元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「眠狂四郎無頼剣」

2015-05-15 06:23:21 | 映画の感想(な行)
 昭和41年大映作品。御馴染みのシリーズの第八作目で、このシリーズの中でも評価は上位に入る。実際に見応えがあり、このような時代劇をコンスタントに作り続けていた当時の大映の勢いを感じられる出来だ。

 狂四郎(市川雷蔵)は後見人で老中・水野忠邦の側用人である武部仙十郎から、大塩平八郎の残党が不穏な動きを企てていると聞かされる。折しも大手の油問屋に強盗が入り、町中では火焔芸を披露する怪しい芸人たちがうろつくなど、文字通りキナ臭い空気が江戸中に蔓延していた。



 どうやら背後には大塩が生前考案した石油精製法に関する利権が絡んでいるらしく、それをめぐって油問屋が組織したゴロツキ集団と大塩に縁のあったテロリスト達が暗躍している図式が仙十郎の調べによって明らかになる。

 あまり関わりたくない狂四郎だったが、ひょんなことから件の芸人一座の一人であり事件のカギを握る勝美(藤村志保)を助けることになり、否応なしに陰謀に巻き込まれていく。

 伊藤大輔による脚本は実に密度が高く、事件の背後には数々の事実が内包されているものの、決してゴッチャになることはなく、整然と配列されていることに感心した。当然のことながら狂四郎は手掛かりを追うのに手一杯で、今回は女といちゃつくヒマもないのは御愛嬌だが(爆)、良く出来た犯罪ドラマの形式を踏襲しているのには感服した。

 天知茂扮する敵の首魁も狂四郎と同じく円月殺法を使うというモチーフは出色で、二つの円月がゆっくり廻るクライマックスは盛り上がる。

 三隅研次の演出は洗練されており、画面構成は堅牢そのもの(しかも、端正)。シネスコ画面を軽々と使いこなしているのが嬉しい。そしてもちろん観る者を圧倒する雷蔵と天知のカリスマぶり。観てよかったと思える逸品である。
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「寄生獣 完結編」

2015-05-11 06:58:00 | 映画の感想(か行)

 パート1はそこそこ楽しめたが、この続編は尻すぼみ。もっとスケールの大きな話になるべきところを、程々のレベルで手を打ったような感じは否めない。原作がどうなのかは知らないが、観終わって随分とショボい印象を受ける。テレビ画面にて向き合うのが丁度良いような作品のサイズだ。

 右手に寄生生物ミギーを宿した高校生・泉新一の暮らす町に、パラサイトに与するような市長が就任。市役所は異生物の巣になり、パラサイト達は組織化され一大勢力を築き上げようとしていた。一方、前作の高校での死闘により異生物の脅威をハッキリと認識した警察当局は、対パラサイト特殊部隊を結成して奇襲作戦の準備を進める。そんな中、人類との共存を模索するパラサイト・田宮良子は人間の子を産み、ミギーと共生する新一の行動を注視していた。やがて彼らの前に最強のパラサイトである後藤が現れ、全面対決に突入する。

 多数の死傷者を出したパート1での惨劇を経て警察が動き出すのは分かるが、どう考えても県警本部や警視庁レベルで対処出来る事態ではない。警察庁等の政府当局が乗り出さなければならないケースだと思う。そもそも、警察はどうやって市役所が敵のアジトになっていることを知ったのだろうか。

 劇中にパラサイトに寄生された人間を見分けることが出来る凶悪犯が登場するが、コイツはSATの突撃作戦に同行したにも関わらず、いつの間にか一人で逃げおおせている。パラサイトに関する特ダネをマスコミに売り込もうとするジャーナリストが勿体振ったように出てくるが、危険なインベーダーの存在に気付いているのは彼だけではないはず。これでは、日本のマスコミはすべて無能だと言わんばかりの極論ではないか。

 後藤と警官隊とのバトルを具体的に描かないのも不満だが、新一と後藤との対決の場がいつの間にか放射性廃棄物の処理場になっているのは御都合主義の極みである。最低、田宮良子と警察との立ち回りが衆人環視の元に展開される時点で、世の中すべてがひっくり返るような一大事に発展して然るべきだが、相変わらず舞台は新一らが住む町から一歩も外に出ない。

