ハンプトン・コート

  (ハンプトン・コート・パレス内を歩いている、チューダー朝時代の衣装を着た楽師。幽霊ではありません)

  ウォータールー駅から直通の電車が発着していまして、ついに行ってきましたハンプトン・コート・パレス。ヘンリー八世の居城として有名で、18世紀末までイングランドの宮廷が置かれていた城です。

  公開されている部分はチューダー・キッチン(ヘンリー八世時代の台所)、ハンプトン・コートに居住していた歴代の王や女王の居室、そしてそれぞれが大きくていくつもある庭園です。見学時間は少なくとも4時間は見積もったほうがいいです。

  ハンプトン・コート・パレスは赤レンガのチューダー朝の外観を保っていますが、実は外側も内側も、改築してはぶち壊して改築、またぶち壊しては改築、と歴代にわたって変化してきたものだそうです。ヘンリー八世時代の建物、家具、調度は一部が残存しているのみで、他はほとんど近年になって復元されたのだということです。

  とはいえ、家具や調度は精巧なレプリカか、あるいは同時代のものを置いて復元しているし、建物も改築に次ぐ改築を経ているといっても、それでも多くの部屋がヘンリー八世時代の面影を残しているので、充分に歴史ロマンに浸ることができます。

  ヨーロッパの有名な宮殿のように金ピカの豪華絢爛さはないのですが、天井の美しい装飾、壁にかけられた歴代の王侯貴族の肖像画、絵画、タペストリー(絵を刺繍してある薄いじゅうたんみたいなもの。とにかくデカい)は見ものです。

  そして、イギリスといえばお化け、お化けといえばハンプトン・コートといわれます(←?)。ヘンリー八世の居室群にある「ホーンテッド・ギャラリー(ギャラリーは絵を飾ってある広い廊下のことらしい)」は、ヘンリー八世の何番目かの妻(ヘンリー八世は7回結婚した)で、後にロンドン塔で処刑されたキャサリン・ハワードのお化けが出ることで有名です。

  キャサリン・ハワードは不倫したという疑いでハンプトン・コートに幽閉されていましたが、あるとき監視の目を逃れて、ハンプトン・コート内のチャペルで祈祷をささげていたヘンリー八世に弁明に行こうとし、このギャラリーを駆けていったそうです。しかしヘンリー八世はチャペルの扉を開けさせず、キャサリン・ハワードは衛兵たちに引きずられて、幽閉されていた部屋に戻されたとか。以来、このギャラリーでは、叫びながら駆けていくキャサリン・ハワードの幽霊が見られるようになったそうです。

  このギャラリー、大廊下はさほど長くなく、またそんなに幅があるわけでもありません。壁にいくつか絵がかかっているだけの簡素なものです。折しもこの日の天気は曇り、ギャラリーは暗く、まさしく絶好のお化け日よりです。期待に胸ふくらませてわざとゆっくり歩きました。幽霊といえど、お妃様ならばさぞ美しい人であろうし、しかも歴史上有名な人物ならば、ぜひともこの目で見てみたい。

  でも残念ながら、キャサリン・ハワードは私の前には現れてくれませんでした。やっぱり庶民の前には姿を現さないのかなあ。ていうか、私は霊感ゼロ人間だものなあ。チューダー王朝時代の服装をしたガイド(男女複数。ヘンリー八世のそっくりさんもいる)なら、何人も城内を歩いているのですが。

  屋内にはヘンリー八世の肖像画がいくつもかけてありました。よみがえる疑問。ロンドン塔にはヘンリー八世の甲冑が展示されています。その甲冑の股間部分がですね、モッ○リと突き出ているのです。肖像画では、ヘンリー八世は袖のゆったりした、膝丈の前開きの上衣を着ているのですが、やっぱり股間部分が上衣の間からにょっきりと突き出ているのです(もちろんシャツか下着らしいものは着ているが)。どの肖像画も同じです。これはいったいなぜなのか!?そんなに自慢だったのか!?

  城内を見学するだけで疲れたので、庭は適当に見ました。ていうかね、お城の庭っていうのは、王様や王妃様がお城の中から眺めたときに美しいようにできているのであって、実際に庭に下りて見たときに美しいようにできているのではないのです。だから、ハンプトン・コートの庭は、城内(特に王や王妃の居室群)を見学しながら、ときに窓の外を眺めて楽しんだほうがいいと思います。
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「良い舞台」とは(2)

  (ナショナル・シアター前でおバカな水芸を披露していたパフォーマー。でも大笑いした)

  「オズの魔法使い」の各紙での評判は芳しくありませんでした。私も1回目に観たときには、「ゾロ」と比べてあまりに稚拙な舞台装置や効果に呆れました。わるくいえば、学校の学芸会レベルでした。レヴューでの評価が低かったのはこのことが最も大きいと思います。

  批評家たちは、ジュディ・ガーランド主演のゴージャスな映画が、今回の舞台で最新技術を駆使して、よりゴージャスに再現されるであろうと期待していたのでしょう。でも、実際はまったく違いました。

  たとえば、風景などは舞台中ほどの天井に据え付けられたスクリーンに映像が映し出されるだけで、大がかりかつ巧妙な装置の転換などはほとんどありません。しかも、その映像ときたら、ありふれた風景の写真や、子どもが描いたような稚拙な絵なのです。

  竜巻もあまりに簡単な黒の「ぐるぐるマーク」が映し出されて、それはまったく迫力に欠けました。エメラルド・シティもスクリーンに絵を映して表現していました。それがあまりにポップなかわいい絵で、お世辞にも美しいとは全然いえません。

  あとは、ドロシーの部屋のセットが、後で西の魔女の「城」として使われていて、かかし、ブリキのきこり、ライオンが、粗末な部屋のセットを指さして、「あれが西の魔女の城だ!」と叫んだときには、思わず噴き出してしまいました。

  かろうじて、「レ・ミゼラブル」のような回転舞台を用いて、その上に簡素なセットや人物を置いて登場させることで、場面転換を行なっていました。

  また、マンチキン・ランドの場面では、子どもたちが大勢出てきて小人を演じていました。これも子どものきらいな「大人」の批評家たちには気に入られなかったでしょう。

  北の魔女グリンダや西の魔女が登場したり消えたりするシーンも、魔女なのに人間のように扉から出てきて現れ、扉の中に入って姿を消すのです。火はドライアイス、雪は銀色の紙吹雪を用い、りんごの木は女性キャスト3人が背中に枝をくっつけて演じました。衣装はチェックのシャツにズボン、帽子という普通の服装です。カラスも燕尾服に黒いタイツ姿の男性キャスト3人が、両腕を鳥の翼のようにゆらゆら動かしながら演じ踊りました。

  最も笑えたのは、西の魔女がドロシーに水をかけられて溶けて死ぬシーンです。ベッドの上に立っていた西の魔女に向かって、ドロシーがバケツの水(銀の紙)をかけます。すると、西の魔女はベッドの中に沈んでいって「溶けて」しまいます。西の魔女が溶けた後のベッドがモコモコと動いていて、もはやトリックともマジックとも呼べないレベルです。

  最初に観たときは、なんだこれは、あまりにひどすぎる、と正直なところ思いました。でも2回目に観たときには、これは明らかにわざとこういう簡素なセットや稚拙なトリックにしたのだ、と分かりました。その理由も察しがつきました。

  この「オズの魔法使い」は、子どもたちのための舞台なのです。演じるにとっても側も、観る側にとってもです。スクリーンに映した稚拙なイラストは、子どもたちが実際に「オズの魔法使い」を描いたものなのでしょう。観客は子どもが非常に多いです。そうなるとチケット価格を低く設定せざるを得ませんから、低予算で作らなければならなかったわけです。また、この舞台は期間限定公演ですから、金もうけのための舞台ではありません。

