デンマーク・ロイヤル・バレエ『ロミオとジュリエット』(4)

  (3)が長くなっちゃったんで、いったん切ります。うーん、とうとう(4)にまでなっちゃったか。ともかく、引き続きダンサーたちのパフォーマンスについて。

  ティボルト役はマス・ブランストルップでした。キャラ設定が制限されるベンヴォーリオなどと違い、ティボルトという人物はもっと幅広い解釈の余地があり、役作りも工夫のし甲斐がある役だと思います。

  しかし、ブランストルップのティボルトはお約束的な「定番ティボルト」で、それ以上もそれ以下もありませんでした。ティボルトは、ともに優れたパフォーマンスをみせたギッテ・リンストロムのキャピュレット夫人の不倫相手、モーテン・エガトのマキューシオの仇敵というおいしい役どころなのですから、それに拮抗する深みがブランストルップのパフォーマンスにもあれば更によかったのですが。

  ロミオ役のセバスティアン・クロボーは優れたダンサーでした。あくまで一人で踊る場合においては、です。長身でスリムな体型で、脚がとても長く、しかも男性ダンサーには往々にしてありがちな、太ももの前面が筋肉でぼっこりとふくらんでいるということもなく、すらりときれいに伸びたきれいな脚をしていました。

  踊りは非常にすばらしく、第一幕の最後、バルコニーにいるジュリエットを見上げながら一人で踊るところでは、回転の速度を徐々に落としていきながら止まり、それからゆっくりと片脚を後ろにぐぐーっと伸ばしてアラベスクをします。後ろに上げた片脚は根元から反れるように高く伸びていて、その姿勢のあまりな美しさに、心中「うっ」と唸りながら見とれていました。

  クロボーのロミオの演技も見事でした。森田健太郎ロミオに匹敵するかも。クロボーは表情がとても豊かで、表情の変化だけでセリフをしゃべっているかのようでした。純情で情熱的で一途で、好きになったら向こう見ずでほとんどストーカーまがいのアタック攻撃をしかけ、若くてパワフルで思慮が浅くて(というよりほとんどなくて)、という性格がよく分かりました。

  クロボーはロミオのこのような性格の短所もきちんと表現できていました。ロミオはキャピュレット家の舞踏会でジュリエットに出会い、それまでロザライン(エイミー・ワトソン)を追いかけ回していたのが、一瞬でジュリエットに心を移してしまいます。

  ロミオは第一幕でロザラインからハンカチをもらい、そのハンカチを顔にかぶる(←ちょっとキモい)ほど狂喜します。ところが、第二幕では、ロミオはロザラインのハンカチをベンヴォーリオ(アレクサンダー・ステーゲル)に押し付けます。ちょうどそこへロザラインがやって来ます。が、すでにジュリエットに夢中なロミオは、ロザラインからあからさまに顔をそらし、目を合わせようとすらしません。

  ロザラインはロミオの心が自分にはもうないことを察します。ベンヴォーリオはロザラインにハンカチを返します。ロザラインはややためらうような手つきでハンカチを受け取ると、かすかに悲しげな表情を浮かべながら行ってしまいます。

  このシーンを見て、ロミオはなんて軽薄な男なんだろう、と思いました。クロボーの演技がまた見事でした。婚約者がいることがバレたときのアルブレヒト、ガムザッティと婚約したことがバレたときのソロルみたいに、心中の気まずさを押し隠した素知らぬ顔を装っていて、ロミオの一途さと表裏一体の軽薄さを強く感じました。

  ところが、ジュリエットと秘密の結婚式を挙げた後に広場に戻ったロミオは、顔つきが一変して、冷静で思慮深い表情になっていました。ジュリエットと結婚したことで責任感が芽生え、またキャピュレット家と和解しなければならない、ということを真摯に考えているのが分かる表情でした。

  泥酔してロミオの胸に剣を突きつけるティボルトに対し、ロミオは完全に無抵抗、無表情で、ただティボルトをじっと見つめます。ロミオは「いけません、いけませんよ」というふうにかすかに首を振り続け、ティボルトを説得しようとします。このときのクロボーの表情と演技が最高に良かったです。

  セバスティアン・クロボーの踊りと演技はかくも見事だったのです。でも、パートナリングのほうは致命的に「ダメダメ君」でした。

  ロミオとジュリエットとの踊りには大きく三つありますね。第一幕、舞踏会でふたりきりになったロミオとジュリエットとの踊り、第一幕最後のバルコニーのパ・ド・ドゥ、そして第三幕冒頭の寝室のパ・ド・ドゥ。

  いずれの踊りにも、サポートはもちろん、ダイナミックで複雑なリフトがありましたが、クロボーのサポートとリフトはガタついていてなめらかさがありませんでした。類似例としては、「ルグリと輝ける仲間たち」(2007年)で、バンジャマン・ペッシュとエレオノーラ・アバニャートが踊ったノイマイヤー版「椿姫」第二幕のパ・ド・ドゥがあります。

  ジュリエット役はスザンネ・グリンデルでした。グリンデルの「サポートのされ方」、「リフトのされ方」に問題があるのかな?と思ったのですが、ジュリエットとパリス伯爵(マルチン・クピンスキー)、ジュリエットとキャピュレット公(モーエンス・ボーセン)との踊りでは、クピンスキーとボーセンによるリフトにぎこちなさは感じられなかったので、やはりクロボーのパートナリングに問題があったのだろうと思います。

  あるいは、クロボーのパートナリングに問題はないものの、クロボーとグリンデルのタイミングがただ単に合っていなかったのかもしれません。更にいえば、グリンデルの「サポートのされ方」、「リフトのされ方」は下手ではないにしても、上手でもなかったのだろうと思います。

  パリスやキャピュレット公との踊りでのサポートとリフトはゆっくりで単純なものがほとんどでした。一方、ロミオとの踊りでのサポートとリフトは、速くて複雑なものがほとんどでしたから、難しいほうの踊りではうまくいかなかったのかもしれません。

  比較するには無理があるでしょうが、アレッサンドラ・フェリ、ウリヤーナ・ロパートキナ、アリシア・アマトリアン、スー・ジン・カンなど、どんなに難しく複雑なデュエットでも、「サポートのされ方」と「リフトのされ方」が非常に上手なダンサーたちに比べると、スザンネ・グリンデルの「サポートのされ方」と「リフトのされ方」は、印象に残るほど魅力的とはいえませんでした。

  スザンネ・グリンデルは可愛らしい小さな顔、高い背丈とスレンダーな身体、長い手足を持ち、バレリーナとしてかなり容姿に恵まれています。身体も非常に柔軟なようで、脚はよく開くし高く上がります。

  でも、なんといったらいいのか、踊りにも演技にもパッとしたところがないというか、見ていて思わず息を呑む、見とれる、唸る瞬間というものが、グリンデルが踊ったり演技しているときにはありませんでした。

  グリンデルの溌剌とした表情には、ああ、ジュリエットは活発なハイ・ティーンの女の子なんだな、と好感は持ちましたが、ただそれだけでした。なんというか、グリンデルのパフォーマンスには「一生懸命さ」や「素顔っぽさ」は感じるんだけど、「表現力」は感じないのです。舞台では「舞台用の自然な踊りや演技」を見せるべきだと思うのですが、グリンデルは「素の自分の踊りや演技」をそのまま見せているだけのように感じました。

  『ロミオとジュリエット』という作品では、ロミオとジュリエットとの踊りがうまくいくかどうかで、舞台全体の出来不出来が決まってしまうように思います。今回の舞台では、クロボーのロミオとグリンデルのジュリエットとの踊りがいずれもぎこちなく、彼らのガタガタしたパ・ド・ドゥを見ながら「もっとちゃんと踊れるダンサーたちで見たいなあ」と思いました。

  だから、ロミオとジュリエットとのパ・ド・ドゥにおける、ノイマイヤーの振付そのものは良いのか良くないのか、今回の舞台を観た限りでは分かりません。で、やっぱりハンブルク・バレエでこの作品をぜひ観たいな、と思ったわけです。

  以上、さんざん文句を垂れましたけれど、結局(4)まで書いちゃったから、ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』には、それほどの大きな魅力があるということなんでしょうね。
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デンマーク・ロイヤル・バレエ『ロミオとジュリエット』(3)

