小林紀子バレエ・シアター公演

  この8月に小林紀子バレエ・シアターの夏の公演が行なわれます。公演日時は8月23日(土、18:30開演)、24日(日、15:00開演)で、会場はゆうぽうとホールです。

  演目は「ラ・シルフィード」全幕、「マクミラン・ダイヴァーツ」です。「マクミラン・ダイヴァーツ」の内容は、「ロミオとジュリエット」よりバルコニーのパ・ド・ドゥ、「エリート・シンコペーション」よりBethena-a Concert Waltz、「マイヤーリング」よりシュテファニーのパ・ド・ドゥ(←第一幕最後のルドルフとシュテファニーのパ・ド・ドゥかな?)です。

  主な出演予定者は、島添亮子、デヴィッド・ホールバーグ(アメリカン・バレエ・シアター プリンシパル)、大森結城、大和雅美、高橋怜子、中尾充宏、冨川祐樹、中村誠で、ホールバーグは「ラ・シルフィード」のジェームス役で出演予定だそうです。

  チケットのお値段は、S席:10,000円、A席:8,000円、B席:6,000円です。小林紀子バレエ・シアター(03-3987-3648)、イープラス、チケットぴあ(Pコード:386-679)などで受け付けています。

  「ラ・シルフィード」のジェームズ役には、ぜひロイヤル・バレエのヨハン・コボーを招聘してほしかったです。残念。ですが、数年前に観たときには、まだちょっと頼りないプリンシパルだったデヴィッド・ホールバーグの成長ぶりを見るのが楽しみです。

  「マクミラン・ダイヴァーツ」では、なんといっても「マイヤーリング」第一幕最後のあの激しいパ・ド・ドゥが、日本のダンサーたち(おそらく)によって踊られることでしょう。この公演のメインはもちろん「ラ・シルフィード」なのでしょうが、個人的には、「マイヤーリング」のルドルフとシュテファニーのパ・ド・ドゥに最も注目しています。

  ちなみに、小林紀子バレエ・シアターの公式サイトについてです。作業が遅れているためにまだできてないそうです。こちらも早い設立を切にお待ちしております。
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世間様と私

  タイトルの「私」は「わたくし」と読みます。一人称ではなく、「公私」、「私事」の「私」という意味です。

  某大学の教員が、個人で開いているブログで、山口県光市で起きた母子殺害事件について、「永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ」と書いたそうです。このニュースを読んで、私はてっきり「また、バカなオヤジ大学教員のたわ言か」と思いました。

  ところが、関連ニュースを読んでびっくりしました。これを書いたのは、男性教員ではなく、女性教員だというのです。でも、私はまたてっきり「バリキャリ(バリバリキャリア)系にはよくいるオヤジ女のたわ言か」と思いました。私のいう「オヤジ女」とは、男性たちの中で必死に働くうちに、男性(特に中年男性)が持ちやすい、マッチョな価値観に染まってしまった女性のことです。

  さっそくこの女性教員のブログに行ってみました。案の定、すでに問題となった記事はすべて削除されており、お詫びの言葉が繰り返し載っていました。

  でも、問題になってから削除しても遅いというもので、いろんなサイトに問題となった記事の全文が掲載されていました。そして、この女性教員のブログには、他にも様々な「問題発言」が書かれていたことが分かりました。

  山口県光市の事件では、山口高裁が出した「無期懲役」の判決に対して、最高裁は「量刑不当」という理由で「審議差し戻し」の判断を下しました。それについて、この女性教員はこう書いていたそうなのです。「差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう。」

  また、こうも書かれていたようです。「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまう」、「女子学生に多額の奨学金を貸し出すのはなんとなく気が引ける。光市の母子殺害事件の被害者みたいに、借りるだけ借りておいて、卒業したら間髪いれずに孕んでそのままぜんぜん働かず、挙句の果てに平日の昼間から家でぶらぶらしていたため殺されちゃうなんてことになっては回収不能になるからだ。」

  また、北朝鮮工作員による日本人拉致事件では、中学生の時に拉致された女性被害者についてこう書かれていたそうです。「私は子供をなくした経験がありますが、『めぐみちゃん』はちゃんと育って、結婚までして、あまつさえ子供まで儲けています。私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います。」

  これらの「発言」を読むと、ある共通項があることに、みなさんすぐにお気づきになったでしょう?つまり、この女性教員は女性を蔑視しています。特に「専業主婦」と「赤ちゃんを産んだ(ばかりの)女性」を異常に嫌悪しています。

  これもみなさんお気づきになったでしょう?この女性教員は、自らも「子供をなくした経験があります」と告白しています。彼女の「赤ちゃんを育てながら『専業主婦』をしている女性」に対する嫌悪と蔑視は、このことに由来することは間違いないでしょう。

  私はこの女性教員が気の毒になりました。私の憶測ですけれど、彼女は自分の子どもを亡くした悲しみから、まだ脱しきっていないのでしょう。脱しきっていない、という表現は適切ではありませんね・・・子どもを亡くした悲しみや辛さときちんと向き合わなかった、と表現したほうが妥当でしょうか。

  私は子どもを産んだ経験がありませんけれど、愛する人が死んでしまったら、ましてそれが自分の子どもであれば、どんなに悲しいか、辛いか、いや、悲しいとか辛いとかいう感情ではすまされないだろうと想像できます。自分がこれから生きていけるかどうか、という瀬戸際まで気持ちが追いつめられるだろうと思います。

  だけど、ここに子どもを亡くした親御さんがいるとして、この人たちが生きていて、そして他人に対して優しさと思いやりを持ち続けているとするならば、この人たちは子どもを亡くした悲しみや辛さと向き合い、悲しみや辛さをじっくりと味わって、そうして今のような気持ちに落ち着いたのでしょう。

  それらを感じるのが耐え難いあまりに、悲しみや辛さと向き合うことなく、自分の中にある感情を抑えつけ、「なかったこと」にしてしまえば、その結果どうなるのか、このかわいそうな女性教員の言葉の数々が物語っているような気がします。

  理不尽な仕打ちを受けたことから湧き起こった悲しみ、辛さ、悩み、怒り、不安など、これらの感情をきちんと自覚し、それと向かい合い、それを受け入れないと、これらの感情は後に他人への憎悪や敵意となって表面化・行動化してしまうことがあります。

  また、たいていの人は辛い目に遭うと、自分は他人を同じような辛い目には遭わせまいと思い、また他人の心の痛みを思いやるようになるものです。ですが、中には、自分が辛い目に遭うと、他人が辛い目に遭ったことや他人の心の痛みを、逆に極端なほどに軽視するようになる人がいるのです。

  この女性教員の過激な考え方や、それを反映したブログでの「暴言」は、不合理な自分の境遇に対する彼女なりの復讐であり、また自分の味わった辛さに比べれば、他人の辛さなど何程のことでもない、という考えの表れなのでしょう。

