![](/images/clear.gif)
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第5章(Chapter 5)その3。
誤訳だらけでしょうが(引き続きゴールデンウィーク中のためテキトー)、なにとぞご容赦のほどを。今回も雑談なし。
・99年6月、全仏オープンに引き続き、フェデラーはワイルド・カードでウィンブルドン選手権男子シングルス本選に出場した。1回戦の相手はチェコのイリ・ノヴァク(Jiri Novak、75年生、当時の世界ランキングは59位)だった。全仏オープンでパトリック・ラフターから第1セットを奪ったように、フェデラーはイリ・ノヴァクに対してセット・カウント2-1でリードした。
・しかし、ここでまたフェデラーの悪癖が顔を出した。試合がフェデラーにとって初めてとなる第5セットにもつれ込んだところで、フェデラーの集中力は途切れ始め、やがて泥沼に陥ってしまった。経験不足のせいで、フェデラーは8つもブレーク・ポイントを手にしながら、それらを生かすことができずに敗退した。
・99年秋まで、フェデラーは出場したすべての大会で1回戦負けか、もしくは予選敗退に終わった。これは危機的状況であったが、秋以降の室内大会のシーズンに入ると、そうした状況はいきなり消えうせた。
・ウズベキスタンのタシケントで行なわれた大会で、フェデラーはフランスのセドリック・ピオリーン(Cedric Pioline、69年生、当時の世界ランキングは13~16位)を1回戦で破り、ついに世界ランキング100位以内に入った。18歳になっていたフェデラーが、その中で最も若い選手だった。それからフェデラーは年末までに、ATPツアーの大会で7人の選手を破り、ウィーンで開催された大会では初めて準決勝にまで勝ち上がった。
・フェデラーはこの99年の最後を、フランスのブレストで行なわれたチャレンジャー大会優勝で終えた。これが、フェデラーにとって最後のチャレンジャー/サテライト・サーキットへの出場になった。このときを境に、フェデラーは出場する大会をATPツアーとグランド・スラムのみに絞った。フェデラーが経験の浅い新人選手から、安定したプロ選手になるのに要した過渡期は、このわずか1年間だった。
・この年、プロにデビューしたフェデラーのATPツアー、グランド・スラム、デビス・カップでの戦績は13勝17敗と負け越した。が、99年初頭での世界ランキング302位から年末での64位という大きな飛躍と、獲得賞金22万3859ドル(当時のレートで約2千7百31万円)は、18歳の新人選手にとっては驚くべきことだった。「こんなに速く、こんなに高いランキングにたどりつけるとは思っていなかった。僕の今年の目標は200位の壁を突破することだったから。」 フェデラーは言った。
・フェデラーのコーチであるピーター・カーターは、99年のシーズンの終わりにこう総括した。「今年、ロジャーが戦ったすべての試合は、ジュニアの大会の決勝戦レベルだった。"お友だち君"でもあるジュニアの選手たちには、彼はほとんど勝利してきた。それが今年、彼は多くの試合で敗北し、また自信を失うことにもなった。でも、彼は敗北からたくさんのことを学んだ。」 カーターは、フェデラーが屋外、室内、そしてどんなコート・サーフェスにも適応できることを確信していた。
・フェデラーに欠けているのは経験だけだった。しかし、フェデラーの2000年に向けた目標はやや控えめだった。「世界ランキング50位以内に入れるといいな。」
・99年の終わりを迎える前に、フェデラーは好きとはいえない学校の教室に、最後にもう一度だけ戻らなくてはならなかった。(←前述されているとおり、フェデラーは小・中学校を通じて、学校での勉強にまったく興味もやる気もなく、授業中は寝てばかりで、教師たちをいつも激怒させていた問題生徒だった。) フェデラーはモナコ公国のモンテ・カルロで開講された"ATP Tour University"に3日間「通学」した。
・フェデラーは"ATP Tour University"の講義で、トップ選手が直面するであろう様々な課題や、いかにしてそれらの課題に取り組むかを学んだ。後にフェデラーが述べたところによると、"ATP Tour University"で授業を受けている間に、メディアに対する恐怖心が消えたという。
・「僕は最初、記者たちが怖かったし、彼らは僕のことを悪く書くだろうと思っていた。なのに、なぜ彼らと話をしなくてはならないんだ?と。でも講義を受けて以来、メディアは僕たち選手が僕たちのイメージを良くするのを助けてくれるし、僕たち選手もまたメディアが良い記事を書くのを手助けすることになる、と理解できた。」(←今度は寝ないできちんと真面目に授業を受けたらしい。)
"ATP Tour University"なんてあるんだ、と思って検索したら、現在の名称は"ATP University"で、毎年、春と秋の2回開講されてるようです(場所は、春期はマイアミ、秋期は年度によって異なるらしい)。今年の3月にマイアミで行なわれた"ATP University"については、ATPの公式サイトのニュース "Klizan, Johnson Among 22 Graduates Of ATP University" に詳しいです。フェデラーのころには、"ATP Tour University"はオフ・シーズンに3日間にわたって行なわれたようですが、現在はシーズン中に行なわれるせいもあってか、1日間だけの回もあるらしいです。
過去から現在までの記事によると、「科目」はMarketing the Tour(商業としてのプロテニス大会について)、Social Media(インターネット活用法)、Media Training(マスコミ対応の仕方)、Personal Finance(金銭管理)、Rules & Regulations(ルール)、Giving Back in a number of seminars(←?「一連の講義で学んだことを400字詰め原稿用紙3枚以内にまとめなさい」的な課題かも)、how tournaments operate(大会運営)、anti-doping(禁止薬物の使用防止)、anti-corruption(金銭がらみの不正行為防止)など。
で、最後に"ATP IQ"という卒業試験を受けるんだって。Q1.ラケットを自分の顔に何度も叩きつけて流血した選手は誰か答えなさい。Q2.ラケットを合計4本も一気に破壊した選手は誰か答えなさい。ってか。
"ATP University"には毎回20名前後の選手が参加しているようです。自主的に参加するのか、それとも強制的に参加させられるのかは不明です。ここ数回の顔ぶれを見ると、必ずしも10代後半~20歳そこそこの新人若手選手だけが参加するとは限らないようです。ただ、その年に新たにキャリア・アップした選手が多いので、おそらくATPから指名されて参加させられるんじゃないでしょうか。
プロのテニス選手、しかも若いとなれば、テニス一筋だったせいで、どうしても世間知らず・常識知らずな人が多いでしょうから、これは良い企画だと思います。しかし、"ATP University"の「卒業生」には、バーナード・トミック選手(オーストラリア)やブノワ・ペー選手(フランス)もいます。余計なお世話ですが、"Manner & Attitude on and off court"も科目に加えたらどうでしょうか。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第5章(Chapter 5)その2。
誤訳だらけでしょうが(ゴールデンウィーク中のためテキトー)、なにとぞご容赦のほどを。今回はあまり雑談なし。
99年の1年間でランキングを100位近くまで上げるため、フェデラーは急がなくてはなりませんでした。98年ジュニア世界ランキング年間1位、98年ウィンブルドン選手権ジュニア部門男子シングルス優勝者という「特権」は、99年をもって効力を失います。
さもなければ、待っているのはいつまでも続く下部大会のドサ回りという負のループとなかなか上がらないランキング、そしてフェデラーの両親、ロベルトとリネットからの最後通牒(「我が家はいつまでもあなたに経済的な援助はできません」)です。
しかし、フェデラーは99年の2月末には、世界ランキングを130位にまで上げることができました。
・この時点で、フェデラーとアパートをシェアして住んでいたイヴ・アレグロは、フェデラーがプロ選手として成功するだろうことを覚っていた。「そのころ僕は、ロジャーが世界ランキング10位以内、あるいは1位にだってなるかもしれない、と言いました。しかし、多くの人々はそう話す僕を笑いました。たった数ヶ月間で、ロジャーがジュニア選手からプロ選手へと一気に飛躍した過程は衝撃的なものでした。ロジャーはテレビの試合中継を観てプロ選手たちのプレーを研究していました。僕はその様子をつぶさに見ていて、それが強く印象に残っていたのです。」
・99年4月、フェデラーはスイス・チームの一員として、デビス・カップの試合に初めて出場することになった。対戦国はイタリアで、試合の開催地はスイスのノイエンブルクだった。
・ところが、スイス・チームでは数ヶ月にわたる内輪揉めが起きていた。スイス選手の中では最も世界ランキングの高い(←当時27位)マルク・ロセが、自身の11年来のコーチであったシュテファン・オーベラーとケンカ別れした挙句、オーベラーがスイス・チームの監督を続ける限り、自分はデビス・カップに出場しない、と宣言したのである。(←なんだそりゃ)
・結局、オーベラーは99年2月にスイス・チームの監督を辞任し、元プロ選手のクラウディオ・メサドリ(Claudio Mezzadri、自己最高世界ランキング26位)が新しい監督として就任した。
・フェデラーのデビス・カップでのデビューは上々だった。最初の試合、フェデラーはイタリア・チームで最もランキングの高いダビデ・サンギネッティ(Davide Sanguinetti、当時の世界ランキングは48~57位、現在は添田豪選手のコーチだそう)を3-1で破り、スイスはイタリアに3対2で勝った。
・イタリア・チームの監督であるパオロ・ベルトルッチ(Paolo Bertolucci)は「フェデラーに出場されたのはまずかった」と述べ、そして言った。「しかし、彼のプレーを観られてよかったよ。あれほどのプレーができる選手は、世界でもそういないからね。」
・同年7月、スイスはベルギーと対戦した。試合はベルギーのブリュッセルで行なわれた。まだ18歳になっていなかったフェデラーは、2試合目に臨んだ時点で、実質的にスイス・チームのリーダー的存在になってしまっていた。なぜなら、本来のリーダーであるマルク・ロセが、大会期間中に病気にかかってしまったため、シングルスの試合に出場することを辞退したからだった。そのとき、スイスとベルギーは同点だった。
・17歳のフェデラーがスイス・チームを引っ張るのは荷が重すぎた。フェデラーは立て続けにクリストフ・ファン・Garsse(Christophe van Garsse、当時の世界ランキングは130位前後)とグザビエ・マリス(Xavier Malisse、当時の世界ランキングは130位、2013年4月27日現在の世界ランキングは55位)と対戦していずれも負け、スイスは敗退した。
とりあえず世界ランキングを130位にまで上げることができたフェデラーでしたが、ここで妨げとなったのが、またもやフェデラー自身の性格でした。
・フェデラーは見る者を魅了する美しいストロークを有していたが、気まぐれで不安定な選手でもあった。テクニックは卓越しているにも関わらず、フェデラーは依然として集中力の面で問題を抱えており、勝てる試合でも我を失うことが頻繁にあった。