  引き続きダンサーたちのパフォーマンスについて。

  マキューシオ役はモーテン・エガトでした。マキューシオというのは、どのダンサーが担当してもおおよそ同じような役作りになるものなので、第一幕の時点では「まあ典型的なマキューシオだな」と思っていました。

  モーテン・エガトの踊りについては、実はさほどすごいな、とは感じませんでした。マキューシオにふさわしいテクニシャンではあると思いますが、目を見張るほどの超絶テクニックを誇るというほどではないと思います。

  しかし、第二幕でマキューシオが死ぬシーンでのエガトの演技は、壮絶!の一言に尽きました。基本的な演技は、もちろん振付者のノイマイヤーによって決められていたでしょうが、キャピュレット夫人役のギッテ・リンストロムと同様、エガトの演技には彼独自の「プラスアルファ」を強く感じました。

  ティボルトの剣に体を貫かれたマキューシオは、なんでもない振りを装い、ベンヴォーリオや女性たちと踊ります。みなはマキューシオが大した傷を負っていないものと安心します。

  ところが、コミカルな表情と仕草で踊っていたマキューシオは、いきなり表情を苦しげに歪ませ、くず折れるようにしてベンヴォーリオにもたれかかります。ロミオはマキューシオの異変に気づきますが、今ひとつ確信が持てず、マキューシオを見守っています。

  マキューシオは再びシニカルな笑いを浮かべ、ティボルトを揶揄するように剣を向けて挑発します。その瞬間、マキューシオは真顔に戻り、ティボルトに向かって足をだん、と大きな音を立てて踏み込んで剣を突きつけ、激しい憎しみに満ちた表情でティボルトを睨みつけます。この演技が最も迫力がありました。

  それからマキューシオは旅芸人の一座の小さな舞台に上がり、よろめきながら「死ぬ演技」をしてみせます。マキューシオは大きなマントを羽織ると、舞台から飛び降りて床にばったりと倒れこみます。みなはマキューシオが死ぬ真似をしたものと思って拍手します。ところが、マキューシオは本当に息絶えていたのです。

  ロミオもマキューシオが死ぬ演技をしたものと思い込み、倒れたまま動かないマキューシオを足で蹴って起こそうとします。しかしマキューシオは動きません。ロミオと人々はようやく、マキューシオが本当に死んでしまったことに気づいて騒然となります。

  この間のモーテン・エガトのマキューシオの演技は、無理をして平気な振りを装いますが、かすかに表情を歪ませ、うつろな、しかし壮絶な目つきで死ぬ真似をし、力尽きようとするのをこらえて、無理に元気に踊ります。でも、徐々に体から力が抜けていき、意識が遠のいていく様を見事に演じていました。

  マキューシオは大きなマントに体をくるみ、顔を隠した状態で床にばったりと倒れます。ロミオがマキューシオを助け起こすと、マキューシオはすでに絶命していました。

  そのときのエガトは、目をかっと大きく見開いたまま死んでいました。あの無念そうな表情と凄まじい目つきは非常に印象的でした。

  エガトは前髪がちょっとたそがれていましたが、いずれハゲになったとしても、ヅラを活用するなどして、これからも活躍していってほしいです。

  同じくロミオの友人、ベンヴォーリオ役はアレクサンダー・ステーゲルで、このステーゲルは『ナポリ』第三幕でソロを踊った上手な人でした。

  今回はベンヴォーリオ役として舞台に出ずっぱりだったので、お顔をしっかりと拝見できました。『ナポリ』についての記事で、ステーゲルのことを「カイル・マクラクラン似」と形容したのは言い過ぎだったかも、と思いましたが、でもやはりちょっとは似ています。背の高いハンサム君です。

  熱血派のロミオと冷笑派のマキューシオとの間に挟まれたベンヴォーリオという役柄は、どうしてもアクの強いキャラ設定にはできず、また派手な演技を受け持たせることもできません。でも、ステーゲルのベンヴォーリオは魅力的な好青年で、ロミオ、マキューシオに比べれば最もマトモで良識ある人間でした。

  特に、マキューシオが死んだ後、ロミオは怒りに駆られるままにティボルトに斬りかかります。ベンヴォーリオは怒りに我を忘れたロミオを必死になだめて止めようとします。事態をこれ以上悪化させまいとする常識的な判断が感じられる良い演技でした。

  ステーゲルの踊りもよかったです。第二幕の冒頭では、群舞の中央にあって長いソロを踊っていましたが、姿勢が常に美しく、動きは終始なめらかで安定していました。ステーゲルはスタイルが抜群なので、踊りが上手だとなおさら魅力的です。

  そういえば、ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオが、キャピュレット家の舞踏会に忍び込む前に踊る悪戯っぽい振りの踊りは面白かったです。特にステップを踏みながら両腕を鳥のように大きく羽ばたかせる振りは、アホウドリの求婚のダンスみたいでコミカルでした。でも、アホみたいではなくて、3人とも腕の振り方がとてもしなやかで、ちゃんときれいな踊りになっています。回転やジャンプも盛りだくさんで、男性の踊りならではのダイナミックな魅力がありました。

  出番は1シーンだけでしたが、ヴェローナ大公エスカラス役のエルリング・エリアソンは、威厳ある重厚な演技と存在感を見せました。おかしな話かもしれないけど、エリアソンのマントの翻し方がそれはそれは見事で、長いマントがまるでマンガかアニメみたいに、カッコよくひらり、と翻ります。

  エリアソンの表情や雰囲気も、静かだけど否とは言わせない威厳に満ちていて、それまで主人から召使レベルに至るまで、一斉に争っていたキャピュレット家とモンタギュー家の面々を一発で黙らせたのもむべなるかな、と納得しました。両家の争いをやめさせた後、ヴェローナ大公はマントを大きく翻して去っていきます。エリアソンのマントのさばき方は最後までカッコよかったです。

  ロミオが最初に夢中になっていたロザライン役のエイミー・ワトソンはたいそうな美人でした。あまり踊らなかったし、表情もいかにも良家の令嬢という感じで静かでしたが、ロミオに求愛されてまんざらでもないどころか、むしろロザラインのほうもロミオに惹かれていることがよく分かりました。

  それだけに、ロミオがジュリエットに心を奪われてしまった、と知ってしまったロザラインがかわいそうでした。ワトソンのロザラインは相変わらず静かな表情ながらも、目を伏せてわずかにうつむきながら去ってしまいます。

  で、ノイマイヤーさん、あれはどうよ!?とぜひ聞きたいのが、キャピュレット夫妻がジュリエットと結婚させようとするパリス伯爵です。パリス役はマルチン・クピンスキーでした。これがまたたいそうな美男子、おまけに優しげな好青年なのです。なのに、このノイマイヤー版におけるパリスの影は非常に薄く、早い話が「どーでもいい存在」扱いになっているとしか思えませんでした。それとも、クピンスキーの役作りが不足していたのでしょうか?

  またそれとも、パリスをあえて人畜無害で無個性な人物にして、ジュリエットはパリスを嫌って彼との結婚を拒否するのではなく、ロミオを愛してしまったからこそ、パリスがいかに好人物であろうと彼とは結婚したくない、ということを強調したかったのでしょうか。このへんはよく分かりません。

  同じように、ローレンス僧に若いダンサーをキャスティングしているのも、個人的には疑問です。ローレンス僧はコンスタンティン・ベケルが担当しました。年寄りの坊さんのメイクや扮装はしていなくて、見るからに若い修道僧です。ローレンス僧はもともとロミオと親友で、後に修道僧の道に入った人物、とかいう設定なのかもしれませんね。

  そういう若い坊さんが、キャピュレット家とモンタギュー家の紛争を終わらせるために、ロミオとジュリエットの結婚式を執り行なうとか、ジュリエットに助けを求められて仮死の薬を与えるとか、どうも不自然に思いました。もっとも、今まで私はじいさんのローレンス僧しか見たことがないので、そう思ってしまうのかもしれません。

  まさかこれもまた、若いローレンス僧の浅知恵と軽率さが、ロミオとジュリエットの死を招いてしまったことを強調したいという、ノイマイヤーの深謀遠慮なのでしょうか!?