  彼女はブログを通じて、世間に向かってそれを訴えたわけですが、自分が辛い目に遭ったからといって、関係のない他人を傷つけても許されるわけではありません。そんなことが許されたら、この世の中は無秩序状態になってしまうでしょう。

  だから、理不尽なことが自分の身の上に起こっても、関係のない他人に仕返ししてはならないのです。それが行動であれ、言葉であれ。「情状酌量」に該当する個人的事情があったとしても、世間様に対してそれを攻撃的な形で発散することは許されません。世間様は自分のパパやママではないのですから、ワガママが許されると思ってはならないのです。

  この女性教員は、自分と他者との境界線が曖昧で、精神的に幼い部分の残っている人だと思います。つまり世間様に対して、「過激なことを書いても、みんな(世間)はきっと私の真意を分かってくれるはず」と甘えていたところがあったと思うのです。

  でも世間様は「他人」なのです。「私(わたくし)」の感情を攻撃的な形でぶつけてはいけません。この女性教員は非常にプライドの高い人のようですから(過去のトラウマがそれを強化した可能性もあるように思います)、なかなか難しいでしょうが、もし私が彼女の友人であれば、私は彼女にカウンセリングを受けるように助言します。

  世間様向けの強気で元気で明るい顔を、素の自分だと無理に思い込まなくてもよいのです。素の「私」が時には弱気で陰気で暗くてもいいのではないでしょうか。そういう自分を受け入れれば、ずいぶんと楽になるだろうと思います。
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「シルヴィア」キャスト変更

  NBSの公式サイトの こちらのページ で、7月のロイヤル・バレエ日本公演「シルヴィア」にタイトル・ロールで出演する予定だったゼナイダ・ヤノウスキーが、妊娠のために出演できなくなったことが発表されました。

  ヤノウスキーが出演するはずだった回は、たぶんマリアネラ・ヌニェスが踊るのだろうけど、それだとヌニェスにとってはかなりな負担になるだろう、と思って注目していましたが、ヤノウスキーが出演予定だった2回のうち、1回はヌニェスが、もう1回はローレン・カスバートソンが踊ることになりました。

  それにともなって、ティアゴ・ソアレス(オリオン役)の出演回数が2回増えて、彼はなんと3回オリオンを踊ることになりました。そして、それぞれ2回ずつオリオンを踊るはずだったギャリー・エイヴィス、ヴァチェスラフ・サモドゥーロフは1回のみの出演となりました。

  いちばんの驚きはやはりローレン・カスバートソンです。私は彼女の踊りを1度しか観たことがなく、しかもそれは「眠れる森の美女」第三幕、ブルー・バードのパ・ド・ドゥです。特に印象に残ったという記憶もありませんが、全幕で観ればまた違うかもしれません。

  とわざわざ書くのは、私はカスバートソンが主演することになった回を観るからです。カスバートソンの踊りがどんなものなのかは、実際に観てみないと分かりません。でも、彼女が当初は今回の日本公演の「シルヴィア」の主役にキャスティングされていなかったことには、それなりの理由があったのだろうと思います。

  とはいえ、ギャリー・エイヴィスがオリオンを踊る唯一の回を観ることができるのは嬉しいです。それに、カスバートソンはイギリス人(デヴォン出身)で→ロイヤル・バレエ学校卒→卒業と同時にロイヤル・バレエに入団、という異色の経歴(笑)の持ち主です。そうした久々のロイヤル純粋培養のダンサーが主役を踊る舞台を観られるとは、これはきっととても興味深い経験になるでしょう。

  けどやっぱり心配だから、良い思い出とする保険として、マリアネラ・ヌニェスかサラ・ラムが踊る回も観ようかな~、と思い、ちょっと脳内で調整してみました。

  私はサラ・ラムの踊りには以前に好印象を持った記憶があるし、サラ・ラムは「眠れる森の美女」の主役にもキャスティングされているので、できればサラ・ラムの主演する回を観たいです。ですが、それだと同じ日に昼と夜と連続して観ることになります。これは疲れるので避けたいところです。

  となるとヌニェスということになりますが、私は「眠れる森の美女」でヌニェスの主演する回を観るのです。「シルヴィア」は違うダンサーで観たいです。また、ヌニェスについては、私は彼女がファースト・ソリスト時代に踊った「オネーギン」(オリガ役)では彼女に好印象を持ったものの、プリンシパルに昇格した後に踊った「マイヤーリング」(ミッツィー・ガスパール役)ではがっかりした記憶があります。ヌニェスの主演する「眠れる森の美女」を観ることにしたのは、ただ単に自分のスケジュールと相談して、消去法で選んだ結果です。

  疲れてもサラ・ラムの回を観るか、体力的・精神的余裕を選んでマリアネラ・ヌニェスの回を観るか、う~ん、どうしませう。

  ところで、ゼナイダ・ヤノウスキーさん、本当におめでとうございます。どうぞご無事に出産されますように。
  クーパー君の奥さん、サラ・ウィルドーにわずか数ヶ月遅れるのみの妊娠です。きっと良きママ友となることでしょう。
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アダム日記更新(2)

  昨夜、クーパー君新日記について書いたせいか、夢を見ました。私は友人と一緒に喫茶店みたいなところにいます。お店のBGMで流れてきたのが、クーパー君が『ガイズ・アンド・ドールズ』で歌った、"My Time of Day"と"I've Never Been in Love Before"でした。嬉しさのあまり、私は友人に「この歌はアダム・クーパーが歌ったんだよ」と教えるという夢です。歌つきの夢ははじめて見ました。

  さて、クーパー君新日記について、感想の続きです。『デイリー・メイル』事件の後は、「ゾロ」公演について書いてあります。リハーサルは、ロンドンにある劇場で行なったそうです。その劇場は「分かりやすい理由で、『恐るべき劇場』とあだ名されている」とか。これって、イギリス名物、オバケが出るっていうこと?さすがはイギリス人、クーパー君にとっても、オバケはごくごくふつーのことのようです。

  「ゾロ」関係のくだりは、内容自体は、私にはあまり面白くないし、あまり興味もないですが、クーパー君が監督(クリストファー・レーンショー)の要求で、歌声を低くて重々しいものに変えなければならなかった、というのは興味深いです。確かに、クーパー君が歌った2曲、“Senor”も“La Ira De Ramon”も、彼はとても低い声音で歌っていました。

  彼はこれを「最も大きな挑戦の一つ」だったと述べています。いくつもの段階を経た末に、「ついに自然なものに落ち着いた」と彼は書いています。うーん、そうでしょうか?私はそうは思いませんでした。“Senor”はまだマシでしたが、“La Ira De Ramon”は、容赦なく言わせてもらえば、散々な出来だったと思います。

