『雨に唄えば』特番放映


  ジョコヴィッチの胸毛とNHK天気予報の波予想図が似てるとか、アホな記事ばっかり上げててすみません。

  Akiさんがお知らせ下さったように、来週の日曜日、10月5日の昼12:30~1:00に、BS-TBSで『雨に唄えば』の特番が放映されます。


   10月5日(日)午後12:30~1:00 BS-TBS(161~163)
    『ロンドンで大ヒット!ミュージカル「雨に唄えば」舞台裏 全部魅せます!』


  詳細は TBS公式サイト『雨に唄えば』特集ページ をご覧下さい。

  放映が1週間後になったので、もう番組表で視聴・録画予約できると思います。

  BSでなく地上波だったらもっとよかったのですが…。地上波なら偶然この特番を観ることになる人々はもっと多いはずで、それだとより大きな効果が期待できるでしょう。

  以前、『オン・ユア・トウズ』日本公演に出演していたアダム・クーパーが、TBSの地上波の情報番組にゲストで出演したことがありました。その番組が放映された直後の反響は凄まじく(アクセスがどっと増えた)、びっくりした覚えがあります。

  『雨に唄えば』の日本公演が始まったら、なんとかアダム・クーパーに地上波で番宣させてあげて下さい、公演関係者のみなさま。お願いします。

  それはともかく、特番、とても楽しみですね。私個人は、あの水のシステムに興味があります。床の材質、排水、水の循環などです。

  特に排水された水(公演1回につきおよそ10トン)。あの大量の水がどうやって集められ、循環され、再利用されているのか、ウエスト・エンド公演を観たときに興味深く感じました。舞台の真下はオーケストラ・ピットでしたから、どこにそんな装置があるのか、どうしてオーケストラ・ピットに雨漏り(笑)しないのかが不思議でなりませんでした。

  床の材質も気になります。第一幕の後の休憩時間、たった30分弱の間に、大量のスタッフたちがわんさか出てきて、いかにも吸水力がありそうな大型のモップで水を拭き取っていきます。最後にチーフらしいスタッフ一人が舞台のあちこちを歩き回りながら、靴底で床をこするようにして、床の状態をチェックしていました。床は速乾性で、しかもタップ・ダンスやバレエにも適した材料でできているらしいです。どういう材料なんでしょうね(知ったところで素人には分からんと思うが)。

  水拭き取りチームのスタッフたちも、ちゃんと「舞台衣装」を着ていたのも面白かったです。『雨に唄えば』の時代・舞台設定である、1920~30年代の映画撮影所のスタッフ風衣装を着ていました。日本公演でも同じになるといいですね。水拭き取りチームを日本側が担当するのなら、日本人スタッフたちもあの恰好をするのでしょうか。

  このように、歌や踊り以外にも、『雨に唄えば』にはいろいろと気になる点、楽しみな点があるのでした。

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よく見りゃ似てるこの二つ



 ノヴァク・ジョコヴィッチ(プロテニス選手、セルビア)の 胸毛

  


 NHK気象情報波予測図

           


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よく見りゃ似てるこの三人



 小澤征悦(俳優、日本)と

  

 宍戸 開(俳優、日本)と

  

 ファビオ・フォニーニ(プロテニス選手、イタリア)

  


  この間のデビス・カップ準決勝スイス対イタリア、ロジャー・フェデラー対ファビオ・フォニーニ戦第3セットタイブレーク、なんでフォニーニはフェデラーのサーブがアウトだったのにチャレンジせず、明らかにアウトだった自分のリターンに対して無駄なチャレンジをしたのか?

  あのタイブレークは、ミニブレークたった1つでフェデラーが取った。もしフォニーニが、フェデラーの今のサーブはアウトだったとチャレンジしていたら成功していた。そしたら、フォニーニにも第3セットを取るチャンスが増えたと思う。でもフォニーニのあの奇妙なチャレンジのせいで、みすみすフェデラーにストレートで勝たせてしまったような気がする。チャレンジ・システムは有効に活用しなくちゃ。

  全米オープンが終わったその週末にデビス・カップの試合を行なうなんて、国際テニス連盟も何を考えてるんだか。

  イタリア・チームのファビオ・フォニーニとシーモネ・ボレッリはともに2回戦負けしたから、充分な休養と準備期間をとれただろう。一方スイス・チームのスタニスラス・ワウリンカは準々決勝、フェデラーは準決勝に進出した。フェデラーは1日目のシングルス初戦でボレッリと対戦したが、まだ疲れが残っていてへろへろなのが分かった。凡ミスが異常に多かったし。

  それでも、「守るべきとき」と「攻めるべきとき」というものを心得ていて、勝敗に影響する重要な局面では、確実にポイントを取るのはさすがだと思った。

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京都幕末ロマンの旅-5(光縁寺2)


  明治維新を迎えると、新選組は賊徒として扱われました。近藤勇は官軍に投降して斬首され(慶応四年=明治元年、1868)、その首は京都、ついで大阪で晒されました。結果的に新選組に協力した人々も、不安な日々を送ることになりました。新選組が屯所としていた八木家もそうでした。八木為三郎はこう述懐しています。


   「近藤達が京都にいなくなって薩長土(薩摩・長州・土佐藩を中心とする官軍)の世の中になってからは、新選組の宿をしたというので、何かこう絶えず睨まれているような気持がして、近藤先生の首が晒されたという話は聞きましたが、見に行く事さえ出来ませんでした。」(子母澤寛『新選組遺聞』)


  凡誉和尚の話によると、光縁寺も新選組の菩提寺だったということで、ずいぶんと居心地のわるい思いをしたようです。また、光縁寺の敷地は元来はもっと広かったそうですが、嵐山本線に線路用地を提供するため、墓地を縮小せざるを得なかったとか。なんと、今は嵐山本線の線路になっている土地のまさにその上に、新選組隊士たちの墓があったんだそうです。