  んで、肝心のロミオとジュリエットについてはまた次。
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狼少年にならないとよいのですが

  アダム・クーパーのエージェントであるダイアモンド・マネジメント社によると、「アダム・クーパーは、2009年9月11日から東京と大阪で『兵士の物語』に出演することになるだろう」とのことです。

  この『兵士の物語』はウィル・タケット版を指すと思われます。更に別口から聞いたところでは、アダム・クーパーの他、タケット版『兵士の物語』のオリジナル・キャストであるウィル・ケンプ、マシュー・ハート、ゼナイダ・ヤノウスキーもともに出演する予定であるそうです。

  ただし、アダム・クーパーの公式サイト、および日本の主催元による公式発表や宣伝活動はいまだ行なわれていませんし、また今後の諸状況によって事態はどう推移するか分かりません。

  あくまで「予定は未定」と考えて下されば幸いです。
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デンマーク・ロイヤル・バレエ『ロミオとジュリエット』(2)

  次はダンサーたちのパフォーマンスについて。

  前の記事は作品について書いたわけですが、自分で読み直してみて、我ながら実につまらない感想だな、と思いました。この振付はこういうことを示している、象徴している、この演出はこういうことを暗示している、表現しているといったことばかりで、感想自体が「頭でっかち」になってしまっています。

  ただ、『椿姫』もそうでしたけど、ノイマイヤーの全幕作品というのは、作品世界に浸る以前に、どうもノイマイヤーの狙いとか目的とか計算とか、そういう面が先に目立ってしまうために、すんなりと作品自体を楽しめないところがあるように思います。だから私の場合、感想もいきおい振付や演出の「分析」や「解釈」に走ってしまうようです。

  『ロミオとジュリエット』の振付や演出は実に緻密で、登場人物の一人一人に対して、ノイマイヤーが非常に具体的で細かい指示をしているのではないかと感じます。

  ですから、デンマーク・ロイヤル・バレエのダンサーたちは、みな演技が上手で、主役から脇役・端役に至るまで全員が各々の役割を持っており、その役割に沿って演技しているわけですが、それはダンサーたちが各自工夫して演技しているというよりは、ノイマイヤーによって、たとえばこう動いてこういう表情をするようにとか以外にも、甚だしくは顔の向きや歩く回数、歩幅の広さに至るまで、徹底して厳守するよう指示されているような印象を受けるのです。

  よって、デンマーク・ロイヤル・バレエのダンサーたちのパフォーマンスは、ダンサーたち各自の能力によるものなのか、それともノイマイヤーの指示を忠実に守っているだけなのか、今ひとつ判然としませんでした。

  ノイマイヤーの指示を厳格に守った結果があのパフォーマンスだとすると、デンマーク・ロイヤル・バレエのダンサーたちの優れた演技力はある意味、ノイマイヤーの指導に拠るところが大きく、デンマーク・ロイヤル・バレエ本来の能力とはいえないのではないか、と思いました。

  そうすると、ノイマイヤーによって定められた踊りや演技に、プラスアルファで自分独自の表現を加える、また進化させることのできているダンサーが優れているといえます。

  その点で私が魅力を感じたのは、第一には(ダントツで)キャピュレット夫人役のギッテ・リンストロム、第二にはマキューシオ役のモーテン・エガト、第三にはロミオ役のセバスティアン・クロボー、第四にはヴェローナ大公役のエルリング・エリアソンでした。

  以下、主要な役のダンサーについて、印象と感想とを書いていきます。

  このノイマイヤー版では、ジュリエットの母親、キャピュレット夫人がかなり踊ります。キャピュレット夫人役はギッテ・リンストロムで、リンストロムは踊りはもちろん演技も抜群に優れていました。

  リンストロム扮するキャピュレット夫人は、ジュリエットや夫であるキャピュレット公の前では、厳しい面持ちで両手を胸の前で組み、顎をこころもち上げて背中をピンと反らせています。夫のキャピュレット公にとっては従順で無感情な妻であり、娘のジュリエットにとっては冷たく厳格な母親であるわけです。

  ところが、甥のティボルトが現れると、キャピュレット夫人の表情や態度、仕草ががらりと変わります。キャピュレット夫人はティボルトに向かってあからさまな「女」の表情を浮かべ、艶っぽい意味ありげな目つきでじっと見つめます。夫と一緒にいるときでさえ、夫の目を盗んではティボルトに目をやり、ティボルトの頬を手で愛撫します。

  第一幕の舞踏会の最中、キャピュレット夫人はティボルトに誘われて階上に姿を消します。おそらく二人で「そういうこと」をしてたんでしょうね。舞踏会が終わって客たちが帰っていくときも、夫のキャピュレット公が一人で客たちを見送るのにかまわず、キャピュレット夫人はティボルトと嬉しそうに腕を組んで去ってしまいます。

  他のいくつかの版の『ロミオとジュリエット』では、ティボルトが死んだと知ったキャピュレット夫人は、一様に異常なまでに嘆き悲しみます。キャピュレット夫人とティボルトの仲は怪しい、と常々思っていましたが、ノイマイヤー版は彼らが道ならぬ関係にあることをはっきりさせています。

  キャピュレット夫人役のギッテ・リンストロムは、貞淑で従順な妻、厳格で完璧な母親としてのキャピュレット夫人の表情と、若い男に夢中になっている女としてのキャピュレット夫人の表情がまったく違いました。

  夫に対して無表情に接していたかと思うと、次の瞬間には艶っぽい表情を浮かべ、ねっとりした熱い目つきでティボルトを見つめる、その変わり身の速さとギャップの大きさがあまりに魅力的で、「このキャピュレット夫人とは、いったいどういう女性なのだろう?」という大きな興味が湧きました。ギッテ・リンストロムが登場すると、彼女から目が離せませんでした。

  舞踏会でのリンストロムの踊りもすばらしかったです。前の記事に書いた、片脚を高く上げて根元から一回転させる動きは非常になめらかで鋭く、それから床に爪先を突き立てるポーズでも、まるで脚が剣のようで、後ろに片脚を上げるのも高かったです。

  死んだティボルトに駆け寄ったキャピュレット夫人の踊りには凄まじい迫力がありました。リンストロムは垂らした長い髪を振り乱し、片脚を激しい勢いで天を衝くように高く上げ、両腕を鋭く振り回します。止めに入った夫のキャピュレット公を突き飛ばして、なおもティボルトの死骸にとりすがる様には息を呑みました。

  今まで夫に逆らったことがなかったであろうキャピュレット夫人は、おそらくティボルトが死んではじめて、激しい怒りと悲しみに駆られるままに、夫に対する本心(愛していないということ)を露わにしたのでしょう。リンストロムの踊りと演技はそれほど凄まじかったです。

  また、ティボルトの死によって狂ったように暴れるキャピュレット夫人の姿に、ジュリエットはやはりキャピュレット夫人の娘だな、と妙に納得しました。いったん激しい感情に駆られるとそのまま一直線、というところがそっくりです。

  とにかく、キャピュレット夫人にこれほど興味をかきたてられたのははじめてのことで、ギッテ・リンストロムの踊りと演技は最高にすばらしかったです。個人的には、この公演のベスト・パフォーマンス賞を進呈したいと思います。
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デンマーク・ロイヤル・バレエ『ロミオとジュリエット』(1)

  ジョン・ノイマイヤー版(71年初演)です。金曜日(22日)と今日の公演を観ました。主要キャストは両日とも同じです。

  まず作品全体の印象から。舞台装置は簡素(幕物が多い)ですが、そのデザインや色調はともに重厚な質感を醸し出していました。それぞれの舞台装置は細かく分解でき、それらの各パーツをいろんなパターンで組み合わせることによって、それぞれが別物のような背景を作り出していました。

  衣装も豪奢ではないですが、デザイン、色彩、模様のいずれもセンスが良く、無駄がなく洗練されていて、上品な感じのものばかりでした。

  ただ、キャピュレット家・モンタギュー家の男の使用人たちの衣装には、一部「?」なデザインや色合いのものがありました。白のぴっちりした膝丈タイツと白の脛当てを黒い糸で結び付けているのとかね。

