インテル風林火山編

  インテルのCMがまたエライ展開になりました。とうとう時空の壁を超越してしまいました。

  一つは日本の戦国時代、主将らしい武将が「何事じゃヒデトラ!(←誰だよ)」と言うと、その前に跪いた武将が「目が覚めましたらこのように」と言って兜を脱ぐ。するとその下には金髪美女の顔が。翌日、金髪美女に変身した武将が「お館様!?」と言って驚く。そこにはやはり鎧兜を着た金髪美女がいて、「わしもじゃ、がははは!」と豪快に笑う。

  もう一つは現代のフランスのバレエ・スタジオ。「白鳥の湖」の白いチュチュを着たバレリーナたちが居並ぶ中、王子役の金髪アフロの男性ダンサーが「シャルロット!?」と驚く。そこにはちょんまげを結った日本人男性が、オディールの黒いチュチュを着て立っている。シャルロットは泣きながらフランス語で「朝起きたらこうなってて」と言う。

  ところが王子役のダンサーは「トレビアーン!」と叫び、「サムライ、サムライ」と言って喜ぶ。最後は「白鳥の湖」の音楽に乗って王子とオディールが踊る。ついでに、王子もなぜか月代を入れた金髪のちょんまげ頭になっている。

  これらのCMは インテルの公式サイト で観られます。大爆笑なのでぜひどうぞ。

  それにしても、インテルのCMは最近バレエづいてますな~。
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スタダン公演

  下の記事を書いた後、またなんとなく怖くなってしまったので、新しい記事で気分をリフレッシュします。

  今週末の12月1日(土)、2日(日)、スターダンサーズ・バレエ団の公演があります。<祝 太刀川瑠璃子80歳バースデー>という副題がついています。太刀川瑠璃子さんとは、スターダンサーズ・バレエ団の創立者の方で、公演時にはいつも会場のロビーで、ニコニコ笑って立っていらっしゃいます。

  今回の公演はミックスド・ビルで、「ゼファー」(佐々保樹振付)、「陽炎」(関直人振付)、「ロミオとジュリエット」(ケネス・マクミラン振付)よりバルコニーのパ・ド・ドゥ、「火の鳥」(遠藤善久振付、遠藤康行追加振付)の4本立てです。
  詳しくは スターダンサーズ・バレエ団公式サイト をご覧下さい。

  「ロミオとジュリエット」には、吉田都とロバート・テューズリー(←もういっそのこと日本に定住しなさい)がゲスト出演します。「ロミオとジュリエット」以外の作品はすべて日本人による振付ですが、「陽炎」の音楽は、山岸凉子の漫画「テレプシコーラ」で一躍(?)有名になったシベリウスの「トゥオネラの白鳥」です。「火の鳥」はもちろんストラヴィンスキーのあの曲です。

  「ゼファー」の音楽はフランツ・リストとトム・コンスタンティンとしか書いてないですが、ピアノの生演奏が入ります。後の演目も生オーケストラによって演奏されるようです。

  吉田さんとテューズリーによる「ロミオとジュリエット」のバルコニーのパ・ド・ドゥが観たいし、私の好きな新村純一君ももちろん出演するので、とーぜん私は観に行きます。
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反りの合わない音楽

  3連休のおかげで、9月の東京バレエ団「ニジンスキー・プロ」と、先週の小林紀子バレエ・シアター「ジゼル」の感想をまとめることができました。まったく3連休様々です。今回は金曜日が祝日だったから休めました。月曜日が祝日の場合は、私はほとんど仕事なのです。

  「ニジンスキー・プロ」については、ブログに書いたものとあんまり変わりありません。なにせ9月のことなので、もうほとんど忘れてしまいました(ジュド様の牧神以外は)。

  私は感想を書くとき、その作品の映像版を観て、あるいはその作品に使われた音楽のCDを聴いて、それで自分が観た公演の様子を思い出すようにしています。東京バレエの「ニジンスキー・プロ」についても、今さらながらに必死に思い出そうとして、「レ・シルフィード」と「薔薇の精」の映像版を観て、「牧神の午後への前奏曲」と「ペトルーシュカ」を聴きました。

  「ペトルーシュカ」は、たまたま持っていた、ストラヴィンスキーの曲をいくつか集めたCDに入っていました。ミハイル・フォーキンの振付は、音楽のイメージにぴったり合わせられたものだったので、ここで踊り子同士がケンカをして、ここでシャルラタンが顔を出して、ここでペトルーシュカがメチャクチャに暴れて、ここでバレリーナがムーア人の部屋に入ってきて、ここでロシアの民族衣装を着た貴婦人たちが優雅に踊って、というふうに、一部はなんとか思い出せました。

  あとはCDをかけっぱなしにしてパソコンに向かっておりました。すると、曲が「春の祭典」になりました。私はあわててCDの再生を止めました。というのは、私はどうも「春の祭典」と反りが合わないようだからです。

  曲が嫌いだというわけでは決してありません。むしろ魅力的だと思っています。ですが、「春の祭典」を聴くと、なぜかヘンなことが起きるのです。

  ストラヴィンスキーの「春の祭典」をはじめて聴いたのは、確か中学校の音楽の授業ででした。しょっぱなから生理的嫌悪感が走りました。その後、「春の祭典」が終わるまでのおよそ30分間は、どうしてか分からないけど、ひどくイライラして、腹が立ってたまりませんでした。

