バーミンガム・ロイヤル・バレエ『白鳥の湖』(仮)


  今日はもう時間がないので、自分用のメモだけ(←だったら公開するな)。


  第一幕

   パ・ド・トロワ→パ・ド・カトル(ベンノ、高級娼婦2人、王子)

  第三幕

   ハンガリーの踊り
   ハンガリーの姫君のヴァリエーション:19パ・ド・シス-2(?)

   マズルカ
   ポーランドの姫君のヴァリエーション:19パ・ド・シス-5

   ナポリの踊り
   イタリアの姫君のヴァリエーション:19パ・ド・シス-1(?)

   スペインの踊り(ロットバルトの手下たち)
   黒鳥のパ・ド・ドゥ

  第四幕

   王子とオデットのパ・ド・ドゥ:19パ・ド・シス-3

   王子に仮面をひんむかれた後のロットバルトの素顔がスケキヨ。


  ピーター・ライト版『白鳥の湖』が観たかっただけで、バーミンガム・ロイヤル・バレエが踊るプティパにテクニック面での期待はまったくしてませんでした。大体、古典作品となると、『コッペリア』ですらも危なっかしいカンパニーだからね。

  でも、タイロン・シングルトンの王子、そしてセリーヌ・ギッテンズのオデット/オディールが予想を遥か~~~!!!に超えるすばらしさでした。特にギッテンズの身体能力、技術、表現力には凄まじいものがあり、観ていてゾクゾクさせられるバレリーナに久しぶりにお目にかかったという感じです。

  バーミンガムのダンサーたちの中で、デヴィッド・ビントリー作の娯楽性の強い物語バレエなら、踊れるダンサーは多くいると思います。が、プティパ系のお堅い古典作品だと、このシングルトンとギッテンズが、現時点ではベストのキャストになっているのかもしれません。

  あと、ベンノ役のツァオ・チーが何気に良い味出してました。
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水戸歴史ロマンの旅‐3(偕楽園)


  そろそろ桜の季節も終わろうというころですが、まだ梅の話題です~。

  弘道館を出て向かったのは、大規模な梅林で有名な偕楽園。この偕楽園も徳川斉昭の命令によって建設が開始され、天保十三年(1842)に完成しました。

  パンフレットによると、偕楽園は現代の公園に相当するもので、藩主一族や藩士などの特権階級だけでなく、一般の庶民にも開放されていました。「偕楽園」の名は、「(民も)偕(とも)に楽しむ」という語に由来するそうです。

  千波湖の北岸一帯に梅を中心とした四季の花々が植えられ、園の南端に「好文亭」という木造三階建ての建物があります。

   (全景の写真を撮り忘れた。迂闊。)

  水戸斉昭は好文亭に文人、家臣、そして庶民を招き、彼らと一緒に詩を作ったりして楽しんだそうです。確かに、一階には床が板敷きの来客用の大きな座敷があり、隣接して藩主の御座の間がありました。

  建物は弘道館に比べると天井が低くて小ぶりな造りです。屋根も茅葺きで、外観は質素な山荘といった感じ。

   (好文亭の奥御殿。藩主夫人と侍女たちが滞在したそうです。)

  でも、奥御殿の部屋の一つ一つには花や木の名前が付けられ、それぞれの名前に応じた華やかな襖絵が描かれておりました。

   (「かえでの間」。)

  奥御殿の南端は三階建ての楼になっています。「楽寿楼」というそうです。最上階の三階部分は藩主と藩主夫人のプライベート・ルームらしく、面白いことに、食事を運ぶための人力エレベーターなどがありました。誰にも邪魔されない静かな部屋で、美しい風景を眺めながら食事を楽しんだりしたのでしょう。

   (三階からの眺め。梅林と千波湖がよく見える。)

   (三階からの眺め。現代でも最高の眺望ですね。)

  奥御殿の襖絵のある部屋には入れないのですが、楽寿楼は最上階の三階まで登ることができます。古い建物なのによく入れるな、と不思議に思っていたら、この好文亭は昭和33年(1958)に復元して重建された新しい建物なんだそうです。残念なことに、オリジナルの建物は戦時中の空襲で全焼してしまったそうで、しかも空襲に遭った日時は昭和20年(1945)8月2日、終戦目前のことでした。

  現在の偕楽園の周辺は住宅地(←超高級住宅街)と公園で、戦時中もおそらく偕楽園と千波湖以外には何もなかった郊外地域だったろうと思います。市の中心部だった弘道館周辺が空襲対象になったのはまだ分かるのですが、なんで郊外にある古い木造建築の好文亭が爆撃の標的になったのか、その理由がよく分かりません。歴史的遺産の価値が分からない、バカで底意地の悪いパイロットがやらかしたのでしょうか。ああもったいない。

  弘道館の梅の花はちょうど盛りでしたが、偕楽園の梅の花はまだ八分咲きくらいという感じでした。もう数日経ったら盛りになってなおさら美しかったことでしょう。好文亭の公開は午後5時までで、その後は人影がなくなりました。おお、これはシャッターチャンス!