  それを如実に示していたのが、見えにくい席には客を入れていなかったことでした。最初から販売していなかったのです。1階席前3列は、座席が取り払われてオーケストラ・ピットになっていました。実質的な最前列である4列目にも客を入れていませんでした。オーケストラ・ピットのせいで舞台が見えにくく、またオーケストラ・ピットと4列目の座席の間をキャストたちが走り回るからです。2階席で舞台に最も近い席(左右のウイング席)にも客を入れていませんでした。ますます予算を低くしないといけなかったでしょう。

  私は前から数列目の席のチケットばかりを買いました。オペラ・グラスのいらない、非常に観やすい席です。それでも40ポンドでした。

  今回の「オズの魔法使い」は、ハリウッド映画の再現や金もうけを目指したプロダクションではなく、内容の深さと充実したキャストのみで勝負に出た公演なのです。大人のキャストに関しては、主な登場人物をはじめとして群舞にいたるまで、すべて高い能力を持つキャストで固めてあります。

  大規模なロイヤル・フェスティバル・ホールの客席はいつも満席です。驚いたことに、各メディアのレビューでの評価が低かったにも関わらず、観客の反応は非常に良いのです。毎回すごく盛り上がっています。ストーリーに深みがあり、キャストたちが良いパフォーマンスをしているからでしょう。稚拙なトリックも、観客はもちろんからくりを知っていて、それでも笑いながら拍手するのです。茶化している感じはありません。とても暖かい雰囲気です。

  演じる側といい、観る側といい、なんというか、この公演は非常に「性質(タチ)が良い」感じがします。

  この舞台でのクーパー君はとても自然で、パフォーマンスは非常にすばらしいです。前に書いたように、踊りがとにかくいいです。踊るととたんにデカくなります。ジャンプは軽く跳んでいるだけなのに、脚は少し上げているだけなのに、異様に高く見えます。尺取虫のようにクネクネ、ギコギコした動きで踊るソロは、踊っている最中から観客の喝采を浴びていました。やはり踊りになると、他のキャストたちとは明らかに違います。

  もともとロイヤル・バレエでいろんなコンテンポラリー作品を踊っていた人ですから、このブリキのきこり役も、彼にとっては大したことはないのでしょう。クーパー君が人形のようなぎこちない動きで踊る姿は、今となってはあまり観られる機会はないと思うので、観られてよかったです。

  舞台に出ずっぱりなのも嬉しいです。ブリキのきこりの他に、最初と最後ではヒッコリー役として、Tシャツにオーバーオールという普通の兄ちゃんの姿でも出てくるので、一粒で二度おいしいというか、得をした気分になれます。オーバーオールなんてダサい、と思われるかもしれませんが、彼は変わった着方をしています。オーバーオールのベルトを締めて、上身ごろを下に垂らしているんです。上は広い丸首の白い長袖Tシャツで、すごい似合います。

  最後、ブリキのきこりがドロシーに別れを告げて去ってから、目覚めたドロシーの前にヒッコリーが現れるまで、そんなに時間がありません。せいぜい衣装を変えて銀粉メイクを落とすのが精一杯でしょう。ですから、最後はメイクなしの素顔で出てきていると思います。上にはねた前髪が額に幾筋か斜めに垂れて、ほんとにカッコいいです。クーパー君がヒッコリーとして再び現れると、客席から笑いが起きました。みんな「ハンサムだ」と思っているのでしょう。私ももちろんそう思っています。
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「良い舞台」とは(1)

  (ポロックス・トーイ・ミュージアムに展示してあったドール・ハウス)

  28日は昼に「ゾロ」(ギャリック劇場)を観て、夜はまた「オズの魔法使い」を観ました。午前はグッジ・ストリートにあるポロックス・トーイ・ミュージアムに行きました。小さな博物館ですが、建物は1780年、1880年の建設と古く(古いビルに新しいビルをくっつけて作ったらしい)、1780年建設のビルの天井は、1880年建設のビルの天井よりもはるかに低いのが面白かったです。

  昔のおもちゃをたくさん展示してある博物館で、特にヴィクトリア王朝時代のドール・ハウスは圧巻でした。おもちゃというよりはミニチュアの家です。デザインも材料も本物の家とほぼ同じものを使って作られていて、またとにかく大きいです。丈と幅と奥行きが1メートル近いものもありました。

  説明ボードには多く「このドール・ハウスは○○氏夫妻の娘△△のために作られた」と書いてありました。つまり特注品です。なるほど、こういう豪華なおもちゃは、お金持ちの子どもしか手に入れることができなかったんだな、と当たり前のことを思いました。展示品から見ると、庶民向けの安価なおもちゃが量産されるようになったのは、第一次世界大戦以降のことのようです。

  それから紙でできた劇場のおもちゃも面白かったです。すべて紙製だけど、奥行きのある舞台があって、舞台装置もあって、キャストやオーケストラの紙人形も揃っています。キャストの紙人形は動かせるようになっているらしいです。イギリスで劇場文化が発達したのは、子どものころからこういうおもちゃに慣れ親しんでいたせいもあるのかもしれません。

  「ゾロ」は、脚本やストーリーがこの春のUKツアーとは大いに違っていました。舞台装置や効果もお金をかけたと分かる豪華なものになっており、ウエストエンドで上演するにはこれぐらいでないといけないんだな、と思いました。

  UKツアーでアダム・クーパーが演じたラモンは、クーパー君が日記に書いていたようにせりふだけの役でした。キャラクターも違っていて、大それた陰謀をめぐらす割には、意外と気が弱くてしかもマザコン、という人物になっていて、ゾロによって胸に「Z」の傷をつけられると異常にうろたえて混乱して、血だらけの姿で街中を走り回り、更にイネズに甘え、果てには自分自身の陰謀に怯えて、教会に行って懺悔するなど、かなり滑稽で笑えるキャラになっていました。こんな役をクーパー君がやらなくてよかった、と安心しました。

  そうそう、ラモンの本名は「ラモン・エドアルド・デ・ラ・モラレス」というらしいです。

  登場人物にも改変があり、ジプシーの少年、チェゴはなくなっていました。チェゴの役割はイネズに割り当てられていました。驚いたことに、ラモンに殺されるのもイネズでした。それで、好意を寄せていたイネズを殺されたガルシアがゾロに寝返る、という流れになっていました。ガルシアは最初からラモンと共謀関係にあったことを示すシーンが最初のほうでありました。

  ジプシー・キングスのヴォーカルの人も初めて舞台に登場して、あの声で生で歌いました。テレビCMでしか聴いたことのない歌声を生で聴けて感動しました。

  「ゾロ」は各紙のレヴューで4つ星を獲得しており、非常に好評なようです。確かによくできた舞台でした。でも、「良い舞台」を作るために、脚本をうまくまとめ、お金をかけて装置や衣装を作りかえ、更に不適切なキャストを入れ替えました。UKツアーでのルイサ役だったエイミー・アトキンソンは役から降ろされました。たぶん、彼女の演技や踊りの能力が、作り手側の要求を満たさなかったためだと思います。

  アダム・クーパーが担当したラモンもキャラクターが大いに改変され、アダム・クーパーに特に合わせて設けられたのであろう歌や踊りもすべて削除されました。それで、アダム・クーパーは降板しました。脚本の改変によってやむを得ず、といえば外聞はいいですが、結局は彼もまた作り手側の要求を満たすことができなかったのだと思います。つまり、ウエストエンド公演にアダム・クーパーは不要である、と判断されたのでしょう。