  じゃあ結局キライだったんじゃないか、という話になりますが、確かにバレエを観るようになるまでは、中学生のときのトラウマ(?)のせいで、絶対に聴きませんでした。でも、数年前にケネス・マクミラン振付の「春の祭典」を観ることになって、それであらかじめ音楽を聴いておこうと思いました。このころには、もう中学生のときの記憶は遠いものになっていて、ほとんど気になりませんでした。

  公演まで毎晩聴いて頭の中に叩き込もうと思い立ち、ある晩、寝る前に「春の祭典」を聴いてみました。そしたら、神秘的な雰囲気と迫力に満ちた魅力的な曲でした。中学生のときはガキだったから、この曲の良さが分からなかったんだな、と思い、リピートでまた聴きました。布団に入って、イヤホーンを当てて聴いているうちに、いつのまにか眠ってしまいました。

  そしたら、内容は覚えていませんが、とにかく悪夢を見ました。もがいているうちに目が覚めました。「春の祭典」はまだ終わっていませんでした。私はCDを止めて、なんかヘンな夢を見ちゃったなー、と思いつつ、その夜は寝ました。

  その次の晩です。また「春の祭典」を布団に入って聴きました。2、3回でしょうか、最後までしっかりと聴き終わってから、イヤホーンを外して寝ました。そしたら、なんとその夜に金縛りになってしまったのです。ちなみに私は霊感ゼロ人間です。

  これは絶対に偶然じゃない!「春の祭典」のせいだ!と、私はすっかりおじけついてしまいました。もう「春の祭典」なんぞ覚えなくてもいいわい、こんな縁起の悪いもんなんか、二度と聴くもんかー!と固く決意しました。

  不思議と、バレエで演奏される「春の祭典」を聴いても平気なのです。ロイヤル・バレエが踊る「春の祭典」を観ているときには、「春の祭典」のせいで(?)おかしな経験をしたことなど、まったく思い出しませんでした。その夜には悪夢も見なかったし、もちろん金縛りにもなりませんでした。

  その後、今度はモーリス・ベジャール振付の「春の祭典」を観ることになりました。怖くて「音楽の予習」はしませんでした。東京バレエ団が踊る「春の祭典」を観て音楽を聴いても、全然平気でした。むしろマクミラン版よりベジャール版のほうが良いなあ、と感動しました。

  というわけで、私は「春の祭典」という曲が好きなのですが、音楽だけを聴いて不気味な体験をするのはイヤなので、今でも音楽だけで聴くことができずにいます。

  これはまったく「反りが合わないから」としか説明できません。古代中国では、音楽そのものに性質が存在するのか、それとも人間のほうで勝手に音楽に性質を賦与しているのか、という議論が交わされました。

  もし前者の説が正しいとすれば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」には何らかの「性質」があって、それが私と合わないのでしょう。後者の説が正しいとすれば、私は無意識のうちに、「春の祭典」の中に嫌悪感を催すような「性質」を与えて、一人で勝手にそれを怖がっているのかもしれません。

  ですが、こんな経験をしたのは、今のところ「春の祭典」だけなのです。まったく不思議なことです。  
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モーリス・ベジャール

  モーリス・ベジャールが亡くなりました。サイトのニュースを読んだけど、テレビのニュースでも報道していてびっくりしました。日本でもよほど有名な振付家だったんですね。

  わたしがベジャールについて語れることは何もないです。作品だって、「春の祭典」(東京バレエ団)、「ボレロ」(シルヴィ・ギエム)、「さすらう若人の歌」(ローラン・イレール、マニュエル・ルグリ)の三つしか観たことないし。

  でも、「ええっ、ベジャールが死んじゃったの?」と自分がショックを受けたこと自体に驚きました。別にベジャールにカセクトしていたわけではないのですが・・・一体なぜでしょうか?

  つまりは、ベジャールはそれほど偉大な振付家だった、ということなのでしょう。
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アダT届きました

  今日、帰宅したら届いていました。仕事速いですね。

  色は真っ白です。生地についてですが、素肌の上にじかに着たら、肌が透けて見えます。Tシャツ1枚で着るのなら、下に白のタンクトップやキャミなどを着ておいたほうがいいと思います。イギリスでは肌の上に直に身につけて道を歩いてもいい厚さなのかもしれませんが、日本で、特に女性がそうするには憚られる厚さです。

  胸の部分には、クーパー君の前髪から目元部分のアップ写真(ほぼモノクロ)がプリントされています。おそらくプリントシールだと思われます。やや厚みがあります。

  背中部分にはラメ入りゴールドの“Adam Cooper”のロゴが入っています。これもおそらく転写シートを使ってプリントしたものでしょう。

  ご存知のように、イギリスは物価の非常に高い国です。これくらいのTシャツを作るのにも、コストが日本より高くなってしまうのかもしれません。

  アダム・クーパーのファンのお友だちになら、このTシャツは一定の価値があるかもしれません。でもアダム・クーパーのファンでもないお友だちに、このTシャツをプレゼントとして贈るのは、できれば避けたほうがよいように思います。せっかくの友情が壊れる恐れがあります。