  もっとも、装置と衣装を担当したのは、ノイマイヤー作品ではおなじみのユルゲン・ローゼなので、当時の装束の考証に拠ったデザインなのかもしれません。

  装置と衣装、そして振付から受けた印象は、まるでルネサンス絵画のような舞台だ、というものでした。

  その振付は、「抽象的・記号的・象徴的・暗示的」な踊りやポーズがやたらと目に付きました。

  キャピュレット家の舞踏会での踊り、キャピュレット公夫妻、両親に服従するジュリエット、パリスによる踊りは、手足をぴんと伸ばした硬直した姿勢、切り裂くような鋭いステップ、バネのような、もしくは機械人形のような腕の動きなど、いかにも封建的な家風を示すような振りばかりでした。

  特に舞踏会の踊りは面白かったです。たとえばキャピュレット公、キャピュレット夫人、ティボルトが3人並んで、片脚を根元から上げてブンと鋭く1回転させ、爪先を床に突き立てるようにして歩き、それから片脚を今度は後ろにぐん、と勢いよく跳ね上げる振りなどは、容赦のない冷たさを感じさせます。

  ポーズにもキャピュレット家(というより当時の貴族一般)の家風を示すものがありました。キャピュレット夫人が、両腕を内側に曲げて、両手で逆三角の形を作ったまま静止するポーズ、キャピュレット公と踊るキャピュレット夫人、パリスと踊るジュリエットが、男性たちの前に土下座するようにべたーっと床に座り込むポーズなどです。女性に対して厳格に「無為」を強いる、また女性の男性への絶対服従が当たり前な風潮を表現していました。

  キャピュレット公と夫人、パリスとジュリエットがそれぞれ組んで機械人形のような振りで踊り、それが左右対称になっているところなども、ジュリエットがパリスと結婚することは、ジュリエットの両親のような封建的な思想に縛られた夫婦を複製することに他ならないことが示されていました。

  それと対比されるのが、ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオの3人組、街の人々、旅芸人の一座、そしてロミオとジュリエットとの踊りです。

  ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオや街の人々は、腕を柔らかく、脚や足首も曲げたり伸ばしたりと自在に動かし、またダイナミックな跳躍や回転を次々と織り込んで踊り、旅芸人の一座はトリッキーな仕草や振りで踊ります。生き生きとした人間味や若さ、また活気が伝わってきます。

  そして、ロミオとジュリエットは、空間に手足を自由に伸ばし、お互いの体を重ねあわせ、手を握り合い、ジュリエットがロミオに高々とリフトされながら踊ります。ハイ・ティーンの男女の、あっという間に炎上して、もはや爆走一直線な恋の情熱があふれまくりです。

  登場人物の心情や脳裏に浮かんだ情景を、演出と踊りの複合効果で巧みに表現していたシーンもありました。

  たとえば、舞踏会でジュリエットに一目惚れしたロミオが、ジュリエットの後ろでジュリエットと同じ振りで踊る、また、ロミオがティボルトを殺して逃亡し、ロミオを想うジュリエットが踊っているその後ろに、ロミオが現れてやはり同じ振りで踊る、更には仮死の薬を飲んで恐怖するジュリエットの前に、最初に経かたびらを着たティボルトが現れてジュリエットを引きずるようにして踊り、次にロミオが現れてジュリエットと踊るシーンなどです。

  演出も非常に細緻で巧みでした。この『ロミオとジュリエット』は、ジョン・ノイマイヤーがはじめて振り付けた全幕作品だということですが、すでに次の『椿姫』につながる演出方針や技術が用いられていました。

  まず、主役から脇役に至るまで、登場人物一人一人の行動が相互に連関し、その結果として次の展開につながっていきました。同時に、物語の本筋が進行している脇で様々な人間模様が繰り広げられていて、登場人物のたった一人でさえも、無駄に舞台に立っていることはありません。

  劇中劇によって登場人物の心理や後の現実を暗示する、という手法もすでに用いられています。

  旅芸人の一座は劇中劇で男女の恋愛悲劇を上演します。それは愛し合う男女が、女の両親によって間を裂かれ、最後に剣でともに自殺する、というストーリーです。

  また、ローレンス僧がジュリエットに仮死の薬を手渡します。舞台の奥では、旅芸人の一座が同時進行で、女が仮死の薬を飲み、女の両親は娘が死んだと思って嘆き悲しみ、葬られた娘のもとに恋人の男がやって来て彼女を起こし、恋人たちは幸福に結ばれる、という劇中劇を上演しています。

  それはローレンス僧のジュリエットに対する説得を表現しているのであり、また仮死の薬に怯えていたジュリエットが、ロミオと結ばれることを夢想して薬を飲むことを決心する過程を表現してもいるわけです。最初は恐怖で表情がこわばっていたジュリエットは、劇中劇が進行していくとともに笑顔に変わります。

  音楽がやまないうちにさっさと場面転換し、スムーズに次につなげていく手法も見事でした。場面転換は機械による単純な作業と人力によって行なわれているようでした。このようなアナログな方式にも関わらず、セットの分解と組み合わせは非常にスムーズで自然でした。舞台装置が徹底して計算し尽くされてデザインされていることがよく分かりました。

  見せ場は多くあるのですが、音楽が終わらないうちにライトが落とされて場面転換が行なわれるので、拍手する隙がほとんどありませんでした。場面転換はライトが落とされるのみで、途中で幕が下ろされることもありませんでした。前の音楽が終わりかけるころには場面転換はほとんど済んでおり、ライトが再び点灯すると同時に次の音楽が始まり、新しい場面になりました。

  大体、前奏曲が始まってすぐに幕が開いて、ローレンス僧とロミオが登場します。前奏曲や場面転換のせいで、物語の進行がたるんでしまうのを徹底的に避けているようでした。

  若かったノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』は、今から見ても極めて創意工夫に富んだ、独自性の強い作品だと思います。だけど、やはりケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』には及ばないでしょう。なぜかというと、このノイマイヤー版は、マクミラン版ほど振付と音楽とが合っていないからです。

  また、この『ロミオとジュリエット』は、ノイマイヤーの作品の中で、特に優れているとはいえないのではないでしょうか?確かに演出は細かいし巧みなのですが、肝心の振付についていうと、舞踏会の踊りを除けば、そんなに印象に残る踊りがあったわけではありません。

  なんだかノイマイヤーの思考と知性ばかりが先走ってしまって、頭でっかちなバレエになってしまった感じがします。観客にとっては、振付家の狙いや目論見が先に目についてしまって、作品を素直に楽しめないところがあるように思います。

  でも、ノイマイヤーのような偉い振付家というのは、どんなに若いときの作品であっても、今の作品に通ずる一貫した基本方針というか、太い幹や堅固な基盤のようなものがすでにあるなあ、と思いました。自分はこういう作品を創りたい、というはっきりした考えやイメージを持っている。

  逆に言えば、「感性」や「感覚」だけに頼って、自分の振付について曖昧で茫漠とした考えしか持ってない人は、「振付家」には向いてないでしょう。「振付の仕事」はできるでしょうけれどね。

  ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』は、もしハンブルク・バレエが上演するのならまた観てみたいです。ですが、デンマーク・ロイヤル・バレエではもう観なくてもいいかな、というのが正直な感想です。
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阿修羅展

  日曜日、デンマーク・ロイヤル・バレエ団の『ナポリ』終演後、そのまま東京国立博物館へ行って「阿修羅展」を観ました。

  『ナポリ』が終わったのは6時前で、いまごろなら空いているだろう、と思いながら国立博物館へ向かいました。ところが、券売機のある入り口には「待ち時間20分」という看板が立っていました。日曜日の夕方なのにまだ混んでるの!?と驚きましたが、20分くらいならまあいいや、と思ってチケットを買いました。

  「待ち時間20分」よりもっと驚いたのは、チケット販売窓口に貼ってあった紙でした。そこにはこう書かれていたのです。「阿修羅像のフィギュアは完売しました。

  気持ちは大いに分かります。私だって、もし売店で阿修羅像のフィギュアを売っていたなら、食指が動いたに違いありません。あんなに魅力的な像ですからね。

  しかしながら、国宝だからという以前に、冒し難い崇高な威厳が漂う阿修羅像を、フィギュアなんぞにしていいのか、悪ノリのしすぎ、不謹慎ではないのか、という思いも抱きました。・・・・・・と言いつつ、私も欲しかったなあ、阿修羅フィギュア。