  ウエストエンド公演のルイサ役の人は確かに能力の高い人で、演技、踊り、歌すべてにおいてエイミー・アトキンソンよりもプロフェッショナルでした。更に付け加えると、エイミー・アトキンソンよりも美人です。ただ、ウエストエンド公演のルイサ役の人は、特に歌い方がいかにも「ウエストエンド仕様」でした。別に悪いことではないんですが、この舞台はすべてがウエストエンド仕様です。

  私はいちばん安い席で観ましたが、それでも47ポンドもしました。席は後ろから2番目で、しかも2階席の天井に遮られて舞台の上半分が見えません。天井を大きく使う「ゾロ」で、舞台の上半分が見えないのでは面白さも半減です。よくもこんな劇場で公演をすることに決めたもんだな、と正直不満でした。

  「舞台が見えない席があるのは、ウエストエンドの古い劇場なら当たり前」なのでしょう。それに「ゾロ」は作品の完成度が確かに非常に高いです。でも、UKツアーからウエストエンド公演に至るまでの過程と実際の公演には、全体的に「商売第一」、「売らんかな」の雰囲気が強く漂っていて、すんなりとは納得できないモヤモヤしたものを感じるのです。

  なんで今さらそんなふうに感じたのかというと、ロイヤル・フェスティバル・ホールの「オズの魔法使い」は、ギャリック劇場の「ゾロ」とは、あらゆる面で正反対だったからです。

  時間がないので、続きはまた明日。これからハンプトン・コートに行ってきます。  
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観てきました

  (会場のロイヤル・フェスティバル・ホールのグッズ売り場で売っていた、ブリキのきこりのぬいぐるみ。つい買ってしまった)

  「オズの魔法使い」、27日の昼公演を観てきました。クーパー君、とてもよかったですよ。踊るシーンが多いし、普通の仕草であっても、「ブリキのきこり」なので、はじめから終わりまで徹底してギコギコした動きで通してました。仕草だけでなくポーズも同様で、人形みたいな、奇妙に硬直した姿勢を常にしてました。

  久しぶりにアダム・クーパーのあんな姿を見られて嬉しいです。踊りはバレエ的な振付のものとタップ・ダンスとがありました。カクカクした動きを保ちながらの踊りの中にも、見ている側がついギョッとするような、緩急のツボをおさえた手足の動き、ダイナミックなキック、また素早い回転やジャンプなどがありました。明らかにバレエのムーヴメントやステップを用いており、まだ彼はバレエが踊れるのだ、と確信しました。

  仕草の中にも客席が思わずどよめくような動きがありました。ブリキのきこりが顔から前に向かって倒れるシーンでは、彼は直立不動のままガーッと前に勢いよく倒れました。客席から悲鳴が上がりました。ところが、クーパー君は床に顔がぶつかる寸前で、両手をさっと横に出して全身を支えました。あれには私もびっくりしました。また、ブリキのきこりはライオンの咆哮に驚いて後ろに倒れます。クーパー君はそれからしばらく四肢を曲げて硬直させたまま微動だにしませんでした。ドロシーに助け起こされるまでそのままでした。これぞプロです。

  歌うシーンも多くありますが、彼には向いている歌のようです。また、他の登場人物と一緒に歌うので、上手下手はあまり気になりませんでした。うまくハモってました。

  セリフ回しもよかったです。彼はヒッコリーというドロシーの農場で働く男性と、ブリキのきこりの2役を担当しました(現実のドロシーの周囲にいる人物が、夢の中でいろんなキャラクターになるので)。ヒッコリーのときは陽気な声音で、ブリキのきこりのときは、油が足りなくてフゴフゴとくぐもったヘンな声から、弱々しい声音、憧れに満ちた甘い声音、強い声音までいろいろでした。くるくると器用に使い分けていました。

  ヒッコリーのときは、クーパー君は白いTシャツにオーバーオールの前をぶら下げた格好で、髪と顔は素です。ヒゲもありません。Tシャツの丸い広い襟口から長い首がすっきりと伸びていて、その上に小さな顔と頭が載っています。3月に観たときよりも痩せたようです。短い髪、直線的な眉、実に男前です。ううっ、なんてイイ男なんだ、と心の中で唸っちゃいました。

  明日も観にいくので感想はあらためてまた。そうそう、テンプルのサマセット・ハウスにあるコートールド美術館にも行きました。小さいながらも、コレクションはいずれも名作ぞろいで、少数精鋭の美術館といったところです。特に印象派のコレクションはナショナル・ギャラリーよりもはるかに充実していました。他にルーベンス、ブリューゲルの絵画も多数あります。鑑賞するにはちょうどよい量です。2時間もあればじっくりと全絵画を鑑賞できます。ここはおすすめです。 
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着きました

  (ケンジントン・ガーデンズの近くの工事現場の塀。かわいい)  

  今はロンドン時間8月26日午後8時です。空はまだ明るいです。午後3時くらいにヒースロー空港第5ターミナルに着きました。第5ターミナルはこの春に新しく落成したもので、ブリティッシュ・エアウェイズが占有している状態だそうです。だから、ブリティッシュ・エアウェイズを使うのなら便利・・・と言いたいところですが、そうでもないです。

  ゲートに到着してから、まずシャトル(凄まじいスピードで転びそうになった)でターミナル・ビルに行き、それからくねくねと折れ曲がった長い廊下を歩いて、更にロンドンの地下鉄の駅みたいな長いエスカレーターを上って、そしてようやく入国審査のフロアに着きます。

  今回の入国審査は珍しく、帰りの飛行機のチケットを持っているかと聞かれたので、出して見せました。不法滞在しそうに見えたのかしらん。

  ブリティッシュ・エアウェイズのエコノミー・クラスの機内食は、激マズに逆戻りしていました。きっと原油高のせいだわ。

  まず食事。にんじんや溶けかけたブロッコリーが入ったミート・ソースの上に、マッシュ・ポテトがたんまり載せてあるもの。これは名状しがたいマズさでした。私の「歴代マズかった機内食ベスト10」でも上位にランク・インするほどでした。それにポテト・サラダ、パン、アップル・パイ、チョコクッキー。マッシュ・ポテトに、更に敢えてポテト・サラダを添えるというのが肝心です。

  おやつ:チーズとトマトをはさんだパン、せんべい、水、お茶かコーヒー。着陸前の軽食:トマト・ソースがけペンネ、フルーツ・サラダ、チョコレート・ケーキ水、お茶かコーヒー。

  例によって怒涛のオール炭水化物&でんぷん攻撃で、最後には「エコノミーの客をメタボにして殺す気かー!」と思いました。

  そうそう、ヒースロー空港の第5ターミナルですが、バス乗り場、地下鉄、ヒースロー・エクスプレスの駅はちゃんとあります。別のターミナルに移動する必要はありません。でも他のターミナルに比べると遠いし広いし構造が複雑なようなので、第5ターミナルから飛行機に乗るときには、充分な時間的余裕を持って行動したほうがいいです。私も気をつけます。

  B&Bの部屋は小さいですがベッドはダブルでした。両手を広げて寝られます♪

  そして、アダム・クーパー&サラ・ウィルドー夫妻に女の子の赤ちゃんが生まれたそうですね。おめでとうございます 母子ともに元気とのこと、本当によかったです。それにしても、クーパー君は本当に運のいい人です。よりによって休みの日に赤ちゃんが生まれたなんて。もちろん奥さんに付き添うことができたでしょう。よかったよかった。

  「オズの魔法使い」は明日の公演を観に行きます。父親になったクーパー君のパフォーマンスがどんなものか、本当に楽しみです。
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ヨハン・コボーが来てました

