなかろう、と思います。

  それに、私は10数年前にも京都に行ったことがあり、嵐山にも行きました(そのときは天竜寺には行かなかった)。渡月橋のたもとにある料亭がありまして、そこは湯豆腐メインの料亭だったのですが、湯豆腐以外にも季節のお弁当を出していました。そのお弁当がたいそうおいしかったのです。

  今回は、お昼ご飯の予約をとってくれた人の手前もあって(←京都在住の人なので)、その料亭のことを言い出せませんでした。ですが、実はこの秋にも、もしかしたら京都に行くかもしれません。もしあの料亭がまだあるのなら、次こそリベンジしたいと思います。  
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よく見りゃ似てるこの踊り

  「ラ・バヤデール」第二幕、ニキヤが花籠を両手で持ち、爪先立ちで床を細かく突くような素早いステップを踏む踊りと、「安来節」。

  ニキヤが風呂敷を頭にかぶって、また鼻の穴と唇の間に割り箸を挟めば、更にそっくりだろうと思います。
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よく見りゃ似てるこの二人

  セルゲイ・フィーリン(ボリショイ・バレエ)とロジャー・フェデラー(プロテニス選手)。
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サイトを更新しました

  サイト本体の「雑記」に、新国立劇場バレエ「ラ・バヤデール」(牧阿佐美版)のあらすじ&感想を掲載しました。私が観たのは2008年5月18、20日の2公演で、ニキヤをスヴェトラーナ・ザハロワ、ソロルをデニス・マトヴィエンコ、ガムザッティを西川貴子が踊りました。

  左上の「ホームに戻る」から跳ぶことができます。どうぞご一読下さいませ~

  話は変わって、私はこの土日、京都に行ってました。土曜日早朝の東海道新幹線「のぞみ」で京都に行き、日曜日の夕方の「のぞみ」で東京に帰ってまいりました。

  品川-京都間はたった2時間ちょっとでした。便利になりましたね。

  京都に行ったのは10数年ぶりで、それなりに街が大きく変化していて驚きました。今回は仕事絡みで行きましたので、観光は嵐山だけでした。渡月橋の近辺がすごく変わっていて、以前に行ったことのある、渡月橋のたもとにあったおいしい料亭が見つかりませんでした(泣)。

  詳しくはまた後日に書きますね(さすがに今日はヘトヘトです~)。
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「シンデレラ」だってえ~!?

  クーパー君の公式サイトで、彼がこの秋にレスターのCurve Theatreのこけら落とし公演で監督・振付する演目の概要が紹介されていました。

  案の定、それはミュージカルですが、しかし題名は“Simply Cinderella”となっています。おなじみのシンデレラの話をミュージカル化するらしいです。

  公演期間はべらぼうに長く、なんと2008年12月4日から2009年1月24日までということです。早くも客足の心配をするわたくし・・・(「雨に唄えば」レスター公演の客足は、そんなによいとはいえなかったからね)。

  クーパー君の公式サイトによれば、非常に残念なことに、彼は“not performing in”(出演しない)そうです。作曲と作詞はGrant Olding、脚本はToby Daviesで、監督と振付がアダム・クーパーというわけです。

  「シンデレラ」というと、マシュー・ボーンが1997年に作った「シンデレラ」が思い浮かびますが、ボーンがプロコフィエフの音楽を用いたのに対して、クーパー君が監督・振付する「シンデレラ」は別の人の音楽を使用するのですね。しかもセリフも歌もある。

  「ゾロ」の宣伝を兼ねたインタビューで、彼は「今はトップ・シークレットの、今年の後半にある大きな仕事」について述べておりましたが、たぶんこの“Simply Cinderella”のことだったんでしょう。

  今夏に予定されている「ゾロ」ウエスト・エンド公演に出ない以上、クーパー君の今年の仕事は、この“Simply Cinderella”の監督と振付だけなんでしょうか。だとすれば非常に残念です。・・・てか、なんだかすっかり脱力してしまったよ。ここまで見事に期待を裏切られると、もう言葉も出ない。

  12月は飛行機代が安い(ロンドン直行便往復で6~7万円、今はもう少し高いだろうけど)から、お金に余裕があれば観に行ってもいいけどね。クーパー君が出演しないのなら、レスターで“Simply Cinderella”の昼公演を1、2回だけ観て、あとは舞台興行が目白押しの、12月のロンドンを主に楽しむっていう手もある。