 斯様に大事なことが描かれていないくせに、新一とガールフレンドの里美とのラブシーンは必要以上に長い。ラストなんか、当然画面の中にいるべき人物が見当たらないという不手際をそのまま提示しており、脱力するばかりだ。取って付けたような“本当の意味での寄生獣とはパラサイトではなく人間なのではないか”というテーマも小賢しい限り。

 山崎貴の演出は相変わらずパワフルで活劇場面もソツなくこなしているが、それだけでは作劇の不備をカバー出来るはずもない。新一役の染谷将太は、今回は後藤を演じた浅野忠信に負けているので減点(笑)。唯一の救いは田宮良子に扮した深津絵里で、演技の幅を広げるという意味で、本作の出演は有意義だったのではないだろうか。
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アナログレコードの復権について。

2015-05-10 06:29:15 | プア・オーディオへの招待
 福岡市中央区天神にあるTOWER RECORDSの福岡パルコ店が2015年3月にリニューアル・オープンしたが、その片隅にアナログレコードのコーナーがセッティングされている。懐古趣味のオールドファンの集客を狙った措置だと思ったら、そうではない。けっこう若年層が目立つのだ。傍らにはレコードプレーヤーが実装展示されているが、ぐるぐる回るレコード盤を興味深そうに眺めている若いカップルもいる。

 オーディオ業界では今ハイレゾ音源が持て囃されているが(もっとも、勝手に煽っているのは送り手側の方で、消費者側の反応はそれほどでもない)、無視出来ないトレンドになりつつあるのは、一時は絶滅すると言われていたアナログレコードの方なのだ。

 米国では2014年のアナログレコードの売上げが前年比49%アップの800万枚に回復したというニュースが話題になった。日本も同年には、アナログレコードの生産量では40万枚を超え、前年比66%アップとなっている。数少ないプレス工場はフル稼働して需要に応えているらしい。


 レコード復権の理由として、よく“アナログレコードはCDよりも音が良いから”とか“アナログレコードの音はデジタル音源と違い、温かみがあるから”とかいう説を見かけるが、それらはピント外れだ。再生方法が異なるメディア同士で音の優劣を論じるのはナンセンス。もちろん、圧縮音源とか昔のMDみたいに明らかに低スペックのものとCD等とを比べるのならば話は別だが、総体的にはアナログレコードとCDとの間に大きな定格の違いがあるわけでもない。あるのは個々のソフト及び再生機器のクォリティの違いだけである。

 ましてや“アナログレコードの音はCD等より温かい”という意見は、情緒的に過ぎる。そう感じるリスナーがいるとすれば、質の悪いCDプレーヤー(及びシステム)しか使ったことがないのか、あるいは低レベルの録音のソフトしか聴いていないのか、そのいずれか(あるいは両方)だろう。

 レコードが見直されてきた最大の理由は、やはりその魅力的な形状とユーザーインターフェースにあると思う。大きなジャケットはインテリアとして使えるほど見栄えが良く、取り扱いやセッティングには注意を払う必要があるが、それだけ“物”としての存在感を強くアピールする。そしてレコード針が音溝をトレースする様子、つまりは音源を取り出している“現場”を実際に目撃できるという、他のメディアには無い特性を備えている。

 CDが隆盛になる前には、音楽ファンは誰しも自分が初めて買ったレコードのことをしっかりと覚えていたはずだ。だが、最初に購入したCDについては印象が薄く、ましてや初めてネットからダウンロードした楽曲のことなんか記憶に残っているかどうかも怪しいというケースが多いのではないだろうか。確かにネット経由で音源を入手するのは手軽だし、再生時の簡便性も捨てがたい。しかし、音楽はただ聴ければよいというものではなく、そこに幾ばくかの趣味性が介在していれば、聴く喜びはより大きくなる。

