英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』メモ(3)

  6月28日(月)公演。

  ロミオ:エドワード・ワトソン

   熱演。特に、マキューシオの死への悲嘆から、ティボルトへの憎悪を募らせていく目の変化が凄かった。ホントに憎しみでギラギラしてた。
   パートナリングも完璧。特に寝室のパ・ド・ドゥの流麗さは息を呑むばかりだった。踊りのほうも、身体の柔軟性を生かした、また絶妙にためをきかせたポーズや動きが美しい。技術的には頼りないところもあるけれど、あれだけ踊れれば充分。

   ・・・ティアゴ・ソアレスがなんでロミオを踊ったのかいよいよ疑問。

  ジュリエット:リャーン・ベンジャミン

   ベテランらしい計算し尽くされた細緻な演技。踊りも完璧。しかし、計算された演技がいかにも計算された演技というのが分かって、今ひとつ素直に感動できない。踊りもマリアネラ・ヌニェスと似ている。質感や量感がなく表面的で、情感が感じられない。

   あと、意外だったことに、ベンジャミンは、パートナーであるワトソンの動きにかまわず、勝手に一人で踊ってしまうときがあった。第一幕でそれが甚だしかった。ワトソンがあわてて追いかけて合わせるという場面が見られた(振付がそうなのではなく)。

  ティボルト:ギャリー・エイヴィス

   今日もいい仕事してました。特に、マキューシオを背後から刺した後に、後悔の念と自らの卑怯さを恥じる思いをにじませている表情が印象的。あと、第二幕の幕が下りるまで、目を開けたまま死に続けてた。これも熱演賞。

  マキューシオ:蔵健太

   及川光博似で、かなりのイケメン。『マイヤーリング』のときは、「鹿鳴館」とか「文明開化」とか書いてごめんね。演技はさすがロイヤル仕込み。ティボルトをからかう演技や仕草が良かった。死ぬシーンも壮絶な迫力があった。踊りの技術はまだこれからといった感じだけど、ブライアン・マロニーよりはいい線いってたと思う。

  少なくとも1階席はほぼ満席のように見えたが、ロビーやトイレがいつもより空いていた。この日のチケットだけ余ってたみたいだし。終演後もカーテン・コールを待たずにさっさと帰る客が多かった。平日だからかな。ただ、私の隣に座っていた観客は、拍手もしないで席を立った。あれは明らかに舞台の出来に不満だったんだろうな。

  でも、今日はおそらくロンドンからの遠征観客隊と、ロイヤル・バレエの関係者が多数いて、カーテン・コールは彼らによるブラボー・コールの連発で盛り上がった。ジョナサン・コープとモニカ・メイスンを休憩時間に発見。コープはダーク・スーツをネクタイ無しで着ていて、すごくカッコよかった。 
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英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』メモ(2)

  6月27日(日)夜公演。

  ロミオ:スティーヴン・マックレー
  ジュリエット:吉田都

   第一幕の乱闘シーンでマックレーにアクシデント勃発。でも、幸いなことに大事に至らず、逆に非常に効果的な演出になった。あんなこともあるのね~。

   まだ明日に別キャストでの公演があることは承知しているし、その上でこんなことを書くのは非常識だということも分かっている。でも、あえて書きたい。

   マックレーのロミオと吉田都のジュリエットは、間違いなく今回の日本公演で最高のロミオとジュリエット。

  ベンヴォーリオ:セルゲイ・ポルーニン

   マキューシオ役のブライアン・マロニーより、マキューシオ役にふさわしかったんじゃ?

  ティボルト:トーマス・ホワイトヘッド

   まだまだ青いのう。ふぉっふぉっふぉっ。

  キャピュレット公:ギャリー・エイヴィス

   昼公演に続き、お疲れっす!昼公演の終演は4時過ぎ、夜公演は6時開演で、メイクの時間がなかったらしい。素顔で出演していた。結果、ちょいワル風ハンサム・パパに。

  マンドリン・ダンス(リーディング・ダンサー):ホセ・マルティン

   メイクはバカ殿だったけど、踊りは見事。

  娼婦(リーディング・ダンサー):ラウラ・モレーラ

   これぞベテランの貫禄と余裕。踊りは弾むような音楽に乗り、しかもなめらか。演技はやりたいほーだいだけど、しっかり場面に融け込んでいる。というより、場面をしっかりと構成している。

  NHKのカメラが入って収録していたので、いずれ放映されると思います。
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英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』メモ(1)

  6月27日(日)昼公演。

  ロミオ:ティアゴ・ソアレス

   別にプリンシパルでもいい。他の役をすばらしく踊れるのなら。でも、ロミオを踊れないのなら、ロミオ役にキャスティングするべきではない。身体のあの異常な硬さと技術のなさは不可解なほど。長いブランク明けとか?

  ジュリエット:マリアネラ・ヌニェス

   身体は柔らかいし、技術も言うことないんだけど・・・、なんか踊りは機械的で演技は薄っぺらい。表情が文字どおり喜怒哀楽の4種類しかない。

  マキューシオ:リカルド・セルヴェラ

   確かな踊りと演技で脇をきっちりと固めてくれた。彼のおかげで救われた。

  ティボルト:ギャリー・エイヴィス

   セルヴェラと同様、深い役作りで舞台を引き締めていた。

  キャピュレット夫人:エリザベス・マクゴリアン

   ティボルトを失っての狂乱の場が鬼気迫るほど凄まじかった。

  セルヴェラとエイヴィスのおかげで辛うじて救われたが、こんな舞台に2万円も払ったのかと思うと腹が立つ。

  ちなみに、ソアレスのアンダースタディとして待機していたのはエドワード・ワトソンらしい。終演後に楽屋口から出てきたところをファンに囲まれていた。  

  
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改めて英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』(2)

  全編を通して登場し、ある意味この作品の狂言回し的存在であるルドルフの御者、ブラットフィッシュはブライアン・マロニーが担当しました。第二幕、第三幕でのソロは、ともに動きが柔らかく弾むようでした。けっこう背が高くて肉付きもよいのに、あれだけ軽くぽんぽんと跳ねるように踊れるのはすごいです。

  第二幕の見せ場の一つであるミッツィー・ガスパール役のラウラ・モレーラは、思いもかけないすばらしさでした。まず、あのヘンな黒髪のヅラと仙台七夕のぼんぼりみたいな衣装が意外に似合ってる。次に、ソロでの動きが大きくてダイナミックで見ごたえがあった。そして、4人のハンガリー将校たちとのパ・ド・サンク(というのか?)が息を呑むほどすごく良かった。

  4人のハンガリー将校はセルゲイ・ポルーニン、アンドレイ・ウスペンスキー、蔵健太、トーマス・ホワイトヘッドでした。蔵健太は、やっぱり出てきた瞬間は「あ、鹿鳴館」でした。ベイ=ミドルトン役の平野亮一といい、どーもしょうゆ顔の日本人ダンサーがちょびヒゲつけると、どうしても文明開化になってしまうなあ。

  それはともかく、このハンガリー将校たちとミッツィ・ガスパールによる踊りが実に見事で、こんな複雑な振付を考えつくマクミランもマクミランだけど、こんな難しい踊りを切れ味良く、モタつきもせず踊っているこいつらもこいつらだなあ、と呆れ(見とれ)ました。

  ポルーニン、ウスペンスキー、蔵健太、ホワイトヘッドによる、組体操やチア・リーディングも顔負けな団体リフト&サポート(笑)が流れるようにすばらしかったです。危険なリフトやサポートをされながら、平気な顔して踊っていたモレーラもすごかった。4人の頭上に抱えあげられながら脚を前に振り上げるモレーラの姿が印象的で、あのパ・ド・サンクは第二幕の圧巻でした。

