アメリカン・バレエ・シアター『マノン』(2月28日昼)-1


  お天気の良い暖かな平日の日中にお出かけして、なんか不思議な感じだった。とても楽しかった♪


 『マノン』全三幕(2014年2月28日13:00開演、於東京文化会館大ホール)


   振付:ケネス・マクミラン

   音楽:ジュール・マスネ
   選曲・編曲:レイトン・ルーカス、ヒルダ・ゴーント
   改訂編曲:マーティン・イエーツ

   舞台指導:ジュリー・リンコン、内海百合
   装置・衣装デザイン:ピーター・ファーマー(てっきりニコラス・ジョージアディスのを使ってると思ってたので残念)

   照明:クリスティーナ・ジャンネッリ(照明ちょっと暗すぎ)

   指揮:デヴィッド・ラマーシュ(愛嬌のあるカワイイおっさん)
   演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(すばらしかったです!!!!!)


   マノン:ポリーナ・セミオノワ(脚と爪先でもっと表現したほうがよかった。でも第三幕での脚の動きは壮絶で雄弁だった)

   デ・グリュー:コリー・スターンズ(ソロもパートナリングもよく頑張ってたし、原振付や演出から勝手にはみ出さず、好感が持てた)

   レスコー:ジェームズ・ホワイトサイド(勢いとスピードでごまかさず、もっと丁寧に踊ってほしかった)
   レスコーの愛人:ヴェロニカ・パールト(超美人。踊りも艶があって見事)

   ムッシュG.M.:ヴィクター・バービー(これほど存在感のないムッシュG.M.もめずらしい。外人のおっさんがやりゃいいってもんじゃねえな)
   マダム:ニコラ・カリー(これほど存在感のないマダムもめずらしい。外人のおばさんがやりゃいいってもんじぇねえな)

   物乞いの頭:ジョセフ・ゴラック(なにも身体の硬いダンサーにこの役を踊らせなくても。膝曲げピルエットもできてなかった)
   老紳士(第一幕):クリントン・ラケット(特になし)

   高級娼婦:ジェマ・ボンド、メラニー・ハムリック、ローレン・ポスト、エイドリアン・シュルツ、カレン・アップホフ(特になし)
   紳士たち(第二幕):アレクセイ・アグーディン、グラント・デロング、ルイス・リバゴルダ(互いに動きを合わせて、間隔をしっかり取って踊ってくらさい)

   看守:トーマス・フォースター(デニス植野?)


  平日の昼公演にしては観客が大入りだったのでびっくりしました。4階席まで観客がいたような?

  上にも書きましたが、アメリカン・バレエ・シアターはお金持ちだろうから、ニコラス・ジョージアディスがデザインした装置と衣装を使ってるはずだ、とすっかり思いこんでました。ジョージアディスの重厚な装置と豪華な衣装を見るのが楽しみでもあったので、少し残念でした。ジョージアディスの装置と衣装を使ってるのは、本家の英国ロイヤル・バレエくらいなのかしらね?でも、パリ・オペラ座バレエ団は使ってそうだな。

  照明は大いに問題ありだと思います。スタッフの技術不足かもしれません。たとえば、前奏曲の終わりに幕が開いて、座っているレスコーの姿が現れるシーンでは、レスコー役のジェームズ・ホワイトサイドの表情が完全に影になってしまって見えませんでした。あとは、第二幕でデ・グリューがムッシュG.M.に怪我を負わせて逃げ、レスコーが机の陰に隠れるシーンでも、照明を落とすのが異常に早くて、最後はどうなったのかが分からなかったり。

  演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、非常にドラマティックなすばらしい演奏でした。奏者のみなさんの力量が高く、指揮者のデヴィッド・ラマーシュとの関係もうまくいったのでしょう。ラマーシュは陽気で気さくそうな雰囲気の人でした。ラマーシュがオーケストラ・ピットに出てきて、指揮台から客席に向かってにこにこ笑うだけで、会場がかなり盛り上がりました。

  海外のバレエ団が日本で公演を行う場合、ソワレ(夜公演)が上でマチネ(昼公演)が下、という区別があるのかどうかは知りません。区別があるのだとしたら、今回は昼公演にふさわしい出来だったと思います。

  主要キャストの中で、ムッシュG.M.役のヴィクター・バービー、マダム役のニコラ・カリー、物乞いの頭(「乞食」という語はNGだけど「物乞い」はOKなのか?)役のジョセフ・ゴラック、看守役のトーマス・フォースターについては何も書きません。個人的には、何か書くほどの演技でも踊りでもなかったから。

  ああ、一つだけ(←右京さん)。第三幕の沼地の場面、意識の朦朧としたマノンの脳裏に、過去のいろんな人々が浮かんでは消えるところで現れたニコラ・カリーのマダムが、なんとドレスをふんづけてつまづいてすっ転んだ。絶対にミスしちゃいけないシーンで凡ミスするのはやめてほしいっす。

  (その2に続く)

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「グラン・ガラ」再び(追記あり)


  キエフ・バレエに在籍する田北志のぶさんが内外のダンサーたちに呼びかけ、2013年3月に行われた東日本大震災チャリティ・ガラ公演「グラン・ガラ」が、今年7月に再び開催されます(前回の公演の感想は 2013年3月20日21日23日 にありますです)。

