日本バレエ協会『ドン・キホーテ』(2)

  この公演は日本バレエ協会の合同発表会的なものなので、年末に各バレエ団が行なう『くるみ割り人形』を観るモードで観劇すべきなのは分かっているのです。しかし、客席にいたのは、下の記事に書いたとおりバレエの同業者か家族親戚か友人知人かで、第一幕から第三幕まで、しょっちゅうマメに大きな拍手と喝采が送られて、彼らがキャストたちを生暖かい目で見てあげているのがよ~く分かりました。

  特に同業者でもある観客の人々は、バレエを踊ることがどんなに難しいかよく分かっているから、キャストのパフォーマンスの一つ一つに理解を示し、心からの賞賛を送ったことだろうと思います。

  でも、私は同業者じゃありませんし、バレエを踊ることがどんなに難しいかさっぱり分かりませんから、観て感じたとおりに書きますね。

  今回の舞台で、プロのダンサーらしい踊りを見せたのは、メルセデス役の富村京子さん、エスパーダ役の小嶋直也さん、次点でバジル役の法村圭緒さんだけです。また、少ししか出番がなかったのでよく分かりませんが、ジプシーの踊り子役の小野田奈緒さん、森の女王役の粕谷麻美さんも非常に印象に残りました。

  大体、観ていてあれほど気分が高揚しない『ドン・キホーテ』も珍しい。みな気真面目すぎるのです。大真面目に楽しそうな笑顔を浮かべ、大真面目に楽しそうに踊る。ガマーシュ役のマシモ・アクリさんががむしゃらにオーバーアクションだったのも、舞台上に漂う緊張した雰囲気を払拭して、なんとか盛り上げようと必死だったのかもしれませんね。

  日本人ダンサーの踊りで共通してすばらしいのは、みなごまかさずにきっちり丁寧に踊ることです。教則どおりの正しいポーズをとってステップを踏む。これは美点です。しかし、その反面、融通が利かない。欠点や短所がそのまま出てしまう。臨機応変に対処して、たとえば観客を楽しませるためにとか、そういった良い目的のためであっても、ごまかす(=工夫する)ことを絶対にしない。

  しかし、こればかりは、ほとんどのダンサーが発表会レベルの舞台にしか立ったことがないだろうことを思えば、仕方がないのかもしれません。

  キトリ役の西田佑子さんは、今の時点では、キトリを踊る技術もスタミナも足りません。これからに期待、と言うしかないです。ただ、彼女の踊りを見て、他のバレリーナたちが軽々と踊っているように見えるキトリの踊りが、実はどんなに難しいのか分かったのは収穫でした。

  バジル役の法村圭緒さんは、若さが弾けるような生き生きした踊りがすばらしかったです。しかし、パートナリングはまだ要努力。

  メルセデス役の富村京子さんが今回の公演で一番の驚きでした。すばらしいダンサーです。現在は香港バレエ団のプリンシパルだそうです。プログラムを見て、やっぱりそれなりのダンサーだったか、と納得。動きが他の女性ダンサーたちとまったく違います。音楽に巧みに乗って、手足をなめらかに動かします。動きには常に余裕があり、踊り全体に磨かれたような艶がありました。

  エスパーダ役の小嶋直也さんについては、……今さら何を褒める必要もないでしょう。小嶋さんが唯一最高のプロフェッショナルでした。たとえば、脚を伸ばして横90度に上げる動き一つ取っても、実にきれいです。あと、開脚して跳躍したときの空中でのポーズの美しさ。ついでにいうと、髪がオールバックだったせいもあって、顔めっさ小さ!女性ダンサーより小さかったです。

  小嶋さんについては、この人はそもそも、こういう内輪のお発表会的公演に出るようなダンサーではない、と思います。彼は身内のためではなく、一般の観客のために踊るべきでしょう。小嶋さんにはそういう自覚を持ってほしいし、日本のバレエ界の人々もそのことを理解してほしいと思います。

  西田さんのキトリと法村さんのバジルに共通していたのは、「教えられたとおりにやってます」的な、明らかに「作ってる」と分かる演技でした。ふたりとも溌剌としてましたが、ああ、振付家や演出家やバレエ・マスターたちからこうしなさいって教えられたのねえ、という感じの人工的に明るい演技でした。

  富村さんのメルセデスと小嶋さんのエスパーダに共通していたのは、過剰に演技しすぎない、という点です。無理なお色気やカッコつけがありませんでした。だからとても自然でした。ふたり組んでの踊りも良かったです。まるでいつも組んでるかのように息が合っていました。

  ジプシーの踊り子役の小野田奈緒さんは、こう言っては失礼かもしれないけど、まさにこの「ジプシーの踊り」を踊るためにいるかのように、役と踊りにバッチリはまってました。数年前、ボリショイ・バレエの『ドン・キホーテ』を観たとき、「ジプシーの踊り」を踊ったユリアンナ・マルハシャンツを思い出しました。

  他に、この人はすごい人なんじゃないか、と思ったのが、森の妖精の女王役、粕谷麻美さんです。長身で手足が長い人で、動きが大きく、長身にも関わらず跳躍もすごく高い。存在感もあり、夢の場では、森の女王にドゥルシネア姫が完全に食われてました。

  後はぜんぶ悪口になってしまうので書きません。「ダンサーの苦労を理解している生暖かい目線」で見れば、よく頑張ったね、と言えますが、「ダンサーの苦労に無理解な一般観客目線」で見る限り、その程度でよく舞台に立てるな?客は金払って観に来てんだぞ?と書いてしまいますから。特にジプシーの首領役の彼と第2ヴァリエーションの彼女ね。

  3日間のキャストの経歴にすべて目を通したわけではありませんが、この30日の公演のキャストの経歴を読むと、「日本バレエ協会公演」といいつつ、実は特定のいくつかのバレエ団の系列に属するダンサーばかりが出演していることに気がつきます。これは、日本全国から優秀なダンサーを公平に選んで出演させたのではなく、日本バレエ協会内の力関係に沿って、配役が恣意的に決められた面もあることを示していると思います。

  こうして幸運にもキャスティングされたダンサーたちの中にさえ、優れたダンサーたちを発見できたわけですから、日本国内の無数かつ無名の小さなバレエ団、スタジオ、教室には、まだ優れたダンサーたち、そして才能ある原石が多く埋もれていて、その能力を発揮する機会を持てない状態にあると想像できます。こういう閉塞的な状況って、なんとかなんないものかな、ととても残念です。

  カーテン・コールの最後には、振付者のワレンチン・エリザリエフ氏も舞台上に姿を現しました。白髪の小柄なじいさんです。エリザリエフ氏は舞台の真ん中に立つと、両腕をフラメンコ風に構え、左右に角度を変えて(笑)何度もポーズをキメました。じいさんなのにこれがすごくカッコよくて、ある意味、今回のキャストの誰よりも魅力的だったかも。会場がワッと沸き立ちました。そーなんだよ、今日の日本人ダンサーたちに必要なのは、こういうパワーなんだよ、と思いました。

  指揮は福田一雄氏で、この高名な指揮者による演奏を聴けたことも感動でした。公演プログラムは内容が豊富で、特にこの福田一雄氏が執筆した、『ドン・キホーテ』の音楽についての考察は貴重なものです。

  今回の公演は、作品や舞台それ自体をもちろん大いに楽しみましたが、それに加えて、日本国内のバレエ事情をも考えさせられる貴重な機会でした。
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日本バレエ協会『ドン・キホーテ』(1)

  1月30日(日)の公演に行ってきました。

  日本バレエ協会(正式名称:特例社団法人 日本バレエ協会)というのは、どうも日本全国のバレエ団(ただし中・小規模の)、バレエ・スタジオ、バレエ教室、そこに所属するダンサー、またフリーランスのダンサーたちによって構成される組織のようです。設立は昭和31年(1956年)だそうですから、かなり歴史のある団体です。

  今回の公演はこの日本バレエ協会の主催なので、出演するダンサーたちは日本中(といっても地域やバレエ団にやや偏りはありますが)から集まってきていて、いろんな顔ぶれが揃った賑やかな舞台となりました。客席もほぼ、もしくは完全に満席でした。組織による動員力というのはすごいですな。観客はほとんどが同業者、つまりバレエの先生とか生徒さんとかダンサーさんとかその家族とか親戚一族郎党とかのようでした。