  多くの登場人物の中でも、エリーザベト皇后の姪であり、ルドルフの以前の愛人でもあるマリー・ラリッシュ役を担当したサラ・ラムは出色のすばらしさでした。踊りよりも演技が重要な役といえますが、かなり重いであろうドレスをまといながら、ルドルフと官能的な振りで踊るパ・ド・ドゥはどれもすばらしかったです(長くて厚いドレスの裾をぶんぶん振り回しながら回転してもブレない)。ルドルフとマリー・ラリッシュとの踊りは、エロティックというよりは母性的で、マリー・ラリッシュのルドルフに対する優しさのこもった愛情を感じさせました。愛人といっても、母親代わり的愛人だったのかも、と思いました。

  ラリッシュはマリー・ヴェッツェラとルドルフの間を取り持ちます。というより、ラリッシュはマリー・ヴェッツェラをわざとルドルフに近づけさせます。サラ・ラムの演技を見ているうちに、ルドルフの苦悩を理解しているのはマリー・ラリッシュだけであり、しかし彼女は自分ではルドルフを救えないと思い、それでマリー・ヴェッツェラを紹介して、ルドルフにマリー・ヴェッツェラとの愛の中に救いを見出させようとしたのだろうことが分かりました。

  しかし、ルドルフとマリー・ヴェッツェラは心中するという最悪な結末を迎えることになります。第二幕、マリー・ラリッシュはマリー・ヴェッツェラのために、ルドルフとの相性をカードで占ってやります。そのとき、ラリッシュはカードをこっそりと抜き取って隠し、結果を出すときに、隠し持っていたカードを再びこっそりと取り出して、マリー・ヴェッツェラに見せます。ルドルフは自分の運命の相手、とマリー・ヴェッツェラは狂喜し、夢想が狂気を帯びた妄想に暴走していきます。

  マリー・ラリッシュはもちろん、ルドルフとマリー・ヴェッツェラが心中することになるとは思っていません。しかし、ラリッシュは隠し持っていたカードを取り出すとき、みなに見えないように、舞台の前に出てきます。

  そのときのサラ・ラムの目が凄かったです。何かを決意したように目をかっと見開き、きっと前を見据えます。その姿は気迫を帯び、目には異様な鋭い光が宿っています。ラリッシュ自身は、マリー・ヴェッツェラとルドルフとを結びつける、最後の一押しをする決意をしたに過ぎないのですが、同時に、ラリッシュ自身が知らないままに、彼女はマリー・ヴェッツェラとルドルフの死という運命をこの瞬間に決めたのです。サラ・ラムの演技で、このシーンが決定的に重要なシーンだということが分かったし、それを観客に悟らせるように演技してみせるサラ・ラムは大したものだと思いました。

  マリー・ヴェッツェラを踊ったマーラ・ガレアッツィは、若さというエネルギーを妄想と死への憧憬とその実行に費やした、狂気じみた少女でした。愚かで浅薄ですが、ルドルフと初めて会ったとき、優位なのは自分なのだということを瞬時に見破り、ルドルフを翻弄します。また、ルドルフの死への執着が生への絶望なのに対し、マリーのそれは目的であり、髑髏とピストルを平気で弄び、それらでルドルフを無邪気にからかって脅します。

  死をまだ躊躇していたルドルフは、マリーの憧れる「甘美な死」という暴走する幻想に乗ってしまいます。第三幕でのルドルフは哀れの一言に尽きます。理解してくれる、愛してくれる人が誰もいないことに絶望し、体の痛みをモルヒネでごまかす。髪はボサボサ、顔は憔悴しきっている。ワトソンのやつれぶりはひたすら哀れでした。

  それを見たマリーは、ルドルフを優しく抱きしめます。オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子を救おうとする人間は、元は庶民出身の18歳の少女ただ一人だった。そのことがなおさら哀れで惨めです。

  マリーとルドルフは運命を共にする決意をします。それは死ぬことです。第三幕最後のマリーとルドルフのパ・ド・ドゥは凄絶ながらも痛々しかったです。これは一緒に死のう、という踊りです。ワトソンは荒い息を吐きながら踊っていましたし、ガレアッツィの柔らかい四肢と長い手足がルドルフの体に絡みつく様は、官能的というより鬼気迫る凄みがありました。

  最後、マリーとルドルフはピストルを一緒に握り、互いを睨みつけるようにして見つめあいます。ワトソンもガレアッツィも物凄い目つきをしていて、死を決意したのだと分かりました。そして、ついたての陰に一緒に入って行きます。銃声が響きます。

  カーテン・コールでは、登場人物のほぼすべてに大きな拍手と喝采が送られました。が、ルドルフ役のエドワード・ワトソンに対しては、爆発的な拍手が送られ、客席のあちこちからブラボー・コールと大きな歓声が起こりました。ワトソンが一人で出てくると、観客が立ち上がって拍手をし始めました。カーテン・コールでワトソンが出てくるたびに、立ち上がる観客は増えていきました。

  ワトソンは両手を広げてからお辞儀をしました。全力を出し切った充足感が伝わってきました。地味なプリンシパルから、悩みと努力と試行錯誤を経て、ここまですばらしいダンサーになったワトソン。私も心からの拍手を送りました。

  それから、今回の公演では演奏が非常にすばらしかったです(バリー・ワーズワース指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)。これは特筆しておかなければなりません。

  『マイヤーリング』は、アラを探せばいくらでも出てくる作品ではありますが、それでもつい惹きこまれてしまう魅力を持っています。私が感じたことには、観客のほとんどが、見どころのシーンでは息をつめ、ある観客は思わず前のめりになって舞台を見つめていました。

  私も終演後は魂を抜かれたようになりましたよ(笑)。退廃的な内容の作品にも、魔力のようなものがあるのでしょうね。 
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改めて英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』(1)

  この『マイヤーリング』という作品は、いくら実話に基づいた歴史物といえど、内容は非常に不健全、不健康です。

  人生に絶望して自暴自棄になった、しかも薬物中毒の30男が、現実と妄想との区別がまだつかない、愚かな10代の少女を道連れに自殺するという内容だからです。

  冒頭のシュテファニーとの結婚舞踏会では、主人公のルドルフ皇太子がおそらくは両親(フランツ=ヨーゼフ皇帝、エリーザベト皇后)に愛されなかったために、その性格が偏った、歪んだものになっていたことが早くも示されます。その後は、周囲の複雑な政治情況、人間関係、自身の健康問題のせいで、ルドルフが心身ともに徐々に追いつめられていく様を、これでもかとばかりにねちっこく描いていきます。

  個人的には、たとえ実在した人物(ルドルフ)の実際の悲劇をバレエ作品化したのだとしても、そしてたとえ劇中であっても、人をここまでいたぶっていいのか、と思います。

  ルドルフと心中するマリー・ヴェッツェラも、いうなればオーストリア版「八百屋お七」というか、夢見がちな少女というロマンティックなものではなく、異常な妄想癖を持つ少女です。18歳という年齢からすれば当たり前ですが、人格がまだ未熟で、現実と夢想を分けて考える冷静さを持っておらず、異常なことには、他人(ルドルフ)、また自分が死ぬということについて何とも思っていない。むしろ、未熟さと愚かさに由来する、死に対する憧憬すら抱いている。

  そういう異常な男女の心中話を、なぜわざわざバレエ作品にする必要があるのか、とさえ思います。

  内容の不健康さもさることながら、この『マイヤーリング』は脚本がよくありません。ルドルフが追いつめられていく過程を説明するシーンが多すぎて、その結果、物語の流れが断ち切られてしまっています。また、ルドルフが追いつめられていく過程説明の各シーンも、有効に働いているとはいえず、このシーンで何をいわんとしているのかが分かりませんでした。