  TBS公式サイト に詳細が発表されました。

  今回も仙台と東京で1回ずつ公演が行われます。


 「東日本大震災復興祈念チャリティ・バレエ 第2回"グラン・ガラ・コンサート"~私たちはひとつ!!~」

  仙台公演:7月9日(水)18:30開演、東京エレクトロンホール宮城

  仙台公演の詳細は TBC東北放送公式サイト をどうぞ。仙台公演のチケット発売は3月15日(土)からです。

  東京公演:7月14日(月)19:00開演、Bunkamuraオーチャードホール

  チケット一般発売は3月2日(日)からです。詳細は上記のTBS公式サイトをご覧下さい。

  出演予定ダンサーは、田北志のぶ(キエフ・バレエ)、アレクサンドル・ヴォルチコフ(ボリショイ・バレエ)、アレクサンドル・ザイツェフ(シュトゥットガルト・バレエ)、イーゴリ・コルプ(マリインスキー劇場バレエ)、ブルックリン・マック(ワシントン・バレエ)、エカテリーナ・マルコフスカヤ(フリーランス・ゲスト・ダンサー)、エレーナ・エフセーエワ(マリインスキー劇場バレエ)、オレーサ・シャイターノワ(キエフ・バレエ)、ニキータ・スハルコフ(キエフ・バレエ)、マリーヤ・アラシュ(ボリショイ・バレエ)です。

  前回の公演に出演したダンサーたちが今回もほぼ全員参加します。前回と同様、なんと超豪華メンバーなことよ(感嘆)。キエフ・バレエのオレーサ・シャイターノワとニキータ・スハルコフは初参加ですね。ちなみに、両人ともこの前のキエフ・バレエ日本公演には来てなかったようです。

  上演予定演目は以下のとおり。


 ・『パリの炎』(音楽:ボリス・アサフィエフ、振付:ワシリー・ ワイノーネン)よりパ・ド・ドゥ:オレーサ・シャイターノワ、ブルックリン・マック

  シャイターノワは未見です。ブルックリン・マックは非常に優れたダンサーです。強いテクニックと身体能力とを持っています。特筆すべきはマックのパートナリング能力の高さで、初めて組むバレリーナであっても、自然に合わせてサポートしリフトできる能力の持ち主です。

  ただし、アメリカのダンサー独特の娯楽性に富んだ踊りや、黒人独特のしなやかで弾力のある身体の動きが苦手だ、という方は戸惑うかも。  

 ・「Como Neve al Sole」(振付:ローランド・アレシオ):エカテリーナ・マルコフスカヤ、アレクサンドル・ザイツェフ

  この作品は未見。

 ・『白鳥の湖』より黒鳥のパ・ド・ドゥ:エレーナ・エフセーエワ、イーゴリ・コルプ

  おなじみの定番演目っす。エフセーエワとコルプ、楽しみですね。

 ・「La rose malade(薔薇の死)」(音楽:グスタフ・マーラー、振付:ローラン・プティ):田北志のぶ、ニキータ・スハルコフ

  この作品は「病める薔薇」という名前で、ウリヤーナ・ロパートキナ(マリインスキー劇場バレエ)が日本で踊ったものと同じだと思います。音楽はマーラーの交響曲第5番のアダージェットでした。

 ・『ラ・バヤデール』第三幕よりニキヤとソロルのパ・ド・ドゥ:マリーヤ・アラシュ、アレクサンドル・ヴォルチコフ

  この二人は前回の公演で大活躍しました。『ライモンダ』もすばらしかったのですが、観客の度肝を抜いたのが、『スパルタクス』からエギナとクラッススのパ・ド・ドゥ特別ヴァージョン。アーユー人間?な踊りで大迫力でした。

  今回は年末のボリショイ・バレエ日本公演で『ラ・バヤデール』が上演されるのに合わせてか、『ラ・バヤデール』第三幕のパ・ド・ドゥです。てか、これをガラ公演でさらっと踊るってさ(笑)。まさか、ヴェールの踊りからコーダまでもやるつもりなんだろか?まさかね(といいつつ、コイツらならやりかねないところがまた)。

 ・『エスメラルダ』よりパ・ド・ドゥ:オレーサ・シャイターノワ、ニキータ・スハルコフ

  前回の公演で、田北さんとヤン・ヴァーニャが踊ったのと同じやつだと思います。タンバリン踊りのほうじゃなくて。ボリショイ・バレエが上演した全幕がYou Tubeに上がってるよ。

 ・「As above, So below」(振付:エドワード・ライアン):ブルックリン・マック

  未見です。しつこいですがマックは優れたダンサーなので、振付が多少「なんだかな~」でも、マックが踊りでカバーしてくれると思います。

  追記:公演チラシに記載されている田北志のぶさんによる「今回の公演の見どころ」に、「ブルックリンさんのソロですが、断られるのを承知でお願いしたら、快く承諾していただけました。今回も彼にしか出せない世界を見せてくださいます」と意味深な文がありました。これは俄然大きな興味が湧いてきました。

 ・『赤と黒』よりパ・ド・ドゥ(振付:ウヴェ・ショルツ):エカテリーナ・マルコフスカヤ、アレクサンドル・ザイツェフ

  これも未見。『赤と黒』って、あの『赤と黒』?だとしたら、マルコフスカヤがレナール夫人で、 ザイツェフがジュリアンでしょう。ザイツェフがジュリアンって、ハマり過ぎ(笑)。マルコフスカヤも雰囲気がぴったり。まだ分かんないけどね。

  追記:上記の田北さんの紹介によると、マルコフスカヤはマチルドで、踊られるのはジュリアンとマチルドの寝室のパ・ド・ドゥだそうです。

 ・『黄金時代』(音楽:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、振付:ユーリー・グリゴローヴィチ)よりタンゴ:マリーヤ・アラシュ、アレクサンドル・ヴォルチコフ

