元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ビール・ストリートの恋人たち」

2019-04-13 06:22:13 | 映画の感想(は行)
 (原題:IF BEALE STREET COULD TALK)作品の外観の雰囲気は良いのだが、中身は薄い。監督のバリー・ジェンキンスとしても、高く評価された前作「ムーンライト」(2016年)にはとても及ばない仕事ぶりで、早くも方向性に迷いが出ている印象を受けた。

 70年代のハーレム。幼い頃から共に育ち、長じて恋人同士になった19歳のティッシュと22歳のファニーは将来を誓い合い充実した日々を送っていた。ところが、ある日ファニーが無実の罪で逮捕されてしまう。すでに妊娠していたティッシュとその家族は、何とかファニーを助け出そうとするが、上手くいかない。黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンの小説の映画化だ。



 物語の設定だけを読むと、誰でもこれは“不条理な境遇に追い込まれた主人公たちが徒手空拳で権力に立ち向かう熱いドラマ”だと思うだろうし、事実それ以外にはあり得ないようなシチュエーションなのだが、実際はそうではないのだ。

 ファニーを救うために奔走するのはティッシュではなく、彼女の母親。しかも、結果は捗々しいものではない。リベラル派と思しき若い白人弁護士も登場するが、その言動はクローズアップされない。そもそも、ファニーが窮地に追い込まれた原因である黒人差別に関しても、直截的に描かれていないのだ。

 斯様に、話の本筋がほとんどドラマティックに扱われていないにも関わらず、ティッシュとファニーの色恋沙汰を扱うパートは必要以上に長い。もちろんそれがストーリーの弱さをカバーするほど濃密に撮られているのならば文句はないが、これがどうにも淡白に過ぎて退屈だ。煮え切らない展開に週した挙句、気勢の上がらないラストが待ち受けているという、何とも冴えない結果に終わってしまった。

 ジェームズ・ラクストンのカメラによる映像は透き通るように美しいが、ムード的に流されて70年代のニューヨークの下町らしい猥雑感や熱気はまるで表現されていない。そもそも、この映画はビール・ストリートが舞台ではないのだ(その通りがあるのはテネシー州メンフィスである)。

 キャストでは、ティッシュを演じた長編映画初出演のキキ・レインが印象に残る。チャーミングな容貌と確かな演技力を持つ逸材で、今年度の新人賞の有力候補だ。ファニー役のステファン・ジェームズも悪くないし、各アワードを受賞したレジ―ナ・キングのパフォーマンスも要チェックだ。しかし、映画自体の出来が大したことが無いので、彼らの奮闘が報われているとは言い難い。なお、ニコラス・ブリテルの音楽は良好。サントラ盤は聴く価値がある。
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「シャンドライの恋」

2019-04-12 06:38:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:L'assedio )98年作品。昨年(2018年)に世を去ったベルナルド・ベルトルッチ監督は“巨匠”という評価が確定しているようだが、個人的には「1900年」(76年)あたりがキャリアのピークだと思っている。それ以降の作品はどうにもパッとせず、大ヒットした「ラストエンペラー」(87年)も私はあまり評価していない。本作も例外ではなく、上映時間は短いが観ている間はとても長く感じられる。

 政治活動をしていた夫が逮捕され、逃げるようにイタリアに渡ってきたアフリカ出身のシャンドライ。音楽家キンスキーの屋敷に住み込み、掃除係として働きながら医大に通うことになった。ある日彼女は、クローゼット代わりに使っているリフトがキンスキーの部屋と繋がっていることを発見する。



 その後、リフトを通じてキンスキーから花束や指輪が贈られてきた。困惑したシャンドライはキンスキーに真意を問いただすと、相手から思わずプロポーズされてしまう。独身のキンスキーは、彼女に好意を抱いていたのだ。驚いた彼女は“私が欲しいのならば、獄中にいる夫を出して”と、つい口走ってしまう。イギリスの作家ジェイムズ・ラスダンの短編の映画化だ。

