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☆以下の記事にはネタバレが含まれています。これからご覧になる予定の方はご注意下さい。
『雨に唄えば(Singin' in the Rain)』(於パレス・シアター、ロンドン)
脚本:ベティ・コムデン、アドルフ・グリーン
作詞:アーサー・フリード
作曲:ナシオ・ハーブ・ブラウン
原作:映画『雨に唄えば』(Metro-Goldwyn-Mayer社製作、1952年公開)
振付:アンドリュー・ライト
監督:ジョナサン・チャーチ
ドン・ロックウッド(人気映画俳優):アダム・クーパー
コズモ・ブラウン(音楽スタッフ、ドンの親友):ダニエル・クロスリー
キャシー・セルドン(無名の新人女優):スカーレット・ストラーレン
リナ・ラモント(人気映画女優):キャサリン・キングスリー
R.F. シンプソン(映画会社社長):マイケル・ブランドン
デクスター(映画監督):ピーター・フォーブス
ミス・ディンズモア(言語教師)/ドーラ・ベイリー(映画評論家):サンドラ・ディキンソン
テノール歌手(劇中ミュージカル・レビュー"Beautiful Girls")/言語教師:デヴィッド・ルーカス
オルガ(映画女優)/ブロードウェイ・バレエ・ガール(映画のシド・チャリシー扮する「グリーン・ドレスの女」に当たる):エボニー・モリーナ
ロッド(監督助手):ブレンダン・カル
ゼルダ(映画女優、リナの友人):ナンシー・ウェイ・ジョージ
公演会場のパレス・シアターは有名な劇場ですが、『地球の歩き方』によれば、創建当時(19世紀末)は「ロイヤル・イングリッシュ・オペラ・ハウス」というご大層な名前で、その名のとおりオペラが上演されてたんだって。どおりであの立派な外観なわけだ。
次にはコンサート・ホールとなり、更にミュージカル専用ホールとなって現在に至るそうです。内部はロンドンの劇場特有の、狭い通路が迷路みたいに入り組んだ構造になっていて、そこを通って客席に入ります。内部の装飾は歴史を感じさせるゴージャスなもので、植物の紋様の木彫、ブルーグレーを基調としたシックな色合いの塗装、金色のシャンデリアと美しい。
客席はおなじみの馬蹄形で、なんと4階までありました。2階から4階のセンター席は1階の半ばまで張り出しています。
舞台もやはり天井が異様に高く、日本の劇場やコンサート・ホールの舞台が横に長い長方形気味なのに対して、縦に長い長方形をしています。また、もともとオペラの上演を目的に作られたことによるのか、このパレス・シアターの客席は、傾斜がかなり急であるようです。
私は毎回、かなり前方の席で観劇しましたが、前の席に大柄な男性が座っていても、その頭で舞台が見えないということがありませんでした(一方、ロイヤル・オペラ・ハウスの1階席は傾斜がかなり緩く、前の客の頭や肩〔!〕で視界がさえぎられることがけっこうある)。
ただし、1階席の奥、2階席が張り出しているエリアの席は、ひょっとしたら2階席のせいで舞台の天井が見えないかもしれません。もっとも、この『雨に唄えば』の場合は、たとえ天井が見えなくとも、せいぜいオーケストラが見えない(後述)くらいで、さして大きな支障はないと思いますが。
以前、天井を目いっぱい使ったアクションもののミュージカルを、2階の真下の1階席で観たことがあります。けっこうなお値段だったのに、天井がまるで見えず、肝心のアクションをさっぱり楽しめなかったので、それ以来、1階後方の席は買わないようにしています。
前の記事ですでに書いたように、今回の舞台は客席に向かって張り出しています。また客席に面した全方位に階段が取り付けられてあり、客席との間を隔てるものがないどころか、客席と直につながっています。最前列の席と舞台との距離は1メートル程度でしょう。更に、キャストは舞台に取り付けられた階段に下りてきたりします。そうなると文字どおり目の前でパフォーマンスが行なわれることになります。迫力満点です。
舞台の横と奥には、板チョコ状の大きな白い木の壁があるだけです。映画撮影所の大型スタジオという設定のようです。あとは場面に応じて、セットや小道具が出てきたり、奥に幕が下りたりします。ただ、そんなにお金をかけているようには見えません。装置や衣装は総じてポップな感じでした。
