よく見りゃ似てるこの二人(復活)



   現在のディエゴ・マラドーナと晩年の勝 新太郎


  顔も似てるが過去にやったことも…フガフガ(以下自粛)
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新国立劇場バレエ団『ジゼル』(2月20、22日)-1


 『ジゼル』全二幕(於新国立劇場オペラパレス)

  音楽:アドルフ・アダン
  振付:ジャン・コラリ、ジュール・ペロー、マリウス・プティパ

  改訂振付:コンスタンチン・セルゲーエフ
  美術:ヴャチェスラフ・オークネフ
  照明:沢田 祐二

  上演指導:デズモンド・ケリー

  演奏:東京交響楽団
  指揮:井田勝大


  ジゼル:ダリア・クリメントヴァ(イングリッシュ・ナショナル・バレエ)
  アルベルト(アルブレヒト):ワディム・ムンタギロフ(イングリッシュ・ナショナル・バレエ)

  ハンス(ヒラリオン):古川和則

  クールランド公爵:マイレン・トレウバエフ
  バチルド(アルベルトの婚約者):楠元郁子
  ウィルフリード(アルベルトの従者):輪島拓也
  ベルタ(ジゼルの母親):堀岡美香

  村人(ペザント)のパ・ド・ドゥ:米沢 唯、福田圭吾(20日)、寺田亜沙子、江本 拓(22日)

  ミルタ:堀口 純

  ドゥ・ウィリ:丸尾孝子(モンナ、第1のソロ)、厚木三杏(ジュリマ、第2のソロ)


  『ジゼル』は『白鳥の湖』と並んで、これを上演するバレエ団の数だけ版があるといってよい作品です。どのバレエ団も演出に苦心しているのが、およそ1時間近くもある第一幕でしょう。

  第一幕は踊りなしのストーリー進行がメインです。しかも物語にさほど起伏がなく単調で、最後のジゼルの「狂乱の場」以外には、ドラマティックな盛り上がりがありません。踊りの見せ場はジゼルのソロと村人の踊りだけです。この長い第一幕を、どうやって観客が退屈しないよう面白く、かつ分かりやすく演出するかという点に、みなさん苦労していると思います。

  この点を細かく工夫しまくっているのが、英国ロイヤル・バレエ団も採用しているピーター・ライト版です。アルブレヒト(アルベルト)が貴族であること、ヒラリオン(ハンス)がアルブレヒトの正体に気づく過程を、演技によって分かりやすく説明しています(K-Ballet Companyの熊川哲也さんの演出は、ピーター・ライト版の影響を強く受けているように思います)。

  また、ピーター・ライト版は、ジゼルは心臓発作で死んだのではなく自殺したと解釈しています。だから、キリスト教では禁忌である自殺を遂げたジゼルは、森の中にひっそりと葬られたのだ、と第二幕につなげています。

  更に、ウィリたちを単なる「美しい妖精」としてのみ表現するのではなく、ジゼルと同じように不慮の死を遂げた、若い女性たちの浮かばれない霊であることを強調し、ウィリたちの衣装やメイクに、美しさの中にも亡霊らしいホラー風味を持たせました。

  しかし、新国立劇場バレエ団の『ジゼル』はコンスタンチン・セルゲーエフ版で、ピーター・ライト版のように、物語に対して無理に整合性や合理性を持たせるようなことはしておらず、基本的に踊りだけで見せるような演出です。

  新国立劇場バレエ団のオフィシャル・ブログによると、「ステージングをしたデズモンド・ケリーが、今回『ジゼル』の指導にあたっています。デヴィッド・ビントレーから、この『ジゼル』公演をよりドラマ性の高いものにしてほしいと依頼され、招かれました」とのことです。

  舞台装置や演出は変えられないわけですから、「ドラマ性の高いもの」にできるかどうかは、ダンサー個々の演技力にかかっていたわけです。主な登場人物に限っていうと、ジゼル役のダリア・クリメントヴァ、ハンス役の古川和則さん、バチルド姫役の楠元郁子さん、ミルタ役の堀口純さんは、ビントリーの要求に充分に応えていたと思います。

  今回、『ジゼル』を観て思ったのは、とりわけ第一幕では本来、マイムによる演技が非常に重要な役割を果たしていたのだろうということでした。旧ソ連系の『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』ではマイムが徹底的に削除されています。おそらく、この『ジゼル』も同じ過程をたどったのでしょう。

  しかし、マイムが他作品に比べて異常に多い『ジゼル』で、マイムをすべて削除すると、物語がまるで分からなくなってしまいます。そのせいか、このセルゲーエフ版では第一幕、第二幕ともに中途半端にマイムが残されています。マイムが削除された部分を普通の演技で埋めた結果、妙な「間」が空いてしまい、物語の流れが断ち切られてしまっています。もっとも、これは他のほとんどの版も同じことですが。

  たとえば、第一幕、ジゼルの母であるベルタがジゼルに踊らないよう戒めるために、ウィリの伝説を語るマイム、バチルド姫がジゼルを初めて見て、ジゼルの美しさに感嘆して色々と問いかけ、ジゼルがそれにつぶさに答えるマイムなどです。前者は全面削除、後者は部分的に残しています。

  ベルタのマイムは第二幕への伏線として非常に重要なんですが、このマイムが削除されているので、ベルタ役自体に重みがなくなってしまいました。このマイムはピーター・ライト版でも削除されています(←すみません、ライト版ではベルタのマイムが残っています。ライト版を上演した日本のバレエ団が削除したようです)。キューバ国立バレエ団の『ジゼル』では残っているそうです。

  マイム談義はさておき、さすがに第二幕は改変することができないものの、第一幕は版によって演出、踊りの構成、形式、振付に改訂が施されています。ジゼルとアルベルトとの踊り、ジゼルの2つのソロはもちろん固定化してますが、村人(ペザント)たちの踊りはバレエ団によってかなり違います。

  このセルゲーエフ版では、かなり長い村人のパ・ド・ドゥが踊られます。二人での踊り、男女それぞれのヴァリエーション、それから男女が再びソロを踊って、最後に二人で踊って終わり、という構成でした。これは他の版でもあるのでしょうか?

  20日に踊った米沢唯さんはさすがのすばらしさでした。相手役だった福田圭吾さんは、テクニックは見事なものでしたが、手足が伸びきっていないように見えるときがありました。22日に踊った寺田亜沙子さんと江本拓さんは、普通に良かったと思います。

  個人的には、このパ・ド・ドゥは長すぎるし、物語の中でどういった役割を果たしているのか分からないので(といっても、踊りそのものを見せる以外に役割などないことは分かります)、このパ・ド・ドゥだけが物語の中で浮いてしまっていた印象です。これで物語の前後が断ち切られます。

  踊りそのもので勝負するなら、この長いパ・ド・ドゥにはすべて、プリンシパルのダンサーをキャスティングしたほうがよいと思いました。プリンシパルが脇役や群舞を踊るのは珍しいことではないですから。

  ペザントの長すぎるパ・ド・ドゥ以外には、このセルゲーエフ版の構成に特に不満はありません。『ジゼル』の特に第一幕は、どう工夫しようとしても工夫のしようがないです。

  (その2に続きます。)


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ドバイ免税テニス選手権 ロジャー・フェデラー総括-1


  新国立劇場バレエ団『ジゼル』の詳細な感想(=相変わらず異様に長たらしくて粘着でくどくてイタい感想)は後で書きます。とりあえずテニスネタでよろぴくっす。

  大会名がヘン?いいじゃん。"Dubai Duty Free Tennis Championships"だもん。「ドバイ免税テニス選手権」じゃん。ドバイはロンドンでスキミング&偽造された、私のクレジット・カードが不正使用された思い出深い(行ったことないけど)土地である。


 1回戦 対 マレク・ジャズィリ(Malek Jaziri、チュニジア)

   5-7、6-0、6-2(←だから何なんだよこのスコアはよ)

  先週、フェデラーは理解不能な行動をとった。母リネットとともにいきなり南アフリカのリンポポを訪問し、「ロジャー・フェデラー基金」が支援している、貧困層の子どもたちの就学前教育(幼稚園)プロジェクトの視察に自ら赴いたのである(そこで子どもたち相手に絵本を使って様々な球技を説明した際、「おぢさんはクリケットはできないけれど、テニスならほんのちょっとだけできるよぉ」と言ったのがファンに大ウケしている)。

  試合がない期間が2週間とか3週間とかならまだ分かるが、前の大会(ABN AMRO World Tennis Tournament)と今回の大会の間隔は1週間しかなかったのである。それなのに、わざわざ南アフリカまで行って慈善活動。ポイント稼ぎにガツガツしてる状態なら、こういうことは普通やらんだろう。

  ちなみに、フェデラーがアフリカの子どもたちと一緒にいる映像を観ると、フェデラーが小さな子どもの扱いに慣れているのがよく分かって面白い。

  アフリカのかわいらしい子どもたちと交流してなごんだ、優しい父親モードのままで試合に臨んだせいか、あるいは、この日は風が強くて意外に蒸し暑かったらしいせいか、第1セットのフェデラーは「やる気あんのかおっさん」と言いたくなるほどのだれっぷり。最後のサービス・ゲームをあっさりブレークされ、第1セットを取られてしまった。