  たとえば、頻繁に現れてルドルフに耳打ちする4人のハンガリー将校たち(第一幕)、ルドルフがミッツィー・ガスパールにピストルを突きつけて心中を迫るシーン、ミッツィー・ガスパールが実はターフェ首相のスパイだったことを示すシーン(第二幕)、皇室一家の狩猟で、ルドルフが猟銃を誤射してしまう事件、エリーザベト皇后が突然現れ、マリー・ラリッシュとルドルフの関係に激怒して、マリー・ラリッシュを平手打ちするシーン(第三幕)などはいずれも唐突で、これらのシーンが物語の進行にどういう役割を果たしているのかはもちろん、これらのシーンが何を示しているのかさえ分かりにくいです。

  こうしてみてみると、ほとんどが史実に基づいているエピソードとはいえ、説明的シーンを詰め込みすぎたために、逆に物語の流れが分かりにくくなってしまったのかもしれません。これらのシーンによって物語を進めようとした結果、反対にストーリーの流れがぎくしゃくしてしまうように思います。

  テーマと内容の不健康さ、脚本の不完全さのせいで、私は『マイヤーリング』をそれほど良い作品だとは思いません。しかし、それでもです。今回の公演にはずるずると引き込まれてしまいました。

  それはやはり、音楽(リストの音楽をジョン・ランチベリーが編曲)のすばらしさ、マクミランによる振付のすばらしさ、そしてダンサーたちのパフォーマンスのすばらしさのせいです。

  『マイヤーリング』は全体的にはあまり出来の良くない作品だと思いますが、見どころとなる各シーンの踊りはやはり優れています。

  見どころはたくさんありますが、第一幕でのルドルフ皇太子とルイーズ王女(シュテファニー皇太子妃の妹)とのパ・ド・ドゥからして、「おお、これは」と思わせるものがありました。ルドルフはエドワード・ワトソンで、ルイーズはロマニー・パジャクでした。ルドルフの強引な性格と、それに戸惑い、振り回され、しかし次第にルドルフに魅せられていくルイーズの心情の変化が、踊りで見事に表現されていました。

  ワトソンはパートナリングもいいですね~。リフトやサポートの動きで、ルドルフの歪んだ性格を表していました。でも、単に乱暴なだけではなく、音楽のツボをバッチリ押さえていて、ちゃんとコントロールしていることが分かりました。パジャクも同様で、姿勢や手足の動きに流麗なメリハリが利いていました。二人の踊りは危うい魅力に満ちていました。

  ワトソンは髪をサラサラにして印象がずいぶん爽やかになったし、身体もたくましくなりました。特に下半身にしっかり筋肉がついていて、スタイルも良くなりました。テクニック的にはまだ少し頼りないですが、驚いたのはワトソンの身体の異常な柔軟性です。ほとんど女性ダンサー並みに柔らかいです。しかもワトソンは手足(とくに脚)が長いので、身体をねじったり、脚を上げたりすると、それ自体が凄まじい雄弁な表現となり、「語る」ことができます。ソロでの踊りは凄い迫力でした。

  シュテファニー皇太子妃はイオーナ・ルーツで、心なしか妹(ルイーズ王女)役のロマニー・パジャクと顔がそっくりだったような・・・。シュテファニーは、夫のルドルフに徹底的にいたぶられる気の毒な役どころです。第一幕最後のパ・ド・ドゥでは、ひたすらびくびくおどおどした表情でかわいそうでした(髑髏と銃で脅されたんじゃ仕方ないよね)。

  夫が新妻を強姦するという残酷なパ・ド・ドゥが見どころというのもどーかな、と思わないでもないですが、それ以前に、ワトソンとルーツは、このパ・ド・ドゥをあまり良く踊れていなかったように思います。ワトソンのパートナリング、ルーツの踊りの双方ともにそんなに良くありませんでした。

  というか、あんなに速い音楽に合わせて、あんなに激しい振りの、難度の超高いパ・ド・ドゥを踊るなんて、並大抵のダンサーじゃ無理です。イレク・ムハメドフでも、シュテファニー役が代役のダンサーだったときには、注意深くそろそろと踊らざるを得なかったほどのパ・ド・ドゥです。

  第一幕と第二幕の冒頭にしか出てきませんが、イオーナ・ルーツのシュテファニーの役作りは良かったです。ひたすら凡庸な女性。夫の所業におびえるばかり。後に夫の歪んだ性格を知っても、その奥に何があるのかを理解しようとはまったく考えもしない女性。これではルドルフが妻を顧みず、マリー・ラリッシュやマリー・ヴェッツェラにすがりついたのも仕方ない、とよく分かりました。

  私の想像するものとは違いましたが、ルドルフの母親であるエリーザベト皇后役だったタラ=ブリギット・バフナニも良かったです。容貌については、なにせ実物のエリーザベト皇后があれほどの美人だったので、それに匹敵するダンサーを探すのは非常に難しいでしょう。容貌の如何はおいといて、公的な場所と夫のフランツ=ヨーゼフの前ではつんとすました冷たい無表情で通し、私的な場所と愛人のベイ=ミドルトンの前では素の顔になる、その落差が良かったです。

  バフナニのエリーザベトは、息子のルドルフばかりでなく、息子の嫁のシュテファニーにも冷たい態度をとっていたので、バフナニはたぶんエリーザベト皇后の伝記を読んでいるんじゃないかと思います。でも、エリーザベトのルドルフに対する、母であろうとして、でも母になりきれない葛藤を、第一幕のパ・ド・ドゥで表現してくれればもっとよかったかな、と思います。

  エリーザベトの愛人とされるベイ=ミドルトンは、なんと平野亮一が担当しました。最初に出てきたときは、明治天皇か大久保利通かと思ったよ。顔つきはしょうゆ顔だけど、彼は長身で脚が長くて、本当に日本人離れしてスタイルがいいよね。それに、女性のバフナニよりも顔が小さい。ターフェ首相をからかうミドルトンのとぼけた雰囲気はよく出ていたけど、エリーザベトとのパ・ド・ドゥは色気不足だったのが残念でした。

  フランツ=ヨーゼフ皇帝はギャリー・エイヴィスでした。あの細い顔をどうすんのかと思ってたら、もみ上げから顎にかけての大量なふさふさヒゲでうまく顔の輪郭を隠してました。結果、フランツ・ヨーゼフの晩年の実物写真にそっくりでした(笑)。ターフェ首相役のアラステア・マリオットもそれなりに似てました。

  フランツ=ヨーゼフの愛人であるカタリーナ・シュラットはフィオナ・キムでした。シュラット役はダンサーではなくオペラ歌手が担当し、第二幕で劇中歌を歌います。ピアノ独奏のみで歌うキムの歌声が会場に響きます。その間、ダンサーたちは座って歌を聴いています。会場も静まりかえっています。歌以外には、舞台の上にも、舞台の下にも何もないあの静けさは、歌の内容である死を、そしてルドルフのこれからの運命を感じさせました。

  でも、よく見ると、舞台の上でダンサーたちはきちんと演技していました。エリーザベト皇后役のバフナニは目を落として考えこみ、ルドルフ役のワトソンは、最初は呆然としていたのが、徐々に目の奥に何かを決意するような光が宿っていきます。マリー・ラリッシュ役のサラ・ラムは、そんなルドルフを心配げに時おり見つめます。

  『マイヤーリング』は登場人物が多いし、物語も複雑だから大変だわ~。続きは(2)で。 
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英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』

  24日(木)の公演を観ました。いやー、すばらしかった!!!