  阿修羅展の展示品は全部で75点と少なめですが、全75点のうち58点が国宝、10点が重要文化財と内容は特濃です。

  鏡やら銀盤やら水晶やら琥珀やら瑪瑙やら和同開珎やら(←すべて国宝)はわるいけどテキトーに見ました。目指すは八部衆像、一番の目当てはもちろん阿修羅像です。

  ただ、敵(←?)もさるもの、八部衆像と十大弟子像がずらっと展示された部屋に阿修羅像はいませんでした。阿修羅像は別に展示室が設けられ、そこで一体だけ独立して展示されていたのです。

  でも、八部衆像も十大弟子像もそれぞれ非常に趣があり、像の後ろに回って「像裏」を見られるのも嬉しいです。八部衆の鎧や十大弟子の衣は背面も細かい彫塑が施されており、八部衆の後頭部の髪の流れなどもきちんとしていました。また像の名前を書いた古そうな付箋が貼ってあるのを見つけたりすると、ちょっと得した気分になります。

  次はとうとう阿修羅像と対面です。特別に設けられた展示室にはスロープを降りて入っていくようになっていますが、そのスロープからも阿修羅像を見ることができます。もう夜7時だというのに、阿修羅像の展示室は黒山のひとだかりでした。

  阿修羅像は部屋の真ん中に置かれた正方形の台の上に立っていました。来館者はその台の周囲を回って、三面六臂の阿修羅像を360度の角度から見ることができるのです。もちろん「阿修羅裏」も見れました。上半身に斜めにかけた衣の裾が、背中に美しく垂れ下がっていました。

  阿修羅像は思ったより小さくて細かったです。ですが、他の八部衆像や十大弟子像とは明らかに別格の強烈なオーラを放っていました。

  いちばんよいのはやはり顔です。特に正面の顔は、真正面から見ても、斜め前から見ても、真横から見ても、斜め後ろから見ても、ことごとく魅力的でした。生きている人間でも、これほど美しい顔はめったにあるまい、と見とれてしまいました。

  眉根をわずかに寄せ、まっすぐに前を見つめている阿修羅は何を思っているのか、仏師はこの阿修羅像によって何を表現したかったのか、いまだ解明されていないらしいだけにますます神秘的であり、イメージもまた広がります。

  奈良時代に作られた一連の像は、木彫りではなく、麻布の上に漆を塗るという作業を5回繰り返して塑造し、その上に漆と木の粉を混ぜたペーストを盛って細かい部分を仕上げていくという方法で作られたのだそうです。あの独特の柔らかな質感はこの製造法に由来するのでしょう。同時に展示されている、鎌倉時代の木彫りの仏像が持つ豪壮な質感とは対照的でした。

  阿修羅像が展示されている台の周囲には、ドーナッツ状に来館者の層ができています。私もその中に混ざりながら、「なんかベジャールの『ボレロ』みてえ」と思いました。そういえば、阿修羅像の三面六臂は踊りに見えないこともありません(見えないか)。

  折しも、ニュースでは新型インフルエンザがどうのと騒いでいましたが、来館者のほとんどはマスクをつけていませんでした。その理由は分かります。八部衆、十大弟子、四天王、菩薩、阿弥陀三尊、釈迦如来という最強この上ない布陣に立ち向かうほど、新型インフルエンザのウイルスは愚かではないだろうということを、みな知っていたからに他なりません。 
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ナオミちゃんの写真

  アダム・クーパーの公式サイトで、アダム・クーパーとサラ・ウィルドー夫妻の愛娘、ナオミちゃんの写真が公開されました。イギリス人っていうのは、パーソナルなことは大っぴらにしたがらないのか、それともオープンにしたがるのか、よう分からんです。ダーシー・バッセルも自分の子どもたちと一緒に写った写真を平気で公開してたしなあ。

  さて、ナオミちゃんのお写真を拝見したら、お顔立ちが「これぞまさしくアダム・クーパーとサラ・ウィルドーの娘」という感じで、思わず大きくうなずいてしまいました。早い話が、クーパーとウィルドーの顔を足して2で割ったらこんなふうになる、というのを文字どおり体現しています。

  お目々のあたりはお父さんとお母さん似ですね。で、お鼻は、完全にアダム・クーパー似です。激似というよりはほとんど複製です。感心してしまいましたわ。

  将来はやっぱりバレリーナかしらね。ナオミ・クーパーというダンサーが20年後くらいにバレエ界に登場するかもしれません。楽しみだわ~。
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“Shall We Dance”プロモ動画

  アダム・クーパーの公式サイトで、今夏に上演されるアダム・クーパー振付・主演(音楽:リチャード・ロジャース)“Shall We Dance”のプロモ動画が、サドラーズ・ウェルズ劇場の公式サイトで観られることが紹介されておりました。

  さっそく跳んで観てみました。クーパー君が女性と踊っている、また男性と並んで踊っている映像でした。ですが、踊りはぶつ切り、上半身のアップが多くて全身の動きが見えない、その上あっという間に終わってしまい、正直なところ「もっと見せろー!」という感じです(←これも販売戦略か!?)。

  クーパー君の髪は割と長めでなでつけていて、おそらくこの映像は今年の2~3月に収録されたものだと思います。4月前半の丸刈りからまだ1ヶ月ちょっとの短期間で、髪があんなに伸びるはずはないもんね。

  それはともかく、映像の時間は短いながらも、クーパー君のダンス能力は健在なことがうかがえるダイナミック且つ流麗な動きが観られるので、あらためて安心しました。

  聞いたところによると、“Shall We Dance”の舞台装置は大きな階段くらいしかないそうです。ですから事実上、「踊り一本で勝負」というショウになるみたいですね。

  観に行きたいけどな~。今年の夏は仕事が忙しいんだよな~。それにロンドンには先月に行ったばかりだしね。私の財布もすっかり大不況なこの情勢下、どうしようか。

  ところで、最近はクーパー君に関する情報が多いですね。一時期(特に2007年)はほぼ音沙汰なしで、公式サイトでさえ数ヶ月に一度更新されればマシだったころに比べると、ファンにとって今はかなり嬉しい状態になりましたわ~。
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デンマーク・ロイヤル・バレエ『ナポリ』

  今日は上野の東京文化会館でデンマーク・ロイヤル・バレエ日本公演『ナポリ』を観て、それから同じ上野公園内にある東京国立博物館(平成館)で「阿修羅展」を観ました。

  まずは『ナポリ』から。『ラ・シルフィード』を振り付けたオーギュスト・ブルノンヴィルの作品ということでしたが、プログラムをよく読むと、ブルノンヴィルの原振付は第一幕と第三幕の一部のみで、あとはすべて後人の改訂振付や追加振付だそうです。

  ただ、現存しているのはほとんどが後人による振付だといっても、ブルノンヴィル風の振付は保持しているはずで、第二幕の振付が全体からみれば他とかなり趣を異にしている以外は、振付の感じや印象は同じでした。

  それは、やはり細かくて複雑な足さばきです(ヨハン・コボーの原点を見たような気がした)。男性も女性も、とにかく足技でみせてくれました。なんか最初から最後まで、ダンサーたちの足の動きばっかり見ていました。

  この『ナポリ』はジャンプが高いとか、何回転もするとか、股が180度以上も開くとか、そんなことを売り物にしている作品ではありません。ですから見た目はやや地味ですが、派手になり過ぎないように抑制された端正で上品な振付と、ふんだんに盛り込まれたマイムとで充分に楽しむことができました。

  ところが、そのマイムの種類が多すぎて時に意味が分からず、プログラムを事前に読んでいなければ、あらすじなどとても分からなかったろうと思います。『マイム事典』ではおっつかないほど種類と量が豊富でした。

  特に第一幕は踊りが少ししかなく、物語はほとんどマイムで進行します。私は意味のない踊りばかり見せられるよりは、マイムばかりのほうがまだ我慢できるので、第一幕は踊りがなくても面白く感じました。デンマーク・ロイヤル・バレエ団のダンサーたちが、みな演技達者だったせいもあります。

  『ナポリ』の振付は多種多様な足技とエレガントで抑え目な動きを特徴としていたので、今週末のジョン・ノイマイヤー振付『ロミオとジュリエット』を観なければ分かりませんが、でもおそらく、デンマーク・ロイヤル・バレエ団は、シュトゥットガルト・バレエやハンブルク・バレエほどのレベルを持つカンパニーではないと思います。ひょっとしたら、英国ロイヤル・バレエ団よりもちょっとだけ劣るかもしれません。