  とはいえ、クーパー君が今年はもう舞台に出ないのだとすれば、本当にがっかりです。やっぱり、もうそろそろ「潮時」なのだろうか。
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クーパー君新情報

  クーパー君の公式サイトに、彼がレスターにある The Curve Theatre でのオープニング・ショウの監督と振付を、劇場の芸術監督であるポール・ケリソン(Paul Kerryson)から依頼された、というニュースが載っていました。

  “the new Curve Theatre”っていうのは、たぶん昔のレスター・ヘイマーケット劇場だと思います。レスター・ヘイマーケット劇場が入っていた大きなビルを全面改装するに際して、劇場も改装したので、劇場の名前も新しくしたのでしょう。クーパー君は、その新劇場での最初のショウの監督と振付を頼まれたらしいです。

  ポール・ケリソンっていうのは、クーパー君が振付・主演した「オン・ユア・トウズ」と「雨に唄えば」を監督した人だよね?

  その「最初のショウ」の詳細が決定したら、クーパー君の公式サイトで引き続き知らせる、と書いてあります。The Curve Theatre は今年の秋にオープンするらしいです。そうすると、ショウもそのころに行なわれるということでしょうか。

  重要なのは、クーパー君が監督と振付をするということよりも、クーパー君自身がそのショウに出演するのか否か、ということです。クーパー君が出演するのなら私は観に行くと思いますが、彼が出演しないのなら行きません。私はパフォーマーとしてのアダム・クーパーには大いに関心がありますが、振付家としての彼には大して興味がありませんし、またそんなに高く評価もしていませんから(←「ゾロ」のトラウマで言葉がついキツくなってしまう)。

  旧レスター・ヘイマーケット劇場で行なわれるショウですから、たぶんコマーシャル・ダンス・ショウの可能性が高いです。でも、もしクーパー君自身が出演してくれて、ショウの中身もバレエの要素が入っていたら、ものすごく嬉しいのですけれど。
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四川の地震(4)

  地震から4日目の木曜日になって、ようやく都江堰以外の地域に内外のメディアが入って取材を始めた。ただ、震源地である汶川は山岳地帯にあるせいだろう、政府が撮影した上空からの映像しか流していなかった。それにしても、あれはひどい。おそらく村落があったであろう山が崩れて川をせき止め、そのために川は増水して泥水の湖のようになっている。切り落とされたように崩れた道路の下を、泥水が激しい勢いで流れている。

  朝のニュースでは、中国政府が国内の各メディアに対して、崩れた建物の生き埋めになった被害者を救出した瞬間などの「感動的な」シーンを中心に報道せよ、という指示を下したことを『人民日報』が報じた、と言っていた。中国のメディア規制を非難するネタにしようとしたらしいが、私の感想はちょっと違った。

  メディアによる報道については、日本人と中国人の考え方には異なる点がある。日本人は「報道の自由」とやらを尊重し、日本ではメディアによる自由な報道が許されている、と信じている。一方、中国人の中には、メディアはそれを報道することによって社会に利益をもたらすか、それとも不利益をもたらすか、というあらゆる可能性を勘案した上で、報道すべきは報道し、報道すべきでないことは報道しないほうがよい、と考えている人がけっこういる。

  中国政府が上のような指示を中国国内の各メディアに出した目的は、中国政府に不都合なニュースを報道させたくない、ということではなく、国民に不安を与え、デマの素を作り出し、中国全土をパニック状態に陥れる可能性のあるショッキングなニュースばかりを報道するのではなく、国民に希望を与えるようなニュースを中心に報道させよう、ということだったのではないか。

  大体、この指示の目的がメディアの自由な報道を規制することにあるのなら、政府がそんな指示を出したということを、なぜ中国政府の機関紙である『人民日報』がわざわざ報ずるのか。そう思っていたら、夜のニュースでは、日本のマスコミはほとんどこの件には触れなくなっていた。

  話は戻って、木曜日の職場でのこと。お昼の休み時間、中国人の同僚が日本の各新聞を自分の横に積み重ねて、次々と読みあさっている。私も一紙を取り上げて読んだ。衝撃的な記事があった。地震のせいで都江堰の一部が壊れたというのだ。

  都江堰は市の名前だが、これはこの街の郊外にある人工灌漑施設、都江堰に由来している。この街には岷江という大きな川が流れており、水量が豊かで流れも激しく、頻繁に水害をもたらした。そのため、今から2000年前の漢代、この川の真ん中に大きな人工中州が建設された。中州があることによって岷江の流れは二分され、一方は農業用水として平野に流れ込むようにして、もう一方は普通の川として流れるようにした。

