ひゃ~、ごめん!!!


  オウ、マイ・グッドネス…!

  さる7月22日(日)は、アダム・クーパー様御年41歳のお誕生日でございました。すっかり忘れてました。ごみんなさい。

  いまさら遅うございますが、お誕生日、どうもおめでとうございます。

  うかつだったわ。先週は忙しかった上にあの猛暑で、日曜日は生ける屍状態だったのだわ。

  ファンの風上にも置けないですね。いや、風下にも置けないか。

  反省します(泣)。

  ロンドン・オリンピックとパラリンピック特需で、絶賛出演中のパレス・シアター『雨に唄えば』も、さぞウハウハの大盛況であろうと思います。

  唯一の休日である日曜日に今年の誕生日がぶつかったとは、第一子のナオミちゃんが、当時出演中だった『オズの魔法使い』の休演日に生まれたことを彷彿とさせるラッキーさです。

  なんだかんだいって、あいかわらず運に恵まれている男、アダム・クーパー。
  
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新国立劇場バレエ団『マノン』(6月24、26日)-4


  またしても役作りが難しい看守役は厚地康雄さんでした。予想外に、といっては失礼ですが、レスコー役の古川和則さんと同様、強く印象に残りました。厚地さんは、お顔つきは典型的な日本人のしょうゆ顔です。

  でもねえ、しょうゆ顔のはずなのに、ロベスピエールヅラとナポレオン風の軍服も良く似合っていました。しかし何より最も凄かったのは、微笑を浮かべた顔にそこはかとなく漂う冷酷さです。そして、上流階級の人々には紳士顔をして如才なく振る舞いながら、裏では女囚の中で目をつけた女たちを次々と強姦するという、最低のゲス野郎を見事に演じていました。

  保守的な日本人の私としては、ああいうシーンがすばらしかった、などと言うのは心理的抵抗感が強いのですが、看守がマノンを強姦するシーンでの厚地さんは、この上なく残忍でした。その、本当に言いにくいですが、看守が嗜虐的な性的快感を楽しんでいるのが生々しく感じられて、看守が性的に満足する瞬間の演技もリアルでした。あのシーンの音楽が静かで美しいだけに、むごさがより強調されていました。

  大事なのは、厚地さんに軽い気持ちで悪役を演じているという雰囲気が微塵も感じられなかったことです。プロとしてきちんと演じている感じがしました。底の浅い考えしか持てないダンサーが、ワルぶってこういう役を軽薄な気持ちで演じたら、それは即座に観客に覚られます。

  一部のダンサーさんたちは、所詮は素人の観客なんぞに何が分かるかと思っているかもしれません(時にはそう思うことも必要ですが)。でも、踊りや演技には、そのダンサーの人間性が出ることは確かです。そのダンサーの自分の役に対する解釈や役作りばかりでなく、ダンサーという自分の仕事、踊るという自分の職分に対する姿勢や考えも分かってしまいます。

  ケネス・マクミランが見たら、厚地さんのあの演技にはきっとイエスと言うだろうと思います。

  マノンはサラ・ウェッブ、デ・グリューはコナー・ウォルシュが担当しました。彼らはともにヒューストン・バレエから招かれたゲストです。このゲストの人選は適格であるばかりでなく、たぶん、新国立劇場バレエ団のゲストとしては、久々のヒットではないでしょうか。

  マノン役のサラ・ウェッブは、ダンサーとしての技量は島添亮子さんや小野絢子さんよりも上です。演技については、アメリカ人ということで、「妖艶な魔性の女」系マノンを予想していたのですが、前の記事にすでに書いたように、基本的に無表情でクールなマノンでした。

  前に観たダーシー・バッセルのマノンは、登場した直後から、この女はどこか歪んでいておかしいとすぐに分かりました。しかし、ウェッブのマノンは、天性のファム・ファタールというより、当初は自身の魅力を自覚していない少女であり、ムッシューG.M.やマダムをはじめとする人々が、こぞって自分に興味を示すのを不思議がり、戸惑っているようでした。

  ウェッブのマノンの演技には「一貫性」なるものがありませんでした。その時々によって感情がくるくる変わり、後先見ずに行動に移します。結局、マノンは自分の人生をどうしたかったのか、マノン自身も分からないまま死んでいったのではないかと思わせるものでした。豪奢な生活に目がくらんだ不道徳な女が、最後に真実の愛に目覚めるという陳腐なストーリーを、ウェッブのマノンには感じませんでした。

  サラ・ウェッブのマノンを見ていて、フランコ・ゼッフィレッリという舞台演出家(映画監督でもある)が、プッチーニのオペラ『トスカ』のトスカについて語っていたことを思い出しました。

  ゼッフィレッリによれば、トスカは感情的で後先なく行動するバカな女であり、トスカを当たり役にしていたマリア・カラスもトスカをそう解釈していて、演技はもちろん、歌い方でもトスカの感情の激しさと考えの底の浅さを表現していたということです(マリア・カラスが歌い方でトスカのヒステリックな性格を表現しているということは、別の音楽評論家も指摘していた)。

  ところが、トスカを知的な女と解釈して、その行動に合理的な一貫性を持たせて表現しようとする歌手がいて、ゼッフィレッリはその歌手と大ゲンカしたそうです(笑)。

  なるほど、その人物の行動や心情が理解できるように表現するのが、絶対的に正しいとは限らないのだな、と思いました。マノンは理解不能な女。それでいいのでしょう。

  さて、真打(笑)のコナー・ウォルシュ(デ・グリュー役)です。

  今になっても、ウォルシュの踊りははっきりと思い出せるんだけど、顔がよく思い出せないんだよね。あまりに顔の印象が薄いんで、舞台を観ながら、「メル・ギブソンの若い頃みたいな感じ」と何度も脳内にキーワードを刻み付けてたはずなんですが。