舞台は周囲の縁が一段高くなっていて、その内側が盆地のように低くなっている構造です。よく見ると、縁の内側の床面は平坦ではなく、微妙に傾斜があるようでした。なんでそういう構造なのか、第一幕の最後で大いに納得、感心しました。床の材質は木に見えるのですが、ただの木ではないと思います。水を吸い込まない加工が施されているか、そもそも木ではないのかもしれません。
オーケストラは、なんと舞台奥の上にいます。舞台奥の天井ぎりぎり近くがシースルーになっていて、楽器を持った奏者たちと指揮者の姿が透けて見えます。舞台の床下にオーケストラ・ピットがあるのは見たことがありますが、舞台の天井にオーケストラがいるのは初めて見ました。演奏は大きなアンプ(←超高音質)を通して聞こえてきます。
舞台右端の天井部分には、鉄製の小型バルコニーが取り付けられています。扉が付いていて、天井のオーケストラ・ピットに繋がっているようです。この扉とバルコニーは、ただ一場面、しかもわずか数十秒足らずのシーンのためだけに取り付けられたものです。
というわけで、さして大きな面積を持つわけでないにも関わらず、舞台はごちゃごちゃとしたセットがなく、天井が高く、床が白く、また客席ぎりぎりまで舞台を延長してあるので、広くて高く、明るくすっきりした印象でした。
開演前のアナウンスが面白くて、毎回微妙に違っていました。「なんでも録音や録画は厳禁されているそうですから、スイッチは切っちゃって下さいね!」とか、雨の天気の日には、「今日、外はあいにくの雨です。でもご安心下さい!ここはもっとどしゃ降りになります!」とかね。
映画撮影所のスタッフとおぼしき青年が一人、舞台上に現れました。彼は天井を見上げ、目を細めて嬉しそうにほほ笑むと、壁に取り付けられているレバーをガチッと勢いよく下ろしました。
その瞬間、舞台が明るくなり、"Singin' in the Rain"のメロディーが大きく鳴り響きました。開演です。
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『大地の歌』(振付:ケネス・マクミラン、音楽:グスタフ・マーラー)(続き其の2)
ずっと鳴っていた時計のアラーム音らしい電子音は、第6曲に入ると聞こえなくなりました。第6曲のあたりでちょうど30分ですから、アラーム機能が切れたのでしょう。
第6曲は、主にマリアネラ・ヌニェス、ベネット・ガートサイド、カルロス・アコスタ3人の踊りとなります。
面白いことに、この第6曲では、青年であり、また生命の象徴であったはずのガートサイドも、死の使者であるアコスタと同じように、目を隠す仮面を着けているのです。これで、生と死との違いや境目が曖昧になりました。まるで、生もまた死であるかのようです。
アコスタとガートサイドは重なり合い、交互に入れ替わってヌニェスをサポート/リフトし、ヌニェスは彼らに翻弄されながら、複雑な動きで踊ります。第6曲の振付は、あえて分類するなら「クラシック」なのでしょうが、しかし今までに見たこともない、クラシックなどという単純な枠を超越した、不可思議な魅力と凄まじい吸引力を持つ動きでした。
なんと形容すればいいのか、うまい表現が見つかりません。しいていえば、第6曲の振付は、マクミランの小品「ソリテイル」に雰囲気が少し似ています。しかし、「ソリテイル」とは比べものにならないほど深遠で、もうほとんど哲学的といっていい振付です。
決して難解なのではありません。難解どころか、マーラーがこの曲を通じて表現している思いを、舞踊の形で視覚化したかのようです。音楽と舞踊とが一体化し、またマーラーの思いにマクミランが共鳴して、両者の思いが増幅して伝わってくるみたいでした。
マクミランが『大地の歌』をバレエ作品化したのは、まさにこの第6曲に振り付けたかったためでしょう。第1~5曲の振付がさして優れているわけでないのにも関わらず、マクミランの『大地の歌』がいまだにロイヤル・バレエのレパートリーから外されていないのは、この第6曲の振付の圧倒的なすばらしさが理由だと思われます。
第6曲を通じて伝わってくる、マーラーとマクミランの思考感情とは何なのか、私は適切に表現できません。でも、脳ミソに確かに伝わってきたのです。ヌニェスの踊りを通じて。
ぜひとも記しておかなければならないのは、マリアネラ・ヌニェスのパフォーマンスのすばらしさです。
ヌニェスは、生と死に翻弄される人間の脆さ、永遠の自然の中で有限の時間を生きる人間の儚さ、しかし有限の生を従容として受け入れ、思い悩みながらも、迷いながらも、苦しみながらも、この世に一人佇む人間の弱さの中にある強さを、全身の動きで表現していました。