  昨日と今日と、小林紀子バレエ・シアターの公演(「マクミラン・ダイヴァーツ」、「ラ・シルフィード」)を観に行きました。会場がゆうぽうとホールなのに、例のとおりあまり宣伝してなかったので、客の入りは大丈夫かと他人事ながら心配しましたが、このバレエ団にしては上々の入りでした。

  うーむ、演目(たぶん「ロミオとジュリエット」からバルコニーのパ・ド・ドゥ、「マイヤーリング」からルドルフとシュテファニーのパ・ド・ドゥ)が、通常はこのバレエ団の公演に来ない人々の関心を呼んだのか、それともゲストのデヴィッド・ホールバーグ(アメリカン・バレエ・シアター プリンシパル)人気の効果か、あるいは年末の「くるみ割り人形」並みの大召集をかけたのでしょうか。

  「マクミラン・ダイヴァーツ」は、「ロミオとジュリエット」よりバルコニーのパ・ド・ドゥ、「エリート・シンコペーションズ」よりBethena-A Concert Waltz、「マイヤーリング」よりルドルフとシュテファニーのパ・ド・ドゥという構成でした。

  「ロミオとジュリエット」のバルコニーのパ・ド・ドゥは小野絢子と中村誠が踊りました。流れるような美しさにはちょっと欠けていましたが、中村君は難儀なリフトをきっちりこなしていました。ソロは少し硬かったかもしれません。小野さんの踊りはしなやかで柔らかでした。また小野さんのジュリエットの演技も、生き生きとしていて且つ初々しい感じで、役作りが緻密ですばらしかったです。

  フリー・ペーパーの「DANZA」によれば、この5月の新国立劇場バレエ団「ラ・バヤデール」の「影の王国」のシーンで、全公演を通じていちばん前でアラベスク・パンシェをしていた「影」は、この小野絢子さんだったそうです。

  「エリート・シンコペーションズ」よりBethena-A Concert Waltzを踊ったのは萱島みゆきと中尾充弘でした。これはおしゃれでステキでした~。2日目よりも初日のほうがむしろ自然でなめらかだったかも。中尾充弘は役にハマりきっていて、どこか笑える気取った色男を演じていました。カーテン・コールでも去り際に片手でカッコつけて髪を撫でつけ、観客の笑いを誘っていました。萱島みゆきさんも体の線がセクシーで、手足の動きもしなやかでした。表情も色っぽかったです。

  ほんまにやるんかいな、と思っていた「マイヤーリング」よりルドルフとシュテファニーのパ・ド・ドゥは、冨川祐樹と高橋怜子が踊りました。正直なところ、踊りになっていませんでした(笑)。ふたりとも振りを追いかけるのに精一杯で音楽に乗っていなかったし、前の動きと次の動きがリンクしていなかったし、複雑で激しいリフトやサポートはほとんどの場合うまくいっていませんでした(これは別に冨川君だけのせいではない)。つまりは、それほどこのパ・ド・ドゥは超難しいということです。

  最後にはふたりとも疲労困憊しているのが分かりました。それでも最後までよく踊りぬきました。更に、踊りばかりではなく、それぞれの演技でも、彼らは決して最後まで手を抜きませんでした。よく頑張りました。努力賞。

  「ラ・シルフィード」は、デンマーク・ロイヤル・バレエの出身で、現在は英国ロイヤル・バレエのプリンシパルであるヨハン・コボーが、ブルノンヴィル版を元に振付・演出したものです。2005年に英国ロイヤル・バレエで初演され、後にボリショイ・バレエでも上演されたそうです。

  シルフは島添亮子、ジェームスはデヴィッド・ホールバーグ、エフィは小野絢子(23日)、萱島みゆき(24日)、ガーンは中村誠、マッジは楠元郁子(23日)、大和雅美(24日)でした。

  昨日の初日に観たときはなんかつまんない作品だな、と思ったのですが、今日あらためて観たら、なぜか物語の中にぐんぐん引き込まれて、息を詰めてガン見していました。不思議です。

  マイムはやたら多いし、見せ場となるハデな踊りがそうあるわけでもないし、ジェームスとシルフとが踊っても、ジェームスはシルフに触れないのだからリフトやサポートはないに等しいし、それにどの登場人物にも好感を持てないし、しまいには観劇後にこれほど不条理さというか、行き場のないモヤモヤを感じる作品は他にあるまいと思われるのに、なぜか面白いんですな。

  私は他の版の「ラ・シルフィード」を観たことがないのですが、ヨハン・コボーの演出がよいのだろうか?彼の「ラ・シルフィード」は英国ロイヤル・バレエのために作られたので、イギリス人の観客が好きそうな、演劇的な要素を濃くしてあるのでしょうか?

  小林紀子バレエ・シアターのダンサーたちはみな演技力があるので、見ていて物語としてもよくまとまっていると思いました。人間たちの踊りでは、スコットランドの伝統舞踊のステップを取り入れたものが多いのと、男性では跳んだ瞬間に両足を交差させて素早く何度も打ちつける動きが多かったです。

  シルフの踊りはふつーのクラシックの動きでした(たぶん)。人間もシルフたちも、踊りが全体的に地味というか、よく見ると大きなジャンプも回転もバランス・キープもちゃんとあるんだけど、見た目に「どうだー!!」とばかりに見せつけるハデさが感じられないです。初日につまらないと思ったのはそのせいだったのかもしれません。

  シルフの島添さんは昨日よりも今日のほうが断然よかったです。両腕の動きは相変わらずたおやかでなめらかで、ステップは軽やかでした。演技もよかったです。とにかく純粋でジェームスが好きとなったら一直線、他のことは何も考えていない、悪意はないけどそのぶん厄介で愚かな妖精という感じでした。

  ジェームス役のデヴィッド・ホールバーグの踊りは、たぶん2~3年くらい前に観たことがありますが、以前よりも顔がしゅっとしまってずいぶんとイイ男になりましたね~。踊りもジャンプはさりげなく高いし、回転も安定しているし、なにしろ堂々としています。あと、ジェームス役は第一幕、第二幕ずっと出ずっぱりなのですが、ホールバーグの演技は本当にすばらしかったです。優柔不断で、結婚するのにどこか上の空で腰が据わらない、単純で、アホな男ジェームスを好演しました。以前よりいちばん良くなったのは演技力かも。

  ホールバーグはキルト・スカートと長い靴下もよく似合っていました。ジャンプしたり回転したりするたびに、スカートが翻って生フトモモが見え、きれいに筋肉のついた引き締まったフトモモがステキでした。

  ガーン役の中村誠もすごくよかったです。ガーンも出ずっぱりですが(特に第一幕)、エフィを恋い慕っていて、彼女とジェームスの結婚に複雑な思いを抱いている様子、ジェームスが失踪した後、マッジに唆されて、ためらいながらもエフィに結婚を申し込む演技が秀逸でした。第一幕で踊ったソロもすばらしかったです。体格ではホールバーグに負けますが、技術では決して負けていませんでした。

  マッジ役の楠元郁子(23日)と大和雅美(24日)はふたりとも強い存在感のある演技を見せました。マッジというのは、結局は狂言回しみたいな役割なのでしょうか?この「ラ・シルフィード」のストーリーは多分に寓話的で教訓が込められていると思います。死んだジェームスを目の前にして立ちつくし、客席を睨みつけるマッジは、自分の悪だくみがうまくいったのに嬉しそうではなく、むしろ険しく歪んだ表情をしていました。

  ついでながら、今回の「ラ・シルフィード」上演に際しては、衣装はオーストラリアン・バレエ団から、子役の衣装は井上バレエ団から、舞台装置は牧阿佐美バレヱ団からレンタルしたそうです。煩雑です。英国ロイヤル・バレエは、来シーズンにでも「ラ・シルフィード」を上演するので貸し出しできなかったのでしょうか。