  この『ドン・キホーテ』は、1月28、29、30日の3日間行なわれました。主要キャストは毎回ほぼ総入れ替えです。日本のバレエを取り巻く環境上の理由で、なかなか大きな舞台に立つ機会が持てないダンサーたちのなるべく多くに、できるだけ舞台に立つチャンスを与え、キャリアを築かせようという目的もあるのでしょう。

  欧米に比べれば総じて劣っているとされる日本(国内)のバレエ界にも、たとえ有名でなくとも優れたダンサーたちが実は多く存在すること、また日本のバレエ、日本のバレエ・ダンサー独特の良さを実感した舞台でした。


   『ドン・キホーテ』

   作曲:レオン・ミンクス 他
   原振付:マリウス・プティパ
   改訂振付:アレクサンドル・ゴルスキー、カシヤン・ゴレイゾフスキー
   再改訂振付・演出:ワレンチン・エリザリエフ(ベラルーシ国立ミンスク・ボリショイ劇場バレエ団芸術監督)

   指揮:福田一雄
   演奏:シアター オーケストラ トーキョー

   キトリ/ドゥルシネア:西田佑子(フリーランス)
   バジル:法村圭緒(法村バレエ団)

   ドン・キホーテ:原田秀彦(原田秀彦・斉藤美絵子バレエスクール)
   サンチョ・パンザ:奥田慎也(フリーランス)

   エスパーダ:小嶋直也(牧阿佐美バレエ団、新国立劇場バレエ団)
   メルセデス:富村京子(香港バレエ団)

   キトリの友人:呉 佳澄(フリーランス?)、大長亜希子(下村由理恵バレエアンサンブル)

   ガマーシュ:マシモ・アクリ(アクリ・堀本バレエアカデミー)
   ロレンツォ(キトリの父):柴田英悟(ミノリ・バレエ・スタジオ)
   酒場の主人:大谷哲章(N.Otani ballet company)

   ジプシーの踊り子:小野田奈緒(小野田バレエアカデミー)
   ジプシーの首領:梅津勝也(フリーランス?)

   森の女王:粕谷麻美(フリーランス?)
   キューピッド:田川裕梨(井上バレエ団)

   第1ヴァリエーション:榎本祥子(フリーランス?)
   第2ヴァリエーション:津下香織(N.Otani ballet company)


  あとはとにかくたくさんのダンサーが出演してました。その中で気になる人。闘牛士の1人とファンダンゴを踊った加藤太郎崇綱。いや、申し訳ないが個体識別はできなかったが、名前がなにせ加藤太郎崇綱『平家物語』とかに出てきそうな名前だ。ひょっとしたら鎌倉武士の子孫か?

  今回上演されたのは、ワレンチン・エリザリエフ(ベラルーシ国立ミンスク・ボリショイ劇場バレエ団芸術監督)版です。エリザリエフ版の初演は1989年だそうですが、日本で上演されたのは今回が最初でしょう。

  エリザリエフは1937年生まれで、ワガノワ名称ロシア国立舞踊学校(現ワガノワ・バレエ・アカデミー)、リムスキー=コルサコフ名称レニングラード国立音楽院(現サンクト・ペテルブルグ国立音楽院)卒業、卒業後すぐの1972年、ベラルーシ国立ミンスク・ボリショイ・オペラ・バレエ劇場の主任振付家となり、92年に芸術監督に就任、現在に至るそうな。

  このエリザリエフ版の上演を決定したのは、日本バレエ協会会長である薄井憲二氏だそうです。プログラムの「ごあいさつ」には、「選んだのは私です。何卒私を信じて下さい」と妙にへりくだった一文があり、舞踊批評家として言いたいほーだいだった(←アダム・クーパーの悪口も言ってた)頃とは別人のような謙虚さが感じられます。それにしても、ベラルーシで上演されている版を選び出してくるなんて、どんだけ観て回ってんだ、薄井さんよ。すげーな。

  エリザリエフ版『ドン・キホーテ』は、観ていて「なんかすごい変わってる」と感じたくらい独特なものでした。今よく思い返してみると、結局はそんなに変わってるわけでもないような気がしますが、観ているときは変わってるな、と思ったのです。

  今まで観た『ドン・キホーテ』にはない演出、踊り、音楽があったし、踊りの順番や構成も変えてあるところがありました。でも、「これ以上は崩してほしくない」という一線は越えていませんでした。むしろ、『ドン・キホーテ』のおなじみの有名シーンや踊りは、ほとんど不可侵扱いといえるほど尊重して、きっちり残してある版です。

  変わってるな~、と思ったところを、覚えている限りだけど書きます。まずプロローグでは、ドン・キホーテの目の前に、最初にキューピッド、それから森の女王(観たときはドゥルシネア姫だと思ったけど、プログラムを見たら森の女王だったらしい)が現れ、キューピッドがドン・キホーテに愛の矢を射て、ドン・キホーテが旅立ちを決心する、という演出になっていました。

  第一幕では、キトリが登場する前にかなり長い群舞が設けられていました。「街の踊り子」とか「大道の踊り子」とかいう名前の登場人物がなく、他の版での「街の踊り子」による踊りは、すべてメルセデスが踊ります。確か東京バレエ団が上演しているウラジーミル・ワシリーエフ版もそうだったような?

  最も変わっているのは、ガマーシュの出番が異常に多い点です。第二幕第二場のドン・キホーテが森の女王、ドゥルシネア姫、キューピッド、妖精たちの夢を見るシーン以外、ガマーシュがぜーんぶ出てきます。しかも、ただ舞台の端っこに立ってるとかじゃありませんよ。キトリはもちろん、バジル、メルセデス、エスパーダ、キトリの友人たちにとにかく絡みまくる。ガマーシュを担当したマシモ・アクリさんのアドリブではなく、演出自体がそうなっているらしかったです。ガマーシュはキトリとバジルの踊りにも絡んでいて、双方の演技がちゃんと合っていましたから。

  でも、あまりにガマーシュがあちこち無意味に出張りすぎて、しかもアクリさんのオーバーアクションな演技が常に空回りして見事にスベってたので、正直言ってすっげえ目障りでした。ガマーシュちょーウゼえ、と第三幕にはキレそうになりました。

  第二幕の冒頭には、ジプシーのキャンプに逃げてきたキトリとバジルによるやや長い踊りがありました。バジルがキトリを横にして高くリフトし、ぐるぐる回すというもので、キトリの両脚が描く円い線がすごくきれいでした。そのあとキトリとバジルは寝ているジプシーたちの前でイチャつくわけですが、その中でふたりがマントを頭からかぶってキスをしている間、キトリが片脚を伸ばして高く上げ、爪先を細かく振るわせる、という演技というか踊りがありました。つまりキトリが「ご昇天」遊ばされたことを示す演出で、たぶんベラルーシでは大ウケするんでしょうが、日本では寒いだけでした。

  ジプシーたちによる人形劇、あるいは仮面劇がありませんでした。ちなみに、ジプシーの男たちの扮装が、全員もこもこのアゴヒゲ、カウボーイみたいな帽子と衣装で、ナニをどう誤解したらこういう衣装デザインになるんでしょうか。

  キトリとバジルが次に逃げ込んだ酒場では、エスパーダとバジルが一種の踊り比べをするようなシーンがありました。交互に同じ振りで踊ります。

  エスパーダとメルセデスは第三幕にも出てきて、ファンダンゴでクラシカルなパ・ド・ドゥ(←なんかヘンな言い方ですが)を踊ります。といっても、メルセデスは第一幕ではトゥ・シューズを、第二幕と第三幕ではキャラクター・シューズを履いて踊るのですが、キトリとバジルに対応する形で、メルセデスとエスパーダの出番と踊りが多く設けられています。

  キトリとバジルの結婚式には、なぜか森の女王が再登場します。意味がよく分かりません。えーと、これは『ドン・キホーテ』だよな、『眠れる森の美女』ではないよな、と思わず頭の中で確認しました。そしたら最後に、サンチョ・パンザ、ガマーシュ、ロレンツォが3人がかりで、直立した姿勢のドン・キホーテを高々と持ち上げました。キトリとバジル、街の人々がドン・キホーテに一斉にお辞儀します。これも、『眠れる森の美女』をパロって笑いを取ろうとしているのか、それともただ単にドン・キホーテを讃える演出なのか、やっぱり意図がよく分かりませんでした。