  なぜか日本ではさっぱり上演されない幻の(?)名作。アラシュとヴォルチコフは、いつもボリショイならではの演目を踊ってくれますな。

 ・『シェヘラザード』(音楽:リムスキー=コルサコフ、振付:ミハイル・フォーキン)よりパ・ド・ドゥ:田北志のぶ、イーゴリ・コルプ

   (田北さんのゾベイダ)

   (コルプの金の奴隷)

  今回の公演で最も注目される演目でしょう。田北さんのゾベイダにコルプの金の奴隷!田北さんがゾーンに入ったときに発散される神がかり的な凄絶さと、コルプの強い個性とがどんな化学反応を起こすのか、すごい楽しみ。

 ・「ディアナとアクティオン」(振付:アグリッピーナ・ワガノワ)よりパ・ド・ドゥ:エレーナ・エフセーエワ、ブルックリン・マック

  トリにふさわしい、盛り上がりそうな演目ですね。マックのソロが大いに期待されます。

 フィナーレ「花は咲く」:全員

  今回も心にしみるサプライズがあるのかも。


  田北さんはキエフ・バレエの団員ですから、もちろんウクライナ在住です。現在のウクライナの情勢は報道されているとおりです。キエフ・バレエ、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団、歌劇場スタッフのみなさんのことを、私はとても心配しています。

  それでも田北さんやキエフ・バレエのみなさんが、日本の震災を今も忘れずに行動を起こしてくれる強い意志と優しさを、心から尊敬します。

  キエフ・バレエは、この間も日本であんなにすばらしい舞台を見せてくれた。ウクライナ、というよりキエフ・バレエのダンサーたちのために、何かできないものかなあ…。

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こうなるんじゃないかと思っていた


  こういう展開になるんじゃないかと思っていた。


<以下引用>

  「代作」問題受け、聴覚障害の認定方法見直しへ

 読売新聞 2月18日(火)18時15分配信

  田村厚生労働相は18日の衆院予算委員会で、聴覚を失った作曲家として話題を集めた佐村河内(さむらごうち)守さんが「聴力の回復」を明かしたことに関し、聴覚障害認定のあり方の見直しを検討する考えを明らかにした。

  聴覚障害者が障害者手帳を申請する際には、音が聞こえるかどうかを自主的に申告する聴力検査と医師の診断書が必要になる。

  田村氏は、より精度の高い脳波検査の導入について、「(検査機器の普及が十分でなく、検査費用も高額になるとという)問題点もあるが、(佐村河内氏の)案件の事実関係をしっかり調査した上で検討したい」と述べた。

  聴覚障害2級の障害者手帳を取得していた佐村河内氏は、12日に発表した直筆謝罪文で「3年前くらいから、言葉が聞き取れる時もあるまでに回復していた」と記していた。

<引用終わり>


<以下引用>

  <佐村河内さん問題>聴覚障害の認定方法を見直しへ 厚労省

 毎日新聞 2月21日(金)11時9分配信


  「全ろうの作曲家」として知られたものの「聴力は3年くらい前から回復していた」と告白した佐村河内(さむらごうち)守さんの問題を受け、厚生労働省は21日、聴覚障害の認定方法を見直す方針を明らかにした。来月にも専門家による検討会を開き、これまで必要とされていない脳波を調べる検査機器の活用や、一定期間後に再認定のための検査を実施するかどうかなどを議論する。

  田村憲久厚労相が、同日の閣議後の記者会見で明らかにした。厚労省によると、聴覚障害者に身体障害者手帳を交付する場合、医師の診断が根拠になっている。その際、検査費用の高い脳波検査は必要とされていないが、実施すれば精度の高い診断が可能になる。

  一方、佐村河内さんが障害年金を受給していたかについて、田村厚労相は個人情報を理由に回答しなかった

<引用終わり>
  

  2012年の春ごろから、生活保護を「不正受給」しているという人々、また生活保護を受けている人々を「経済的余裕があるにも関わらず援助しない」親族を、無条件にバッシングする動きが一部の国会議員、マスコミ、ネットユーザーたちの間で起きた。

  そのような「世論」の高まりを受けて、わずか1年半後の2013年秋、改正生活保護法が成立した。生活保護受給申請の条件がいっそう厳しくなり、親族の扶養能力の有無が厳格に審査され、生活保護費の支給額の引き下げも行なわれることになった。

  不正受給を防止するという謳い文句で改正されたこの法案によって、逆に、本当に生活保護を受けざるを得ない人々が、生活保護を受給できないどころか、申請すらできない状態に追い込まれていると推測されている(おそらく真実だろう)。

  しかし、これは国にとっては願ったり叶ったり、あるいは当初の狙いどおりのことだった。改正生活保護法の目的は、生活保護に回さなくてはならない予算を縮小することであって、不正かどうかなどは実のところ関係なく、予算額を切りつめることができればそれでよかった。社会保障費を削れるところまで削ることが、国にとって目下の急務であるからだ。

  国はこう考えているかもしれない。税金も保険料も払えないような連中には何の存在価値もない、どうして国がそんな連中を助けてやらなくてはいけないのか、と。

  今回の騒動も、国にとっては好都合だろう。これを理由にして、まず聴覚障害の認定申請の条件、ついで認定基準を厳しくする。将来的には、他の障害の認定申請の条件と認定基準すべてを厳しくし、障害認定の幅を狭め、障害者年金を引き下げ、医療保険の補償範囲を限定し、医療費の負担率を上げ、障害者に対する各種優遇措置の規模を縮小(できれば廃止)というところまでもっていきたい。それが国の本音だと思う。