  都江堰は中国の歴代王朝によって間断なく管理され、補修・強化・増築が加えられてきた。都江堰は大きな船のような形をしていて、岷江の流れを遡るような格好になっている。私は岷江という川とともに、この都江堰が大好きなのである。

  干潮のときは、都江堰の船尾(?)から対岸の間に一本の道のような砂地の川底が姿を現わし、徒歩で行き来できるようになる。私はこの雄大という言葉がぴったりくる岷江の真ん中をはだしで歩いた。岷江の水は澄んでいて、中国の川といえば、黄河であれ長江であれ、泥水しか流れていないと思っていた私は驚いた。都江堰によって二分された、私の両脇を流れる川の水はよどみなく速く、あふれんばかりに豊かな量の水からは強くて優しい生命力のようなものが感じられた。

  中華人民共和国になって、都江堰の大がかりな補修工事が行なわれたとき、都江堰の船首(?)の基底部から、5メートルばかりの高さの大きな石像が発掘された。「李氷」と刻まれており、漢代に都江堰の工事を主導して成功に導いた李氷の石像であることが分かった。李氷が自身の石像を作らせて、岷江の激流が最初にぶつかる都江堰の船首部分に、守り神のように自分の石像を埋めさせたのか、それとも後代の人が李氷にあやかり、この石像を作ってお守り代わりに埋めたのか、どちらかは分からない。

  豊かな生命力にあふれる澄んだ岷江に圧倒され、2000年も前の古人の祈りがしのばれて、私は都江堰がすっかり気に入った。

  その都江堰の一部が損壊したという。折しも朝のニュースで、外国人旅行客が撮影した地震発生時の都江堰の様子が放映された。岷江は映っていなかった。都江堰一帯は青城山も含めて非常に広い大きな公園のようになっているから、都江堰のどこを映したのかは分からなかった。

  都江堰の両岸には廟や店がたくさんある。あの廟や店はどうなったのだろう。連鎖して、成都のことも思い出されてきた。成都は野菜が新鮮でおいしくて、魚は丸々と太っていておいしくて、本場の麻婆豆腐もおいしくて、漢民族はもちろん、チベット族や回族やいろんな民族がいて、とてもいいところだった。まさしく肥沃な土地という感じだった。

  まったく知らない土地で起きた地震だったら気にならないだろうが、行ったことがあるばかりに、一種の「つながり」のようなものを感じてしまう。最初のショックや恐ろしいという感覚に代わって、悲しみのような感情が浮かんできた。
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四川の地震(3)

  朝のテレビ・ニュースはやはり都江堰の被害状況ばかりを報道していた。

  職場でまたいろいろな人と話した。成都にいる友人(日本人)と電話で話したという人がいた。その人の話によれば、成都の揺れはそんなにひどくなかったそうだ。日本でいえば震度3くらいの揺れではないか、ということだった。だから成都の被害はそんなに大きくなかったらしい。

  でも、テレビのニュースでは、成都の人民広場に野宿する人々の姿が映し出されていた。あれはどういうことだろう。

  今、中国の都市は不動産バブルである。次々と高層マンション群が建てられている。企業や機関ごとにその職員が居住するマンション群を建設するために、おのずと収入による居住地域の区別化が進んでいる。早い話が、富裕層の住むマンション群が、コロニーを形づくって郊外を主として点在しており、貧困層は昔ながらの下町にある古い団地に住む、という状況になっている。

  中国では10年ほど前に建築物の耐震基準に関する法律が施行されたが、厳密に守られているとは素人目に見てもまったく思えなかった。30階建ての高層ビルがたったの2、3ヶ月で建ってしまう。ちゃんと基柱を地底に打ち込んでいるのか、柱に鉄筋は入っているのか、疑わしく思えてしまう。冗談だろうが、中国のほとんどのビルの「鉄筋」は、実は竹の棒だ、と聞いたことがある。

  成都でテント生活をしている人々は、おそらく貧困層に属する人々なのだろうと思う。彼らが住んでいたのはたぶん古くて脆い建物で、震度3程度の揺れにも堪えられなかったのだろう。

  結局のところ、私が知りえた地震に関する「情報」とは、多少の地震が起きても被害を受けないような階層の人々を通じてのものなのだ。現に彼らはつつがなく、平常と変わらない生活を送っているという。彼らにとって、地震はまるで別世界で起きた他人事のようなのかもしれない(もちろん、会社や機関ごとに存在する共産党の委員会の指導によって、募金活動が行なわれ、寄付金が集められているはずだが)。