  第一幕で、デ・グリューがマノンに愛を告白するソロ、ウォルシュは本当に凄かったです~。この先、あれほどの踊りは二度と見られないんじゃないかな。

  マクミランの男性ソロの傾向は前の記事に書いたので省きますが、ウォルシュは、どんなに片脚のみでいろんな動きに移行しても、文字どおりまったくグラつかないどころか、軸足が微塵も震えませんでした。

  回転もジャンプも超安定していましたが、最もすばらしかったのが、アラベスクをしてから、更に四肢をぐーっと伸ばす独特の動きです。あの動きはこの上なく美しいものでした。手足が根元から外れるかと思うくらい長く伸びるんです。

  ガラ公演で踊られる『マノン』というと、寝室のパ・ド・ドゥか沼地のパ・ド・ドゥですが、なんでこの最初のパ・ド・ドゥはあまり踊られないのかな?これも凄く良い踊りなのに。アリーナ・コジョカルとヨハン・コボーがガラ公演で踊ったのを観ただけのような気がします。ひょっとしたら、冒頭のデ・グリューのソロが難しすぎて、男性ダンサーが及び腰になってしまうせいもあるのかも!?

  コナー・ウォルシュは踊らないでいるとすっごく地味で目立たないのですが、踊りだした途端に、ウォルシュの姿がスポットライトを浴びたように(実際浴びてるんだろうけど)、舞台の中で浮き上がって、身体が115%か122%くらい拡大して見えるという不思議な特徴がありました。

  ウォルシュの背丈はたぶん180センチもないと思います。175センチあるかどうかも怪しいかも(サラ・ウェッブもおそらく160センチもないと思う)。それなのに、なんでこんなに大きく見えるのか?と不思議でたまりませんでした。

  マシュー・ボーンの伝記で読んだことがあるんですが、これは“The gift of tallness"と呼ばれるものらしいです。背が高いわけではないのに、舞台に立つとなぜか大きく見えてしまうダンサーたちがいるそうです。

  日本語だといわゆる「舞台ばえする」ということなのかもしれません。とにかく、コナー・ウォルシュは踊り出すと、その瞬間に強烈な吸引力を発揮して、集中線の中にウォルシュが大きく浮き出ているような感じになります。

  更に、ウォルシュはただ単に上手に踊るだけではありませんでした。ウォルシュは全身のポーズと動きで、デ・グリューの心情を語っていました。前述の空に長く伸ばされた手足が印象的でしたが、両足で踏むステップが輪をかけて実に雄弁で、同じくマクミラン振付『三人姉妹』のクルイギンのソロ(両手は後ろに組んだまま、ステップだけで踊る)を彷彿とさせました。

  圧巻だったのは、第二幕でマノンに去られた後、失意のデ・グリューが踊るソロでした。あれは本当に凄味のある踊りでした。マノン役のサラ・ウェッブはこのとき、いかにも耐え切れなくなったかのような、それまで抑えていた感情が一気に爆発したかのような表情で、ウォルシュのデ・グリューに駆け寄って抱きしめます。

  私はこのシーンには特に感動したことがなかったんです。でも、うわー、このシーンって、こんなに良い踊りだったんだ!とびっくりしました。

  同じく第二幕で、マノンが再び自分の元に戻ってきてくれた喜びに浸っているデ・グリューのソロ、また第三幕の冒頭でのデ・グリューのソロも情熱的で、息を呑んで見つめるばかりでした。コナー・ウォルシュは穏やかな優しい感情も、激しくて熱い感情も、豊かに表現していました。

  サラ・ウェッブとコナー・ウォルシュのパートナーシップもすばらしかったです。どのパ・ド・ドゥもみな息が合っていて見ごたえがありましたが、私は第一幕の寝室のパ・ド・ドゥが最も印象に残りました。あのパ・ド・ドゥ、デ・グリューがマノンをリフトして、左右対称の形でシンクロしながら踊る振付が多いでしょ。あの一連の動きが本当に美しかったです。

  コナー・ウォルシュを見ていると、どうしてもアンソニー・ダウエルを想起してしまいます。もちろん、最初からそんなつもりで見ていたはずないですよ。見た目はまったく共通点ないし。でも、ウォルシュの踊りを見ていると、なぜか知らないけど、ダウエルが踊っているデ・グリューとかぶるんです。

  ある意味、今となっては、本家の英国ロイヤル・バレエが上演している『マノン』よりも、ヒューストン・バレエが上演している『マノン』のほうが、マクミラン在世時の『マノン』の原型を保っているのかもしれないなあ、と思いました。
 
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新国立劇場バレエ団『マノン』(6月24、26日)-3



  高級娼婦役は厚木三杏さん、長田佳世さん、堀口純さん、川口藍さん、細田千晶さんでした。たぶん、第一幕で最初に二人で踊ったのは堀口さんと川口さんだと思います(間違っていたらすみません)。次に二人で踊ったのが厚木さんと長田さん、第二幕で二人で踊ったのも厚木さんと長田さんです。

