『雨に唄えば』 ウエスト・エンド進出決定

  クーパー君の公式サイトで発表されましたね。

  今夏のチチェスター・フェスティバルで上演された『雨に唄えば』(Singin' in the Rain)が、来年2012年の2月4日から9月29日まで、ロンドンのパレス・シアター(Palace Theatre)で上演されることが決定したそうです。パレス・シアターはシャフツベリー・アヴェニュー(Shaftesbury Avenue)にあって、ウエスト・エンドの劇場街のモロど真ん中です。

  2012年2月4日からプレビュー(試験)公演、2月15日から本公演となります。チケットはこの9月26日から発売されます。

  まだ扉のページしかないけど、ウエスト・エンド公演専用の公式サイトも開設されてるから、大がかりな公演になりそうです。

  アダム・クーパーはもちろんドン・ロックウッド(映画でジーン・ケリーがやった役)です。

  私、申し訳ないことに全然知らなかったけど、チチェスター・フェスティバルでの公演は大好評で、満員御礼な上に、各紙のレビューも総じて五つ星だったらしいですね。

  このニュースを見て、久しぶりに心が躍りました。震災以降、こんなに嬉しい気持ちになったことはないです。本当に嬉しい。

  なんだかんだいって、結局、アダム・クーパーほど、私を心から嬉しがらせてくれる人はいないんだなあ。思い知ったよ(笑)。

  もちろん、ビジネスライクに話が進んだのだろうことは分かっている(まず地方公演→それからロンドン公演、というよくあるパターン)し、スタッフとキャスト全員の力の賜物であることも分かっているけど、

  本当におめでとう、そして、ありがとうね、クーパー君!



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『砂の器』

  ついにクーパー君主演のチチェスター・フェスティバル『雨に唄えば』を観に行かないでしまいました。上演期間はもう終わったはずですね。クーパー君、3ヶ月間にもわたる長丁場、本当にお疲れさまでした。

  今回は、以前みたいに「とーぜん観に行くわよ」という気持ちになりませんでした。そういう心の余裕がなかったです。やはり、震災と原発事故の心身両面への影響が非常に大きかったのだと思います。これは仕方のないことです。今年ばかりは許してちょうだい、クーパー君。

  というわけで、お茶濁しネタです(笑)。私はふだんテレビドラマはほとんど観ないのですが、一昨日と昨日とテレビ朝日で放映された『砂の器』は、珍しく両日とも最初から最後まで釘づけになって観ました。すごく面白かったです。

  『砂の器』はもう古典作品といえますから、映画であれテレビドラマであれ、今さら「犯人はいったい誰か!?」的に観ることはほぼないでしょう。それよりも、原作をどう解釈し、脚本化し、映像化し、更には物語にどういうふうにして広がりと奥行きを持たせているかに興味を持つのがほとんどだと思います。

  今回の『砂の器』は、主役、脇役、端役に至るまで文字どおりオール豪華キャストで、「ちょい役にこんな大物俳優・女優を持ってくるかー!」と驚きっぱなしでした。

  時代設定は昭和35~36年ですが、登場人物の追想も含めると、戦前、戦中、戦後にわたります。もう平成23年の今現在、昭和10~30年代の面影を残している風景や街並や建物を探して撮影するのは一苦労だったことでしょう。

  時代考証については、私でも気づくアラはありました。大体、主人公の吉村刑事を演じた玉木宏の髪型からして、「このもみあげと長髪はねーだろ」と思いました。あと、漢字の字体と言葉遣いです。当時、使用されていたかどうか疑問な漢字の字体、日本語の発音がかなりありました。設定された時代をリアルタイムで知っている方々は、「これはおかしい」と思われる点がもっとあったでしょうね。

  最もヘンなのは、女性の新聞記者である山下洋子(中谷美紀)なる人物が新たに登場し、刑事とともに、どころか、刑事に先駆けて事件の謎を解き明かしていくという点でした。

  これは火サスとか土曜ワイド劇場とかいった2時間サスペンスドラマにありがちな展開(←温泉旅館の女将とかがなぜか事件を解決する)で、ご都合主義的で底が浅い設定だと感じました。でも、なにせ登場人物がむさ苦しい男ばかりですから、紅一点というか、華やかなキャラクターが必要とされたのかもしれません(それはそれでセクハラ的思考な気もするが)。

  CGによる合成画像も不自然でした。合成画像は見てすぐに分かりました(お寺のシーンとか桜吹雪のシーンとか)。とりわけ自然の風景については、素人に分かられるような安っぽいCGはやめたほうがよかったのではないかな~、と思います。

  ストーリー的には、やはり和賀英良こと本浦秀夫(佐々木蔵之介)、その父親である本浦千代吉(山本學)をめぐる背景設定が弱かったです。

  原作にある設定ほど強い説得力のあるものはないのですが、なんでも原作の設定は、現在は人権上の配慮から使用できないんだそうですね。でも、原作の設定は、やはりこれほどのことでないと、犯人が一連の罪を犯す動機にはならないだろうというものです。また、原作の設定だと、犯行動機がただ単に犯人一個人の事情でなく、当時の日本の社会全体の暗黒面に根ざしていることが分かるし、一篇の推理小説の域にとどまらない、深くて重い問題を提起することになります。

  でも、それがかつてまったく非科学的でいわれのない深刻な差別と迫害に苦しんだ人々を傷つけるというのなら、そういう設定は用いてはならないのは当然です。戦前生まれの私の母(←『砂の器』を読んだことないし観たこともなし)に聞いてみたら、母も「昔の(彼らに対する)差別は本当にひどかったもの!村八分だのなんだのとなあ!」と言っていました。

  原作に匹敵するほどの、犯人が抱える過去と背景を新たに設定し直さなくてはならないのが、『砂の器』を映像作品化する人々にとって最も困難な作業でしょう。それはよく分かるのですけど…。