・この欠点は3セットを超える試合でとりわけ顕著に現れた。こうした長時間にわたる試合では、地味な要素であるスタミナ、忍耐力、戦術の巧みさなどが必要とされた。が、風や天気のせいで試合のコンディションが変わったり、甚だしくは視界に入る観客が動いたりしただけで、フェデラーは苛立ってしまうのだった。
そういえば、フェデラーは風が強かったり、日ざしがまぶしかったりすると、今でもプレーが不安定になりますね。「視界に入る観客が動いたりしただけで、フェデラーは苛立ってしまう」というくだりでは、つい最近の試合(インディアン・ウェルズの大会だったと思う)で起こったことを思い出しました。
フェデラーがサーブをしようとして、ふいに動きを止めました。少し苛立った表情でラケットで前方を指しながら、相手選手に何か言いました。相手選手が後ろを振り返って観客席を見やります。続いて主審がマイクを使って観客にアナウンスしました。すると、カメラがいきなりフェデラーの正面、つまり相手選手の背後にあたる観客席を映し出しました。3~4人の観客(←揃ってデブの白人)が列をなして、席の前の通路をぞろぞろと歩いて移動しているところでした。
観客の動きが目ざわりで、フェデラーはプレーを中断したのだとやっと分かりました。主審もゲーム中は移動しないよう観客に注意したらしいです。でも、注意された観客たちはヘラヘラ笑っていました。インディアン・ウェルズの人々は、収入は高くても知性は低いんだなあ、と私も軽くイラッとしました。しかし同時に、フェデラーも神経質すぎやしないかと正直思いました。他の選手もこんなものなのでしょうか。
・もっとも、フェデラーは屋外であれ室内であれ、またどんなサーフェスであれ、プロ選手たちと互角に戦えることを証明していった。99年、ワイルド・カードで初出場した全仏オープン(クレー・コート)が典型的だった。男子シングルス本選に出場した選手たちの中で、17歳のフェデラーが最も年少だった。1回戦、フェデラーは全米オープンで2回の優勝歴を持つ、当時世界ランキング3位だったオーストラリアのパトリック・ラフター(Patrick Rafter、72年生)と対戦した。(あ、そうだったの?ラフターと対戦させてもらえたってことは、フェデラーはそれなりに期待されてたのね。)
・このとき、ラフターは自身のキャリアで全盛期にあった(←同年7月に世界ランキング1位になっている)。フェデラーはそのラフターから第1セットを奪った。
・しかし、太陽が顔をのぞかせて温度は上がり、球速も速くなった。クレー・コートは、乾くと球速が非常に速くなるものなのである(ふ~ん)。ラフターの攻撃的なサーブ・アンド・ボレーのプレーは精密機械のように機能し、ラフターは逆転して3-1でフェデラーに勝利した。
・フランスの新聞はフェデラーについてこう書いた。「スイスのあの若者は、次の10年間で頭角を現す選手の一人になるだろう。」 対戦したラフターも同意見だった。「あの子には驚いたよ。」 ラフターは言った。「もし彼が一生懸命に努力して、良い態度を保つことができれば、すばらしい選手になれるだろう。」
・一方のフェデラーは、記者会見で自分に足りないものは何かと問われてこう答えた。「選手として成熟すること。」
パトリック・ラフターっていう名前は覚えているんですが、すごい選手なのに明瞭な記憶がありませぬ。ピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、ゴラン・イヴァニセヴィッチ、ティム・ヘンマンらと同世代ですね。オーストラリア人選手っていうと、マーク・フィリポーシスや、デビューしたばかりのレイトン・ヒューイットのほうが記憶に残ってます。理由はおそらく、フィリポーシスやヒューイットのほうがイケメンだったので、ラフターはわたくしの脳内で海馬の隅に隠れてしまったのだろうと思われます。
ラフターは現在、デビス・カップのオーストラリア・チームの監督を務めているそうですね。オーストラリア期待の新星、バーナード・トミックを、素行不良を理由にチームのメンバーから外したことでニュースになりました。
全仏オープンで対戦したフェデラーについて、「良い態度を保つことができれば」と言及したことからみると、フェデラーは対ラフター戦においても、ラケット放り投げや自分への罵詈雑言という悪癖を発揮しちゃったのかもしれません。「一生懸命に努力すれば」という言葉も、深読みすれば、フェデラーが自身の才能に溺れて努力を怠ったりしないよう警告したとも受け取れます。
フェデラーへの期待を込めつつ、その欠点をやんわりとたしなめたラフターは人格者ですね。教育者としての資質が元々あった人なのでしょう。ちなみにラフターは当時26歳、フェデラーは17歳でした。今年の全豪オープンで、フェデラーとバーナード・トミックが対戦しました。フェデラーは31歳、トミックは20歳です。トミックは終盤、完全に試合を投げてしまっていました(ついでに試合後にまたスピード違反で検挙されたそうな)。
フェデラーはトミックに対して、表面的には非難めいたことはまったく言ってませんでしたが、プロのテニス選手としてもっと自覚を持たなくてはならない、という意味にもとれることは言ってたようです。
試合態度の悪い若手選手は他にもいます。フェデラーはそういった選手たちに対して心中どう思っているのか、聞いてみたいところです。かつての自分を見ているような気分なのか、それとも完全に突き放して見ているのか。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
この間(4月24日)『怒り新党』の「新・3大○○調査会」の「新・3大 国枝慎吾の最強を証明したテニス」は面白かったです。特に、国枝選手が驚異的なキャリアを積み上げている日本人のテニス選手であるにも関わらず、その試合映像がパラリンピック以外は残っていないため、「3大」なのに2つしか映像を紹介できなかったところが。
グランド・スラムとかだと、ネット中継のリストに"Wheelchair Tennis"ってあった気がするんだけどなあ。きっと日本のテレビで公式に使用できる映像がほとんどないんでしょうね。
こんなふうに、錦織圭選手らが登場するずっと前から、テニス界で活躍してきた国枝選手にまったく無関心な国がさ、「東京にオリンピック・パラリンピックを招致しよう!」とか大騒ぎしてるわけです。いよいよ白々しい感じがするってもんですよ。
国枝選手といえば、絶対に語られるのがフェデラーの逸話です。今回の『怒り新党』でも、国枝選手の経歴紹介でフェデラーの映像が出てきましたね。フェデラーが国枝選手を絶賛していること、フェデラーが国枝選手を評して「自分よりもグランドスラムに近い男」と言ったことが紹介されていました。
『怒り新党』では紹介されませんでしたが、次のエピソードも超有名です。数年前、「パッとしない日本の男子テニス」について、フェデラーにアドバイスを求めた日本人記者に対し、フェデラーは「君は何を言っているんだ?日本にはクニエダがいるじゃないか?」と答えたそうな。国枝選手とフェデラーが顔見知りなのは確かなようで、国枝選手とフェデラーとのツーショット写真も多くありますね。
フェデラーは「テニス界の生き字引」的なところがあり、どの選手に関しても即座に答えられるようです。
いつだったか、初対戦となる選手について会見で記者から問われ、「彼のことはよく知らないから、これからどんなプレーをするのか研究する」とか言っておきながら、続けて彼のプレースタイルはこうで、彼の試合展開のパターンはこうで、と事細かく答えていたことがあり、「よく知ってんじゃねーか!」と爆笑しました。忙しいだろうに、いつ研究してるのかね。
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第5章(Chapter 5)その1。
誤訳だらけでしょうが(今回ゴールデンウィークで遊びに行くためテキトー)、なにとぞご容赦のほどを。
・99年、17歳のフェデラーはフルタイムのプロテニス選手として活動を開始した。しかし注目はされず、ATPが発行した「プレーヤー・メディア・ガイド1999年版」に経歴が掲載された300人の選手のうちにも入っていなかった。
・実際、その年の夏頃までは、フェデラーの戦績は失望と挫折と困難だらけだった。世界ランキング100位以内の選手たちの中で、フェデラーは最も若かった。
・フェデラーがジュニア世界ランキング1位、ウィンブルドン選手権ジュニア部門男子シングルス優勝者という肩書きによって、プロテニスの世界への順調な着地を試みたのは正しかった。その年だけで、フェデラーは予選免除のワイルド・カードを8つも受け取ることができた。
・普通、駆け出しのプロ選手は、サテライト・サーキットやフューチャーズといった下部大会に出場することからプロ生活をスタートさせる。そうしてランキングを順調に上げていって、次のレベルであるチャレンジャーの大会に出場する。
・250以上のATPツアーの大会や四大大会(グランド・スラム)に出場するには、基本的には世界ランキング120位以内であることが必要条件である。しかし、世界ランキング100位以内の選手であっても、グランドスラムの次に位置する9つのマスターズ1000の大会では、予選から参加しなくてはならない場合もある。(←へえ~。)
・その点、ワイルド・カードを受け取ることによって、フェデラーはすぐに大きな大会への本戦入りを果たすことができ、サテライト・サーキット、フューチャーズ、チャレンジャーなどの小さな下部大会を慌ただしく旅して回らずとも済んだ。
・しかしその代償として、フェデラーは大きな大会ではるかに強い選手たちと戦わなくてはならなかった。そうした試合が続く中で、フェデラーが勝利を手にすることは極めて難しいことだった。
・それでも、ATPツアーの大会へのワイルド・カードは、ポイントと賞金を稼ぐチャンスをフェデラーにもたらした。全仏オープンやウィンブルドン選手権などであれば、敗北でさえも巨額の賞金がもらえることを意味した。スイス国内で行われるATPツアーの大会の他に、フェデラーは全仏オープンやウィンブルドン選手権のワイルド・カードを受け取った。この2つのグランド・スラムの大会では、ワイルド・カードは自国、すなわちフランスやイギリスの選手に与えられるのが常だった。
・99年、フェデラーはワイルド・カードで出場した全仏オープンとウィンブルドン選手権で、ともに1回戦で敗退した。しかし充実した賞金システムのおかげで、フェデラーは両大会で合わせて20,000ドル(当時の為替レートで約244万円)の賞金をもらうことができた。
この本のいいところって、テニス選手がプロにデビューしてから、具体的にどんな道筋をたどっていくのかが書いてあることだよな。ワイルド・カードが与えられる仕組みとか、大きな大会の場合、1回戦負けしても出場するだけで多額の賞金がもらえるとかね。
フェデラーはジュニア世界ランキング1位を獲得することで、ワイルド・カードを得やすくする戦略で臨みました。デビューしたその年に全仏オープンとウィンブルドン選手権のワイルド・カードをもらえたってことは、フェデラーが新人選手としてそれなりに注目されてたってことでしょう。
個人的に興味があるのは、フェデラーがはじめて出場した、99年の全仏オープンとウィンブルドン選手権での1回戦の相手は誰だったのかってことです。それでフェデラーに対する当時の期待度の高低が分かると思います。
第1~4シードの選手を除いて、ドローが無作為にシャッフルされて決まるなんて、誰も信じてないんでしょ?ドロー表を見ると、ああ、今回はこの選手を優勝させたいんだな、ってことがぼんやりと分かります。同時に、この選手には優勝してほしくないんだなってことも。今年の全豪オープンのフェデラーのドローなんて、主催者側の「フェデラーをとにかく疲れさせて、ほどほどのところで負けてもらいたい」という意図がミエミエでした。
私でさえ分かったくらいですから、まして長年のファンならなおさら憤慨したでしょう。フェデラーのドローに関して、世界中のファンから全豪オープン側に非難が殺到した影響かどうかは分かりませんが、フェデラーはいつも夕方か夜という、気候条件がマシな時間帯に試合がセッティングされることになりました。昼の試合は1回だけだったような?そのため、他のトップ選手からクレームが付いたほどでした。