  厚木さんと長田さんの踊りを観ていて、やっぱり上手だよな~、と感嘆しました。平然と3~4回転しちゃうもんねえ。前の記事にも書きましたが、第二幕のお二人のどつきあい踊りは最高でした。客席から笑いが起こったのはあそこだけでした。本当は、その前の酔っ払ったレスコーと愛人との踊りでも笑いが起きるはずなのですが、ちょっと古川さんのほうにそこまでの余裕がなかったようです。

  娼婦たちの踊りもすばらしく、去年の小林紀子バレエ・シアターによる公演と比べると、ダンサーたちの能力が総じて高いことがよく分かります。みんな脚は高く上がるし、動きはメリハリが利いていてきっちりしてるし、そしていつものとおり、全体の動きが良く揃っているし。

  なんか男装している娼婦、もしくは少年の男娼がいますよね。24日と26日の公演でこの役を踊った方はどなたでしょうか?あの動きにはびっくりしてしまいました。ポワントでプリエをするでしょ。それが深い深い。アラベスクも長い手足がすっきりと伸びて美しい。あれは誰だ!?と思ってオペラグラスでのぞいたら、周囲の観客のみなさんも一斉にオペラグラスを取り上げて見てました。あのダンサーの方はやっぱり凄かったんですね。

  レスコー、マノンに次ぐ難役、ムッシューG.M.はマイレン・トレウバエフでした。こちらもまた、余裕と貫禄たっぷりの演技でした。

  ただ、あくまで私個人のイメージですが、ムッシューG.M.は単なる金持ちのエロオヤジではなく、高位貴族でプライドが高く傲慢であり、プライドが高いだけに、所詮は愛人にするだけといえど女を見る目も厳しい、という人物だと思います。一方、トレウバエフのムッシューG.M.は文字どおり金持ちのスケベオヤジになっていて、娼婦のスカートをめくったりするのには、なんか品がなくて軽すぎるな~、と思いました。

  でも、トレウバエフには大きな存在感があって、ちゃんとキャラが立っていて、主要な登場人物の一翼を担ってました。また、トレウバエフを中心に舞台全体が引き締まっていたのも確かです。

  これも私のカン違いだったら申し訳ないんですが、確か26日の公演の第二幕でアクシデントが起こりました。マノンと男たちが一緒に踊るシーンで、ある男性ダンサーが、マノン役のサラ・ウェッブのサポートに失敗しました。片脚でトゥで立ち、身体の軸を後ろに斜めに倒した状態のマノンの手を取って、男性ダンサーがぐるぐる回す振付です。

  この振付は、第一幕のマノンとデ・グリューの寝室のパ・ド・ドゥでもあります。あとは、マクミラン版『ロミオとジュリエット』第一幕のバルコニーのパ・ド・ドゥでもあったと思います。女性ダンサーが身体の軸を後ろに大きく倒せば倒すほど見ごたえが増す、美しい動きなのですが、やるほうにとっては危険で難しいようです。

  去年の小林紀子バレエ・シアターによる『マノン』では、すでにデ・グリューを数え切れないぐらい踊っている、ベテランのロバート・テューズリーがデ・グリューで、マノンは島添亮子さんでした。そのテューズリーと島添さんでさえ、この振りでは、島添さんは軸をあまり倒さず、また2回くらい回転しただけで済ませてしまいました。

  話を戻すと、男性ダンサーがサラ・ウェッブの手を取って回転させている途中で、ウェッブがバランスを崩してかかとを床に着けてしまい、その拍子にウェッブの足首がおかしな形でひん曲がったのです。ウェッブは表情を変えませんでしたが、見ているこちらはギョッとしました。その後もウェッブはちゃんと踊っていたので、怪我がなくて幸いでした。

  私のカン違いだったら申し訳ない、というのは、トレウバエフがこの後に舞台上で取った行動についてです。トレウバエフは、まずムッシューG.M.がマノンにささやく演技をしながら、サラ・ウェッブと何か話していました。その後、トレウバエフは群舞にまぎれて、舞台の中に出てきて、これまたムッシューG.M.の演技をしたまま、サポートをミスした男性ダンサーに何やら耳打ちしていました。

  どうも、トレウバエフは、ウェッブに怪我がなかったかどうかを本人に確かめてから、それをミスしちゃった男性ダンサーに教えたんじゃないかと思えるのです。私の独り合点かもしれないですが。トレウバエフは他のダンサーたちにも気を配ってフォローするような、舞台全体をまとめる大きな存在になっているのだな~、と勝手に感心してしまいました。

  キャスト表では「踊る紳士」となっている、第一幕から第三幕までの各所で踊る男性ダンサー3人は、江本拓さん、原健太さん、奥村康祐さんでした。第二幕のパ・ド・トロワ(って呼んでいいの?)が一番の見せ場です。あれは3人の動きがきちんと揃ってなんぼな踊りで、一人だけ目立ったりミスしちゃったりすると踊り全体がぶち壊しになる、ダンサーにとってはプレッシャーの大きい踊りだと思います。

  江本さん、原さん、奥村さんの動きはよく揃っていて、見ていて気持ちよかったです。あの踊りの音楽も私は好きです。あと、新国立劇場バレエ団が『マノン』を初演したときの装置と衣装は英国ロイヤル・バレエ団からのレンタルで、ゴージャスで重厚感漂うニコラス・ジョージアディス原デザインのだったんだって?