  ジャズィリは若く見えるが29歳、現在の世界ランキングは128位。プロ転向は2001年で、フェデラーと活動時期がほぼかぶってるにも関わらず、両者の対戦は今回がはじめてだという。この大会にはワイルドカード(主催者推薦特別枠)で出場した。

  ジャズィリのここ数年のランキングは乱高下はしていない。むしろ緩やかだけど上がっている。たぶん、ずっと下部大会ばかりを回っていた、大きな大会では予選落ちし続けていた、資金不足で大きな大会にずっと出られなかった、といった理由で、フェデラーと対戦する機会がなかったのだろう。

  フェデラーは第1セットを先取されて、ようやく「アフリカぼけ」が治ったらしい。大して良いプレーもしなかったものの、第2、第3セットは手早く片づけて勝った。第1セットは45分くらい、第2、第3セットは45分くらい、合計で1時間半もかかってしまった。こんなことは書きたくないが、この調子だと優勝できるとは思えない。

  しかし、今日のフェデラーは苛立ったり、がっかりしたりする様子はなく、またエキサイトしたり、嬉しがったりする様子もなく、いったい何を考えているのか、いつにもましてまったく分からなかった。

  フェデラーは今シーズン、あんまりランキングとか優勝とかにこだわるつもりはないように思える。今シーズンは何かの調整期間に充てているのだろうか?


 2回戦 対 マルセル・グラノリェルス(Marcel Granollers、スペイン)

   6-3、6-4

  1回戦、対ジャズィリ戦でのフェデラーの面妖な戦いぶりから、フェデラーが今日負けても驚かんわ、と思っていた。1回戦でフェデラーが第1セットを落としたことは大きな話題になっているようで、1回戦の試合後、2回戦の試合前とも、実況中継が話していたのはそのことばかり。セットを落とした程度で大騒ぎになる選手はフェデラーぐらいだろう。

  解説者が原因として指摘していたのはフェデラーのメンタル面だった。テニスのみに集中できるかどうかが鍵だとかなんとか言っていた。

  対戦相手であるGranollersの日本語表記は一定してない。実況中継では「グラノラルス」と聞こえた。正式名はMarcel Granollers-Pujolらしい。Marcel、Pujol、フランス系かな。

  グラノリェルスは長身で、ビッグ・サーブが持ち味のようだった(といっても200数キロ台だけど)。サーブをするときのポーズに特徴がある。手足がやたら長い。バレエ・ダンサーだったら王子になれるかも。あとは、横のラインぎりぎりに突き刺さるかのようなフォアハンドが見事だった。

  フェデラーは1回戦での不可解な試合内容から一転、今日は普通に強かった。典型的な序盤戦でのフェデラーのプレーだった。フォアハンドは置いといて、特に目立ったのは、バックハンドの鋭いリターンとネット・プレー、ラインのかなり外側から打ち返して相手コートのラインの内側に入れたリターン、それから、フェデラーならではの、「反射的に思わずこう打ったら何でか分かんないけどウィナーになっちゃった」的変則技が多く見られた。

  観客はお金を払ってチケットを買って、時間を割いて観に来てくれている。1回戦みたいな試合はいけないと思う。テニスはスポーツだけど、興行でもあるんだから。ほとんどの選手は、自分が勝つことで精一杯で、観客のことを考える余裕はないだろう。今日のフェデラーは観客を楽しませるという義務もちゃんと果たした。

  今日もフェデラーは感情をまったく見せなかった。試合中もひたすら無言。でも、ひそかに機嫌はまあまあ良かったらしい。ボールをサッカーみたいに背中で受け止めたり、アウトのボールを股抜きショットで返したりして、無表情で遊んでいた。また、ミスをした直後に、「おっかしいな~、こんな感じかな~?」的に確かめるように素振りをしてもいて、やっといつものフェデラーに戻っていた。

  でも、これから相手がどんどん強くなってくるから、試合ごとに、またセットごとに好不調の波が激しいプレーをするのでは危ないよね。それがフェデラーの面白いところでもあるんだけど。


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新国立劇場バレエ団『ジゼル』(2月22日)


  またしてもダリア・クリメントヴァとワディム・ムンタギロフ主演の日を観に行きました。今回のチャンスは絶対に逃したくありませんでしたからね。

  思ったとおり、今日の公演のほうが、クリメントヴァもムンタギロフもリラックスしていたようでした。特にムンタギロフは、20日の公演では演技とパートナリングに少し硬さが見られましたが、今日は演技にも熱が入っていて、パートナリングもすばらしかったです。

  クリメントヴァとムンタギロフが、なぜマーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフになぞらえられるのか、なんとなく分かったような気がしました。年齢差の問題だけではないようです。

  この二人に共通しているのは、単独では今ひとつその魅力を発揮しきれないことです。クリメントヴァはおそらく、メンタルが少し弱いところがあるのだと思います。それが踊り、とりわけテクニックの面での不安定さとして出てしまうときがあるようです。

  一方、ムンタギロフは、確かにイケメンで長身でスタイルが良くてテクニックもすばらしいんですが、前の記事にも書いたように、演技力や表現力はまだまだです。更に、あれほど容姿と能力とに恵まれている割には没個性というか、印象に残らない感じです。引き合いに出して申し訳ないんですが、昔のロバート・テューズリー(念押し:10数年くらい昔のテューズリーです)とよく似ています。

  ところが、クリメントヴァとムンタギロフが一緒に踊ると、互いが互いの足りない点を補うばかりか、互いの長所が相乗効果を起こし、実に自然というかしっくりくるというか、いわゆる「完璧なパートナーシップ」が発揮される見事な踊りになります。踊りというより、舞台での物語の世界がリアルになるのです。

  先日(20日)の公演での第二幕、ジゼルとアルベルト(アルブレヒト)のパ・ド・ドゥが踊られている間、客席全体に張りつめていた緊張感も物凄かったですが、今日の第二幕は更に輪をかけて凄かったです。空気までもがシーンと静まり返り、青白い舞台の上で踊るクリメントヴァとムンタギロフに、観客が集中して見入っているのが分かりました。

  考えてみれば、新国立劇場バレエ団が『ジゼル』を上演するのは7年ぶり(2006年以来)というのは不思議な話です。『ジゼル』ほどこのバレエ団にぴったりな演目はないように思えるからです。芸術監督であったデヴィッド・ビントリーの古典全幕物嫌いが反映されたのでしょうか。

  まだ今回の『ジゼル』公演は終わっていませんが、今回の『ジゼル』上演は大成功といっていいでしょう。チケットの売り上げの話じゃなくて、舞台の質が非常に高いこと、そして、バレエの客層の裾野を大きく広げる結果になったことで。

  すばらしかったのは、クリメントヴァとムンタギロフだけではありません。新国立劇場バレエ団のダンサーみながすばらしかったです。群舞の見事さは相変わらずで、第一幕の村人たちの踊りは小気味よいほどに揃っていました。特に男子の踊りのキレの良さが目立ちました。

  第二幕のウィリの群舞は、ゾッとするというか鳥肌が立つというか。美しいけど怖い。怖いけど美しい。何を考えているのか分からない、容赦ない冷酷な精霊たちでした。終演後、『ジゼル』を初めて観たらしい観客の方々が、「亡霊っていうから怖いのかと思ったけど、怖いけどきれいだった」と話していたのが聞こえてきました。

  ハンス(ヒラリオン)役の古川和則さんは大熱演でした。ヒラリオンというと、とかく粗野な乱暴者という悪役に終わりがちですが、古川さんのハンスはよかったですよ。一見するとがさつそうだけど、ジゼルのために野の花を摘んでくるという優しさを持っています(←他の版では鴨とかの獲物だったような?)。

  でも、その花束をジゼルに気づいてもらえず、ほうっておかれたままの花束を前に落胆してうなだれ、悔しそうな、悲しそうな表情で投げ捨てるのがかわいそうでした。また、自分がジゼルにアルベルトの正体を暴露したことで、愛するジゼルを死に追いやってしまい、後悔して地面に突っ伏して泣きじゃくる姿にはグッときました。

  古典作品では、悪役とされるキャラクターが、よく考えるとまともなことがけっこうあります。『ラ・バヤデール』の大僧正とか、『白鳥の湖』のロットバルトとか。ハンスもそうです。

  だって、アルベルトはジゼルをだましてるわけじゃん。ジゼルは庶民なんだから、貴族であるアルベルトの正妻になれるわけないし、また貴族とはいえ、他の男(アルベルト)と付き合ってたことが村じゅうにバレバレな以上、いいとこに嫁入りもできない。ハンスはそれをジゼルに分からせようとしたんでしょう。古川さんのハンスからは、嫉妬に駆られてというより、アルベルトの卑劣さに怒ってという雰囲気が伝わってきました。

  あ、そうそう、第一幕後の休憩時間に、若い女の子たちが、「あいつ(アルベルト)、(ジゼルとバチルド姫とを)二股かけてたんだよね?マジサイテーじゃね?」とマジ興奮気味に話してて、私はマジそのとおり!と心の中で深くうなずきました。