インディアン・ウェルズの大会のドローもひどかったな。フェデラーが苦手な選手とタフなプレーをする選手を次々とぶつけて、大会序盤でフェデラーが負けるという「大波乱」が起きてほしい、もしくはフェデラーを疲れさせて準々決勝あたりで負けてほしい意図がむき出し。今度の全仏オープンのドローも、たぶん決勝でノヴァク・ジョコヴィッチとラファエル・ナダルが対戦する確率が高い組み合わせにするでしょう。プロテニスは見世物商売なんだから、それくらいはしますよ。
本筋に戻ると、マルチナ・ヒンギスがウィンブルドン選手権に初出場したときの1回戦の相手は、なんとシュテフィ・グラフ(確か当時の世界ランキング1位)でした(笑)。現女王と未来の女王の初対決というわけです。もちろんグラフがストレートで勝ちましたが、あの試合は大きな注目を集めました。ウィンブルドンもこんなわざとらしい「ドラマ」を演出するんだなあ、と思ったのを覚えています。それで、フェデラーのグランド・スラム・デビューの相手がどの選手だったのか気になるわけ。
・この99年の秋にかけて、フェデラーは全部で7つの屋外大会に出場し、すべて1回戦で敗退した。更に、フェデラーはベルギーで行われたデビス・カップの2試合でも、ともにストレート負けした。ついでに、全豪オープンと全米オープンでは予選すら通過できなかった。
・しかし、フェデラーは秋以降に行われた一連の室内大会で極めて高い実力を発揮した。
・先んずること99年1月、ドイツのハイルブロンで行われたチャレンジャー大会で、フェデラーは予選3試合、本戦3試合を勝ち抜いて準決勝に進出した。この戦績のおかげで、フェデラーの世界ランキングは250位以内に上がった。
・続く2月初めにフランスのマルセイユで行われた大会で、世界ランキング243位だったフェデラーは、全仏オープンの優勝者で世界ランキング5位だったスペインのカルロス・モヤを1回戦で破り、準々決勝に勝ち上がった。同じように、オランダのロッテルダムで行われた大会でも、フェデラーは予選を通過して、準々決勝で世界ランキング2位のエフゲニー・カフェルニコフと対戦した。カフェルニコフに敗れたものの、試合はフルセットにもつれこみ、最終セットではフェデラーが一時リードしたほどだった。
・99年2月末には、フェデラーの世界ランキングは130位以内に上がっていた。
ワイルド・カードをもたらしてくれる、98年ジュニア世界ランキング年間1位という肩書きの有効期限は99年いっぱいです。プロ選手として早く軌道に乗りたかったため、そして両親からの微々たる金銭的援助とスイス・テニス連盟からの助成金のみで活動資金をまかなっていたため、フェデラーはこの1年間でなんとしても世界ランキング100位以内に食い込む必要がありました。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
注:そんなにひどいことは書いてないつもりですが、そんなにいいことも書いてないので、マニュエル・ルグリのファンのみなさまはご注意下さい。
「エイムレス」(振付:ディモ・キリーロフ・ミレフ、音楽:マーク・リボー)
秋山珠子、ディモ・キリーロフ・ミレフ
秋山さんは白地に柄の入ったシャツに赤いズボン、キリーロフ・ミレフ、おでんにつける練り辛子みたいな色のシャツに、何色かは忘れたけどズボン。秋山さんはオフ・ポワントだが、柔らかそうなシューズを履いていた。キリーロフ・ミレフも同じようなシューズ。
キリーロフ・ミレフ自身の振付による作品。あなたはダンサーとしてはすばらしいけど、振付の才能はあまりないと思うよ。あるとしても、自分の良さを生かした、つまり身体全体を大きく使ったマッチョな振付にすればよいのに。ちぢこまった小さな動きばかりで構成してしまって、見ごたえがありませんでした。
いっそのこと、同じハゲつながりで、ラッセル・マリファントあたりに弟子入りしなさい。マリファントの振付スタイルのほうが、キリーロフ・ミレフには合っていると思います。でも、マリファントのほうがもっとタフで、しかも細緻だけどね。
あと、キリーロフ・ミレフは服を着てると魅力が9割方減少します。セクシーさが消え失せてしまう。衣裳のデザインがよくなかったのかな。もちろん私が変態なせいもありますが。このへんもマリファントを見習うべき。マリファントは服を脱がないしハゲだけど、それでもセクシーだぞ。
秋山さんは、……すっかり忘れました。どこまで地味なんだこの人、本当にダンサーなのか?と思った記憶しかありません。
「テーマとヴァリエーション」(振付:ジョージ・バランシン、音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)
リュドミラ・コノヴァロワ、デニス・チェリェヴィチコ(ウィーン国立バレエ団)
東京バレエ団
コノヴァロワは淡い水色のチュチュ、チェリェヴィチコは淡い水色の上衣に白いタイツ。東京バレエ団も同じ色合いの衣装。幕が開いた瞬間、観客の間から安心したようなため息が一斉に漏れました。中には小さな声で「よかった~」とつぶやいた方もいました。やっと普通の(といってもバランシンですが)華麗なるクラシック・バレエ。
コノヴァロワとチェリェヴィチコは、明らかにルグリ先生による「若手ダンサー育成プログラム」の一環として参加させられましたな。両人とも最初は緊張でガチガチ、それぞれのヴァリエーションでようやくリラックスして伸び伸びと踊っていました。チェリェヴィチコはパートナリングがまだ要努力。今後に期待な二人でした。
でも、若手に経験を積ませたいのであろう芸術監督ルグリの意図も分かるけど、みな大枚はたいて観に来たんだから、ロマン・ラツィックあたりの安定した中堅ダンサーを連れてきてもよかったと思います。
東京バレエ団は相変わらず男性ダンサーが充実してます。みなイケメンで手足が長くてスタイルがいい。もうほとんどが平成生まれだよね?
「ノット・ウィズアウト・マイ・ヘッド」(振付:ナタリヤ・ホレツナ、音楽:テリー・ライリー)
シルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアプコ
アッツォーニは腰の低いところで緩く絞ってある、ゆったりした赤いワンピース、リアプコは裸の上半身に黒いジャケット、黒いズボン。アッツォーニは(たぶん)オフ・ポワントだった。
振付の感じが、第1部で踊ったノイマイヤーの「ノクターン」にそっくりでした。あとは早口で何かしゃべったり、カン高い声で叫んだり。作品チョイスのバランスがよくないと思います。たとえば第1部ではノイマイヤー作品からクラシカルなもの(いや、別に『椿姫』を踊れとは言わないからさ)を選んで、第2部ではこの作品にする、とか。2作品の感じがかぶっちゃったので、あまり印象に残っていません。
「モシュコフスキー・ワルツ」(振付:ワシリー・ワイノーネン、音楽:モーリツ・モシュコフスキー)
マリア・ヤコヴレワ、キリル・クルラーエフ
踊りがすばらしすぎて衣装は覚えていません。でもヤコヴレワはチュチュ、クルラーエフもよくあるデザインの上衣にタイツでしょう。
音楽も振付も踊りもすべてが美しい。ヤコヴレワもクルラーエフも魅力的なことこの上なし。音楽に乗って流麗に踊る。クルラーエフのパートナリングがすばらしく、ダイナミックなフィッシュ・ダイブも見事に決まりました。すぐに終わっちゃったのが残念。
ヤコヴレワとクルラーエフは、ウィーン国立バレエの中でもひときわ優れたダンサーなんでしょうね。この二人の踊りならまた観たいです。
『シルヴィア』より(振付:ジョン・ノイマイヤー、音楽:レオ・ドリーブ)
オレリー・デュポン、マニュエル・ルグリ
デュポンは濃くて渋いオレンジ色のツーピース、ルグリは鮮やかな緑の丸首シャツにアイボリー(?)のジャケットとズボン。デュポンはポワント。
ノイマイヤーの『シルヴィア』は現代的にアレンジされた作品のようです。どういう場面なのかは分かりません。シルヴィアとアミンタのパ・ド・ドゥの音楽(シルヴィアのヴァリエーション→アダージョ)が使われていたので、最後の場面じゃないでしょうか。大きなトランクを持って旅立とうとするシルヴィア(?)が足を止めてアミンタ(?)と踊り、最後にアミンタ(?)がばったり倒れて終わります(死んだのか?)。
シルヴィアとアミンタがどうしたというより、離れ離れになろうとした男女がひとときだけ一緒になったものの、結局は生と死という形で再び離れる、そんなふうに解釈したほうがいいのかもしれません。
良い作品だと思います。……でも、ルグリのパートナリングが少しぎこちなかったと思います。デュポンとのタイミングが合っていませんでした。ルグリがソロで踊るときにも、衰えのようなものが出ていたように見受けられました。
シルヴィ・ギエムと踊った「優しい嘘」(イリ・キリアン振付)、同じくオレリー・デュポンと踊った『椿姫』(ジョン・ノイマイヤー振付)紫のパ・ド・ドゥでの、観ている側が圧倒されたルグリのあのすばらしいパートナリングと踊りとを思い出すと、どうしても……。複雑です。
結局、ルグリがどんな「新しき世界」を日本の観客に見せたかったのか、よく分かりませんでした。パトリック・ド・バナの存在についてですが、そんなにルグリが「バナ推し」をしたいのであれば、いっそのことド・バナの全幕作品を日本で上演してもいいように思います。
こんなふうに、ド・バナの小作品とか全幕作品の一部とかをいつも見せられるだけなので、ド・バナが振付家として、ダンサーとしてどうなのか、ということを、観客は今ひとつ判断しかねるわけですから。ド・バナが個性の強い人であることは間違いないので、これまでのように中途半端な形でなく、ド・バナの全体像をはっきり見せてもらいたいものです。
マニュエル・ルグリも、シルヴィ・ギエムがいつもやっているように潔く勝負に出て、パトリック・ド・バナ作品オンリーのプログラムを上演したらどうかなあ、と思います。そうすれば、ド・バナの正体がはっきりするでしょう。
観客の反応が良いか薄いかに関わらず、どの演目でも幕外でのカーテン・コールを無理やり2回ずつするというのもなんだかなー。一部の演目とダンサーたちについて、観客の反応が薄かったのは明らかだったのに、主催者側が強引にどの演目も「好評を博した」ことにしちゃった感があります。これはかなり情けない事態です。
今回のような公演を今後も続けるつもりなら、私はもうルグリのガラを観に行くつもりはありません。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
まず、会場でもらった公演チラシに書いてあったのですが、今年7月に行われるファルフ・ルジマトフのガラ公演「バレエの神髄2013」の第1部のガラで、ルジマトフは「ボレロ」(音楽:モーリス・ラヴェル、振付:N.アンドロソフ)を踊るそうです。
これは2011年7月に行われた「バレエの神髄」で、ルジマトフが東日本大震災をふまえて、急遽演目に取り入れたものでした。このアンドロソフ版「ボレロ」は、モーリス・ベジャール版に劣らない、エネルギッシュですばらしい作品です。しかもルジマトフが踊ったから、余計に凄まじかったです。楽しみですね。
「マニュエル・ルグリの新しき世界Ⅲ」Bプロ(4月20日於ゆうぽうとホール)
注:そんなにひどいことは書いてないつもりですが、そんなにいいことも書いてないので、マニュエル・ルグリのファンのみなさまはご注意下さい。
「クリアチュア」より(振付:パトリック・ド・バナ、音楽:デム・トリオ[トルコの伝統音楽]、マジード・ハラジ、ダファー・ヨーゼフ)
秋山珠子(スペイン国立ダンス・カンパニー)、ディモ・キリーロフ・ミレフ
今年の東京・春・音楽祭では、この作品の振付者でもあるド・バナ振付の「アポロ」が上演され、ディモ・キリーロフ・ミエフと秋山珠子さんが出演したそうです。