  というわけで、本堂の裏手にある墓地へ。墓地の北西の隅に新選組隊士たちの墓三基、どうやら沖田総司の関係者らしい、「沖田氏縁者」だという氏名不詳の女性の墓一基があります。

 

  水色の塀の向こうは嵐山本線の線路です。四基の墓石は東を向いています。住職によると、もともとは南向きで、今は線路になっている土地の上に並んで建っていたそうです。嵐山本線への用地提供にともなって墓を移設する際、光縁寺では移葬する墓をみな掘り起こし、墓の下に残っていた遺骨を収集して、現在の墓にあらためて埋め直したそうです。

  現存する新選組の墓は、合葬墓がほとんどです。

 

  家族を合葬するのは理解できますが、赤の他人同士をぎゅうぎゅうづめに葬ってあります。これは現代の私たちには理解不可能な神経です。墓石に刻まれている名前と命日とを照らし合わせると、彼らの命日は近かったり同じだったりで、死んだ順番に無造作に葬ったのが分かります。

  幕末の当時は火葬ではなく土葬がメインでした。合葬墓だったせいもあるでしょうが、住職曰く、墓の移設に際して遺骨を掘り起こしたものの、棺はもちろん遺骨もすでに朽ちて混ざってしまっており、どれが誰の骨なのかは分からなかったそうです。

  赤の他人同士を同じ墓に、死んだ順番に次々と放り込んでいくという、この無造作な葬り方で、新選組が人の死というものをひどく軽んじていたことが知られるわけです。これには複雑な気持ちになりました。

  墓地には私の他には誰もいません。寺の両隣りは塀を挟んですぐにアパートと住宅になっています。静まり返った中、どこからかピアノの音がかすかに聞こえ、風がそよぎ、鳥が鳴いています。目の前には山南敬助らの墓。

 

  山南敬助は脱走に失敗して切腹して死んだ人物で、他の隊士たちもみな似たり寄ったりな、悲惨な死に方をしました。

  横死した隊士たちに対する、新選組による扱いのあまりな雑さには納得できませんでしたが、「でも、こんなに静かな良い場所で、骨をちゃんと拾ってもらって、きちんと供養されてるんだからいいのかもな~」と思いました。京都と大阪で晒された近藤勇の首は結局行方不明になったし、土方歳三に至っては、函館のどこで戦死して、どこに葬られたかすら分かっていない状態です。

  こんなことを考えながら墓地の中でなごんでいると、住職がやって来ました。新選組関係の墓の元来の位置とかは、このときに住職から聞いた話です。

  ここからはまったく私の憶測ですけれども、伊東甲子太郎ら御陵衛士たち4人の遺骸が、最初は光縁寺に葬られたというのは可能性が高いと思います。光縁寺の過去帳の記録と対照すると、伊東ら4名が暗殺された慶應三年(1867)十一月十八日から、同年十二月八日までの間に死亡した隊士たちの墓石が見当たりません。

  おそらく、伊東たちも一基の墓に合葬されたのだと思います。それが翌慶應四年三月、晴れて官軍の身となった旧御陵衛士たちの生き残りによって、伊東たちの合葬墓が掘り起こされ移葬されていったものでしょう。埋葬後まだ4ヶ月余しか経っていませんでしたから、どの棺に誰が納められているのかはまだ判別できたと思います。

  光縁寺の住職と話していて、ふとこう思いました。新選組なんていう無頼の集団の横死した人々を、あえて受け入れて供養したにも関わらず、維新後は賊(新選組)の菩提寺だったということで白眼視された。更に、明治中後期から昭和の戦後にかけてはどこの寺も直面した問題とはいえ、経済難で墓地の土地の一部を切り売りせざるを得ず、それでも地下の骨を丁寧に拾い集めて改葬し供養してきた。

  一方で、新選組のために何かしたわけではなく、実質的にほとんど関係がないのに、新選組ブームが起きてから突然「新選組ゆかりの地」を謳い上げ、見学料を徴収して「新選組人気利権」に与っているところがある。私が光縁寺なら釈然としないだろうし、不合理ささえ感じたかもしれません。

  幕末はまだ終わっていない、と感じたのはこういう理由からです。

  さて、光縁寺の本堂は規模が小さめにも関わらず、豪壮な雰囲気の漂う、風格ある建物でした。

 

  文政二年(1819)の建立だそうです。

  檀家さんの墓も含め、多くの墓石の前に、故人の戒名などを書いた薄い小さな板が置いてありました。幅が10センチ弱、高さは30センチぐらいだったかな。帰り際に住職と話していて、あの小さな板は何ですか、と聞いたら、小型の卒塔婆とのこと。寄進は一枚数百円なり。光縁寺は浄土宗の寺です。こういう小さな卒塔婆は、東北に多い曹洞宗の墓では見ないですよ、と私が言ったところ、住職、「曹洞宗は禅宗やからな、こんな小さいことして稼がんのや!」と言い放ちました。

  さすがは浄土宗、あえて俗に徹する姿勢が見事です。大衆のような弱い者、新選組のような厭われ蔑まれた者をこそ救うのが浄土宗です。凡誉和尚に浄土宗の意地を見た思いがしました。

  四条大宮に出てバスに乗り、東山にある『幕末維新ミュージアム 霊山(りょうぜん)歴史館』に向かいます。どういうところかまったく知らずに行くことにしたのですが、着いて呆然、すわ、こは何の因縁ぞ!と心の中で叫ぶことになってしまったのでした。

  (続く。ごめんねしつこくて。でも次でたぶん終わり)