  面白いのは次です。「(歌声の改変が)ついに自然なものに落ち着いた」の次に、彼は「僕は絶えず、僕のために心配してくれた一部の観客からの感想をもらっていたけれど」と書いてあるのです。彼に正直なところを言った観客は多かったようです。ちょっと安心しました。

  後は、グラスゴー公演の2回が、舞台装置の不具合で上演中止になった経緯と、イネズ役のレスリー・マルゲリータの結婚前祝いパーティーをみなで開いたことが「思い出深い出来事」として書かれています。

  グラスゴー公演のうち2回が中止になったことは現地の新聞沙汰になりました。クーパー君によれば、グラスゴーの劇場の設備と「ゾロ」の舞台装置とがうまく合わなかったこと、また準備時間の不足が原因だそうです。また、ステージ・マネージャーがセットの一部の下敷きになってケガをする、という事故も起きたとか。クーパー君は「『ゾロ』のすばらしい舞台装置は、明らかに一つの劇場に据え付けるためにデザインされたものであって、ツアー公演向きではない」と説明してます。

  レスリー・マルゲリータは結婚を目前に控えていたので、それでみんなで前祝いをしたそうです。「ゾロ」公演で思い出深い出来事として、こうしたことを書くのがいかにもクーパー君らしいです。

  彼は同じところにとどまることが好きでない、と公言しています。現に、ロイヤル・バレエを退団しましたし、マシュー・ボーンの庇護の下からも出て行きました。ですが、私は、身内で固まることを嫌う彼は、実は身内で固まることを非常に心地よく感じる人なのではないか、と思うときがあります。このマルゲリータについてのエピソードを読んで、やはり同じように感じました。身内で固まるのが好きだからこそ、逆に自分が疎外されていると、人一倍辛くなってしまうのでしょう。

  かねての噂どおり、「ゾロ」はウエスト・エンドで上演されるようです。ですが、脚本が大きく修正され、その修正部分のかなりを占めているのは、クーパー君が演じたラモン役の比重を減らすことだそうです。それを受けて、クーパー君は「(『ゾロ』のウエスト・エンドでの)公演に僕が参加することはもうないだろう」と書いています。

  クーパー君は削除された箇所を書いています。第一幕“Senor”、第二幕“La Ira De Ramon”及びラモンによるソロの踊りが削除されるというのです。私はこれを読んでびっくりしました。これだと、ラモンはまったく見せ場がなくなります。歌は1曲も歌わないし、踊りもまったく踊りません。クーパー君が「こんなにもそぎ落とされた役を演じ続けるなんて、僕にとっては不可能なことのように思える」と述べているのももっともです。

  この修正は、ラモンの役割を小さくして、完全にゾロ(ディエゴ)を中心に据えた作品にするためのものなのでしょう。

  でも、ひねくれた性格の私には、この「大きな書き直し」とやらは、アダム・クーパーをウエスト・エンド公演に参加させないために行なわれたのではないか、と思えます。逆の考え方もできます。もしかしたら、ツアー公演で用いられた「ゾロ」の脚本は、アダム・クーパーを参加させるためにわざとあつらえたものだったのかもしれません。

  万が一、私の猜疑心と憶測が当たっているのなら、クーパー君が追い出された理由は、「話題作りと客寄せパンダ」としてはもう用が済んだからか、あるいはクーパー君のパフォーマンスが「ゾロ」の舞台が要求する水準を満たしていないと判断されたからでしょう。

  私には、今のクーパー君にミュージカルで主役や準主役をつとめるほどの能力があるとは思えません。歌や演技でクーパー君をはるかに上回る能力を持っている役者なんて、それこそたくさんいます。

  ただ、クーパー君は、おそらくはマシュー・ボーンの「白鳥の湖」で得た名声によって、今でも大きな役をもらえるのだろうと思います。意地わるくいえば、一種の広告塔として。実際の舞台を観てみると、アダム・クーパーはさほどのことはないが、でも他のキャストがみなすばらしいので、結果として観客は舞台に満足する。こんな構図ができあがっている気がするのです。

  しかも間のわるいことに、クーパー君自身はこのことに気づいておらず、自分は実力によって大役を得て、そして期待に応えた立派なパフォーマンスをしていると思い込んでいるように感じます。「ゾロ」出演に際して、自分の声質を低くて重々しいものに変えることに成功したかのような記述は、よくいえば彼のポジティヴ思考が、わるくいえば、現実の自分の能力を客観的に判断しない彼のマイナス面が表れていると思います。

  筋肉の落ちた体と重たくなった踊りに、彼自身は気づいているのでしょうか。今まで出演したミュージカルでは、確かに踊りでは他の誰よりも明らかに優れていたので、それで観客の目を惹きつけることができました。でも、「ゾロ」ではどうだったかというと、素人の私でさえ分かったくらいですから、まして監督や振付家が気づかなかったはずがありません。

  厳しいことをいいますが、客観的にみて、現在のアダム・クーパーにあるのは、過去に得た名声の余韻だけです。

  日記の最後では、彼の仕事に関するニュースをまもなく(“very soon”)知らせる、と書いてあります。彼がこれからどう打って出るのか、注目していきたいです。
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アダム日記更新(1)

  「ゾロ」のあらすじ&感想を書き終えてから、私は気分が沈んでしまい、ひどい喪失感に悩まされました。

  それは、私の好きなアダム・クーパーが復活することを願いたいけど、でもひょっとしたら、もう彼のことを二度とすばらしいダンサーだと感じられないまま終わるのかもしれない、という不安です。夜はバレエの「オネーギン」のサントラを聴いて、思わず泣いたりしちゃいました。

  それが昨日になって、クーパー君の公式サイトに、彼の最新の日記が掲載されました。奥さんのサラ・ウィルドーに赤ちゃんができた、というニュースにびっくらこいたのは下に書いたとおりです。状態が安定するまで公にしなかったのですね。どうかつつがなく、赤ちゃんが生まれてくれますように。女の子でも男の子でも、きっとかわいくてきれいな子でしょう。なにせ、アダム・クーパーとサラ・ウィルドーの子どもですから。

  てなわけで、沈んだ気分も吹っ飛びました。クーパー君の最新日記の内容は、今年二月の『デイリー・メイル』紙に掲載された「アダム・クーパーのインタビュー」記事に対する怒りの声明、「ゾロ」で特に印象的だった出来事二つ、「ゾロ」のウエスト・エンド再演、そして最後が彼とサラ・ウィルドーの間に赤ちゃんができたことについてです。

  『デイリー・メイル』紙に掲載された自分のインタビュー記事について、クーパー君は「掲載されたものはほとんどすべてがでっち上げだ」と断言しています。どこがどう「でっち上げ」なのかについては、具体的には書かれていません。

  ですが、彼の文章によれば、クーパー君にインタビューして「でっち上げ」の記事を書いた女性記者は、クーパー君にインタビューする前から「こういう内容の記事にする」と決めていたらしいですね。その内容はもっぱらアダム・クーパーの「過去のキャリア」だったようです。