  今回の公演で用いられた、ピーター・ファーマーの改訂デザインによる装置と衣装は、最初から低コストを念頭に置いて作成されたものだし、ファーマーのデザインの特徴である淡い色彩が多く使われてもいたので、漂うチープ感に物足りなさを感じた方々がいらっしゃると仄聞いたしております。しかし、再度主張いたしますが、私はジョージアディスが好きなあのヘンなヅラ群が大嫌いなんです!

  ジョージアディスのデザインだと、「踊る紳士」たちは全員ロベスピエールヅラをかぶるんですよ!でも、ファーマーのデザインだと、地毛にエクステンションだけなんです(デ・グリューやレスコーと同じ)。ですから、私はファーマーのデザインで充分でございます。

  また(なんかヅラの話題で)長くなっちゃったから、その4に続く~。

  
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新国立劇場バレエ団『マノン』(6月24、26日)-2



  その1を書いたときからだいぶ間が空いちゃったので、スタッフやキャストから書き直します~。


 『マノン』

  原作:アベ・プレヴォ

  振付:ケネス・マクミラン

  音楽:ジュール・マスネ
  音楽構成・編曲:リートン・ルーカス、ヒルダ・ゴーント
  改訂編曲:マーティン・イェーツ

  装置・衣装:ピーター・ファーマー(ニコラス・ジョージアディスの原デザインによる)

  演出:カール・バーネット、パトリシア・ルアンヌ

  照明:沢田祐二

  監修:デボラ・マクミラン


  マノン:サラ・ウェッブ(ヒューストン・バレエ)
  デ・グリュー:コナー・ウォルシュ(ヒューストン・バレエ)

  レスコー:古川和則
  レスコーの愛人:湯川麻美子

  マダム:堀岡美香
  ムッシューG.M.:マイレン・トレウバエフ

  乞食のかしら:吉本泰久
  高級娼婦:厚木三杏、長田佳世、堀口 純、川口 藍、細田千晶
  紳士:江本 拓、原 健太、奥村康祐

  看守:厚地康雄

  ねずみ捕りの男:小笠原一真


  演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
  指揮:マーティン・イェーツ


  新国立劇場のボックス・オフィスに貼り出されていた告知版によると、レスコー役は当初、芳賀望さんだったらしいです。しかし、芳賀さんがこの公演と同時に退団したため、古川和則さんが急遽レスコーを担当することになったそうです。

  古川さんは長身で、こう言っては何ですがニヒルな顔立ちです。それがまずレスコーにぴったりでした。第一幕、前奏曲が終わりにさしかかったときに幕が開き、闇の中にレスコーが一人座って前を凝視していますよね。あそこでレスコーがどんな表情をしているか、私は毎回楽しみにしています。

  古川さんはどことなく憂鬱そうな表情をしていました。気弱そうな表情と言ってもいいくらい。

  レスコーの人物造形は、『マノン』の中で最も難しいと思います。私の中ではいまだに、映像で残っているデヴィッド・ウォール(←『マイヤーリング』のルドルフ皇太子のオリジナル・キャストでもある)をしのぐレスコーはいません。

  アダム・クーパーはロイヤル・バレエ時代、レスコーが当たり役だったそうです。しかし、私はクーパーが第二幕のレスコーのソロを踊る様子しか観たことがないので、クーパーのレスコー像がどうだったとはいえません。とはいえ、たぶんアダム・クーパーのレスコーはさぞ強い印象を残すものだったろうと思います。ああ、クーパーのレスコー、観たかったな~(悔)。

  古川さんは、なんといっても演技がすばらしかったです。踊りのほうは、7月1日のレスコー役だった菅野英男さんに比べると頼りなかったですが、急遽の登板だったのですから仕方ありません。大体、身体の軸を斜めにして(25~30度くらい?)片脚で回転する振付(第二幕レスコーのソロ)なんて、マクミラン何考えてんの。

  吉田都さんが、マクミラン版『ロミオとジュリエット』の振付上の特徴は、オフ・バランスの動きが多いことだとおっしゃってましたが、たぶん『マノン』は『ロミオとジュリエット』以上に、オフ・バランスの動きが多用されていると思います。特にレスコーの踊りに最も多く取り入れられているのではないでしょうか。まるでレスコーのいびつな人格を象徴するかのように。

  古川さんのレスコーは印象的でした。3週間経った今でも、私は古川さんのレスコーを思い出せますから。片方の眉をひそめ、口の端を歪ませてニッと笑うあのワルそーな表情は本当に良かったです。

  それに対して、第二幕でムッシューG.M.相手のイカサマ賭博がばれ、小心者の本性をむき出しにして、ビビッて背中を丸めて机の裏に隠れる姿とか、拷問にあってズタボロにされ、口から血を流しながら、マノンとデ・グリューの前に引きずり出されたときの情けない表情が、ワルぶって調子に乗ってたときとすごいギャップがあって、いや、ほんとにすばらしかった。

  レスコーの愛人役は湯川麻美子さんでした。役作りはもちろん完璧で、レスコーみたいなチンピラにヒモられているのに、レスコーに本気で惚れており、そんな自分の境遇にまったく疑問を持たない単純な(というかバカな)女を演じていました。

  そして踊りはさすがでした。レスコーの愛人は第一幕と第二幕でソロがあり、第二幕ではレスコーとのパ・ド・ドゥがあります。きっちり踊ること自体大変でしょうが、湯川さんは緩急自在な動きで巧みに踊っていました。ただ振付どおりに踊っているだけではない感じで、踊り方がプロっぽいというか、こなれているというか、非常に艶がある踊りでした。

  第一幕の最初で、愛人をムッシューG.M.に引き合わせようとしたレスコーが、他の男に色目を使った愛人をひっぱたきます。そして、逮捕されて押送されていく、頭を丸刈りにされた娼婦たちの前に愛人を突き出して、「俺の言うとおりにしないと、お前もこうなるぞ」的に脅すシーンがあります。

  これはもちろん、第三幕への伏線になっているシーンですが、湯川さん演ずる愛人が頭を抱えて、「えっ、そうなの?うーん、どうしよう。あんなふうになるのはイヤだわ」と本気で必死に考えている表情が、いかにも頭の足りない女っぽくて(←褒めているんですよ!)良かったです。

  長くなったから、その3に行きます~。
  
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フェデラー優勝!