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京都幕末ロマンの旅-4(光縁寺1)


  注:以下の記事には、インチキ京都言葉が多く出てきます。関西の方々が最もムカつくのは、関西の言葉を話せない人間がモノマネで関西の言葉を使うことだと聞いております。ですが、私は京都の人と話した内容は覚えていても、彼らが具体的にどのような言葉でしゃべっていたかは覚えておらず、かといって彼らの発言を標準語に直しては面白味が薄れてしまいます。よって申し訳ありませんが、あえてインチキ京都言葉を使用させて頂きます。京都出身の方々のご教正を請う次第でございます。


 4.光縁寺

  腹がすいたので昼飯を食べることにしました。ここはゲスくニシンそばでも食いたいところでしたが、このあたりは店自体があまりない住宅街です。ようやく見つけた蕎麦屋(名前失念。ごめんなさい)に入って蕎麦セットを食べました。もりそば、湯葉親子丼(鶏肉の代わりに湯葉が入ってる)、生湯葉刺し、香の物、お吸い物だったと思います。1,000円くらいと安いのに美味かった。

  次に目指すのは新選組の隊士が最も多く葬られた光縁寺ですが、ガイドブックには位置以外の情報がほとんど載っていません。ちょっと奇妙な感じがしたので、蕎麦屋の亭主(←まだ若い男性)に「光縁寺って、見学できるんでしょうか?」と聞いてみました。

  すると亭主、戸惑った顔になって、「う~ん、お参り料を払えば、見せてもらえるっていう話ですけどねえ」と曖昧な返事。近所の人間が、しかも客商売のご近所がはっきりとは知らない。これはヤバい兆候です。もしかしたら見学できないのかもしれない。不安が高まります。

  旧前川邸の前の綾小路通を東に数分歩くと光縁寺に着きます。案の定、光縁寺の正門を見て、げげっ!と足が止まりました。

 

  門ががっちり閉まってます。何この全力で拒否ってる感

  今日は日曜日だから休みなんだろうか?でも寺に休みなんてあるか?と思いつつ近づくと、脇の出入り戸の横に「新選組の墓にお参りの方はこちらからお入り下さい」という小さな貼り紙がしてありました。

  恐る恐る出入り戸をくぐると、出入り戸に付けられた鈴がちりんちりんと鳴りました。すると初老の男の坊さんが出てきました。作務衣の袖なしバージョンを着ています。ここは平身低頭にしくはなし、「新選組のお墓にお参りさせて下さい」と坊さんに両手を合わせて頼みました。「見せて下さい」ではなく、「お参りさせて下さい」と言うのがポイントです。坊さんは意外にもあっさりと承諾してくれました。お参り料として100円払いました。

  このお寺の敷地はさほど広くはありませんが、檀家さんのお墓がたくさんありました。門をがっちり閉めていた理由が分かりました。観光客に気軽に入られて、お墓の中で騒がれたくないのです。新選組のファンは若い人が多いでしょうから、中にはつい大声ではしゃいでしまう人たちもいるかもしれません。それでは檀家さんのお墓の中で眠っている方々にも、ご近所の方々にも迷惑です。

  新選組隊士たちのお墓に行く前に、坊さんとしばらく話しました。この坊さんは光縁寺の現住職、凡誉和尚でした。ちなみに、光縁寺の住職の名前は代々、「○誉」と必ず「誉」の字が付くようです。で、この住職がめちゃくちゃ面白い人でした。ものすごい毒舌和尚だったのでございます。

  住職は私を見てニヤリと笑い、「ここまでいろいろ回ってきたんやろ?」と面白そうに言いました。私がそうですと答えると、和尚は「なんもなかったやろ?」とこれまたニヤリと笑って言いました。私は心中ひそかに感じていたことを言い当てられたのでギクリとしました。

  そう、正直なところ、壬生寺、八木邸、旧前川邸を見て回って、なんだか肩すかしをくらったような感覚を抱いていたのです。最も肩すかし感が強かったのは、実は壬生寺でした。壬生寺には芹沢鴨らの墓がありましたが、新選組の歌碑だの近藤勇の胸像だのを設けて、「壬生塚」という「観光スポット」を無理やり作り上げた感があり、それに違和感を抱いたのです。

  そこで和尚に正直に感じたことを話したところ、いろいろなことを教えてもらいました。壬生寺にある芹沢鴨らの現在の墓は、壬生墓地から移されたものであるということです。私はてっきり、壬生墓地とは壬生寺の墓地のことだとカン違いしていたのです。でも壬生墓地とは当時の壬生村の共同墓地であり、壬生寺とは関係がないこと、壬生寺は勅願寺(天皇の勅命によって、主に国家に関する事案を祈願する寺)なので、幕末時に個人の墓を寺の敷地内に設けられたはずがないことを教えてもらいました。

  後で子母澤寛の『新選組遺聞』で確認したら、子母澤寛が昭和三年に訪れた壬生墓地内にある芹沢鴨、河合耆三郎、野口健司らの墓の向きや位置と、壬生寺の壬生塚内にある墓の向きや並びとは違っています。

  新選組隊士たちの墓だけが壬生寺に移されたのには仕方のない事情もある、という意味のことを和尚は言いました。特に昭和30年代以降に新選組ブームが起きてから、観光客が壬生墓地内に立ち入って騒ぎ、地元の人々のひんしゅくを買うことがあったようです。

  芹沢鴨らの遺骨はどうなったのだろう、一緒に移葬されたのか、と和尚に聞いてみました。和尚は笑って、幕末から100年近くも経った後では、棺はもちろん遺骨も腐っていたろうから、というところまで言いました。つまり、壬生寺にある芹沢鴨らの墓は、「上物」だけだってことなのでしょう。