パトリック・ド・バナ、ディモ・キリーロフ・ミレフ(Dimo Kirilov Milev)、秋山珠子さんの経歴については、2013年東京・春・音楽祭の公式サイト 「ストラヴィンスキー・ザ・バレエ」出演者紹介 に詳しいです。この3人は、かつてナチョ・ドゥアトが芸術監督を務めていた、スペイン国立ダンス・カンパニーの出身者(ド・バナ、キリーロフ・ミレフ)、もしくは在籍者(秋山さん)です。
ド・バナの経歴を見ると、明らかにマニュエル・ルグリとの出会いによって、ド・バナが「振付家」として一気に活躍するようになっていったことが分かります。ド・バナの作品が上演される場合、そこにはほぼ必ずマニュエル・ルグリの存在があるようです。いや、ド・バナ、うまいことやったね。
秋山さんは上が真紅で下は黒いスカートのドレス、キリーロフ・ミレフは上半身裸で黒い袴のような幅広のズボンを穿いていました。秋山さんはオフ・ポワントです。作品はコンテンポラリーに分類されると思います。
キリーロフ・ミレフは、大柄でたくましい身体にスキンヘッドで、かなりごつい風貌です。なかなか良いダンサーだと思いました。腕と上半身の動きが非常になめらかで美しく、同時に力強くて、バランス感覚にも恵まれたダンサーのようです。観る側の目を引く存在感もあります。
一方、秋山さんは、これといって印象に残った点はありませんでした。その経歴からすると不可思議なほど、クラシック・バレエを大して踊れないらしいことが分かりましたし、かといってコンテンポラリー・ダンスに秀でているというわけでもないようです。キリーロフ・ミレフの陰に隠れてしまったせいもあると思います。
作品として特に優れているとは思いませんが、キリーロフ・ミレフの踊りは良かったです。
「ノクターン("Songs of the Night"より)」(振付:ジョン・ノイマイヤー、音楽:フレデリック・ショパン)
シルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアプコ(ハンブルク・バレエ団)
ピアノ演奏:高橋 望
アッツォーニは白い長そでのTシャツに白い長いスカートで、髪を横に束ねて垂らしていました。リアプコにはびっくり。ぼさぼさの髪、銀縁の眼鏡をかけ、白シャツ、ネクタイ、Vネックの袖なしカーディガン、グレーのズボンという地味なダサダサ男でした。アッツォーニはトゥ・シューズを履いていました。
クラシカルな振付ではなく、なんとも形容しがたい面白い動きでした。ノイマイヤーの引き出しの多さをあらためて実感しました。私の好きなタイプの作品ではありませんでしたが、アッツォーニとリアプコの動きはすばらしかったし、難しくて危険なリフトでも二人の息が見事に合っていました。
あとはやはり、彼らのようにクラシックを踊っているダンサーのほうが、こういう作品でも身体がすっきりと伸びて大きく見えます。変な描写ですが、身体を無駄にしてないというか、身体をすみずみまで使い切って踊っている感じです。
『アルルの女』より(振付:ローラン・プティ、音楽:ジョルジュ・ビゼー)
マリア・ヤコヴレワ、キリル・クルラーエフ(ウィーン国立バレエ団)
「ウィーン国立バレエ団」は"Wiener Staatsballetts"というらしいんだけど、これは「ウィーン国立歌劇場バレエ団(Wiener Staatsopernballett)」と同じカンパニーなのかそうじゃないのか疑問でした。そしたら、どうやら同じバレエ団らしいです。ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)の公式サイトの中に、このバレエ団の公式サイトがあるので。いつ改名したんだろう。
ちなみに、"Wiener Staatsoper"の日本語名は「ウィーン国立歌劇場」だと思っていましたが、現在では「ウィーン国立オペラ座」ともいうようです。じゃあ、「ウィーン・フォルクスオーパー(Volksoper Wien)」の日本語名はといえば、やっぱり「ウィーン・フォルクスオーパー」のままらしい。
クルラーエフがフレデリ、ヤコヴレワがヴィヴェットだと思います。クルラーエフは白いシャツに黒いズボン姿です。ヤコヴレワは白いガウンに白いネグリジェを着ています。ヤコヴレワはポワント。フレデリとヴィヴェットの初夜に、フレデリが発狂して投身自殺を遂げるまでのシーンです。最後のフレデリのソロは、マッシモ・ムッルが踊ったのを観たことがあります(2011年のシルヴィ・ギエム「チャリティ・ガラ」)。
マリア・ヤコヴレワとキリル・クルラーエフは、2012年のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートで、クリムトの「接吻」に意匠を得たバレエを踊った二人ではないですか?キリル・クルラーエフはちょっとヨハン・コボー似。
フレデリ役のクルラーエフ、さっそく目がイッちゃってます。演技力あるねえ。ヴィヴェット役のヤコヴレワは途中でガウンを脱ぎ、クルラーエフはシャツを脱いで上半身裸になります。ヴィヴェットはフレデリを誘いますが、正気を失っているフレデリは相手にしません。最後、ファランドールの音楽に乗って、クルラーエフが狂ったように(狂ってるんだけど)踊りまくるのが迫力ありました。
「ファクタム」(振付:パトリック・ド・バナ、音楽:フェルナンダ・アンド・ベルナルダ・デ・ウトレーラ、ルイス・ミゲル・コボ)
ヘレナ・マーティン、パトリック・ド・バナ
マーティンは黒い袖なしのロングドレスに細いヒールの靴、ド・バナは上半身裸で黒い(?)ズボンのみ。なんかこの公演、男性ダンサーの「上半身裸率」が高いですな。
「フラメンコとコンテンポラリーの融合」的作品だと思います。マーティンの踊りについては、私は完全に門外漢なので何も言えません。振付の良し悪しは分かりませんが、ド・バナはディモ・キリーロフ・ミレフほど踊りが優れているわけではないですね。しかしまー、うさんくさいのが見事に集結した公演だよな。まさに「新しき世界」。
まだシーズン中だからかもしれないけど、ルグリはパリ・オペラ座バレエ団のダンサーたち(オレリー・デュポン以外)とは、もう完全に関係が切れちゃったのかな?数年前のルグリのガラを思い出すと、隔世の感が湧き起こります。
『ル・パルク』より(振付:アンジュラン・プレルジョカージュ、音楽:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
オレリー・デュポン(パリ・オペラ座バレエ団)、マニュエル・ルグリ(ウィーン国立バレエ団芸術監督)
デュポンは横にスリットの入った、だぼっとした寝間着のような白いワンピース、ルグリも白い長そでTシャツに同色のズボン。デュポンはオフ・ポワント。これ、ウラジーミル・マラーホフとディアナ・ヴィシニョーワが、いつだったかの「世界バレエ・フェスティバル」で以前に踊ったやつか?
すみません、何が良いのかさっぱり分かりませんでした。こういう高尚な踊りは私のような俗物には向かんわ。
(その2に続く)
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
な~んだ、またフェデラーの話かよ、と思ったみなさま、ほんとにすみません。
いや、今日(20日)ね、「マニュエル・ルグリの新しき世界Ⅲ」Bプロを観に行ったんだけど、今その感想を書いちゃったら、罵詈雑言、誹謗中傷、流言蜚語の嵐になっちゃうから、少し時間をおいて頭を冷やしてから書きます。
Aプロも観に行く予定でしたが、公演当日の仕事が長引いたせいで間に合いませんでした。今日のBプロを観た限り、Aプロを観られなかったことは特に残念ではないですね。
ここからはテニスの話。でも、テニスに限らない話でもあります。
中国の四川省雅安市蘆山県で、北京時間4月20日午前8時にマグニチュード7.0の地震が起きました。ここは2008年の「四川大地震」(死亡者7万人弱、負傷者37万人強、行方不明者2万人弱)が起きた場所と近く、実際に同じ活断層上で発生したとみられるそうです。現時点で分かっている被害は、すでに死亡者200人以上、負傷者4,300人以上です。被害はこれからどんどん増えるでしょう。
首相の李克強がさっそく現地入りして視察を行ないました。主席の習近平も被害状況の把握、救出活動の最優先、被災者の救援、地震の観測態勢の強化、二次災害の防止などを指示しました。中央政府のこの対応によって、今回の地震でかなり深刻な被害が出ていることが分かります。
中国ではチャイナ・オープン(北京、ATP500シリーズ、WTAプレミア)や上海マスターズ(ATPマスターズ1000)など、プロテニスの大きな大会が開催されています。プロテニス選手たちにとって、中国はなじみ深い国でしょう。
世界の主要各紙のウェブ版を見て回りました。トップニュースはいずれも、アメリカのボストンで起こった爆破事件の容疑者逮捕についてでした。あまりに大きな扱いで驚きました。中国で起きた地震もトップに載ってはいましたが、ボストンでの爆破事件とは比較にならない小さな扱いでした。世界のメディアにとっては、アメリカで起きた爆破事件のほうがはるかに重要で、中国の僻地で起きた地震災害はそれほど重要ではないのです。
ボストンの爆破事件については、イスラム過激派による組織的テロの可能性がまだ捨て切れない特殊事情もあるとはいえ、ここに、世界のメディアのすべてに共通する報道姿勢を見い出せるように思います。先進国で起きた事件や災害は大きく取り上げるが、後進国(欧米にとって、中国はまだ後進国です)で起きた事件や災害は小さくしか取り上げないか、もしくはまったく取り上げない、そもそも取材もしない、関心もないということです。
2011年に日本で起きた震災を、世界中のメディアがあれほど大々的に取り上げたのは、そして世界各国が支援の手を差し伸べてくれたのは、なにより日本が「先進国」であったからです。自国メディアの大々的な報道と政府の対応によって、その国の人々も大きな関心を持ち、日本に同情を寄せてくれたのです。
確かに震災の被害は甚大でした。福島第一原発の爆発と、それにともなう放射性物質の拡散と土地の汚染も、1986年のチェルノブイリ原発事故に匹敵する深刻なものです。同じように、世界のどこか、特に後進国とされる国や地域では、もっと大きな自然災害や人的災害がこれまで起きてきて、今も起きているかもしれないのです。しかし、メディアが報道しないので、私たちのほとんどはその事実を知りようがないのです。
ある意味タイムリーだと思うので書いておきます。フェデラーは東日本大震災で日本のために何もしなかった、という批判についてです。日本のスポーツ専門チャンネル(CS)のGAORAから応援メッセージを依頼されるまで、フェデラーはずっと沈黙していたそうですね。
フェデラーを批判する感情はよく理解できます。あのとき、ショックのあまり激しく動揺し、気持ちが不安定になってしまっていて、自分の好きなスターから日本への励ましや慰めのメッセージがほしい、それがあればどんなに心が救われるか、とすがるような気持ちを持っていた人々は多かったに違いありません。私もその一人でした(相手は違いますが)。
ただ、よく考えると、フェデラーが日本のために何もしなかった、と批判するのはお門違いです。なぜフェデラーが日本のために何かしなければならないのでしょうか?フェデラーは世界中のどこかで災害が起きれば、そのすべてに対して何かしなくてはならないのでしょうか?それとも、日本で起きた災害だからこそ、フェデラーは何かしなくてはならなかったのでしょうか?
「フェデラーは東日本大震災のときに何もしなかった」という反感や批判の陰には、「日本は世界で"重要"な国なのだから」という無自覚の優越意識があるのではないでしょうか?もしくは、日本の重大事件や大災害は、すなわち世界の重大事件、大災害であり、世界中から自ずと関心を払われて当然、助けられて当然、という無意識的な思い込みがなかったでしょうか?