  ちなみにタグには“Made in Haiti”と堂々と書いてありました。(←意表を突かれた)

  このTシャツは外行き用ではなく、室内着にしようと思います。胸元にいつもクーパー君がいるというのは嬉しいものです。

  ・・・みなさんうすうすお察しでしょうが、これを書いている私のデコには現在、でっかい青スジが立っています。以下のことをクーパー君に建議します。

 ・布地がもっと厚いものを選びましょう。
 ・汚れやすい白は避けたほうが賢明です。
 ・フロントにあるクーパー君の写真ですが、「パソで画像を切りました」と言わんばかりな、ギザギザで不恰好な輪郭はやめましょう。
 ・ロゴを品の悪いラメ入りゴールドにするのはやめましょう。
 ・“Made in Haiti”というタグはあらかじめ切り取っておきましょう。

  (追記)もう一つありました。

 ・こんな「手作り品バザー」みたいな商売してないで、早く舞台に復帰しましょう。
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西島さんのジゼル

  ぴあからメールが来ましたよ。「『GILLE』~男性版ジゼル」ですって。「悲劇のヒロイン・ジゼルが男性に!」ということです。

  詳細はぴあの こちらのページ をご覧下さい。なんかすごいストーリーですね。これも古典のリテイルというのかな。

  主演するらしい西島千博さんは、確か以前にスターダンサーズ・バレエ団に在籍していた方ですね。何度か観たことがあります。あのバレエ団の中では唯一プロっぽい雰囲気を醸し出していて、踊りを「見せる」ことに秀でており、またエンタテイメント的な才能にも恵まれている人だなあ、と思った覚えがあります。

  ジゼルの生まれ変わり(?)が男性ってことは、アルブレヒトの生まれ変わり(←そんな役があるかどうかはまだ分かりませんが)は女性ってことになるんですかいな。そしたら、もしかしたらヒラリオンも女として生まれ変わるんですか!?なんかあんまり想像したくないなあ。  

  または、ジゼル、アルブレヒト、ヒラリオンの生まれ変わりがみーんな男性だとしたら、これはもうお耽美な世界ですね。萌え萌えなお話でふ。

  ところで、私は西島千博さんを「Myアーティスト登録」してないと思うのですが、なぜにこのようなメールが来たのでしょう?    
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島添さんのジゼル(2)

  舞台装置のデザインは、第一幕、第二幕ともにとても美しかったです。オーストラリア・バレエ団からのレンタルだそうです。深緑の木々が両脇に聳え立ち、枝が柳のように垂れ下がり、また木々の葉が霞のようにけぶっています。

  ウィリたちの衣装はとてもシンプルで、腕に飾り袖のないものでした。でも、ピーター・ファーマーらしく、ジゼル以外のウィリたちの衣装の胸元から腰にかけて、草花の蔓のようなものが斜めに垂れ下がっていました。

  ミルタ役はなんと高畑きずなでした。あの童顔でどーするんだ、と思いましたが、マリリン・マンソン風のメイクで、それなりに(というより相当)怖かったです。踊りはすばらしかったです。ミルタは絶対に踊りを失敗してはいけません。よくやったものだと思います。踊りの途中や最後でポーズを決めて静止するとき、腕の動きはビシッ!と鋭くて、形も直線的でした。丸いかわいい顔立ちは隠せませんが、威圧感も怖さもあるミルタでした。

  ディーン版のウィリたちのフォーメーションはかなり変わっていますが、特にヒラリオンやアルブレヒトを追いつめるときのポーズ、動きや配置は、非常に効果的でした。すごく怖かったです。ウィリたちの先頭や真ん中には常にミルタがいて、男どもに「死ね!」と指を突きつける、あるいは拳を握った両腕を交差させます。・・・やっぱり高畑きずなちゃんのミルタがいちばん怖かったな~。

  ドゥ・ウィリ(モイナ、ズルマ)は大和雅美と高橋怜子で、豪華キャストでした。大和雅美の踊りはやっぱり私の好みです。群舞の先頭に立って踊っていても、やっぱり際立って踊り方がきれいです。腕のしなり方がとても美しいし、脚が長いし高く上がるから、白い衣装でアラベスクをするととても様になります。

  第二幕は息を呑んで見ていました。やはり島添亮子のジゼルは、第二幕でこそ本領を発揮しますね。あ、思い出しましたが、ウィリとなったジゼルがアルブレヒトの前に姿を現わすとき、舞台の奥を紐に吊るされたウィリの衣装だけがひゅ~っと横切っていきました。

  まるで干された洗濯物が横断していくようで、これだけでも充分にマヌケな光景でしたが、更に間のわるいことに、途中で紐が引っかかって止まってしまったのです。これなら、ウィリ役のダンサー1人に、舞台の奥を横断させたほうが簡単かつ確実なのではないでしょうか。

  更に思い出しましたが、舞台セットや演出は、最近の金に物を言わせた豪勢なデジタル(?)装置に比べると人間味の漂うアナログなものでした。たとえば、最初にウィリたちが姿を現わすシーンでは、彼女たちはみな頭から白いヴェールをかぶって登場します。他のバレエ団の舞台だと、ヴェールのてっぺんに糸がついていて、脇から引っ張って自動的にヴェールが外れます。