  でも、全体的な印象は、やはりロシア(旧ソ連)系統の『ドン・キホーテ』だな、というものです。とにかく踊り重視、空いてるところにまんべんなく踊りを詰め込もう的な感じです。これはソ連以降の改訂版の特徴でしょう。このエリザリエフ版では、キトリとバジルもそうですが、それ以上に、他の版よりもメルセデスとエスパーダの踊りが大幅に補充されているのが独特だと思います。
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新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』(1月23日)

  1月に入ってから怒涛のようにバレエ観劇してますなー。1年に観る回数の3分の1くらい、もういっちゃうんじゃないか?あまりよくないことだけれど(余韻に浸る時間が持てないから)、観たい公演があるのだから仕方がないですね。

  18日に引き続いて、2回目の観劇です。今日は主役目当てというより、コール・ドをはじめとする主役以外のダンサーたち、センスの良い衣装、美しい舞台装置、見事な演奏を目的に行きました。


  『ラ・バヤデール』全3幕(第一幕:40分、第二幕:35分、第三幕:45分)

   振付:マリウス・プティパ
   演出・改訂振付:牧 阿佐美
   音楽:レオン・ミンクス
   編曲:ジョン・ランチベリー
   
   指揮:アレクセイ・バクラン
   演奏:東京交響楽団

   ニキヤ:寺田亜沙子
   ソロル:山本隆之
   ガムザッティ:長田佳世

   大僧正:輪島拓也
   マグダヴェヤ:吉本泰久

   トロラグヴァ(戦士でソロルの友人):芳賀 望
   ラジャ(王侯):逸見智彦
   アイヤ(召使):堀岡美香

   ジャンペの踊り(リーディング・ダンサー):大和雅美、米沢 唯

   ブロンズ・アイドル:八幡顕光
   壺の踊り:湯川麻美子

   パ・ダクシオン(ブルー・チュチュ):西川貴子、寺島まゆみ、丸尾孝子、厚木三杏
   パ・ダクシオン(ピンク・チュチュ):さいとう美帆、高橋有里、西山裕子、米沢 唯
   アダージョ:マイレン・トレウバエフ、菅野英男

   第1ヴァリエーション:寺島まゆみ
   第2ヴァリエーション:西川貴子
   第3ヴァリエーション:丸尾孝子


  キャスティングについて、去年から芸術監督に就任したデヴィッド・ビントリーの意向がどれほど強く働いているのかは知りませんが、ほ~、この人がこの役か~、おもしろい、と思うことが増えたような気がします。新人ダンサーはもちろん、中堅ダンサーに至るまで。人材を発掘して、可能性のほどを見極めている最中なんでしょうか?

  今日の公演は、おそらく全公演を通じて最も「イケメン率」が高かったと思います。ソロル役の山本隆之さん、ラジャ役の逸見智彦さん、大僧正役の輪島拓也さん、トロラグヴァ役の芳賀望さん、第二幕アダージョのマイレン・トレウバエフに代表されるように、今日はまことに眼福でございました。

  大僧正は、今日も「?」なキャスティングで、輪島拓也さんが演じましたが、結果、ヤングなイケメン大僧正となり、これほどイケてる大僧正なら、私がニキヤならソロルから乗り換えてもいいくらいです。

  輪島さんは演技が非常にすばらしかったです。基本無表情なのですが、ニキヤのことについて、折々に見せる動揺した表情がよかったです。ニキヤの美しさに心を奪われて強引に言い寄り、ニキヤに拒絶されてうろたえる、ニキヤとソロルの密会を目撃して激怒し、復讐に燃える、自分の密告が原因で、ニキヤを殺す、とラジャに言われてしまう、ラジャがニキヤを殺すことを知っていて、踊るニキヤを内心の不安を抑えながら見つめているシーンなど、それぞれの場面での演技は常に抑え目なのですが、それだけにとても自然でした。

  ガムザッティは長田佳世さんで、これも大当たり。演技に深みがあって、ニキヤがソロルのことをあきらめようとしないことに、徐々に苛立ちと焦りを募らせていく表情と仕草の変化は見ごたえありました。それから、ニキヤが毒蛇に噛まれる場面では、ガムザッティは突然の事態に驚き、瀕死のニキヤに犯人扱いされて真剣に戸惑う表情を見せます。演出では、毒蛇を仕込んだ花籠でニキヤを殺すのは、ガムザッティではなくラジャの指図によるわけですから、長田さんはよく考えて演技しているなあ、と感心しました。

  長田さんについては、その踊りもとても印象的でした。すごく音楽性に優れた人なのだろうと思います。常に音楽を先に読みながら動いているようで、振りが音楽にぴったり合っているのです。長田さんがどう踊りたいのかはよく分かりました。残念ながら、技術が自分のイメージに追いついていませんでした。それでも、たとえば第二幕のソロルとガムザッティのパ・ド・ドゥのコーダでは、回転しながら軸足がどんどんずれていっている(←舞台から落ちるんじゃないかと心配した)のに、冷静さを保って、なんとか立て直そうと努力していました。こういう知的でクレバーなダンサーはいいですね。

  私は今日は1階席のほぼ最前列で観ました。第一幕最初のマグダヴェヤ(吉本泰久さん)の踊りは、間近で観ると迫力満点でした。ぽーん、と高く跳んでいるのが分かります。マグダヴェヤと苦行僧たちの踊りは、崩した奇妙な姿勢での回転と跳躍とで構成されています。でも、それがすごく揃っていて、とても美しかったです(特に、苦行僧たちが回転&跳躍しながら周回する前で、マグダヴェヤが高く跳躍して踊る場面)。

  ジャンペの踊りでは、今日は舞姫たちが下がっていくところで拍手が起きました。私も便乗して拍手できました(←チキン)。大和雅美さんの動きがパワフルで、しかもしなやかに脚が反っていてきれいでした。全員(8人)での踊りもよく揃っていました。

  第二幕のパ・ダクシオンとアダージョは、ソリストやファースト・ソリストが勢ぞろいなので、観る側にとってはかなりおいしい踊りです。能力の高い人たちが踊るとやっぱり見ごたえがありますね。アダージョで女性ダンサーと組んで踊ってたマイレン・トレウバエフは、なんでソロル役にキャスティングされなかったのかね?ちょっともったいないと思いました。

  壺の踊りで、途中から出てくる子役2人ですが、どーみても双子に見えました。ひょっとしたら、プログラムの表記は間違っていて、本当は鈴木舞さんと鈴木優さんだったのでは?前にも書いたように、最近の子は手足が見とれるほど細くて長くて、将来が楽しみですね。

  第三幕の影のヴァリエーション(寺島まゆみさん、西川貴子さん、丸尾孝子さん)、ダンサーたちのレベルが3年前の公演と比べてアップしているなー、とつくづく感じました。技術の高さに加えて、プロっぽい艶が出てきたというか、見せ方を心得ているというか、余裕があるというか、そんな感じでした。

  第一幕の舞姫たちの踊り、ジャンペの踊り、第二幕の男性と女性の群舞、第三幕の影のコール・ド、今日もみなすばらしかったです。第三幕、坂を下りた後の、影のコール・ドの踊りは、斜め前から見ても列がまっすぐでした。長方形を直線が何本も斜めに走っている感じで、つまり、彼女たちは左右だけではなく前後も含めて、すべての方向で互いに均等な距離を保っていた、ということになります。

  コール・ドが左右に分かれた後、ヴァリエーションを踊る3人の影も加わって一緒に踊る群舞もすばらしかったです。音楽にきっちり乗って上がる手や脚の高さがみんな同じで、よく揃ってました。観ているほうもノリノリになります。その後のニキヤとソロルの踊りも、このコール・ドがあってはじめて盛り上がるということを実感しました。

  ソロル役の山本隆之さんは、演技はデニス・マトヴィエンコよりはるかに良かったです。表情が豊かで細かく、よく考えて演技しています。

  特に感心したのは、ソロルがガムザッティに引き合わされた瞬間に、ガムザッティの美しさに魅せられてしまったことがよく分かる、夢見るような表情でした。第二幕のアダージョでも、山本さんのソロルはガムザッティをうっとりと見つめてながら踊っていて、ソロルにとっては、これは別に意に沿わない結婚じゃないんだな、と分かりました。