ヌニェスの表情も強く印象に残っています。目に悲愴な色を浮かべて、まっすぐ前を見つめながら、戸惑い、悩み、迷い、苦しみ、悲しむ表情です。
この第6曲の中盤で、歌唱の入らない部分が長くあります。その中に、絶望がこれでもか、これでもかとばかりに畳みかけてくる部分があり、私はこの部分の演奏を聞くと、たまらない気持ちになります。
このとき、ヌニェスの悲愴な表情と、ヌニェスの全身から発散されていた気迫の凄まじさは、尋常なものではなかったです。ほとんど憑依状態、神がかり的だったというのがしっくりきます。
ヌニェスのことは、私は今までただの技術屋としか思っていませんでした。ヌニェスがあれほどの表現力を持っていたことに驚愕し、そして感動しました。
マーラーの音楽を通じたマーラーの思いにマクミランが共鳴し、マーラーとマクミランの思いにヌニェスが更に共鳴して、3重の波となって押し寄せてきたとでもいうのでしょうか。
あれほどのパフォーマンスは、いくら頭で、理屈で、この作品を理解しているダンサーであっても、到底できるものではないと思います。
キャスト表には、ヌニェスが先だって近しい人を亡くし、今回のパフォーマンスを故人に捧げる旨のことが書かれていました。私のヌニェスに対する印象は、多分にそれに影響されていたのは確かです。
しかし、このことを知らなかったとしても、私はヌニェスのパフォーマンスをすばらしいと感じたろうとも思うし、あの公演でのヌニェスが特殊な状態にあったのもまた確かだと思います。
前の記事に書いた、この作品がパフォーマンスとして成功するための一つの偶然とは、この作品を踊るダンサーが、たまたまこの作品に共鳴するような特定の状況に置かれているということです。それは、死を身近に感じているという状況です。
第6曲が終わって終演を迎えた瞬間、先般までの静けさがうそだったかのように、会場は凄まじい拍手と歓声に包まれました。カーテン・コールに出たヌニェスは両手を顔に当て、半ば放心した、脱力しきった表情で涙を流していました。
今回のヌニェスのパフォーマンスは名演といえると思います。しかし、彼女が再びこの作品を踊るとしても、必ずしも同じようにすばらしいものになるとは限りません。今回の彼女のパフォーマンスは、偶然がもたらしたものだと思うのです。
そのほうがいいのです。こうした作品に過度に没入してはいけません。魂を削るようなものですから。マーラーもマクミランも、理由は知りませんが、死というものにとらわれ過ぎたのじゃないかな。それが彼らの数々の名作を生み出したのだけれども。
観るほうも同様で、私は『大地の歌』を思い出すと気分が滅入ってきます。すばらしいパフォーマンスを観られたことはラッキーでしたが、後を引かないように気をつけないといけないな、と思います。(こんなに長々書いたこと自体、『大地の歌』がいかに危険な作品なのか分かりますね。)
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『大地の歌』(振付:ケネス・マクミラン、音楽:グスタフ・マーラー)(続き)
マクミランの振付は、第1曲から第5曲までは、凡庸どころか、まったくひどい、惨憺たる出来で、あんな滑稽でつまらない振付を大真面目に踊っているダンサーたちが気の毒になるくらいでした。
加えて、演奏も良くなかったです。『大地の歌』は、第1曲の出だしが肝心ですよね?金管楽器の切り裂くような、あの鋭い響きをわくわくどきどき
と期待していたら、指揮者のバリー・ワーズワースがタクトを振り上げた瞬間出てきたのは、
ぺぽ~♪
という、なんともマヌケな音。まるで迫力ナッシン。
私は思わず椅子からズリ落ちそうになりましたが、私の隣の観客も出だしの2音を聴いた瞬間、クスリ、と失笑していました。
ワーズワースの指揮に問題があるのか、奏者の技量不足なのか、オーケストラの編成が『大地の歌』の本来に合ったものではなかったのか、理由は分かりません。でも、今回はバレエの伴奏なのだから、と割り切ったとしても、あれはあんまりです。
演奏はもちろんロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団です。だってさ、ロイヤル・オペラなら、普段はワーグナーとかしょっちゅうやってんじゃん。そのオーケストラが、なんであんな演奏なわけ?