  クーパー君は、公演が近づいている「ゾロ」の宣伝のためのインタビューだと思っていたので、話題を必死に「ゾロ」に戻そうとしたようですが、その記者はあくまでクーパー君の以前のキャリアに集中してこだわったそうです。

  もちろんイギリス人みながアダム・クーパーのことを知っているわけではありませんから、たとえ「ゾロ」の宣伝用インタビュー記事であっても、「アダム・クーパーの略歴紹介」的な文章は入るものだと思うのです。でも、クーパー君のこの書き方からすると、略歴紹介という次元をはるかに超えたレベルだったのでしょうね。

  クーパー君は「僕はあの記事とは完全に距離を置きたいし、記事にみえる見解は僕自身の見解を反映していない」と書いています。これはぜひとも記事本文が読みたいものです。ですが、デイリー・メイルのサイトの検索システムは不便で、問題の記事はみつかりません(ひょっとしたら、サイトには掲載されていないのだろうか?)。

  彼は記事を読んで、自分のエージェントを通じて『デイリー・メイル』紙に抗議したようですが、同時に「記事によって気分を害された方々にお詫びを申し上げます」と謝ってます。そして最後に「せめて、もう二度とあの新聞のインタビューは受けないことをお約束します」、「僕を知っている人々が、あの記事がそれらしく書いていることが、どんなに僕らしくないかに気づいて下さるよう祈っています。また、人々が『疑わしきは被告人の利益に』という裁定を僕に下さないよう、僕は願うしかありません」と書いてます。原告:アダム・クーパー、被告:デイリー・メイルということですか。

  うーん、『デイリー・メイル』のインタビューを引き受けたことが、そもそも間違いだったのでは?と思わないこともないです。『東スポ』とはいわんけど、『夕刊フジ』ぐらいの新聞でしょ?「僕は今後一切、『夕刊フジ』のインタビューは受けません」て宣言されてもなあ。

  ともかく、クーパー君の以上の話を総合するに、大体こんなことではないかと思われます。『デイリー・メイル』の記者は、最初からアダム・クーパーのことを「イヤなヤツ」っぽく書きたかったんでしょう。てか、はじめから記事の趣旨はそういうふうに決まってたんでしょうね。

  これは憶測ですが、たとえばロイヤル・バレエ、またクーパー君がロイヤル・バレエ時代に関わっていた人々、AMP(現ニュー・アドヴェンチャーズ)、AMPの人々、それ以降に彼が携わったプロダクション、そこで関わった人々について、クーパー君のコメントを勝手にでっち上げたんでしょう。たぶん、クーパー君がそれらをことごとく批判している、また悪口を言ってるかのような書き方をしたんじゃないでしょうか。

  この『デイリー・メイル』問題について、彼は「この声明をもって終わりにしたい」と書いています。私は「有名人は叩かれてなんぼじゃ、沢尻エリカを見習え」と彼を励ましてあげたいです。

  でも、自分も嘘を書かれた被害者なのに、「不快に感じたみなさんにお詫びします」と書くクーパー君は、やはりいい人なのだなあ、と思います。
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ついにパパ

  クーパー君の公式サイトの日記が更新されてます~。大ニュースですよん。

  クーパー君が、この8月に晴れてパパになるそうです。

  サラ&アダム、本当におめでとう!!!!!!!Congratulation!!!!!!!

  サラ、どうかお大事にして下さいね。
  Sarah, please take care of yourself and your baby!

  他には、「ゾロ」ウエスト・エンド公演のことも書いてあります。脚本が大幅に書き直され、結果、ラモンの歌と踊りがすべて削られたので、クーパー君はウエスト・エンド公演に出演するつもりはないそうです。

  それは残念だけど、でも今はそんなことより、アダム・クーパーがパパになることのほうが、はるかに重要な知らせだわ~。

  他のことに関しては、本文をちゃんと読んだ後で、また感想を書きますね。

  とにかく今は、Congratulations of your expecting a baby! Sarah&Adam!
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サイトを更新しました(3)

  「名作劇場」の「ゾロ」をようやく書き終えました。シーンの細かい順番は正しくありませんが、大筋は合っていると思います。

  また、後から思い出したシーンを、前に書いた部分に加筆してあります。これも、どのシーンとどのシーンとの間にあったのか思い出せないので、適当な場所(←・・・)に入れときました。お時間のあるときにでもお読みになって下さいね。

  後記っぽい別の文も付けました。もうしてしまったことは取り返しがつきませんが、ただ、私はあんなことを言うつもりは本当になかったのです。でも、なぜだか口から飛び出してしまいました。

  口から飛び出したといっても、軽い気持ちで言ったのではなく、あのときの私は真剣そのものでした。他人の目をあれほどまっすぐに見つめ続けたことが、今まであっただろうか?他人に対してあれほど真剣な気持ちで接したことが、今まで何回あった?と思うほどでした。

  申し訳なくは思っています。ですが、自分を庇うための罪悪感は持たないようにしています。罪悪感を持てばやったことと相殺される、というわけではありません。ただ、本文にも書きましたように、自分がしてしまったことの結果は受け止めよう、と思っています。

  ロイヤル・バレエのミックスド・プログラム、「眠れる森の美女」、「シルヴィア」についても感想を書きたいのですが、もう1ヶ月以上経っていますし、書く時間がとれるかどうか分かりません。

  「眠れる森の美女」、「シルヴィア」は今夏に日本でも上演されるので、その後で感想を書いてもいいかもしれません。ミックスド・プログラムについては、なるべく感想を書きたいと思います。
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「サムソンとデリラ」、「サロメ」

  新年度の初めというのは忙しいものです。前年度とは仕事の環境や内容が変わることが多いし、新年度に合わせて職場の規定や制度などが変更されて新しくなることも多いです。これらの変化に自分を慣れさせるのには一定の時間がかかります。先週の金曜日は本当に疲れて疲れて、夜の10時過ぎには寝てしまいました(←私にとってはすごく早い時間)。大好きな「タモリ倶楽部」も観ませんでした。

  さて昨日はどうだったかといいますと、先週ほどひどく疲れてはいなかったようです。もちろん昨日もとても疲れていましたが、先週はちょっと異常でした。たぶん来週の金曜日はもっと疲れが軽くなるのではないかな?と思います。

  それでも昨夜は寝そべりながら音楽を聴いているうちに眠ってしまい、11時過ぎに途中であわてて起きて、きちんとお布団を敷いて眠りました。やはり「タモリ倶楽部」は観られませんでした。

  聴いているうちに眠ってしまった音楽というのが、サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」でした。それで今日になって思いついたことには、「サムソンとデリラ」もバレエにうってつけな作品だよなあ、と。