  また、ソロルがニキヤを見限ったのがはっきり分かった演技もすばらしかったです。ニキヤは薬瓶を片手にソロルを見つめます。ソロルもニキヤを見つめ、思わず前に歩み出て、ニキヤを助けようとするかのように、両手をかすかに前に差し出します。しかしやがて、ソロルは顔を伏せて手を下げ、思い切ったような表情をして、くるり、とニキヤに背を向けてしまいます。その瞬間、ニキヤの手から薬瓶がこぼれ落ちます。

  山本さんのパートナリングもすばらしかったです。ニキヤ役の寺田亜沙子さんと、見た感じも踊りもしっくり行っていました。

  ただ、どういう事情があるのかは分かりませんが、あの踊りはちょっとなー、と思いました。技術は頼りなく不安定で、また振り自体をだいぶ変えて踊っていました。怪我をしているとか、故障を抱えているとかいう状態ではないのに、ああいう踊りしかできないのだとしたら、ソロルのような役は避けたほうがいいのでは、と思いました。

  ニキヤ役の寺田亜沙子さんは、両腕がとても長く、その腕の動きは柔らかくしなやかで、特に腕による表現力が高いように感じました。演技もソロル役の山本さんと呼応するかのように細やかで、たとえ私の感じ方が間違ってると思われようと、小林ひかるさんよりも良かったです。もっとも、小林さんは、ニキヤの役作りがまだ充分にできてなかっただけだとは思いますが。

  また、小林さんよりも、寺田さんのほうが音楽をよく把握して踊っていました。特に第三幕のアダージョの最後、音楽にあわせてアラベスクのポーズで3回静止、最後に回転して静止して片手をさっと上に上げる、という決めがすべてうまくいきました。寺田さんは決めが上手で、踊りの最後には必ず音楽ときっちり合うように決めのポーズをとります。静止が早すぎたりした場合は、手首をくるりと動かすことで、やはり音楽の終わりと合うように調整していました。

  もっとも、身体能力や技術の更なる向上はまだまだこれからという感じでした。第三幕のニキヤとソロルの踊り、ヴェールの踊り、ソロなどは、意外なことに小林ひかるさんよりもうまくいったのですが、観ているうちに気づいたことには、寺田さんもまた山本さんと同じように、微妙に振付を確実に成功できる(=容易な)ものに変えて踊っているらしかったです。

  小林さんは失敗の危険を冒しても原振付どおりに踊り、寺田さんは失敗の危険を回避して原振付を変えて踊ったわけです。どちらが正しいのかは分かりません。ただ、寺田さんはまだ若いんだし、リスク回避の方針で臨むよりは、たとえ失敗してもいいから原振付どおりに踊ったほうがいい経験になるだろうに、とちょっと残念に思いました。

  大体、「影の王国」の難しい踊りをせっかく小器用にまとめて踊ったのに、その後のシーン(ソロルの回想の中で、ニキヤがガムザッティと争う)であんな派手に転んだら(べちゃっ、と床に突っ伏していた)、なんにもなんないでしょーが。紗幕があってよかったし、怪我もしなくてよかったけれども。

  まあ、寺田さんを含めて、バレエ団に新顔がどんどん出てきて、中堅ダンサーも新しい役に起用されることが多くなって、バレエ団全体のレベルも上がって、新国立劇場バレエ団もこれからが更に楽しみになってきました。ただ願わくは、あまりイギリス・バレエ一直線に走らず、ロシア・バレエともうまく折り合いをつけながら歩んで行ってほしいものです。 
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ベルリン国立バレエ団『チャイコフスキー』

  本日、1月22日(土)の公演を観てきました。ところで、この記事では、

  かなりきついことを書きました。それでもかまわない、という方のみお読み下さい。

   『チャイコフスキー』全二幕(第一幕:50分、第二幕:40分)

   台本・振付・演出:ボリス・エイフマン
   音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(交響曲第5番、聖ヨハネス・クリュソストムスの典礼、弦楽セレナード、イタリア奇想曲、交響曲第6番より)
   装置・衣装:ヴァチェスラフ・オクネフ

   チャイコフスキー:ウラジーミル・マラーホフ
   チャイコフスキーの分身/ドロッセルマイヤー:イブラヒム・ウェーナル
   フォン・メック夫人:エリサ・カリッロ・カブレラ
   チャイコフスキーの妻(アントニーナ・ミリュコワ):ナディア・サイダコワ
   王子(若者/ジョーカー):ディヌ・タマズラカル
   少女:セブネム・ギュルゼッカー

  今日の舞台、遅くとも1週間後、早くて明後日には観たこと自体を忘れてしまうだろうと思うので、急いで感想を書いてしまいます。

  一言でいうと、つまんなかったです。第一幕が特にひどくて、第二幕はまあまあ。

  まず「マラーホフありき」の舞台で、マラーホフが主役で全日出演というのも納得できます。チャイコフスキー役には、マラーホフほどのレベルのダンサーをもってこないと、この作品は成立しにくいでしょう。

  といっても、マラーホフ以外のベルリン国立バレエ団のパフォーマンスもとても良かったのです。ただ、マラーホフとカンパニーの優れたダンサーたちの力量をもってしても、この作品のつまらなさを凌駕するには至らなかったと思います。

  この作品のどこが具体的につまんなかったかというと、最も不満だったのは冗長に過ぎるという点です。(少なくとも私にとっては)意味不明の演出と踊りがだらだらと長く続き、観ているうちに飽きてしまいました。

  ストーリー(?)は、死の床にあるチャイコフスキーがそれまでの自分の生涯を回想し、最後に死に至る、というものです。チャイコフスキーの内面と外面をウラジーミル・マラーホフとイブラヒム・ウェーナル(分身)が交互に踊り演じます。

  チャイコフスキーの回想の中で、チャイコフスキーのよき理解者であるフォン・メック夫人(エリサ・カリッロ・カブレラ)、チャイコフスキーの妻であるアントニーナ・ミリュコワ(ナディア・サイダコワ)、チャイコフスキーがかなわぬ愛情を抱く若者(ディヌ・タマズラカル)、若者の象徴である王子(同)、荒んだ生活に溺れるチャイコフスキーがともに戯れるジョーカー(同)が絡んできます。また、チャイコフスキーが作曲した『白鳥の湖』の白鳥たち(コール・ド)、『くるみ割り人形』のドロッセルマイヤー(イブラヒム・ウェーナル)もつきまとうように現れます。

  冗長だと感じた第一の理由は、そのシーンが何を表わしているのか、登場人物たちが何を感じているのか、考えているのかが分かりにくい、抽象的というよりは舌足らずな演出がほとんどだったことです。

  登場人物たちの人物描写は曖昧模糊としていて、どんな性格の人物で、何を考えていて、どうしてそうするのかが実に分かりにくい。くり返しになりますが、振付者のボリス・エイフマンがあえて抽象性を狙ったとしても、あるいは、チャイコフスキーの伝記について観客に予備知識があることを前提にしているとしても、結果的には単なる言葉足らずで不親切なストーリー展開になりました。エイフマンの「アンナ・カレーニナ」でも感じたことですが、エイフマンのドラマツルギーの能力には少し問題があるように思います。

  第二の理由は、これは致命的な欠点だと思ったことには、踊りの振付がみなワンパターンなのです。たとえば、チャイコフスキーの内面の葛藤を表わす、マラーホフとウェーナルが組んでの踊り、チャイコフスキーと妻との踊り、またチャイコフスキー、分身、妻、フォン・メック夫人のソロ、そして社交界の人々やギャンブルに打ち興じる人々の群舞、チャイコフスキーの混乱する心を表わしている(らしい)群舞、みなそれぞれに決まった振付のパターンがあり、それをひたすらくり返しているだけのように見えました。振付は時にお約束のクラシックの動き、時にクラシックの動きに演劇的な動きを混ぜ込んだものでした(あとは『白鳥の湖』の白鳥たちとオデットの踊りを取り入れていた)。

  全幕作品ならば、その中に多少なりとも印象に残る優れたシーンや踊りがあって、そこだけ切り取ってガラ公演などで上演してもすばらしい作品になる、という箇所が一つや二つはあってもよいように思うのです。でも、この『チャイコフスキー』には、強い印象を残すシーンや踊りがほとんどありませんでした。みな同じような踊りだからです。

  ストーリーはよく呑み込めないし、登場人物たちのキャラクターや行動の動機も分からないし、更に似たような踊りのくり返しのおかげで、「早く終わんねえかな」と時計ばかり見ていました。