  この和尚は毒舌(笑)なだけでなく、よそ者にも情け容赦ない京都言葉で、しかも非常な早口で話しました。声音や口調は穏やかなのですが、流れるようにすらすらすらすらペラペラペラペラ話すので、私には衝撃的なことでしたが、たぶん5、6割方しか聞き取れませんでした。そこで、和尚がペラペラ話すのを私が途中でさえぎって、「それは~~ってことなんですか?」と確認し、和尚が「ちゃうがな、~~や」とくり返し話す形で会話が進行しました(いったいどこの国の人間と話しとるんだ)。

  光縁寺の過去帳によって、光縁寺に葬られた新選組隊士たちの氏名が確認できます。現在の光縁寺に残っている墓石に名前が刻まれた人々以外にも、後に墓が他に移設されて、現在の光縁寺に墓石がない隊士たちの名前が過去帳に載っているそうです。その代表格が、慶應三年(1867年)十一月十八日に暗殺された伊東甲子太郎、服部武雄、毛内有之助、藤堂平助ら御陵衛士4人です(話がいよいよマニアックになってきてごめん)。

  伊東甲子太郎は新選組に幹部の身分で中途加入しましたが、新選組内部で有志を募って新選組から分離独立し、新たに「御陵衛士(ごりょうえじ)」と名乗りました。御陵衛士は新選組とは逆の政治的立場、つまり勤皇(親朝廷、反幕府)の側に立ちました。新選組の近藤勇と土方歳三は伊東らの裏切り行為に怒り狂っていましたが、しかし表向きには何食わぬ態を装い、伊東を酒宴に招きました。そして、酔って帰途に就いた伊東を道で惨殺してしまいました。

  そこからが更に凄まじい。新選組は伊東の死骸をわざと道に放置し、それを餌に他の御陵衛士たちをおびきよせました。そして、伊東の死骸を引き取りにやって来た御陵衛士たちを一斉に襲撃しました。服部武雄、毛内有之助、藤堂平助が殺され、他の御陵衛士たちは逃亡しました。裏切り者は絶対に殺す、目的を遂げるためには手段を選ばない、新選組の冷酷さ、恐ろしさ、残酷さがよく分かります。

  光縁寺の過去帳にはこの4名の名前が載っているそうです。しかし、墓石はありません。御陵衛士の一人であった篠原泰之進の手記によれば、伊東ら4人の遺骸は壬生寺に埋葬されたが、明治元年(=慶応四年、1868)三月に別の寺に移葬したとあります(子母澤寛『新選組始末記』)。

  どうもこれがちょっとした論争の種になっているらしいです。光縁寺の言い分は、過去帳に載っているのだから、伊東ら4名は慶應三年十一月に光縁寺に埋葬されたのが、翌年の三月に墓を暴かれて移葬されていった、というものです。しかし、篠原泰之進の手記によって、伊東らが最初に埋葬されたのは壬生寺であって光縁寺ではない、と異議を唱える人々がいるのでしょう。

  どのみち、伊東ら4名は慶應三年十一月の埋葬後、半年も経たないうちにあわただしく移葬されました。篠原泰之進の手記は明治も後になって記されたもので、篠原の記憶が絶対に正しいとは言い切れません。しかしそもそも、伊東甲子太郎らが最初はどこに埋葬されたのであろうが、私にとってはまったく大した問題ではないのです。だってどうでもいいでしょ、そんなこと。

  しかし、幕末から明治にかけて、新選組が京都の治安を守る警察隊から、一転して野蛮な殺人者集団として扱われるようになった時代の変化を味わった人々、その経験を受け継ぐ人々にとっては、どうでもいい問題ではないのです。

  (続く)

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夜来香



   那南風吹来清涼 (南風が涼やかに吹いて来て)
   那夜鶯啼声凄愴 (夜の鳥が悲しげに啼いている)

   月下的花児都入夢 (月の下で花々はみな眠りにつき)
   只有那夜来香 吐露着芬芳 (ただ夜来香だけが芳しい香りを吐き出している)

   我愛這夜色茫茫 (広がる闇夜のうつくしいこと)
   也愛這夜鶯歌唱 (夜に歌う鳥のいとおしいこと)

   真愛那花一般的夢 (花のように美しい夢にたゆたう)
   擁抱着夜来香 吻着夜来香 (夜来香を抱きしめ 夜来香に口づけしながら)

   夜来香 我為你歌唱 (夜来香よ 私はおまえのために歌う)
   夜来香 我為你思量 (夜来香よ 私はおまえのために物思う)

   我為你歌唱 我為你思量 (私はおまえのために歌い、物思う)

   我愛這夜色茫茫 (広がる夜のとばりのうつくしいこと)
   也愛這夜鶯歌唱 (夜に歌う鳥のいとおしいこと)    

   真愛那花一般的夢 (花のように美しい夢にたゆたう)
   擁抱着夜来香 吻着夜来香  (夜来香を抱きしめ 夜来香に口づけしながら)

   夜来香 夜来香 夜来香 (夜来香よ 夜来香よ 夜来香よ)



  「夜来香」とは花の名前です。白い花で、中国の主に南方に咲きます。その名のとおり、夜に強い芳香を漂わせます。

  李香蘭こと山口淑子さんが亡くなりました。戦前・戦中の満州の状況について、多くを語らないままでした。山口さんに対しては毀誉褒貶相半ばすると思いますが、戦後に日本に帰国してからも、彼女の立場は極めて複雑で難しいものであったろうと思います。

  彼女自身は望んでいたとしても、外的な条件によって、公にすることを許されない事項が多々あったでしょう。加えて、彼女は戦中、いくら有名人といえど、しょせんは一介の若い歌手・女優に過ぎませんでした。彼女がどこまで満州の「機密」とやらに通じていたのかは甚だ疑問です。