  1976年にも中国は大地震に見舞われている。河北省の唐山を震源とする地震で、20万人の死者が出たといわれている。当時、北京にいた中国人に聞いてみたら、唐山大地震のときは北京も大きく揺れたという。76年、その中国人は大学生で、学生宿舎に居住していた。地震が起きたのは真夜中だった。驚いた学生たちは建物から寝巻き姿のままで外に飛び出した。

  「中国人は地震に慣れていない。地震に関する知識もない。私もワケも分からず、とにかく自分の部屋があった3階から階段を駆け下りて外に出た。建物が密集しているところでは、外に出るのは逆に危険だということは、日本に来てはじめて知った。だけど、今回の地震のように、中国では地震が起きたとき、屋外に出ても危険だが、屋内にいればもっと危険だ。」 この中国人も、中国の建物が地震に対していかに脆いかを言っていた。

  帰宅して夜のテレビ・ニュースを観た。地震発生後3日目にして、ようやく震源地の汶川、震源地に近い綿竹、綿陽、北川の映像が流れ始めた。汶川の映像は人民解放軍のヘリか、中国の国営放送のヘリが上空から撮影したものらしかった。海外のメディアは山岳地帯にある汶川には、さすがにまだたどりつけていないらしい。だが、綿竹、綿陽、北川などの都市から、日本のメディアが中継していた。

  当局が許可すれば、海外のメディアはいずれ汶川にも入るかもしれない。これらの中小規模の都市以外にも、村、鎮、庄などの小さな行政区域が点在している。これらの地域の状況はどうなっているのだろう。考えれば考えるほど恐ろしくなってきた。
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四川の地震(2)

  翌日の火曜日(13日)、朝のテレビ・ニュースを観た。震源地からこれまた数10キロの都江堰で学校や病院が倒壊し、多数の死者が出ているということだった。

  職場で中国人と四川の大地震について話した。私が「都江堰で建物が倒壊して、たくさんの人が閉じ込められた(被困了)そうですね」と言うと、その中国人は早くも核心をついたことを言った。

  「手抜き工事のせいです。行政は腐敗していて、政治家や役人は業者と結託して工事にかかる費用を横取りします。また、工人は現地の人ではなく、外地からの出稼ぎ者がほとんどです。彼らは安いお金でこき使われます。安い賃金でこき使われ、また彼らが建てるのは彼らのための建物ではありません。ですから自分の仕事に責任を持ちません。それで手抜き工事(豆腐渣工程)になってしまうのです。」

  私はまた言った。「今回は中国政府の動きが迅速です。解放軍もすぐに現地入りして救助活動を行なっています。3月のチベット暴動での悪印象を除こうというつもりでしょうか。」 中国人は答えた。「それだけではありません。政府は地震で難民となった人々が暴徒化するのを恐れているのです。チベット暴動のような騒ぎがまた起こるのを警戒しています。」

  帰宅してから、またテレビやインターネットでニュースをチェックし続けた。どのメディアも、都江堰の被害状況ばかりを報じていた。奇妙に思った。確かに都江堰は震源地に近く、また中規模の都市であるために、高いビルや大きな建築物がそこそこ多いので、それらが倒壊して犠牲者や行方不明者がたくさん出ているのだろう。それに、都江堰は成都から車で1時間弱のところにある。高速道路をはじめとして、成都から何本も道路が通じている。それでメディアの取材が殺到しているのだろう。

  だが、震源地に近い他の地域、綿陽、綿竹、北川、そして震源地の汶川の被害状況がまったく報道されていない。おそらく、これらの地域への道路が寸断されているために、メディアは現地に入ることができていないに違いない。これから日が経って、これらの地域の状況が明らかになってくれば、被害者の数は更に大きく増えるだろうと思った。

  夜になって、また友人知人からのメールが回ってきた。意外なことに、成都は震源地からそんなに離れているというわけではないのに、ほとんど被害がないらしい。ただ成都は四川省の省都なので、都市の規模は大きいし人口も多い。市の中心部は大丈夫でも、郊外や周辺地域がどうかは分からない。
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四川の地震(1)

  月曜日(12日)の夜、中国の四川省で大きな地震が起きたらしいことをテレビのニュースで知った。そのときは、「中国は広いから、地域によって地震が起きたり起きなかったりするけど、四川省で起きるなんて珍しい」と思っただけだった。