  ところが、今回の公演では、白いヴェールをかぶって現れたウィリたちは、ミルタの号令で一斉にバタバタと舞台の両脇に引っ込み、ヴェールを外してすぐに再登場します。体育の授業の先生と生徒みたいで面白いです。

  ジゼルが墓の中からはじめて登場するときも、せりに乗って上がってくるとか、白い煙にまぎれて現れるとかじゃなくて、ウィリたちがジゼルの墓の前に結集して、観客からジゼルの墓を見えなくするの。すると、背景の幕に開いている穴の中からジゼルが現れる(←つい見えてしまった)という次第。

  ジゼルがアルブレヒトに別れを告げて姿を消すときも、この背景の幕に空いた穴から出ていくのが見えてしまって、ちょっと現実に返ってしまいました。もっとも、この人間くささとアナログさこそが、小林紀子バレエ・シアターのいいところでもあるのですが。

  でも、「ジゼル」の舞台美術一式はオーストラリアン・バレエから借りたんだよな。オーストラリアン・バレエは、マーフィー版「白鳥の湖」には(知らないけど)あれだけ金かけといて、「ジゼル」の舞台装置はこんなにショボいのを使ってるのでしょうか。

  ジゼルとアルブレヒト、島添さんとテューズリーの踊りは本当に美しかったです。島添さんは軽くてはかなげで、テューズリーのサポートやリフトは自然でした。テューズリーが島添さんの腰を支えて頭上高く持ち上げると、島添さんは片脚をピンと伸ばして、決してそのポーズを崩しません。また、テューズリーが直立不動の姿勢の島添さんを横にして持ち上げるときも、島添さんはまったく姿勢を崩しません。テューズリーも偉いですが、島添さんもすばらしいです。

  アルブレヒトのヴァリエーションの前、ジゼルが踊り終わった後、一般にはそこで拍手が沸いて、ジゼル役のダンサーが現れてお辞儀をし、ジゼルのアラベスクをして退場します。ですが、今回のディーン版ではジゼルのお辞儀とアラベスクがなく、ジゼルが踊り終わるとすぐに退場して、そのままアルブレヒトのヴァリエーションが始まりました。常々、あのジゼルのお辞儀とアラベスク退場は、物語の流れを断ち切ってしまうような気がしていたので、今回の演出のほうが私は好きです。

  島添さんのジゼルとテューズリーのアルブレヒトの踊りは静かで哀しげで、久しぶりに「ジゼル」第二幕に感動しました。最後には涙が出そうになりました。

  もったいないと思うのは、観客の大部分が、相変わらず系列のバレエ学校、教室の先生、生徒さんとその親御さんばかりだったことです。「このまえ教室でね~」とか「あっ、あそこに○○先生がいる~」と言っていた女の子たちのほうから、「プログラム買ってないから話がわかんない」、「すっごい寝ちゃった~」という声が聞こえてきたときにはがっかりしました。

  それから、私は劇場での作法うんぬんを偉そうに言いたくないのですが、オーケストラ・ピットに指揮者が登場したときの拍手は、オーケストラ・ピット内にいる人の合図(拍手)を待って一斉に始めるべきで、指揮者が現れたかどうかも分からないのに、勝手に拍手を始めるべきではないでしょう。

  なぜかというと、「ソワレ・ミュージカル」と「ジゼル」第二幕が始まる前に、フライングで拍手を始めた観客たち(両方ともたぶん同じ人々)がいました。1階中段左サイド席のあたりです。なぜ彼らがそんなことをしたのかは分かりません。客席のライトが消えたときに起こったので、ライトが消えれば拍手するものと思っていた、ということでしょうか。

  フライングの拍手はすぐに止みましたが、そのおかげで、その後、本当に指揮者が登場したことを告げる合図の拍手に、観客がついていかなかったのです。シーンとした中を、指揮者の人は指揮台まで進んで、指揮者がオーケストラ・ピットの縁から顔を出して観客に挨拶してから、ようやく観客は拍手しました。それでもまばらなものでした。これでは指揮者の人に失礼だと思います。

  まあとにかく、すばらしい「ジゼル」でした。第一幕のペザントの群舞はまだ一糸乱れず、というわけにはいきませんでしたが、第二幕のウィリたちの群舞はきれいで幻想的でした。「白鳥の湖」のオデットや白鳥たちのように片脚を伸ばして床に座り、上半身を折って顔をうずめるポーズは面白いですね。一斉に起き上がって、また上半身を折って、という動きがよく揃っていて、しかもみな腕や体がしなやかでとても美しかったです。

  ウィリたちのポーズにはまた変わったものがありました。両腕を折って胸の前で組み合わせ、片手で顔を覆うようにするのです。ジゼルがアルブレヒトをかばって、自分の墓の前に立ちふさがるシーンでやっていました。プログラムに載っている、非常に詳しいストーリー紹介によりますと、これはジゼルの愛の力の強さに、ミルタをはじめとするウィリたちの魔力が破れた様を表現しているらしいです。