  古代のイスラエル。イスラエルは隣国パレスチナに住むペリシテ人による武力侵入に悩まされていました。ところが、イスラエルにはサムソンという物凄い怪力と長い髪を持つ英雄がいて、ペリシテ人たちの攻撃はなかなか成功しません。そこで、ペリシテ人たちはデリラという美女をサムソンに近づかせ、恋仲にならせた上で、サムソンの怪力の秘密を聞き出させようと画策します。

  サムソンは美しいデリラのとりこになってしまいます。デリラはなだめたりすかしたりしてサムソンから怪力の秘密を聞き出そうとしますが、サムソンは口を割りません。デリラは、教えてくれないのならサムソンの元を去る、と脅します。するとサムソンはようやく、自分の怪力の秘密は長い髪にあり、髪を切ってしまうと怪力は失われる、と話してしまいます。

  デリラはそれを聞いて、サムソンが眠っている間に、サムソンの長い髪を切り落としてしまいます。待ちかまえていたペリシテ人たちが怪力を失ったサムソンを捕らえ、サムソンを捕虜としてパレスチナの王宮に連行します。デリラは捕らえられたサムソンを前にして、他のペリシテ人たちとともにサムソンをあざ笑います。

  しかし、サムソンが最後の力を振りしぼると、失われたはずの怪力がなぜかよみがえります。サムソンはペリシテ人の王宮を崩壊させ、デリラ、ペリシテ人たちもろとも瓦礫の下敷きになって死に、イスラエルを救います。

  私が演出家だったら、サムソンが髪を切られて怪力を失なう、ということを、サムソンがデリラによって去勢されて男としての力を失なう、というふうに置き換えますね。サムソンとデリラの物語は、男性性の喪失、という観点で読み替えが可能だと思います。ヘンタイでしょうか。

  あとは、「サロメ」もバレエには向いていると思います。サロメはユダヤ王ヘロデの王女です。ですが、サロメはヘロデ王の実の娘ではなく、本当は姪にあたります。ヘロデ王はサロメの父親であった自分の兄弟を殺し、その妃であったヘロディアス(サロメの母親)を自分の妻とし、サロメを自分の娘としたのです。

  サロメは非常に美しく、ヘロデ王は義理の娘サロメに対する粘着質な恋心を隠そうとしません。ヘロディアスはそれを知っていて、心中苦々しく思っています。また、ヘロデ王の部下でさえもサロメに恋しています。サロメに恋しているヘロデ王の、これまたサロメに恋している部下を、ヘロデ王の小姓が愛していて、小姓はサロメになにか禍々しいものを感じ、ヘロデ王の部下の目をサロメからなんとか逸らせようとします。

  サロメは傲慢な、というよりは周囲の人間に対してまったく無関心で、自分に対してもまったく無関心です。だから彼女は自分のやりたい放題に振る舞い、ヘロデ王の思いには気づいていますが、さっぱり意に介しません。

  ところが、サロメは王宮の庭の井戸の底から聞こえてくる男性の声に興味を引かれます。井戸の底に閉じ込められているのは、神への信仰を説いて回った罪で捕らえられたヨカナーン(ヨハネ)でした。ヨカナーンは閉じ込められながらも、神の怒りの日の近いことを警告していたのです。

  サロメはヨカナーンを井戸から出させます。彼女は一目でヨカナーンに恋してしまいます。しかしヨカナーンはサロメを「近親姦から生まれた汚らわしい女」と激しく罵ります。サロメはたとえ恋した相手であっても、相手の心中には無関心です。サロメの心にあるのは、ヨカナーンを手に入れたい、自分のものにしたいということだけです。自分のものにできるのなら、相手が生きていようが死んでいようが関係ないのです。サロメはヨカナーンに「私はお前に口づけする」と断言し、ヘロデ王にヨカナーンの首を自分にくれるよう願い出ます。

  捕らえて閉じ込めていても、ヘロデ王はヨカナーンを殺すことを躊躇します。サロメは「七つのヴェールの踊り」を王の前で踊り、踊りと引き換えにヨカナーンの首を所望します。サロメの魅力に屈したヘロデ王はヨカナーンを殺し、ヨカナーンの首を銀盤の上に載せて持ってこさせます。サロメはヨカナーンの唇に接吻して自分の思いを遂げ、はじめて歓喜の感情を露わにします。ヘロデ王はサロメを殺すよう命じます。

  私は「サロメ」をオスカー・ワイルドの戯曲で読みました。岩波文庫でした。オーブリ・ビアズリーの挿絵つきでした。官能的な危うさに満ちたストーリー、翻訳のすばらしさに加えて、ビアズリーの挿絵に非常に魅了されました。ビアズリーの独特の画風、グロテスクで、でも魅力的なエロティシズムは本当に印象的で、今でも「サロメ」という語を聞くと、いちばんに頭に浮かんでくるのはビアズリーの絵です。

  後に、ケン・ラッセル監督の映画「サロメ」を観ました。オスカー・ワイルドとその悪友(?)である曲者の貴婦人が、ワイルドの戯曲を舞台化した「サロメ」を観る、という設定です。これはなかなか面白かったです。最後はワイルドが同性愛と殺人の疑いで、貴婦人も殺人の共犯の疑いで警察に逮捕される、というオチでした(ワイルドが同性愛の罪で逮捕されたのは本当です)。

  大人になって、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」も聴きました。オペラの「サロメ」では、「七つのヴェールの踊り」というシーンがあり、サロメ役の歌手本人が踊る場合もあれば、サロメの分身としてバレエ・ダンサーを登場させ、ダンサーに踊らせる場合もあるようです。

  「サロメ」をバレエ化すれば、サロメ役の女性ダンサーの存在ばかりが目立ってしまうでしょう。でも、サロメのソロとか、ヘロデ王とヘロディアス、ヘロデ王とサロメ、サロメとヘロデ王の部下、ヘロデ王の部下と小姓のデュエットとか、いろいろありそうで楽しそうです。「七つのヴェールの踊り」はヴェールを1枚1枚外していって、最後には素っ裸になるというエロい踊りです。抽象的に表現すれば、さぞ見ごたえがあるでしょう(音楽もいいし)。誰か作ればいいのになー。

  以上、私のアホな妄想に付き合って下さって、どうもありがとうございました。
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最近の一句

   新年度 疲れて動けん 助けてくれ  
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お疲れさまでした

  「名作劇場」の「ゾロ」あらすじと感想を更新しました。第二幕の最初から途中までです。あと1回で終わらせるつもりです。例によってシーンの順番がめちゃくちゃですが、なにせもう1ヶ月も前に観た舞台なので、どうかご容赦のほどを。