  先に書いたように、ベルリン国立バレエ団のダンサーたちの演技や踊りはすばらしかったです。少なくとも彼ら自身は、自分が担当する役をよく理解し、解釈し、演じて踊っているであろうことは分かりました。

  特に、マラーホフのほとんど憑依的なパフォーマンスは凄いと思いました。なお、私はマラーホフがちょっとアタマのおかしいおっさんという「汚れ役」をやったからといって、そのこと自体を評価する気にはなりません。でも、踊りは軽やかできれいでしたし、演技でも、精神を病んだ上目遣いの目つきは、まさに正気を失った者のそれで、全力を尽くして演じ、踊りきり、終演後には疲弊しきっているのがありありと見て取れました。とはいえ、チャイコフスキーが何をどうしてそんなに悩み苦しんでいるのかを、観る側にはっきりと理解させられないのでは何にもなりません。 

  なにも全二幕という構成にする必要はなく、1時間ほどの一幕物にすればよかったのにと思いました。

  次に物足りなかったのは、登場人物たちの浮き上がらせ方というか、振付者によってあらかじめ設定された存在感の重さに不自然なばらつきがあった点です。王子/若者/ジョーカー(ディヌ・タマズラカル)と、バレエ・ダンサーである若者が惹かれていくバレリーナの少女(セブネム・ギュルゼッカー)の比重はあんなものでいいと思います。しかし、チャイコフスキーの心の救いとなっているフォン・メック夫人(エリサ・カリッロ・カブレラ)と、チャイコフスキーの妻であるアントニーナ・ミリュコワ(ナディア・サイダコワ)とは、その存在の重さは拮抗するべきであると思うのですが、妻のほうが圧倒的に存在感が強烈で、フォン・メック夫人は異様に影が薄く、バランスのわるさを感じました。

  ちなみに、バレリーナの少女を踊ったセブネム・ギュルゼッカーは、黒髪で目鼻立ちのはっきりした物凄い美女でした。

  人物造形が割と分かりやすかったのが、チャイコフスキーの妻、アントニーナ・ミリュコワです。ほとんど色情狂的な性欲の持ち主で淫蕩な女性という設定です。ミリュコワ役のナディア・サイダコワの、爬虫類系な粘っこさとしつこさを感じさせる演技と四肢のくねらせ方がすばらしかったです。彼女は最後に狂気に陥ってしまうのですが、スキン・ヘッドと荒んだ表情、不気味に光る目には凄味がありました。

  最後の難癖は、チャイコフスキーが同性愛の傾向を持っていたこと、自分の性的嗜好に対してチャイコフスキー自身が矛盾と苦悩を抱えていたこと、妻との歪んだ関係もこれに由来すること、エイフマンはこれらのことを表わしたかった、というより、この点こそがチャイコフスキーという人物造形の中核であり、この作品で最も重要な要素である、とエイフマンはみなしているらしい、と私は感じました。

  ところが、最も肝心なこの点の演出と踊りが効果的でないのです。表現がぼやけているか、もしくは底が浅い。肌を妙に露出した「いかにも」な黒いレザー衣装の男性群舞を見て、エイフマンが表現し得る男性同性愛者のイメージはこんなもんか、と呆れました。映画「ポリス・アカデミー」シリーズに出てくるゲイバー、「ブルー・オイスター」に集うおニイさんたちみたい。別に過激で生々しい演出や振付を施す必要はないです。さりげない演出や振付でも、もっと雄弁に、官能的な面、痛々しい面を表現する方法がなかったものでしょうか。

  どうもエイフマンは、淫蕩で奔放な女性は生き生きと描けるらしいですが、男性同性愛者の描写は苦手なようですね。

  そもそも、有名な音楽家であるチャイコフスキーの生涯を、主にその内面の苦悩を通じて描こうというエイフマンの意図は分かります。しかし、それをバレエ作品にする以上は、どうしても白鳥の群舞やオデット、ドロッセルマイヤー、ネズミだのといった、チャイコフスキーのいわゆる「三大バレエ」に絡めた演出をせざるを得ないのも理解できます。しかしその結果、チャイコフスキーのバレエ作曲家としての一側面ばかりが強調されてしまいました。私はこれには違和感を覚えました。チャイコフスキーがまるでバレエにだけとりつかれていたかのような印象を受けるからです。

  不毛な言い草かもしれませんが、チャイコフスキーという人物そのものを作品の素材にしたこと自体に無理があったと思います。

  第二幕は物語がさくさく進んだので(時間も短かったし)、さほどつまらないとは感じませんでした。特に第二幕の冒頭の……誰と誰のどんな踊りだったかは忘れましたが、よかったです。つまり、よかったと感じた踊りでも観た直後に忘れてしまう、私にとってはそんな作品だということです。この『チャイコフスキー』は。

  (思い出しました。よかったのは、第二幕の最初のほうの、チャイコフスキーと妻との踊りでした。たぶん。)    
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新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』(1月18日)

  今日はメモだけ。

  バレエは主役だけの独壇場ではなく、セット、衣装、キャスト全員のパフォーマンス、そして演奏で成立する総合芸術だということを体現した舞台でした。

  芸術監督のデヴィッド・ビントリーは、洗練された趣味の良い衣装、セット、舞台装置、またスムーズな場面転換が気に入ったのだな、と思いました。

  コール・ドは相変わらず絶品です。第一幕、第二幕、第三幕、すべてすばらしかったです。今日はコール・ドに目が釘付けでした。

  厚木三杏さんのガムザッティは当たりでした。美しく、威厳があり、そして冷酷さとニキヤへの憎しみに満ちた表情が迫力満点でした。第二幕の踊りはちょっといっぱいいっぱいな感じでしたが、よく頑張りました。

  大僧正がどーして森田健太郎さんなのか、理解不能。中学生みたいで、見た目は「○○屋ケンちゃん」でした。演技も表面的でオーバーアクション。

  ブロンズ・アイドルの八幡顕光さんは最高。高い跳躍とゆっくりした丁寧な回転がすばらしかった!

  ラジャ役の逸見智彦さんは超イケメン 付けヒゲに白髪が混じっていて、芸が細かい。

  寺田亜沙子さんの壺の踊りを見て、この踊りがこんなに見ごたえのある踊りだったのかと感嘆しました。子役の2人の恵まれた体型にびっくり。膝から下の脚がすらりとして長い長い!恐るべし現代っ子。

  キャスト全員の演技が細かくて、特に、第二幕で踊るニキヤの姿を痛々しげに見つめる人々の演技が印象的でした。

  マグダヴェヤ役の吉本泰久さんの踊りもアクロバティックで良かったです。

  ジャンペの踊りは、いまだにどのタイミングで拍手していいのか分かりません。キーロフ・バレエの映像版では、アラベスクのまま回転を続けるところで拍手が起きていましたが。

  ニキヤ役の小林ひかるさんは、第一幕、第二幕は本当にすばらしかったです。第二幕のソロには驚嘆しました。ところが、魔の第三幕で踊りがかなり不安定になってしまいました。無理もないです。第三幕のニキヤの踊りは、「サディスト・プティパ」(笑)の異名どおりの難しい振りとタフな構成です。

  特にヴェールの踊りとその後のニキヤのソロは、完璧に踊れるほうがおかしいくらい難度が超高い。私が今まで観た中では、ナデジダ・グラチョーワ(ボリショイ・バレエ)とイリーナ・ペレン(レニングラード国立バレエ)だけが完璧に踊りました。ちなみに、2008年のスヴェトラーナ・ザハロワ主演の公演の映像では、目立ちませんがよく見るとザハロワもヴェールの踊りでミスしています。つまり、それくらい困難な踊りだということです。

  ソロル役のデニス・マトヴィエンコは、第三幕で不安定になった小林さんを実に丁寧にサポートしていました。それこそ手取り足取りという感じ。第三幕でのマトヴィエンコ(のソロで踊る部分)については、羽目を外しすぎではないかと思った観客もいたでしょうが、仕方のないことだったと思います。

  というのは、小林さんのあの不安定な踊りでは、観客を満足させられないことがマトヴィエンコには分かっていたでしょう。その分、マトヴィエンコが奮起せざるを得なかったのだと思います。彼らが事実上のファースト・キャストなのですから。ちょうど、この前のレニングラード国立バレエ『ドン・キホーテ』で、怪我をしてほとんど動けなかったファルフ・ルジマトフの代わりに、ヴィクトリア・テリョーシキナが次から次へと超絶技巧で踊って、会場を盛り上げたのと同じことです。マトヴィエンコは、その気になればあれほど凄まじい技ができるんですね。特に、超高速マネージュとコーダでの高くて複雑な動きの跳躍には気圧されました。