 注目すべきは、このアナログ復権の動きが送り手側ではなく、主に消費者側やミュージシャンの側から起こったということだ。メーカーサイドからのお仕着せのムーヴメントではないということは、息の長いトレンドになる可能性が高いと言えるのだ。



 オーディオ機器を供給する側としても、この動きを見逃す手はない。間髪を入れずに商品ラインナップの充実に努めるべぎだろう。そして重要なのは、いたずらに高額でマニアックな路線の製品を前面に出さないことだ。くだんのレコード売場に並べられていたプレーヤーは、ION AUDIO Archive LPという実売1万円程度のものである。ステレオ・スピーカーを搭載したオールインワン・タイプで、大昔のモジュラー型プレーヤー思い起こさせるが、当然ながら音は“価格相応”で、高音質は望めない。

 しかし、だからといってKRONOSだのTechDASだのといった(一般ピープルから見れば)おどろおどろしい外観を持つハイエンド機(およびそれに類するもの)をプッシュしたら、せっかくレコードに興味を持ってくれた新しいリスナーも一斉に逃げてしまう。今回のブームが“形から入った”ようなものである以上、新たに投入する製品もエクステリアに配慮して欲しい。

 昔、デンマークのB&O社がリリースしていたようなスタイリッシュなモデルや、TechnicsのSL-10とかDIATONEのLT-5Vのようなスペース・ユーティリティに優れた製品、また木の香りが漂ってくるようなレトロな外観を持ったプレーヤーなど、いろいろとプランは考えられる。そして価格を高くしないことが重要なポイントだ。CDが音楽ソフトの主流になる前は、4,5万円も出せば十分使えるレコードプレーヤーが手に入った。もちろん現時点ではそのプライスで製品化することは難しいが、少なくとも“マトモな音を聴きたければ最低20万円はお金を掛けるべきだ”と言わんばかりの品揃えになることだけは避けるべきだろう。

 また大切なことは、良質なアナログの音を聴かせてくれる場を設定することだろう。いくらレコードの形状が魅力的でも、CDやハイレゾ音源に負けない音質を持っていることをPRしないとユーザー層は広がらない。たとえば、くだんのレコード売場の隣に本格的なオーディオシステムを配備して実演するようなことをやっても良いと思う。

 もちろん、いくらレコード復権の動きがあるといっても、音楽ソフト全体に占める割合はまだわずかだ。このマーケットを広げて商機を掴めるかどうかは、送り手側の努力に係っている。今後も注視していきたい。
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「龍三と七人の子分たち」

2015-05-09 06:53:32 | 映画の感想(ら行)

 前半はまあ退屈せずに観ていられたが、中盤以降は完全に腰砕け。この設定ならばもっと面白くなって然るべきだが、全然そうならない。北野武は原案と脚本(第一稿)だけ担当して、演出やシナリオの練り上げは他の者にやらせた方が良かった。

 かつてはヤクザの組長としてその筋では名の通った存在であった龍三だが、歳を取った今では息子夫婦から煙たがられながらも静かに隠退生活を送っている。そんなある日、彼は新手の振り込め詐欺に引っ掛かりそうになる。怒った龍三は昔の仲間を集めて、人々を騙して金を巻き上げる若造どもを成敗しようと立ち上がる。

 いくら昔は威勢の良いヤクザだったとはいえ、今では全員がジジイだ。手元や足元が覚束なかったり、すでにボケが入っている者もいて、龍三が思う通りに動いてはくれない。このあたりをネタにしたギャグはけっこう笑える。特に仕込み杖を今やシケモク拾いにしか使わない奴や、自分のヒゲもロクに剃れなくなった往年の“カミソリの達人”なんかはかなりウケた。

 ところが、映画はそんな老人達が披露する“一発芸”の羅列から少しも出ることはない。いざ敵の首魁と対峙することになっても、くだらない内輪ネタに終始するばかりで、何ら映画的興趣に結びつかない。