  また、前に書いたものに、後で思い出したシーンを書き加えているので、お時間のあるときにでもご覧下さいね。

  ロンドン郊外のミルトン・キーンズでの「ゾロ」公演は、4月12日をもって終わります。地方ツアーもこれで終わりです。ウエスト・エンドでの再演の噂も聞こえてきていますね。もちろん再演してほしいです。登場人物の設定、脚本、演出にはかなり改善すべき点があると思いますが。また、アダム・クーパーがそれまでに「リカバリ」できるかどうかも重要です。

  ともあれ、およそ1ヶ月にわたったツアーが終わって、クーパー君には「お疲れさまでした」と言いたいです。1年半ぶりに立った舞台が、1週間ごとにイングランド各地を転々とするツアーだったので、体力的にかなり大変だったと思います。しばらく休んで、それから今年の年末に上演予定だという「新しいプロジェクト」に向けて、準備を進めてほしいと思います。

  ところで、スペイン語の分かる人に、歌の名前や登場人物の名前に出てくるスペイン語の意味を聞きました。

  ディエゴが登場するシーンでジプシーたちと歌う“Baila Me”の“baila”は「踊る」という自動詞で、“Baila Me”では意味が通じないそうです。また、“Senor”を歌うのは“Ramon,The Dons”と記されています。“Don”は男性に対する尊称で、英語とスペイン語をごっちゃにした“The Dons”という言い方には苦笑していました。

  同様に、“Por La Libertad”を歌うのは“Women of the Pueblo”となっています。“pueblo”は“people”の意味で、「なんで“pueblo”だけスペイン語にしたんだろう?“Women of the People”でいいじゃないか」とツッコんでいました。

  第二幕の冒頭でアダム・クーパー演ずるラモンが歌うのは“La Ira De Ramon”という曲名です。“ira”は「怒り」という意味だそうです。“la”は冠詞、“de”は英語の“of”に相当するということです。ですから、“La Ira De Ramon”は「ラモンの怒り」という意味になります。

  クーパー君が担当した“Ramon”という名前については、これはファースト・ネームだそうです。従って、ラモンのファミリー・ネームは謎です。また、ディエゴとラモンの父親であるアレハンドロのフル・ネームは“Alejandro de la Vega”です。姓の前に“de la”が付くと、貴族階級を表わすのですか?と聞いてみたら、そうとは限らないそうです。“de”はフランス語と同じく「の」、“la”は冠詞で、単に出身地を表わすだけで、貴族階級でない人の名前でも使われるとか。

  歌われる曲名の中にはイタリア語も混じっているそうで(どれかは忘れた)、要は厳密にスペイン語のみを正しい文法で使用する必要はなく、とにかく「スペインっぽい」雰囲気を出せばいいのだ、ということなのでしょう。

  「ゾロ」の小説を発表し、今回の舞台のプロデューサーの1人として名を連ねているイザベル・アジェンデは、チリの大統領であったアジェンデ(←暗殺されたそう)の姪に当たる人だそうです。チリでは上流階級に属し、やんごとなき家柄の人だということですね。

  このミュージカル「ゾロ」は基本的に優れたミュージカルだと思うので、改善すべき点は改善して、ぜひウエスト・エンドに進出してほしいですね。その日が待ち遠しいです。  
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サイトを更新しました(2)

  といっても短いです。「ゾロ」第一幕の終わりまでです。毎晩、小銭貯金のように少しずつ書きためていったものですが、記憶が脱落している部分がかなりあるなあ、と自分でも思います。シーンは覚えているんですけど、どの順番で、どういうつながりで出てきたのか、かなり自信がありません。

  というわけで、話半分でお読み下さい。前に書いた部分も直したり付け加えたりしているので、お時間があったら読み直してみて下さいね。

  大体、3月~4月に公演が行なわれたのが不運でした。日本では最も慌ただしくて忙しい時期です。でもイギリスではそうじゃないですから、仕方のないことですが。

  今回もクーパー君のことをあまりほめていません。ファンのみなさん、本当にごめんなさい。
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サイトを更新しました

  サイトの「名作劇場」に「ゾロ」その一を載せました。あらすじが中心となっているので、記事を「名作劇場」に配しましたが、キャストたちのパフォーマンスについてももちろん書いてあります。

  ただ、アダム・クーパーのパフォーマンスや彼の現在のコンディションについては、かなりきついことを書きました。アダム・クーパーをけなされることには耐えられない、というみなさんには、本当に申し訳ないと思います。まさかアダム・クーパー関連の記事について、こういう申し開きを書かなくてはならないとは、思いもよりませんでした。

  ファンならば何が何でも褒めまくる、という道もあるのでしょうが、私は自分が感じたことを否定して、無理に良いほうに解釈することには、強い抵抗感があります。それで、舞台を観て思ったことをそのまま書きました。

  ひょっとしたら、アダム・クーパーの日本人ファンを減らす結果になるかもしれません。それでも自分の率直な感想を歪めてまで、無理やり褒めるという気になれませんでした。私はファンとして不適切なことをしたのかもしれません。でも、アダム・クーパーが「ゾロ」を皮切りに、これからどんどん舞台に立つのであれば、私が批判した点は自ずと改善されるものと信じています。だから批判的なことも書くことができたのです。

  実際の舞台を観ていないと、他人の書いた感想を絶対の真実であると思ってしまいがちです。勝手な言い草ですが、あれはあくまで私個人の感想であって、必ずしも真実とは限らない、と思って下さいますよう、お願い申し上げます。
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トリスタンとイゾルデ

  昨夜、終電が近くなったJR高田馬場駅前の広場は、新歓コンパで討ち死にした学生どもで溢れかえっておりました。ほほほ、酒の飲み方が分からないお子ちゃまたちはこれだから困るわね。私がつい飲みすぎてリバースしたのは、いつが最後だったかな・・・去年の春か。いい年こいて、酒の飲み加減が分からない大人にはならないようにしましょう、学生諸君。

  急性アル中で救急車を呼ばれそうな学生たちを尻目に(←かつての自分を見てるようで、つい冷たい目で見てしまう)帰宅し、お風呂に入って上がって、ポカリ飲んでぼんやりしていると、なぜか脳内にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が自動再生されました。で、久しぶりに「トリスタンとイゾルデ」を聴いています。

  ひょっとしたら、以前にも日記に書いたかもしれませんね。お金のなかった子ども時代、私はワーグナーのオペラ(と呼んではいけない作品もあるらしいが)を、NHK・FMが毎年末の深夜に放送するバイロイト音楽祭で聴いていました。それをカセット・テープに録音して、後で繰り返し聴くわけです。

  バイトで小金を稼いでいた学生時代、ようやくCDを買う余裕が持てるようになりました。ワーグナーの作品で最初に買ったのが「トリスタンとイゾルデ」でした。

  ワーグナーのオペラを生で観ようと思えば、何とかやりくりすれば観られそうな現在、ワーグナーへの興味はとっくに薄れてしまいました。「タンホイザー」、「さまよえるオランダ人」、「パルジファル」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ローエングリン」、「ニーベルングの指輪」4部作、そして「トリスタンとイゾルデ」、以前はうっとりとして聴いていたのが嘘のようです。