  昨日のカーテン・コールには、振付・演出をてがけたヨハン・コボーと、ステイジングを行なったジュリー・リンコンも出ました。最近のコボーは坊主頭に帽子、というスタイルが多いですが、今回も同じスタイルでした。今日のカーテン・コールには出ませんでしたが、休憩時間に会場の廊下で見ました。

  なぜコボー自身がジェームスを踊らないのか不思議だったのですが、これもフリー・ペーパーの「DANZA」によると、「自分のコンディションが一番いい時に踊りたいと思っています」とのことなので、今は体の調子が今ひとつなのかもしれないですね。

  このコボー版「ラ・シルフィード」は、小林紀子バレエ・シアターのレパートリーとして今後も上演する予定だそうなので、そのときはまた観に行きたいです。
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新選組ベスト5

  帰省中に新選組にハマりまして、20年以上前に読みまくった新選組関連の本をせっせと読んでおりました。ガキのころに読んだときとはまた違った面白味を感じることが多く、そのベスト5をメモしておきます。

  1位:新選組始末記(子母沢寛著、中公文庫) 東京日日新聞(現毎日新聞)の記者であった著者が、新選組に関わった、あるいは実際に目睹した人々に昭和初年にインタビューした記事、また残存していた新選組関係の文書などを一書にまとめたもの。特に新選組が屯所としていた家の人々、新選組の隊士の生き残り、近藤勇、土方歳三、沖田総司など有名な新選組幹部の遺族や子孫が語るエピソードは真に迫って面白く、史料的価値も非常に高い。これらのエピソードは後代の新選組を扱った小説や映画や漫画に多く取り入れられ、この「新選組始末記」がなければ、今の新選組ブームは起きなかったであろうと断言できるほど貴重な一書である。

  2位:六月は真紅の薔薇-小説沖田総司(全2巻、三好徹著、講談社文庫) 現代を舞台にした社会派小説を多く手がけた三好徹が著した時代小説。副題にあるとおり、沖田総司を主人公にしている。題名はお耽美な印象を与えるが、内容はまったくお耽美ではない。書き方が変わっていて、すべてが一貫して「僕」と自称する沖田総司の目線から描かれており、ある意味「独白形式」の小説である。時代小説にはありがちな浅薄な大立ち回りの作り話はなく、フィクションとはいえ、著者によって綴られたストーリー、沖田総司の心理描写は細緻で深い。また更に魅力的なのが、沖田総司の目線で描かれる土方歳三の人物像である。鬼の副長として隊士から恐れられ、長年の同志であった山南敬助を脱走・切腹に追いつめるほどの冷酷さを保ちながら、だがその裏にある副長としての苦衷を沖田総司に打ち明ける土方の真の姿は、司馬遼太郎の描く土方歳三よりももしかしたら魅力的かもしれない。

  同列2位:燃えよ剣(全2巻、司馬遼太郎著、新潮文庫) 言わずと知れた司馬遼太郎の代表作の一つ。司馬遼太郎が描く土方歳三は、多摩独特の荒っぽくて粗野な気性を持ち、学問などには見向きもしないばかりか学のある人物を軽蔑さえし、自らをただの喧嘩師と見なして、近在の敵対する道場の連中を生来の喧嘩の才能で叩きのめす。ところが、新選組が結成されてからは、独特のカンのよさと組織作りの才能を存分に駆使し、無頼の浪人の集まりだった新選組を秩序だった警察部隊に作り上げていく。この小説が面白いのは後半部分、新選組が落ちぶれて遂には壊滅してからである。土方歳三は幕軍に加わって官軍との戦闘を続け、とうとう北海道の函館にある五稜郭にまで転戦する。新選組の小説とか漫画とかには、新選組の羽振りが良かった時代を中心に描く作品が多いが、この小説は新選組がなくなってからの土方歳三をメインに追っていく。だから最後になればなるほど面白い。一貫して「学問はないが天性の鋭敏なカンを持った喧嘩師」として人生を全うする土方歳三の生き様は凄まじいものがある。

  3位:新選組血風録(司馬遼太郎著、角川文庫) これも司馬遼太郎の代表作の一つ。短編を一書にまとめた形式で、従来は取り上げられることのあまりなかった一般の、または脇役的な隊士たちを主人公に据えた作品が多い。大島渚監督がこの中から「前髪の惣三郎」を基にして、「御法度」という映画を作ったのも記憶に新しい。ほとんどの作品が悲劇的な結末に終わっており、新選組の一般の隊士たちが置かれていた厳しい状況と、新選組隊内の容赦ない苛酷な現実が描かれている。

  4位:俺の新選組(全5巻、望月三起也著、少年画報社) これは漫画で、今は売ってるかどうか分からない。というのは、この作品は不評だったのか、それとも掲載誌(確か「少年キング」だった)の販売状況の事情(休刊した)によるものか、無理やり終わらせているけれども、実は未完の作品である。主人公は土方歳三で、江戸にいたころから京都へ行って新選組を立ち上げるまでを描いて、そこで終わっている。新選組関係の漫画を女性作家が描くと、お耽美入った時代考証無視のロマンティックな青春劇になってしまうことが多いが、この「俺の新選組」は骨太で、土方歳三は「燃えよ剣」で描かれている喧嘩師キャラと似た性格として描かれている。絵柄も男性作家ならではの迫力がある。ストーリーの中心は芹沢鴨、新見錦一派との確執で、最後は芹沢鴨の暗殺で終わっている。未完で終わったのは実に残念。近藤勇をはじめとする他の登場人物も魅力的で、特に土方歳三が沖田総司におちょくられるエピソードは笑える。

  5位:戊辰物語(東京日日新聞社編、岩波文庫) これは新選組のことに限らず、幕末から明治初期にかけての諸々の遺聞を、幕府方の人々、官軍方の人々、朝廷に仕えていた人々、創立間もない明治政府で働いていた人々、更に市井の人々から聞き取って収集したもの。もちろん子母沢寛も記録者の中に加わっており、新選組のことについて記している。最も印象に残ったエピソードは、明治政府設立後、木戸孝允(桂小五郎)が役所で事務仕事をしていて、折り詰めの弁当をぽそぽそと食べていた、という話。役所で働いていた小間使いの人の見聞なんだけど、その人のコメントが秀逸で、「ああはなりたくないもんだ、と思いました。」 常に命の危険に脅かされつつ、坂本竜馬の仲介で劇的な薩長同盟を成し遂げた頃が、木戸孝允にとって、あるいは最も華々しい時代だったのかもしれない。

  この「プチ新選組ブーム」の発端は、大河ドラマ「篤姫」を観たことだったんです。テレビの「篤姫」の原作のねじ曲げぶりはひどいですなー。原作は、篤姫をあくまで封建思想に囚われた人物として捉え、その限界に由来する短所を持ちながらも、彼女なりに正しいと思うところに沿って、厳然と生きぬいた女性として描いています。

  それをテレビは、篤姫がまるで現代的な思想を持った革新的な女性であったかのように美化してしまっています。ドラマにする以上、視聴者にウケるよう原作を改変するのは仕方がないのかもしれませんが、最近はいささかやりすぎではないかと思います。篤姫と和宮との確執も、きっと和宮が一方的に悪くて、最後は和宮が「改心」して仲直り、という結末にするんではないでしょうか。
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東京バレエ団「ドン・キホーテ」

  20日の初日を見に行ってきました。今まで観た「ドン・キホーテ」(少ないですけど)の中で、1、2を争うすばらしいプロダクションでした。東京バレエ団の「ドン・キホーテ」は、ボリショイ・バレエ往年の名ダンサー、ウラジーミル・ワシリーエフが東京バレエ団のために振り付けたものだそうです。