  最も特筆すべきは、熱血指揮者、アレクセイ・バクラン率いる東京交響楽団の演奏のすばらしさです。あれは「伴奏」などではなく、「演奏」です。コンサートレベルの優れた演奏でした。バレエ公演で、あんなすばらしい演奏は初めて聴きました。各楽器、各パートがきちんと自己主張し、かつ自分たちの役割をちゃんと果たしていて、結果、全体としてまとまった、劇的な演奏となっていました。あの演奏を聴くだけでも、今回の公演は充分に行く価値ありです。 
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レニングラード国立バレエ『白鳥の湖』(3)

  第二幕の黒鳥のパ・ド・ドゥ、ルジマトフはどうするんだろう、と思っていたら、第二幕の幕が開いてすぐに、ミハイル・シヴァコフが現れました。シヴァコフは第一幕でパ・ド・トロワ(オリガ・ステパノワ、ワレーリア・ザパスニコワと)を踊っていました。シヴァコフの姿を見て、ああ、今日も『ドン・キホーテ』方式だな、と察しがつきました。案の定、シヴァコフは黒鳥のパ・ド・ドゥでヴァリエーションを踊りました。

  第一幕のパ・ド・トロワでのシヴァコフの踊りは、そんなに良いようには思えませんでした。ところが、黒鳥のパ・ド・ドゥでのシヴァコフは別人のように完璧な踊りを見せました(ちなみにヴァリエーションの音楽は、「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」男性ヴァリエーションと同じもの)。ルジマトフの代わりに踊るというプレッシャーが、逆に底力を発揮させたのでしょう。プロフェッショナル・ダンサーとしてのシヴァコフの、ここぞというときの強さに感じ入りました。

  コーダはルジマトフが踊りました。やはり跳躍はなしで、様々な種類の回転をうまくアレンジして踊っていました。回転自体は問題なくきれいなのですが、回転を止めるときに足元が大きくグラついてしまうことがほとんどでした。先日の『ドン・キホーテ』でも同じでした。軸足のほうを痛めているのではないかと思います。でも、『ドン・キホーテ』のときよりは若干回復していたように見受けられました。『ドン・キホーテ』のときは文字どおり一度も跳びませんでしたが、今日は第三幕の最後で軽い跳躍を2回していました。

  『ドン・キホーテ』のときにも思ったことです。主催者である光藍社は、ルジマトフの代わりに他のダンサーが踊る部分があることを、分かりやすい形で事前に発表するべきでした。ルジマトフはひょっとしたら『白鳥の湖』を降板するかもしれない、と私は思っていたので、光藍社の公式サイトをマメにチェックしていました。しかし、当日までシヴァコフがルジマトフの代わりにヴァリエーションを踊る、という告知はありませんでした。会場でも見かけませんでした。告知自体がなかったか、もしくは目立たないところに貼ってあったかだと思います。

  これは信用を落しかねない対応です。ルジマトフが公演の目玉であることは歴然とした事実なのですから、そのルジマトフが故障したのにともない、公演内容に変更が生じた場合は、主催元がありのままに迅速に、観客が容易に知り得る方法で発表するべきです。そして、レニングラード国立バレエのプリンシパルであるミハイル・シヴァコフやアルチョム・プハチョフが代わりに踊る、と堂々と告知すればよいのです。逃げ腰の対応はその場しのぎにはなりますが、長い目で見れば大きな不信感を招きます。数年前、同じようなことをやったバレエ団があります。私はそれ以来、そのバレエ団の公演には一度も行っていません。

  また、主催元がきちんと事情説明をしないせいで、ルジマトフが誤解され、信用を失いかねません。つまり、ルジマトフは年齢のせいで跳べなくなっているにも関わらず、無理に全幕作品に出演し、いいかげんなパフォーマンスでごまかしたのだ、という誤解です。

  観客のすべてがルジマトフのファンというわけではありません。また、ルジマトフの踊りを久しぶりに観た人々もいたでしょう。私は去年の7月に「シェヘラザード」の金の奴隷や「阿修羅」(←ボリショイ・バレエの岩田守弘さんの振付作品)を踊るルジマトフを観ています。だから、『ドン・キホーテ』を観たとき、ルジマトフは脚を怪我している、とすぐに察しがつきました。大体、年齢のせいで跳べなくなっているダンサーが、半年後にアルベルト・アロンソ振付の『カルメン組曲』でドン・ホセを踊るものかよ!?

  でも、観客の中には、ルジマトフについて上のような誤解をしたまま、会場を後にした人々もいたはずです。そうした誤解を解くためにも、主催元が事情を説明すべきだったと思うのです。

  ところで、『ドン・キホーテ』のときは演目が演目なので、シヴァコフやプハチョフがピンチ・ヒッターに立ったことは良策でした。ただ、『白鳥の湖』のジークフリート王子に飛んだり跳ねたりを期待する観客はあまりいないでしょうから、どうせなら黒鳥のパ・ド・ドゥのヴァリエーションを、ルジマトフが跳躍なしでどう踊るか見てみたかった気もします。そしたら、新たな「ルジマトフ伝説」が生まれたことでしょう。非現実的な願いでしょうが。

  ルジマトフにとって、怪我をしてからの公演の日々は本当に大変だったでしょう。でも、ルジマトフがどんなに偉大なダンサーであるかが、ルジマトフが怪我をおして出演したことによって、あらためて明らかになったのではないでしょうか。主役の男性ダンサーが跳躍なしで、『白鳥の湖』どころか、『ドン・キホーテ』までも成立させてしまえるものだということを、ルジマトフは証明してみせました。今回の公演の価値は、まさにこの点にこそ見出すことができると私は思います。

  ロットバルトを踊ったのはマラト・シェミウノフで、長身を生かしたダイナミックな跳躍が迫力ありました。白鳥たちの群舞の奥に立って、傲然と羽ばたいている姿が印象的でした。

  パ・ド・トロワを踊ったオリガ・ステパノワ、2羽の白鳥でソロを踊ったタチアナ・ミリツェワは今日もすばらしかったです。踊りの安定感が他のダンサーたちとは断然違います。

  白鳥の群舞がとても美しかったです。今日はほぼ中央の席で観たので、全体のフォーメーションがよく見えました。おまけにみな美人でスタイルが良く、ああ、ロシア人の踊る『白鳥の湖』ってやっぱりいいよなあ、と眼福でした。小さい白鳥の踊り(ユリア・チーカ、エカテリーナ・ホメンコ、ナタリア・クズメンコ、マリーナ・ニコラエワ)は、足さばきが全員すばらしかった!

  演奏(レニングラード国立歌劇場管弦楽団、指揮:パーヴェル・ブベルニコフ)も非常に良かったです。特に、第二幕のハンガリーの踊り(チャールダーシュ)、ポーランドの踊り(マズルカ)の、あの強弱、緩急の付け方の絶妙さは、いかにもロシアのオーケストラという感じで、聴いていて心地よかったです。第一幕のグラン・アダージョの演奏も、踊りと一体となって、美しいの一言に尽きるものでした。

  正月早々いいもん観たな、と心から思います。
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レニングラード国立バレエ『白鳥の湖』(2)

  で、こういう演出的には静まり返った、つまり、ダンサーが踊ると、そのときはじめて、それまでの静寂の中に音が響くような『白鳥の湖』には、ファルフ・ルジマトフ(ジークフリート王子)のようなダンサーは最適だったばかりか、今回のルジマトフは跳躍という武器を奪われていたわけですが、それが逆にこのレニングラード国立バレエ版『白鳥の湖』の本来あるべき姿、もしくは最も理想的な姿を実現させたように思うのです。

  イリーナ・ペレン(オデット/オディール)の白磁のようなたたずまいと踊りも、このヴァージョンによく合っていました。といっても、ペレンは以前の「アイス・ドール」ではなく、オデットの憂愁に満ちた表情には深みがあり、たとえほほ笑むことがなくても、腕を柔らかく曲げて王子を抱きかかえるようにし、首をぐったりと傾けて王子の肩にもたせかける一連の仕草に、王子への愛情が感じられました。今回の公演のペレンについては、オディールよりもオデットのほうが印象に残りましたし、実際、オデットの踊りと表現のほうがはるかにすばらしかったと思います(もちろんオディールの踊りも完璧でしたが)。