  デンマーク・ロイヤル・バレエ団のダンサーである以上、ブルノンヴィル風の細かくて複雑な足技は十八番であっていいはずですが、そんなに細緻で流麗だというほどでもなかったし、群舞も踊りが揃ってなかったし、ちょっと高度な体育会系のテクニックになると、途端に動きが不安定になるダンサーも多かったです。

  しかし、ダンサーたちの略歴を読むと、ほとんどがデンマークの出身で、そうでなくとも、デンマーク・ロイヤル・バレエ学校上がりのダンサーが大多数を占めています。自国人からダンサーを供給し、自前の学校でダンサーを育成し、そうしてバレエ団に入れているわけで、ほぼ完全自給自足のバレエ団であることは本当にすばらしいと思います。

  『ナポリ』の舞台装置はみなとても良かったです。特に第二幕「青の洞窟」のセットはとりわけ美しく、洞窟内を巧みに、神秘的に再現していてすばらしかったです。第三幕の古い城壁をモティーフにしたらしいセットも印象的でした。

  衣装のデザインや色彩、模様もきれいでした。ただ、主人公のジェンナロをはじめとする猟師たちの衣装、白いシャツに白い短パンというのは、二丁目あたりではモテファッションだと思いますが、主人公が短パンだと、どーもカッコよさに欠けるというか、かなり微妙でした。

  第二幕で登場する海の王、ゴルフォの衣装も、なんだか海の王様というよりは派手な衣装のプロレスラーかデーモン小暮かという感じで(特に腰の幅広ベルトはチャンピオンを思わせる)、短パン姿のジェンナロとプロレスラーみたいなゴルフォが争っているシーンはちょっと笑えました。

  ヒロインのテレシーナの「衣装早替わり」が面白かったです。第二幕、青の洞窟に運び込まれたテレシーナは、海の王ゴルフォによって海の精に変えられてしまいます。エプロンスカートという町娘の衣装を着たテレシーナが岩の上に立つと、一瞬の間にするっと衣装が脱げて、青色のワンピースの海の精の衣装に変わります。

  また、テレシーナを探して青の洞窟にやって来たジェンナロに救い出されたテレシーナが再び岩の上に立つと、海の精の衣装がまた一瞬の間にするっと脱げて、元の町娘のドレスに変わります。ちゃんと客を楽しませることを考えているなあ、と感心しました。

  ジェンナロ役のトマス・ルンドについては、正直「この人がプリンシパル!?」と不思議に思いました。でも演技はとてもよかったです。お調子者でコミカルだけど、でも本当は優しくて誠実、という雰囲気がよく出ていました。

  テレシーナ役のティナ・ホイルンドは、プロフィルの写真よりも実物のほうがはるかに美人でした。演技はもちろん、踊りも優雅で安定していてすばらしかったです。第三幕の踊りでは、ポワントで立って両脚をコンパスのように広げるのが、エカテリーナ・クリサノワ(『エスメラルダ』)か、シルヴィ・ギエム(『白鳥の湖』)レベルでした。片脚を真横に伸ばしたまま静止するポーズも美しかったです。

  でもプログラムを見たら、彼女はソリストでした。「この人がソリスト!?」とやっぱり不思議に思いました。どこのバレエ団も、男子は層が薄く、女子は層が厚いのかもしれません。

  あとは、第三幕でソロを踊った男性ダンサー(白いシャツ、青か水色のタイ、同色の腰ベルト、黒髪でちょっとカイル・マクラクラン似)がよかったです。

  東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏がすばらしかったです。指揮をしたヘンリク・ヴァウン・クリステンセンもよかったのだろうと思います。

  『ナポリ』を観ていると、『ドン・キホーテ』、『ジゼル』、『ラ・シルフィード』、『レ・シルフィード』、『オンディーヌ』、『真夏の世の夢』のシーンが次々と浮かんできます。『ナポリ』は他のクラシック・バレエの古典作品にあるすべての要素を併せ持つ、まさに古典中の古典なのだなあ、と思いました。
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更新しました

  3ヶ月ぶりにサイトのほうを更新しました。ラッセル・マリファントの“Two:Four:Ten”の感想です。このブログに書いたものに加筆・修正を加えたものです。相変わらず「いったんもめん」で長いですが、よかったらご覧になって下さいませ。

  新型インフルエンザは、ついに日本国内でも人から人への二次感染が起こりましたね。いずれは発生すると分かりきっていたことですが、今ひとつ危機感がありませんでした。

  でも、ニュースで騒いでいるのでさすがに心配になりました。今はまだ関西圏にとどまっていますけど、関東圏、特に東京が何事もなく済む確率はゼロに等しいでしょう。せめて電車内とか駅の構内とかではマスクをしようかと思い、近所の薬局にマスクを買いに行きました。

  そしたら、みなも同じように不安に思ったのでしょうね。マスクはすでに品薄状態でした。残っていた医療用マスクと同質だというマスク(ちょっとお高い)を購入しました。店員さんに聞いたら、やはりニュースのせいか、この土曜日になってマスクが一気に売れたそうです。

  新型インフルエンザは毒性は弱いそうで、インフルエンザそのものを怖いとは思いません。が、なによりも怖いのは、新型インフルエンザに罹ったことによる「人的な風評被害」です。つまり、新型インフルエンザに罹った場合、完治したとしても、その後も周囲から差別を受ける可能性が、特にこの日本の場合は高いと思います。

  今日はデンマーク・ロイヤル・バレエの『ナポリ』を観に行く予定です。大勢の人々で混雑する場所に出かけるわけで、ぜんぜん怖くないかと言われれば、やはり一抹の不安はあります。

  でも、会場でマスクしてたらやっぱりヘンですよねえ。観客が全員マスクしてたら、ダンサーたちはかなり異様に思うでしょう。

  というわけで、目下悩んでいるところです。どうしたもんか。
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アダム・クーパー、『回転木馬』に代役で出演

(“Carousel”が上演されているSavoy Theatre)

  アダム・クーパーの公式サイトに「スーパー・クーパー、再び登場」という見出しで、小さな記事が載っています。なんと、クーパー君が、自らが振付した『回転木馬(Carousel)』(サヴォイ劇場、ロンドン)に代役で出演したというのです。

  それは5月13日(水?)の夜公演のことだったそうで、誰の役なのか具体的には書いていませんが、「主要な役の一つ」だとのことです。理由は、その役を担当するキャスト、そしてそのアンダー・スタディ(代役)が、ともに体調不良で出演できなくなってしまったからだそうです。  

  たまたま、クーパー君は最近、降板したそのキャストとリハーサルをしていたため、代役として舞台に立つことができたそうです。

  気になるのは、クーパー君が誰の役の代役に立ったのかということです。私はこの4月にロンドンにラッセル・マリファントの“Two:Four:Ten”を観に行った際、クーパー君が振付を担当した『回転木馬』もついでに観ました。

  クーパー君の振付にも興味があったし、あとはやはり、『回転木馬』は音楽(リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン2世による)が断然イイですもん。

  主人公のビリーでは絶対にないと思います。可能性のある役としては、ビリーの悪友、ジガーが考えられます。ジガーはかなり踊るんです。第一幕第三場の“Blow High,Blow Low”では、ダイナミックな振付の男性群舞が踊られます(←批評でも褒められていた)。ジガーはこの群舞の中心となって踊ります。

  ジガーはもちろんセリフもたくさんしゃべるので、クーパー君が担当したのはジガー役ではなかったかもしれませんが、この男性群舞の中に混じっていたのは間違いないと思います。

  あと可能性があるのは、『回転木馬』最大の見せ場、第二幕第四場の“Ballet”です。ビリーの娘、ルイーズがカーニバル・ボーイと踊る、かなり長いバレエ・シーンです。ただ、カーニバル・ボーイ役は、ルイーズ役のキャストと年齢的につりあう若いキャストが担当していて、しかも振付は『海賊』のパ・ド・ドゥの男性ヴァリエーションみたいに、かなり高度でパワフルなクラシック・バレエの技術を必要とするものでした。