  ウィンブルドン選手権男子シングルス決勝で、ロジャー・フェデラーがアンディ・マレーに3-1で勝利し、7回目のウィンブルドン選手権優勝を果たしました。

  すごく良い試合でした!特に第3セットからの展開が物凄くて、最終セットまで一時もテレビから目が離せませんでした。

  フェデラーは第1セットを落しました。フェデラーはあまり調子が良くないようだったので、マレーが第1セットを取ったときには、これはひょっとしたらマレーが勝っちゃうかも、と思いました。

  しかし。

  フェデラーは本当に恐ろしい、と思ったのが、第3セット第6ゲーム(ゲーム・カウント3-2)で、フェデラーがマレーのサービス・ゲームをブレークした過程です。

  マレーは好調で、0-40と一方的にリードしていました。あっさりキープしてゲーム・カウント3-3になるかと思われたのですが、フェデラーがそれから3ポイントを連取して、デュースに持ち込みました。

  そこからが凄かった。フェデラーとマレーはお互いにデュースとアドバンテージを繰り返しました。それだけで10分以上もかかったと思います(後でニュース読んだらなんと20分!だって)。

  そのうちに、明らかにマレーが苛立ってきて、ミスが多くなってきたのです。あ、フェデラーは意図的にゲームを長引かせて、マレーを焦らせることでマレーのプレイの質を低下させ、このゲームをブレークしてマレーをじりじりと追い込もうという作戦に出ているな、と感じました。

  そしてついに、フェデラーがマレーのサービス・ゲームをブレークし、そのまま自分のサービス・ゲームは超速サーブ(とマレーのタイミングを外すためにわざとスピードを落としたサーブ)と怒涛の攻撃でキープして、第3セットも取りました。

  第4セットで、マレーのミスが更に多くなりました。まず、ファースト・サーブがほとんど入りません。また、容易にポイントを取れたはずの、しかも大事な局面で信じられないミスをする場面が目立ちました。

  フェデラーは容赦しませんでした(当たり前ですが)。マレーはコートの右から左、前から後ろに文字どおり振り回され、2回も転倒してしまうほどでした。

  マレーは動揺し、ミスをしたりポイントを取られたりすると、苛立ちや落胆の表情を浮かべ、天を仰いだり、首を振ったり、両腕を広げたりと仕草が大きくなりました。また、チャレンジ(審判の判定の再確認要求)を頻繁に行なっては退けられ、精神的な余裕がなくなっているのが明らかでした。

  一方、フェデラーは、あの冷静沈着な表情と態度をまったく崩しません。まさに「岩のようなメンタル」(By ジュリアン・ベネトー)。

  おまけに、フェデラーのプレイも凄まじかったです。マレーのプレイは「おお、すげー!」程度なんですが、フェデラーのプレイは、「何なのこれ!?人間!?神!?」なんです。アップのスロー再生で見ると、その動きは往年のシュテフィ・グラフを彷彿とさせる美しさです(ちなみにシュテフィ・グラフはある試合で、解説者に「まるでダンスのような美しい動きですね」と言われていた)。

  フェデラーは第4セットの冒頭で、早々にマレーのサービス・ゲームをブレークすると、やはり自分のサービス・ゲームは鉄壁で守り続け、最後はマレーのリターンがアウトになって優勝しました。

  テニスはパワーや技術だけじゃなくて、精神的に対戦相手を崩すことも必要なんですね。フェデラーの戦略の巧妙さとメンタルの強靭さに驚嘆しました。

  また、フェデラーは試合中、コイツ一体ナニ考えてんの!?感情ないの!?ってくらい全然表情を変えないのに、優勝して試合が終わると、ばったりとコートに倒れて笑ったり泣いたりするのが、ギャップ萌えなのよ~ 今回もばったり倒れてました(笑)。

  でも、マレーも閉会式で、泣いて声を詰まらせながらスピーチしていて、今どき珍しい素直な良い子だなあ、と思いました。「(優勝まで)もうちょっとだったんですが」、「これからも(グランド・スラム優勝に)挑戦しますが、…でも、簡単じゃないんです」と泣きながら言ってました。

  マレーはすでに、フェデラー、ジョコヴィッチ、ナダルらの向こうを張るトップ・プレーヤーなのに、まるで新人選手のような初々しさ。おばさん、思わず胸きゅんしちゃったよ。

  ともあれ、本当に良い試合でした。マレー、あなたはまだまだ次の機会があるよ。そしてフェデラー、本当におめでとう!会場中がイギリス人であるマレーを応援していた中で、孤独に、しかし強靭な精神力とすばらしいプレイで勝利したあなたは、本当に偉大です!