  楠元郁子さんのバチルド姫も新鮮でした。鷹揚で高慢、というところまでは普通です。でも面白かったのが、アルベルトがジゼルと恋仲で、ジゼルに結婚の約束までしたことを知ったときのバチルド姫の態度です。

  普通はこんな感じでしょ。バチルド(ショックを受けた表情で)「違うわ、アルベルトは私の婚約者なのよ。アルベルト、あなた、なんてことをしたの!?見損なったわ!」(くるりと背を向けてクールランド公爵とともに去る。)

  ところが、楠元さんのバチルドはこんな感じ。バチルド(かすかに軽侮するかのような微笑を浮かべてジゼルを見つめ)「アルベルトは私の婚約者です。」 アルベルトは自分に結婚の約束をした、と必死に訴えるジゼルを、厳しい表情で手で制して「愚かなことを言うのもいいかげんになさい!アルベルト、あなたもお遊びはほどほどになさったら?」

  楠元さんのバチルドは、アルベルトが自分とジゼルとに二股かけてたと知っても、全然動揺しないばかりか、余裕たっぷりに微笑して気にもかけないんですね。このほうが説得力があります。アルベルトと自分は貴族、ジゼルは庶民と身分が違うし、貴族の男が村娘に戯れで手を出すのは実際によくあることだったはずですから、自分とジゼルを同列に考えて怒る必要などありません。    

  更に新鮮だったのは、堀口純さんのミルタです。これは終演後、新国立劇場のロビー、トイレ、廊下、出口、そして駅のホームで賛否両論でしたよ。

  堀口さんのミルタはね、動きがとにかく鋭い。直線的で超スピーディ。ビシッ!バシッ!という動きで、曲線や柔らかみがほとんどなし。アシュトン版『シンデレラ』の冬の精をもっと極端にした感じです。私は、20日に観たときは「大味すぎないか?」と思ったんですが、今日の公演では「これはこれでありだな」と思ったどころか、見とれさえしました。

  堀口さんの動きは極端なほどに直線的で鋭かったので、これは堀口さんが意図してそうしたのでしょう(堀口さんは『白鳥の湖』で二羽の白鳥を踊るような人です)。

  今回の堀口さんのミルタを良いと思うか良くないと思うかは、観る側の好き嫌いの問題です。正しい間違いの問題ではありません。私個人は、「私はこの役をこう表現したい」ということが伝わってくる踊りと、そういう踊りをするダンサーが好きなので、堀口さんはよくやったと思います。大体、ミルタで賛否両論が起こるなんて、それだけ観客に強い衝撃を与えたということだから、大したもんだ。

  クリメントヴァとムンタギロフの初日だった20日の客席には、明らかに主催者側が用意したのであろう「ブラボー隊」が入っていましたが、今日の観客の方々はたぶん、ほとんどがバレエをあまり観たことのない人々だったと思います。「バレエ通」の観客なら拍手するはずのシーンで拍手がまったく起こらなかったし、その逆もあり。休憩時間や終演後に聞こえてきた(つーか、盗み聞きしてた。ごみんなさい)会話でもそう察せられました。

  それでも、今日のカーテン・コールでの拍手と喝采は、ここ最近の新国立劇場バレエ団の公演では、最も大きかったのではないかなあ?「バレエの客層の裾野を大きく広げる結果になった」と上に書いたのはこのせい。

  今日のクリメントヴァとムンタギロフのパフォーマンスから、20日の公演で良い感触をつかんだんだろうな、とは思っていました。今日の公演のカーテン・コールでも盛大な拍手と喝采を送られて、クリメントヴァとムンタギロフはとても嬉しそうでした。

  東京交響楽団の演奏は今日もすばらしかったです。東京交響楽団の奏者の人たちってね、みんな真面目なんだと思いますよ。指揮の井田勝大氏も大した人です。第二幕なんて、音楽と踊りとが互いに増幅して作用して、舞台が一体化していました。観ていて、聴いていて気分が昂揚しました。文字どおりの「総合芸術」でした。


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新国立劇場バレエ団『ジゼル』(2月20日)


  イングリッシュ・ナショナル・バレエからのゲスト、ダリア・クリメントヴァとワディム・ムンタギロフが主演でした。

  つい先日、新国立劇場の公式サイトに、来日直後のクリメントヴァとムンタギロフのインタビュー映像がアップロードされましたね。クリメントヴァは緊張していたのか、声が震えて言葉少なでしたが、そのぶんムンタギロフが饒舌にしゃべっています。

  クリメントヴァ、ベテランなのに内気そうでかわいいなあ、と思ったと同時に、そんなパートナーを気遣って、頑張ってインタビューに答えている若いムンタギロフもかわいいなあ、と思いました。

  今日の舞台、日本での全幕デビューのせいか、クリメントヴァもムンタギロフも少し緊張気味のようでした。特に第一幕。

  しかし、インタビューでは震えた小さな声でしゃべっていたクリメントヴァのほうが、舞台でははるかに落ち着いており、インタビューでは冗談交じりで余裕かましていたムンタギロフが、舞台ではテンパっていた(←もう死語?)のが可笑しかったです。

  去年の「アリーナ・コジョカル・ドリーム・プロジェクト」を観たとき、クリメントヴァは舞台上で大きく見えたので、てっきり長身なのだろうと思ったのです。それが、新国立劇場公式サイトのダンサー紹介で、身長が162センチしかないと知って驚きました。クリメントヴァもまた、「舞台で背が高く見える才能」に恵まれているようです。

  ムンタギロフは見た目どおりの長身です。今日はきりりとしたメイクでした。優しげな素顔とだいぶ違います。マチュー・ガニオに少し似ていました(※あくまで個人の感想です)。

  ムンタギロフのジャンプは面白いです。開脚ジャンプでは、空中で一瞬止まります。垂直ジャンプでは、そんなに強く踏み切っているようには見えないのですが、ものすごい高さにまで上がります。筋力がかなり強いらしいです。

  第二幕、アルベルト(アルブレヒト)がミルタにいくら懇願しても許されず、必死に踊り続ける場面がありますね。私が今まで観たダンサーはすべて、かかとや爪先での細かい足技をやってました。ところが、ムンタギロフはダイナミックな回転ジャンプをやっていて、これには少し違和感を覚えました。見慣れていないからでしょうが。

  ムンタギロフはその前の場面で、ジャンプしてかかとを打ちつける技をやっています。それは細かくて見事でしたから、足技をやってやれないはずはないです。ここの場面は、どうしても足技でなくてはならない、という決まりは別にないんですね?他のアルベルト役のキャストはどうしてるのかな。
  
  あと、ムンタギロフはテクニックはすごいし、パートナリングもすばらしかったですが、演技力はまだこれからだと思いました。

  一方、クリメントヴァは作品や役柄によって、雰囲気をがらりと変えられるダンサーのようです。第一幕でのクリメントヴァは初々しくてすごくかわいかったです。

  クリメントヴァは強く印象に残るダンサーです。私は以前に何度も観たことのあるダンサーであっても、どういうメイクで、どういう表情をしていたか、記憶に残らないことがほとんどなんですが、クリメントヴァの表情ははっきり覚えています。

  第二幕でのクリメントヴァは、第一幕から一転して、母性的な雰囲気に満ちていました。包みこむような慈愛を感じました。第二幕のジゼル独特のポーズがありますが、隙がまったくないというか、あのポーズがあれほどしっくりくるダンサーは久しぶりに見ました。

  圧巻だったのはやはり第二幕でした。ジゼルとアルベルトのパ・ド・ドゥ、あんなに集中して見入ってしまったのも久しぶりです。新国立劇場バレエ団の公演には珍しく(ごめんなさい)、客席には緊張感がぴんと張りつめ、うまくいえないんですが、おしゃべりしないという以上に静まりかえっていた感じです。

  日本での全幕デビューであり、また、新国立劇場バレエ団の『ジゼル』(コンスタンチン・セルゲーエフ版)の演出に慣れないせいでしょう、今日のクリメントヴァとムンタギロフは本調子ではなかっただろうと思います。それでも彼らのパートナーシップは見事でした。

  第二幕の最後、アルベルトが延々と踊らされている最中でジゼルが現れ、アルベルトがジゼルの腰をつかんでリフトし、ジゼルがぴょんぴょんと飛び跳ねるように移動していくところ、あそこは凄かったです。クリメントヴァが本当に飛んでいるみたいでした。周囲の観客は、あるいは息を呑み、あるいは低く唸っていました。

  数年ぶりに全幕を観たせいもありますが、『ジゼル』ってすばらしい作品なんだな、と思いました。

  第二幕のウィリの群舞では、全員がかかとを着けてのアラベスクをしたまま、10秒以上も静止する箇所が2つあります。みな微動だにしませんでした。すごい。

  東京交響楽団の演奏もすばらしいの一言でした。音を外さないどころか、ちゃんと「音楽」を演奏してました。そういえば、前にも東京交響楽団の演奏に感心したことがありました(作品は忘れた)。

  今日は珍しく私の視力もよく出て、舞台がはっきり見えました。良いことづくめな公演でした。


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Whatsonstage.com Awards 2013 結果発表