もしフェデラーに何かしてほしかったのなら、フェデラー側にこちらからそう伝えるべきだったのです。「日本のファンはあなたの助けを必要としている」と。実際、フェデラーはGAORAからの応援メッセージの要請に応じたのですから。そういう働きかけもせずに、「フェデラーは何もしてくれなかった」などと怨み言を言うのは筋違いです。
フェデラーがなぜ日本の震災に対して、自分から何も行動を起こさなかったのかは知りません。ただ、世界中の有名人がこぞって(あのパリス・ヒルトンでさえも!)日本へ応援メッセージを寄せたり、チャリティ活動を行なったりした中で、フェデラーが徹底して沈黙を貫いたのは、何か事情があってのことに違いないと思います。
もし、フェデラー本人が日本の震災にまったく無関心であったとしても、フェデラーの周囲にいる人々が、フェデラーも何らかの行動を起こす必要がある、と判断したならば、本人に勧めてそうさせたでしょうし、もしくはスタッフが代理で何かしたでしょう。それが一切なかったということは、フェデラーも周囲の人々も、むしろ今回は何もしないほうがよい、と判断したことを意味しています。
その理由について、個人的にはいくつか予想がつきます。その最も大きな理由の一つはおそらく、メディアの無関心によって報道されないがために、支援の手が差し伸べられない災害や社会問題が世界中に、特に「後進国」に無尽に存在するという現実を、フェデラーはよく知っているのだろうということです。たぶん、フェデラーが自国のスイス、そしてとりわけアフリカの、貧困による就学困難児童の教育支援活動に携わっていることが関係しているのでしょう。
さて、ようやく本題。
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第4章(Chapter 4)その7。
誤訳だらけでしょうが(今回特に多し)、なにとぞご容赦のほどを。
14歳から17歳のわずか3年間に、テニス選手として、そして一個の人間として大きな成長を遂げたフェデラーでしたが、しかし生来の頑固さと思い込みの強さは相変わらずでした。また、いったん自分でこうと決めたらやり遂げる意志の固さも。
・98年、17歳のフェデラーは身長が186センチ、体重は80キロになっていた。自分の体重は重すぎるとフェデラーは信じ込んでいた。「腹が出ちゃってる」とフェデラーは言った。「胃の周辺筋肉をもっと鍛えないと。」
・甘いものやジャンク・フードを控えること、そしてきちんとした食習慣を身につけることが優先課題になった(←炭水化物の爆食い癖もやめたものと思われる)。
・このころ、フェデラーはやっと肉を食べ始めた(←フェデラーは肉と魚が嫌いでずっと食べられなかった)。「これでようやく、食事に招待されるたびに、肉を食べるのをいつも怖がらないで済むようになったよ。」
・フェデラーはまた、試合中に感情を良い状態に保つことができるようになった、とも言った。それは、全米オープンのジュニア部門に出場したときに起きた出来事が転機になった。試合中、フェデラーは全米オープンの常連観客である野次の飛ばし屋に怒り、彼らに罵り返した上に、憤懣のあまりラケットを壊してしまった。
・その後に出場した大会では、フェデラーは冷静さを保つことができ、良い試合結果につながった。「僕はトゥールーズ大会でもスイス・インドアでも逆上しなかった。それは一貫していたよ。冷静でいられるだろうなんて考えていなかったと思うし、それが大きな大会だったことと関係があるかどうかは分からない。でも、大きな大会で感情のコントロールを失なったら、もっと恥をかく破目になるよね(←後年、実際にそうなった模様)。」
・フェデラーは試合中に独り言でぶつくさ言うことも少なくなった。「僕はしょっちゅう『お前はなんでそうバカなんだ?キレるんだ?』と自分に言ってた。」 結局のところ、自分は完璧主義者なのだ、とフェデラーは言った。「簡単なボールをミスしてしまうと、それがたとえよくあることだろうと、プロの選手でもやってしまうことだろうと、自分を許せない。」(←2009年に発生した、フェデラーの有名な「ラケット破壊事件」は、それがつい出ちゃったんだと思われる。)
・スイス・ナショナル・テニス・センターのコーチ(←実はフェデラー専属のために招聘された)、ピーター・カーターは、フェデラーの精神面の安定を認めた上でこう言った。「彼はもっと我慢強くならなくてはならない。プロの世界で成功したいのならば。」 カーターは常にフェデラーに同行して、その練習相手を務め、一緒に大会から大会へと旅して回っていた。
・フェデラーは明くる99年、すなわちプロの大会のみに出場する最初の年を、自信と興奮をもって見据えていた。「すべてのストロークを徐々にマスターできていっている。あとはボレーを良くして、フットワークを改良することくらいかな。」
・トゥールーズ大会で、フェデラーは世界ランキング50位以内の選手を2人破っていた。「つまり僕のプレーが良ければ、僕はプロの世界で競争していけるっていうことだ。とりあえずは、順調に軌道に乗れるよう取り組むこと。それからトップにたどりつけるかどうかは、なりゆき次第だよ。」
ATPの公式サイトによると、フェデラーのプロ転向年は98年となっています。この98年は、フェデラーはジュニアの大会に主に出場するかたわら、プロの大会にもいくつか出場していた過渡的な年でした。フル・タイムのプロテニス選手としてのロジャー・フェデラーは、翌99年から本格的に活動を開始します。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
小林紀子バレエ・シアターからDMが来まして、それによると、今夏の小林紀子バレエ・シアター第104回公演は、ケネス・マクミラン振付『マノン』全幕だそうです。
一昨年(2011年)以来の再演となります。一昨年の公演が、小林紀子バレエ・シアターによる『マノン』全幕初演でした。主なキャストは、マノン:島添亮子、デ・グリュー:ロバート・テューズリー、レスコー:奥村康祐、レスコーの愛人:喜入依里、ムッシューG.M.:後藤和雄、マダム:大塚礼子、乞食のかしら:恵谷彰、看守:冨川祐樹、でした。
昔の記事を見返したら、きちんとした感想は書いてないですね。とりあえず一昨年の簡単な感想は 2011年8月分 にあります。
一昨年の初演がとにかくすばらしかったんです。初演とは思えないほどでした。去年は新国立劇場バレエ団も『マノン』を上演しました。ダンサー個々人の能力では新国立劇場バレエ団のほうが上です。でも、舞台が全体としてよくまとまっていたのは、小林紀子バレエ・シアターのほうでした。
今夏の再演についてですが、
『マノン』全三幕(ケネス・マクミラン振付)
音楽:ジュール・マスネ、編曲:マーティン・イエーツ
監修:デボラ・マクミラン、上演指導:アントニー・ダウスン
美術:ピーター・ファーマー、衣装・装置提供:オーストラリアン・バレエ
主な出演:島添亮子(←もちろんマノン)、ゲストダンサー(デ・グリュー)、後藤和雄(←たぶんムッシューG.M.)
上演期日:2013年8月24日(土)17:00開演、8月25日(日)15:00開演
会場:新国立劇場オペラ・パレス
チケット価格:S席12,000円、A席10,000円、B席8,000円、C席6,000円、D席5,000円
チケット発売日予定:2013年5月(←具体的な日取りは未定らしい)
これは両日とも観に行かなくてはね。ゴールデンウィーク明けにでも、小林紀子バレエ・シアターに詳細を問い合わせてみるか。
デ・グリューは誰になるのかなあ。個人的には、やっぱりロバート・テューズリーになるといいなあと思います。一昨年の公演でのテューズリーのパートナリングはすばらしかったし、マノン役であった島添亮子さんとの踊りの息もぴったり合っていましたから。あと、上演指導はいつものジュリー・リンコンさんではないんですね。アントニー・ダウスンってどういう経歴を持つ人だろう。
まあそれはともかく、この夏の楽しみが増えました。3年連続で『マノン』を生で観られるなんてラッキー♪
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
プロテニスの大会はクレー・シーズンとやらに入ったそうで、クレー・コートの大会が5月末の全仏オープンまでず~っと続くようです。
今はモナコ公国でモンテ・カルロ・オープン(Monte-Carlo Rolex Masters)が開催されていて、スタニスラス・ワウリンカ(スイス、現在の世界ランキング17位)がアンディ・マレー(イギリス、現在の世界ランキング2位)に50数分で圧勝したというのでびっくりしました。
You Tubeで検索してみたら、試合のハイライトがさっそくアップロードされていたので観てみました。10分くらいに編集された映像です(こういう親切をしてくれるテニス・ファンの存在は本当にありがたい)。
で、思い出した。去年の晩秋、フェデラーはデビス・カップ(男子テニス国別対抗戦)に参加しました。北欧のどっかの国で(←ごめんねいいかげんで)試合して、その会場のコートもクレーだったんです。
フェデラーの試合だから観ましたが、観ているうちに睡魔が襲ってきました。フェデラーや対戦相手のプレーがわるかったんじゃないです(たぶん)。なんかクレー・コートの試合って単調なんです。変化がなくてつまらない。基本、長々とラリーを続けてるだけ。
どういう理屈なのか、球速がやたらと遅いです。跳ね返った後のボールのスピードが極端に落ちて、ぼよ~ん、と曲線を描く感じで、緩く高く跳ね上がります。だから打ち返しやすいようです。
延々と続くラリーとクソ遅い(あら、お下品)球速のせいで、1ポイントが決まるまでに時間がめちゃくちゃかかります。フェデラーが打ってもあんなに遅くなるなんてどういうこっちゃ。結局、フェデラーはネット・プレーや、相手の逆を突くコース、または相手が追いつけないコースへのリターンで決めてた覚えがあります。
ワウリンカとマレーとの試合、たった10分間のハイライト映像を観ていても、やはりだんだん眠くなってきてしまいました。「うえ~い!」(選手の声)、「バコッ」(ボールを打つ音)、「え~い!」、「バコッ」のくり返し。ただ、ワウリンカが多彩なプレーをしていたので(というかマレーが多彩なプレーをさせてもらえなかったんだろう)、なんとか最後まで観ました。
これが、両者ともひたすらベースラインから打ち合うだけの試合だったら、たとえ10分間のハイライト映像でも、途中で飽きて観るのをやめただろうと思います。
というわけで、これからおよそ1ヵ月半もクレー・コートの大会が続くのかと思うと、早くもうんざりです。フェデラーの試合でも、最後まで寝落ちせずに観られるかどうか自信がありません。
でも、90年代の全仏オープンのコート(もちろんクレー)は、あんなに球速が遅くなかった気がするんだけど。あんなに緩く高くバウンドもしなかったと思います。バウンドした後もスピードと低い弾道を保っていた記憶がありますが、気のせいかなあ。
また一つ思い出した。90年代に活躍した選手にトーマス・ムスター(Thomas Muster)という人がいました。面白いことに、ムスター選手はクレー・コートの試合ではめちゃくちゃ強かったんです。ところが、クレー・コート以外の試合ではめちゃくちゃ弱い選手でした。たとえば、クレーの大会では優勝するのに、芝の大会では初戦敗退、てなことがしょっちゅうでした。
現在のフェデラーやラファエル・ナダルのように、芝やクレーなど、とりわけ得意なコートがあるけれど、基本的にはどのコートでも強い、というレベルじゃなかったんです。ムスターは、本~っ当にクレー限定でのみ強かった。
