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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

国語の理解力が足りない日本

2016年09月11日 14時02分27秒 | えいこう語る

 

テレビのアナウンサーでも、この言葉は適切な表現ではないのではないかと感じることが最近ままある。内容としては十分伝わってくるのだが、よく考えるとこの言葉ではなく、もっと適切な言葉があるのではないかと感じるからだ。なぜプロの話し手でも、そのような言葉の使い方をするのかと言えば、言葉は時代背景により、本来の意味が薄れてきて、その時代に合うような言い方が、半ば常識化してしまうことがあるからだ。正しい日本語が、少しずつ時代の波に押され、会話になると微妙に変化してくるからだ。だが、文章にしてよく吟味してみると、正しい日本語の文体とは言えないのだが、会話としては成立するから、それが日常生活で違和感を持たれないでいるようだ。

だが、日本を訪れる外国人が、わずか数年で正確な日本語を使っているのに驚くことがある。正確な日本語を使うことのできる外国人の特徴は、日本の伝統文化をよく理解し、さらに追求しようとして来日するという人が多いようだ。日本人の国語力が不足しているのは、日本人そのものが日本の歴史や文化を学ぼうという精神が薄れたためかもしれない。「故きを訪ね新しきを知る」というのではなく「故きを忘れ新しきに走る」というのが、今の日本人に多いのではないだろうか。若い人だけでなく、社会に影響があるこんな人物までもが、現在の社会状況に惑わされ、こんな日本語を使ってしまうようだ。

まずは、石原信太郎元東京都知事だ。障害者施設を訪問した後「ああいう人って人格があるのかね。ああいう問題って、安楽死なんかにつながるのじゃないかという気がする」。茨城県の教育委員は「障害者の出産を減らしていける方向になったらいい」。いつもお騒がせな、麻生太郎財務相。「90歳になって老後が心配と訳のわからないことを言っている人がテレビに出ていた。いつまで生きているつもりのかと思っているのかと思いながら観ていた。たらたら飲んで食べて、何もしない人の医療費をなぜ私が払うのだ」。こんな発言がまかり通る世の中だ。こんな世の中だから、戦争法案としか言えない「安保関連法」を「平和法案」という総理も出てくるのだ。

昨日、函館市内での講演会で、ある衆議院議員に会ったので質問してみた。「北海道の自治体の財政は逼迫しているし、今回の台風での被害は甚大だ。知事も自治体首長も政府に復興予算の要望をしているが、こんな時、政府は予算の見返りに、核のゴミの処分場を押し付けようとしているのではないか」と聞くと「すでにそのような発言をしている議員もいる」と話していた。私の杞憂はどうやら実現味を帯びてきたようだ。

5月から、私は函館市町会連合会の、保健福祉部長に任命されたので、慌てて介護保険制度などの勉強をしている。福祉問題は、身近なようでよく知らないことが多い。介護制度の要支援1や2、さらに要介護1や2までが、国の支援から市町村の支援に移行するようだ。生活援助サービス等を、原則自己負担(一部補助)の仕組みに切り替えるべきという内容だ。この内容変更は当然厚労省からだと思っていたが、実は言い出しっぺは、平成27年6月1日の「財政制度等審議会」(財務省)から出たという。

財政が逼迫してくると、あらゆるところで無駄を省くということになり、それが上述した非人道的発言にもつながってくるのだろう。今の我が国の借金は「1000兆1685億円」といわれ、人間が実感できない天文学的数字だ。突然私のある記憶が蘇った。10年ほど前、札幌で財政に詳しいある国会議員から聞いた話だ。その頃確か、借金が750兆円位と報道されていた時代だったと思う。だが、実際は1000兆円を超えていると言っていたことだ。

次期オリンピックの建設費用や豊洲の移転問題も、莫大な予算が無尽蔵に使われているようだ。日本は政治家や官僚、そしてマスコミまで、日本語も経済感覚も変になってしまったようだ。これを修正するため「教育基本法の改正」ということになるのだろうが、これが日本人の思想信条まで変え、戦前の日本人への回帰になってしまえば、日本の未来も希望が薄いように思えてくる。

最近この言葉を聞くことも無くなったが、アベ総理の「戦後レジームの解体」という言葉の意味が、少し重く感じるこの頃だ。