  Whatsonstage.com Awards 2013 の受賞作品・受賞者が17日夜(現地時間)に発表されました(結果は こちら 。もし表示されなければ、コンテンツの"NEWS"に入り、"Full list: Winners announced of the 2013 Whatsonstage.com Awards"を選んでクリックして下さい)。

  "Singin' in the Rain"では、振付を担当したアンドリュー・ライト(Andrew Wright)が、最優秀振付家賞(Best Choreographer)を見事受賞しました。

  ミュージカル部門最優秀俳優賞(Best Actor in a Musical)にノミネートされていたアダム・クーパーは、残念ながら受賞を逃しました。同じくノミネートされていた"Singin' in the Rain"の出演者たちも、惜しくも受賞はならず。

  しかし、"Singin' in the Rain"からあれだけ大量にノミネートされただけでも、ある程度の箔は付くと思いますので、まあいいのではないかしら。

  前にも書きましたが、とりわけアダム・クーパーが"Best Actor"にノミネートされたことは重要です。「しょせんは客寄せパンダの素人芸」的な見方(←私も以前はそう思ってた)がようやくなくなって、アダム・クーパーが一個のミュージカル俳優として認められたということですから。アダムにとっては、それだけでも意義あることだと思いますよ。

  公演期間はまだ半年あります。キャスト、スタッフ、オーケストラのみなさん、どうぞ残り期間の公演を頑張って、そして楽しんで下さいませ。


  ところで、結果を見ると、アデルファイ劇場(Adelphi Theatre)で上演された『スウィーニー・トッド(Sweeney Todd)』が多く受賞しています。そんなに良いんだったら観たいなあ、と思ったら、去年の9月で上演が終了したようです。残念!  



  
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英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』再放映


  昨日の深夜(今日の未明)12:00から、NHK教育「Eテレアーカイブス」で、2010年英国ロイヤル・バレエ団日本公演『ロミオとジュリエット』(吉田都、スティーヴン・マックレー主演)が放映されました。

  2010年の年末に同チャンネルで放映された番組の再放映です。ただし、初回放映時の冒頭にあった、吉田都さんを招いてのインタビュー番組はカットされており、舞台のみの放映でした。

  前に放映されたときに録画して、もうDVDに焼いているのですが、なんとなくまた観ちゃいました。DVDだとなかなか観ないが、番組として放映されると観てしまうこの不思議。

  というより、この週末は病気療養中の猫のお見舞いのために帰省しており、実家のテレビはデカいハイビジョン用テレビなんで、画質の良い映像を大画面で観たかったんです。東京の私の部屋のテレビはいまだにブラウン管テレビです。意外と困らないっすよ。テレビ、DVD、ブルーレイなどをあまり観ないのであれば。とはいえ、インフレになる前にそろそろ買っとこう、とは思っています。

  ハイビジョンってすごいねえ(←今さら何を言ってるのか)。ダンサーたちがかいている汗の粒とかメイクとかまで細かく見えます。公演会場だった東京文化会館大ホールの紅い幕の模様まで見えたときには驚嘆しましたよ。

  ……この公演を生で観たときにも思ったけど、こうして映像で観てもあらためて思うことには、30~20年前よりもカンパニー全体の質が低下しているメジャーなバレエ団は、この英国ロイヤル・バレエ団くらいだろうと。ごく少数のスター・ダンサー、ベテランのダンサー(ラウラ・モレラとか)やシニア・アーティスト(ギャリー・エイヴィスとか)頼みになってしまっている気がします。

  ところで、先日、NBSからメールが来てたので気づいたんですが、今日は今年の7月に行なわれる、英国ロイヤル・バレエ団日本公演のチケットの一般発売初日です。その前日の夜に同バレエ団の公演が再放映されたのは、単なる偶然なんでしょーか?なワケないか。

  今年の英国ロイヤル・バレエ団日本公演の演目は、全幕物が『不思議の国のアリス』(クリストファー・ウィールドン振付)と『白鳥の湖』で、あとはガラ公演(演目未定)があるようですね。『ロミオとジュリエット』は上演されません。それに、吉田都さんはもちろん退団しているから参加しません。

  しかし、『不思議の国のアリス』と『白鳥の湖』の両方に、スティーヴン・マックレーが出演します。特に『不思議の国のアリス』は、連日出演といってもいいくらいです。

  昨夜の『ロミオとジュリエット』再放映は、「スティーヴン・マックレー推し」的意味合いがあったのかいな、と思ってしまいました。主催元のNBSは、今年の英国ロイヤル・バレエ団日本公演でのマックレーの評判次第で、来年か再来年あたりに「スティーヴン・マックレーと愉快な仲間たち」(仮)的なガラ公演を企画するつもりなんじゃないか。

  今年の英国ロイヤル・バレエ団日本公演、私は観に行くつもりでおります。しかし、どの日に観に行くかを決めるのに、キャストで選ぶのが非常に難しくて困りました。『不思議の国のアリス』は初見なのでどの日でもいいんですが、困ったのが『白鳥の湖』。

  『白鳥の湖』は4公演で、オデット/オディールとジークフリート王子はそれぞれ、アリーナ・コジョカル/ヨハン・コボー、マリアネラ・ヌニェス/ティアゴ・ソアレス、サラ・ラム/カルロス・アコスタ、ロベルタ・マルケス/スティーヴン・マックレーという4組のキャストです。

  アリーナ・コジョカルは磐石だろうし、ヨハン・コボーはジークフリート王子だったらまだ全然大丈夫だと思います。しかし、コジョカルとコボーは日本でも知名度がありますし、またどう見てもハズレがないのはこの二人ですから、チケット争奪戦になりそうです。

  困るのは、残りの3組のペアのうち2組です。2組とも、オデット/オディールとジークフリート王子のうち、片方はぜひとも観たいけど、もう片方はできるなら遠慮したいという点で共通しています。

  身長や相性などの理由で、どのバレエ団でもペアを組む相手はある程度決まっているものなんでしょうが、英国ロイヤル・バレエ団は特にその傾向が甚だしく、異様なほどにペアが固定化してしまっています。

  そのせいで、ペアを組む二人の位階を合わせる、たとえば片方がプリンシパルなら、もう片方もプリンシパルに上げたり、向いてない役を踊らせる、たとえば片方にある役を当てると、もう片方がその相手役に向いていなくてもキャスティングしたり、といったことが非常に多いように思います。

  アダム・クーパーのファンのみなさんを怒らせてしまうかもしれませんが、ロイヤル・バレエ在籍時代のアダム・クーパーがプリンシパルになれたのには、ロイヤル・バレエのこの極端な傾向も一役買ったのでしょう。つまり、クーパーをパートナーに指名してくれた、シルヴィ・ギエムやダーシー・バッセルのおかげだったんでしょうね。(あとは、どんなスタイルの踊りにも適応できる能力、演技力、振付の覚えの速さ、容姿、そして、代役を山のように押し付けても引き受ける従順さ。)

  クーパーの場合は、当時としては高かった身長(180センチ)も大きな理由だったと思います。しかし、今のロイヤル・バレエは(たぶん)男女ともみな似たり寄ったりな身長(低め~中背)なんだから、もっと柔軟なキャスティングができないのだろうか、と私はとても不思議です。

  更に不満を言えば、今度の日本公演にはゼナイダ・ヤノウスキーも(ようやく!)参加するのに、なんで彼女にオデット/オディールを踊らせないのだろう?ヤノウスキーがオデット/オディールを踊るのなら、たとえジークフリート王子がネマイア・キッシュであろうと観に行くのに。ルパート・ペネファーザーも来るみたいだから、ペネファーザーが王子でもいいんじゃないの?

  『白鳥の湖』は、私は悩みに悩んだ末(でもないけど)、コジョカル/コボーを除いた3組のうち、次にハズレがないであろうペアの日を観に行くことにしました。


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ウエスト・エンド公演 『雨に唄えば』再延長決定


  アダム・クーパーの公式サイトによると、ロンドンのパレス・シアター(Palace Theatre)で上演中の『雨に唄えば』(Singin' in the Rain)が、今年、2013年8月31日まで延長して上演されることが決定したようです。すげえ(嘆)。

  "Booking to 31st August 2013"という表記になっているので、8月31日以後も更に延長される可能性もないとはいえません。

  主なキャストの変更は行なわれないようです。これもすげーな

  
  アダム・クーパー(ドン・ロックウッド)
  スカーレット・ストラーレン(キャシー・セルドン)
  ダニエル・クロスリー(コズモ・ブラウン)
  キャサリン・キングスリー(リナ・ラモント)
  マイケル・ブランドン(RF シンプソン)
  サンドラ・ディキンソン(ドーラ・ベイリー/ミス・ディンズモア)


  ウエスト・エンド公演は去年の2月に始まりました。ちょうど1年です。それが更に半年伸びたか。みんな元気だねえ。てか、ダブル・キャストでもない、全面的なキャスト・チェンジ(多くは半年ごとに行なわれる)もしないで、基本的に同一キャストで1年半上演し続けるって、普通あるもんなんですか!?