  最もすばらしいと思ったのは、主役のキトリやバジルはもちろん、準主役であるエスパーダ、メルセデスにもふんだんに踊りの見せ場が与えられ、そしてなんとサンチョ・パンザやガマーシュまでが踊りを披露したことです。

  更に、群舞もただ主役や準主役の踊りを周りでぼーっと見ているだけではなく、群舞の見せ場もきっちり設けられてありました。すべてのキャストが入れ替わり立ち代わり、間髪入れずに踊りを披露して、最後まで飽きることがありませんでした。

  プログラムによると、ワシリーエフは主役、準主役ばかりでなく、群舞のキャストにまで細かくキャラクターの設定を行なったそうで、ワシリーエフは優れたダンサーであると同時に、優れた振付家でもあると思いました。

  メルセデスとキャラ的にかぶる「街の踊り子」はこのワシリーエフ版ではなく、「街の踊り子」の踊りはすべてメルセデスが担当しました。このほうがすっきりと分かりやすく、すばらしい判断だと思います。

  東京バレエ団のダンサーたちは慣れているのでしょうか、群舞はきれいに揃っていました。エスパーダを踊った木村和夫は超超超絶好調で、物凄い超絶技巧を余裕たっぷりに見せつけました。それだけではなく、ポーズや伸ばした脚の線が美しくて、彼はこれほど凄いダンサーだったのか、と感嘆しました。

  メルセデスを踊った井脇幸江も同様で、両腕の動きはなめらかで、柔らかな体を生かした踊りは、それは美しいものでした。扇さばきもすばらしく華麗で、脚を高く上げながら回転するところでは、長いドレスの裾を美しくダイナミックに翻してカッコよかったです。あと、井脇幸江は演技がすばらしいですね。艶のある表情でエスパーダを翻弄する様は堂に入っていました。

  ガマーシュ役の平野玲、キトリの父親のロレンツォ役の横内国弘もそれぞれ好演で、特にガマーシュの一挙一動には大笑いしました。カーテン・コールでガマーシュがバジルと張り合って、自分も見事な回転を披露しようとしてコケる演出には、バジル役のアンドレイ・ウヴァーロフ、キトリ役のポリーナ・セミオノワもマジでウケていたようでした。その後でサンチョ・パンザ(高橋竜太)がぎこちない回転ジャンプで(←もちろんわざと)マネージュするというおまけつきでした。

  ただ、ドン・キホーテ役の野辺誠治はちょっと印象が弱かったです。

  このワシリーエフ版「ドン・キホーテ」は全二幕構成で、第一幕は風車に突進して倒れたドン・キホーテが、ドリアードたちとドゥルシネア姫の夢を見た後、公爵たちに助けられるまで、第二幕はキトリとバジルが逃げ込んだ酒場のシーンと、キトリとバジルの結婚式です。踊る側はロクに休む間がないので大変だと思いますが、観ている側は楽でした。プログラムによると、ワシリーエフは観客を飽きさせないために、あえてこのような構成にしたそうです。

  ドリアードの女王を踊った西村真由美がすばらしかったです。ヴァリエーションで片脚でゆっくりと横にジャンプし、ポワントで立ちながら、もう片脚を横に高く上げる動きが優雅で安定しており、思わず見とれてしまいました。

  バジルを踊ったアンドレイ・ウヴァーロフは最高でした。前にもウヴァーロフのバジルは観たことがあると思いますが、ダイナミックながらも動きは柔らかく流麗で、ゆっくりと回転しても、激しいジャンプをしても、常に安定していて、信頼して見ていられました。パートナリングもすばらしかったです。終始いささかぎこちない動きだったキトリ役、ポリーナ・セミオノワを常にフォローしながら、自分の踊りをきちんと踊り、更に難しいリフトやサポートを確実に決めます。

  早い段階で、私はセミオノワよりもウヴァーロフに目が奪われている自分に気づき、今回はセミオノワよりもウヴァーロフの踊りを堪能すべきだと気持ちを切り替え、ウヴァーロフの端正で華麗な動きを見つめていました。

  キトリを踊ったポリーナ・セミオノワは、最初のソロを踊った時点で、どうも動きがきごちなく、踊りが音楽にも合っておらず、なんか妙だな、と思いました。キトリの演技はそれなりにこなしていたと思いますが、踊りがとにかくなめらかでなく、キレもよくありませんでした。

  もっとも、その謎は後でプログラムを読んで解けました。セミオノワは、キトリを全幕で踊ったことがなく(グラン・パ・ド・ドゥだけは踊ったことがあるらしい)、今回が全幕でのキトリ・デビューだというのです。

  これは奇妙なことです。ゲストに呼ぶのなら、キトリを当たり役にしているダンサーを招聘すべきだと思うのです。キトリ・デビューの機会を与えるのは、東京バレエ団ではなく、彼女が所属しているベルリン国立バレエ団が、芸術監督のウラジーミル・マラーホフがやるべきことでしょ?

  セミオノワの踊りを観ていて、彼女はキトリのような威勢の良いアレグロの踊りよりも、リリカルなアダージョの踊りのほうが向いているのではないか、と思いました。もっとも、身体能力には恵まれているし、技術もしっかりしているっぽいので、あとは場数をこなすだけの問題なのかもしれませんが。

  それにしても、ボリショイ・バレエ学校を卒業後すぐに、ベルリン国立バレエ団(当時はベルリン国立歌劇場バレエ団)に最初からプリンシパルとして入団し、もうプロのダンサーとしてすでに5年以上のキャリアを積んでいるセミオノワが、キトリを全幕で踊ったことがなかったというのには驚きました。

  東京バレエ団のダンサーたち、アンドレイ・ウヴァーロフは明らかに「ドン・キホーテ」に慣れていて、余裕綽々に、自然に演じ踊っていました。それに対して、セミオノワだけがその中で浮いているようでした。ただ、結婚式のグラン・パ・ド・ドゥになって、セミオノワはようやく自信たっぷりに、落ち着いて踊っていました。

  この東京バレエ団によるワシリーエフ版「ドン・キホーテ」は見ごたえのある良い作品です。これからも公演は数日間行なわれるようですので、お時間のある方はご覧になってみてはいかがでしょうか。
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ふるさとは

  旧盆の先週一週間、私は実家に帰省しておりました。お盆に帰省したのは久しぶりな気がします。去年は確か、「ルグリズ・ブート・キャンプ」に入隊していたのではなかったでしょうか。

  今年はちゃんとお墓参りに行ったし、お坊さんが家の仏壇の前でお経をあげるのも神妙に聞きました。ご先祖様たちにはいつも、「あの子孫(私)はいつになったら落ち着くのかねえ」と心配をかけていると思います。お墓の前でお祈りして謝ってきました。

  ところで、ウチの母は機械オンチなのですが、必要もないのに高い電化製品を買ってしまうクセがあります。

  たとえばノート・パソコンがそうで、あるとき帰省したら、相当な値段であろうと思われる性能の良いノート・パソコンが実家にあって、しかもインターネットにも接続してあったので、「これ、どうしたの?」と私は尋ねました。

  母は「ご近所のみなさんが『みんな持っている』って言うから買ったのよ」と答えました。「誰が使うの?」と私が聞くと、母は「・・・・・・」と黙り込んでしまいました。

  更に母は「最近、NTTが『光』にしないか、って電話してくるの。そうしたほうがいいのかしら?」と私に相談してきました(母はもちろん「光」の意味は知らない)。私は呆れて「そもそもインターネットを全然やってないんだから、このままADSLでよろしい!ADSLでさえ、毎月NTTにムダにお金をくれてやっているようなものだわ」と答えました。