  

  

  夕食にはあんこう鍋を頂きました。あんこうを食べるのは初めてでした。あんこう鍋はもともと「どろ汁」と呼ばれる漁師料理だったそうです。昔はあんこうは雑魚扱いされていて、たまたま網にかかったあんこうをもったいないから鍋にして食べたのが始まりだとか。私の郷里の秋田ではあんこうを見たことがないので、あんこうは日本海には生息していない魚だと思います。でも魚のアラを使った汁物は秋田にもあって、「アラ汁」とか「ざっぱ汁」とか呼んでいます。魚はタラ、サケ、タイなどです。

  あんこうの身の食感と味は弾力のあるタラみたいで、グロテスクな外貌に似合わず意外にあっさりしていました。あん肝は3切れ5,000円(!)と3切れ2,000円のものがあり、さすがに5,000円のには手が出なかったので、2,000円のを食べました。魚味のクリームチーズみたいで美味でした。

  東京に戻ってから、居酒屋のメニューに3切れ600円のあん肝がありました。水戸で食べたあん肝の美味が忘れられずに注文しようとしたら、同行者に「600円のあん肝なんて、得体の知れないモノに決まってるからやめなさい」と制止されました(笑)。

  今回行った弘道館と偕楽園の好文亭は、東日本大震災の地震で建物が破損し、修復・復旧工事が行われたそうです。好文亭は震災の翌年の2012年2月に早くも全面復旧しましたが、弘道館のほうは震災から3年後の2014年、つまり去年の3月にようやく全面復旧・再公開されました。

  タクシーの運転手さんから聞いたところによると、弘道館は国の重要文化財であるため、復旧工事をするのにまず文化庁の許可を得なくてはならず、それで復旧が遅れたとのこと。2011年3月11日の本震で、揺れが最も激しかったときは、信号機のポールが釣りざおのように大きくしなって左右に揺れていたそうです(水戸市の最大震度は6弱もあった)。

  水戸駅前から伸びている大通りは繁華街ですが、それにしては小さな駐車場がやたらと多くあるのが目についたので、運転手さんに聞いてみました。そうしたら、それらの駐車場にはもともと個人経営の商店があったのが震災で半壊し、店舗を取り壊さざるを得なくなった。しかし、店舗を新たに建設しなおしたところで、店の後継者がいない。それで、半壊した店舗を取り壊してそのまま店をたたみ、更地にした店の跡地に駐車場を作ったのだということです。

  子どもたちはみな独立してしまっている。高齢なのであろう経営者が、借金をして新しい店舗を建て、また店をやり直すにしても先が見えない。だから店そのものをもうやめて、更地にして、そのままだと税金が高くなるから駐車場にして、それでいくばくかの収入を得るくらいしか現実的な選択肢がなかった。

  よく「被災3県(岩手、宮城、福島)」というけれど、被災3県以外の県で震災の被害に遭っている地域はあるんですよね。青森県の太平洋側もそうだし、この茨城県もそう。茨城のほうがより深刻で、地震と原発事故の両方の被害を蒙っているのに、さほど注視されてこなかったと思います。

  梅の花や古建築を楽しんだけど、震災のことも考えさせられた水戸小旅行でした。

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水戸歴史ロマンの旅-2(弘道館)


  孔子廟の脇にある遊歩道をしばらく歩きます。道の脇に広がっている梅園の梅の花は折しも盛りを迎えていました。ほのかな良い香りが漂っています。ここの梅園だけでも、東京都内にいくつかある、梅の名所と呼ばれる公園をしのぐすばらしさだと思いました。

  空堀の上に巨木の並木があったことを前に書きましたが、弘道館の周辺には巨大な樹木が他にも多くありました。このへんは戦時中に空襲に遭ったのだそうですが、巨木はいずれも樹齢がかなり古そうでした。焼け残った木々なのでしょうか?これらの木々も、都内だったらいずれも区の天然記念樹に指定されそうな、見事な木ばかりでした。

   (大きいあまりに洞〔うろ〕までできている。幹の太さは大人の一抱えではまったく足りないほど。)