  佐村河内守の最も大きな罪は、国が障害者を切り捨てる「正当」な口実を与えてしまったことだ。

  それを、長年のあいだ見て見ぬ振りをしてきて、最近になって自らを「共犯者」と称して謝罪しながらも、今後は自分を理解し擁護してくれる音楽家コミュニティの安全圏の中に引きこもって、過去をなかったことにしようという新垣隆も同罪である。

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オリンピック中と戦中


  オリンピックが行なわれるたびに、おんなじ記事を書いていると思いますが…。

  情報番組はともかく、ニュースと銘打っている番組まで、内容は冬季オリンピック一色。しかも、どの局のどの番組も、メダルを獲った選手の苦労譚と感動物語ばかり。構成も内容もみな同じ。

  メダル有力候補として持て囃しておきながら、メダルを獲れなかった選手はいつものことながら完全無視で、いなかったことになっているらしい。

  今回の冬季オリンピックに関する報道の過熱ぶりは、前回の冬季オリンピック時よりも更にひどくなっているように感じる。異様だし異常だ。気味が悪い。

  ふと母に言った。「戦時中って、テレビはなかったけど新聞はこんな感じだったのかも。」

  ただ口に出しただけで、母の同意を得ようと思ったわけではなかった。オリンピックを熱心に観ている母には分からないだろうと思ったから。

  ところが、戦中生まれの母は言った。「んだ、良いことしか言わね、都合の悪いことは言わね、でなあ。こんなだった。」

  戦時中、マスコミ、当時は専ら新聞が、特定の軍人や兵士の「活躍」を盛んに報道して称賛し、国家の英雄に祭り上げた。しかし、そのマスコミ報道が仇となった。戦後、彼らは戦時中のマスコミ報道を根拠に戦犯として裁判にかけられ、最終的に死刑に処せられた者もいた。

  ある遺族は、彼らの家族が戦争犯罪人として裁かれたことに、終戦から数十年を経た後も納得できなかった。

  私はその遺族の思考に納得できなかったが、今、こうしてマスコミがメダルを獲った選手たちを過剰に持ち上げて大はしゃぎしている様を見ると、戦後に裁かれた軍人たちや兵士たちもまた、戦中はこのようにマスコミが暴走して、誇張もまじえて報道していたのかもしれない、

  それならば、マスコミのそれらの報道を証拠として、戦後に彼らがいきなり戦犯として訴追され処刑されたのは、本人はもちろん遺族にとっても納得のいかないことだったろう、とはじめて思った。

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ロイヤル・エレガンスの夕べ2014


  ついに 公式サイト で詳細が発表されましたよ~!

  現時点での出演予定ダンサーは当初の発表どおりで、ラウラ・モレーラ、サラ・ラム、崔由姫、ネマイア・キッシュ、スティーヴン・マックレー、リカルド・セルヴェラ、平野亮一(以上英国ロイヤル・バレエ)、佐久間奈緒、ツァオ・チー(以上バーミンガム・ロイヤル・バレエ)。個人的にはモレーラ、ラム、セルヴェラがまた来てくれるのが嬉しい♪

  予定演目も発表されました。NBSあたりの主催なら絶対に上演されないだろう(笑)レアな作品ばかりです。


 ・『真夏の夜の夢』よりオベロンとタイターニアのパ・ド・ドゥ(フレデリック・アシュトン振付):ラウラ・モレーラ、ツァオ・チー

  ツァオ・チーが佐久間さんとではなく、モレーラと踊るというのがまず面白い。モレーラのタイターニアってのも新鮮。


 ・「レクイエム」よりソロとパ・ド・ドゥ(ケネス・マクミラン振付):崔由姫、ネマイア・キッシュ

  マクミランがジョン・クランコを追悼して作ったという作品。音楽はフォーレの『レクイエム』だったと思います。「ソロ」はアダム・クーパーが踊ったものと同じかもしれませんが、「パ・ド・ドゥ」は観たことがありません。


 ・「エニグマ変奏曲」よりトロイトのソロ(フレデリック・アシュトン振付):リカルド・セルヴェラ

  熊川哲也さんがK-Balletの公演で上演したことがあるのでは?セルヴェラを単体で観られるのは嬉しいです。


 ・『眠れる森の美女』より第3幕のパ・ド・ドゥ(マリウス・プティパ振付):サラ・ラム、スティーヴン・マックレー

  定番演目ですが、ロイヤル・バレエで上演されているこのグラン・パ・ド・ドゥの振付は、ロシア系のものとは違うようです。ロイヤル・バレエの振付のほうが見ごたえがあり、また難しいのではないかと個人的には思います。ラムとマックレーの偏差値高い&音楽性高いペアなら安心保険。


 ・「ルーム・オブ・クックス (Room of Cooks)」(アシュレイ・ペイジ振付):ラウラ・モレーラ、リカルド・セルヴェラ、ネマイア・キッシュ

  日本初演だそうです。10数年以上前の作品のはずです。初演されたときの批評しか読んだことがありませんが、変わった作品らしいです。でもこうやって上演されるってことは、向こうでは人気があって、息の長い作品になったのでは?