 セリフが少ないのは、過剰な説明を排して内容を観る者の想像力にゆだねるということなのだろうが、本作は重要なモチーフが提示されておらず、散漫な印象しか受けない。そもそも、どうしてキンスキーがシャンドライを好きになったのか、描かれていないのだ。前振り抜きに、いきなりプロポーズされても面食らうばかり。

 しかも、後半にはキンスキーは身を挺してシャンドライの夫を救おうとしていることが示されるのだが、その切迫した心理も提示されない。螺旋階段の撮り方をはじめ映像はかなり凝ってはいるのだが(撮影監督はファビオ・チャンケッティ)、しばらく観ていると奇を衒っていることが見透かされ、何だか鬱陶しい気分になってくる。

 主演のタンディ・ニュートンとデイヴィッド・シューリスは健闘していて、アレッジオ・ヴラドの音楽も素晴らしいのだが、それだけでは内容を押し上げる要素にはならないのは確かだ。
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「半世界」

2019-04-08 06:21:06 | 映画の感想(は行)

 タイトル通りの、独自の切り口が面白く、最後までしっかりとスクリーンに対峙出来た。前にも書いたが、阪本順治監督は作品の質の幅が大きい作家だ。その中でも、本作は出来が良い部類だろう。原作の無いオリジナルストーリーだというのも好印象である。

 海と山が隣接する三重県の田舎町に住む高村紘は、山中にある炭焼き窯で備長炭の職人として生計を立てている。ある日、彼の前に幼馴染みの瑛介が現れる。瑛介は自衛官として海外赴任していたが、突然仕事を辞めて妻子とも別れ、身一つで町に戻ってきたのだ。もう一人の子供の頃からの友人である光彦を交えて3人は旧交を温めるが、職の無い瑛介は取り敢えず紘の仕事を手伝うことになる。

 深い考えもなく単に父親の仕事を継いだ紘だったが、今や備長炭の需要は安定しておらず、ストレスの溜まる日々だ。瑛介も重いトラウマを抱え、堅実に人生を歩んでいるように見える光彦は、未だ独身で屈託から逃れられない。40歳になろうとする男達の、悩み多き生き様を描く。

 劇中で瑛介が紘に向かって“お前は世間を知ってはいるが、オレは世界を知っている”と言うシーンがあるが、終盤でこのセリフは巧妙に覆される。瑛介が体験した“世界の実相”と同様に、紘を取り巻いているのも“一つの世界”なのだ。それは光彦に関しても一緒であるし、突き詰めて言えば全ての人間はそれぞれの“世界”を持っている。ただし、それは本作の題名通り“半分”に過ぎない。そして誰も“残りの半分”を熟知することは無いのだ。

 そんな事実に対しては誰もが諦念を抱くしかないのだが、それを認識することも“成長”と言えるのだろう。また主人公たちは、同時に人生の“半分”に差し掛かっている。そんな中年期の哀歓が滲み出ていて、全体を覆う雰囲気は悪くない。

 3人の中では瑛介の造型が出色だ。戦場で生じたトラウマを引きずったまま故郷に帰り、何とか自分を取り戻そうとする。「ディア・ハンター」を思わせる設定だが、リアルタイムでの説得力はかなりのものだ。それに比べると、紘は家族を顧みない自己本位の男で、好きになれない観客もいるだろう。だが、こういうタイプの者は少なくないわけで、個人的には共感してしまった。

 紘を演じる稲垣吾郎は幾分カッコ付けた感はあるが(笑)、熱演であることは間違いない。長谷川博己と渋川清彦も良いパフォーマンスを見せるが、紘の妻に扮する池脇千鶴が素晴らしい。安川午朗の音楽も好調で、全体として鑑賞後の印象は格別である。
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「翔んで埼玉」

2019-04-07 06:46:56 | 映画の感想(た行)
 ほとんど笑えず、全体的には“お手軽映画”の域を出ない。早い話が首都圏在住(あるいは出身)の観客以外にはアピール度が低いということなのだろう。もちろん、そういう“地域ネタ”が幅広く支持を集めるほどに映画自体が練り上げられていれば文句は無いが、斯様な方法論は元々ハードルが高いし、この映画の作り手にそれだけの力量があるとは思えない。