  『マイヤーリング』という作品そのものは、私はそんなに優れた作品だとは思わないのですが、演劇性に富んだ演目を得意とする英国ロイヤル・バレエ向きの作品だと思います。

  ルドルフ皇太子を担当したエドワード・ワトソンがとにかくすばらしかったです。テクニックの面では、カルロス・アコスタやヨハン・コボーには及ばないでしょうが、男性ダンサーにしては驚異的といえるあの柔軟な身体の動きそのもので、ルドルフの心情を雄弁に語り、表現していました。マクミランのあのひねくれた振付を踊るには、ワトソンの身体能力は適していると思います。

  ワトソンは役柄に没入・同化するタイプらしく、ルドルフの絶望、無力感、自暴自棄な心情などを、迫真の演技で表現していました。これは観る側にとっては、人によって好き嫌いの分かれるところでしょう。ただ、ワトソンは演技だけがすばらしいのではなく、上にも書いたように、柔軟な身体能力を生かした、身体そのものによる表現が非常に強烈な印象を与えます。これが演技と相まって、凄まじい迫力を醸しだしていたのです。

  カーテン・コールでは、ワトソンに対してスタンディング・オベーションが起こりました。確かにそれにふさわしいパフォーマンスでした。

  詳しくはまた後日。

  とにかく、ワトソン君、成功おめでとう!
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英国ロイヤル・バレエ日本公演始まる

  って、新聞の見出しか(笑)。

  私の予定は、今日から始まる『リーズの結婚』(フレデリック・アシュトン振付)は観に行きませんが、来週から再来週にかけて上演される『うたかたの恋(マイヤーリング)』、『ロミオとジュリエット』は観ます。

  特に、『ロミオとジュリエット』はなんと3回も観ます(あっ、引かないで~)。だから『リーズの結婚』はあきらめました(残念!)。なんで『ロミオとジュリエット』にこれほど粘着するのかというと、このマクミラン版が最も(というより唯一)好きだから、という理由ももちろんありますが、『ロミオとジュリエット』は、地元ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで観ることすらすでに難しいから、という理由もあります。

  『ロミオとジュリエット』は地元観客の最大人気演目なので、チケットがすぐに売り切れてしまって、良席どころか、桟敷席すら手に入れるのも至難の業なのです。そんな作品を日本に持ってきてくれるとは、これぞまさに好機、飽きるまで存分に観ておこう、と思ったわけです。

  さて、『リーズの結婚』については、キャスト変更がありましたね。明日の公演でリーズとコーラスを踊る予定だったサラ・ラムとイヴァン・プトロフが、それぞれラウラ・モレラとリカルド・セルヴェラに変更になりました。

  その理由を見てびっくり!モニカ・メイソンによるメッセージを日本語訳したものがNBSの公式サイトに載っています( こちら )。モニカ・メイソンによると、なんとイヴァン・プトロフが先ごろロイヤル・バレエを退団した、というのです。

  あわててBallet.coに飛んで、プトロフの退団について書かれてあるスレッドを探してみましたが、見つけることができませんでした。プトロフが最近の舞台を降板したことについて、地元のファンですら「奇妙だ」、「どういうこと?」などと不審がっていました。

  それどころか、NBSのブログに載っている『リーズの結婚』キャスト変更情報と、それに付随したプトロフの退団情報がさっそく向こうに伝わり、地元ファンを驚かせている始末です。

  ロイヤル・オペラ・ハウスの公式サイトには、プトロフはまだプリンシパル・ダンサーとして紹介されています。今年秋の『オネーギン』に出演予定とも書いてあります。

  ロイヤル・バレエが去年の6月10日付けで発表した、今シーズンをもって退団するファースト・ソリスト以上のダンサーは次のとおりです。

  吉田都
  ヴァチェスラフ・サモドゥーロフ
  佐々木陽平

  プトロフの名前はありません。メイスンが説明しているプトロフの退団理由などはお決まりの文句に過ぎません。Ballet.coに載っているプトロフについてのコメントを総合すると、やはり不遇が原因のようです。

  たぶんロイヤル・バレエの男性プリンシパルの中では、唯一のBL系美男子ダンサーだったのに。惜しいことです。

  なお、サラ・ラムも脚に怪我をしており、それで『リーズの結婚』への出演は見合わせるとのことです。でも、『マイヤーリング』には、今のところは当初のキャスティングどおり出演予定だそうです。
 
  ラムに代わってリーズを踊ることになったラウラ・モレラについては、私はよく知りません。一方、コーラスを踊ることになったリカルド・セルヴェラは、私は非常に良いダンサーだと思っています。彼はアクの強い役やキャラクター、コンテンポラリーを踊ることが多いようですが、顔立ちは意外に優しげでハンサム、そしてどんな踊りにも適応できる優れた能力を持っています。どんな踊りも自然なすばらしい動きで踊ってしまう、そういうダンサーだと思います。

  東京では現在、マシュー・ボーン版『スワンレイク』が上演されています。スコット・アンブラーが執事役で出演しているそうなので、一度くらいは観に行きたいのですが・・・。でも、キャストは当日、しかも開演の1~2時間前にツイッターで発表、というのでは、事前に予定を立てにくいのでちょっと不便です。

  また、先月から今月にかけては「バレエ出費」がかさみました。オーストラリア・バレエ団、ボリショイ&マリインスキー・バレエ合同ガラ公演です。今月末は更にレニングラード国立バレエのチケットを購入する予定です(ファルフ・ルジマトフがなんと『ジゼル』、『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』3演目に出演するのだ!)。

  というわけで今回は、ボーンのほうはちょっと無理かな~。来週から再来週は上に書いたとおり、ロイヤル・バレエで忙しいし。

  ボーン版『スワンレイク』は、今やすっかり1年365日、世界のどっかで必ずツアーをやっているメジャーなショウの位置に落ち着いたようなので、また次の機会があるでしょう。
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「マラーホフの贈り物 2010」Bプロ

  5月21日(金)の公演を観ました。記憶が早くも怪しくなっているので、覚えている、印象に残っていることだけ。

  第1部

  『カラヴァッジオ』より第一幕のパ・ド・ドゥ

  Aプロでは、マラーホフとレオナルド・ヤコヴィーナによる男性同士のパ・ド・ドゥが上演されましたが、これは男性(マラーホフ)と女性(ポリーナ・セミオノワ)のパ・ド・ドゥでした。

  また薄暗い照明の中に、最初はマラーホフが一人だけで踊ります。そのマラーホフの衣装は、また白パン一丁。といっても、包帯を腰に巻きつけたようなデザインのものでしたが。一人で踊っているマラーホフはすばらしかったです。腕の動きが波打つように美しく、その身体の柔軟性には驚かされました。

  ひょっとしたら、マラーホフが第3部の最後で踊った「ラクリモサ」と混同しているかもしれません。マラーホフが四つんばいになり、左脚を上げて左肩の上を乗り越えるようにして前に出す動きには仰天しました。

  途中からセミオノワが現れます。セミオノワも胸と腰だけを包帯で巻いたような衣装でした。マラーホフとセミオノワが一緒に絡まって踊り始めます。Aプロで上演された男性同士のパ・ド・ドゥと、振付や踊りの雰囲気が似ていました。蛇のように絡まるリフト、暗くてドロドロした感じ。特に面白いと感じたとか、目を奪われるとかいったこともありませんでした。

  「ディアナとアクティオン」

  ダンサーはヤーナ・サレンコ、ディヌ・タマズラカル。

  このBプロで興味深かったのは、クラシック、モダン、コンテンポラリーなど、多彩な振付を踊りこなす優れたダンサーたちが、プティパやワガノワによる振付の踊りでは、なぜか途端にぎこちなくなってしまう、という現象でした。

  Aプロですばらしい踊りを見せたタマズラカルは、このBプロでは功名心にはやってしまい、自身の技巧やダイナミックな踊りとやらを、押しつけがましく観客に見せつけることに走ってしまったかのようでした。Aプロでの観客の反応に、わるい意味で気を良くしてしまったのかしら。

  タマズラカルのアクティオンは、特にすばらしくも感じませんでした。もっとも、アクティオンの踊りに関しては、私は映像版(キーロフ・バレエ1992年ロンドン公演)のファルフ・ルジマトフの踊りが、脳内にインプリンティングされてしまっているので、どうしてもルジマトフと比べてしまいます。