  深夜に友人知人からのメールが回ってきた。震源地の汶川から数10キロ離れた綿竹からの知らせだった。綿竹とその周辺の地域だけで、すでに数千人の死者が出ているということだった。ここではじめて、これは大変なことになった、と愕然とした。

  被害の詳細はまだまったく分からない。でも、綿竹だけで数千人の死者ということは、他の地域でも同様の被害が出ているに違いない。死者は少なくとも1万人を越えるだろう、と思った。ゾッとした。
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森のささやき

  ゴールデン・ウィーク後半の4連休、私は秋田の実家に帰省しておりました。田舎者の自慢に過ぎませんが、東北の春は気候といい、風景といい、食べ物といい、すべてがすばらしく、私は5月の連休に帰省するのを毎年楽しみにしているのです。

  日ざしは暖かく、しかし暑くはなく、空は淡い水色をしており、すがすがしい爽やかな風が吹いています。4月の末に咲く桜を皮切りに、いろいろな花が一斉に咲き出します。春の遅い山奥ではあらゆる山菜が芽吹きます。

  私の郷里は海に面しています。私は以前は海が好きでした。特に、海に沈む夕日を眺めるのが大好きでした。まだ冷たい海の水に足を浸して、波が引くたびに足元の砂が一気に流される感触を楽しみながら、飽きもせず水平線の下にもぐり込んでいく夕日を見つめ、夕日が沈んだ後の美しい色の空と、沈んだ夕日の光を受けて輝く銀色の雲を眺めていました。

  ところが、私は最近、海にはさっぱり興味がなくなり、山のほうが好きになりました。帰省するたびに家族で出かけるのですが、家族はたまにしか帰らない私の希望を優先してくれます。そのときの質問は「海がいい?山がいい?」です。近年の私はもっぱら「山がいい」と答えるようになったのです。

  「前はあんなに海が好きだったのに、今は山のほうが好きなのねえ」と母に言われて、私もはじめて気づきました。

  もっとも、母や兄も山のほうが好きなのです。ようやく互いの嗜好が一致したわけで、これはめでたいことです。

  今回は八重桜と黄桜を見るという目的で山へ行きました。平地の桜はもう終わっていますが、山の桜はちょうど5月初めに盛りの時季を迎えるのです。黄桜というのは、白と黄色の中間色の花をつける桜のことです。遠くから見ると白に見えますが、近づいて花弁を見ると、かすかに黄色か黄緑がかっている白なのが分かります。

  そこは黄桜で有名な山の公園でした。黄桜や八重桜を植えて観光地にしたのです。折しも花は満開で、また連休真っ只中ですから、花を見に来た人々はもちろん他にも大勢いました。みな桜の下でお弁当を広げてにぎやかにおしゃべりしています。

  いちおう桜をバックに家族写真を撮りましたが、内緒の話、私はあんまり楽しくありませんでした。その公園の桜はすべて人の手で植えられたもので、桜の他にも野外ステージ、ゴルフ・コース、キャンプ場などが建設されていて、翌週には「桜祭り」が催されることになっており、露店や屋台が立って、歌謡ショーが行なわれるということです。

  帰り道、母が「ちょっと寄っていっていい?」と言いました。どこに寄るんだろ?と私が思っていると、母は「この近くにお母さんの『山菜の場所』があるのよ」と言い、それまで走っていた大きな道路から、山の中に通じている細い道路に入りました。

  その道路は車1台がかろうじて通れるくらいの幅しかありません。道の両脇は森です。木々に遮られて道に日は射しておらず、文字どおり鬱蒼とした暗い森の中の一本道を車は走っていきました。

  ところが、道の途中に杉の木が倒れていました。これでは前に進めません。そこで徒歩で母の「山菜の場所」に行くことになりました。私は「熊でも出るんじゃないか」と不安になりましたが、母は「今は暗いけど、この先にパッと開けている場所があるのよ。そこがお母さんの山菜採りの場所なの」と楽しげに言いました。

  つまり、母親は山菜採りがしたかったのです。母親は手袋、鎌、籠という「山菜採り3点セット」を装備して歩き出しました。私と兄も仕方なくその後に続きました。

  道は舗装されていませんでした。石が撒かれているとはいえ、歩くたびに足が泥にめりこむ感触がします。日が射さないので、雪融けの後も道が乾かないのでしょう。石の上に更に杉の葉が一面に敷きつめられていて、泥の水を吸い取るようになっていました。