   (こういう木があちこちにある。)

  現在残存している弘道館の敷地は、元来の敷地の三分の一ほどのようです。弘道館のメインである正門、正庁、至善堂(すべて国の重要文化財)の敷地に限るともっと小さくなり、もともとの敷地の五分の一から六分の一ほどでしょう。

  正門は藩主の御成り以外には開かれない門だそうで、現在ももちろん閉ざされたままです。現在の水戸徳川家の当主の方が御成りになれば開かれるのかもしれません。

  手前は正庁、左奥が至善堂です。

  

  見学者は靴を脱いで上がることができます。こういう由緒ある古い建物だと、部屋は原則立ち入り禁止で、廊下から部屋を眺めることしかできない場合も多いですが、弘道館は基本的に部屋の中にも入ることができます。正庁の玄関を入って真っ先に目に飛び込んできたのがこれ。

  

  この部屋は会議室兼控室だったそうです。どーですか、この覇気に満ち満ちた筆になる「尊攘」の二文字。「尊攘」はもちろん「尊皇攘夷」のことです。うわあ、いかにも幕末の水戸藩っぽい!

  徳川斉昭の諡号に用いられた「烈」という字は、そのまま水戸藩全体の印象でもあります。急進的で、時に過激ですらある。安政の大獄で多くの処罰者が出たこと(徳川斉昭がその筆頭。永久軟禁処分にされた)、桜田門外の変で井伊直弼を暗殺したこと、天狗党の乱などは、藩士たちがみな高い知識と教養とを持ち、自分たちの理想とするところがはっきりしていたがために、ひたすら一直線に突っ走ってしまった結果だったのかもしれない、と感じました。

  至善堂には徳川慶喜が大政奉還後に蟄居謹慎していたという部屋もありました。その部屋も立ち入り可でした。徳川慶喜はこのへんに座っていたのかな、と想像しつつ、畏れ多くも上座のど真ん中に座ってみたりしました。

  面白いことに、学生たち用の浴室やお手洗いなどもありました。浴室は板敷きで、床が左右の壁際から部屋の真ん中にかけて緩く下に傾斜しており、真ん中には一本の溝がありました。その溝にお湯を落として外に排水していたようです。

  お手洗いは「小」用と「大」用の二つに分かれていました。続き部屋ですが別々にあり、各部屋とも二畳くらいもある広いものでした。便器はともに木製で、「小」用は箱型で窓際の壁にしつらえてあり、「大」用は角形の金隠しがついていて床にありました(当たり前だ)。こういう生活感のあるもののほうが面白いです。

  建物の造りは重厚で質朴、また天井が高く、各部屋は大きく、廊下の幅も広かったです。全体的に広々としていて大きい造りという印象でした。大勢の人々、しかも男性ばかりが出入りしていたせいでしょうか。

   (余計な飾りのない、すっきりした造り。すがすがしい。)

   (至善堂側面。いや~、きれい。すてき。うっとり。)

  上の写真にある至善堂の側面には、徳川斉昭の筆になる扁額「游於藝」が掲げられています。

   (右から左に読みます。)

  「游」はあそぶ、「藝」は学問のことだそうです。教えてもらったところによると、「游於藝」、「藝(げい)に游(あそ)ぶ」とは、一つの目標にだけとらわれて小さく狭く近視眼的に勉強するのではなく、自由自在に、大きく広く、試行錯誤をくり返しながら、遠くを見据えて勉強していくことによって、自分自身のものをしっかりと培い作り上げなさい、という意味で、すごく良い考え方なんだそうです。たった三文字でこれだけのことを表現してのけた徳川斉昭、名君ですね。

  あと、黄門様の愛称で有名な、第二代藩主徳川(水戸)光圀(1628-1701)の碑文「梅里先生碑」の拓本が室内に飾られていました。水戸光圀が自分のことを紹介した自作文で、筆も光圀自身のものだそうです。文章も手蹟も非常に見事だそう。

  黄門様というと東野英治郎か西村晃のイメージなのですが、実際の水戸光圀も子孫の斉昭に負けない知識人で、日本の歴史書『大日本史』を編纂したことで有名です。清から逃れて日本に亡命した明の儒学者、朱舜水を自藩に招聘したことも知られています。

  また気性の烈しさも子孫の斉昭に負けず、「犬公方」こと徳川綱吉(1646-1709)の政治に対する不満を、綱吉の面前で堂々と言ってのけることもやったようです。

  水戸藩の藩主たちは、徳川家の殿様の中ではいちばんの個性派揃いかもしれません。

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