  今、本当に久しぶりに「トリスタンとイゾルデ」を聴いています。学生時代に買った懐かしいCDです。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団演奏、イゾルデはキルステン・フラグスタート、トリスタンはルードヴィヒ・ズートハウス。この録音は永遠の名盤と称されているものです。

  ちなみにトリスタンの家来であるクルヴェナールはディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウです。大ベテランのフィッシャー=ディースカウも、このころはまだ駆け出しの歌手だったんでしょうね。この録音を企画したプロデューサーはウォルター・レッグで、これまた名ソプラノとして有名なエリザベート・シュヴァルツコップは彼の妻にあたります。

  この録音は1952年の6月10~22日にロンドンのキングスウェイ・ホールで行なわれたそうです。合唱はなんとコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス合唱団です。このCDを買ったときには、録音がどこで行なわれたかなんて、まったく気にしていませんでした。今となってはロンドンとの縁が知らずにあったかのようで、不思議な気がします(大げさかな?)。キングスウェイ・ホールって、まだあるのでしょうか。

  久しぶりに聴いてみると、「トリスタンとイゾルデ」って、音楽がどこか変わっています。他の作曲家たちの音楽とは一線を画する際立った特徴があります。音楽の専門家なら上手に説明できるのでしょうが、私はただ「なんか変わっている」としか言えません。なんと表現すればいいのか、微妙にズレていて、お約束的に調和していない感じです。「音楽はこうすればこう決まる」という法則を敢えて外して作曲しているような印象です。前奏曲からして変わっています。昔は美しいとばかり思って聴いていたのに。でももちろん、今も美しい旋律だと強く思いますよ。

  次に思ったのは、「トリスタンとイゾルデ」って、バレエ化されていないのかな、ということです。これはまさにバレエにうってつけなお話だと思うのですが。

  アイルランドにコーンウォールの軍が攻め込み、コーンウォールの騎士トリスタンは、アイルランドの王女であるイゾルデの婚約者を殺してしまいます。トリスタンはイゾルデをコーンウォールのマルケ王の妻とするため、イゾルデを船に乗せてコーンウォールに送り届けます。復讐の念に燃えるイゾルデは、侍女に命じて毒酒を用意させ、和解の杯と偽って、自分も死ぬ覚悟でトリスタンとともに毒酒を飲み干します。

  ところが、侍女が二人に飲ませたのは毒酒ではなく、愛の薬が入った酒でした。やがて目覚めたトリスタンとイゾルデは互いを深く愛していることに気づきます。イゾルデはマルケ王の妃となりますが、王の目を盗んではトリスタンと密会を重ねます。ところが、それが露見してトリスタンは王の家来に傷つけられ、自分の領地であるブルターニュに逃亡します。

  瀕死のトリスタンの元へ、イゾルデとマルケ王がやって来ます。マルケ王は事の次第を侍女から聞いて、トリスタンを許し、トリスタンとイゾルデを結婚させようというのです。イゾルデがトリスタンの元へたどり着いた瞬間、トリスタンは「イゾルデ」とつぶやいて息絶えます。トリスタンの死を目のあたりにしたイゾルデは、有名な「愛の死」を歌って自らも息絶えます。

  お話はバレエにうってつけだけど、音楽は難しいですね。ワーグナーは「オペラの音楽は歌なしで演奏したとしても、一個の音楽として成立し得るべき」と考え、自分のオペラの曲は歌なしで演奏しても鑑賞に堪えうるように作ったといいます。それで、ワーグナーのオペラの曲は、オーケストラのみによって演奏されたり、録音されたりする機会が多いのだと思います。

  でも、「トリスタンとイゾルデ」は長すぎるし(ワーグナーのオペラは鬼のように長いです。「神々の黄昏」なんて、第一幕だけで2時間あります)、他の多くのオペラと違って、曲と曲との間のはっきりした区切りがないし、曲を切り貼りしたり、つなぎ合わせたりするのはかなり困難でしょう。

  「ニーベルングの指輪」は、モーリス・ベジャールがバレエ化しているとどこかで読んだことがあります。上演時間はどのぐらいなんでしょうね。

  ここからは願望(=妄想)です。アダム・クーパーが誰かの振付による(もちろん本人の振付でもOK)「ニーベルングの指輪」に出演するなら、絶対に火の神ローゲですね。ジークフリートでもかまいません。

  アダム・クーパーが誰かの振付による(もちろん本人の振付でもOK)「トリスタンとイゾルデ」に出演するなら、いうまでもなくトリスタン役ですな。「タンホイザー」もいいよねえ。もちろん異端の愛と純愛との間で苦しむタンホイザー役です。「さまよえるオランダ人」は似合いそうな役がいまいちないですね・・・やっぱりオランダ人かな。「パルジファル」は絶対にパルジファルだよね。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は却下(←私の唯一好きでないワーグナー作品)。「ローエングリン」は絶対にローエングリン役です。白鳥の騎士だもの(笑)。

  これは以前に日記に書いた覚えがあるけど、「ファウスト」はどうしてバレエ化されないのでしょう?オペラだって3種類くらいはありますよね?もしバレエ化されたら、クーパー君はもちろんメフィストフェレス役。絶対にはまり役になると確信できます。そういうプロジェクトがないかなあ。

  てかその前に、きちんとエクササイズとレッスンに励んで、以前の調子を取り戻さないといけませんよクーパー君。妄想の話でも現実のプロジェクトでも同じことです。

  飲み会で遅くなって疲れたから、早く寝ようと思ってたのに、ナニやってんでしょ。
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猫の家出について

  個人的にあまりこういうことには触れたくないのですが、このブログがどのようなキーワードによって検索されているのか、その解析結果を見ると、猫の家出で困ってらっしゃる方々がこのブログをご覧下さっているようです。そこで、ウチ(実家)の猫の家出の顛末を書いておきたいと思います。ウチの猫がいなかった間の鬱々とした気分を思い出すと、やはり他人事とは思えませんので・・・。

  ウチの猫が家出したのは去年(2007年)の9月のことでした。ある日、外に遊びに行ったまま、帰ってこなくなったのです。普段は短くて1時間弱、長くても2~3時間で帰ってくるのですが、そのときは数日経っても帰ってこず、家族はマジに心配し始めました。

  最初は実家の近場を探し回ったのですが、見つかりませんでした。次にとった行動は、市の動物保護センターや動物の死骸などを処理する部署に問いあわせることでした。そこでも該当する猫はいないとのことでした。でも、数日置きに問い合わせることを続けました。