下手というわけではないのです。そうじゃなくて、あまりにお上品、おしとやか、おとなしすぎるのです。
しかし、歌手のKatharine GoeldnerとTom Randleは非常にすばらしかったです。もちろん原語で歌われるので、プログラムには歌詞の英語対訳が掲載されています。
第1曲では、カルロス・アコスタをはじめとする男性ダンサーたちが出てきて踊りました。見ていると、アコスタ一人が明らかに突出している、別格なのが分かります。
アコスタが今いくつなのかは知りませんが、アコスタやヨハン・コボーがいなくなったら、ロイヤル・バレエの男性ダンサーたちの中に目ぼしい人材はいなくなるよなあ、スティーヴン・マックレーはまだ貫禄が足りないし、また外から誰かヘッドハンティングすんのかな、どーすんのかな、とカンケーないことばっかり考えてました。振付があまりにつまんないので。
だんだん気分が盛り下がってきて、早くホテルに戻って寝たい、早く終われ、と念じていました。
そんなわたくしに福音が。
前の『真夏の夜の夢』の最中に、右側の客席から電子音が聞こえてきました。あれと同じカン高い「ピー、ピー」という音が、またしても右側の客席から聞こえてきたのです。しかも、今度は一度だけではありませんでした。鳴り止んだかと思ったらまた聞こえてきて、しかもだんだん音が大きくなってくるようでした。目覚まし時計みたいに。
ということは、携帯電話やスマートフォンの着信音ではなくて、時計のアラーム音だったんだろうと思います。それにしても、なぜ鳴り止まないのか?持ち主はなぜ気づかないのか?と不思議に思っていると、他の観客たちも右側を向いて、音が聞こえてくる方角をしきりに気にし始めました。
申し訳ないけど、どうせバレエとしてはつまんない作品だし、演奏にも期待できそうにないし、こういうアクシデントのほうがいっそ面白いや、と私は思いました。
ロイヤル・オペラ・ハウスの1階席の周囲をぐるりと馬蹄形に取り囲むようにして、Stalls Circleという席があります。その電子音は、どうやらStalls Circleの右端の席から聞こえてくるようでした。
音は相変わらずピーピー鳴っています。高い音なので、静かな演奏のときはもちろん、激しい演奏のときにも、音楽の頭上を飛び越えて聞こえてくるのです。一部の観客たちは明らかに苛立っています。
すると、Stalls Circleの一番右端の奥の扉が開き、ロイヤル・オペラ・ハウスのスタッフとおぼしき2人の男女が現れました。席に座っている観客たちをのぞきこむように見やり、電子音の発生源を探しています。
私はその様子を見ながら、先だって見たニュースを思い出しました。確かニューヨークで、演奏会の最中に携帯電話の着信音が鳴り続けたため、指揮者が演奏を中断して、観客を直接注意したという話です。そのときに上演されていたのは、なんとやはりマーラーの『大地の歌』で、しかも第6曲の終盤、あの静かな演奏の部分だったということです。
着信音を鳴らし続けた観客は高齢の男性で、本人は自分の携帯が鳴っていることに気づいていなかったんだそうです。
高い音は、お年寄りには聞こえにくいものなのだそうです。この公演でアラーム音を鳴らしっぱなしにしたのも、ひょっとしたら高齢の観客だったのかもしれません。スタッフたちは結局、誰が音を鳴らしているのが突き止められなかったようです。やがて去ってしまいました。
うーん、この電子音が鳴りっぱなしのまま第6曲に入るのなら、ニューヨークで起こったのと同じことがロンドンでも起こることになるな、どうなることやら、と本来の趣旨を外れて興味津々でした。
第4曲に入りました。この曲には楽しみな部分があります。馬に乗った若者たちが娘たちの前を疾駆して通り過ぎる場面です。しかし、出だしがあんなに間が抜けていたのだから、この聞きどころにもまったく期待はできないだろうと早々にあきらめました。
また、この曲の最初は蓮を摘む娘たちの姿を描写しています。舞台には女性ダンサーたちが現れて、いかにも中国風(?)な仕草の振付を踊っていました。
こんな振付では、たぶん馬に乗った若者たちが現れる部分では、男性の群舞が出てきて踊るんだろうな、と思っていたら、本当に男性群舞が現れて踊りやがりました。しかも馬に乗ってるっぽい奇妙なポーズと動きをしています。中腰になって、両手を手綱をつかむように前に差し出して、両足を揃えてぴょんぴょん跳ぶのです。観客が笑い声を上げました。
ひょっとしたら、マクミランはウケを狙って、わざとこんな振付をしたのかもしれません。
もうだみだ、寝落ちする、早く終わってくれ、と思っているうちに、最後の第6曲に入りました。
この第6曲で、それまでの白けた気分が一変することになったのです。
(4に続くことになった。良い公演だと思わなかったけど、良い公演だったのかな?)