  タマズラカルの踊りは完全に野卑に傾いており、ルジマトフの野性味に溢れながらも優美さを失わない踊りには程遠かったです。テクニックも到底ルジマトフには及びませんでした。女神(ディアナ)を崇拝する雰囲気もなく、ただ能天気にディアナを追いかけ回しているだけな感じでした。

  サレンコは、ヴァリエーションではあの難しい踊りを器用にこなしていました。しかし、アダージョではタマズラカルとタイミングが合わず、またコーダでは「テクニックに秀でた自分」を見せつけられるような振付に変えて踊っていたように覚えています。もしかしたら、こういう改訂振付ヴァージョンがあるのかもしれませんが、タマズラカルと同様、徒にテクニックのみを見せつけようとする姿勢は、私は好きではありません。

  私にはワガノワの振付の真髄など分かりませんけれど、サレンコとタマズラカルによる「ディアナとアクティオン」は、エンタテイメント性が強い「西側化した」踊りであって、本来のロシア的優美さが漂う踊りではなかったと思います。

  「カジミールの色」(マウロ・ビゴンゼッティ振付)

  踊ったのはエリサ・カリッロ・カブレラとミハイル・カニスキンで、以前にもまったく同じダンサーでこの作品を観たことがあります。イーゴリ・コルプのガラ公演でだったかな。

  以前と同じく、カブレラの柔軟でしなやかな身体能力と、空を切り裂くような鋭い手足の動き、カニスキンとの息の合った踊りに見とれました。複雑なリフトを息をつかせぬ速いスピードで展開していく踊りは凄まじい迫力に満ちていました。振付そのものがいいというよりは、ダンサーがいいんだと思います。あと、音楽の力(ショスタコーヴィチ)もあると思います。

  「モノ・リサ」(イツィク・ガリリ)

  ダンサーはマリア・アイシュヴァルト、マライン・ラドメイカー。

  ライトがずらりと並んだ照明装置が天井低く下ろされており、アイシュヴァルトは淡い茶色の短いワンピース、ラドメイカーも同色のTシャツを着ていました。

  振付はウィリアム・フォーサイスの90年代の作品みたいでした。「人間の身体能力の限界に挑戦」的な、オフ・バランスの動き、定位置から外れた姿勢、難しそうな複雑なリフトとサポートだらけの作品です。

  アイシュヴァルトとラドメイカーの息はぴったりで、アイシュヴァルトの流麗な動きと、やはり彼女の柔軟な身体能力に感嘆しました。

  ですが、このあたりから、「ディアナとアクティオン」以外は、なんだか似たような振付と雰囲気の作品ばっかでつまんないな、と正直なところ思いました。

  「瀕死の白鳥」(ミハイル・フォーキン振付)

  「瀕死の白鳥」といえば、マイヤ・プリセツカヤが踊っている映像と、ウリヤーナ・ロパートキナが生で踊ったものしか観たことがないので、どうしても比べてしまうのではないかと心配でした。

  しかし、ベアトリス・クノップの白いチュチュ姿を見て、まずは彼女の美しい体型に驚きました。筋肉質ではなく、細身ながらも女性的な優しい丸みを帯びた曲線的な体型で、上半身が短く、手足は細くて長いものの、やはり骨ばったり筋肉が盛り上がったりはしておらず、美しい形をしています。そして、何よりもクノップの優美な面差しと静かな表情が、まさに白鳥の雰囲気に合っていました。

  泣くほど感動はしませんでしたが(←主な原因は、感動する前に余計なことをしてくれたヤツがいたから)、細かい足と爪先の動き、美しくも哀しさを感じさせる両腕の羽ばたきがすばらしかったです。従容として静かに死にゆく白鳥、という感じでした。

  クノップが踊り終わって拍手しようとしたら、いきなりまた「瀕死の白鳥」の音楽が流れました。舞台が再び明るくなると、そこにいたのは白パン一丁のマラーホフ。

  「瀕死の白鳥」(マウロ・デ・キャンディア振付)

  これはマラーホフがAプロの最後で踊った新作の「瀕死の白鳥」です。振付などについてはAプロの感想をご覧下さい。

  Bプロの演目表にはないので、これは一種のサプライズなのかもしれません。また、マラーホフはAプロでは4演目を踊るのに、Bプロでは3演目しか(3演目でも大したものだと思うけど~)踊らないのでは不公平だ、とマラーホフ自身が考えたのかもしれません。更に、ほぼ100年前のフォーキンの「瀕死の白鳥」と、現代の振付家による「瀕死の白鳥」を並べて見せるのはナイスな試みだ、とマラーホフが思いついたのかもしれません。

  でも、はっきりいって不愉快でした。結果として、クノップの踊りをマラーホフが台無しにしたばかりか、マラーホフはクノップが受けてしかるべき賞賛を横取りし、マラーホフ自身を最も目立たせ、観客の拍手喝采を独り占めしたからです。

  マラーホフはクノップとともにカーテン・コールに現れましたが、最後には自分一人でカーテン・コールに現れ、観客の拍手喝采を受けていました。

  自分(だけ)演出が上手いなあ、でもマラーホフ本人に悪意はなく、それどころか善意マンマンなんだよなあ、そーいうのがいちばん厄介なんだよな、と思いました。でも、こういう人って、けっこう周りにいるよね。

  第2部

  『ラ・バヤデール』より第三幕「影の王国」

  ニキヤ:ポリーナ・セミオノワ、ソロル:ウラジーミル・マラーホフ、第1ヴァリエーション:ヤーナ・サレンコ、第2ヴァリエーション:乾友子(東京バレエ団)、第3ヴァリエーション:エリサ・カリッロ・カブレラ、影の群舞:東京バレエ団。

  当初の公演チラシでは、マリア・アイシュヴァルトも影のヴァリエーションを踊る、と書いてありましたが、さすがにそれは身体的にきついのでアイシュヴァルトが辞退したのか、乾友子さんに変更になりました。

  東京バレエ団が上演したナターリャ・マカロワ版『ラ・バヤデール』の評判が良かったようなので、東京バレエ団の影の群舞を観るのも楽しみにしていました。

  ところが、影の群舞が現れる山の坂のセットがショボいのなんの。坂は一段のみ。おまけに照明が妙に明るい。確か、東京バレエ団の『ジゼル』第二幕も照明がすごく明るかった覚えがあります。ショボいセット、明るすぎる照明、幻想性がまったく感じられません。

  影が坂を下りてくるシーンでもがっかりしました。特に、先頭にいたのは誰だったんでしょう。彼女のあの動きとポーズは、アラベスク・パンシェではないと思います。後ろに上げた片脚の膝が曲がっていて、足の甲もこちらを向いていませんでした。つまり、脚を開かないで、片脚を後ろに蹴り上げたようなポーズだったのです。

  群舞はよく揃っていました。ただし、揃っているといっても、軍隊的整然さでした。群舞のトゥ・シューズの音も、さながら軍事パレードにおける軍隊行進時の軍靴の音のようでした。東京バレエ団が上演した『ジゼル』のウィリの群舞もそうだったな、と思い出しました。足音がとにかくうるさかった。

  セミオノワとマラーホフのパ・ド・ドゥは、やはりマラーホフがセミオノワをリフトしたりサポートしたりする動きがぎこちなく、両人の身長差を考えるとやっぱちょっと無理だよなあ、と思いました。

  パ・ド・ドゥでは、振付に以前に観たものとは違ったところがありました。ソロルに手を取られたままニキヤが横っ飛びにジャンプするところが、ソロルがニキヤの腰を支えて持ち上げ、ニキヤがその瞬間に開脚する、というふうになっていました。マカロワ版ではそうなっているのでしょうが、なるほど、『ラ・バヤデール』も西側に出ると、ダンサーのレベルに合わせてか、振付が緩くなるのかな、と面白く思いました。