しかしムスターはとうとう、クレーの大会の成績だけで世界ランキング1位になっちゃいました。ピート・サンプラスなど他のトップ選手たちは、次々と不満を表明しました。クレー・コート以外ではほとんど勝てない選手が、クレーの大会の成績だけで世界ランキング1位になるなんて不公平だ、という批判です。
でも、ムスターは自分に対する批判に反論していました。うろ覚えですが、クレーの大会だけであろうと、自分はちゃんと勝ってポイントを獲得していったのだから、というような言い分だったと思います。現在はポイント・システムが当時と異なるでしょうから、ムスターのような例はもう起こりえないでしょう。
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第4章(Chapter 4)その6。
誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。
・1998年12月末、17歳のフェデラーはジュニア世界ランキング年間1位の座を確保した。この時点で、フェデラーがこれ以上ジュニアの大会やサテライト・サーキットに出場し続ける意味はなくなった。
・フェデラーは世界ランキングでも300位以内に入っていた。デビス・カップのスイス・チーム監督であるシュテファン・オーベラー(←かつて、フェデラーの育成には時間をかけるべきで、バーン・アウトさせてはならないと言及した)はフェデラーに対し、翌年のデビス・カップのスイス・チームにフェデラーが選手として加えられることを明言した。
・当のフェデラーは、こうした急展開を落ち着いて眺めていた。もちろんフェデラー自身も自分の成功にいくらか驚いてはいたものの、しかし地に足をしっかりとつけ、余裕をもって平静さを保っていた。
・「面白いんだよ。」 フェデラーは言った。「僕がホテルに入って来ると、人々は『フェデラーさん、こんにちは』と言う。中には、僕と話ができることを自慢に思っているように見える人たちもいる。」
続いて、フェデラーは17歳の少年らしからぬ衝撃的なことを言います。
・「人って、有名になればなるほど、支払うものもまた少なくなっていく。みんなが僕を招待したがるし、僕に良くしてくれようとする。僕が、テニスが上手だという理由で。」
・しかしフェデラーは、こうした人々は自分に本当の意味で親しみの感情を抱いているのではない、と言った。「僕は以前とそんなに変わっていないよ。僕は今、スイスではとても有名だけど、自分がスターだという感覚は抱いてないんだ。」
・著者のシュタウファーは17歳のフェデラーに尋ねた。自分自身を描写すると?フェデラーは穏やかに答えた。「僕は正直で、冷めていて、運動神経が良くて、好感を持たれやすくて、親しみやすいんじゃないかな。」
14歳でバーゼル近郊の実家を出て、親元を離れてからたった3年の間に、最初は故郷の家族や友人が恋しくて泣いてばかりいたフェデラーは、ここまで精神的に成熟していたんですね。17歳にあるまじき老成ぶりです。
ひどいホームシックにかかったこと、フランス語ができなくて孤独感を味わったこと、スイス・ナショナル・テニス・センターと学校の双方で問題児扱いされたこと、良い先輩(イヴ・アレグロ)と自立して共同生活を送ったこと、良い友人(マルコ・キウディネッリ)に恵まれ、タチの悪い人間とはつきあわなかったこと、
両親やスイスのテニス界の人々が、フェデラー本人とは適切な距離を置きながら、必要最小限の、しかし本当の意味でフェデラーのためになるサポートを行なったこと、将来性のある新人選手として、最初はもてはやされて大きな大会に出場させてもらったものの、次の瞬間には下部大会をドサ回りして、天国と地獄とを一気に経験したこと、
良い経験と辛い経験との両方を味わって、人が精神的に成長していくのはごく普通のことです。フェデラーの経歴は特に劇的なものとはいえません。しかしその後の、そして現在のフェデラーを見れば、誰しもが味わうこうしたごく普通の経験こそが、実は「天才」フェデラーにとって最高の「ギフト」だったのではないか、と私には思えるのです。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
なんか、フェデラーが出てるメルセデス・ベンツのCMが、日本でテレビ放映されてるんだって?私、まだ観れてない(泣)。マメにテレビ観なくちゃ。
ノヴァク・ジョコヴィッチが出てるユニクロのアンダーウェアのCMは観ました。同じアンダーウェアのCMに、バレリーナのポリーナ・セミオノワも出てますね。
フェデラーが出たロレックスのCM(2009年ヴァージョン)は最高にカッコいいです。黒いレザー・スーツでボールを打ってるやつ。スロー・モーションのフォームがめちゃくちゃきれい。できればあれも日本で流してほしいけど、天下のロレックスはテレビCMなんぞ流さないかしら。
ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第4章(Chapter 4)その5。
誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。
1998年12月、17歳のフェデラーは、アメリカのフロリダで開催される世界最大のジュニア大会、オレンジ・ボウルに出場します。ジュニア世界ランキング年間1位の地位を獲得するためには、フェデラーはこの大会で好成績を残さなくてはなりません。ところが。
・フェデラーは1回戦からさっそく苦戦した。ラトヴィアのRaimonds Sproga(81年生、プロ転向年不明、自己最高世界ランキングは622位〔2001年6月〕)に、あと2ポイントで敗れるところだった。しかし、5-7、7-6、6-0のフルセットでなんとか勝った。
・一方、フェデラーが追い抜こうとしていた、ジュニア世界ランキング1位であるジュリアン・ジャンピエールは、1回戦でスペインのフェリシアーノ・ロペス(Feliciano Lopez、81年生、97年プロ転向)に敗れた。
おそらくライバルのジャンピエールが1回戦で敗退したせいで、フェデラーは一気に心が軽くなり、浮かれてしまったのでしょう。1回戦の翌日、フェデラーは試合がなかったのですが、重大事件(?)がこの日に起こってしまいました。
・オレンジ・ボウルに出場するスイス・チームに付き添っていた、スイス・ナショナル・テニス・センターのスタッフ、アンネマリー・リュエックの証言。「みんなで調整練習をしていたときのことです。ロジャーが騒ぎ出しました。」
・「彼はなわとびをしながらサルの物真似をし、ターザンのように跳び回っていました。そのうち突然、着地するときに足を捻り、捻挫してしまったのです。まずいことになりました。彼の足は大きく腫れあがっていきました。自分の馬鹿さ加減から、彼はいきなり我に返りました。」
・他の選手ならここで試合を棄権して大事を取るところだろうが、フェデラーはそうしなかった。フェデラーは後年、「ロジャー・フェデラーは途中棄権しない」と宣言したが、このころからすでにそうだったのである。(←ここ、感心するところか!?)
・フェデラーはチーム付き添いの理学療法士とともに捻挫の治療を始め、あらゆる手を尽くした。アンネマリー・リュエック「私はロジャーの変わりように驚きました。ついさっきまで、彼は馬鹿騒ぎをしていたのが、今はいきなり落ち着いて真面目になったんですから。彼はその気になれば真面目になれるんだな、と私は気づきました。」(←だから、感心するところかっつーの。)
・「彼は、これが深刻な事態であること、この大会には多くのことがかかっていること、自身の努力のすべてを、ジュニア世界ランキング1位という目標に集中させなければいけないことを理解していました。私ははじめて、彼はチャンピオンだと実感しました。彼ならできる、と。」(←…………)
あのスマート&エレガントなロジャー・フェデラーは、サルの真似をして捻挫したことがある。フェデラー黒歴史その一です。これほどアホな話はないでしょうが、著者のルネ・シュタウファー、無理矢理美談にしちゃってます。
でも確かに、怪我していようが故障を抱えていようが、フェデラーはいったん大会に出場した以上は途中棄権しませんね。途中棄権よりも負けるほうを選ぶ主義のようです。最近では、2012年8月のロンドン・オリンピックでの対アンディ・マレー戦、2013年3月のBNPパリバ・オープンでの対ラファエル・ナダル戦なんかが典型的ですね。ボロ負けするという屈辱を味わうことになるとしても、途中棄権はしない。
しかもフェデラーは、怪我してるとか故障してるとか疲れてるとか、負けた場合に備えて試合前に予防線を張ったり、負けた後も言い訳をしたりしません。そもそも、自分が怪我や故障をしてること自体を隠すし、そのことを認めませんね。
一方、負けて恥をかかないために、途中棄権する、大会前・試合前に自分の怪我や故障に関する情報をそれとなく流しておく、負けたのは怪我や故障のせいだったと試合後に「告白」するなど、こういうことするトップ選手は、男子にも女子にもいるようです。
でもフェデラーはそういうことを絶対にしない。この人は基本的に育ちがいいんですね。経済的な意味じゃなく、ヨーロッパ的に崇高なスポーツマンシップを身につけてきたという意味で。
・フェデラーは足を包帯でぐるぐる巻きにし、痛みをこらえつつ、それでも1セットも失うことなく3試合を勝ち抜いた。準決勝に至ったときには、足の腫れはほとんど引いていた。フェデラーはアルゼンチンのダビド・ナルバンディアンにストレートで勝ち、決勝では同じくアルゼンチンのギリェルモ・コリア(Guillermo Coria、82年生、2000年プロ転向)を、やはりストレートで破って優勝した。
・フェデラーはオレンジがつまったボウルをかたどった優勝トロフィーを持ってマイアミを去った。マイアミを去る際、フェデラーは250ドルかけて、髪にブリーチをかけて金髪にするという冒険をした。
金髪フェデラーの写真は残ってます(この本にも載ってる)。すげえ似合ってない。フェデラー黒歴史その二です。フェデラーはコート上でのお行儀は非常に悪かったですが、私生活ではゲーム以外の遊びをまったくしない真面目な少年でした。そんなフェデラーがちょっとワルぶってみたくなって、一生懸命考えた末の結果が金髪だったのでしょう。いかにも根は純朴な田舎者の少年が考えそうなことですね。ほほえましい![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heart_pink.gif)
この後、10代後半~20代前半のフェデラーは、髪をストレートのロン毛にして束ねてみたり、数珠みたいなヘンなネックレスをしたりと、はっきり言ってダサさ全開でセンスがよくないです。無精ヒゲも生やしていて、本人的にはカッコいいつもりだったんでしょうが、ただ単に汚いだけで、若くしておっさんくささが充満してます。
現在のような、エレガントで洗練されていてイケメンなフェデラー様が現出するには、世界ランキング1位になってから、フェデラーのスマートなイメージを作り上げるために、その髪型や服装をコーディネイトする専門スタッフ、そして世界的カミソリメーカー、ジレット社の登場を待たねばなりませんでした。
・1998年12月21日、フェデラーはジュニア世界ランキング1位になった。「最高のクリスマス・プレゼントだ。」 フェデラーは嬉しそうに言った。ただし、年間1位が決まるまで、フェデラーはもう1週間待たなくてはならなかった。メキシコで行なわれたジュニアの年間最後の大会であるユカタン・カップで、急上昇してきたアメリカのアンディ・ロディック(Andy Roddick、82年生、2000年プロ転向)がジュリアン・ジャンピエールを破った時点で、フェデラーのジュニア世界ランキング年間1位が確定した。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