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『大地の歌』(振付:ケネス・マクミラン、音楽:グスタフ・マーラー)
メゾ・ソプラノ:Katharine Goeldner
テノール:トム・ランドル
The Messenger of Death:カルロス・アコスタ
First Song:
Nehemiah Kish、
アレクサンダー・キャンベル、リカルド・セルヴェラ、
ベネット・ガートサイド、平野亮一、蔵 健太
Second Song:
マリアネラ・ヌニェス、
サラ・ラム、ローレン・カスバートソン、サマンサ・レイン、
平野亮一、
アレクサンダー・キャンベル、リカルド・セルヴェラ、ベネット・ガートサイド
Third Song:
サラ・ラム
リャーン・コープ、イオナ・ルーツ
エマ・マグワイア、ロマニー・パジャク
Tristan Dyer、ブライアン・マロニー、
Michael Stojko、ジェームズ・ウィルキー
Fourth Song:
ローレン・カスバートソン、
ディアドリ・チャップマン、サマンサ・レイン、
リャーン・コープ、イオナ・ルーツ、
エマ・マグワイア、ロマニー・パジャク
リカルド・セルヴェラ、
アレクサンダー・キャンベル、Tristan Dyer、
蔵 健太、ブライアン・マロニー、
Michael Stojko、ジェームズ・ウィルキー
Fifth Song:
Nehemiah Kish、
リカルド・セルヴェラ、ベネット・ガートサイド
Sixth Song:
マリアネラ・ヌニェス、Nehemiah Kish、
サラ・ラム、ローレン・カスバートソン、
サマンサ・レイン、ディアドリ・チャップマン、
平野亮一、リカルド・セルヴェラ、
ベネット・ガートサイド、アレクサンダー・キャンベル、
リャーン・コープ、イオナ・ルーツ、
エマ・マグワイア、ロマニー・パジャク、
Tristan Dyer、ブライアン・マロニー、
Michael Stojko、ジェームズ・ウィルキー
この作品は初見です。
題名が“Song of the Earth”となっているので、最初はマーラーの『大地の歌』だと分からず、『地球の歌』=人類の行き過ぎた科学文明、自然破壊や環境汚染に警鐘を鳴らす類のエコロジー・バレエ(笑)なのかと思ってました。
「音楽:グスタフ・マーラー」というのを見てはじめて、『地球の歌』じゃなくて『大地の歌』であることに気づきました。でも、まさか全曲をやるとは思ってもみませんでした。本当に『大地の歌』の全曲に振り付けられています。従って上演時間は1時間強。
キャストについて補足説明しますと、この中で主役的な存在らしいのが、カルロス・アコスタ、ベネット・ガートサイド、マリアネラ・ヌニェスの3人です。
カルロス・アコスタは黒い薄いTシャツにタイツで、目を隠す仮面を着けています。ベネット・ガートサイドは真っ白な薄いTシャツにタイツ、マリアネラ・ヌニェスも白いミニスカートの袖なしワンピースを着ています。他のキャストの衣装は淡いグレーのTシャツにタイツ(男性)と同色のワンピース(女性)でした。舞台装置やセットはまったくありません。
アコスタの役には「死の使者」という名が付されています。一方、役名はありませんが、ガートサイドの役は若者、また「生」の象徴であるようでした。ヌニェスの役は少女、また「人間」の象徴だったようです。
歌手2人は、自分の出番のたびに舞台の脇に出てきて歌います。第6曲「告別」では歌のない部分が長くありますが、歌手はその間は引っ込んで、また歌が始まるときに出てきました。
ダンサーたちは入れ替わり立ち替わり現れて踊ります。第6曲はほとんどアコスタ、ガートサイド、ヌニェス3人による踊りでした。
『地球の歌』ではなく『大地の歌』となると、エコロジーなんぞではなく、生と死、特に死を主題にした作品となるはずです。
マーラーの『大地の歌』そのものが、うろ覚えですが、いわくつきの作品であったと読んだことがあります。この作品は、本来はマーラーの“交響曲第9番”に当たるそうです。しかし、マーラーはこの作品を『交響曲第9番』ではなく、あえて『交響曲 大地の歌』と名づけ、番号を付しませんでした。
マーラーはこの作品を作っていた当時、自身の健康に不安を感じており、名だたる作曲家の先人たちがみな『交響曲第9番』を最後に死んでいることから、自分も9番目の交響曲に当たるこの作品を作り終えたら死ぬのではないか、と恐れていたというのです。
だから、不吉を回避するために、この作品を『大地の歌』とだけ名づけ、『交響曲第9番 大地の歌』とはしなかったということです。