  でも、それ以外のシーンでも、ウィリたちはこのポーズをとっていたので、私は、これはひょっとしたら棺に入れられた後の死後硬直の姿を表しているのかしら、と思いました。それぐらい不気味なポーズだったのです。ディーン版のウィリたちはつくづく怖いです。「妖精です」って美化してないんですね。背中に羽根もないし。

  テューズリーはゲストだからおいといて、島添亮子さんは小林紀子バレエ・シアターでは別格のバレリーナです。その島添さんは体育会系テクニックが今ひとつ弱いですが、踊りそのものはしっとりと丁寧で、非常に繊細な動きをします。音楽性にも恵まれているのか、音楽に遅れても、すぐにそうとは覚られないように追いつきます。音楽の波の中で悠々自在に泳いでいる、といった感さえあります。

  マクミランやアシュトン作品での島添さんはとてもすばらしいのです。ですが、プティパ系の古典作品は、必ずしも完璧に踊りこなせるわけではないようです。古典作品では「ジゼル」や「パキータ」が精一杯なのかもしれません。

  でも、もったいないと思うのです。島添さんのようなダンサーを、小林紀子バレエ・シアターのトリプル・ビルの中にばかり閉じ込めておくのは。なんとか彼女がもっとメジャーになれるようなバレエ環境が日本で整わないものかしら、と思いました。

  最後にあらためて一言。今回の「ジゼル」は泣けました。本当にすばらしい舞台でした。   
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島添さんのジゼル(1)

  小林紀子バレエ・シアターの「ジゼル」(デレク・ディーン版)、土曜日の公演を観てきました。演目はなぜか二本立てで、ケネス・マクミラン振付の「ソワレ・ミュージカル」が先に上演されました。もっとも、「ジゼル」では出演できるダンサーの数が限られてしまいますし(特に男性ダンサー)、より多くの団員が出演できるように、というバレエ団側の配慮だったのかもしれません。

  「ソワレ・ミュージカル」は20分くらいの短い作品です。前にも観たことがあります。あんまりよくなかったかな~。基本的に、振付が難しすぎるんだと思います。

  特に男性技は難しい技が複合されていて、男性陣4人によるパ・ド・カトルはかなり大変そうでした。

  男女のパ・ド・ドゥもゆっくりな振付なのですが、変わった複雑な形で手を組み合わせたまま女性が回転するとか、またポワントで脚を後ろに高く上げるとか、よ~く見るとすごい難しそうでした。

  あと、このパ・ド・ドゥを踊った大森結城と冨川祐樹は、お互いの背丈のバランスがよくなくて、それで踊りがあまりスムーズにいっていないようでした。大森結城は背が高く、更に冨川祐樹が華奢な体型をしているものですから、リフトは見ていてハラハラしました。なんとか支えている、持ち上げているといった感じがありました。

  でも、大森結城のヴァリエーションはとてもきれいでした。

  真打の「ジゼル」ですが、小林紀子バレエ・シアターというのは、全幕物を上演できるかできないかの境界線上にあるレベルのカンパニーだと思います。実際、系列学校・お教室発表会的な年末の「くるみ割り人形」以外、古典の全幕物はめったに(というかまずほとんど)上演しません。

  そういうカンパニーにしては、今回の「ジゼル」公演は、よくあそこまでやれたものだと思います。とりわけ第二幕は本当にすばらしかったです。

  まずヒラリオン役の中尾充宏の演技がよかったです。粗野な感じはなく、ふつうの若者という感じで、ただジゼルのことが好きで好きでたまらず、ひたすら恋敵(アルブレヒト)に勝ちたいがために、深く考えずにアルブレヒトの正体をばらして、単純に「やったぞ!」と思った瞬間、なんとジゼルが発狂して死んでしまった。
  好きな女の子に振り向いてもらいたいために軽い気持ちでやったことで、皮肉にもその女の子が死んでしまって後悔と悲しみにくれる、そういう雰囲気が自然でよかったと思います。第二幕でウィリに捕まって死ぬ間際の踊りもよかったです。

  ジゼルの母親、ベルタによる「恋が叶わずに死んだ女がウィリとなって夜の森に出没し、通りかかった男たちをつかまえ、死ぬまで踊らせて殺す」マイムがありました。このマイムは現在のほとんどの「ジゼル」では削除されています。ピーター・ライト版にもなかったと思います。デレク・ディーンは残したんですね。(ついでにいうと、熊川哲也版にもあります)。

  バチルド姫役の楠元郁子の演技が、まさにワガママで気位の高いお姫様という感じでグッジョブ!でした。

  「疲れたから座りた~い!」と言って、村人に粗末な木の椅子を差し出させ、それでも表面が汚れているというので嫌がり、村人の娘にスカートで椅子を拭かせてからやっと座るという権高さ、「喉が渇いたから何か飲みた~い」と言って、机と椅子と飲み物を持ってこさせ、ジゼルにドレスを羨ましがられていい気になり、ジゼルに首飾りをくれてやって、それでもジゼルのお礼のキスはさっとよけるという傲慢ぶり、実に見事なバチルド姫でした。

  美術はピーター・ファーマーで、ジゼル、(村人の格好をした)アルブレヒト、村人や貴族たちの衣装はみな淡い茶色、えんじ色、黄色を基調としていましたが、バチルド姫のドレスだけはオフホワイトで、えらく目立ちました。なにかの意図があるのでしょうか?