 ・クリストファー・ウィールドン作品(未定):サラ・ラム、スティーヴン・マックレー

  理解可能な作品でよろしくお願いします。


 ・「エリート・シンコペーションズ」よりスウィート・ハート(ケネス・マクミラン振付):崔由姫、リカルド・セルヴェラ

  宇宙人衣装のあの作品ですね。音楽はスコット・ジョプリンで、TVCMや映画でしょっちゅう使われてます。


 ・「アスフォデルの花畑」より第2楽章(リアム・スカーレット振付):ラウラ・モレーラ、ネマイア・キッシュ

  きたかリアム・スカーレット!観させてもらおうじゃん!ロイヤル・バレエのゴリ押し「振付家」ではないことを証明してもらいましょー。


 ・「ディアナとアクティオン」(マリウス・プティパ、アグリッピーナ・ワガノワ振付)佐久間奈緒、ツァオ・チー

  なんか前にもこの二人でこれを観たことがあるような気が?記憶違いかな。


 ・「レイヴン・ガール」よりパ・ド・ドゥ(ウェイン・マクレガー振付):サラ・ラム、平野亮一

  これも日本初演だそうです。理解可能な作品でありますように。


 ・クリスティン・マクナリー作品(未定):崔由姫

  こちらはなんと世界初演。クリスティン・マクナリーはロイヤル・バレエの現役ダンサー。『不思議の国のアリス』ではデカい包丁持って凶悪な顔した料理女を踊りました。振付もやるのか~。「海外公演を利用してキャリアの既成事実を作る」系の作品じゃないといいですね。


 ・「QUIZAS(キサス)」 (ウィリアム・タケット振付):ラウラ・モレーラ、リカルド・セルヴェラ

  タケットキター!!!これも日本初演。タケットなら盤石でしょー。


 ・「~Tap~(未定)」(スティーヴン・マックレー振付):スティーヴン・マックレー

  作品名は決まってないけど、タップ・ダンスがメインな作品ってことなんでしょう。前回もそうでしたね。好きだなあ。


  楽しみですね。

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白梅


  今度は白梅。


  


  


  いまどきは周囲の建物とか写り込ませちゃいけないそうだから、気遣うわー。背景、空ばっかり。
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ベルディヒ空気伝説検証-2


  今年の全豪オープン、ベルディヒ(あっ、IMEが覚えてくれたよ!)は青と白の縦ストライプのシャツに赤いズボンという、いまこそ空気感を払拭せんとする強い意欲に燃えたウェア↓で試合に臨んだ。

  

  この強烈な色と柄のウェアには私も仰天した。胸元、袖、背中、帽子に"H&M"と書いてあったのを見て更に驚愕した。

  ベルディヒはH&Mとスポンサー契約を結んでいるからだが、しかしこのウェアはあんまりだ、とベルディヒが気の毒だった。しかもこういうときに限って、ノヴァク・ジョコヴィッチが着ていたユニクロのウェアがカッコよかったのである。

  ジョコヴィッチが準決勝まで進んでいたら、ユニクロ対H&Mという夢のファスト・ファッション対決が実現したところだが、残念ながらジョコヴィッチは準々決勝でワウリンカに敗れてしまった。が、これはベルディヒとH&Mにとってラッキーなことだったといえる。

  個人的な意見として、ベルディヒはぜひ「しまむら」とスポンサー契約を結ぶべきだと思う。ユニクロとH&Mは目指すところが違うが、しまむらとH&Mは方向性が似ている。私はH&M渋谷店しか行ったことがないが、H&M渋谷店の品揃えを見て、心中「これならしまむらの勝ちだ」とひそかに思ったものである。

  全豪オープンでベルディヒが着用した青と白の縦ストライプシャツは、確かにファンの間に大きな衝撃をもたらした。これでベルディヒの存在感が一気に増すかと思われたが、しかし実際には、「ベルディヒはローソンでバイトしているらしい」という都市伝説を生み出したに過ぎなかった。またこれにともない、2ちゃんねるでも、「空気」と呼ばれていたベルディヒのあだ名として、「ローソンの店員」が新たに加わった。

  ベルディヒは準決勝に進出したため、あだ名も「ローソンの店員」から「ローソンの主任」に昇格した。しかし準決勝でワウリンカに敗れたので、「ローソンの店長」には昇格できなかったらしい。また、あだ名としては長すぎるという理由からか、今では「ローソン」という略称で落ち着いた模様である。(しかし、全豪オープン後すぐに「空気」に戻ってしまった。)

  追記:ドバイ・デューティー・フリー選手権におけるベルディヒのウェアを見る限り、ベルディヒはバイト先をローソンからファミリーマートに変えたものと思われる。

  次なる問題は、ベルディヒは果たして海外でも空気扱いされているのか?ということである。

  私はGAORAが放映している『ATPマガジン(ATP UNCOVERED)』を毎週録画して観ている。ちなみにGAORAは最近、いつも『日本ハムファイターズキャンプダイジェスト』ばかり放映しているが、そろそろテニスの大会も放映してほしい。で、なんだっけ、この『ATPマガジン』は、毎週のシングルス・ランキングのトップ10を紹介している。1位はラファエル・ナダル、2位はノヴァク・ジョコヴィッチ、3位にスタニスラス・バブリンカが浮上、てな具合に紹介していくのだが、なぜかベルディヒはほぼ毎回スルーされるのである。

  こんな感じ。1位から5位まで紹介してきて、「6位はアンディ・マレー」、次は当然7位のベルディヒに言及するはず、と思ったら、「フェデラーは8位に後退、その後にリシャール・ガスケ、ジョー=ウィルフライ・ツォンガが続きます」とベルディヒを完全にスルー。これが2週連続で続いたときには、「ベルディヒは海外でもやっぱり空気だったー!!!」と、飲んでたコーヒーを噴き出しそうになった。

  私個人の経験を顧みるに、ベルディヒはどの大会でも常に準々決勝や準決勝まできちんと上がってくるが、その準々決勝や準決勝の間に、常にいつのまにかいなくなっている、という印象がある。おそらく、勝っても負けても、対戦相手の名前のほうがニュースの見出しに使われてしまうためかと思われる。あるいは、ベルディヒの勝敗の結果が、他の選手の記事の最後に付け加えられて終わることが多いせいもあるだろう。