しかし、当時、健康状態が良くなかったマーラーが、この作品でテーマとしたのは「死」でした。自分の死への恐怖が強く念頭にあったからこそ、逆に死に拘泥した、惹きつけられていたのでしょうか。
マーラーもこの作品に「死」が満ちあふれていることをひどく気にしていて、「この作品を聴いた人々の中に自殺する者が出てしまうのではないか」と案じていたそうです。
マーラーの『大地の歌』の中で、第1曲は悲愴、第2曲は憂愁、第6曲は凄絶な感じで、歌詞も絶対的な、不可避な、容赦ない過酷な運命として死を取り上げていますが、第3、4、5曲は人生の楽しみを謳っていて明るい感じです。しかし、人生の楽しみを描いている第3、4、5曲の中にも、音楽の専門家にいわせれば、常に死の影がちらついているということです(なんか音で分かるらしい)。
このことは定説なのか、マクミランの振付は原曲の歌詞を忠実に反映したものでした。「死の使者」役のカルロス・アコスタは、死の絶対性、不可避性について述べている第1、2、6曲で多く踊りますが、生の楽しみについて述べている第3、4、5曲の最後にもさりげなく姿を現します。楽しい生の中にも死がひそんでいる、いかに人生を謳歌しようと、死は結局やって来るのだ、といったところでしょうか。
マクミランが振り付けたこの『大地の歌』は、ロイヤル・オペラ・ハウスでは今までに100回近く上演されているそうです。けっこう頻繁に上演されている作品の中に入ると思います。
でも、この作品は上演がかなり難しいというか、いや、上演すること自体はロイヤル・オペラ・ハウスでなら簡単なのかもしれませんが、高質なパフォーマンスを実現する、舞台として成功させるのは、いくつかの条件と一つの偶然とが揃わないと非常に困難であると感じました。
(3に続く。)
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『真夏の夜の夢』(フレデリック・アシュトン振付)と『大地の歌』(ケネス・マクミラン振付)の二本立てです。
指揮はともにバリー・ワーズワース。
『真夏の夜の夢』(振付:フレデリック・アシュトン、音楽:フェリックス・メンデルスゾーン)
タイターニア:ロベルタ・マルケス
オベロン:スティーヴン・マックレー
パック:ポール・ケイ
ボトム:ベネット・ガートサイド
村人たち:Sander Blommaert、Kevin Emerton、James Hay、Dawid Trzensimiech、Valentino Zucchetti(←発音が分からない。以下同じ)
ヘレナ:Laura McCulloch
デミトリアス:トーマス・ホワイトヘッド
ハーミア:メリッサ・ハミルトン
ライサンダー:平野亮一
これほど笑いの起きなかった『真夏の夜の夢』も珍しいと思います。盛り上がりに大いに欠けました。
私はホテルにチェックインしてからロイヤル・オペラ・ハウスに直行したので、疲れのせいで面白く感じないのだろうと思ったのですが、他の観客も静かでした。また、このあとの『大地の歌』には私はとても感動しましたし、客席からも大きな拍手と喝采が飛んでいましたから、おそらく私一人の気持ちの問題ではなかったのでしょう。
スティーヴン・マックレーの踊りは、技術的には非常にすばらしかったです。彼は間違いなく、これからのロイヤル・バレエを背負って立つダンサーだと思います。ただ今の時点では、まだ存在に重みが足りないというか、青臭さが残っている印象です。あとは生真面目すぎ。
この作品はコメディとはいえ、オベロンには威厳とお笑いとの両方が揃ってないといけないと思うんですが、マックレーの踊り、佇まい、演技にはなんかずっしりした落ち着きがないように感じました。だいぶ前にアンソニー・ダウエルによって大抜擢されたころとあまり変わってないような。
また、観客を笑わせようと頑張っているのはよく分かったんですが、大真面目に頑張りすぎて、逆に空回りしてスベってしまっていた感じです。
タイターニア役のロベルタ・マルケスに至っては、私個人は、マルケスのどこがそんなにすばらしいのか、いまだによく分かりません。技術もさほど優れているとは思えないし、技術はなくとも踊りに独特の魅力があるわけでもないし、演技でも何を考えているのか、何を表現しようとしているのか、まったく見て取れません。
タイターニアがロバに変身したボトムに恋してしまう、この作品の中で最も笑える場面でも、ほとんど笑いが起きませんでした。マルケスのタイターニアは基本的に表情に乏しくて、ただト書きのとおりに機械的に演じているだけという印象を受けました。
パック役のポール・ケイは、普通に良かったと思います。