  グラン・アダージョは本当にすばらしかったです。あれほど美しい、印象的なグラン・アダージョは、今まで観たことがありません。ペレンの踊りは、よく使われることばでいえば、豊かな情感に溢れていました。演技過剰(←ペレンに演技過剰は無理w)なのではなく、踊りから「形」以外の「なにか」が煙のようにたちのぼってくる、しいていうなら、オデットの感情があふれ出てくる、そんな感じです。

  それはオデットのヴァリエーション、そしてコーダでも同じでした。幕間にロビーでペレンが出演するバレエ・レッスンのビデオがサンプル上映されていて、ちょうどオデットのヴァリエーション部分を目にしましたが、あんなカチカチな教科書的踊りではありません。静かながらも表情のある踊りで、ゆっくりとためをおき、長い両腕の動きに変化をつけ、同じ動きにも強弱の違いをつけた、実に見事なものでした。

  筆舌に尽くしがたいあのグラン・アダージョのすばらしさは、もちろんルジマトフがもたらしたものでもあります。ルジマトフは、かすかに愁いを帯びたまなざしや表情は静かであっても、ジークフリートという人間の心の奥底、つまり孤独や真摯な愛情を強くにじませていましたし、立ち姿や挙措、腕の動きは静謐な美そのものでした。また、オデットに対する仕草からは、優しさと深い愛情を感じました。

  ペレンもルジマトフも、不純物のない、エキスだけが凝縮されたかのような踊りと、必要最小限にまで抑制された演技とによって、このとらえどころのない『白鳥の湖』という作品の主人公であるオデットとジークフリートを、観る側の心の中に否応もなく入り込んでくる現実の存在としていました。あるいは、現実から乖離した不思議な世界に、観る側が巻き込まれてしまった、といってもいいです。  
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レニングラード国立バレエ『白鳥の湖』(1)

  今日、1月9日(日)の公演に行ってきました。

  会場は東京国際フォーラムのAホール。Aホールはたぶん5、6年ぶりに来たと思いますが、相変わらずムダにデカかったです。とはいえ、舞台の大きさは普通で、しかもバレエ公演を行なうには舞台の天井がやや低すぎるくらい。なのに、客席ばかりが異様に広く、大海原のようです。いちばん両端のサイド席(特に前方)なんて、舞台がちゃんと見えるのかしらん?

  まあ、東京国際フォーラムの特にAホールは劇場というよりも多目的ホールだから、仕方のないことなんですが。主催元としては、確実に客の入る演目(チャイコフスキー三大バレエのいいとこ取り公演とか、この『白鳥の湖』とか)に、なるべくたくさんお客を入れて、そのぶん他の作品の上演実現やチケット価格の値上げ抑制、また将来の公演招聘継続につなげているのだろうと思いますから、結局は観客の利益にもなるこうした企業努力は、とてもありがたいことです。

  レニングラード国立バレエの『白鳥の湖』は、すっごい前(5年くらい前?)に一度観たきりです。確か東京文化会館の大ホールで上演されたような記憶があります。そのときの印象は、なんだか演出があっさりしすぎていて演劇的要素に欠け、結末もドラマティックでなく、結局なにがどうなったのかよう分からん、というものでした。だから、それ以来、レニングラード国立バレエの『白鳥の湖』は観ていなかったわけです。

  こうして数年ぶりにレニングラード国立バレエの『白鳥の湖』を観た感想は、「うん、こういう余計な演出が一切ない、“踊りで勝負”的な正統派『白鳥の湖』もいいなあ」でした。

  ゴルスキー版、ブルメイステル版、セルゲーエフ版、グリゴローヴィチ版、果てはグレアム・マーフィー版やマシュー・ボーン版に至るまで、あまたの振付家が、この『白鳥の湖』という作品を、なんとか見て分かりやすい、有機的な「物語」にしようと努力してきたでしょう。一方、このレニングラード国立バレエの『白鳥の湖』は……光藍社のサイトを見ると……「改訂演出:レニングラード音楽院バレエ演出振付研究所」で、「プティパ、イワノフが約100年前に描いた初演当時の原典を復刻した」とあります。

  観ている最中から、「原初の上演形態は案外こんなものだったんではないか」と感じていましたが、ごてごてした「飾り」を取り外し、余計なものは一切そぎ落とした観を呈する、このレニングラード国立バレエの『白鳥の湖』は、ダイヤモンドか水晶のような清涼感ある美しさが漂う作品だと思いました。

  でも、結末はやっぱりよく分かりませんでした。オデットと王子が舞台の奥で波のようなものに呑まれていったあと、ふたりが寄り添って再び舞台の前に現れます。これはやはり、オデットと王子は死んで結ばれたということなんだろうか?ハッピー・エンドのヴァージョンが旧ソ連時代になって作られたというなら、プティパ/イワノフ版は悲劇だったはずで、その復刻版であるレニングラード国立バレエ版(←仮にこう呼ぶ)も、やっぱり悲劇ですよね?どうもラスト・シーンだけはしっくりきませんでした。
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レニングラード国立バレエ『ドン・キホーテ』

  本日(1月7日)の公演に行ってきました。とりあえず今日は自分用のメモのみ(帰宅したら、日テレで『千と千尋の神隠し』をやってたので、つい最後まで観てしまった)。

  ルジマトフ仕様のちょっと変わった『ドン・キホーテ』だったが、とても楽しめた。

  ルジマトフができない部分は、テリョーシキナとレニングラード国立バレエのダンサーたち(特に男性ダンサーたち)がフォローしていたというか、キャスト全員が奮起してカバーして、結果、よくまとまった舞台になったという印象。

  エスパーダ役のミハイル・ヴェンシコフがイケメンで超カッコよく、まさに私の理想とするエスパーダ。白と黒の闘牛士の衣装がよく似合い、腰のラインとお尻がセクシー ただ、頭にふりかけたラメは不要。

  よかった群舞は、闘牛士たちの踊り、闘牛士たちと女性たちの踊り、ジプシーたちの踊り。よく揃ってた。

  第三幕、キャスト表には名前のなかったミハイル・シヴァコフとアルチョム・プハチョフがいきなり出てきて、ルジマトフが踊らない部分を補う形で、バジルのヴァリエーションとコーダを踊った。シヴァコフはヴァリエーションの前半とコーダの前半、プハチョフはコーダのマネージュ。一粒で二度どころか三度もおいしかった。

  道の踊り子と第三幕のグラン・パ・ド・ドゥのヴァリエーションを踊ったオリガ・ステパノワが見事だった。

  森の女王役のタチアナ・ミリツェワは相変わらずテクニシャン。森の女王のヴァリエーションの冒頭、横っ飛び180度開脚ジャンプ(←『バヤデルカ』第三幕でニキヤがやるやつ)がすごかった。

  ヴィクトリア・テリョーシキナは、まさかここまでの化け物とは思わなかった。当初、キトリにキャスティングされていたエフゲーニヤ・オブラスツォーワには申し訳ないが、オブラスツォーワでは、今回の舞台は成立しなかったばかりか、ここまで成功しなかったと思う。
  
  テリョーシキナのおかげで、ルジマトフが大技を一切やらなくても、まったく気にならなかった。『ドン・キホーテ』で、バジルがただの一度もジャンプしないことに違和感を抱くことがなかったのは、テリョーシキナのキトリがそれを補って余りあるほど凄かったから。

  テリョーシキナが踊っている間、声に出さずに「うわー」、「すげー」、「参った」ばかり言っていた(笑)。涼しい顔して、さらっ、ともの凄い踊りをやっちゃうのよ、このテリョーシキナは。グラン・パ・ド・ドゥの32回転、扇を開いて高く上げたり、あおぐような仕草をしたりする一方で、更にダブルを織り込んで最後まで回り続けるなんて、あんなのは初めて観た。

  バジルの狂言自殺のシーン、ルジマトフの演技が笑えた。無理に笑いを取ろうとして大仰に演技する(例:イーゴリ・コルプ)より、ルジマトフの静かなイメージを逆利用した、さりげない演技のほうがより笑える。ルジマトフは表情を変えず、目だけを動かしてちらちらと周囲を見渡していて、それがものすごくおかしかった。バジルが持っていたのが、ちゃんと理容用カミソリだったのもナイス演出(←意外と普通のナイフだったりすることが多い)。