  最も悲惨なのは、ATP公式サイトを見ていて気づき、またしてもコーヒーを噴き出しそうになったことには、実は、ベルディヒは2013年シーズン、1回も優勝していないのである。1回も優勝していないことが悲惨なのではない。1回も優勝していないのに、「ベルディヒ不調」とかメディアに騒いでもらえないことが悲惨なのである。

  ロジャー・フェデラーが2013年シーズン、1回しか優勝していないことで「フェデラー今季絶不調」、「フェデラーはもう終わりか」などと大騒ぎされたのに比べると、扱いの違いは明らかである。ニュースの見出しでも「ベルディヒ、今季復活を誓う」とか「ベルディヒ、再起に向け好発進」とか「ベルディヒ、復調への手ごたえ感じる」とかいった文句を見た覚えがない。

  ベルディヒのランキング6位または7位に対するこだわりから察せられるように、ベルディヒが目立たない最も大きな理由は、ベルディヒのキャリアの傾向がH&M路線ではなく、むしろ無印良品路線であることだと思われる。

  色とデザインは定番中の定番で品質は確か、シンプルだが質が良くて長く使えるという無印良品の特質は、激しいアップダウンがないベルディヒの安定したキャリアと相通ずるものがある。しかし、シンプルすぎて逆に着こなしが難しく、うまく着こなせないと単なる地味な服になってしまう無印良品のもう一つの特質もまた、ベルディヒの空気感と共通する点である。

  要は、そろそろグランド・スラムのタイトルを一つくらいとっとけ、ランキングももっと上を目指せ、ということである。フェデラーだけにはめっぽう強い選手として満足していて、それでいいわけがない。もっと上見て欲出せ。

  ベルディヒが目立たないもう一つの大きな理由は、単純明快、どの大会のどの試合でも帽子をかぶってプレーしていることである。顔が見えないんだから、顔が覚えられないのも当たり前。休憩中には帽子を脱いでいるのかもしれないが、試合をテレビ観戦しているほうだって、休憩時間にはコーヒーを淹れに行ったりトイレに行ったりする。

  フェデラーみたいに、どんなに強烈な直射日光浴びても頑として帽子をかぶらないようにしろ、と言ってるのではない。ジョコヴィッチやマレーのように、必要なときにだけ帽子をかぶればいいんじゃないかと思う。ATP公式サイトの顔写真よく見たら、ベルディヒはけっこうイイ男だ(←ここ大事)。イケメンぶりを公開しないのは罪が深い。

  こう書きながら、ベルディヒの顔を思い浮かべようとしてもまだ浮かんでこない。ATP公式サイトのウィンドウを閉じた瞬間に忘れてしまったらしい。あ、代わりに(?)ティムラズ・ガバシュヴィリが出てきた。

  ベルディヒのファンのみなさん、茶化しちゃってほんとごめんなさい。

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ベルディヒ空気伝説検証-1


 注意:以下の記事には、トマーシュ・ベルディヒ選手を笑いものにした内容が含まれています。同選手の関係者及びファンのみなさまにおかれましては、どうかお読みになりませんよう、切にお願い申し上げます。


  ATP(男子プロテニス協会)が2014年2月10日付けで発表するシングルス世界ランキングトップ10。

   1.ラファエル・ナダル(スペイン)
   2.ノヴァク・ジョコヴィッチ(セルビア)
   3.スタニスラス・ワウリンカ(スイス)
   4.ファン・マルティン・デル・ポトロ(アルゼンチン)
   5.ダヴィド・フェレール(スペイン)
   6.アンディ・マレー(イギリス)
   7.トマーシュ・ベルディヒ(チェコ)
   8.ロジャー・フェデラー(スイス)
   9.リシャール・ガスケ(フランス)
   10.ジョー=ウィルフライ・ツォンガ(フランス)


  私が10数年のブランク(1999~2012年)を経て、再びプロテニス、もっぱら男子の試合を観戦し始めてから1年半。

  特に上記トップ10の選手たちを中心に、フェデラー以外の選手の顔もなんとか識別できるようになってきた。フェデラーについては、テレビ画面の中で豆粒ほどの大きさであっても、その動き方や打ち方の特徴ですぐに分かるほど進歩した。

  しかし、こうしてトップ10の名前を見渡して、どうしても顔を思い浮かべられない選手が1人だけいる。トマーシュ・ベルディヒ(Tomas Berdych、チェコ)である。

  ベルディヒはわが愛するロジャー・フェデラーの天敵であり、フェデラーをバカにした発言をインタビューで堂々と言ってのける大胆不敵な選手である。だから私はベルディヒが嫌いである。ベルディヒが負けたというニュースを読むたびに、「ざまあみやがれ」と心中快哉を叫んでいる。

  しかし、嫌いという感情は、好きと同じく積極的なものである。みなさんもご自分の日常の人間関係に置きかえてみて下さい。嫌いな人の顔って、意外にすぐ思い浮かぶものじゃありませんか?  