 今回主人公達が相対するのは、従来の“親分&子分”という図式がまったく通用しなくなったニュータイプのゴロツキ集団だということだが、どう見たってただのチンピラ連中だ。昔と違うのは、龍三達がヤクザの御旗を振りかざしても動じないところぐらいで、ちっとも目新しさは無い。もっと今風のワルに相応しい得体の知れない不気味さを漂わせた方が盛り上がったと思うのだが、たけし自身が“古い世代”に属するようになってしまった現在、それは無理な注文だったかもしれない。

 そして終盤に延々と展開する活劇場面のショボさは致命的で、本来この監督はこういう大掛かりなアクションシーンを得意とはしていないだけに、違和感ばかりが残る。さらに主要登場人物が途中で非業の最期を遂げるのだが、この部分が映画のカラーから浮いているのにも閉口した。

 主演の藤竜也をはじめ、近藤正臣、中尾彬、品川徹、樋浦勉、伊藤幸純、吉澤健、小野寺昭と加齢臭よりも存在感が前面に出ているような面子を集めていながら一発ギャグ以外に見せ場を作れないのは失態だろう。安田顕や矢島健一の悪役も凄味が全然無いし、勝村政信や萬田久子といった脇の顔ぶれ、そして刑事役で出てくるピートたけしも、ハッキリ言ってどうでもいい。考えてみれば、北野武は監督として「座頭市」を最後に以来ロクな作品を撮っていない。才能の枯渇が懸念されるところである。
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倉敷に行ってきた。

2015-05-08 06:25:25 | その他
 前のアーティクルで広島県尾道市に旅行したことを書いたが、ついでに岡山県倉敷市にも足を伸ばしてみた。ここも私は若い時分に訪れているが、同行者(嫁御)は初めて。この市のいわゆる“美観地区”は山陽地方有数の観光スポットなので混雑を覚悟していたが、やはりかなりの賑わいを見せていた。



 大原美術館のチケット売り場は長蛇の列で、入場券を買うだけで30分ほどかかってしまったが、やはりこの美術館のコレクションは凄い。前回は時間が無くて本館しか見られなかったが、今回は分館や工芸館、児島虎次郎記念館もじっくり回ることが出来、改めてそのラインナップの豊富さに唸ってしまった。

 倉敷アイビースクエアではちょうど野外結婚式が行われていて、招待客だけではなく居合わせた多くの観光客からも拍手が巻き起こっていたのが微笑ましかった。当事者達にとっては一生の思い出になるだろう。



 倉敷を舞台にした映画や小説は意外なほど少ない。いかにも“観光地”といった雰囲気が表現者達のインスピレーションに結び付かないのかもしれないが、映画やドラマのロケ地としては悪くないと思う。

 “美観地区”内のレストランはどこも値が張るので、昼食は近くのお好み焼き屋で済ませた。とても美味しかったが、驚いたのは壁一面に貼られた楽天イーグルスの選手達のサイン色紙だった。そういえばこのチームの以前の監督である星野仙一は倉敷出身。たぶん彼の行きつけの店で、選手達を引き連れてやって来たこともあったのだろう。星野監督退任後はいまいちピリッとしないイーグルスだが、パ・リーグを盛り上げるために頑張って欲しい(・・・・と、なぜか野球ネタで書き込みを終えてしまった ^^;)。
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尾道に行ってきた。

2015-05-07 06:22:10 | その他
 連休を利用して広島県尾道市に足を運んでみた。私は若い頃に旅行したことがあるが、同行者(嫁御)は初めて。この時期、メジャーな観光地はどこも混雑しているので、尾道みたいな落ち着いた雰囲気の土地に出掛けるのも悪くはないと思っていたのだが、いざ着いてみるとあまりの人の多さにビックリした。それもそのはずで、当日は“尾道みなと祭”が開催されていたのだ。事前の情報収集に遅れを取ってしまい、忸怩たる思いであった(笑)。



 それでも、この町の独特の魅力は少しは堪能出来た。海と山が迫り、坂が多く、寺が多い。古い民家や商店、裏通りや抜け道の多い街並み。誰しも心惹かれる佇まいを見せている。