  戦後に彼女が発表した『三年』という歌。


   想得我腸児寸断 (思うあまりに胸が張り裂けそう)
   望得我眼児欲穿 (見やるあまりに目がつぶれそう)

   好容易望到了你回来 (ようやくあなたが帰って来たのが見えた)
   算算已三年     (数えてみればもう三年ぶりのこと) 

   想不到才相見 (やっと会えたというのに)
   別離又在明天 (明日にはもう別れなくてはならないなんて)

   這一回你去了幾時来 (今度あなたが去ってしまったら、いつ帰って来るの)
   難道又三年     (まさかまた三年後なの)

   左三年 右三年 這一生見面有幾天 (三年また三年 この一生のうちに会えるのは何日なのか)
   横三年 竪三年 還不如不見面 (三年また三年 これなら会えないほうがまだまし)

   明明不能留恋 (未練に思ってはいけないと分かっているのに)
   偏要苦苦纏綿 (わざわざ苦しみながら思い続けてしまう)

   為什麼放不下這条心 (どうしてこんな心を捨てきれないで)
   情願受熬煎     (思い苦しむことを願ってしまうのか)


  昭和という時代が過ぎていきますね。

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京都幕末ロマンの旅-3(新選組屯所跡・旧前川邸)


 3.旧前川邸

  八木邸と坊城通を挟んだ北のはす向かいに旧前川邸があります。正門は綾小路通に面しています(北向き)。

 

  旧前川邸の内部は残念ながら非公開です。子母澤寛が壬生を取材した昭和初年には、旧前川邸はすでに他人の所有に移っていたようです。現在は田野製袋所という小さな工場になっています。ただし、土日か日曜かに限って、ショップのみを営業しています。

 

  上の写真で左に「誠」の文字が入った旗が見えます。ここがショップ入り口です。ショップに入ってみると、そこは昔の土間を利用したものでした。八木邸の土間と同じく幅が狭く、奥行きが極端に深い構造をしていましたが、八木邸の土間よりもかなり大きかったです。特に奥行きがかなりありました。

  ショップでおすすめなのは、旧前川邸オリジナル商品です。私は昭和初年に撮影された旧前川邸外観の写真絵はがきセット(白黒、3枚)と、現在の旧前川邸内部の写真絵はがきセット(カラー、10枚)を購入しました。更に買い物したおまけとして、旧前川邸の間取り図が付いてきました(買い物しない場合は有料)。

  現在の旧前川邸内部を撮影したカラー絵はがき10枚セットはおすすめです。紙の質と印刷がとても良く、写真自体も明らかにプロのカメラマンが専用機材をセットして撮影したもので、非常に美麗です。更に各部屋の写真ごとに詳しい解説文が附載されています。買い物のおまけにもらえる間取り図と合わせて見ると楽しいです。

  でもゾッとしたのは、「東の蔵」内部の写真です。古高俊太郎が拷問を受けたといわれる現場です。新選組に捕縛された古高俊太郎は、前川邸の東の蔵の天井から縄で吊るされ、土方歳三によって凄惨極まりない拷問を受けた末に自白に追い込まれます。曰く、長州出身者を主とする勤皇派の武士たちが、風の強い日を選んで京都中に放火して大火災を発生させ、その混乱に乗じて天皇(孝明天皇)を拉致して長州に移送した上で、天皇を戴いて倒幕の戦争を起こす計画を進めている、云々。

  このあまりにも現実離れした策謀について、司馬遼太郎は『燃えよ剣』の中で、長州の武士たちはそんなことができると本気で考えているのか、と沖田総司に問わせています。沖田総司のこの素朴で至極真っ当な疑問に土方歳三が答えるのですが、その答えが気になる方は『燃えよ剣』を読みましょう。

  で、古高俊太郎の自白によって、勤皇派の武士たちがこの計画を話し合うための会合を開く旅宿池田屋に新選組が踏み込み、有名な池田屋事件が起こるという運びとなります。京都に大火災を起こして天皇を誘拐するという無謀な計画に関しては、司馬遼太郎は沖田総司と土方歳三の問答だけで読者を納得させることはできないと考えたのか、更に池田屋に集まった勤皇派の武士たちの会合の様子を詳しく描写することで、念入りに説得性を持たせようとしています。気になる方は『燃えよ剣』を読みましょう。

  古高俊太郎が天井から縄で吊るされて拷問を受けた、東の蔵の写真の何が恐ろしいかって、実際に天井から縄が吊るされているんだよう(ぞぞぞ)。しかも、吊るされた縄の端は何重にも絡まって、たるんで床に落ちており、いかにもさっきまで人を縛って拷問してました的な光景。もちろん縄は新しいものです。臨場感を出すための演出でしょうが、この写真はほんとにコワイぞ。気になる方は旧前川邸のショップに行って、この絵はがきを購入しましょう(土日のみ営業か、日曜日のみ営業かは忘れたので、事前に確認してね)。

  前川邸は八木邸よりもかなり大きく、新選組は主に前川邸を屯所として利用していたようです。ただ、規模の大きい屋敷は維持管理が大変ですし、しかも他人の所有になっていましたから、八木為三郎が子母澤寛に証言した昭和初年の時点で、すでに建物が幕末時とは相当変わっていました。幕末時には存在した建物が取り壊されたり、改築されたりしていたようです。

  上の写真を見ると、現在はショップの出入り口となっている昔の勝手口の右側に、大きな植え込みがあって木々が植えられ、庭石がいくつか置かれています。ここは幕末時には表玄関がありました。昭和初年に撮影された写真でもそれが確認できます。植え込みの向こうを覗くことはしなかったので分かりませんが、昭和初年以降に表玄関は閉じられて壁が作られたのでしょう。