  もしカーニバル・ボーイを踊ったのならすごい(技術的にも見た目的にも)ですが、たぶん群舞の一人として踊ったんではないのかしら。

  いちばん考えたくないのは、ビリーの妻、ジュリーの友人であるキャリーの婚約者(後に夫)、イノック役です。映画版でもそうですが、イノックはお笑い担当な役です。それに、確か、ビリー役の人とイノック役の人は踊らなかったような記憶があるんですよね。

  そういうわけで、たぶんジガー役か、男性群舞の先頭で踊る一人か、カーニバル・ボーイ役か、そのいずれかだと推測されます。

  偶然の「サプライズ」だったとはいえ、私も観たかったなあ。

  ちなみに、公式サイトの表題にある「スーパー・クーパー」とは、ロイヤル・バレエ時代のアダム・クーパーのあだ名です。急な代役もいつでも見事にやってのけるので、いつしかそう呼ばれるようになったそうです。
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悲劇じゃない古典バレエ作品

  同僚の中国人の中に、ひそかにバレエに興味を持っているらしい人(女性)がいます。雑談していたあるとき、私はバレエを時々観に行っている、と彼女になんとなく話しました。以来、彼女は折に触れて色々と尋ねてきました。曰く、今度はいつバレエを観に行くのか、チケットの値段は大体どのぐらいしたのか、どこで買ったのか、等々。

  彼女は「自分もバレエを観に行きたい」とはっきり言わなかった(←彼女は中国人にしては珍しく内気でおとなしい)のですが、あまりに私のバレエ観劇について頻繁に尋ねてくるので、私もようやく、彼女はどうやらバレエに興味があるらしい、と気づきました。

  私は彼女から色々と聴取しました。曰く、どの作品を観たいか、またはどんな作品を観たいか、予算はどのくらいか、等々。  

  彼女は恥ずかしそうに、「私はバレエをぜんぜん観たことがないの。ぜんぜん詳しくない。だから、いちばん基本的な作品を観たい」と言いました。じゃあ古典作品、たとえば『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『ジゼル』、『くるみ割り人形』あたりだな、と私は思いました。

  それで、バレエを観に行った会場で公演チラシをもらうたびに、彼女の好みに合いそうな公演のチラシを選んでは、彼女に渡しました。

  『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『ジゼル』、『くるみ割り人形』なら日本のバレエ団がしょっちゅう上演していて、チケットも安いし、良い席も取りやすいからいいかな、と思い、日本のバレエ団の公演チラシも混ぜて渡していたのです。ところが、彼女は明言はしなかったものの、どうやら日本のバレエ団の公演ではなく、欧米、特に英国ロイヤル・バレエ団と、そしてロシアのバレエ団の公演を観たがっているようでした。

  これは私には分かるような気がしました。旧ソ連時代からのつながりで、中国ではロシアのバレエ団による公演が頻繁に行なわれているのです(北京ばかりでなく地方公演もある)。そして、なぜか英国ロイヤル・バレエ団も中国(特に上海)で数年ごとに公演を行なっています。だから、中国人である彼女が、どうせ観るなら英国ロイヤル・バレエ団かロシアのバレエ団の公演を、と思うのも自然です。

  去年は英国ロイヤル・バレエ団、ボリショイ・バレエ団が日本公演を行ないました。私はこれらの公演のチラシを彼女に渡しましたが、英国ロイヤル・バレエ団とボリショイ・バレエ団の公演については、そのチケットの高額さに驚愕してあきらめたようでした。

  ですが、彼女の提示した条件をすべて満たすバレエ団がありました。そう、毎年の年末~1月に日本公演を行なっているレニングラード国立バレエです。ロシアのバレエ団である、レベルが高い、チケットが安い、「基本的」な古典作品を上演している、まさに理想的です。

  私はレニングラード国立バレエのチラシを意気揚々と彼女に見せました。オデットの白い衣装を着た美しいイリーナ・ペレンが写っています。これなら文句はあるまい?彼女はチラシに掲載されている各作品のあらすじを必死に読んでいます。私は彼女に言いました。「いちばん基本的なのは、やっぱり『白鳥の湖』だよ。観に行きたいなら、私も一緒に行くから、チケットを取っておくよ?」

  しかし、彼女は顔を上げると、眉をしかめて一気にしゃべりました。「『白鳥の湖』は好きじゃないわ。だって、白鳥(オデット)と王子は最後に死ぬんでしょ?なんで死ななきゃいけないの?道理に合わないわ!不公平だわ!」

  私は何と言ったらいいのか分かりませんでした。「いや、悲劇だからこそドラマティックなんであって・・・」と言いかけた私をさえぎって、彼女はなおも言いました。「しかも、王子は黒鳥(オディール)と浮気する(←ちょっと違う)んでしょ?なんで白鳥(オデット)はこんな男を最後に許すの?理解できない!」

  彼女は最後にきっぱりと言いました。「私は、不合理な悲劇は好きじゃないの。」

  それでは、一連の古典作品群はほぼ壊滅です。『白鳥の湖』にさえこんなに怒るのだから、まして『ジゼル』や『ラ・バヤデール』なんか観た日には、彼女は憤激のあまり怒髪天を衝く勢いとなることでしょう。

  というわけで、彼女の「バレエ観劇のお初ぅ~」(by シルシルミシル)は、レニングラード国立バレエ『眠れる森の美女』となりました(イリーナ・ペレン主演)。良い公演だったので、薦めた私の顔も立ちましたし、もちろん彼女の義憤が爆発することもありませんでした。終演後には、会場だった東京文化会館近く、丸井上野店のレストラン街にあるロシア料理店「マトリョーシカ」で夕食を食べ、グルジア産のワインを飲みました。彼女は上機嫌でした。

  先日、マリインスキー・バレエとキエフ・バレエ日本公演のチラシを彼女に渡しました。彼女はまたもや熱心に読んでいました。マリインスキー・バレエの『白鳥の湖』は幸福な結末だよ、白鳥と王子が愛と正義の力で悪魔(ロットバルト)を打倒するんだよ、と私は付言しておきました。

  が、マリインスキー・バレエのほうは、チケット代が高額なせいか乗り気でないようです。キエフ・バレエは厳密にいえばロシアのバレエ団じゃないけど、同じ東欧圏のバレエ団だしレベルも高い、と説明したので、キエフ・バレエの公演のほうに行きそうです。たぶん、『くるみ割り人形』を観に行くんだろうと思います。

  彼女が忌み嫌っている『白鳥の湖』についても、いずれは観に行きたい、と彼女は言っていました。

  「今年は『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』を観て、来年には『白鳥の湖』を観たいわ。『二箇年計画』よ。」 彼女は言いました。

  それにしても、悲劇じゃないメジャーな古典作品(近年の振付はダメ)って、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』の他に何があります?『ドン・キホーテ』、『ライモンダ』はセーフ、『ラ・シルフィード』はアウト、『海賊』はどっちなんだ?
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スキミング被害に遭いました

  今日、私が使っている某クレジット・カード会社から電話がかかってきました。セキュリティ管理部の方ということでした。用件はカードの使用確認です。

  クレジット・カード会社「日本時間で昨日の午後11時にドバイでカードを使用されましたか?」
  私「ど、どばい!?」

  いや、知ってますよ。中東にあるドバイでしょ?もちろん行ったこともなければ、カードを使用した(しかも昨日の午後11時!?)こともありません。

  私「行ってません!使ってません!!それは私じゃありません!!!(汗汗汗汗)」
  クレジット・カード会社「では、不正使用ということで、こちらで処理させて頂きます。お客様がお支払いになることはございませんので、どうぞご安心下さい。」
  私「ありがとうございますうぅぅ~(涙涙涙涙)」

  クレジット・カード会社「ですが、これはお客様のカード番号がすでに流出しているということですので、新規の番号で新しいカードを発行させて頂きます。現在のカードは今すぐに切って廃棄されたほうがよろしいかと存じます。カードの使用も今すぐ無効になさいますか?」
  私「はい!今すぐに止めちゃって下さい!!!!!」
  クレジット・カード会社「かしこまりました。」

  話には聞いていましたが、よりによって自分がその被害に遭うとは。そう、スキミングです。

  偽造された私のカードで、顔も知らぬ犯罪者が何を買ったのか聞いてみました。そしたら、最初は日本円に換算して9,000円ほどの化粧品を購入し、それから2回に分けてそれぞれ5万円ほどの化粧品を購入しようとした、ということでした。