  でも、くり返しになりますが、アダム・クーパーに関しては分かります。ドン・ロックウッドの踊りは、明らかにアダム・クーパーの個性と能力に合わせて振り付けられています。クーパーのアンダー・スタディ(緊急時の代役)はもちろんいるものの、基本的にアダム・クーパーがドン・ロックウッドでないと、あの舞台はあれほど盛り上がらないと思います。

  一気に半年も延長って、それだけ延長してもチケットは売れるっていう目算があるのね。それほど人気があるのか。私が観に行ったのは去年の3月でしたが、まだまだ大盛況らしい。

  アダム・クーパーは、『雨に唄えば』が上演される間は出演し続けたいと強く希望している、とアダム・クーパーの公式サイトから回答をもらったことがあります。出ずっぱりでタフな役だし、週8公演と上演スケジュールもきついから、体のほうが心配ですが、彼自身がこの舞台を楽しみ、出演し続けたいと望んでいるのなら大丈夫でしょう。人間、好きなことはいくらでもできるものです。ちょくちょく休みは取るでしょうけれどね。

  2月中にロンドンにまた行きたいと思っていましたが、諸事情で叶いませんでした。だから、このニュースを知って本当に嬉しい!この8月末まで上演が伸びたのなら、まだなんとか間に合うでしょう。あきらめないで頑張るぞ!(貯金を…)

  ひゃっほー!!!!!


  追記: "Singin' in the Rain"公式サイト にアップされた宣伝ビデオ、すごく良いですよ。心が躍る。パレス・シアターのあの舞台の雰囲気が、感覚的によみがえってきます。You Tubeにはまだ多くの公式な"Singin' in the Rain"宣伝映像があります("Singin' in the Rain"で検索)。観てね


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中国外務省報道官


  ここ数日、日本を騒がせている「中国海軍艦船による自衛隊の護衛艦に対する火器管制レーダー照射」事件ですが、2月6日に行なわれた中国外交部(外務省にあたる)の記者会見の映像を観てびっくりしました。

  外交部には発言人(報道官にあたる)が数人いて、彼らが会見で中国外交部の公式見解を発表し、また記者の質問に答えます。外交部の発言人はみな外交官で、海外の大使館、総領事館での駐在・実務経験を経て、発言人に就任するようです。

  ちょっと前に日本でも有名になったのが、姜瑜(姜瑜)という報道官です。眼鏡をかけた、年のころは50代くらいの女性です。毅然とした冷静な態度ときびきびしたよどみない口調で話し、臨機応変かつ当意即妙に記者の質問に答えていたのが印象的でした。

  次に有名になったのが、洪磊(洪磊、石を三つ重ねる)という若い男性の報道官です。やはり眼鏡をかけ、髪をきっちりなでつけ、白皙でいかにも超エリートといった風情。ついでにイケメン。彼もやはり冷静な態度とポーカーフェイスで、舌鋒鋭く切り返す姿がカッコよかったです。

  ところが、今回の事件で専ら会見に出ているのは、华春莹(華春瑩、「火」を二つ並べた下にわかんむり、その下に「玉」)という女性の報道官です。彼女は去年から外交部の報道官に着任した新人(といってもアラフォーで、洪磊とは同い年)だそうです。

  私が理解に苦しむのは、今回の事件に関する質問が記者から出ると分かりきってる会見に、なぜ新人報道官を出したのかということです。実際、2月6日の会見の映像には驚きました。外交部の発言人があんなふうに言葉に詰まって沈黙し、返答に窮して動揺した表情を浮かべ、果てにあんな失言をしてしまう様子は初めて観ました。あまりにも意外だったので、つい噴き出しちゃいました。ごめんなさい。

  質問をしたのは日本人記者でした。短い映像しか放映されなかったので前後のやり取りが分かりませんが、この記者は、外交部の痛いところを見事に衝いた質問をしました。結果、中国政府内に存在する問題、そして中国政府と軍との間に存在する問題を浮き彫りにした、あるいは、問題が存在することを中国自身に認めさせることになりました。


  记者:(你的?)这个意思是,日方跟外交部交涉之前,外交部不知道这次事情,是这个意思吗?(それはつまり、日本側が中国外交部に話を持ち出すまで、外交部は今回の件〔中国海軍による火器管制レーダー照射〕について知らなかった、そういう意味ですか?)

  华春莹:…………。……你可以这么理解。我们也是从报道才看到有关情况的。(……〔沈黙〕……。……そのように理解して結構です。我々も報道でようやく〔今回の件の〕関連状況を知ったのです。)


  このときの华春莹の表情、沈黙、口調、そして発言は、外交部の報道官としては致命的な大失敗だったと思います。日中の軍事衝突に発展する可能性さえあった、中国海軍による重大な行動を、中国外交部は知らなかった、に止まらず、報道ではじめて知った、とまで言っちゃったんです。彼女はおそらくこの後、上部から厳しい叱責を受けたんじゃないでしょうか。

  とはいえ、彼女も気の毒でした。この質問にどう答えるかは「究極の選択」で、「知っていた」と言えば、「レーザー照射」が国家としての軍事行動だったと認めることになり、中国の国際的な立場は非常に悪くなります。しかし、「知らなかった」と言えば、中国政府が軍部をコントロールできていないことを認めることになり、中国政府の面子は丸つぶれです。

  2月7日、当の中国国防部(防衛省にあたる)も、「レーザー照射などしていない」と日本側に返答してきたそうですが、これもこう答えるしかないのです。「やった」と認めてしまうと、じゃあ誰の指示によるものかということが次の問題になります。政府の指示だった、とは言えないし、軍の独自判断だ、とも言えないし、まして、現場が勝手にやった、なんて絶対に言えません。

  そして明くる2月7日、华春莹はまた会見に臨みました。今度はあきらかに事前に準備した原稿を暗誦した、もしくは原稿を読みながらの返答でした。


  华春莹:近来,日方也人为地造作危机,制造紧张,抹中国形象。这做法与改善关系的努力是背道而驰的。(このごろ、日本側も危機と緊張状態を無理に作り出し、中国のイメージに泥を塗っている。このやり方は〔日中の〕関係改善の努力に背馳するものである。)


  不自然な区切りを入れてゆっくりと言ってましたし、こういうふうに硬い語彙、対句、四字成語を多用するのは、中国の政治家の演説や省庁の公式見解におなじみの特徴です。

  私は政治・軍事評論家じゃないので、専門的なことはまったく言えません。でも、2月6日の外交部記者会見における华春莹の表情と沈黙と発言が、今回の件が一体どういうことなのかを示しているように思えます。習近平体制、大丈夫かいな。

  それにしても、2月6日の华春莹のありえないほどぎこちない回答ぶりには、本当に驚きました。あの映像を観た瞬間、こりゃ(中国にとって)マズいな、と思ったと同時に、ロボットみたいな中国外交部の「発言人」も人間だったんだな~、と非常に興味深く感じました。

  追記:今日(2月8日)の外交部記者会見の映像もテレビで放映されていました。華報道官、今日は割と頑張ってましたね。


  华春莹:中方有关部门已经公布了有关的事件真相。日方的说法完全是无中生有。(中国側の関連機関〔国防部を指すと思われます〕がすでに関連する事件〔レーザー照射事件〕の真相を発表した。日本側の言い分は完全に捏造である。)


  でも、彼女は報道官には向いてないと個人的に思います。顔つきや声音が優しすぎるのです。性格なんでしょうが、無表情を保って口調を厳しくしても、感情が顔と声に出ちゃってます。自分が中国外交部を代表して公式見解を発表する以上、その内容に対する個人的な感情や思いを、あんなふうに顔に出してしまってはいけません。あと、華報道官はたぶん南方の出身でしょう?難癖をつけてすみませんが、南方独特の発音がちょっと多いんで、できれば矯正したほうがいいと思います。報道官なのですから。

  ところで、中国側がここまで言うのは、中国側はかな~り追い込まれているということです。国際社会が中国側のこういう言い分を信じるはずがないので、日本は冷静になろうね


  注:この記事には簡体字(中華人民共和国で使用されている、簡略化された当用漢字)を混ぜたので、文字化けしてる箇所があったら教えて下さい。


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フェデラー伝説3-5


  ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第3章(Chapter 3)その5。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  
  ・97年夏、義務教育を終えた16歳のフェデラーは、進学はせずにプロのテニス選手になることを決意する。この時点で、英語とフランス語の勉強に取り組む以外、フェデラーは完全にテニス一本に集中するようになる。


  しかし、フェデラー自身、スイス・ナショナル・テニス・センター、スイス・テニス連盟すべてが乗り気になっている中で、意外な反対者が現れる。フェデラーの両親、ロベルトとリネットである。彼らの危惧は金銭的な問題にあった。


  ・フェデラーの両親は、息子が選んだ道は不確実でリスクが高いと考えた。父のロベルトが「息子のそれまでの過程には大きな敬意を表しますし、みなさんもロジャーがどんなに才能に恵まれているか、ということを私たちに話してくれましたが」と言えば、
  母のリネットも「それでも、私たちは行く末というものを見極めたかったのです。私たちはロジャーに、『我が家には、あなたが選手生活の大半を、ずっと世界ランキング400位あたりをぶらついて過ごせるような援助をする経済的余裕はない』とはっきり言い渡しました」と述べた。