  ベルディヒは私にとって憎むべき相手である。それなのに、その顔が思い浮かばない。いったいなぜなのか?ちなみに他のトップ10の選手たちはこうやって見分けてます。


   ラファエル・ナダル:唸り声がデカい。いつも大汗をかいている。顔やウェアを神経質にいじる。
   ノヴァク・ジョコヴィッチ:頭髪がウニ。脚がよく開く。身体が細長い。
   スタニスラス・ワウリンカ:不精ヒゲ。顔が野呂佳代に似てる。
   ファン・マルティン・デル・ポトロ:トップ10の中で最もイケメン美男子1時間くらい見つめあっていたいサルマタみたいな緩いズボンを穿いている。
   ダヴィド・フェレール:ドングリを両方のほっぺたパンパンに詰め込んだ状態のリス、あるいは顔をふくらませて威嚇するフグに似ている。
   アンディ・マレー:フランシスコ・ザビエル。
   リシャール・ガスケ:顔がおっさんぽく、顔の大きさが身長に占める割合が大きい。
   ジョー=ウィルフライ・ツォンガ:トップ10の中で最もかわいい膝枕で耳かきをしてあげたい

   【番外編】ガエル・モンフィス:体型と動きと髪型が独特。
        グリゴール・ディミトロフ/ミロシュ・ラオニチ:見分けがつかない。この二人が対戦すると非常にまぎらわしい。
        バーナード・トミック:ダニエル・ラドクリフに似てる。
        ジョン・イスナー:眉毛が濃くてぶっとい。イモト。体がデカい。
        イェジィ・ヤノヴィッツ:勝つと豪快にウェアを破る。高見盛。こないだ、「ジャージー・ヤノヴィッツ」と名前が表記されていた。修学旅行か乳牛の品種?

        レイトン・ヒューイット:意外と小柄。
        トミー・ハース:デル・ポトロの次にイケメン見つめあいたい
        ミハイル・ユーズニー:顔がコワい。夜道で遭遇したら逃げる。


  さっき、ATP公式サイトに行って、ベルディヒの紹介ページを見てきた。2010年から堅実にトップ10の地位を守り続けている。特に6位とか7位にいるのが好きらしい。これほどの選手なのに覚えられないのは、私がおかしいのかもしれないと思い、試しにグーグルで「ベルディヒ 存在感 ない」で検索かけたら、なんとサジェスト機能で「ベルディヒ 空気」と検索候補語が出たではないか!みなそう思っていたのだ。

  ベルディヒはその存在感の薄さから、日本の一部のテニス・ファンの間で「空気」と呼ばれている。名付け主は2ちゃんねるのユーザーたちの模様。さすがだ。2ちゃんねるは的を射た意見が実は多い。ユーモアのセンスも抜群で、しょっちゅう爆笑させてもらっている。

  ベルディヒには「空気伝説」なるものが存在するらしい。まとめると、

  1.これほどのトップ選手なのに、カタカナによる名前表記が一致していない。ウィキペディアによれば、「トマシュ・ベルディヒ」、「トーマス・ベルディハ」、「トマス・ベルディッチ」、「トマス・ベルディフ」、「トーマス・ベルディッチ」と各種あるという。

  確かに、テニスのニュースを読むと、ベルディヒは記事ごとに名前のカタカナ表記が異なるといっても過言ではない。更に英語の実況中継で、「トーマス・バーディッチ」、「トーマス・ベルディック(←ミネラルウォーター?)」などと呼ばれているのを聞いたこともある。またカタカナ表記のみだと、私はしばしばベルディヒとトマス・ベルッチ(Thomaz Bellucci、ブラジル)とを混同してしまう。

  他のトップ10選手の場合は、せいぜい「アンディ・マレー」か「アンディ・マリー」か、「スタニスラス・ワウリンカ」か「スタニスラス・バブリンカ」かといった違いしかない。

  2.数年前の全豪オープンの試合中、休憩時間にボール・パースンを最初は手で呼んだが気づいてもらえず、次に声をかけて呼んだがこれも無視された。更に、チャレンジを要求した際、なぜかそのポイントに限ってホーク・アイが記録しておらず、機械にも無視されるという空気っぷりを発揮した。

  3.大会中にコートの外を歩いていても、みんなに気づいてもらえない。

 というものらしい。

       
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芸術の規則


  うかつにこんな題名を付けちゃいけないんだけど…。私はブルデュー理論をほとんど理解できていないけど、頭にパッと浮かんだのがこの書名だったから。

  今、WOWOWでワーグナーの『パルジファル』(メトロポリタン・オペラの舞台だそう)を放映しています。

  『パルジファル』は、ワーグナーのオペラ(と呼ばせて頂きます)の中で、私が最も好きな作品です。ワーグナーの他の作品と違って極端でなく、バランスが良いというか、中庸を保っている感じのする作品だから。たまたまWOWOWにチャンネルを合わせたら放映してて、「つかまって」しまいました。さっき、第二幕に入りました。第二幕に入っちゃったら、もう最後まで聴き続けるしかない。

  あ、花の乙女たちとクンドリがパルジファルを誘惑する場面になった。ここから見どころだから、しばし休憩。(ほぼ1時間後)第二幕終了。面白かった。花の乙女たちがみんな貞子だったぞ(笑)。しかも足元、血の池だし。ジャパニーズ・ホラー。花の乙女の中でソロで歌う歌手が東洋系の人だった。この役を歌っているということは、他の作品では主役を歌っている歌手なんでしょう?何て名前の人なのかしらね。

  クンドリ役の歌手の歌と演技は迫力があった。クンドリって、ワーグナーのオペラに出てくる女の中で最も面白い人物。他のヒロインたちは、みんな頭にお花が咲いた女ばっかりでしょ(笑)。パルジファル役の人も、パルジファルが覚醒した後は、演技ばかりか歌声も一変していてすばらしかったです。クリングゾルの投げた槍がパルジファルの前で止まるシーンは、もっとドラマティックなほうが好きだなー。