今日の『怒り新党』(テレ朝)「新・3大○○調査会」の「スルヤ・ボナリー 異端のスケーティング」で思わず泣いてしまいました。終わったときにはマツコも夏目ちゃんも泣いていたから、同じ気持ちだったんだろうな。
有吉もそうだっただろうけど、出演者がみんな泣いちゃったら番組にならないから、自分だけはこらえて、泣いている夏目ちゃんの代わりに番組を進行したのは偉い。やっぱ優しいヤツ。
スルヤ・ボナリー、よく覚えてるよ。ダイナミックなジャンプが印象的だった。彼女は、ジャンプばかりで芸術性に乏しいとみなされたから、オリンピックで金メダルが取れなかったんじゃないでしょう。はっきりいえば、彼女が黒人だったから、金メダルを取らせなかったんでしょ。
当時は、金メダルを取らせるのは必ず白人選手で、大国または経済大国出身の一部のアジア人選手には、銀メダルか銅メダルなら取らせてやってもいい、こんな風潮だったんじゃないの。
マツコ、夏目ちゃん、有吉は口には出さなかったけど、ボナリーを最後まで苦しめたのは、黒人差別に他ならなかったことが分かったのでしょう。
最後のオリンピック、メダルを取れる見込みはもうないことを承知の上で、後方宙返りという、禁止されているけど自分らしい技をあえてやってのけたボナリー。この映像を観た時点で、私の涙腺は一気に崩壊しました。
「新・3大○○調査会」ではいつも爆笑してばかりでした。泣いたのはこれがはじめてだよ。
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
映画『ジュゼッペ・ヴェルディ』には、当然のことながらヴェルディの作品がBGMとして多く用いられています。劇中劇であるオペラのシーンは以下のとおりです。
『オテロ』第四幕 オテロの死(マリオ・デル・モナコ)
『ナブッコ』第三幕「行け わが想い 金色の翼に乗って」(ローマ歌劇場合唱団)
『エルナーニ』第一幕 エルヴィラの「カヴァティーナ」(歌手不明)
『リゴレット』第二幕「あわれなリゴレット」(ティート・ゴッビ)
『リゴレット』第二幕「側近ども、いいや悪魔」(ティート・ゴッビ)
『リゴレット』第二幕「そう、みてろ やがてこの手で」(ティート・ゴッビ)
『リゴレット』第三幕「女心の歌」(マリオ・デル・モナコ)
『イル・トロヴァトーレ』第二幕「鍛冶屋の合唱」(ローマ歌劇場合唱団)
『イル・トロヴァトーレ』第二幕「炎は燃えて」(歌手不明)
『イル・トロヴァトーレ』第二幕「その美しさはまるで星が輝くように」(ジョルジオ・ロンコーニ)
『椿姫』第一幕「乾杯の歌」(マリオ・デル・モナコ、オリエッタ・モスクッティ)
『椿姫』第二幕「愛して アルフレード」(オリエッタ・モスクッティ)
『椿姫』第三幕「パリを離れて」(マリオ・デル・モナコ、オリエッタ・モスクッティ)
『アイーダ』第二幕 凱旋行進曲
『オテロ』第一幕 オテロの登場(マリオ・デル・モナコ)
『ファルスタッフ』第二幕「ノーフォーク公の小姓だった頃」(ヴィート・デ・グラント)
『ナブッコ』の「行け わが想い 金色の翼に乗って」が終わると、感動した観客たちが次々とイタリアの旗を振りながら「ビバ!ヴェルディ!」、「ビバ!イターリア!」と口々に叫びます。
劇場に居合わせたオーストリアの将校たちは憤然として席を立ち、楽屋裏で公演を中止するよう命令しますが、アビガイッレ役だったジュゼッピーナ・ストレッポーニが歌手たちを促して再度この歌を歌わせ、観客も声を揃えて歌います。
同じようなシーンはルキーノ・ヴィスコンティの映画『夏の嵐』(1954年)にもあります。大勢のオーストリア将校たちも観ている中、『イル・トロヴァトーレ』第三幕でマンリーコの「見よ、恐ろしい炎を」が歌われると、イタリア人観客たちがイタリアの統一と独立とを叫び出して大騒ぎになるというシーンです。
いきなりですがマメ知識:山岸凉子の漫画『神かくし』のアイディアは、おそらく『イル・トロヴァトーレ』だろうと思ふ。
下の記事に書いたように、この映画で見ごたえがあるのは、マリオ・デル・モナコ(Mario Del Monaco、1915-82)のオテロ、マントヴァ公爵(『リゴレット』)、アルフレード(『椿姫』)、そしてティート・ゴッビ(Tito Gobbi、1913-84)のリゴレットがカラーで観られることです。
デル・モナコについては、白黒の舞台映像は割と多く残っているかもしれませんが、カラーは珍しいのではないでしょうか。ティート・ゴッビに至っては、舞台映像そのものがほとんど残っていないと思います。
ゴッビのほとんど唯一にして最も有名な舞台映像は、マリア・カラスと共演したプッチーニの『トスカ』第二幕(1964年、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで収録)でしょう。マリア・カラスはトスカ、ゴッビはスカルピアを歌い演じています。ただ惜しいことに、この映像も白黒です。
とはいえ、ともに強烈なオーラと存在感、歌唱力、演技力を持つマリア・カラスとティート・ゴッビの共演で、しかも両者とも当たり役のトスカとスカルピアで、更に第二幕ですから、オペラとは思えないほどの緊張感がバリバリに張りつめています。
この映画『ジュゼッペ・ヴェルディ』でのティート・ゴッビ扮するリゴレットも、なんというか、目が釘付けになってしまいます。ゴッビの力強く響く歌声も本当にすごいけど、ゴッビのあの演技力の凄まじさはいったい何なの!?リゴレットの登場シーンは衝撃的です。それからゴッビ扮するリゴレットのシーンがかなり長く続きます。
観ていると、監督もしくは撮影担当も、ゴッビの演技に強く引きつけられていたらしいことが分かります。マリオ・デル・モナコが歌っているシーンとは、カメラ・ワークの力の入れ具合が明らかに違うからです。ゴッビの撮影では、アップにしたり角度を工夫したりとやたら凝っていて、ゴッビの優れた演技を最大限効果的に撮ろうとしていたのは間違いないです。ゴッビの目つきは、観ていてゾッとするほど鋭く壮絶な迫力に満ちています。卑しめられた者の不気味な怖さというか。
さっき検索したら、デル・モナコとゴッビが共演した『オテロ』全幕映像があるらしいです。でも惜しいことに白黒。ゴッビの『リゴレット』全幕映像はないのか?探してみよう。
マメ知識その2:青池保子の漫画『エロイカより愛をこめて』の「皇帝円舞曲」の最後で、キーロフ・オペラの『トゥーランドット』舞台裏に紛れ込んだエロイカが、開演前の緊張で異様にナーバス&ネガティブになっている主役のテノール歌手に出くわします。そのテノール歌手はエロイカに手を握ってもらうと、今度はいきなり「おお私の黄金のトランペットが鳴り響く!」と自信満々に舞台に出て行きます。
このテノール歌手のモデルは、言うまでもなくマリオ・デル・モナコですね(笑)。デル・モナコは自信家の反面、開演直前は異常にチキンになるのが常だったそうです。また「黄金のトランペット」はデル・モナコの異名です。
デル・モナコのオテロを観て思ったことには、デル・モナコはマントヴァ公爵やアルフレードなどの色男よりも、オテロのような陰影のある役のほうが似合います。レオンカヴァッロ『道化師』のカニオも当たり役だったそうですが、このオテロを観ると納得できます。
映画の冒頭にある『オテロ』の最終シーンですが、私はラジオではじめて『オテロ』の最終シーンを聴きました。聴きながら思ったのは、「これ、ワーグナーの作品じゃないのか?」ということでした。ワーグナーの音楽によく似てます。
ワーグナーのほうがヴェルディに影響を受けた、とどこかで読んだ覚えがあるんだけど、その逆もまたあったのかな。国は違えど、同じ時代に生きたのだから、影響関係がまったくなかったはずはないよね。
この映画『ジュゼッペ・ヴェルディ』は廃盤だそうですが、レンタル・ビデオ店、あとは図書館に置いてある可能性があります。興味のある方はぜひご一見下さい。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/7f/794eb37a77386b5eccf7b042b46f54e0.jpg)
(映画『ジュゼッペ・ヴェルディ』DVDカバー。写真は劇中劇の『オテロ』第四幕最終場。オテロ役はマリオ・デル・モナコ。)
『笑ってコラえて!』は、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の一生を紹介していました。それに用いられていたのが、映画『ジュゼッペ・ヴェルディ(GIUSEPPE VERDI)』(1953年、イタリア作品)です。
『ジュゼッペ・ヴェルディ(GIUSEPPE VERDI)』
ジュゼッペ・ヴェルディ:ピエール・クレソワ
マルゲリータ・ヴェルディ:アンナ・マリーア・フェッレーロ
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ:ギャビー・アンドレ
マレッリ(ミラノ・スカラ座支配人):サンドロ・ルッフィーニ
ヴァレッティ(マルゲリータの父):カミッロ・ピロート
バルベリーナ(ジュゼッピーナ・ストレッポーニの姉):ラウラ・ゴーレ
ジョアキーノ・ロッシーニ:ロリス・ジッツィ
ガエターノ・ドニゼッティ:エミーリオ・チゴーリ
ヴィクトル・ユーゴー:グイド・チェラーノ
アレクサンドル・デュマ・フィス:アルド・Bufi ランディ(←発音が分かりません)
特別出演(オテロ、マントヴァ公爵、アルフレード):マリオ・デル・モナコ(テノール)
特別出演(リゴレット):ティート・ゴッビ(バリトン)
特別出演(ヴィオレッタ):オリエッタ・モスクッティ(ソプラノ)
特別出演(ルーナ伯爵):ジョルジオ・ロンコーニ(バリトン)
特別出演(ファルスタッフ):ヴィート・デ・タラント(バリトン)
合唱:ローマ歌劇場合唱団
演奏:ローマ歌劇場管弦楽団
指揮:ジュゼッペ・モレッリ
製作:マレーノ・マレノッティ
監督:ラッファエッロ・マタラッツォ
私はこの映画を中国のテレビで観ました。その後、日本に帰ってから、日本語字幕入りのDVDを見つけて購入しました。この映画はヴェルディの伝記的作品であり、映画としての出来は大して重要ではないようです。53年製作ということは、ヴェルディ生誕140周年記念とかで作られたのかもしれません。
日本未公開だということですが、本当は公開されたんではないかなあ?字幕の字体が、昔の字幕特有のギザギザした形なんです。DVDが発売されたのは2001年です。「ヴェルディ没後100年企画」とケースに書いてあります。
いくつかの通販サイトで探してみたら、この日本語字幕版はもう廃盤になっているようです。今年がヴェルディ生誕200周年なら、記念企画としてまた焼けばいいのに。ちなみに発売元はニホンモニター株式会社ドリームライフ事業部です。
ヴェルディの生涯を、ヴェルディとその後妻、ジュゼッピーナ・ストレッポーニとの関係を軸に描いています。真実かどうかは知りませんが、ストーリーと人間関係がヴェルディのオペラ『椿姫』ともろかぶりです。
売れない作曲家ヴェルディは、幼い息子と妻のマルゲリータとを続けて亡くし、窮乏生活に陥ります。そんな折、ミラノ・スカラ座のプリマドンナ、ジュゼッピーナ・ストレッポーニはヴェルディの才能を見出し、彼女のパトロンでもあった劇場支配人のマレッリはヴェルディにオペラの制作を依頼します。
ヴェルディが作った『ナブッコ』は大好評を博します。イタリア統一の機運が盛り上がっていた当時、ヴェルディとその作品はイタリア統一のシンボルとなり、ヴェルディは北イタリアを統治していたオーストリアから政治的危険人物とみなされます。