  村人によるパ・ド・シスでの、高橋怜子の踊りがすばらしかったです。彼女の踊りは、島添亮子と感じが似ています。

  「ジゼル」の他の版に比べると、第一幕でアルブレヒトが踊る場面が多いように思います。これはうまいなあ、と思ったのが、第一幕の最後、狂ったジゼルがアルブレヒトとの思い出を、一人でふらふらと踊りながら再現しますよね。

  他の版では、これはどの場面の踊りの再現なのか分からない部分がありますが、ディーン版では、狂ったジゼルが何を思い出して踊っているのか最後に分かるように、途中ですべての踊りを挿入してありました。それで、あ、ジゼルはアルブレヒトとのあの踊りを再現しているんだな、とはっきり分かりました。

  ジゼルが狂死する(どうやらディーン版では心臓発作が原因のよう)寸前、とつぜん稲妻が光って、その瞬間に、舞台の奥を白いヴェールを頭からかぶった2人のウィリがさっと横切ります。ジゼルの運命をはっきりと予告していて、なかなか面白いなあと思いました。

  ロバート・テューズリーのアルブレヒトはよかったですよ。もちろん踊りはそつなくこなす人ですが、今回は演技がめずらしく光っていました。ベテランになって、ようやくテューズリーも演技面に目を向ける気持ちになったのでしょうか。第一幕では軟派なアルブレヒトで、これまた後々どうなるかなど全然考えてない、軽薄で無邪気な貴族のおぼっちゃま、という感じでよかったです。

  ヒラリオンとケンカになって、つい貴族のクセで腰にあるはずの剣に手をかけようとし、従者のウィルフリードに事前に注意されて外していたことに気づき、ああ、そうだったな、という余裕の笑みを浮かべて、両手を仕方なさげに広げる仕草と苦笑する表情が魅力的で、テューズリーの演技を魅力的だと感じたことが新鮮でした。

  ヒラリオンに正体をバラされた後のアルブレヒトの演技も、自分のこめかみを叩いて、頭がどうかしてたんです、冗談ですよ、と笑ってごまかし、平然とした表情で自然な仕草でバチルド姫の手をとって口づけする、というもので、中途半端に懊悩しないアルブレヒトでした。無邪気な遊びで村娘と恋人ごっこをすることと、貴族仲間との付き合いとが両立できて、すっきりと切り替え可能なんですね。これほどのダメ男でないと、ジゼルは死にません。

  島添亮子は小柄でかわいらしい容貌をしていますから、いかにもジゼルという雰囲気がよく出ていました。踊りは柔らかくしなやかで、また軽くてふんわりとしていました。爪先や指先まで丁寧な踊りでした。

  テクニックがそう強い人ではないようで、第一幕のジゼルのソロでは回転するときに足元がブレたり、音楽に遅れたりしていましたが、決してあたふたせず、美しい緩急をつけながら踊って、巧みに追いついてしまいます。 
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アダT買いました

  最初は買う気ゼロでしたが、みなさまのコメントを読んでいるうちに、買ってみたら面白そうだな、という気になってまいりまして、15日夜に購入しました。ついでにクーパー君のたくましく美しい背中と肩と腕が印象的なポスターも買いました。

  そしたら「16日に航空便で品物を発送したよ~ん」というメールが早速来ました。1週間後くらいには到着するでしょう。現物を見るのが楽しみです。わくわく。生地の厚さとか、縫製の質とか、色合いとか、アダム写真やロゴ部分の材質はどーなっているのかとか、到着したらご報告させて頂きます(Tシャツの裏に“Made in China”のタグがついていないことを祈る)。

  今日は夜に小林紀子バレエ・シアター「ジゼル」(デレク・ディーン版)を観に行きます。すでに昨日から頭の中では「ジゼル」の音楽が鳴りっぱなしです。島添亮子さんのジゼル、とても楽しみです~。うきうき。 
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節約裏ワザ

  10数年来、同じホット・カーペットを使っておりました。だんだん寒くなってきましたから、朝夕はつけるようになりました。

  ある夜、ホット・カーペットをつけてパソコンに向かっていると、どこからかキナ臭い匂いがしてきました。そのほうを見やると、なんとホット・カーペットのコードが、線香花火のように白い光を出して「しゅしゅしゅう~」と燃えていたのです。

  私が呆気に取られて見ていると(←こういう超不測の事態が起こった場合、すぐさま適切なリアクションをとるのは難しいです)、コードは最後に「ボン!」という音とともにプチ爆発して、後は沈黙しました。

  私はびくびくしながら、ホット・カーペットのコンセントを抜きました。周辺のものに燃え移らなかったどうか、くまなくチェックしたら大丈夫でした。後で友人に話したら「それは一歩まちがえたら大惨事になってたんじゃない?」と言われました。

  さて、寒いです。部屋にはエアコンがありますが、電気屋のおっちゃんから以前、「エアコンというのは本来冷やすためのもので、暖めるものではない」と聞いたことがあります。それに、床が冷たいというのはかなり辛いのです。