  パルジファル役のヨナス・カウフマンって確か、2011年の震災後、出演予定だったメトロポリタン・オペラ(5月)をはじめとする各来日公演を全部キャンセルした歌手だよね。ジェームズ・レヴァインも病気だか故障だかでキャンセルしたんだった。いや、あの時点では、彼らは当然な決断をしたんだよ。

  一方で、あえて来日したプラシド・ドミンゴやズービン・メータのような人々もいる。頭では、カウフマンやレヴァインの選択は正しいと分かっている。でも感情では、今後もずっとカウフマンやレヴァインを、「そういう目」で見てしまうだろうことは仕方ない。

  「現代のベートーベン」騒動は、いろんな意味で興味深い。『週刊文春』も買って読んだ(やっぱり売れ行きがよいらしくて、最後の1冊だった)。「ゴーストライター」氏の記者会見も観た。

  文春やテレビが今回のことを報道するまで、その「現代のベートーベン」と呼ばれた作曲家のこと、名前も姿もまったく知らなかった。本当。すごく有名な人だったそうだけれど、いったいどこでそんなに有名だったのか、まったく見当がつかない。したがって彼の曲もぜんぜん聴いたことなし。

  私は新聞取ってないし、テレビも以前はほとんど観なかったが、ネットでニュースは毎日ちゃんとチェックしてる。こんな大騒ぎになるほど有名な「作曲家」を、どうして知らないでいられたのだろう?

  Amazonは、おそらく昨日の夕方から、この「作曲家」の作品CDの販売を中止した。騒動が大々的に報道されてから、出品者が大量に出て、ものすごい値段がついていた。動画投稿サイトには今でもアップロードされ続けているだろうが、そこまでして聴くつもりはない。Amazonのユーザー・レビューを読んだら、「後期ロマン派」、「マーラー」、「ブルックナー」という語がやたらと目についた。あのへんの音楽を想像すればいいらしい。

  WOWOWが放映している『パルジファル』は第三幕に入っている。放浪していたパルジファルがグルネマンツの許にたどり着き、クンドリがパルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水を潅ぎかける。私が『パルジファル』の中で最も好きな部分。救いが感じられる穏やかな音楽。

  くだんの「現代のベートーベン」騒動は、音楽を聴いた者が抱く、こうした感動がしょせんは勝手な思い込みであり、ただの幻想にすぎない、ということをも暴露してしまった。この騒動で提起された問題はたくさんあるが、一点に集約すれば、「芸術とは本質的な価値を有するものである」という、芸術なるものを成立させている根幹の幻想をぶち壊してしまったことだと思う。

  矛盾している。文春の記事の中で、「ゴーストライター」氏はこう言っている。「依頼は現代音楽でなく、調性音楽(和音をベースにした音楽)でしたから、私の仕事の本流ではありません。…(略)…あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました。」

  だが実際には、「あの程度の楽曲」に感動した人々が多く出たわけだ。その後、「現代のベートーベン」氏の作品は、メディアや聴衆のみならず、クラシック音楽の批評家たちや同業の作曲家たちの称賛をも受けてきた(日本のある有名な作曲家も大絶賛している)。ネット上で「クラシック音楽を専門とする」人々の批評をいくつか読んでみた。意味のよく分からない難解な文章ばかりだったが、「現代のベートーベン」氏の作品を、その「本質のすばらしさ」において称賛しているものには違いなかった。

  (この芸術に関する本質論は、善意の健常者たちが障碍者に対して抱きがちな幻想、すなわち障碍者は心が純粋で清らかで天使のような人々である、という障碍者に関する本質論と共通するものがある。)

  それが今、彼らは一転して、しょせんはモノマネ、軽薄、底が浅い、一貫性がない、などと言い出した。私が最も「都合よく物を言うな」と思ったのは、「現代のベートーベン」氏がピアノが弾けない、楽譜の読み書きができない、つまりクラシック音楽家たるには必須な専門技術がないらしいことを理由に、彼のアイディア(文春やテレビが紹介している図面みたいな「指示書」)をも、「専門家」が「素人」を嘲笑し軽蔑し見下す、あのおなじみの態度で否定し始めたことだ。

  同時に、彼ら「クラシック音楽の専門家」たちの嘲笑と軽蔑と見下した物言いは、「現代のベートーベン」氏の音楽に感動した、無知でミーハーで俗物で真贋の分からない素人大衆にも向けられている。

  「芸術」が「本質的なもの」であるのなら、作品を表現する形式などはどうでもいいし、作品に感動するのは、それを受け取る側である素人大衆に任されることではないのか?

  「芸術家」たちは、「芸術は本質的なもの」であると言う。しかしその一方で、「芸術は専門的な知識と技術が必要なもの」であると言う。芸術を受け取る「素人」に対して、芸術の本質において感動することを求めながら、その本質性が危うくなると、しょせん専門的な知識も教養も技術もない素人に芸術は分からない、などと言い出す。

  今回の「現代のベートーベン」騒動がもたらしたのは、結局は「芸術」なるものの「危うさ」だと思う。だから、「本物」の「芸術家」たちと「専門家」たちは、本質論と専門用語との両方を総動員して場によって使い分け、「芸術」の権威を守ろうとしている。こうした行為そのものが、更に輪をかけて「芸術」に対する人々の幻想(で語弊があるなら)愛情を壊してしまうというのに。

  『パルジファル』は放映が終了した。アムフォルタスの傷は癒え、クンドリはようやく穏やかな死を迎えて救われた。素人大衆の一人である私のこの感動は、何物なのか?

  (仮稿)

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紅梅


  近所の家の庭にある梅の木が花を咲かせた。近くの公園にも梅の木が多くある。さっそく梅を尋ねた。


 


 


  まだまばら。1週間後に再び来てみよう。
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