  再度坊城通に出て、北から旧前川邸の西側外観を写したのが下です。

   

  写真左側の綾小路通に面している格子窓は、新選組がここを屯所としてから作られたものだそうです。この格子窓がある小部屋で、新選組に残っていた最後の芹沢派、野口健司が切腹したといわれています。写真右側の坊城通には塀が長く続いていますが、真ん中だけが切り取られたように土塀になっています。この土塀部分は、幕末当時は長屋門の続きになっており、そこにも格子窓があったそうです。そして、その格子窓があった部屋で、山南敬助が切腹しました。

  山南敬助は新選組内部の権力闘争、すなわち土方歳三との勢力争いに敗れ、また新選組のあり方に不満を感じて隊を脱走しました。脱走は新選組の隊内規則で禁止されていました。沖田総司が追いかけて山南を連れ戻し、山南は脱走の罪によって切腹を言い渡されました。山南は新選組の古参幹部で人望が厚く、古くからの友人でもある他の幹部たちが、後は自分たちが何とかするから逃げろ、と山南に勧めました。しかし、山南はこれを断わり、従容として切腹の命に従いました。

  山南敬助の切腹については、有名な哀しいエピソードが残っています。やはり八木為三郎が子母澤寛に証言したものです。山南敬助はその人柄の良さによって、壬生の人々からも慕われていました。山南敬助が切腹することはすぐに近所中に知れ渡り、当時まだ少年だった八木為三郎も、父親とともに前川邸に駆けつけようとしました。

  すると、八木父子の前を急いで通り過ぎる女性がありました。それは山南敬助の恋人だった明里という女性で、明里は山南が監禁されている部屋の格子窓を必死で叩き、山南の名前を何度も叫びました。そのうちに格子窓が内から開き、中に山南の顔が見えました。山南と明里は、格子越しに泣きながら言葉を交わしていましたが、やがて格子窓が内から閉じられてしまいました。


   明里がまだ格子にしがみついている中に、内からすうーっと障子がしまって終(しま)いました。私はその時の事を思い出す度に涙が出ます。
   明里は泣きながら去りましたが、私はその場を動くことも出来ずに黙って西窓を見ている中に、次第に日が暮れて来ました。窓の障子の白い紙がぼんやりして来て、今に灯がつくかつくかと思っていましたが、遂々(とうとう)灯は入りません。
   そこへ父が前川方から帰って来ました。
   「山南さんはどうしました」
   ときくと、
   「もう切腹して終(しま)われた」
   と、ほろりとしています。
   父もやはり、そのまま家へは帰れず、私と一緒のところへ立って、西窓を見詰めていました。
   「あすこの部屋だったそうだ」
   といっていました。山南は、明里と別れを惜しんだ西窓の室で死んだのです。(子母澤寛『新選組遺聞』)


  この光景は、60年余を経た後もなお、八木為三郎老人の脳裏にはっきりと焼きついていたのです。この出来事についての八木老人の証言を読むと、人の情というものは、150年前でも今と基本的に変わらないものだったのだなと思います。

  山南敬助は近くにある光縁寺内の墓地に葬られました。次にめざすのはその光縁寺です。

  (続く)

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京都幕末ロマンの旅-2(新選組屯所跡・八木邸)


 2.八木邸

  壬生寺を出て坊城通を北に戻ると、道の左側に八木邸があります。

 

  これが正門(東向き)で、「長屋門」と呼ばれるものです。写真では見えませんが、この両脇は長屋になっています。屋敷の周囲に長屋をめぐらし、出入り口だけを突き抜けにして門扉を設ける造りで、長屋の中は小部屋になっています。次に行った旧前川邸も同じ長屋門です。

  京都に到着した後の新選組一行は、この八木邸と当時の前川邸を宿舎としてあてがわれます。八木氏と前川氏は壬生の郷士(村などに土着した武士)で、その地域で一定の社会的地位と経済力とを持つ、いわば地元の名士、有力者でした。八木邸にはガイドがいて見学者に説明をしてくれるのですが、ガイド氏によれば、八木家は越前朝倉家の流れを汲む家系だそうです。武士ですから、屋敷を囲う塀が長屋造りという、まるで敵襲を防ぐような厳重な構造であるわけです。また八木邸の室内にも、弓などが掛けてあった気がします。    

  八木邸を見学するには1,000円の観覧料が必要で、ガイドによる説明が付き、八木邸の東に隣接する菓子屋「鶴寿庵」で抹茶とお菓子を頂くことができます。ただし、邸内の写真撮影は禁止。現在公開されているのは母屋部分です。この母屋部分は幕末当時の姿をほぼそのまま保っているそうです。実際、子母澤寛『新選組遺聞』にある八木邸についての記載と、現在の八木邸の玄関の位置や部屋の間取りは完全に一致していました。

  『新選組遺聞』に収録されている八木為三郎の証言によれば、母屋に隣接する鶴寿庵の敷地には更に八木家の離れがありましたが、子母澤寛が訪れた当時には、この離れはもうなくなっていました。後に新選組を結成することになる近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨、新見錦など10数名の人々は、母屋と離れとに寝泊りしていたそうです。

  昭和三年、子母澤寛は当時まだ健在だった八木為三郎に取材し、その証言を書き起こして『新選組遺聞』に収録しました。八木為三郎は新選組が結成された当時はまだ子どもでしたが、新選組が成立する前から成立後の数年にわたって、新選組の隊士たちや事件を直に見ていた人物であり、また自身の両親から様々な話を伝え聞いてもいました。