 その日常から切り離されたような空間は、映画などの舞台にはもってこいで、昔からこの地を題材にした作品は数多く作られている。小説では林芙美子の「放浪記」や志賀直哉の「暗夜行路」が有名だが、映画では大林宣彦監督による一連の作品がよく知られているところだ。小津安二郎監督の「東京物語」のロケ地にもなった浄土寺にも行ってみたのは言うまでもない。



 今回、名物の尾道ラーメンも食べてみた。昔私が旅行した頃は存在すら知らなかったが、90年代以降にマスコミに取り上げられ、人気が全国区になったらしい。今回は有名店に30分程度行列に並んで、ようやくありついた。しょう油ラーメンの一種なのだが、小魚で出汁をとっているせいかスープに独特のコクがある。値段も高くないので、コストパフォーマンス面では満足出来る。

 尾道市の人口は14万人強だが、そのうちかなりの割合が中心地から離れた新興住宅地に居を構えていると思われる(古くからの地区にある住居は増改築もままならない)。だが、風情のある街並みを擁するこの市には、一度は住んでみたいと思う者も少なくないだろう。また機会があれば訪れたいものだ。
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「インヒアレント・ヴァイス」

2015-05-06 07:05:55 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Inherent Vice )ひたすら退屈な映画で、中盤以降は眠気との戦いに終始した。誉めている評論家もいるようだが、世の中には映画の出来そのものではなく、映画の手法やモチーフなどに過剰に拘泥してその範囲内ですべてを語ってしまえる人も存在するのだと、感心する次第である(注:これは別に非難しているわけではない。念のため ^^;)。

 70年代初頭。ロスアンジェルスで探偵業を営むドックは重度のマリファナ中毒。そんな彼の前に、過去に交際していたシャスタが現れる。彼女はドックと別れた後に金持ちの不動産業者の愛人になっていた。その不動産屋の妻も浮気の真っ最中で、妻とそのボーイフレンドが不動産屋の拉致と監禁を企てているらしいので何とかしてほしいと言う。

 さっそく捜査に乗り出すドックだが、いつの間にか身に覚えの無い事件の犯人に仕立て上げられ、くだんの金持ちとシャスタも失踪してしまう。どうやら裏には巨額の土地利権と麻薬シンジケートの陰謀があるらしい。ドックは単身その闇の中に飛び込んでいく。アメリカの作家トマス・ピンチョンの探偵小説「LAヴァイス」(私は未読)の映画化だ。

 本筋であるはずの謎解きは完全に捨象されており、辻褄の合わないことばかり示される。また、妙な登場人物達が次々と出てきて、映画が進むにつれワケの分からない様相を呈してくる。終盤には主人公は事件を解決したいのかどうかも怪しくなり、ただワケありの警察官との漫才めいたやり取りが意味も無くクローズアップされる。

 個々の描写はメリハリが感じられず、曖昧模糊として要領を得ない。そう、これはヤク中の患者から見た世界が展開されているのだ。別にそれが悪いというわけではないが、この調子で芸も無く2時間半も引っ張ってもらっては困るのだ。こういう方向性のシャシンはハッタリかましたサイケな(?)画面を大仰に繰り出し、ボロの出ないうちに1時間半以下でサッと切り上げるのが鉄則だろう。

 ポール・トーマス・アンダーソン監督の仕事としては前作の「ザ・マスター」から大きく後退。漫然と求心力も無い映像を延々と垂れ流すという、昔の悪いクセが戻ってきたような印象を受ける。

 主演のホアキン・フェニックスをはじめ、ジョシュ・ブローリンやキャサリン・ウォーターストーン、リース・ウィザースプーン、ベニチオ・デル・トロといった面々も今回はまるで魅力無し。おなじみジョニー・グリーンウッドの音楽も微温的で鬱陶しい。見所を強いて挙げれば70年代の風俗だろうか。まあ、ファッション等はよく再現されているとは思うが、別にどうということはない。
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「シンデレラマン」

2015-05-05 06:37:37 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Cinderella Man)2005年作品。アカデミー賞を獲得した「ビューティフル・マインド」(2001年)のロン・ハワード監督&ラッセル・クロウ主演のコンビが再び挑んだ感動作という触れ込みながら、実際はどうしようもない出来だ。