  次に、猫の写真を載せたチラシを作成し、近所の商店、コンビニ、スーパー・マーケット、公民館、動物病院に貼りまくりました。

  同時に、猫が立ち寄りそうな場所を探しまくりました。もしかしたら道に迷ったのかもしれない、ということで、けっこう遠い場所にも足を伸ばしました。

  やれることはやりましたが、一向に手がかりがありませんでした。猫が家出してからほぼ3週間が経ち、家族はほとんどあきらめかけていました。ところが、母親が外出先から帰宅したところ、家出していた猫がひょっこりと迎えに出たのです。

  猫はひと回り痩せて小さくなっていたそうです。母親が猫の体を調べたところ、治りかけの傷が数ヶ所見つかったので、速攻獣医さんのところへ連れて行きました。

  獣医さんは猫の体を診察し、傷は大したことはないし、また少し痩せたとはいえ、3週間もいなかった割にはほとんど衰弱していないので、どこかでエサをもらいながら過ごしていたのではないか、ということでした。

  ウチの猫はメスです。メス猫の場合は、家出してもさほど遠くには行かないそうなのです。でも、他の猫とケンカした形跡が残っているので、傷の具合が良くなって動けるようになるまで、静かなところで休んでいたのではないか、ということでした。

  獣医さんが言うには、猫が家出して帰ってこない理由は三つだそうです。

  ・飼われている家で大事にされていない。
  ・「さかり」のせいで外に出てしまい、なかなか家に帰りたいと思わない。
  ・自分のテリトリーを越えて遠出してしまったため、道に迷ってしまって帰れない。

  ウチの猫の場合は、「さかり」が原因で家出し、他の猫とケンカをしつつ、家の近場をうろうろしながら、他の家からエサをもらって過ごしていたのではないか、というのが獣医さんの推測でした。

  オス猫の場合は少し難しいようです。オス猫は独立心が旺盛なので、遠くに行ってしまって、二度と家に帰らない可能性がメス猫よりも高いそうなのです。

  メス猫であれ、オス猫であれ、家出を防ぐ策としては、まず不妊手術をすることが有効です。ホルモンの活発化が抑えられるため、家出したいという欲求が薄まります(完全になくなるわけではありませんが)。それから、外に出さないことです。人間は動物にヒューマニズムを当てはめて、「不妊手術はかわいそう」、「家に閉じ込めておくのはかわいそう」という考えに陥りがちです。

  しかし、動物を飼うのなら、心を鬼にして、どちらかを選択すべきでしょう。つまり、猫がいなくなるかもしれないとしても、猫の自然の欲求や行動に任せるか、それとも猫を失う危険を回避するために、人間が言うところの「犠牲」を猫に強いるかのどちらかです。猫が不妊手術を受けても、それで自分が性的アイデンティティーを失った、と猫が落ち込むことはありませんし、外に遊びに出ていた猫でも、1週間から2週間も外に出さないでおけば、家の中でだけ生活することに慣れます。

  それから、猫には人間の言葉が分かります。猫が外に遊びに行くときに、「あまり遠くに行かないようにね」、「1時間だけだよ、1時間したら帰ってくるんだよ」、「なるべくすぐに帰ってくるんだよ」等の言葉をかけ、そのとおりに帰ってきたら抱っこして褒めてあげる。

  また、飼い主が外出するとき、猫は不安に陥るかもしれません。ですから留守にするときには、出がけに猫に向かって「何日に帰ってくるからね」、「何時に帰ってくるからね」、「あなたを見捨てるのではないんだよ、ちゃんとあなたのところに帰ってくるからね」といった言葉をかけてあげれば、猫はそれを理解して安心します。そして帰宅したときには、抱っこして「いい子にして待っていたんだね、お利口だね」と褒めてあげる。

  私個人は、最後に書いた、猫に事情をきちんと説明して言い聞かせることが最も大事で、かつ最も有効な策であると思います(マジで)。

  家出して路頭に迷う猫が少しでもいなくなるように、猫がいなくなって悲しい思いをしていらっしゃる方々が少しでもいなくなるように、心から願ってやみません。
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忘れたころにトロカデロ

  宅配でチケットが届きました。心当たりがなく、「この時期にチケットが送られてくるとは、はて、何のチケットであろうか?」と不思議に思いながら封筒を受け取りました。そしたら、トロカデロ・デ・モンテカルロ・バレエ団の今夏の日本公演のチケットでした。すっかり忘れてました。

  チケットを購入したときのことをよく覚えていないのですが、確か、去年の公演を観に行ったときに、会場で今年の公演のチケット優先予約のチラシをもらって、それを使って申し込んだんじゃなかったかな。チラシに郵便振替の用紙がついていて、それに観に行きたい公演日、席種、チケットの枚数、購入金額の合計+郵送料を書き込んで、そうやって予約した記憶があります。

  チケットが届いて、やっと席番が分かりました。前から3列目です。といっても端っこの席のようですが(←やっぱりファン・クラブに入っていないからね)、でもとても嬉しいです。オペラ・グラスが要らない距離でしょう。ダンサーたちの超絶テクニックと爆笑演技を間近に観ることができます。

  演目に変更がなければ、トロカデロ版「ジゼル」を観ることができるでしょう。想像するだけで噴き出してしまいます。凶悪でヤンキーなミルタが楽しみです~。

  一方、グランディーバ・バレエ団はもう日本公演を開始しているようで、私の郷里、秋田にはさっそく今月やって来るそうです。母親がグランディーバ・バレエ団秋田公演の主催者のファン・クラブ会員になっていたので、今回も一般発売前にチケットをゲットできました。てか、チケットの申し込みや代金の振込みなど、一連の手続きをしたのは、今年も私だったのですが(正月に帰省したときにやった)。

  秋田には去年の11月にキエフ・バレエが来たそうですが、母親は観に行きませんでした(私は勧めたんですけどね)。その前の9月に母親が上京した折、私はマリインスキー&ボリショイ・バレエ合同ガラ公演に母親を連れてったので、それで満足したみたいです。でもグランディーバ・バレエ団は「別腹」のようですな。母親が習っている日舞のお師匠さん、一緒に習っているお友だちと観に行くそうです。感想を聞くのが楽しみです。

  話は変わりますが、トロカデロといい、グランディーバといい、日本のバレエ界でほとんど無視されているのはどうしてなんでしょうね?バレエ雑誌とかで、彼らに関する記事を読んだ覚えがありません。やっぱり「キワモノ」扱いされているのかなあ。

  イギリスの某大手バレエ・サイトでは、掲示板でトロカデロ(「トロックス」と呼ばれている)の専用スレが立つほど大人気なようですが、日本では「男が女装して踊るなんて、しかもバレエの古典をパロってお笑いにするなんてけしからん」みたいに捉えられているのでしょうか。トロカデロもグランディーバも、ほとんど「日本全国行脚巡礼の旅」的に隈なくツアーして回っているのに、日本のバレエ界では無視されている。私にはどうしてもその理屈が分かりませんです。
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