  コーダでソロルは舞台をジャンプしながら一周しますが、マラーホフはやりませんでした。だからマラーホフの踊りがどうだったのかはよく分かりません。セミオノワは技術的にはすばらしかったと思います。特に白いヴェールの踊りは完璧でした。

  ただ、ショボいセット、軍隊みたいな勇ましい影の軍部群舞、明るすぎる照明、ぎこちないパ・ド・ドゥ、ソロルのマネージュ省略で、観ている私は不完全燃焼でした。こんな「影の王国」なら上演してくれなくてもよかった、とさえ思いました。Aプロの「四季」に感じたことと同じでした。

  第1ヴァリエーションをヤーナ・サレンコが、第3ヴァリエーションをエリサ・カリッロ・カブレラが踊りました。興味深く感じたのは、他の演目ではあれほど自由自在に踊っていた彼女らが、影のヴァリエーションでは、ともに動きの硬い、ややぎこちない踊りになってしまっていたことでした。プティパの振付を自然に踊ってみせることがいかに難しいか、あらためて実感しました。

  第3部

  『ロミオとジュリエット』よりバルコニーのパ・ド・ドゥ(ジョン・クランコ振付)

  ダンサーはもちろんマリア・アイシュヴァルトとマライン・ラドメイカーです。バルコニーは、もちろんクランコ版のセット(クランコ版ではバルコニーが舞台奥を横断している)とは違い、舞台右奥に「部分バルコニー」がぽつんと置かれていました。が、アイシュヴァルトもラドメイカーもそのへんはうまくアレンジして対応していました(最初と最後)。

  『ロミオとジュリエット』は、私はやはりケネス・マクミラン版しか受け入れられない(笑)ので、いかにアイシュヴァルトとラドメイカーの踊りがすばらしくても、感情移入できませんでした。音楽を聴くと、どうしてもマクミラン版の振付が浮かんできてしまって、不合理なことだと自覚しているのですが、「そこはそう踊るんじゃないでしょ!」と歯がゆく思ってしまうのです。

  でも、アイシュヴァルトもラドメイカーもすばらしかったです。(←我ながら取ってつけたよーな・・・)

  『カラヴァッジオ』より第二幕のパ・ド・ドゥ

  ま~た『カラヴァッジオ』かよ、しかもま~た暗い照明、このぶんじゃ踊りも前の二つ(マラーホフとヤコヴィーナ、マラーホフとセミオノワが踊ったやつ)と同じっぽいな、と早くも嫌な予感。

  ダンサーはベアトリス・クノップ、レオナルド・ヤコヴィーナ。クノップは白っぽいレオタードだったような?ヤコヴィーナはマラーホフと踊ったときと同じ、薄いこげ茶色の膝丈のズボン。

  男女が絡んでのパ・ド・ドゥで、やっぱり前の二つと似たような踊りでした。ただ、クノップの、なんというのか、身体の異常なほどの柔らかさがかもし出す何かが印象的でした。

  ヤコヴィーナがクノップの身体を逆さにリフトし、クノップが両脚を開脚するところでは、クノップの白い両脚がゆらり、と闇の中で180度以上にも開き、それがなまめかしいというか、別の生き物みたいというか、私の周囲の観客も思わず「柔らかい!」とつぶやいたほどでした。

  『カラヴァッジオ』のパ・ド・ドゥの中では、クノップとヤコヴィーナによるこのパ・ド・ドゥが最も見ごたえがあったと思います。でも、今回上演された三つのパ・ド・ドゥはいずれも似たり寄ったりだったので、この作品が全幕物だと知り、退屈しそうだから絶対に観たくないな、と心から思いました。三つのパ・ド・ドゥだけでお腹いっぱいです。

  「レ・ブルジョワ」(ベン・ファン・コーウェンベルグ振付)

  ディヌ・タマズラカルによるソロです。音楽はジャック・ブレルのシャンソン。タマズラカルは白いシャツ、黒いネクタイ、黒いズボンという衣装ですが(サスペンダーもしてたような?)、ネクタイを緩め、シャツの胸をはだけ、シャツの裾がズボンからだらしなくはみ出している、といういでだち。

  酔っ払ったオヤジという設定のようで、体をふらつかせ、覚束ない足取りで踊ります。日本でいえば、若い頃にはマルクスやレーニンの本を読み、政治談議に耽り、学生運動に熱中していた青年が、今は加齢臭漂うオヤジとなって、新橋駅ガード下の安居酒屋で仕事や上司や部下についての愚痴をこぼしている、といったところでしょうか。

  タマズラカルのコミカルな酔っ払いの表情や仕草が面白かったです。振付は意外とアクロバティックで、ダイナミックな跳躍や回転が多いです。ただ、このBプロでのタマズラカルは、やはり「凄い技を見せてやる」的雰囲気に溢れており、ほら、ダニール・シムキンやレオニード・サラファーノフがやりたがる技、跳躍した瞬間に片脚を前でぐるん、と一回転させる技をやりました。でも、シムキンほどきれいではありませんでした。半端な出来の難度の高い技を自慢されてもな~、と思いました。

  「ファンファーレLX」(ダグラス・リー振付)

  振付はこれまたフォーサイスの90年代の作品みたいなコンテンポラリーでした。ダンサーはエリサ・カリッロ・カブレラとミハイル・カニスキン。カブレラもカニスキンも真っ赤なレオタード姿でした。この衣装がなんかビミョーというか、あまり趣味がよろしくないのではというか・・・。

  でも、カブレラとカニスキンの踊りは良かったです。カブレラの身体能力はやはり凄いですね。長い手足が動くと迫力満点です。

  「ラクリモーサ」(エドワード・スターリー振付)

  マラーホフのソロです。音楽はモーツァルトの『レクイエム』中のあれです。映画『アマデウス』にも出ていたように、モーツァルトはこの「ラクリモサ」を作曲している途中で死にました。

  マラーホフはやっぱりまた白パン一丁で、今回は「パン一率」が異常に高いですね。

  振付はクラシックをベースにしたモダンというか、モダン・バレエ的動きとクラシック・バレエの定型の技が交互に出てくるような感じでした。

  不思議なことに、私はこの「ラクリモーサ」でのマラーホフの踊りについて、あまり印象が残っていません。ただ、観ている途中で、痛々しさと禍々しさを感じたことは覚えています。だからあまり集中して見なかったのでしょう。

  何を踊るかは自由ですけれど、こういういわくつきの音楽と、それを踏まえたコンセプトの踊りに共鳴するのは、不健康なことだと思います。観ている私も嫌でしたけれど、マラーホフはこんな踊りに手を出すのはやめたほうがいいのではないか、と思いました。マラーホフ本人は真面目で純粋な人だと思うのでなおさらです。こんな作品にのめり込んではいけません。

  カーテン・コールでは、マラーホフは笑っていましたけれど、目の下には真っ黒な隈ができて、顔色も良くなかったように感じました。笑顔も心からのものとは思えませんでした。目が笑っていなかったからです。心身の調子が悪かったのに無理をしていたのではないか、と思います。

  次の公演では、美しく健康的な踊りと、またあの魅力的な明るい笑顔が見たいものです。
     
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小林紀子バレエ・シアター第96回公演『眠れる森の美女』(2)

  男性陣では、中尾充宏さんと冨川直樹さんが大活躍でした。中尾さんはリラの精のお付きの騎士、イングランドの王子(←マクミラン版では主にオーロラをリフト&サポートする)、長靴を履いた猫を踊りました。

  なんだかんだいって、中尾さんは頼りがいがあるよね(笑)。出てるとなんか安心する。長靴を履いた猫では猫の仮面をかぶっていたけど、仮面の下の顔が見えるようでした。仮面の下でもちゃんと演技してるなと分かります。