  人影のない森は静かで、西日が木々の間から射し込み、木々が真っ直ぐで長い影を地面に作っています。その光景が妙にきれいでした。「返景 森林に入り」とはこういう風景なんだろうな、と思いました。

  それに、森はよい匂いがしました。水分を含んだ木々の香りです。ひんやりとして湿気を帯びており、吸うとあまりに気持ちいいので、思わず何度も深呼吸してしまいました。私が大自然の恩恵に浸っている間に、母親はずんずん前に進んでいきます。彼女の頭にあるのは山菜だけのようです。私は「元気なババアだぜ」と思いながら、「空山 人を見ず」と頭の中で吟じておりました。

  母の言ったとおり、パッと開けた場所に出ました。道の両脇が丘になっていて、そこに山菜が生えているようでした。母は早くもかがんで山菜採りに夢中になっています。しかし、母は怒りを含んだ声で言いました。「誰かが先にお母さんの場所を荒らしたわ!」 つまり、すでに山菜が採られた形跡があるらしいのです。

  母は自分のなわばりを荒らされたことに憤慨しつつ、それでも鎌を動かして山菜を採っていました。もちろん、ここは我が家の所有地ではありません。たぶん国有林でしょう。

  私も手伝おうと思い、何を採っているのか教えてもらいました。ぜんまい、わらび、さしぼ、タラの芽でした。私は早くも群生しているぜんまいを見つけ、「ほら、ここにぜんまいファミリーがいるよ~ん」と教えましたが、「それは『イガイガ』があるでしょ?食べられないぜんまいなのっ!」と叱られました。とんがった綿毛に包まれたぜんまいは食べられないらしいです。

  原始的狩猟本能むきだしで山菜採りに熱中しているババアは放っておくことにしました。私はあたりの風景を眺めました。森はシーンと静まり返り、ウグイスの声がたまにこだまするだけです。

  突然、ざざーっという音が聞こえて、丘の向こうの森が風に大きく揺れました。その音の心地よさを耳で味わっていると、森を揺らした爽やかな風がこちらに吹いてきました。それとともに、どこで咲いているのか、山桜の花びらが音もなく飄々と空を飛んでいきます。

  母親は黙々と山菜採りに励んでいます。私は風が吹くたびに揺れる森の木々のざわめきと、やがて吹いてくるそよ風、あたりを舞う山桜の花びらの中で呆けていました。「人外境」ってこういう場所のことだろうな、と思いながら。

  「よし、そろそろ帰ろうか」と母が言いました。「来年のために、全部は採らないのよ。少ないけど、これで我慢しよう。」 そう言う母が持っている大きくて深い籠の中は、山菜で溢れんばかりになっていました。

  私はもう少し森林浴を楽しみたかったのですが、仕方がありません。また泥でぬかるんだ道を歩いて、車まで戻りました。森の中の地面にところどころ白いものが見えます。よく見ると、それは黒ずんだ落ち葉の下に残っていた雪でした。日が射さないために、融けずにまだ残っていたのです。

  冷たく湿っているけどよい香りの森の空気を、未練がましく体内にチャージして、ようやく帰途につきました。

  家に帰ってから山菜の下ごしらえを手伝いました。ぜんまいは綿で覆われているため、その綿を取り払って、更に葉の部分を取り除きます。わらびはアクがあるので、炭酸を入れたお湯で煮ます。アク抜きをして茹で上がったわらびは、かすかに甘い味がしました。

  その晩、タラの芽は天ぷらにして、さしぼは茹でてマヨネーズをかけて食べました。ぜんまいは味噌汁の具になりました。子どものころは山菜などどこがおいしいのか、と思っていましたが、今はとてもおいしく感じます。私はまったく労力を使わなかったので、母に「とてもおいしゅうございます」と礼を言って食させて頂きました。 
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実家の庭

  よい香りを放つ薄紫のライラック、桃色の秋海棠、白い雪柳、緋色の木瓜、白と黄色の水仙、鮮やかな黄色やオレンジのマリーゴールド、青い桜草、白と淡い紫の芝桜、黄色、白、赤のチューリップ、紫の桔梗、白に淡い紅を刷いた沈丁花、黄緑がかった白い花水木、濃い紫のすみれ、紅の山つつじ、庭一面を覆う濃い緑の草、その中をぴょんぴょんと跳んで遊ぶ白い猫。
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