  ・結局、スイス・テニス連盟が助成金を出してくれることになり、フェデラーの両親の息子に対する経済的な援助はなんとか持ちこたえることができた。しかし、母リネットは自分の仕事を5割から8割も増やして、一家の家計を支えた。もっとも、フェデラーの選手生活を維持するための金銭的な問題は結局、長期間にわたる重大事にはならなかったのだが。

  ・ビール(ベルンに近い都市)に新しく建設されたスイス・ナショナル・テニス・センターで訓練を受けることになり、フェデラーはエキュブランでの下宿先であったクリスティーネ家を出て、親友のイヴ・アレグロとアパートをシェアして住むことになった。
  ・フェデラーは両親を通じてアパートのシェアをアレグロに申し入れた。アレグロ「これは僕にとっても経済的に魅力的な話でした。それで、ロジャーの両親と僕の両親とが一緒に部屋探しに出かけました。」

  ・16歳のフェデラーと19歳のアレグロは、2つの寝室、共同のキッチンと浴室、サッカー・グラウンドに面した小さなテラス付きのアパートに引っ越した。「僕たちはよく、テラスからサッカーの試合を眺めて実況中継をしていたものです。」

  ・アレグロは言う。「本当に楽しかった。僕のほうが手慣れていましたから、僕がもっぱら料理をしました。ロジャーが主導して料理をすることはあまりありませんでしたが、僕が頼むと、彼はいつも手伝いました。彼の部屋はいつも散らかっていて、彼が掃除をして片づけても、2日後には元のカオス状態に戻っていました。」


  ここで、料理ができない、片づけられない、とフェデラーは家事能力ゼロだったことがバクロ(笑)される。徹底的に自分の好きなことしかやらない、フェデラーみたいな男子は大体こんなもんであろう。

  イヴ・アレグロについては、ATP公式サイトのプロフィールを見ると〝Inactive"と表記されている。シングルスはすでに2008年に、ダブルスは2012年に現役を引退したようである。自己最高世界ランキング(シングルス)は32位(2004年)で、かなりいいとこまで行ったといえる。

  しかし、10代のアレグロとフェデラーが二人でテラスに並んで、目の前のサッカー・グラウンドで行なわれている試合を眺めている光景を想像すると、ほのぼのした思いになるけれど、なぜかもの寂しい気持ちにもなります。人間、この年齢のころが人生の中でいちばん楽しい時期でしょうね。成功者と、そうではない者との区別がついていないこの時期が。


  ・駆け出しのプロテニス選手であるアレグロとフェデラーは、完全にテニス一筋であった。彼らの娯楽といえば、テレビを観るかゲームをやるかしかなかった。「ロジャーはパーティーの類にまったく興味がありませんでした(注:欧米のガキはパーティーでどんちゃん騒ぎをし、飲酒喫煙〔&いけないお薬〕で粋がるのがお約束の通過儀礼である)。」
  ・「僕はかつて彼がアルコールを口にしたと読んだことがありますが、でもそんなことはほとんどありませんでした。」 アレグロによれば、フェデラーはゲームでよく夜更かしをする以外は、外出もしなければ夜遊びもしなかったという。

  ・やがて、フェデラーの子ども時代の大親友、マルコ・キウディネッリ(Marco Chiudinelli、2000年プロ転向)も、訓練を受けるためにビールに引っ越してきた。キウディネッリはもちろん、フェデラーと再び親しく付き合うことになった。


  キウディネッリも、アレグロやフェデラーと同じ生活習慣と嗜好を持つ人物だった。


  ・キウディネッリは言う。「僕たちはゲームの世界の住人でした。僕たちはパーティーの類に魅力を感じたことはありませんでしたし、タバコだの酒だのにも興味がありませんでした。僕たちはコート上か、さもなければプレイステーションの中にいるほうが好きでした。」


  私生活での友人関係は良好だったが、コート上でのフェデラーの性格と言動は以前と変わらなかった。陽気で気まぐれ、カッとしやすく、すぐに癇癪を爆発させた。


  ・スイス・ナショナル・テニス・センターの新人育成プログラムの管理責任者、アンネマリー・リュエック「更衣室や選手用ラウンジから、よくヨーデルのようなカン高い声や、感情を解放するかのような叫び声が聞こえてきました。ロジャーだ、と分かりました。彼は感情を手放す手段として、こうした叫び声を上げずにいられなかったのです。彼は非常にやかましかったですが、でも不愉快ではありませんでしたよ。」(←はい、フェデラーはやかましかったんですね。)

  ・しかし、フェデラーはコート上で物事がうまくいかないと不愉快になった。フェデラーの暴言は悪評高く、またしょっちゅうラケットを放り投げた。

  ・フェデラーが個人的に最悪だったと思う出来事。「テニス・センターに新しいカーテンが張られた。センターは、そのカーテンを破った者には1週間のトイレ掃除を命ずる、と言った。僕はそのカーテンを見て、あんなにぶ厚いんだから、破れるヤツなんかいるものか、と思った。」
  ・「10分後、僕はラケットを回しながら、カーテンに向かってヘリコプターみたいに投げつけた。ナイフがバターを突き抜けるみたいに、ラケットはカーテンを切り裂いた。」 その場にいた全員がプレーを止め、フェデラーを見つめた。「ええっ!?、と僕は思った。そんなばかな、悪夢だ、と。僕は荷物を持ってコートから出て行った。みんな、とりあえず僕に消えてほしかっただろうから。」

  ・カーテンを破った罰として、早起きを何よりも憎悪する少年、ロジャー・フェデラーは、丸々1週間、とんでもない早朝から起き出して、施設管理係の職員を手伝ってトイレ掃除をし、コートの整備をしなければならない破目に陥った。

  ・ちょうどこのころ、父ロベルトが勤め先のチバ製薬オーストラリア支社に転勤したのにともない、フェデラー一家はオーストラリア移住を検討していた。一家がオーストラリアの数都市を旅行してみて、オーストラリアが大いに気に入ったから、というだけの理由で(←この一家は本当に風変わりですな)。
  ・しかし結局、この計画は沙汰やみになった。一家がミュンヘンシュタインでの人間関係を捨てがたかったこと、そして、オーストラリアでも、一家の末子ロジャーがテニスのキャリアを伸ばすのに、スイスでと同じ機会を持てるとは限らなかったからである。


  もし、97年の時点で、フェデラー一家がロジャーもろともオーストラリアに移住していたら、今のロジャー・フェデラーはなかったでしょう。次章で、フェデラーはついにジュニアの世界的なトップ選手に上りつめます。しかし、ジュニアのトップは、しょせんはプロの最下層に過ぎません。フェデラーは、プロテニスの厳しさと不合理さを味わっていくことになります。


 
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フェデラー伝説3-4


  ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第3章(Chapter 3)その4。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  95年秋、スイス・ナショナル・テニス・センターの訓練生としてエキュブランに来て以来、14歳のフェデラーは八方塞がりな「地獄」の毎日を送っていた。しかし、5ヶ月が経ったころ、ある大会をきっかけにフェデラーは意欲を取り戻し、物事が順調に動き始める。


  ・95年12月、アメリカのマイアミで開催された、世界最大のジュニア大会「オレンジ・ボウル」14歳以下部門に、フェデラーは予選から参加した。フェデラーは1セットも落とすことなく予選の3試合を勝ち抜き、更に本選でも3回戦に進出した。
  ・4回戦で敗退したものの、この大会で自分がここまで頑張れたことは、フェデラーにとって極めて大きな意味を持つことになった。フェデラーは現在も「今までの中で最も重要な、世界的な大会での勝利」と呼んでいる。

  ・明けて96年の夏までに、14歳のフェデラーはスイスの国内大会の16歳以下部門で、立て続けに2回の優勝を遂げた。フェデラーが精神的に落ち着き、エキュブランでの生活に慣れていくのにともない、フェデラーの才能は順調に開花していった。15歳になる直前、フェデラーはスイス・インタークラブ(スイス国内のテニス・クラブに所属する選手が参加する一連の大会)のトップ・リーグで、予選に限りプレーすることを許可された。

  ・同年夏、フェデラーはワールド・ユース・カップ大会で、同い年のオーストラリア人選手、レイトン・ヒューイット(Lleyton Hewitt、98年プロ転向)に勝利した。


  ちなみに、著者のシュタウファーがフェデラーのプレーを初めて見て衝撃を受け、フェデラーに注目し始めたのはこのころだと思われます。


  ・その後、フェデラーはスイスで開催されたプロの下部大会に初めて参加した。15歳で、フェデラーのスイス国内ランキングは86位に上がり、スイス・テニス連盟から追加で助成金を受けられることになった。

  ・翌97年もフェデラーは快進撃を続けた。フェデラーはスイス国内のジュニア選手権18歳以下部門で、屋内大会、屋外大会の両方で優勝した。これらの優勝が、フェデラーにとっての国内大会での最後の優勝となった。フェデラーはすでに世界レベルのテニスへの挑戦に照準を合わせるようになっていた。