 埼玉県人が東京都民から手酷い迫害を受け、逆境に甘んじている架空世界の話。東京のトップ高校である白鵬堂学院の生徒会長を務める壇ノ浦百美は東京都知事の息子で、学内では権力をほしいままにしていた。ある日、麻実麗というアメリカ帰りで容姿端麗な転校生が学園にやってくる。あろうことか百美は麻実に恋心を抱くが、実は麻実は埼玉県出身であった。その事実を知って動揺する百美だったが、次第に埼玉差別の理不尽さに気付き、麻実に協力するようになる。



 特定地域をバカにするような笑いの取り方は、昔タモリやビートたけし等がさんざん披露したものであり、新鮮さは無い。しかも、かつてのタモリ達は無関係の土地の住民をも爆笑させるような語り口と段取りの良さを持ち合わせていたが、この映画の作者にはそんなものは見当たらない。内輪でウケそうなネタを並べているだけだ。

 武内英樹の演出は平板で、ストーリーの流れが良くない。大風呂敷を広げるだけの予算が無いことも関係しているのだろうが、盛り上げようとしているシークエンスは全て空振りしているような印象だ。

 だいたい、私のような地方の住民にとって、東京近辺でのマウンティング合戦などに興味を覚えない。埼玉にしろ千葉にしろ、東京に近いこと自体が利点でもあるわけで、何をそんなに自虐的なギャグを繰り出しているのか分からない。

 “埼玉の人間は池袋に集まるのだよ”などと御大層に言われても、“それがどうした”と返すしかないだろう。何せこっちは過去にわずかな期間しか東京に住んでいないし、埼玉県なんか3回しか行ったことがないんでね(笑)。

 百美役の二階堂ふみの男装はけっこう魅力的だったと思うが、麻実に扮するGACKTのパフォーマンスは想定の範囲内だ。伊勢谷友介に麻生久美子、中尾彬、麿赤兒、竹中直人、京本政樹と配役は豪華だが、作者は使いこなしていない。ただ、はなわによるエンディングテーマ曲は面白かった。
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「第16回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2019-04-06 06:38:36 | プア・オーディオへの招待
 SPEC社の新型メインアンプRPA-MG1は、左右別々のモノラル形式でありながら、それぞれ電源部が別れており、一揃いで4台の筐体が並ぶことになる。さらに、実は片チャンネルに2系統のパワー部分が存在し、スピーカーとバイアンプで接続する場合のみ2つのパワーユニットが作動するという、何ともユニークな作りで驚かされた。

 ならば通常は2系統のパワー部分を同時駆動(ブリッジ接続)して片チャンネルをドライブすれば、より大きなパワーが得られると思われるが、スタッフの話だと同時駆動はサウンド面で万全では無いので、バイアンプ使用時以外はパワー部分が1系統“休眠”しているのだという。個人的には、2系統をステレオ用としてフル稼働し、二組必要なモノラル形式ではなく、一組だけで用が足せるステレオ・パワーアンプとして仕上げても良かったのではないかと思うのだが、ひょっとすると将来はその形式のモデルがリリースされるのかもしれない。



 音はこのブランドらしい滑らかで透明感のある展開だ。スピーカーを選ぶこともあまりないと予想する(会場ではB&Wの800シリーズが接続されていた)。完全デジタル方式のアンプで、発熱はほとんど無い。使い勝手の面から、今後はこういうD級動作のアンプが増えてくるのだろう。

 さて、一時期の低迷状態を脱しての再ブーム化に成功した某プロレス団体のオーナーの名言に“すべてのジャンルはマニアが潰す”というのがある。つまり、旧来型の価値観に固執して、せっかく興味を持ってくれたライトなファンを蔑ろにする“マニア”ばかりが大きな顔をしている分野は、早晩行き詰まるという意味だ。