ダンサーたちが出揃った舞台を一見した印象は、うわ、みんな小さいなあ、というものでした。小柄でも、たとえば頭が小さくて上半身が短くて手足が細長いと、舞台上では背が高いように見えるものですが(スヴェトラーナ・ルンキナとかマリア・アイシュヴァルトとか)、ロイヤル・バレエのダンサーたちは男女ともに総じて背が高くない、というより低いのがはっきり分かります。
アシュトンの作品やマクミランの作品を踊るのなら小柄なほうが向いている、という話も聞いたことがあります。しかし、ちょっと名の知れたバレエ団なら、ダンサーたちの長身化が主な潮流になっている現在、いまだにほとんどのダンサーがみな小柄で顔が大きくて手足が短いように見えるのは、果たしてこれでいーんだろうか、と疑問に思いました。
驚いたことに、男性ダンサーたちの中で、最も背が高くて、スタイルが良く、顔が小さいのが、ライサンダー役の平野亮一さんでした。もちろん、平野さんの体型は日本人離れしているどころのレベルではなく、欧米人よりはるかにスタイルがいいせいでもありますが。
更に演技でも、平野さんが最も観客にウケていたと思います。ライサンダーがハーミアにキスしようとするとき、目を閉じてタコみたいに唇をむーん、と突き出すのが、まるで「秘密の県民ショー」(日テレ)で、東京一郎が妻のはるみに迫るときの表情そっくりで爆笑ものでした。
パックのカン違いで、惚れ薬を注がれたライサンダーがヘレナに恋してしまう瞬間の、平野さんの仕草と表情も観客の大きな笑いを誘っていました。いきなり両腕を大げさに勢いよくばっと開いて、それから胸に両手を当ててもどかしげに肩を揺すぶり、ヘレナに抱きつこうとします。
日本人ダンサーは体型が劣っているだの、演技力に乏しいだのなんてのは、もう過去の話ではないか、と平野さんを見ていてつくづく思いました。
英国ロイヤル・バレエといえば、演劇的な作品の創作や上演に優れているイメージがあります。しかし、その伝統もそろそろ薄れてきているように感じました。主要キャストばかりでなく、群舞の演技も全体的に大したことはなかったと思います。
私はロイヤル・バレエをほぼ2年ごとに観ている計算になりますが、踊りも演技も観るたびにどんどん劣化しているような印象があります。今回もやっぱりそうでした。
東京バレエ団が上演する『真夏の夜の夢』のほうが、今ではよっぽど優れていると思いますよ。いやほんとに。
この日の公演ではちょっとしたアクシデントが起きました。『真夏の夜の夢』が上演されている最中、なんか右側の客席から「ピー、ピー」というアラーム音か着信音みたいな電子音が聞こえてきました。誰かの腕時計か携帯電話かスマートフォンかが鳴っているのだろうと思いました。
ひとしきり鳴ってから止んだので、そのときはまあよくあることだとしか思いませんでした。
ところが、休憩時間を置いた次の『大地の歌』で、この音が本格的に大活躍(?)することになるのです。
(2に続く。)
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あの日は、怖い思いはしたけれど、まだそんなに悪い状況だとは思ってなかった。まったくもって甘かった。
実家と連絡が取れず、何度も夜中に公衆電話まで歩いて電話をかけ続けた。阪神大震災のとき、家の電話よりも公衆電話のほうがつながりやすかった、ということを聞いていたからだった。
実家につながらないので、郷里の役場、警察、消防署に電話したら通じた。郷里では被害は確認されていない、と聞いた。それで安心できた。
しかし、郷里はたまたま無事だったが、東北と関東がとんでもないことになっている、と翌日になってから思い知らされた。夜が明けると、凄惨な光景がテレビの画面上に次々と映し出された。近所のスーパー、コンビニ、ドラッグストアには人々が、ガソリンスタンドの前には車が長い列を作っていた。
そして原発が爆発した。でも、津波のショックがあまりに大きすぎて、原発事故の深刻さについては、まだピンとこなかった。
一方、宮城県警の本部長が、地震と津波による死者は最終的に1万人を超えるだろうという見解を発表した。そんなばかなと思った。そんなことが現代日本で起きるはずがない、と。
今にして思えば、あれが「茫然自失」という状態だったのだろう。現実を現実感をもって受け止められない。起きていることは頭では分かっているのに、薄い膜がかかったようにぼんやりとしていた。
新幹線は止まり、高速道路も一般車両は通行禁止になった。飛行機だけが唯一運行していた。飛行機で郷里に帰ると、郷里でも物資不足、灯油・ガソリン不足が起こっていた。スーパーの商品棚はからっぽ、ガソリンスタンドは全部閉店していた。
国道には災害支援の大型車両だけが走っていた。自衛隊、消防、物資輸送など。