  子母澤寛が取材を行なった昭和三年、八木為三郎はもう80歳近い高齢であったものの、その記憶は子母澤寛が驚嘆するほど明瞭でした。八木為三郎の証言が文字に残されたことで、新選組の隊士たちの具体的な容姿や人物像、また隊内で起きた諸々の事件の詳細が現代に伝わることとなりました。

  八木為三郎の証言はいずれも重要で、特に芹沢鴨暗殺事件の真相、池田屋事件前後の新選組の様子、切腹した山南敬助が、死ぬ直前に恋人の明里と格子窓越しに別れの言葉を交わしていた情景などは、八木為三郎の証言がなければ新選組ブームなどは起きなかったろうと思えるほど劇的です。

  さて、八木邸がなぜにこれほど新選組のファンを惹きつけるのか。その理由は、八木邸が新選組屯所跡であるからというよりは、ここが芹沢鴨暗殺のまさに現場だからです。暗殺の際に鴨居についた刀痕も残存しています。

  子母澤寛『新選組遺聞』に収録される八木為三郎の証言と思い合わせながら八木邸を見学すると……ああ、ロマンだわ(殺人事件の現場だけど)。

  この八木邸の建物はとても瀟洒で上品な造りでした。ゴージャスなのではなく、戸の格子といった細かい部分の造作がさりげなく優美で、北の縁側に面した庭も風情のあるものでした。

  司馬遼太郎の『燃えよ剣』には、八木邸に着いたばかりの近藤勇が八木邸の庭を見て「やはり京は違う」と感心し、後にこの程度の庭なら京には腐るほどあることを知って、「京は恐ろしい」とつぶやくというエピソードが設けられています。近藤勇が関東の田舎者ぶりを丸出しにするちょっとした笑い話ですが、すみません、私も八木邸の庭に感心しちゃいました(笑)。やはり私も東国の田舎者ですね。

  芹沢鴨が暗殺されたのは、この北の縁側・庭に面した十畳間とその西隣の八畳間でした。芹沢鴨は十畳間に寝ていたところを暗殺者に襲われ、斬られながらも縁側づたいに隣の八畳間に逃げ込んでそこで倒れ、更に散々に斬られて死にました。暗殺者が振り上げた剣先が八畳間の鴨居に当たって、鴨居の一部が三角の形に削ぎ落とされました。この刀痕は現在、透明なプラスチック板で覆われて保護されています。

  まだ幼かった八木為三郎とその弟の勇之助は、芹沢鴨が逃げ込んできた八畳間で寝ていました。芹沢鴨は八木兄弟の寝ていた布団に覆いかぶさるようにして死亡したそうです。倒れた芹沢鴨を更に刺した暗殺者の剣先が、たまたま勇之助の足に当たってしまい、弟の足に刀傷ができていた、ということを八木為三郎は証言しています。

  八木兄弟の母親は兄弟の隣の部屋で寝ていて、この母親が暗殺者の姿を目撃していました。まず土方歳三がこっそり芹沢の様子を探りに来て、その後に沖田総司、原田左之助ら4、5名が斬り込んできて、芹沢の隣に寝ていた平山五郎と、芹沢と同衾していたお梅という女性を殺し、隣の部屋に逃げた芹沢を追ってとどめを刺したということです。

  八木為三郎は後になってこの話を母親から聞かされましたが、当の母親は生前、決してこのことを口外しなかったそうです。だから、八木為三郎が子母澤寛に証言しなければ、芹沢鴨暗殺の犯人は近藤勇一派だったという真相は闇の中になっていたに違いありません。

  暗殺事件の直後、近藤勇や土方歳三があまりに素知らぬ顔をしているので、真相を知っていた八木夫妻は「くすくす笑って」いたそうです。ただ、八木為三郎の弟が巻き添えで怪我を負ったことを知った沖田総司の反応を、八木為三郎は証言しています。沖田総司の性格が知られて興味深いです。

  「この傷を、事件の次の日でしたか、その翌々日でしたか、沖田総司が聞き伝えて、折柄使者を受けて驚ろいて戻って来た父へ、『勇坊まで怪我したそうですね』と、さも気の毒そうに云っていたそうです。沖田はあれでなかなか正直なところがあり、気のいい人物でしたから、罪科もない子供にまで、怪我をさせて気の毒だと思ったのでしょう。」(『新選組遺聞』)

  母屋の西側は全部が土間でした。土間の北端に勝手口があります。土間は南北に細長い形をしていました。横幅は狭いのですが、奥行きはとても深いのです。土間ですから天井はふきぬけで高いです。これほど極端に細長い土間は見たことがなく、面白い形だなと思いました。土間の西側の壁には向こうの見えない出入り口がありました。ガイド氏に聞いてみたら、出入り口の向こうには、現在の八木家の人々が居住している住宅があるそうです。

  見学を終えて、隣接する菓子屋「鶴寿庵」に寄って、見学料に入っている抹茶とお菓子、その名も「屯所餅」を頂戴しました。「屯所餅」は、餅に細かい茶葉が練りこんである大福だったかな。ロマンとともに味わいました。

 

  (続く)

 
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京都幕末ロマンの旅-1(壬生寺)


  つっても、たった半日だけだったんですが。しかも、もう3ヶ月以上も前の話なんです。ただ興味深く感じたことがいくつかあったので、完全に忘れないうちに書いときます。

  5月末のある日曜日、京都は最高温度34~35℃という予報が出ていました。関西出身の友人たちから、「こんな日に外歩きをするの!?熱中症にならないよう本当に気をつけて」と念入りに注意を受けました。でも私は「いくらなんでもまだ5月や6月で熱中症はないでしょ」と甘く考えていました。