  これは急遽、ホット・カーペットを購入しなくてはなりません。ヨドバシカメラに行って見てみたのですが、絨毯の色と柄が気に入りませんでした。失意のまま手ぶらで家に帰りました。でも、ふとひらめきました。「インターネット通販という手があるぢゃないか!」

  さっそくヨドバシ・ドット・コムにアクセスしたら、店頭で売られているものより、品揃えがはるかに充実していました。そこで気に入った色と値段(安いの)、そして「在庫あり」で「24時間以内に発送」のやつを選んでさっそく注文しました。前の晩遅くに注文したのですが、なんとあくる日の午前中に品物が届いたのです。やるなやヨドバシ、と感心しました。

  で、今はぬくぬくと過ごしています。絨毯は明るいクリーム色で、フリースみたいな生地で気持ちいいです。もしお金持ちになれたら、床暖房にしたいなあ。

  壊れたホット・カーペットは粗大ゴミに出すことにしました。区の粗大ゴミ回収受付センターに電話して、ホット・カーペット本体と上に敷く絨毯(←これも10数年物)を処分したいと相談したら、電話の向こうのおばさんがとんでもないことを言いました。

  おばさん「絨毯は何畳ですか?」 私「えーと・・・3畳だと思います。」 そしたらおばさん、すごいセリフを吐きました。「絨毯だったら、細かく切り刻めば、不燃ごみとして出すことができますよ。」

  このおばさんは絨毯というものを見たことがないのか、それともよっぽど広いお屋敷に住んでいて、3畳なんて取るに足らない小ささだ、と思っているのでしょうか。私は恐る恐る言いました。「あの、でも、絨毯だから、厚みがあるし・・・。」 するとおばさんはこう返しました。「ああ、厚みがあるのね。」 厚みのない絨毯がこの世には存在するのでしょうか。少なくとも私は見たことがありません。

  結局、「敷物2枚」(ホット・カーペット本体と上に敷く絨毯)ということで、1枚200円の「有料粗大ごみ処理券」というシールを2枚コンビニで買って、捨てるカーペットにそれぞれ貼り付け、粗大ゴミの回収日にシールを貼り付けたカーペット2枚を玄関先に出しておくように、と教えてもらいました。

  受付のおばさんは、絨毯を切り刻んで不燃ごみとして出せば、お金がかからないよ、と親切心で教えてくれたのでしょう。

  でもね、3畳の絨毯って、けっこう大きいんですよ。それに、ホット・カーペット本体には、中に硬い線みたいなのがいっぱい入っているでしょう。ためしにさっき、100円ショップで買った普通のはさみで、捨てるカーペットを切ってみました。

  そしたら、切れることは切れるんですが、かなり力が要ります(一度では刃が入らない)。3畳のカーペット2枚を細かく切り刻むには、いったいどのくらいの労力と時間が必要なのでしょうか。そんな時間と手間がかかるんだったら、たとえ2枚で合計400円かかっても、粗大ゴミとして回収してもらったほうがぜんぜん楽に決まってます。

  あのおばさんは、「古くてガタがきているタンスを粗大ゴミに出したいんですけど」とか聞かれたら、「ノコギリで細かく切れば可燃ゴミとして出せますよ」とかアドバイスするのかな。
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アダムTシャツ発売

  アダム・クーパーTシャツ(略してアダT)の販売が公式サイトで始まりました(詳しくは公式サイトの“Shop”を見てね!)。

  アダTは、前身ごろにアダムの目と前髪のどアップ写真、後ろ身ごろに“Adam Cooper”という文字がプリントされている(?)ようです。価格は17ポンドです。「洗濯機で洗濯可、ただし模様部分にはアイロンは当てないでね」とのことです。たぶんアイロンを当てたら焦げて融けちゃうんでしょう。

  言いたかないけど、この程度のデザインのTシャツなら、高田馬場にある早稲田大学付近の店で、17ポンド(約4,050円:11月8日現在)よりもっと安いコストで作れそうです。

  それより私が気になるのは、公式サイトに載っている写真でアダTを着ている男性(と女性)は誰なのか、ということです。

  最初に見た瞬間には、てっきりクーパー君だと思ってしまい、ひええ、クーパー君、“Imagine This”でのストレスのせいか、はたまた目先の仕事が決まっていない心労のゆえにか、こんなにハゲちゃってかわいそうに、と目がうるみました。でも、よく見たらクーパー君とは全くの別人のようです。サイモン兄ちゃんかしら?とりあえずクーパー君がハゲてなくて安心しました(別にハゲてもいいけどね。ヅラかぶればいいんだし)。

  でもこれ、どーするかな。買うかな。自分の好きなクーパー君の写真を選んで、自前で作ったほうがよほどいいのでは、と思わないこともないのですが・・・。てか、私は、クーパー君のカレンダーとかポストカードとか写真とかは好きですが、Tシャツのたぐいにはほとんど興味がないんですよねえ。

  たとえ買ったとしても、こんな恥ずい(←ごめん)Tシャツをどこで着ればいいのでしょう。しかももうすぐ冬なのに。クーパー君が再来日した暁に、ファンが一斉にこのアダTを着てお出迎えすればいいのでしょうか。 
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紅葉前線