  カーテン・コールで、ヴィクトリア・クテポワが身のほど知らずな図々しいデカい態度だった。なんと主役のテリョーシキナよりも前に出ていた。クテポワなど話にならないほど活躍したオリガ・ステパノワが、ずっと奥に立っていたのとは対照的だった。ルジマトフのプライベートなんぞどうでもいいが、それでも、こんな女のどこがいいのか、と思ってしまう。

  新芸術監督に就任したナチョ・ドゥアトらしき人物を客席で目にした。ドゥアトは、このような変則的な形の舞台に対して、日本の観客がなぜこれほどまでに熱狂するのか理解しただろうか。  
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ペリカン・ダンス・アワード2010

  2011年がやってまいりました。

  元日の秋田は昨日までとは一転して、珍しく青空が広がり、柔らかな太陽の光が射し込む暖かな日となりました。

  年々忙しくなり、去年もあまりバレエを観ませんでしたけれど、もう惰性というか、無理矢理やっちゃいましょーか。「ペリカン・ダンス・アワード2010」。

  その前に、2010年に観た公演を整理すると、

   1月:レニングラード国立バレエ『バヤデルカ』、レニングラード国立バレエ「スペシャル・ガラ」
   2月:「マニュエル・ルグリの新しき世界」Bプロ
   3月:新国立劇場バレエ団『アンナ・カレーニナ』
   4月:(観劇せず)
   5月:新国立劇場バレエ団『カルミナ・ブラーナ』、「マラーホフの贈り物」Aプロ、「マラーホフの贈り物」Bプロ、東京バレエ団『オネーギン』
   6月:小林紀子バレエ・シアター『眠れる森の美女』、英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』、英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』
   7月:「バレエの神髄」
   8月:(観劇せず)
   9月:東京バレエ団『ジゼル』
   10月:「COLD SLEEP」、オーストラリア・バレエ団『白鳥の湖』、オーストラリア・バレエ団『くるみ割り人形』、ボリショイ&マリインスキー劇場バレエ合同ガラAプロ、ボリショイ&マリインスキー劇場バレエ合同ガラBプロ
   11月:新国立劇場バレエ団『シンデレラ』
   12月:新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

  合計19演目ですね。少ないなあ。でも、同じ演目を違うキャストで複数回観たものもあるので、なんとか頑張ってひねり出してみましょう。


   ☆最優秀公演賞☆:『バヤデルカ』(レニングラード国立バレエ)、『ロミオとジュリエット』(英国ロイヤル・バレエ団)

   ☆最優秀作品賞☆:グレアム・マーフィー版『くるみ割り人形』(オーストラリア・バレエ団)

   ☆最優秀パフォーマンス賞☆:シルヴィ・ギエム&マニュエル・ルグリ「優しい嘘」(イリ・キリアン振付、「マニュエル・ルグリの新しき世界」)、マリア・アイシュヴァルト&マライン・ラドメイカー『椿姫』(ジョン・ノイマイヤー振付)より黒のパ・ド・ドゥ(「マラーホフの贈り物」)、ウリヤーナ・ロパートキナ&イーゴリ・コールプ『ジュエルズ』(バランシン振付)より「ダイヤモンド」(ボリショイ&マリインスキー・バレエ合同ガラ)

   ☆最優秀主演賞(男性)☆:エドワード・ワトソン(英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』、『ロミオとジュリエット』)、スティーヴン・マックレー(英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』)

   ☆最優秀主演賞(女性)☆:島添亮子(マクミラン版『眠れる森の美女』、小林紀子バレエ・シアター)、吉田都(『ロミオとジュリエット』、英国ロイヤル・バレエ団)、アリーナ・コジョカル(『ジゼル』、東京バレエ団)、ヴィクトリア・テリョーシキナ(ボリショイ&マリインスキー劇場バレエ合同ガラ←「主役」ではないけど、テリョーシキナの踊りがことごとくすばらしかった、という意味で)

   ☆最優秀助演賞(男性)☆:ギャリー・エイヴィス(英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』ティボルト役)

   ☆最優秀助演賞(女性)☆:ラウラ・モレラ(英国ロイヤル・バレエ団『マイヤーリング』ミッツィー・ガスパール役、『ロミオとジュリエット』娼婦役)、ルシンダ・ダン(オーストラリア・バレエ団『白鳥の湖』ロットバルト男爵夫人役)

   ☆最優秀演技賞(男性)☆:ニキータ・ドルグーシン(レニングラード国立バレエ『バヤデルカ』大僧正役)

   ☆最優秀演技賞(女性)☆:マリリン・ジョーンズ(オーストラリア・バレエ団『くるみ割り人形』クララ役)、エリザベス・マクゴリアン(英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』キャピュレット夫人役)

   ☆最優秀やっぱりアナタは凄い賞☆:ファルフ・ルジマトフ(レニングラード国立バレエ『バヤデルカ』、「バレエの神髄」、「COLD SLEEP」)

   ☆最優秀大化け賞☆:イリーナ・ペレン(レニングラード国立バレエ 『バヤデルカ』、「スペシャル・ガラ」)〔寸評〕踊りの完璧さ、豊かになった表情、今年も続いてくれますように……。

   ☆最優秀盛り上げ賞☆:イワン・ワシリーエフ、ナターリャ・オーシポワ(ともにボリショイ・バレエ)〔寸評〕二人ともあまりに元気すぎて、もはや笑うしかないくらい。観る側にも大きなパワーをくれる貴重な存在。

   ☆最優秀特別功労賞☆:SUZUKI(新型「スイフト」のCM)〔寸評〕日本のバレエ界では「かわいい」、「愛らしい」、「お姫様」、「シンデレラ」といったイメージで固定されていたポリーナ・セミオノワの、鋭く強靭でマッスルな面を見事に引き出し、見た者に大きな衝撃を与えた。

   ☆最優秀実は意外と腹黒い?賞☆:ウラジーミル・マラーホフ(「マラーホフの贈り物」A、Bプロ)〔寸評〕最後に結果だけをかっさらうような「自分演出」の巧妙さに違和感を覚えたのが正直なところ。

   ☆最優秀ヘタレ賞☆:ティアゴ・ソアレス(英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』ロミオ役)〔寸評〕今思い返しても、あれはひどすぎるロミオだった。あの無様な踊りには目を覆いたくなった。同時に、鉄壁のテクニックを持つマリアネラ・ヌニェスが、なぜジュリエットを長く踊らせてもらえなかったのかも納得。あの役に必要な深い表現力がまだ不足しているからですね。

   ☆最優秀沢尻エリカ賞☆:上野水香〔寸評〕幕が下りた後であっても、足音は立てず、静かに退場したほうがよいと思います。でないと、良くない印象を観客に与えてしまいます。少なくとも私は、あれは観客へのあてつけだと受け取りました。不愉快を通り越して呆れました。

   ☆最優秀いっぺん有吉先生に説教してもらえ賞☆:アリーナ・ソーモワ、ウラジーミル・シクリャローフ(ともにマリインスキー劇場バレエ)〔寸評〕有吉先生にはぜひこの二人にアダ名も付けてやってほしい。例:ソーモワ→「タコ踊り女」、シクリャローフ→「脳ミソからっぽナルシスト野郎」

   ☆最優秀イタタ賞☆:川井郁子(「COLD SLEEP」)〔寸評〕クラシック音楽の演奏家というのは、結局はお金持ちの世間知らずな坊ちゃん嬢ちゃんで占められているのかと思って悲しくなった。「芸術」ってなんなんでしょうね(笑)。

   ☆最優秀復帰を切に希望賞☆:スヴェトラーナ・ザハロワ(ボリショイ・バレエ)〔寸評〕ゆっくり養生して、またあのロシア・バレエの美の具現そのものな踊りを見せて下さい。

   ☆最優秀もう自分の生きたいように生きなさい賞☆:アダム・クーパー〔寸評〕ちゃんと踊るならまた観に行きますよ。でも、他人(ファン)が抱く望みと、あなたの抱く望みが違うのなら仕方がない。他人がこうしたほうがいい、といっても、またそれが現実的なアドバイスだとしても、自分が納得できず、どうしてもそうすることができなくて、自分のやりたいことしかやりたくない気持ちはよく分かるから。

  新年早々、下品でどうもすみません~。(←でも直す気はない)

  今年もどうぞよろしくお願いします。    
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