 1929年、気鋭のボクサーとして注目を浴びていたジム・ブラドックは、右手のケガによってリングに立てなくなる。しかも折からの大恐慌によって、妻メイと3人の子供を抱えた彼の生活は困窮を極める。何とか日雇いの肉体労働で糊口を凌ぐジムだが、そんな仕事も少なくなるばかり。そんな時、現役時代のマネージャーだったジョーが世界ランキング2位の若手ボクサーとの対戦の話を持ってくる。試合の直前になって対戦相手がキャンセルしてしまったために、ジムのもとにお鉢が回ってきたのだ。



 彼はファイトマネー欲しさにメイの制止を振り切って難敵に挑む。しかしいつの間にか肉体労働によって左腕が強化されていた彼は、思いがけず勝利を収める。この試合が契機となってカムバックした彼は次々と対戦相手を打ち破り、ついにはヘビー級世界チャンピオンに挑戦する権利を得るまでになる。

 大恐慌時代に活躍した実在のボクサー、ジェームス・J・ブラドックの半生を描いた伝記映画だが、こういうスポ根ものに不可欠な“熱さ”が皆無。したがって盛り上がりもゼロ。もちろん、意図的にパッションを排除して対象を引いて見るという手法もあるのだが、本作の場合、真っ当な根性ドラマを作ろうとしているのに中身は無味乾燥なのだから始末に負えない。

 こういう題材を、脚本通りに撮り上げることには長けているがキャラクターの内面などまるで描けないハワードみたいな監督に任せること自体が大間違い。

 クロウの演技も賞狙いのクサさ100%・・・・と言いたいところだが、最初から監督の資質と題材が乖離しているので、何をやってもクサさどころか印象さえ残らない(これは、メイ役のレニー・ゼルウィガーはじめとする他のキャストも同様)。

 それでも肝心の試合場面が優れていれば許せるのだが、これもヒドい。いくらラウンドを重ねても疲れた様子さえ見せず、まったく腫れ上がっていない顔で序盤と同じスピードを維持する。クリーンヒットを何発貰っても平気の平左。クリント・イーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」よりはマシだが、この緊迫感のない試合運びは見ていてバカバカしくなってしまう。

 「ビューティフル・マインド」とは違い、オスカー候補にはまるで引っ掛からなかったのも当然だ。公開当時には有名人の賛辞を並べたCMが流されたが、今から考えるとそれも虚しい。
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「セッション」

2015-05-02 06:10:40 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Whiplash)わくわくするほど面白い。音楽をネタにした作品だが、ここに描かれるのは単なるエンタテインメントとしての音楽ではなく、登場人物達を追い詰める狂気じみたモチーフである。常軌を逸した難行苦行の果てにある精神錯乱一歩手前の愉悦を、これほどまでにヴィヴィッドに捉えた映画はめったにあるものではない。

 19歳のアンドリューは、バディ・リッチのようなジャズの歴史に名を残すようなドラマーを目指し、名門音楽学校へ進学する。日々孤独に練習に打ち込む彼だが、ある日、学内でも最高の教官として名高いテレンス・フレッチャーが彼の教室にやってきて、新たに結成するバンドに誘う。有頂天になるアンドリューだが、練習初日からフレッチャーの超スパルタ指導が炸裂し度肝を抜かれる。

 アンドリューに対しても激しい罵倒と体罰が浴びせられ心身共に参ってしまうが、負けず嫌いの彼はそれでも練習に打ち込む。ところが、フレッチャーは彼にレギュラーのポジションを争わせるために、候補者2人を加えて激烈なドラム・バトルを演じさせる等、これでもかという試練を次々に与える。さらに私生活でのゴタゴタや予期せぬトラブルも勃発し、アンドリューは窮地に追いやられていく。

 本作を“スポ根もの”と評する意見もあるらしいが、断じてそんな甘いものではない。もちろん「愛と青春の旅立ち」におけるの新兵と鬼軍曹との関係性とも違う。ここにはヒューマニズムも登場人物の成長ストーリーも存在しない。キューブリックの「フルメタル・ジャケット」にも似た、地獄への一里塚が示されるだけだ。