  結局、実家のパソコンは、私が帰省時に使って、そのときついでに簡単なメンテナンスもやるということになりました。私が持っているのより値段も性能も良いのに、数ヶ月おきにしか使われない、というパソコン自身にとって非常に不本意であろうと推測される状態です。しかも先週帰ったら、パソコンは実家で飼っている猫の椅子と化しており、猫がぱっと跳んでパソコンの上にどしん、と乗り、後ろ足で思い切り蹴って跳び下りているのです。

  起動してみたら、どうも一々の動きが鈍くて不安定です。「パソコンは使っても壊れるが、使わないともっと壊れる」というのが私の持論で、出入りの電気屋さん(←ほとんど「何でも屋さん」扱いされており、母親は彼らに排水管の詰まりとかも修理してもらっている)に一度ちゃんと本格的なメンテナンスをしてもらうよう言っておきました。

  前置きが長くなりましたが、母親はやはり「ご近所さんはみんな持っている」という同じ理由で、デジタル放送対応のバカでかい薄型液晶テレビも買ってしまいました。私はまだアナログ放送しか観られないというのに悔しいです。

  でも、いざ観てみると、「いやあ、デジタル放送っていいですねえ!」と言わざるを得ません。デジタル・ハイ・ヴィジョンで、しかも大型画面で観るオリンピックはド迫力でした。開会式も色鮮やかでダイナミックだったし、水泳なんかは画面の中から水しぶきが跳んでくるかのようでした。画面の中からフェルプスや北島が出てきそうです。

  オリンピックが始まって以来、どのチャンネルもオリンピック中継です。さすがに連日続くと食傷気味になってきて、なんでもいいからオリンピック以外の番組はないか、普段は嫌いなサスペンス・ドラマでもいい、クイズでもいい、という気持ちになってきました。兄も私と同じ気持ちのようで、なんとかテレビのチャンネルをオリンピック以外の番組に合わせようとしていました。

  ところが、我が家の女帝である母親はそれを許しません。「どっかでオリンピックやってないの?」とリモコンを操作して、どうしてもオリンピックを観たがるのです。テレビの前で拳を振り上げ、「それいけ!」、「やれやれー!いけー!」と大声で怒鳴っています。そんな母を残し、私と兄は台所で夕食の後片づけを黙々とやりました。

  そこで、私は一計を案じました。私は夜10時前になると、「疲れたでしょ?夜更かしは体にわるいから早く寝たほうがいいよ。明日も朝早いんでしょ?ゆっくり休んでね」と言って、母の背中を押して母をテレビのある居間から追い出しました。もちろん、テレビのチャンネルをオリンピック以外の番組に変えるためです。この策は割とうまくいきました。母がぶーぶー言いながら出ていくと、私と兄はようやく一息ついてドラマやらクイズやらバラエティやらを観ました。

  こういうわけで、今年のお盆の帰省は、連日のオリンピック強制観戦をめぐる母との攻防戦で疲れ果てました。が、こうして東京に戻ってみると、実家のあの賑やかさに比べて、この部屋はなんと静かなことだろう、と思います。東京に戻っても、どこの局もオリンピックなことには変わりないので、私はテレビを消したままです。オリンピックを観ようとは思いませんが、なんとなくさびしい気分で、実家でのあの喧騒が早くも懐かしく思われます。

  これも大事な「夏の思い出」なのでしょう。

  余談。実家で飼っている猫は、暑いせいか私とあまり遊んでくれませんでした。ただし、母親と兄に対しては露骨に媚びへつらい、兄が現れると「にゃあ~ん」と鳴いて、兄の脚に体を「すりすり」します。母親に対しては、名前を呼ばれただけで、実に甘ったれた声で「うにゃああ~ん」と答えます。

  一方、猫はどうやら私を自分より下位にある存在と見なしているらしく、私が猫の名前を呼んでも、横目でちらり、と冷たい目で一瞥すると、無言のまま去ってしまいます。従って、猫にとって、実家での序列は母親>兄>猫>私となっているらしいです。それでも、私は嫌がらせを兼ねて、猫を無理やり抱っこして、必死で顔をそむける猫のほっぺたにぶちゅぶちゅとキスをします。

  猫が実家に迷い込んできたのは3年前のことです。まだ生後1~2ヶ月くらいだったと思いますが、なぜか1匹で現れたのです。あのときは家の中の雰囲気が少し殺伐としていたころで、折しもそんなときに猫が実家に忽然とやって来たのです。

  猫のおかげで私は救われたような気持ちになり(他の家族も同じ気持ちだったでしょう)、私はこの猫に「エンジェル」と名づけたかったのですが、カタカナに弱い母親が反対し、猫にはよくある名前に落ち着きました。

  私が頻繁に実家に帰る理由の一つは、猫に会いたいがためなのです。猫を飼っているどの人もマジに思っていることでしょうが、それでもやっぱりウチの猫こそが世界一美しく、そしてかわいいのです。 
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オリンピック開会式

  やっぱり4年に一度行なわれる、開催国家の威信をかけたバカバカしいスポーツの祭典の、輪をかけてバカバカしい開会式は観なくちゃね。

  中華4千年、爆竹、人海戦術で来るだろー、と思ってたら、ホントにそうだったので笑いました。また、開会式のプロデューサーは映画監督の張芸謀。張芸謀の近年の作品みたいに、黄金と紅を基調にした色の洪水、ワイヤー・アクションで来るだろー、と思ってたら、またしてもそのとおりだったので大笑い。

  動員された大学生をはじめとする学生たち(←本人はもちろん両親から親戚まで思想検査済み)、人民解放軍(←若くて背が高くてイケメンなのを選別)は何万人なのでしょう。

  人海戦術によるパフォーマンスでは、誰かミスをせんかなあ、とアラを探し、また機械を用いたパフォーマンスでは、途中で機械が止まったりすれば面白いのになあ、と薄暗い期待ばっかりしていたわたくし。人海戦術パフォーマンスでミスをした人員を見つけては、いたいた、やっぱり中国はこれでなくっちゃ、完璧を期していながらどこかイージー・ゴーイングでなくては、と喜んでおりました。でも機械が止まらなかったのは残念です。

  紙、羅針盤、活字を発明したのは中国じゃ~!!!と、学界ではいまだ解決のついていない問題を、オリンピックの開会式を使って堂々と宣言しちゃう図々しさも中国らしいです。じゃあ火薬はどーすんのかな、と思ってたら、さすがに戦争にリンクするものは外したみたいですね(それともあの大量の花火で主張していたのだろうか!?)。

  プロデューサーの張芸謀は、いまや映画だけにとどまらない活躍をしていますが、映画監督としての初期にはとても良い作品を撮っておりました。もともと自身も俳優であり、「古井戸」では監督と主演の2役をこなしました。彼の名を一気に有名にしたのが「紅いコーリャン」です。その後も「紅夢」、「秋菊の物語」など、大陸の監督ならではの中国独自のテーマを取り上げ、いろんな面から中国の現実を描いていきました。

  でも、海外の映画祭で賞を獲ったりすると、とたんにおかしくなるのが中国の監督です。張芸謀もその例に漏れず、香港を経由してハリウッドとコネができたとたん、撮る作品はほとんどハリウッドでウケそうな、欧米人がイメージする時代不明、地域不明の想像上の「中国」を描いたものとなりました。類似例としては陳凱歌がいます。

  今回は入場行進の順番が変わっていました。「各国の名前を中国語の簡体字で表記した1文字目の画数順」というものです。そのため、1文字目が4画の日本は、今回は入場が早かったのです。

  一見すると中国の特色を出した演出にみえますが、これは中国と仲がいいアフリカや中央アジアの国々をなるべく優先して入場させたい、という思惑のようです。最初のほうで出てきたのは、アフリカの国々が圧倒的に多かったですからね。