  ・フェデラーの先輩であるイヴ・アレグロは、フェデラーが国内のジュニア大会での最後の勝利を重ねている間に、すっかり年下のフェデラーに魅了されていた。アレグロはそのころから、フェデラーの中に眠っている可能性に気づき始めたという。「ロジャーがイタリアのプラートで開催されたジュニアの大きな国際大会からエキュブランに戻ってきたとき、僕は彼に、試合はどんなふうに進んだのか、どんなふうにプレーしたのか、根掘り葉掘り尋ねました。」

  ・「ロジャーは『うん。ありがとう。勝った』と答えただけでした。僕は、そのとおり、もちろんさ、と言いました。確かに彼は『勝った』のですが、それだけではありません。1セットも落とさなかったのです。16歳であのような大会で勝つことができるのなら、彼は本当にすばらしい選手になるに違いない、と僕は思いました。」


  私が読んでるのは英語版なんですが、イヴ・アレグロの回想部分のこのくだりは面白いでっせ。アレグロはよほど興奮して熱弁を振るってたのか、読みにくいのなんのって。文法構造的に読めないの。でも、アレグロがフェデラーのことを大好きなのはよーく伝わってきます(笑)。


  ・16歳のフェデラーがどこに向かおうとしていたのか、アレグロはその兆候を示す別のエピソードを紹介する。「僕たち訓練生が、自分の目標を書いて宣言しなくてはならなかったときがありました。みんなはこう書きました。『いつかは世界ランキング100位以内に入る。』 でも、ロジャーだけはこう書きました。『まず世界ランキング10位以内に入る。それから世界ランキング1位になる』と。」


  しかし、テニス・センター側は、そんなフェデラーの目標を大言壮語とは捉えなかったようである。センターは、フェデラーを特別強化するための準備をひそかに進めていた。


  ・このころ、スイス・ナショナル・テニス・センターはトレーニング・スタッフの拡充を行なった。新たに加わったコーチ陣の中には、バーゼルでフェデラーを教えていたピーター・カーターも含まれていた。
  ・実は、カーターが招聘されたのは、彼ならフェデラーを指導できるだろう、というセンター側の内々の意図に基づいたものだった。管理責任者のアンネマリー・リュエックは認めた。「ロジャー・フェデラーには潜在的な可能性があると私たちは考え、彼に特化したトレーニングを提供したかったのです。」 カーターの他に、フェデラーはまたスウェーデン出身で元プロテニス選手のピーター・ラングレン(Peter Lundgren)の指導も受けることになった。


  前述されていたように、カーターやラングレンがコーチに着任する以前、フェデラーはテニス・センターのコーチたちとうまくいっていませんでした。その理由はまったくもって分かりませんが、フェデラーとコーチたちとの双方に問題があったのでしょう。ボタンのかけ違いというかね。

  フェデラーは気性が激しく、癇癪持ちで、「強制されて何かをやらされることが大嫌い」な性格でした。そんなフェデラーに対して、コーチたちは「こうしなさい、ああしなさい」と指導したのでしょう。でもこれはごく普通の教え方であり、ほとんどの生徒は素直に従うような、一般的な指導方法だったのだろうと思います。

  しかしフェデラーは、コーチたちの教え方がちょっとでも一方的で強制的だと感じると、いつもの癖で徹底的に反抗して従わなかったのだと思われます。要は、フェデラーの性格とコーチたちの教え方が合わなかったのでしょう。フェデラーはバーゼルのテニス・クラブに在籍していたときも、ベテランのコーチでさえ手を焼く問題児でしたが、そのフェデラーを唯一指導できたのがピーター・カーターでした。

  カーターの現役時代のシングルスの自己最高世界ランキングは173位、ピーター・ラングレンは25位です。カーターとラングレンは、フェデラーがプロに転向した後も、フェデラーのコーチを務めることになります。現在のフェデラーのコーチであるポール・アナコーン(Paul Annacone)も、その現役時代のシングルスの自己最高世界ランキングは12位でした。アナコーンの指導の下、フェデラーは2012年ウィンブルドン選手権で優勝を果たしました。

  優秀な選手が必ずしも優秀な指導者になれるわけではない、とはよくいわれるところです(もちろん例外もあるでしょうが)。できる人間には、できない人間のことが理解できません。しかし逆に、できない人間には、できない人間のことはもちろん、できる人間のことも理解できます(もちろん例外もあるでしょうが)。

  なぜなら、先天的な才能に今ひとつ恵まれなかった人間は、後天的な努力によって、自分に先天的に足りなかったものを補おうとします。そうした努力は、問題点を見抜き、その原因を分析して理解し、適切な対処と解決の方法を考えて実行する能力を培うものだからです。

  これは、優れた実績を上げている他のコーチたちにも共通することでしょう。しかし、暴れ馬よろしく扱いの極めて難しいフェデラーと長い信頼関係を築くことができたコーチたちは特に、非常に鋭い洞察力でもってフェデラーの性格を見抜き、自分のやり方を押しつけるのではなく、フェデラーに適応した指導を柔軟にできる人々なのだろうと思うわけです。

  蛇足ながら、フェデラーはコーチ業には絶対に向いてないと思います。「技術」は教えられても、「才能」は教えることができませんから。さらにいえば、フェデラーは負ける悔しさと辛さは知っていても、努力しても報われない悔しさと辛さは、基本的に知らないでしょう。


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フェデラー伝説3-3


  ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第3章(Chapter 3)その3。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  クリスティーネ家に下宿していたころのフェデラーの生活習慣について、ホストマザーのコーネリア夫人は述べている。


  ・フェデラーは寝起きが極めて悪く、コーネリア夫人はフェデラーを起こすのに非常に苦労した。「20回も叩き起こさなくてはならないこともしょっちゅうでした。」 時間に間に合わなくなって、フェデラーはベッドからようやく起きると、脱ぎ捨ててあった服の中に飛び込み、朝食も食べず、自転車のペダルを勢いよく漕いで出かけていく、というのが日常茶飯事だった。

  ・フェデラーの食習慣は奇妙で、まず肉が食べられなかった。好きなものはスパゲティやピザ、そして大量の朝食用シリアルだった。コーネリア夫人は言う。「彼は1時間ごとにキッチンにやって来ては、ボウルいっぱいのシリアルにミルクを注いで食べていました。これは健康的ではないと私は思いましたが、彼のしたいようにさせておきました。それに、ロジャーの両親も、彼の偏った食習慣については承知していました。」


  フェデラーは後年「以前、自分はベジタリアンだった」とブログに書いていました。私はてっきり、思想的・宗教的なベジタリアンだったのだと思ったのですが(スポーツ選手にも意外と多いんでは?)、そうではなくて、ただ単に肉と魚が嫌いだっただけのようです。

  もっとも、ソーセージやハンバーガーのパテの類は食べられたそうです。しかし、それ以外の肉(ステーキなど)はまったくダメで、食事(←コース料理で、もちろんメインは肉か魚)に招待されるのが恐怖だった、とフェデラーは言っています。ソーセージやハンバーグはOKでステーキはNG、う~ん、なんか分かるような気がします。いかにも肉ー!っていう肉がダメなんじゃないかな。

  16歳でプロのテニス選手になると決めたときから、フェデラーは自分の偏食癖を矯正する努力を始め、頑張って肉を食べるようにしたそうです。一方、魚介類を食べ始めたのはなんと20代に入ってからで、タイのシーフード料理が初体験だったらしい。

  2006年、25歳で来日したときには寿司にチャレンジしていますが、「生イカを食べたときには、ベジタリアンに戻ろうと思った」とブログに書いています(好きなのはマグロ)。(ちなみにこのとき、フェデラーは当時恋人だったミルカ夫人の寿司のネタに、イタズラでワサビをたっぷり仕込むという「ワサビ爆弾事件」を起こし、ミルカ夫人を激怒させている。)


  ・このようにフェデラーには問題点が多かったが、フェデラーの両親は忍耐強く、また理解深く接した。彼らの対応にクリスティーネ夫人は感服していた。「教育的な観点から見れば、ロジャーの両親は状況に完璧に対処していました。彼の両親は、必要ならば、彼に大枠を示して助言する存在ではありましたが、しかし、彼らは息子に何かをするよう強制することは決してありませんでした。」

  ・「ロジャーの両親は息子に自分自身のなすべきことをさせ、過剰に干渉しませんでした。彼らは息子を信頼していました。ロジャーがセンターのコーチたちや学校の教師たちとの間で問題を起こしても、ロジャーの両親は彼を頭ごなしに叱りつけたりはしませんでした。両親はロジャーを諭し、こう説明しました。コーチたちや教師たちもまた、彼らのなすべき仕事を果たしているのだ、と。」


  クリスティーネ夫人は、フェデラーが学校の教師たち、スイス・ナショナル・テニス・センターのコーチたちとうまくいっていなかったことに言及しています。フェデラーが学校でどんな問題を起こしたのかですが、別に窓ガラスを割ったり、体育館の裏でタバコ吸ったり、壁にラクガキをしたりしたわけではありません。ただ単に(?)、フェデラーの度を越したやる気のない授業態度に、教師たちがブチ切れたのです。私が教師でもブチ切れたでしょう(笑)。


