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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

裁判の公平性

2016年11月22日 14時11分53秒 | えいこう語る

 

 ▼昨年の6月、北海道の砂川市で、飲酒後28歳の男2人が、車の速度を競い、時速100キロ超で、家族5人が乗る車に衝突し、4人を死亡させ1人に重体を負わせた事件は、加害者2人にそれぞれ懲役23年を言い渡した。だが、被害者の遺族は、その程度の刑に、納得しているはずはないだろう。しかし、加害者は、判決を言い渡した札幌地裁の裁判員裁判を不服とし、控訴したという。死刑を望んだ被害者の親族は「一体なにが不服なのか」と怒りをあらわにした。事故当時の報道の記憶を思い起こせば、加害者の二人は、地域では暴走運転を繰り返す常習犯だといわれていたようだ。控訴したという、やりきれない記事を読んで、正義や公平性について少し考えてみることにした。

ギリシャ神話における「正義」の女神「ディケー」は、ローマ神話では「ユスティティア=justitia(ラテン語)」という名で表され、それが「justice(英語)」の語源とされるが、ディケーの母親である「掟」の女神「テミス」は、娘ディケーと同じく「正義の女神」と呼ばれることもある。そのテミスは、左手に秤を持ち右手に剣を持つとされる。この剣が意味するところは、正義を貫徹するために必要な「力」である。18世紀のドイツの法学者イェーリングによれば、「法(正義)は単なる思想ではなくて、生きた力であるとし、正義の神テミスは、一方の手に権利「正義」を量る秤を持ち、他方の手には権利「正義」を主張するための剣を握っているという。さらに「秤のない剣は裸の暴力であり、剣のない秤は、法「正義」の無力を意味するとし、秤と剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、その秤をあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律「正義」状態が存在すると言っている。「権利」「法」「法律」はドイツ語ですべて「Recht」であり「正しさ」「正義」の意味も有す。・・・山口意友著「正義を疑え」ちくま新書より。

道路交通法なるものがある。うっかりなスピード違反や、うっかりな一時停止違反に対し、剣を使用するのはいいが、肝心の秤が、うっかりにとっては公平を欠いているような気がする。というより、犯罪の分類に入らぬ程度の心理状態を、剣を使い秤にかけさせる、一種の法の暴力のように感じるからだ。自分でも法国家に住んでいるに、甘い考えだと思うが、どう考えても犯罪に入らぬ程度のうっかりである。交通法側からいえば、秤は均衡を保っているというが、うっかり側から見れば、剣の使いすぎではないかと思う。何度かそんな場面に遭遇しているが、この法の公平性に対し、一度も納得行くことはない。控訴したいと思うこともあるくらいだ。

これはあくまでも、一方的な法の刀のふりかざしに対する、単なる私の性癖のようなものだと思っている。だが、砂川事件は論外だ。飲酒運転での暴走行為は、犯罪以外の何ものでもない。刑を軽くしてもらうための控訴自体も、心理学的にみても、犯罪行為に該当するだろう。第二次裁判は、控訴した加害者の道徳感や倫理感を裁判で問うべきではないだろうか。4人の命を奪って、懲役23年の秤が、自分たちに不公平だとしたら、奪われた命はあまりにも軽すぎるのではないか。加害者は公平という正義の秤に、さらに錘を重ね、与えられた公平性を自ら狂わすことになるだろう。

裁判員裁判は、一般人の判断を重視する裁判だ。裁判員は遠山の金さんになり、控訴したことにより、罪がさらに加算されたという判例を期待したい砂川裁判だ。