▼「国家と国民」。この単語は何気なく並べると、国家が先に来て国民は後にしたほうが普通なのではないかというのが、国民の一般的感情だろう。私も意識しないと、そんな感情になる。国家という存在は、その大きな存在に守られて、国民が安心して暮らせるという感じがするからだ。
▼国家の安全を守る最高法規は憲法なのだが、憲法には国家に主権があるのではなく、国民に主権があると記されている。そうであれば胸を張って「国民と国家」と書きたいところだが、国家主権の国であると為政者が思っている間は、国家が凶暴化するという事実が歴史に刻まれているので、国家を優先した方が無難だという感覚が、国民のDNAの中に刻み込まれていて「国民と国家」と書けないブレーが働くのかもしれない。
▼「主権在民」の我が国で、この憲法規定を意識している生きている日本人は、はたしてどのくらいいるのだろうか。「国には逆らえない」という戦前的意識が、近年少しづつだが芽生え始めているのではないかと、私が感じたことを記しておきたい。
▼東北大学で、福島第一原発事故後、放射能による海洋汚染について研究しているK教授から聞いた話だ。授業で、原発がいかに危険かということを講義すると、K教授は政治的色彩の濃い発言をしていると、ツイッターなどで学生が発信するという。学校にそのことで苦情が入るので、学校側も無視できないという。職場を失いかねない環境も存在しそうだと話す。学生の理解力や質の低下が問題なのかもしれないが、最高学府の若者がこのような能力では、国家主権の国になりつつあるのを実感する一齣だ。
▼北海道大学のM教授から聞いた話だ。大学の研究で、軍事用に転用できるものであれば、国が研究費を補助するという制度ができた。北大もその補助の適用になった研究がある。教授たちには、真摯な研究が軍事用に利用された戦前の経過も踏まえ、防衛省の助成制度には異論もある。だが研究者は、軍事用に使われるために研究しているのではない。結果として、軍事用にも適用されるということなのだろう。研究や開発には高額な機械なども必要だ。熱心な研究ほど予算が必要だろう。だがそこに付け込んで、防衛省がしゃしゃり出るのはお門違いだ。
▼北大なら学生自治会が反対の行動を示さないのかと尋ねると、今の学生は、そこまでの敏感さがないというようなことを話していた。それを聞いてこんな事も思い出した。北大のキャンパスは一般市民が入れて、子どもたちを連れて散歩を楽しむ親もいる。芝生が枯れるという理由で、立ち入り禁止にした出来事だ。さらに、学生たちが放課後飲んで語った、北大名物のジンギスカン焼き肉も禁止されたという。ノーベル賞を受賞した鈴木教授も、放課後、学生たちと飲んで語り合うジンギスカンが、大好きだったという。開かれたキャンパスが、日本の未来を担う人材を育成する場にもなっているような気もするのだが。
▼大学にも、自由な精神が徐々に阻害される雰囲気がでているのだろうか。それとも、学生や教授陣にも「安保関連法」の成立で、海外でも集団自衛権の行使容認が可能になった時代背景が影響し、国民主権から国家主権に徐々にシフトしようという潜在意識が、逆胎動し始めているということなのだろうか。
▼もうひとつは、公平・中立を旨とする弁護士会での話だ。TPPに反対する北海道弁護士会のO弁護士から聞いた話だ。TPPの憲法上の問題として、投資家保護に関する『ISDS条項』がある。協定締結国や自治体の措置により損害を被ったとする外国投資家、外国企業が当該協定締結国や自治体を相手に,国際的な仲裁機関に申し立てを可能とする条項だ。この仲裁機関に対する不服申立て権はなく、我が国の司法権を侵害する恐れがあるという。なによりもTPP交渉過程が、4割ほどしか情報公開されていないものを軽々しく受け入れるべきではないというのが、大方の弁護士の主張のようだ。
▼それに対し、上層部からは」政治的なものに首を突っ込まないように」という、声が聞こえるという。法曹界でもそうなのだから、町会連合会で「政治的なものは持ち込まない」というのは、いたって正常な意識といえるのかもしれない。ただ、市民の安全・安心な暮らしのために発言していることが、大学内でも法曹界でも町会でも「政治的なものは馴染まない」ということで、一掃されそうな雰囲気があるということは、いささか納得がいかない、今の社会だ。
▼これらの話は、10月中に私が実際に聞いた話だが、日本人の深層心理には、いまだにゆがんだお上意識が巣食っているような気がしてならない。ゆがむとは漢字で「歪む」と書く。不と正が合体したものなので、多分良くはない意識に違いない。