  これで一ヶ月はゴハンがおいしく食べられます~。
 
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新国立劇場バレエ団『マノン』(7月1日)-2


  マノンの人物像がいかに表現されるべきかはすごく難しい問題だと思います。

  アントワネット・シブレーとともにマノンの初演キャストであった、ジェニファー・ペニー主演の『マノン』映像版(1982年)が残っていますが、英国ロイヤル・バレエ団のダンサーによるマノン像は、基本的には大体こんな感じでしょう。つまり妖艶な「魔性の女」系です。

  私が『マノン』をロイヤル・バレエで観たとき(2005年)、マノン役だったのはダーシー・バッセルで、バッセルのマノンもやはりシブレー/ペニー系統でした。

  それが、去年の小林紀子バレエ・シアター公演『マノン』で、島添亮子さんのマノンを観たとき、最初はやや違和感がありました。島添さんのマノンはほとんど無表情で、私が思い込んでいた「魔性の女」という感じではなかったからです。

  島添さんのマノンは、しなを作るわけでなし、流し目を送るわけでなしと、あからさまに男を誘惑する仕草や表情などはまったくなかったのです。しかし、島添さんのマノンはとてもエロティックでした。とりわけ、島添さんの大腿、膝、脛とふくらはぎ、足の甲や爪先の形、そして脚と甲の動きには、同性の私でもぞくりとするような凄まじい色気がありました。

  また、無表情なのが神秘的な雰囲気を醸し出していて、これはもう、男どもが揃ってマノンに夢中になるのも当たり前だ、と最後には大いに納得しました。

  今回の公演のゲストであったサラ・ウェッブのマノンもほぼ無表情でした。官能的という雰囲気ではなかったのですが、でも、マノンはその時々によって感情がくるくる変化する女で、その瞬間の感情自体に嘘はないのだということは分かりました。

  たとえばデ・グリューを真剣に愛していたかと思うと、次の瞬間には豪華な衣装や宝石と贅沢な生活に心を奪われて、ムッシューG.M.にしなだれかかり、また次の瞬間にはデ・グリューへの愛情が一気にほとばしるといった調子です。それはマノンの中では矛盾することではないのです。

  マクミランがマノンの人物像をどう設定していたのかは知りません。でも、マクミランの作品をいくつか観て、マクミランは人間の、理屈や道徳では割り切れない、白とも黒ともつかないグレー・ゾーンに強く惹かれていたのではないかと感じます。

  『椿姫』のマルグリットは、体は娼婦でも心は聖女という、ある意味、男性の都合のいい願望が凝縮された女です。『マルグリットとアルマン』(1963年)を振り付けたフレデリック・アシュトンへの遠慮もあったかもしれませんが、マクミランはマルグリットのような女には、何か現実離れした嘘臭さを感じ、一見すると理解不可能なマノンのほうが、実ははるかに人間らしいと感じていたのかもしれません。

  プッチーニの『マノン・レスコー』やマスネのオペラ『マノン』でのマノンは、マルグリットの原型みたいな人物設定にされており、物語もどことなく道徳的な説教くささが漂う内容となっています。「自堕落だった女が純粋な男性によって真の愛に目覚める」的な。

  ダーシー・バッセルやサラ・ウェッブのマノンには、ルイジアナの沼地でデ・グリューとさまよっていても、そこにムッシューG.M.が現れて縒りを戻そうと言えば、たぶん躊躇なくムッシューG.M.の元へ再び走るだろうと思わせる危うさがありました。バッセルやウェッブのマノンは、最後に頼れる人がデ・グリューしかいなかったから、デ・グリューにしがみついたのだと思えるくらい、最後まで油断のならない女でした。

  妖艶系であれ、無表情系であれ、マノンの人物像をどうするかは、マノンを踊るダンサー個人の問題です。観客がそれを受け入れるかどうかもまた、観客個人の好き好きの問題でしょう。どういうマノンが正しいかということはありません。

  私はペニーとバッセルによるマノン像の刷り込みが昔は強かったのですが、今となっては、そのダンサーがマノンをどういう人物として表現したいかが分かればそれで満足ですし、様々なマノン像を見ることに興味があります。それだけに、マノンを独自の解釈で表現していたらしい、シルヴィ・ギエムのマノンを全幕で観なかったことを、今は本当に後悔しています。

  今日の公演でマノンを踊ったのは小野絢子さんでした。踊りは想定内のすばらしさでした。濃いメイクをし、演技は妖艶系で、きちんと真面目に練習を重ねたことがうかがわれ、よく頑張っていたと思います。流し目を送ったり、体をくねくねとしならせたりね。しかし、率直に言って、色気のいの字もありませんでした。

  生々しさの感じられない表面的・優等生的な演技と踊りのせいで、小野さんがマノンをどういう人物として解釈し、表現したいのかが、てんで伝わってきませんでした。この役は、小野さんにはまだ無理だと思います。今回がマノンのデビューだから、というのは理由になりません。去年の島添さんだって、あれがデビューだったんですから。

  妖艶系演技で勝負するなら、ジェニファー・ペニー、ダーシー・バッセル、アレッサンドラ・フェリ、アリーナ・コジョカル、タマラ・ロホ並みの演技力があることが基本的な条件でしょう。そうでなければ、できないことを無理してやんなくてもいいと思います。

  小野さんは小野さんなりのマノンを表現すればよかったのに、と思います。絶対に「魔性の女」である必要はないと思いますよ。マノンがいくらフィクションの人物だとしても、同じ人間なんだから、同じ女なんだから、どこかで自分と地続きの部分があるはずでしょう。そこからマノンという人物をたぐり寄せるという解釈方法だってあるんじゃないのかなあ。