  カードが不正使用されたのは1回目のみで、2、3回目は「セキュリティ・システムが作動して」(←どういう仕組みなのかはよく分からない)、カードの使用が拒否されたため、未遂に終わったそうです。

  念のため、最近(4月)のカードの使用明細を一つ一つ確認していきました。すなわち、「イギリスで4月○日にどこそこで、○日に某家電量販店で」というふうに。幸いなことに、他に不正使用された履歴や形跡はありませんでした。

  私「こんなことははじめてです・・・・・・。タイミング的に、たぶん、向こう(イギリス)でやられた(スキミングされた)んでしょうね。」
  クレジット・カード会社「そうですね、おそらく海外でだと思います。」

  電話を切ると、すぐにそのクレジット・カードを細かく切り刻んで、複数に分けて捨てました。

  私は基本的にクレジット・カードが好きではありません。なので、なるべく現金で清算しています。清算額が大金だとか、クレジット・カード決済しかダメだとか、やむを得ない場合だけクレジット・カードを使います。

  それは海外でも同様です。先月、ロンドンでクレジット・カードを使用したのは数箇所に過ぎません。だからはっきり覚えています。以下、使用順。

  1.宿泊したB&B
  2.A劇場のボックス・オフィス
  3.B劇場のボックス・オフィス
  4.某有名美術館のショップ

  上の4箇所の中で、どこでスキミングされたか、心当たりがないわけではありません。B&Bです。

  宿泊代をクレジット・カードで清算しようとした際、従業員がカード清算機(信用照会機)に私のカードを何度か通しましたが、みなエラーでした。そこで従業員が、「機械が読み取れないから、カード本体をコピーして、コピーした紙をクレジット・カード会社に提出する」と言い、私のカードはコピー機にかけられました。

  以前にはなかったことなので、なんだかヘンだなあ、と思ったことは思ったのです。でも、まさかスキミング犯罪に利用されるとは想像もしていませんでした。私がうかつでした。

  ただ、そのB&Bが組織的にやったとは思っていません。おそらくは、誰か(たぶん従業員の一人)がカード清算機、もしくはコピー機に変な仕掛けをして、客のクレジット・カードのデータを盗んでいたのでしょう。そのバカが私のカードのデータも犯罪組織に横流ししたのだろうと思います。

  クレジット・カードはやっぱり危ない。私は認識を新たにしました。これからは、たとえ大金であろうと、宿代も現金で清算します。みなさまもどうかお気をつけ下さい。
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ボツメキの謎

(八塩山。山頂にはまだ雪が残っているのが見えた。)  

  ゴールデン・ウィークが終わりましたね。 みなさま、いかがお過ごしでしたか~?

  私の今年のゴールデン・ウィークはカレンダーどおりでした。で、土曜日から水曜日まで実家に帰省してました。

  連休期間中、東京は天気に恵まれなかったようですが、秋田は毎日暖かくて青空の広がる良いお天気でした。

  となると、ほぼ毎日どこかに出かけることになりました。この時期、ウチの母親は山菜採りに熱中します。ですから、出かけるのは例外なく山の中です。まあ、山の中は人がいないし(熊はときどきいる)、静かだし、良い空気で森林浴ができるし、私も文句はありません。

  山菜採りに慣れると、どこに山菜が生えていそうか分かるらしいのです。母親は「あっ、あそこに山菜がありそう」と言っては車を止め、鎌と籠(山菜採りセット。必ず車に配備)を持ってそこへ歩いていき、地面を見て回ります。

  私には雑草の生い茂った普通の草むらにしか見えません。ですが母親の目は鋭く山菜を見つけ(←これも慣れるとすぐに見分けられるんだそう)、鎌で刈り取っていきます。

  ちなみに採っているのは、ワラビ、ミズ、サシボ、フキ、タラの芽などです。ワラビとミズはおひたしにして、サシボはマヨネーズをかけて、フキはオリーブ油で炒めてお醤油とからめて、タラの芽は天ぷらにして食します。

  母親が山菜を採っている間、私はぼーっとして鳥の声に耳を傾け、東京にはない静寂に浸り、周りの風景を見ています。母親に協力すべきなのでしょうが、どれが山菜なのか識別できないので手伝いません(でも食べるけど~)。

  車で走っていると、道路沿いの草むらに母親の同志(ライバル)の姿が何人も何人も何人も見えます。みな一様に地面を見つめて歩き回っています。言うまでもなく、彼らが山菜を採っているのは他人の私有地か国有林です。でも山菜採りに関しては、そんな野暮は言わないのが暗黙の了解です。

  同じ草むらに数人が山菜を採っていることもあり、「あっ、それはオレが狙っていたタラの芽なのに」、「ふん、早い者勝ちだもんね~」と、焼肉店で時おり起こるトラブルのように、山菜をめぐってケンカになったりしないのかな、と思いました。が、母親によれば「そんなことあるわけねえべ」とのことです。でもいつかは、「山菜採り殺人事件」が起きるんではないか、と私はひそかに思いました。そのときはガチで全国ニュースになるでしょう。「秋田で山菜をめぐってトラブル、鎌で襲いかかる」とか。

  そういえば、夫婦で山菜を採っていて熊に遭遇し、奥さんのほうが熊に引っ掻かれた次の瞬間、旦那さんが熊の頭にケリを入れてヒット、熊が退散した、というニュースが『秋田魁新報』に載ってました。旦那さんはスパイク入りの長靴を穿いていたそうで、専門家(←何の?)の話では「熊は頭を蹴られてびっくりして逃げたのではないか」とのことです。てか、「熊はびっくりして逃げたのではないか」って、これが「専門家」のコメントかよ。

  さて、ある日も山の中へ入っていくと、母親が「この近くに『ボツメキの水』があるから、寄って水を汲んでいこう」と言いました。うねる山道をしばらく走ると、上の写真にある八塩山の麓に「ボツメキ涌水」と書かれた木の看板が立っていました。驚いたことに、途中で車一台にもすれ違わなかったのに、ボツメキの水には(田舎スタンダードで)多くの人が来ていました。

  直径1メートルほどの石組みの水槽には水が満々に溢れ、水面の真ん中から水が沸き起こっているのが見えます。その奥には岩が重なっていて、岩の間からも水が溢れ出ています。岩の下には湧き水でできた小さな小川が流れていました。岩の間には湧き水を導く竹製の筒が3本くらい差し込まれており、人々はその竹製の筒にボトルの口を添えて、水を汲んでいます。

  母親は3~4リットルは入るプラスチック製の大きなボトルを車の中から出しました(←これも車に常備しているらしい)。私はみなと同じように竹製の筒からほとばしる湧き水を汲みました。手で飲んでみると、ひんやりと冷たくて、クセがなく、かなり飲みやすい感じがしました。

  湧き水の傍にはボツメキ湧き水を説明する看板がありました。湧き水の上にある八塩山(やしおざん)に積もった雪が融けて、その雪どけ水が八塩山のブナ林でろ過され、更に地中深くに滲みこんで、再び地上に湧いて出てきているそうで、縄文時代から使われていたそうです。

  でも、私が気になったのは「ボツメキ」という名前です。漢字表記がなく、すべてカタカナで記されています。「ボツメキ」という語感はかなり異様な気がします。

  帰りに「道の駅」(国道版SAのようなもの)に寄ったら、ボツメキの湧き水で作った地ビール「ボツメキビール」を売っていました。喜んで購入しました。

  家に帰ってから、「ボツメキ」という語をググってみました。そしたら、私と同じように「ボツメキ」という語に興味を持った人は多いらしく、検索数が900件くらいありました。

  私は「ボツメキ」とはアイヌ語ではないか、と予想していました。北海道に限らず、東北地方にもアイヌ語の地名は多く残っています。「ヤチ(湿地)」、「アタゴ(小さな山)」などです。

  検索したところ、「ボツメキ」には古代日本語説とアイヌ語説の二つがあり、いまだ結論が出ていないそうです。アイヌ語説では、「ボツメキ」とは「泡が立つ」意だとのことです。泉が湧いている様を「泡が立つ(ボツメキ)」と表現したのではないか、ということですな。

  「ボツメキ」が古代日本語であれアイヌ語であれ、なんだか古代のロマンを感じるし、神秘的でよいなあ、と思いました。  
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