  ところが、マジでクソ暑かったです。日射しが強い、湿度が高い、道路からきつい熱気が立ち昇ってくる、関東でいえば梅雨が明けてからの真夏の暑さのようでした。友人たちの忠告に従って日傘を持ってきてよかったです。

  ガイドブックを熟読して立てた今回の「幕末ロマンの旅」プランは、

  壬生寺→新選組屯所跡・八木邸→新選組屯所跡・旧前川邸→光縁寺(新選組菩提寺)→昼飯→幕末維新ミュージアム 霊山歴史館→京都市役所近くの和菓子屋→池田屋騒動之址→坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地→京都駅構内みやげ物コーナー

でした。一目瞭然ですが、「幕末ロマン」といいつつ、実は「新選組関連の史跡をたどろう」っちゅ~ことですな。

  そうそう、京都に行く前、大きめの書店に行って、京都のガイドブックをいくつか手に取って見てみました。京都のガイドブックの内容は、どの出版社が出しているものもみな一緒でした。神社仏閣や史跡の案内が非常に少なく、内容の大部分はショップ、レストラン、カフェ、雑貨、小物、そしてスイーツの紹介。

  また、驚いたことに地図があまり掲載されていないガイドブックも多かったです。これはどうしたわけでしょう。町屋カフェや抹茶スイーツや和雑貨なんぞどうでもいいんで、史跡をもっと紹介して、詳細で大きな地図を載せてほしいものです。

  結局、悩んだ末に買ったのは、地図専門の出版社が出しているガイドブック。京都の各エリアの詳細な地図を載せているのが売りらしいんだけど、地図によっては、北が上になっていないものがありました。本を開いて右が北、左が南、という形式でした。あとで気づいたことには、これは本を縦にして地図を見るための形式なんでしょうが、「地図は上が北」と思い込んでいた私は、歩いていてかなり混乱しました。

 1.壬生寺

  京都駅前からバスに乗り、四条通にある壬生寺道バス停で降ります。バスにはたった10数分しか乗らなかったと思います。それからは徒歩で坊城通を南進し、京福嵐山線の踏み切りを渡ったらすぐに着きました。バス停からものの5分くらいです。壬生寺に行く途中に、旧前川邸と八木邸の前を通り過ぎました。壬生寺、旧前川邸、八木邸は超隣近所だったのです。

  新選組関係の本にはよく「京都郊外の壬生村」とか書いてあります。それがあっけなくすぐに着いたので驚きました。しかも、あたりは住宅や低層マンション・アパートがびっしり立ち並んでおり、「郊外の村」というイメージとはかけ離れています。壬生寺道バス停がある四条通は広い道ですし、すぐ近くの四条大宮は賑やかな繁華街です。

  でも、壬生寺一帯は非常に静かで、車の通りはおろか、人通りもめったにありませんでした。昼前にして気温はかなり上昇し、上からは強烈な日光が射し、下の路面からはものすごい熱気が襲ってきます。

 

  壬生寺は境内がかなり大きかったです。現在は本堂以外にこれといった建物は残っておらず、本堂も昭和45年に再建されたものです。新選組はこの壬生寺の境内で、大砲などを使った大規模な軍事訓練を行なったそうで、現代の私でも広いと感じるほどの大きさですから、さもありなんと思いました。また、境内では若い隊士たちがひなたぼっこをしたり、かの沖田総司が子どもたちと遊んだりしたそうです。ああ、ロマンだわ。

  壬生寺の門を入って右に大きな池があり、その池には中州があります。中州には「壬生塚」という名前が付いています。壬生寺の境内には無料で入れますが、壬生塚の観覧料は100円です。壬生塚には近藤勇の胸像・遺髪塔、芹沢鴨と平山五郎の墓、河合耆三郎の墓、他七名の隊士の合葬墓などが建てられています。ただし、芹沢鴨と平山五郎の合葬墓の本来の墓石は欠損が激しくなったため、原型どおりに作られた新しい墓石に変えられているそうです。

 
 (左が芹沢鴨と平山五郎の墓石。右が野口健司他6名の墓石。暗殺、切腹、戦死、戦闘が原因の傷病死など、みな非業の死を遂げた。)

 
 (河合耆三郎の墓石。会計方だったが横領の罪に問われて斬首された。横領の真偽は今もって不明。やはり無残な亡くなり方をした人物。)

 
 (近藤勇の胸像。現存する写真を基に作ったのでしょう。まげに注目。「総髪の大たぶさ」ってこうなってるんですね。)

  壬生塚には他に、三橋美智也の歌碑「あヽ新選組」があります。壬生塚に入って真っ先に目に飛び込んでくるのがこの歌碑です。「あヽ新選組」って(笑)。申し訳ないですが笑ってしまいました。また、近藤勇の胸像の横には絵馬をかける棚があって、絵馬がずらりと並んでいました。

 
 (伊藤、卓球強くなったか?)

  壬生塚にある新選組隊士たちの墓三基は、もとは「壬生墓地」という壬生村の共同墓地にありました。子母澤寛が昭和三年(1928年)に取材した折には、まだこの三基は壬生墓地内にあったようです(子母澤寛『新選組遺聞』壬生屋敷)。いつ壬生寺の敷地内に移されたのかは不明です。

  実は、私は当初、壬生寺に新選組隊士たちの墓があることをまったく疑問に思わなかったのです。「壬生寺は新選組にゆかりのある寺だから、新選組隊士たちの墓があって当たり前」と思ってました。でも、新選組隊士たちの墓だけが壬生墓地から壬生寺に移されたことについては、この直後に面白い話を聞くことができました。それで、いきなり話が飛躍しますが、「幕末」はまだ終わっていないのだなあ、としみじみ感じたわけです。

  (続く)

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