  デ・グリュー役は福岡雄大さんでした。非常に情熱的な演技と踊りがすばらしかったです。第一幕のソロは少し不安定でしたが、前の記事にも書いたとおり、マクミランといえば、複雑で難しいリフトに加えて、男性ソロも非常に難しいので、どの男性ダンサーも大体あんな感じです。

  片脚のままで数種類の回転を連続して行なった後、脚を下ろさずにそのままゆっくりとアラベスク、それからパンシェしてキープ、あるいはジャンプして片脚で着地、着地した片脚を軸にしてアラベスクからパンシェのままキープ、果てにはジャンプして片脚着地、そのまま片脚で回転してから、やっぱり脚を下ろさずにゆっくりとアラベスクに移行してキープ、てな、とんでもない動きです。

  これで、ほとんどの男性ダンサーは軸足がガタガタブルブルし、足の位置を調整してなんとかバランスを保つ状態になります。(今回のゲストだったコナー・ウォルシュはそうじゃなかったので、それで仰天したわけ。)

  第二幕と第三幕の福岡さんは絶好調で、娼館でのパーティーでマノンに詰め寄り、マノンが去った後にデ・グリューが踊るソロと、マノンをムッシューG.M.から取り戻した後に踊るソロがすばらしかったです。デ・グリューの葛藤や、マノンに対するほとんど苦悶に近い愛情を踊りで表現できていました。

  デ・グリューの役作りは、こう言ってはなんですが、『マノン』の中では最も容易だと思います。でも、それでも今まで観た中で、大根なデ・グリューはいましたよ。福岡さんのデ・グリューは真面目だけど気弱、優柔不断だけどマノンに対する愛情はこの上なく強い、というキャラなのがよく分かりました。

  マノンを踊った日本人の女性ダンサーは少ないですが、デ・グリューを踊った日本人の男性ダンサーはもっと少ないはずなので、その一人が福岡さんほどのダンサーだというのは誇らしいことだと思います。 

  福岡さんは、去年のビントリーの新作『パゴダの王子』で観て、はじめて個体認識しました。そのときから良いダンサーだな、とは思いましたが、なにせビントリーの『パゴダの王子』自体がこのうえなくひどい駄作だったので、すっかり記憶から消え失せていました。

  でも、今回のデ・グリューで、福岡さんの存在はしっかりと脳内に保存されました。これからも楽しみです。

  新国立劇場バレエ団が『マノン』を初めて上演したときの舞台を私は観ていません。たぶん、初演のときよりはすごく良くなったのではないかと想像します(キャストからして、マノン、デ・グリューばかりか、レスコーやムッシューG.M.もみーんなゲストだったらしい)。とはいえ、『マノン』を上演するにはまだ能力的に足りないとも思います。

  去年の小林紀子バレエ・シアターの公演と比べると、ゲスト・ダンサーを除いたダンサー個々の能力は、新国立劇場バレエ団のほうが確かに高いです。しかし、全体的な出来は、小林紀子バレエ・シアターのほうが良かったと個人的には思います。各キャストの演技は良かったし、ダンサーたちの踊りも音楽に乗ってよく揃っていたし。

  新国立劇場バレエ団には、また数年後にでも『マノン』を上演して下さることをお願いします。絶対に観に行きますから。より進化した舞台を観られることを楽しみにしております。

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新国立劇場バレエ団『マノン』(7月1日)-1


  この国が「民主国家」などではないことは、昔から漠然と感じていた。それは去年の震災で確信となった。この国は北朝鮮や中国と何も変わらない。ただ国民を支配する方法が異なるだけである。

  問題は、「では、私たちはどうすればよいのか?」


  答えは、「ペシミズムに陥ってはいけない。現実を変えることは不可能ではない。」


  自信がないが、もうしばらく頑張ってみよう。


 『マノン』

   マノン:小野絢子
   デ・グリュー:福岡雄大

   レスコー:菅野英男
   レスコーの愛人:寺田亜沙子

   マダム:楠元郁子
   ムッシューG.M.:貝川鐵夫

   乞食のかしら:八幡顕光

   高級娼婦:厚木三杏、長田佳世、丸尾孝子、米沢 唯、川口 藍
   紳士たち:江本 拓、原 健太、宝満(←縁起の良い苗字だ)直也

   看守:山本隆之   

   ねずみ捕りの男:小笠原一真


  福岡雄大さんと八幡顕光さんがプリンシパルに昇進するそうです。八幡さんについては、「えっ、まだプリンシパルじゃなかったの?」とむしろ驚き。福岡さんについては、今日の公演を観て、確かにプリンシパルにふさわしいと思いました。おそらく、現在の新国立劇場バレエ団の王子を踊りそうな男性陣の中では、最も優秀なダンサーでしょう。

  デヴィッド・ビントリーが芸術監督に就任するまで、新国立劇場バレエ団には、プリンシパルが山本隆之さん一人しかいなかったわけです。ビントリーはこれを「バレエ団としては異常な状態」と言っていました。

  そこでビントリーは、まず団員の中ですでに相応のキャリアを有するダンサーたちをプリンシパルに昇格させると同時に、人材をどんどん発掘して主要な役に抜擢しました。更に、欧米人スター・ダンサーのゲスト頼みだった従来の公演形態から、自前で上演できる作品は極力、団員だけで上演するという方針に改めました。