ヴェルディとストレッポーニは恋仲になります。ストレッポーニは愛人である劇場支配人マレッリと別れ、ヴェルディと一緒に田舎で静かに暮らそうと約束します。
しかし、ヴェルディの亡き妻、マルゲリータの父であるヴァレッティがストレッポーニを訪れ、ストレッポーニに子どもがいること、彼女がマレッリの愛人であることを理由に、ヴェルディの名誉を守るために別れるよう言い含めます。ストレッポーニは泣く泣くその頼みを受け入れ、わざと冷たい態度をとってヴェルディに別れを告げます。
ヴェルディの作品は次々と成功を収めていきます。ヴェルディはロッシーニ主催のパーティーに招かれます。そこにストレッポーニが現れ、重病のドニゼッティを助けてほしいとロッシーニに頼みます。ちょうどデュマ・フィスと『椿姫』オペラ制作の話をしていたヴェルディは、『椿姫』のヒロインであるマルグリットにかこつけて、ストレッポーニを皮肉ったあてこすりを言います。
ストレッポーニの苦しみを見かねたドニゼッティはヴェルディを呼び出し、ヴェルディを非難して真実を告げます。「彼女は君を愛しているからこそ嘘をついたのだ。」 ヴェルディはストレッポーニに会いに行きますが、ストレッポーニの行方は分からなくなっていました。ヴェルディはストレッポーニのことを想いながら『椿姫』の制作に没頭します。
『椿姫』が上演されている劇場で、ヴェルディの義父はストレッポーニが涙を流して舞台を見つめているのを目にします。ヴェルディの義父はストレッポーニを連れてヴェルディと再会させます。ヴェルディとストレッポーニはようやく結ばれ、それからは穏やかな人生をずっと一緒に過ごしていきます。
映画としての出来は大して重要ではない、と上に書きました。この映画で見どころなのは、劇中劇であるヴェルディのオペラの上演場面(←有名な歌はあらかた入ってる)、特に「黄金のトランペット」マリオ・デル・モナコと「オペラ団十郎」ティート・ゴッビの出演シーンです。
また長くなっちゃった。その3に続きます。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
先日、日テレの『笑ってコラえて!』を観ていたら、かなり長い時間を割いてジュゼッペ・ヴェルディのことを紹介していました。今年はヴェルディ生誕200周年なんだそうで、そういえば、今年はやけにヴェルディのオペラの公演が多いような。
あのミラノ・スカラ座もこの秋に日本公演を行ない、『ファルスタッフ』と『リゴレット』を上演するそうです。だからミラノ・スカラ座バレエ団も来るんですね。『ファルスタッフ』と『リゴレット』でバレエを踊るついでに、バレエ団も独自に公演を行なうというわけです。納得。
オペラのチケット料金ってすごく高いものですが、ミラノ・スカラ座日本公演『ファルスタッフ』と『リゴレット』も凄まじい。S席62,000円、最も安いF席でも13,000円、更に安いエコノミー券も10,000円、学生券も8,000円!これでも完売しちゃうんだろうなあ。
オペラ、バレエ、コンサートなどのチケット料金はどのようにして決まるのか、私はコスト+利益なんだろうなあ、と単純に思ってました。そしたら、どうもそれだけではないようで、その国の人々の一般的な経済観念も関係してくるみたいです。
たとえば、世界一の消費大国といえばアメリカです。ところが、アメリカ人は意外と財布の紐が堅いんだそうです。世界的有名指揮者が率いる一流オーケストラのコンサートであっても、チケットが50ドル以上だと普通は行かないそうです。だから、アメリカのプロモーターはチケット料金を安く設定せざるを得ない。
一方、日本人は違います。世界的有名指揮者が率いる一流オーケストラのコンサートならば、20,000円のチケットでも買います。だから、日本のプロモーターはチケット料金を高く設定できるわけです。
ただし、日本のプロモーターがぼったくっているというわけではなく(中にはぼったくっているプロモーターもいるかもしれませんが)、多分に招聘される側、つまり劇場、指揮者、歌手、演奏家、バレエ団、ダンサーたちの要求に従っているのではないかと思います。劇場やアーティストたちは、たとえばアメリカ公演で高い利益を上げられなかった分を日本公演で補うという方法で、収入のバランスをとっているのでしょう。
昨日はディアナ・ヴィシニョーワのガラ公演「ディアナ・ヴィシニョーワ~華麗なる世界~」の発売初日だったので、私はNBSのサイトでチケットを購入しました。S席16,000円。テープ演奏、演目は半分が未定、残り半分の演目はおそらく各ダンサー持ち寄りのレパートリー。でも16,000円。Aプロはさすがに面白味がなさすぎると思ったので、Bプロのみを購入しました。
「マラーホフの贈り物」は、A、Bプロの両方をだいぶ前に買ってました(先行予約。席は選べない)。先日(4月6日)に演目が発表されて呆然。以前に観たマラーホフのガラ公演と演目がほとんどかぶってる。私の席はS席ですが、A、Bプロともに20数列目(←もう笑うしかない)です。これで16,000円×2=32,000円ナリ。
「マニュエル・ルグリの新しき世界Ⅲ」も買いました。こちらもA、Bプロを両方観ます。こちらは割と良い席が当たりました(もちろんサイドだけどね)。演目も面白そうです。しかしまー、ルグリはまだ得体の知れない「振付家」や、畑違いのフラメンコ・ダンサーと仲が良いようです。これさえなければもっとよかったのですが。
知り合いのダンサーたちを呼び集めて、演目は各自のレパートリーを寄せ集めただけ、演奏も録音なのに、チケット料金が異様に高いガラ公演が最近は多い気がします。こうしたガラ公演の詳細を見せて、チケット料金は170ドル、110ポンド、130ユーロだよ、と欧米のバレエ・ファンに教えたら、彼らはどう思うのでしょうか。今度聞いてみよう。
ガラ公演でも内容を工夫して、真摯に取り組んでくれる座長ダンサーって、ファルフ・ルジマトフ、シルヴィ・ギエム、マニュエル・ルグリ (←「マニュエル・ルグリの新しき世界Ⅲ」を観てあまりに腹が立ったんで取り消し)くらいじゃないのかな。
ごめんなさい、話題がそれました。本題は映画『ジュゼッペ・ヴェルディ』(1953年、イタリア、日本未公開)についてです。長くなったので、その2に回しますね。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif)
新年度だ~。イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ~!!!!!(魂の叫び)
しつこいけど、ロンドンのパレス・シアターで上演中の"Singin' in the Rain"は、2ヶ月後の6月8日をもってウエスト・エンド公演が終了します。今が観劇旅行を手配できるギリギリの期限でしょう(特に飛行機のチケット)。
都合のつくみなさまはがんばって下されい。わたくしめは銃後の守りに徹しまする。
追記:アダム・クーパーの公式サイトに問い合わせてみたら、アダムはやむを得ない場合(病気や怪我など)を除いて、6月8日の公演終了日まで毎回出演するということです。
ただ、アダムは4月中に1週間の休みを取るそうなので、4月にいらっしゃる計画を立てようという方は、事前に アダム・クーパーの公式サイト にお問い合わせ下さい。
当初の予定よりも公演が早めに終了することになったのは、そろそろチケットの売り上げが伸び悩んできたせいかな、と私は思ったのですが、なんかちょっと違う感じです。観客のレビューもすごく好評だし、アダムの公式サイトの管理人さんも「少し意外だった」と書いていました。
ところで、今日NBSからミラノ・スカラ座バレエ団日本公演(2013年9月20~23日)の先行予約抽選申し込みのDMが来ました。
6年前の日本公演(ヌレエフ版『ドン・キホーテ』)を観て、ミラノ・スカラ座バレエ団って、海外公演をやる意味があるカンパニーなんだろうか、とすっごく不思議に思ったんですが、また来るんですね。演目はケネス・マクミラン版『ロミオとジュリエット』です。
全5公演のうち、4公演の主役はゲスト(これだからよー)。ミラノ・スカラ座バレエ団のダンサーが主役を踊るのは1公演のみ。
ゲストはアリーナ・コジョカルとフリーデマン・フォーゲル(20、22日)、ナターリヤ・オシポワとイワン・ワシーリエフ(21日夜公演、23日)です。21日昼公演(←……)で、ミラノ・スカラ座バレエ団のペトラ・コンティ(Petra Conti)とクラウディオ・コヴィエッロ(Claudio Coviello)が主演を務めます。
1回だけ観るつもりです。マクミラン版は大好きですが、ジュリエットとロミオ役のダンサーたちだけが良ければいいってもんじゃないですから。You Tubeに、ミラノ・スカラ座が公式宣伝用にアップロードした映像がいくつかあります。第二幕のマンドリン・ダンスを観ると、映像でもあまり上手でないのが分かります(映像だと普通はさほどアラが見えない)。6年前の公演で懲りたので、申し訳ないけど、ミラノ・スカラ座バレエ団のダンサーが主演する回も最初から除外。
コジョカルとオシポワのジュリエット(マクミラン版のやつね)は両方とも観たことがあります。コジョカルはもちろん鉄壁ですが、オシポワも非常にすばらしかったです。だから、ジュリエットはどちらでもいい。
となると、ロミオで決めることになります。フォーゲル、ワシーリエフともに、マクミラン版のロミオは観たことがありません。てか、二人ともマクミラン版のロミオを踊ったことはあるのか?
ジョン・クランコ版のロミオを踊るフォーゲルは観たことがあるし、フォーゲルの容姿、雰囲気、踊りからすれば、マクミラン版でもどんなロミオになるかは大体想像がつきます。そうすると、興味が湧くのは、断然イワン・ワシーリエフのロミオということになります。
ワシーリエフはあらゆる面でフォーゲルと正反対に見えるから、ワシーリエフがどんなロミオになるのか、すごい面白そう。なんか間違ってマキューシオになっちゃうかもしんないし、意外にピュアなロミオになるかもしれない。
また、ワシーリエフがマクミラン版のロミオの踊りをこなせるかどうかも興味深いです。振付にマクミラン独特の癖があるので、デニス・マトヴィエンコでさえも四苦八苦して踊っていたくらいです。
ということで、オシポワとワシーリエフの回を申し込むことにしました。
欲を言えば、コジョカルのパートナーには、ボルちゃん(アレクサンドル・ヴォルチコフ)を呼んでほしかったなー。ボルちゃんもミラノ・スカラ座バレエ団のゲストとして、マクミラン版のロミオを踊ったことがあります。
でも日本では、ヴォルチコフにはフォーゲルほどの知名度がないし、ゲスト4人が全員ロシア系ダンサーで、うち3人はロシアを中心に活動中の、かつボリショイ・バレエ系のダンサーだと、いくらなんでもバランスがわるい。だから、フォーゲルを呼ぶほうが正解なのでしょう。
公演チラシを見たら、舞台装置と衣装が明らかにニコラス・ジョージアディスのものとは違います。チラシによると、衣装はオデッテ・ニコレッティ(Odette Nicoletti)、装置はマウロ・カロージ(Mauro Carosi)のデザインだそうです。なんか、特に衣装が物語の本場であるイタリアっぽい感じがします。衣装も見どころですね。
ハズレがなさそうなコジョカルとフォーゲルの回は競争率が高そうだから、オシポワとワシーリエフの回で、なんとかマシな席が当たるといいな(無理か)。
![](/images/clear.gif)
| Trackback ( 0 )
![](/images/clear.gif) |
|
|