 文字通り、これは“すべてのジャンル”に当てはまるのだと思う。ピュア・オーディオだって同じことだ。たとえばJBLやALTECのスピーカーユニットを組み上げてマルチ駆動したり、真空管アンプを多数自作したり、その結果として部屋の中が機器やパーツで溢れているという“マニア”は、さすがに“古い”と認識されても仕方がない。しかし同時に、フルサイズの高価な機器を揃えて“最低200万円ぐらいは注ぎ込まないと良い音は出ないね”などと嘯くオーディオファイルやディーラーのスタッフも、やっぱり“古い”と言わざるを得ないし、結果的に“ジャンルを潰すマニア”なのだと思う。

 これは何度も言ってることだが、この業界はもっとライトでミーハーな層を開拓した方が良い。ハイエンドよりもローエンド、小難しい講釈より単純に良い音が出ている安価なシステムを、幅広い潜在ユーザーに向けて紹介出来る場が必要だろう。一千万円クラスのシステムが平然と並べられ、年配層が目立つフェア会場で、そんなことを考えてしまった。

(この項おわり)
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「第16回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2019-04-05 06:36:03 | プア・オーディオへの招待
 去る3月29日から31日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきた。まず目を引いたのは、YAMAHAの新しいアナログプレーヤーGT-5000である。

 外観はかつてのベストセラー機で私も所有している同社のGT-2000(発売は80年代)とよく似ている。だから最初は誰しもGT-2000のモデルチェンジ版だと思うかもしれないが、中身は別物だ。ダイレクトドライブ方式のGT-2000に対し、このGT-5000はベルトドライブ方式を採用。さらにトーンアームはピュア・ストレート型が装着されている。



 とはいえ、GT-2000がリリースされた当時にも、オプションとしてYSA-1というストレートアームが用意されていた。さらには某評論家の監修によるピュア・ストレート型のYSA-2も、限定モデルとして存在していた。今回はそのYSA-2の相当品が標準装備として“復刻”されたという見方もできる(もちろん、構造は異なるのだろうが)。

 余談だが、ストレート型のアームがあまり好みではなかった私は、当時SAECから限定発売されたGT-2000用のJ字型アームであるWE-407/GTに換装し、現在も使っている。

 肝心のGT-5000の音だが、同クラスの各社のプレーヤーと聴き比べたわけではないので確かなことは言えないものの、かなりの安定感があったと思う。なお価格は60万円で、かつてのGT-2000の4倍以上だが、法外なプライスの付いた高級レコードプレーヤーが目立つ昨今では、案外リーズナブルな値付けなのかもしれない。

 同ブースでは、YAMAHAが久々に発表したセパレートアンプのC-5000とM-5000も展示されていた。だが、C-5000の外観はプリアンプらしくない。まるでプリメインアンプだ。個人的には昔の同社のC-2のような“コントロールアンプらしい(?)デザイン”にして欲しかったというのが本音である(笑)。



 2018年末に発表されたJBLのスピーカーL100 Classicのエクステリアと音色には、すっかり参ってしまった。このモデルは70年代前半に同社がリリースしたL100 Centuryの復刻版だ。私はL100 Centuryを聴いたことはないが、同社の民生用機であるLシリーズは、私が若い頃に初めて接した同社のモデルだった。そして、その音色には心底驚かされたものだ。それまで国産機しか聴いたことが無かった私に、世の中にはこういう“明るく闊達な音”というものが存在するということを知らしめてくれた。

 もちろんL100 Classicの音は昔と同等ではなく、今風にリファインされているのだろう。それでも、そのサウンドはかつての感慨を呼び起こさせるには十分だった。さらに鮮やかなフロントグリルも手練れのオーディオファンの琴線に触れるものがある。価格は50万円以下で、犯罪的に高くないのも嬉しい。今では個人的にJBLの音とは縁遠くなったが、このモデルだけは危うく衝動買いしそうだった(笑)。

(この項つづく)
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