  プリンシパルの数が異常に少なかったことについては、私はせいぜいバレエ団内の派閥間における力関係のせいだろうと思っていましたが、ひょっとしたら、プリンシパルを増やすと人件費が上がるから、運営財団側が認めなかったとかいう単純な理由のせいだったのかもしれません。

  人件費の予算はがっちり決まっている(どころか、運営財団側としてはむしろ削減したい)でしょうから、スター・ダンサーのゲスト招聘に費やすか、団員の待遇を上げるか、どちらかを選択するしかなかったはずです。ビントリーが選んだのは後者だったのでしょう。同時に、ゲストを招聘するにしても、知名度では劣っても、能力においては引けを取らないダンサーたちを連れてきました(例外もいましたが)。

  ビントリーは次の2012~13年シーズンをもって退任するそうです。ダンサーたちの位階を決定できる最後の機会、つまり今のうちに、優秀かつ将来有望な団員たちを昇格させたのかもしれません。

  かのアンソニー・ダウエルも、英国ロイヤル・バレエ団の芸術監督を退任する直前に同じことをやりました。次期芸術監督は、不用とみなしたダンサーをリストラしまくることで有名な人物だったので、ダウエルはダンサーたちの位階を上げることで、彼らを庇おうとしたのでしょう。

  例の新国立劇場合唱団員の解雇事件からも分かるように、日本初の劇場専属を謳いながら、法的には雇用関係とはみなされず、実質的にはパートタイマーに過ぎない団員たちの待遇に、ビントリーは愕然としたんじゃないかと想像します。ビントリーは最後に自分ができることとして、新国立劇場バレエ団の主要ダンサーたちの位階=待遇を上げておきたかったのかもしれません。が、私の大カン違いだったらすみません。

  んで、今日の『マノン』ですが、24日と26日のキャストと比較しながらの感想になっちゃいます。優劣を言いたいんじゃないです。比較してはじめて、それぞれの良さや個性の違いも分かるからです。

  まずレスコー。菅野英男さんでした。24日と26日のレスコーだった古川和則さんが、チンピラのヒモ男をねっとりと演じて強烈な印象を残したのに対して、菅野さんは切れ味鋭い踊りで見せました。演技のほうでも、菅野さんが第二幕、泥酔したレスコーを演じて踊っている様がすごく楽しそうで、俳優は悪いヤツを演じるのが好きだ(By 北野武監督)ってホントなんだな~、と思いました。

  レスコーの愛人は寺田亜沙子さんで、踊りは湯川麻美子さん(24日、26日)よりも端正できっちりした印象でした。自分流にアレンジしないで、真面目に丁寧に踊るという感じです。第一幕でレスコーの愛人が登場するシーンの踊りで、片方の爪先をずっずっず、と引きずるような妙なステップを踏むでしょう。あれがすごくきれいでした。

  乞食のかしら役の八幡顕光さんは、膝を極端に曲げながらの回転とジャンプとがてんこもりの踊りを見事に踊りました。腰の骨が折れそうな、あの連続上体180度ひねりはちょっと苦しそうでした。

  優劣は言わんといいながら、個人的にミスキャストだと思う人。ムッシューG.M.役の貝川鐵夫さんと看守役の山本隆之さん。貝川さんは存在感が希薄でした。「平たい顔族」だからではないです。24日と26日に看守役だった厚地康雄さんは、「平たい顔族」でもあれだけ冷酷で残忍なキャラを演じきったわけだから。今日は「客の一人」役だったマイレン・トレウバエフのほうが、ムッシューG.M.に見えてしまって困った。

  今日の看守役だった山本隆之さんも迫力不足だと思いました。まったく悪いヤツに見えません。同じ王子系統の逸見智彦さんが悪役(『ラ・バヤデール』のラジャ)を演じたらすっごい悪人になったので、山本さんもさぞ悪いヤツになるだろう、と楽しみにしてたんですが。

  高級娼婦役の厚木三杏さんと長田佳世さんは、踊りも演技も見ごたえがありました。第二幕で二人がどつき合いながら踊るシーンでは、客席から笑いが起きていました。

  第二幕でのマノンと男性客たちとの踊りは、今日のほうがリフトがきれいに決まっていました。男性客がマノンをブン投げて、隣の男性客がキャッチするのをくり返すリフトね。ゲストがマノン役だった日はぎくしゃくしてました。やっぱり同じ団員同士のほうが、練習時間も長いんだから踊りの息が合いますわな。

  長くなったので、マノン役の小野絢子さんとデ・グリュー役の福岡雄大さんについてはまた後日~。


 付記1.本日の『平清盛』(NHK大河ドラマ)

  やはり脚本が良くないと思う。私は先週もちゃんと観たけど、平治の乱の原因がさっぱり分からなかった。

 付記2.本日の「知られざる大英博物館(2)」(NHKスペシャル)

  先週も観ました。これはおすすめの番組です!!!展示室よりも地下収蔵庫のほうが良い品を置いてあるのね~。

  最も興味深いのは、大英博物館の研究者たちの解説や文物の研究作業の様子です。陶器の底の破片を見ただけで、「これは古代ギリシャ初期の様式ですね」とか、何の変哲もない石の穴を見ただけで、「この穴の形は古代ギリシャの建築物特有のもので、床と床とをつなぎ合わせるのに用いたのです」とか言ってて、すげー、と感嘆しました。

  この番組を観ておけば、大英博物館の現物なんぞに行く必要なし!    
       
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