  また、今回は出場国最多とのことです。これも、中国がふだんはオリンピックと縁のないアフリカ・中央アジアの小さな国々に声をかけて(ひょっとしたら費用も出してあげて)、参加を促したものではないでしょうか。

  開会式を観ていて、久しぶりに「共産主義国家」の開催するオリンピックを観たなあ、と思ったと同時に、やはり中国はバリバリ現役の共産主義国家なのだと実感しました。

  それにしても、聖火の最終ランナー、李寧の変貌ぶりにはびっくりしました。引退後は大実業家に転身した李寧ですが、現役時代はあんなにイケメンだったのに、今はすっかり前髪前線が後退し、下っ腹が出たふつーのおっさんになっていたとは。
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男の人というものは

  私はただ話を聞いてうなずいてもらいたいだけなのだ。「そうだね」って同意してもらいたいだけなのだ。それなのに、なぜ分析したがる?なぜ解決策をアドバイスしたがる?私がまだ話してるのを遮って分析するなー!解決法を言うなー!分析や解決法なんぞ、とっくに私だって頭の中では分かってるんじゃ~!!!女にはそれとは別に、「ただ話を聞いてもらいたい」という欲求があるんじゃ~!!!

  ・・・疲れたので今日はもう寝ます。これは久しぶりの「ひとりぶつぶつ日記」です。 
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「オズの魔法使い」のアダム・クーパー

  先日の日記で、アダム・クーパーの公式サイトが、Whatsonstage.comに掲載された「オズの魔法使い」レビュー一覧記事を紹介してくれたことを書きました。

  記事をプリントアウトして、クーパー君についてどう書かれているかだけ読んでみました。そしたら、出来不出来以前に、クーパー君が担当する「ブリキの木こり」は、踊るシーンがかなりありそうなことが判明。各レビューのアダム・クーパーに関する言及部分を読むと、すべてが彼の踊りについて書いているのです。これは嬉しい。

  Whatsonstage.comのレビューは、最終的にはドロシーと一緒に旅をするキャラクターたちの存在感が強すぎて適切ではないと結論しているのだけど、「アダム・クーパー扮する、硬直した手足で信号を伝えるかのようなブリキの木こりは、それでもジーン・ケリーのようにタップ・ダンスができる」と書いています。

  以下、「ガーディアン」は「アダム・クーパーはうまく曲がりくねった踊りをするブリキの木こりだった」、「テレグラフ」は「アダム・クーパーはブリキの木こりという役に愉快な活発さを与えた」、「インディペンデント」は「アダム・クーパーのブリキの木こりは、当意即妙なタップで、解放からくる躍動感溢れる踊りを踊った」とそれぞれ書いてます。

  「イヴニング・スタンダード」は「アダム・クーパーの魅力的なブリキの木こり、彼の踊りの才能は全身を覆う鎧に制限されることはなかった」、「タイムズ」は「ブリキの木こり役のアダム・クーパーは自身の衣装(←ブリキの鎧のこと)の制約を超えて個性を強く生みだそうと奮闘していた」(←あまり褒めていない模様)と書いており、「デイリー・エクスプレス」は「バレエ的なブリキの木こり役のアダム・クーパーが生み出す伝染性熱狂さ」と形容しています。

  各紙のレビューを総合すると、ドロシーのお供をするキャラクター3人が目立ちすぎて、作品の統一感を損なってしまったところがあるらしいですね。それでもアダム・クーパーをはじめとする数人には、「彼らのパフォーマンスに対して称賛が送られた」(Whatsonstage.com)だそうです。

  どうやら、アダム・クーパーのブリキの木こりは、歌やセリフがあまりなく、パフォーマンスのほとんどが表情での演技、仕草、そして踊りなのでしょう。ブリキの木こりという「心を持たない」役柄、そしてブリキの鎧という動きにくいであろう衣装も、彼のようなタイプのダンサーには逆にぴったりだと思います。彼はもともと、制約の多い役柄であればあるほど、その能力を最大限に発揮する人だからです。

  彼はもしかしたら嬉しくないかもしれませんが、ブリキの人形については「バレエ的な(balletic)」と形容されてしまっています。この形容詞を目にして、ちょっと嬉しいのは私だけでしょうか。 
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新国立劇場バレエ「ラ・バヤデール」放映

  8月1日の深夜に、今年の5月に行なわれた新国立劇場バレエ公演「ラ・バヤデール」が、NHK教育の「芸術劇場」で放映されました。

  地上波放送で「ラ・バヤデール」が放映されるのは、非常に珍しいことではないでしょうか?これで「ラ・バヤデール(バヤデルカ)」が日本でも上演されやすいバレエになるといいな。

  それで、せせこましいことに宣伝です。このブログでは、以前に「バヤデルカの音楽」と題して、記事を書いたことがあります。 ここ です。

あとは、サイト本体の「雑記」で、今回放映された「ラ・バヤデール」の感想( ここ )を書いてます。よかったらご覧になって下さいね~。

  来年1月のレニングラード国立バレエ日本公演では、今回はどうやら「バヤデルカ」を上演しないらしいので、寂しいことこの上ありません。特に威勢のいい「太鼓の踊り」が観られないのが残念です。

  テレビ放映を観て思ったのですが、なんだか色がおかしくありませんでしたか?舞台が妙に暗いし、ダンサーの衣装やセットとかの色もくすんで暗く映っていました。

  あと気づいたのは、ダンサーが実際にはすばらしいパフォーマンスをしたのに、映像ではその魅力があまり感じられず、逆にダンサーがミスをしたりぎこちない踊りをしても、映像ではあまり目立たないらしい、ということです。

  また、カメラ・ワークのよくなさも気になりました。見どころの踊りや演技をアップにしなかったり(ガムザッティや王の演技、第二幕でのニキヤのソロなど)、甚だしくは映さなかったり(同じくニキヤのソロ)、というところがありました。第三幕「影の王国」の群舞でも、「どーしてこんな角度で映すのよ~、せっかくの整然とした美しさが分からないじゃない」というところもありました。

  人間の視界の広さ、視力のすごさとテレビ・カメラの限界を感じました。
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「オズの魔法使い」本公演始まる

  今週から「オズの魔法使い」の本公演が始まりました(すっかり忘れてた)。クーパー君の公式サイトでは、早くも舞台写真を公開してくれてます。ブリキ状のかぶりもの衣装とはいえ、相変わらず脚が長いわ。なんだか久しぶりに、そうよ、これぞアダム・クーパーよ!っていう姿を見た思いがするわ(顔は銀粉だけど)。

  あと、なんと本物の犬(ヨークシャー・テリア?)を連れてます。リハーサルではぬいぐるみでしたが、公演では本物を使うんですね。すごいです。さすがは演劇大国のイギリス、犬まで舞台慣れしてるんでしょうね。

  クーパー君の公式サイトは更に、Whatsonstage.comが各紙に掲載された「オズの魔法使い」初日レビューをたくさん紹介してくれている、ってことを紹介してくれています( ここ です)。こりゃ便利だわ。いちいち探さなくていいもんね。ざっと星の数だけみると、あんまり高い評価でないらしいのが気にかかるけど、でも管理人さんが書いている、価値を決めるのは観客のあなた自身です、という言葉にはまったく同感。

  奥さんのサラ・ウィルドーはバリバリ臨月のはずですが、もう観たのでしょうか。あのラブラブ夫婦のことだから、観たに違いありません。というか、8月に入ってしまうと、サラはいっそう慎重に行動しないといけないでしょう。きっと早めに観るのでしょうね。この8月、アダム・クーパーとサラ・ウィルドーにとっては、夫婦ともに忙しい月になりそうですね。
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