  萱嶋みゆきさんの白い猫とはいいコンビで、白い猫にちょっかいをかけ、脚をさわさわと撫でてはぴしゃっ、と白い猫にはねつけられる、その駆け引きが面白かったです。この小林紀子バレエ・シアターのいいところの一つは、ディヴェルティスマンのような、一見すると意味のあまりない踊りでも、ちゃんと演技して観客を楽しませてくれることですね。

  その究極の形が冨川直樹さんです。冨川さんは魔法の庭の精のお付きの騎士、インドの王子、狼を踊りました。中尾さんは舞台にいるだけで安心できますが、冨川さんは舞台にいるだけで笑えます。特にインドの王子は超笑えましたわ。でっかいターバン巻いてんの。冨川さんのあのとぼけた雰囲気によく似合って、それだけで大爆笑。そして、何気にちゃんと「インドの王子」の演技してるんですな。それが妙に笑える。

  狼と赤ずきんの踊りでは、冨川さんのエンターテイメント性が大全開でした。わざと大きな足音を立ててジャンプしては赤ずきんを怖がらせ、ぐわっと口まで大きく開けてました。ジャンプするときの姿勢も大仰でおかしかったです。赤ずきん役の宮澤芽実さんとのかけあいも面白かったです(特に赤ずきんにあっちにおいしいものがある、と騙されてそっちをしげしげと見るところ)。

  第三幕のゴールド、シルバー、ダイアモンドの踊りでは、ゴールドを踊った横関雄一郎さんが、去年よりもダントツに上手になっていて驚きました。ジャンプは高さがあるし、足元も崩れないし、踊り全体の動きが丁寧になりました。去年の公演では「ジャンプが高いだけのでくのぼう」とかひどい悪口を書いた気がします。ごめんなさい。今年は見違えました。

  青い鳥を踊った八幡顕光さんは、昨日よりも今日のほうが調子が良かった気がします。斜め横に高く跳ぶジャンプ、両足を細かく交差させる動きがすばらしく、最後にフロリナ王女を追って大きく跳躍して去るタイミングが、まさに私の求めるタイミング(舞台脇の幕の陰に姿が隠れる寸前)とバッチリで感動いたしました。

  さて、デジレ王子役でゲスト出演したロマン・ラツィック(ウィーン国立歌劇場バレエ団プリンシパル)。ぱっと見の印象は、背が高くて非常にスタイルが良い、ということです。腕と脚がとても長く、特に脚の形がきれいです。私の嫌いな、太もも前面にモッコリした筋肉がついているタイプじゃなくて、太ももがふくらはぎとほとんど変わらないくらい細い。かといって、下半身が異常に細いタイプでもなく、どの部位もほどよい肉づき。とにかく脚が超長くて形も良かったです。白タイツ穿いてあれほどバランスよく細いって珍しいかも。

  ラツィックが背が高い、と書きましたが、カーテン・コールで他のダンサーたちと比較確認したら、確かに180センチはあるだろうけど、190センチも2メートルもあるわけではないようです。背が高く見えるのは、これはラツィックの顔が小さいことによる錯覚らしいと結論しました。

  その小顔のラツィックのご容貌は、「あれ、この人、どっかで見たことあるよーな?」というくらいよくある一般的なお顔立ちでした。とりたててハンサムというほどではありません。でも、たいそう優しげな雰囲気の漂うお顔立ちで、王子にはぴったりと思われます。

  そうそう、第二幕でラツィックの王子が登場したときにね、つまり、それまでオール日本人キャストだったわけでしょ?その中に突然、背丈も体型も顔立ちも日本人とはぜんぜん違う毛唐(←すみません)が現れて、舞台の中であまりに激しく浮きまくりだったので笑っちゃったよ。マンガによくある、いきなり外人が出てきて、「HELLO, HAHAHA!」と挨拶するコマみたいで(ちなみにラツィックはスロヴァキアの出身らしい)。

  ラツィックは踊りもなかなか良かったです。すごく丁寧で端正。ガツガツ、セカセカしていなくて、鷹揚で余裕がある感じでした。「オレ様の凄い踊りを見せてやる」的雰囲気は皆無です。テクニックも安定していましたが、全体的に抑え目で品が良い。ポーズも非常にきれいで、特に半爪先立ちで両足を前後に着けて立った姿には目を奪うものがありました。半爪先立ちも高くて、土踏まずからかかとまでがほとんど床と90度。

  小林紀子バレエ・シアターに客演してきた外国からのゲストたち、たとえばヨハン・コボー、そして(あくまで現在の)デヴィッド・ホールバーグ、ロバート・テューズリーには及ばないと思いますが、エドワード・ワトソンとはいい勝負かも・・・いや、ワトソンには勝ってるかも。いずれにせよ、ラツィックは踊りも雰囲気も非常に好感の持てるダンサーでした。

  そうだ、第二幕で一人っきりになった王子が踊るソロがあるでしょう。あれはやっぱりマクミランによる改訂振付じゃないでしょうか。さっき、英国ロイヤル・バレエの映像版(アンソニー・ダウエル版)で確かめたら、やはり違っています。マクミラン版の王子のソロは、足技と回転の複合技が多く(←かなり複雑で難しそう)、更に同じ動きを左右逆方向にくり返すことが多いです。

  オーロラ姫は、5日は高橋怜子さん、今日は島添亮子さんが踊りました。高橋さんは、どうも去年よりもひどくなっていたような・・・。去年はあんなに不安定ではなかった気がします。今回は踊れているかいないか以前に、男性ダンサーによるサポート付きであっても、アラベスクやアティチュードで立っていることが相当辛かったらしく、軸足が常に震えていました。

  高橋さんが「ポスト島添」的位置にいるらしいことは分かりますが、正直なところ、オーロラは、今の高橋さんには能力的に無理じゃないのかな、と思いました。高橋さんが良くないダンサーだ、というわけでは決してありません。ただ、オーロラは、外国の有名バレエ団のプリマが踊ってもスベることがあるほど難しい役です。そういう役を無理に踊らせることはないのではないか、と思います。

  というのは、島添亮子さんは、去年よりも今年のほうが更にすばらしくなっていたからです。スタミナも万全で、途中で力尽きるということもありませんでした。島添さんはあのとおり小柄で華奢ですが、実は物凄い筋力の持ち主のようです。バランスを保持する力、ポーズをとっての静止、回転、跳躍、今年はどれをとっても完璧でした。去年から更に練習を重ねてきたのはもちろんでしょうが、生来の強靭な身体能力があってこそ実を結んだのだろうと思うわけです。

  そして、島添さんの豊かな音楽性ある踊りは、何にも勝る魅力だと思います。第三幕のグラン・パ・ド・ドゥは本当にすばらしかったです。腕や脚を動かす緩急の付け方やタイミングが、思わずため息をついてのけぞってしまうほど見事でした。余裕があるというのか、充分にためを置いて丁寧に踊ります。しかも、その動きのすべてが音楽にうまく合っているのです。

  グラン・パ・ド・ドゥのコーダで、王子役のラツィックが思わず素になった瞬間。コーダの最後で、オーロラ姫が王子に腰を支えられて回転をくり返すでしょう。そのときの島添さんが物凄かった。どこにそんな余力があるんですか、と聞きたくなるほどの目にもとまらぬ超速回転(しかも途中でいったん静止してまた回転する)をやってのけ、ラツィックがあわてているのが分かりました。あれですよ、「ヴィクトリア・テリョーシキナの超速回転にサポートの手が追いつかないウラジーミル・シクリャローフ」状態になったのです(分かりにくい喩えですみません)。

  これぞプリマの底力というか、島添さんはこれからもまだまだ進化していくんだろうなあ、と思わされた光景でした。てかマジで、あんなに速く回転できる女性ダンサーは稀有だと思いますよ。