郷里ではガソリン・灯油の窃盗事件が頻発した。車庫や物置からガソリンの備蓄缶が盗まれる、駐車してあった車の給油口からガソリンが抜き取られる、屋外設置式の灯油タンクから灯油が抜き取られる事件が、ほぼ連日新聞に載った。
その犯人のほとんどは捕まらなかったが、民家から灯油缶を盗んだ犯人が一人だけ捕まった。初老の男性だった。動機は、自分の家の灯油がなくなったから、だという。普段はごく普通の顔をして暮らしていた人間だろう。
海外が日本人の冷静な態度と秩序ある行動を賞賛している、という自画自賛、自己賛美的な日本メディアの報道が馬鹿らしく思えた。建物が倒壊したわけでもなく、津波に襲われたわけでもなく、ただ物不足が起こっただけで、簡単に盗みをはたらく人間がたくさんいるのが、日本の実情だというのに。
郷里の治安が信じられなくなった。うちが普段は年老いた母と障害のある兄の二人住まいだということは、みな知っているはず。非常時に便乗した犯罪は、まず弱者がその第一の標的になるものだろう。
ということで、戸締り確認と灯油タンクの見回りが私の仕事になった。うちに手を出してみろ、返り討ちにしてやる、というほど私は殺気立った。郷里への安心感は失せ、一気に人間不信になった。
母の知り合いがガソリンスタンドで働いていて、少しだけなら販売できることをこっそりと教えてくれた。近所のスーパーも短縮営業はしていた。
ガソリンスタンドには、営業の噂を聞きつけたらしい人々の車の列が並んでいたが、なんとか当面は困らないくらいのガソリンを給油することができた。灯油も購入できた。
でも、なるべく車は使わないようにして、私は母と一緒に、開店前のスーパーに並ぶために歩いて出かけた。道には車の姿が一台も見えなかった。
通る車がないせいで、道は降り積もった雪が汚れずに真っ白なままだった。歩いていると、ふと雲の切れ目から日が射した。目の前にまっすぐ伸びる道が、まぶしいくらいに白く輝いた。今は非常時なのに、それは妙に美しい光景だった。
それから一年、よく体を壊したり、発狂したりしなかったなと思う。日々の暮らしに加えて、最悪の事態を想定し、情報は自分で調べ、対策をとらなければならなかったから。心も体力も限界で、夏には自分で自覚できるほど危ない状態になった。それを助けてくれたのは、家族、先輩たち、友人たちだった(ありがとう)。
秋以降は、夏までに比べればやや落ち着き、少しだけ余裕も持てるようになった。
今でもふと、震災後に帰省したとき母と歩いた、あの白く輝く道を思い出すことがある。
あの光景は、たぶん一生忘れることはないだろうと思う。
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2月28日、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)が、日本記者クラブで福島第一原子力発電所事故についての報告書を発表しました。
この記者会見と報告書の概要は、テレビ、新聞をはじめとするほとんどのメディアがトップで取り上げて大きな話題となりました。
この報告書、『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』が急遽出版されることになったそうです。
福島原発事故独立検証委員会が所属する 財団法人日本再建イニシアティブ 公式サイト によれば、この報告書は当初、非売品として限定された部数のみが印刷されたものの、発表の直後から入手したいという問い合わせが相次いだとのことです。
それを受けて、紙媒体書籍での出版、もしくはウェブ上での公開が検討されたそうですが、紙媒体・電子書籍の2種で出版されることになりました。
刊行日は1週間後の3月11日、東日本大震災発生から1年目の日です。一般書店、書籍オンライン通販サイトで購入可能です。もちろん予約も今からできます。紙媒体書籍は1,575円、電子書籍は1,000円です(なんという廉価!)。
財団法人日本再建イニシアティブは「独立」、「民間」というとおり、「電力・エネルギー部門の関係企業など、原発事故に直接関わる企業からの資金提供は一切ございません」とのことです。
それが信頼するに足るのは、この報告書作成に当たり、東京電力が情報提供や社内関係者聴取などの協力を一切拒否したという事実からも明らかであろうと思われます。
地震発生から事故が起こるまで、そして事故が発生してから、いったい何があったのか。どうしてこんなことになってしまったのか。
これは必読の報告書であると思います。
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