 しかしながら、冥府魔道に堕ちた主人公たちが叩き出すサウンドの、何と楽しいことか。何と心躍るものであることか。おそらくは修羅の道が約束されたアンドリューは、常人が得られる平凡な幸福とは縁のない人生を送るだろう。だが、身を削ってプレイする音楽は万人のハートを掴むことは間違いない。そしてそこには、世の常識を超越し狂気の世界に足を踏み入れた者こそが芸を極める資格があるのではないかという、作者の真摯な問いかけが横溢している。

 製作当時は20代だった監督のデイミアン・チャゼルの仕事ぶりは、何かに憑り付かれたかのような強靭さを見せ、まさに一点の隙も見せない。アンドリューに扮するマイルズ・テラーの頑張りは印象的だが、何といっても凄いのはフレッチャー役のJ・K・シモンズである。性根が腐った外道ながら、音楽に対する情熱は人一倍強く、目的のためには手段を選ばないという怪人物を憎々しく演じ切る。しかもその身のこなしは洗練されており、しなやかな指揮ぶりには惚れ惚れしてしまう。今年度屈指のパフォーマンスだ。

 手練れのジャズ通からは“あそこの描写がなっとらん。だから映画としてつまらん”という声も挙がるのかもしれないが、そんなのに耳を傾ける必要はない。この異様なヴォルテージの高さ。必見の映画である。公開規模が小さいことが実に残念だ。
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「テルマ&ルイーズ」

2015-05-01 20:16:17 | 映画の感想(た行)

 (原題:THELMA & LOUISE)91年アメリカ作品。独身女のルイーズと専業主婦のテルマ、二人の逃避行を描いたリドリー・スコット監督作。公開当時は評判になった映画だが、個人的には少しも良いとは思えない。

 序盤、酔っぱらったテルマ(ジーナ・デイヴィス)が飲み屋の男にレイプされかかり、その男をルイーズ(スーザン・サランドン)が射殺するシーンがある。これがレイプの最中に射殺するというのなら話がわかるが、いったん男が離れてから、別れ際の男の捨てゼリフにカッとなったルイーズがいきなり撃ってしまう。これではルイーズは単なる凶暴な人殺しではないか。少なくとも、普通の平凡なウェイトレスがやることじゃない。

 もっともルイーズは昔テキサスでレイプされた体験があるらしいが、真相は不明のまま、二人だけの了解事項になってしまっているので、観ている方は分からない。百歩譲って、彼女にそういう体験があったとするならば、その事実が現在の彼女に日常生活レベルでどう跳ね返っているのかを描く必要がある。つまり彼女の男性観やレイプに対する恐怖やそれを許した社会に対する怒りがニュアンスとして伝わってこないと、ルイーズがただのバカな女に思えてしまう。

 このエピソードに代表されるように、この映画は登場人物の描き方が甘い。テルマにしたって、年下の男に騙されたことがきっかけになり、依存心の強い性格が、平然とスーパー強盗をやるまでに大胆になっていくが、旅立つ前の夫に抑圧された生活から解放されたとはいえ、あまりにも単純すぎないか。

 一番分からないのは、ラストの処理だ。こういう結末にしたいのなら、そこへ至る過程をもっとテンション上げて描くべきだ。道中タンク・ローリーを爆破させたり、警官をトランク詰めにしたりしても、この程度のことでどうして自暴自棄にならなければいけないのか。

 ついでに言えば、ハーヴェイ・カイテルの刑事やルイーズの恋人の態度の甘ちゃんぶりは見ていられない。作り過ぎの映像とセンスのない音楽、リドリー・スコットのフィルモグラフィの中では、下から数えた方が早いような出来だ。いや、それまでスタジオの中だけでスタイリッシュな映像を創造してきたスコットに、アメリカ中西部のけだるい雰囲気とむさ苦しさを理解させようとするのが間違いなのかもしれない。とにかく失敗作だ。
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