  和賀英良(本浦秀夫)役の佐々木蔵之介の演技は凄かったですね。また、一見すると温厚で静かながら、今西刑事役の小林薫の表情やセリフからは目が離せませんでした。小林薫の演技がいちばんすばらしかったのでは(当たり前か)。

  吉村刑事役の玉木宏も、最初こそセリフ回しは一本調子だし演技もオーバーアクションだと思いましたが、最後の取り調べのシーンは息を呑むような大迫力でした。個人的には、お寺を訪れて、本浦千代吉が書き残した言葉を読んで絶句し、肩を落として声もなく嗚咽する演技が最もグッときました。(この時点では千代吉がどんな言葉を残したのか、観ている側には明かされないだけに…。)

  玉木宏というと、テレビのCMでお茶漬け食べてるイメージしかなかったのですが、長身ぽいし、男くさいイケメンだし、声も低くて良いし、なかなかええのう、と見直しました。

  全編を通じて最も印象的だったのは、小林薫演ずる今西刑事が、犯人に自白調書に署名させるときに言った「和賀英良はいない」というセリフです。ずっしりとした重みがありました。この一言で物語が終わりを迎え、総括されたばかりか、『砂の器』という題名と最後にがっちり繋がりました。さすがは小林薫。

  今回のドラマはDVD化されるそうですが、私は映画(1974年製作、野村芳太郎監督)のほうを観たくなりました。ところが、みな考えることは同じなようで、Amazonを見たら売り切れで「再入荷の見込みは立っていない」とのことです。しばらく待つしかなさそう。

  最後にまた難クセ。この作品では、犯人らしい人物が発した「カメダ」という語つながりで、秋田県の亀田が出てくるので、興味津々で観ていました。が、昭和35年の亀田にしちゃ、ありゃ都会すぎますぜ。今だって何もないド田(以下自粛) 
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片付け

  今日、ようやく3月11日の地震で棚から落ちた本、書類、CD、DVDを片付けて、元のとおりに棚に戻しました。今まで床に積み上げっぱなしでした。

  なぜもっと早く片付けなかったのか?自分でも分かりません。

  しいていえば、また地震のせいで落ちるのが怖かったからです。物がまた落ちて壊れるかもしれないとか、落ちてきた物に当たるかもしれないとか、そういうことが怖かったのではなく、また落ちることそのものが怖かったのです。また落ちたら、私はブチ切れてパニックやヒステリーを起こすんではないかと、それが恐ろしかったんだと思います。

  片付けてみると、物が元どおりに並んで、見た目も気持ちもスッキリした、とまではいいませんが、まあ言葉どおり「片付いたなあ」という感じで、決してわるい気分ではありません。

  3月の地震前、棚には陶器製の置き物などもいくつか置いていました。これらは地震で一つも落ちませんでした(←これはすごい不思議)。でも、地震の後に、まとめて安全そうな場所に移動させました。大きな余震が起きたときに落ちて壊れたりしたら、私まで壊れそうだと思ったからです。それらの置き物はまだ移動させたままです。いずれ元の場所に戻そうという気になるまで待とうと思います。

  私の周囲には、心身ともに打ちのめされ、疲弊しながらも、「被災地じゃないのにこんなふうになってしまって、被災地の人たちに申し訳ない」と自分を責めている人たちがけっこう多いのです。

  でも、ある友人がこう言いました。「東京だって“準被災地”だよね。」 私もそのとおりだと思っています。今の東京で、震災、原発事故前と同じく、平和裏に暮らしている人のほうが珍しいのではないでしょうか?表面的にはいつもどおりに見えても、たとえば、防災用品を買い揃えるとか、スーパーで食材を買うときには産地を確認するとか、それくらいはみなやっているでしょう。

  震災から今まで、私は不安が昂じるたびに、「私はなぜ東京にしがみついているのだろう?別の土地に引っ越せばいいのではないか?」と考えました。何度も何度も。秋田の実家の親からも「秋田に帰ってきなさい」と言われたことがあるし、アメリカにいる姉も「新しい土地で新しい生活を始める、という選択肢を持っておいたほうがいい」と言いました。

  お盆に帰省したとき、NHK教育の「こころの時代 私にとっての“3.11”」(←9月25日に再放送予定)という番組を観ました。徐京植(ソ・キョンシク)氏は、震災と原発事故が起きた後、韓国にいる親戚たちや友人たちから「韓国に帰ってこい」と言われて、なぜ自分は日本にいるのか、日本に居続ける理由は何か、とやはり考えたそうです。

  徐氏が行き着いた答えは、「根」というものでした。生活の根、心の根、魂の根、目には見えないけれども、自分の「根」は日本にある。いくら危険だといわれても故郷を離れたくない福島の人々も同じ。ただ単に家や先祖代々の墓という「モノ」がある土地というだけではない。そこには彼らの「根」がある。

  それを私自身に置きかえてみると、東京には私の「根」があるといえます。秋田は一応「故郷」ですが、でも私は秋田で生まれたのではありません。更に学生時代は、生まれた土地とも育った土地とも違う土地や国で過ごしました。今の時点では、東京で過ごした時間が最も長いことになります。

  東京には私の「根」があり、だから私は東京を離れないのだ、と腑に落ちました。それ以来、心の中で「根」という言葉を使わせてもらっています。

  震災からもうすぐ半年になります。まだ半年です。長いつきあいになりそうです。たぶん私の一生をかけての。

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小ネタ(シリーズ開始)

  青池保子『エロイカより愛をこめて』の「ポセイドン2000」に出てくるバレエ・ダンサー、ジリー・コスビーのモデルは、たぶんウラジーミル・マラーホフ。
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