  先週末から今日まで帰省していました。いちばんの目的は家出して帰ってきた猫に会うことでした。早く抱っこしてたくさんぶっちゅ(キス)してやりたかったのです。

  帰った日だけは「お客様」扱いで、母はごちそうでもてなしてくれました。メニューは、

  ・甘海老の味噌汁
  ・鯛の煮付け
  ・マグロとヒラメのお刺身
  ・五目御飯

でした。なんだか既視感がありましたが、気のせいだと思うことにしました。

  兄は自分の誕生日(10月末)に買ったケーキを私のために2個とっておいてくれました。イチゴショートとチーズケーキです。これも既視感がありました。兄の誕生日がいつだったか、細かい日づけは深く考えないことにして、帰省したその日に急いで2個たいらげました。チーズケーキは大丈夫でしたが、イチゴショートは相当ヤバい味がしました。一瞬覚悟を決めましたが、私の胃腸のほうが強かったようです。

  猫は平然とした顔で家にいました。私の目の前に来るとお腹を見せて寝転がり、そのままぐりんぐりんと体をくねらせました。猫なりの歓迎の挨拶らしいです。私は猫のほっぺたやアゴをくすぐりながら、猫のお腹に顔をうずめました(←いつかやってみたかった)。やわらかくて温かくて、ぶにん、という弾力がありました。この子が帰ってきてくれて本当によかった、としみじみ思いました。

  9月から忙しい日々が続いたので、寝て食べて飲んでマンガを読んで過ごしました。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の文庫版(全17巻)を全部買って読破しました。30年以上も前の作品なのに、今読んでもまったく違和感がありません(医療関係者の方々にはおありかもしれませんが)。

  変な感想でしょうが、手塚治虫は言語感覚にも優れた人だったのではないかと思いました。主人公のブラック・ジャックは、その場その場に合わせて言葉づかいを適切に変えてしゃべっています。普段は「俺」、「てめえ」、「きさま」と口が悪いですが、医者としての権威を示さなければならないときには「私」、「君」、「あなた」、「諸君」と硬い言葉で話します。もちろん現実の人間はみなそうしています。でも、当時のマンガでは、こうした当たり前のことにも、あまり注意が払われていなかったのではないかと思います。

  日曜日には山へ紅葉を見に行きました。残念ながら、今年の紅葉は早かったらしくて、すでに盛りを過ぎてしまい、また前日の秋雨のせいもあってか、葉はほとんど落ちていたか色褪せていました。でも車で山を登っている最中、森林の向こうに青く佇む山が見えました。山頂は冠雪していました。地元では有名な山で、私もこの山にはなぜか神秘的なものを感じて強く惹かれます。

  山の中のホテルにあるレストランで昼食をとりました。値段が高い割にはあまりおいしくなかったです。奮発してステーキ・セットを頼みました。スープは「うーん、ス○ャータの業務用だわね」な味だったし、ステーキは厚みがないし、サラダはちょっぴりのレタスとオニオンにこれまた業務用セパレート・ドレッシングをかけたっぽいし、ケーキは可もなく不可もない普通のケーキだったし、コーヒーと紅茶はセルフ・サービスだったし、ウェイトレスやボーイは愛想がなかったし(←北京の人々をみならえ)、近場に競争相手がない食べ物屋が陥りがちな、堕落した状態になっていました。連れてきてくれた母に不満を言うのは憚られましたが、それでも悪口が言いたかったので、私が勘定を払いました。

  帰り道、私は「連れてきてもらってこんなことを言うのはなんだけど」と切り出し、あのホテルのレストランの料理は値段に見合わないと思う、と言いました。すると母親も「お母さんもそう思った。これなら近所の○○○○(レストランの名前)のほうがずっといい、って」と答えました。辺鄙なところにある競争相手のない食べ物屋には気をつけろ、という意見で私たちは一致しました。

  東京に戻る前の晩、兄は「これ東京に持ってけ」と、ポテトチップス、チョコレート、フルーツ・ジュースをくれました。私と兄は毎晩一緒にビールを飲んでいて、兄はそのためにつまみになるお菓子を毎日買ってきてくれていました。

  兄はずっと変わらないのだろうな、と私は思っていました。でも、ゆっくりと成長しているようなのです。兄の実際の年齢は40代後半ですが、今は小学校低学年、あるいは3年生くらいになっているかもしれません。以前よりも明らかに、兄は私と意思の疎通ができるようになっています。また時が経てば、もっと話が通じるようになるのかもしれません。個人差はあるでしょうが、自閉症は絶望的な障害とはいえないのではないか、と初めて感じました。

  帰りの新幹線、角館、田沢湖から盛岡へ「山抜け」する際の山の風景はいつ見てもすばらしいです。今回は紅葉を堪能しました。やはり大方の山の紅葉はもう盛りを過ぎていましたが、山によってはまだ色鮮やかな紅葉を見ることができました。緑の木々の波が連なる中に、ひときわ鮮やかな明るい朱色の葉を輝かせている木を見つけました。濃い緑の中で、その木の紅葉はまるで炎のように見えました。   
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