  ・フェデラーはエキュブランにある中等学校に通学していた。テニス・センターの新人選手育成プログラムの管理責任者であったアンネマリー・リュエックが言う。「ロジャーは学校でやることの多くに無関心でした。彼は授業の間、3時間や4時間も寝て過ごすことさえありました。そうすると、学校がセンターに電話をかけてきて、こうまくしたてました。『あのロジャー・フェデラーは、もっと学校生活に積極的にならなくてはならない。』 彼は勉強には何の野心もありませんでした。テニスのプロフェッショナルになることだけが目標だったのです。」

  ・「彼は勉強のこととなると、自制が利かないことがしばしばありました。彼はいつもこう言われていました。『まったくどうしようもないな。』 今はこれをやるんだ、と。しかし、ロジャーは不平不満を言うことも反抗することもありませんでした。私はよく連絡を取っていた彼の母親から、彼がホームシックに罹っていることを聞き出しました。」


  今のフェデラーのイメージからは、学生時代も偏差値70以上はあったんだろーな、と思えますが、実際には不真面目でやる気のない学生だったんですね。一方、フェデラーはテニス・センターでも問題を抱えており、コーチたちとの関係もうまくいっていなかったらしいです。しかし、著者のシュタウファーは詳しいことを書いていません。


  ・スイス・ナショナル・テニス・センターの新人選手育成プログラムの第1期生で、フェデラーよりも3歳年上のイヴ・アレグロ(Yves Allegro、97年プロ転向)は、フェデラーと学校との仁義なき戦い(笑)とホームシックを直に見ていた。「彼はたくさんの困難を抱えていました。言葉の問題、コーチたちとの関係の問題で、彼は本当によく泣いていたものです。」
  ・アレグロによると、フェデラーはテニスにおいては優秀で、誰もがその才能を認めたが、誰もが世界ランキング1位の選手になるとは想像していなかったという。「彼は彼の年齢のグループの中でも、一番ではありませんでしたからね。」
  ・フェデラーが抱えていた様々な困難はテニスの試合で如実に反映され、フェデラーの戦績は平々凡々たるものだった。


  ずーっと良い子一直線で順調にやってきたかのように見えるフェデラーですが、いろいろと紆余曲折があったんですね。ホームシックなんて苦労のうちに入らんわい、と私は最初こそ思いましたけど、でもそれは大人になった今だからいえることであって、ホームシックって、今まさにそれを味わっている当人にとっては、非常に辛いものなんですよ。ほんとに泣いてばかり(と自分のホームシック時代を思い出してみる)。

  まして、14歳の、しかも気性がめっさ激しくて感受性の人一倍(どころかおそらく十倍くらい)鋭い子どもだったフェデラーが、言葉のまったく通じない土地で一人やっていくのは、精神的に非常に過酷なことだったに違いありません。ちょっと思うのは、著者のシュタウファー、そしてフェデラー自身もいまだに気づいていないのかもしれませんが、この時期のフェデラーは一種の抑うつ状態にあったのかもしれません。

  性格、言葉の問題、ホームシックが、学校とテニス・センターでのやる気のなさにつながり、やる気のなさが教師やコーチたちとの関係悪化を引き起こし、学校でもテニスの試合でも成績がふるわない、というふうに、このころはすべてが悪循環だったのでしょう。

 
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フェデラー伝説3-2


  すみません、バレエネタやアダム・クーパーのネタが見当たらないんで、あと2週間くらいはフェデラーネタや日常の出来事ネタでお茶を濁すことになります~。メンゴ。


  ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第3章(Chapter 3)その2。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  さて、14歳のフェデラーにとって、スイス・ナショナル・テニス・センターで訓練を受けるために、親元を離れてエキュブランに移り住んだ最初の5ヶ月間が、なぜ「地獄」だったのか。

  驚くのは、フェデラーは14歳当時、フランス語がまったくできず、英語も大して話せなかったという事実である。つまり、母語であるバーゼル方言のスイスドイツ語しか事実上話せなかったんである。今はあんなに独英仏の3ヶ国語をペラペ~ラ、ペラペ~ラ、と話しているのに。


  ・フェデラーは言う。「本当に最悪だった。何週間も親に会えなかったし、フランス語も話せず、友だちもいなかった。やる気が出せず、しょっちゅう落ち込んだ。」
  ・最大の障壁は言語だった。フェデラーは幼いときから母親と英語で話していたので、英語ならいくらか話せた。しかし、英語などは何の役にも立たなかった。エキュブランが位置するレマン湖畔一帯では、フランス語が話されていたからである。もちろん学校でもセンターでも、フランス語が用いられていた。

  ・フェデラーを下宿生として受け入れたクリスティーネ家のホストマザー、コーネリア・クリスティーネも回想する。「ロジャーが来たばかりのころ、彼はフランス語を一言も話せませんでした。私の息子であるヴァンサンはロジャーと同じような年齢でしたが、ヴァンサンのほうはドイツ語を一言も話せませんでした。」
  ・幸いなことに、コーネリア夫人はドイツ系スイス人だったため、かろうじてドイツ語でフェデラーと意思の疎通ができた。コーネリア夫人は折に触れて、フェデラーとドイツ語で話すようにした。


  どうもフェデラーの下宿先は、フランス系スイス人の家庭だったらしい。しかし、コーネリア夫人がドイツ語でフェデラーと話す機会を多く設けたことは、フェデラーがクリスティーネ家の人々と打ち解け、うまくやっていくことにつながったようです。

  フェデラーがなぜ多言語を話すことを重要視するのか、なぜ今、優れた多言語話者となったのか、これで納得できます。言葉で苦労した経験がよっぽど身にしみたんでしょうね。フェデラーは、スイス人だから自然に3ヶ国語を話せるようになったのではないのです。後述されていることには、フェデラーはプロ選手になることを決意すると、英語とフランス語の学習に意欲的に取り組むようになります。

  言葉の壁で孤立したことと関連するのだと思いますが、フェデラーは重度のホームシックにかかり、エキュブランのセンターを去って、故郷バーゼルの実家に戻りたいと思うようになります。


  ・フェデラーはセンターに入る直前の1994年7月に、14歳以下の大会で優勝していた。しかし、ここエキュブランのセンターでは、フェデラーは新人選手育成プログラムの中で最も年少の訓練生であり、他の訓練生たちは、フェデラーがそれまで対戦してきた相手よりも、はるかに強い選手ばかりだった。
  ・フェデラーはまず彼らから一目置かれるような実力を見せなくてはならなかった。しかし、フェデラーはホームシックにかかってしまっており、しょっちゅう実家に電話して、実家に一時帰宅できる週末休みをひたすら待ち望んでいるばかりだった。

  ・「僕はそれまでいつも一番で、いつも最も年上だった。それが今、僕はいきなり最も年下で、最も劣等生になってしまった。僕は実家に舞い戻りたかった。僕の両親はそんなときに僕を助けてくれたけど、でもエキュブランに留まるよう僕を説得した。」
  ・フェデラーの母リネットは確固たる考えを持っていた。息子がスイス・ナショナル・テニス・センターに進学したのは両親の強制によるものではなく、息子のロジャー自身が最終的に決めたのだ、ということである。「ロジャーが自分自身で決めたことであり、その結果がどうなるか、それは後になるまで分かりませんから。」


  フェデラー母リネットが言いたいのは、自分自身でやると決めたからには、その結果がはっきりするまでやり通さなくてはならないのだ、ということである。フェデラーの母は断言した。


  ・「息子は自分が選んだ道を戦い抜きました。しかしなぜなら、それは彼自身が欲したことだからです。」(←すげー親!

  ・一方、ホストマザーのコーネリア・クリスティーネ夫人は、フェデラーのホームシックにはあまり気づいていなかった。「ロジャーが泣くのは、自分の部屋の中でだけでしたから。私はロジャーが毎晩、1時間も母親に電話しているのに気づいていただけです。私はそれを困ったこととは思いませんでした。彼の当時の年齢からすれば普通のことです。彼は両親と非常に仲が良かったですし、私たち他人の家族と一緒に住むのに慣れるには、少し時間が必要だったのです。」

  ・しかしフェデラーは、クリスティーネ家の末っ子ヴァンサンと兄弟同様に仲良くなった。クリスティーネ夫人「ロジャーとヴァンサンは2階の遊戯室(←ヨーロッパの家にはそんな部屋があるのか)で、毎晩一緒に大騒ぎして、大暴れしていましたよ。ロジャーはやがて、見知らぬ他人の家族の中にいるという感覚をもう抱かないようになっていました。」
  ・フェデラーが後年プロテニス選手になってからも、フェデラーとヴァンサン・クリスティーネとの友情は続いた。フェデラーはヴァンサンをバースデー・パーティーに招待したり、ヴァンサンのためにグランド・スラムやマスターズのような、チケットの入手が難しい大会のチケットを手配したりした。


  フランス語が話せないフェデラーと、ドイツ語が話せないヴァンサンが、どうやって意思を疎通させていたのかは不明である。しかし、ガキどもがじゃれて遊ぶのに言葉は必要あるまい

  こうして下宿先の家族とは良好な関係を築くことができたものの、フェデラーはまだ大きな問題を抱えていた。学校と、そしてスイス・ナショナル・テニス・センターでの人間関係である。これが原因で、フェデラーはまた無気力と狂躁という、生来の極端な性向に拍車がかかることになった。

 
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