  カーテン・コールでは、ラツィックが島添さんの手をぐっとつかんで引き寄せ、むちゅ~、とキスをしました。前の日にはなかったことです。儀礼的なものかもしれませんけれど、日本にもこんなすばらしいプリマがいたことに感動しての行為だと思いたいですね。

  東京ニューフィルハーモニック管弦楽団の演奏も良かったです。それから、指揮者のアラン・バーカーが超超超キュートなおじいちゃんでした 私の近くに座っていた女子観客たちも悶えていたぜ。私もバレエを観に来て指揮者でなごんでしまったのははじめてだよ。

  第一幕の後の休憩時間には、ほとんどの版で割愛されている(このマクミラン版でも削除されている)『眠れる森の美女』間奏曲がヴァイオリンのソロで演奏されました。よい試みです。この間奏曲は、レニングラード国立バレエ団の『眠れる森の美女』では、オーケストラの伴奏付きできちんと演奏されます。幕間、薄暗闇の中でこの間奏曲を聴くのもいいものですよ~。

  マイムも間奏曲も完備されていて、かつ衣装や踊りがベタな『眠れる森の美女』があるといいのになあ。 
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小林紀子バレエ・シアター第96回公演『眠れる森の美女』(1)

  昨日(5日)と今日の公演を観てきました。日ごとに感想を書くと時間がかかるので、まとめて書いてしまいます。結果、ダンサー同士を比較してしまうことにもなるかと思いますが、その点はご容赦下さい。みんな一生懸命に踊っているのは、もちろん分かっているんですよ。

  去年に引き続いてのケネス・マクミラン版です。初演は1986年、アメリカン・バレエ・シアターによって行なわれ、現在はイングリッシュ・ナショナル・バレエも上演しているそうです。

  美術は、衣装デザインはニコラス・ジョージアディス(←『ロミオとジュリエット』、『マノン』、『マイヤーリンク』など)で、装置デザインはピーター・ファーマー(←『真夏の夜の夢』、『三人姉妹』など)という鉄壁コンビ。

  振付、演出、美術すべてが、これぞベタでベーシックな『眠れる森の美女』という感じで、保守的すぎるほど古典的なおとぎ話です。カラボスが空を飛びまくったり、場所設定が東南アジアの熱帯雨林のどこかだったりする、現在流行の「新演出」などとはまったく無縁。登場人物の全員が、まるでトランプの絵柄か、絵本から抜け出てきたかのようです。奇をてらっただけの、中途半端な「新演出」だの「改訂演出」だのが大嫌いな私にはうってつけです。

  旧ソ連圏の『眠れる森の美女』ではほとんど削除されているクラシック・マイムも保存されています。これらのマイムが観られるのも、このマクミラン版では大きな楽しみです。マイムを見ていると、本当に話を交わしているみたいで面白いです。

  フロレスタン王役の本多実男さんは、去年は2着1万円の背広着て山手線に乗ってそうなただのオヤジだったのが、今年は演技に面白みが出ていた気がしました。王様らしい威厳ある表情、愛娘にめっぽう弱い父親の、鼻の下を伸ばした表情が良かったです。

  特に笑えたのが、王宮前の広場で編み物をしていた女たちに対して、あっさりと「殺せ!」と首を切るマイムをした後、王妃に懇願され、これまたあっさりと「ぢゃ、許してやろ!」と女たちを解き放ってやるマイムをするときの飄々とした演技でした。客席からも笑いが起こっていました。

  カタラビュット(式典長)役の井口裕之さんは、去年もコミカルな名演技を見せてくれたのですが、今年は更にパワーアップしていました。まず、メイクが美川憲一でした。このままガマーシュ役とかもできそうです。

  井口さんの演技もお笑い度が増していました。お堅い役職の割には、お調子者であわて者でうかつで、しかも優しい感じが出ていて、しっかりと存在感がありました。編み物をしていた女たちから編み針を取り上げて、それをあわてて王と王妃に見えないように隠す仕草が笑えました。怒り狂うカラボスを前にして、本多さんのフロレスタン王と深沢祥子さんの王妃が一緒になって、井口さんのカタラビュットに責任をなすりつけるシーンも面白かったです。

  去年以上にパワーアップしているどころか、この舞台で最強の演技と存在感を発揮していたのが、楠元郁子さんのカラボスです。見た目が黒いドレスを着たてんてん眉毛のエリザベスI世みたいに超強烈な上に、表情は憎々しく(笑)、また、表情、仕草、マイムが音楽と連動していて、その演技の実に巧みで雄弁なこと!オーロラに呪いをかけてあざ笑うシーンは非常に見ごたえがありました。懇願する妖精たちの踊りをクネクネとマネしてから、激しくどつく演技も見ものでした。

  5日にリラの精を踊った喜入依里さんは、演技、踊りともに頼りなく、演技ではカラボスの楠元さんに完全に食われていたし、踊りも不安定でした。こんなにひ弱で威厳のカケラもないリラの精に、なぜカラボスが負けるのか不思議でした。バレエ団の人材育成のためのキャスティングだったのかな。

  今日の公演でリラの精を踊ったのは大森結城さんでした。待ってました、という感じで安心して見ていられました。長身でポワントで立つと迫力があり、常に優しい穏やかな表情を浮かべながらも、カラボスに対しては厳しい表情になって、毅然とした態度でカラボスに対峙します。演技も踊りも凛としていて、リラの精はこうでなくては、と思いました。

  萱嶋みゆきさんは森の草地の精(プロローグ)、伯爵夫人(第二幕)、白い猫(第三幕)を踊りました。萱嶋さんは伸び盛りなのでしょうか。踊りがとても丁寧で安定していました。白い猫はもう当たり役ですね。コケットな仕草と表情が堂に入っていました。

  王子に思いを寄せているらしい伯爵夫人の演技も良かったです。さりげない体で王子に秋波を送り、王子にやんわりと拒まれた後、顔をやや上向けた権高な表情でさっさと歩きながら、去り際にちらりと王子を見て、それから乗馬用の鞭を苛立たしげにぴゅっ、と振る仕草が「わっ、この女プライド超高!」という感じでナイスでした。

  小野絢子さんは、5日はフロリナ王女、今日は魔法の庭の精を踊りました。小林紀子バレエ・シアターの団員というよりは、新国立劇場バレエ団の主役級ダンサーというほうが分かりやすい小野さんですが、やはり新国立の舞台で場数を踏んだ、そして主役を何度も張った経験がそうさせるのか、はっきりいって別格のすばらしさでした。

  出てくると思わず注意が向いてしまう輝きを持ち、落ち着いた微笑みを浮かべている表情は観ている側に安心感を与えます。そして、なんといっても踊り方が他の女性ダンサーたちとはまったく違いました。両腕の動きはしなやかで、見せ方を心得ているというか、緩急とメリハリを巧みにつけた両腕の動きが美しかったです。足や脚の動きもすばらしく、テクニック的に安定しているのに加えて、常に余裕を持って、充分にためを置いていました。それに、超美人です。

  私が個人的に応援している大和雅美さんも同様にすばらしかったです。大和さんは黄金の蔓草の精とダイアモンドを踊りました。どちらのヴァリエーションも見事でした。彼女はきっと音感の良い人なのでしょうね。小野さんと同じく、両腕の動きは角度的にもきれいだったし、また音楽のツボをきちんと押さえていました。

  鳴く小鳥の精を踊った志村美江子さんも、一歩間違うと阿波踊りになりかねないあのヴァリエーションをきれいに踊りました。私はあの踊りを見ると、あまりにおバカな振付に噴き出しそうになるのが常なのですが、志村さんの両腕の羽ばたきと両足の細かい動きが小気味良くて、今回ばかりは噴き出しそうになりませんでした。ほんとに鳥みたいで、なんとなくハチドリを連想しました。
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