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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「動天」

2017-10-29 06:43:11 | 映画の感想(た行)
 90年作品。この映画は何と、大手総合商社の一つであったトーメンが製作している。思い起こせば80年代から90年代初頭にかけて、映画作りとは縁の無いようなカタギの(?)企業が次々と映画業界に参入していたものだ。当時は景気が良かったのでそんなケースは珍しくもなかったのだが、今考えると随分と賑やかな話である。現在ではまずあり得ないだろう。

 1858年、江戸幕府は日米通商条約を結び、長らく続いた閉鎖的な外交体制は終わりを告げた。上野国出身の商人である中居屋重兵衛は、商売の傍ら佐久間象山の弟子になり、あらゆる学問を学ぶ。彼はいつか世界を相手に商売をしたいと思っていた。やがて重兵衛は横浜に進出し、外国商館に引けを取らない豪壮な館を建築する。



 そんな時、便宜を図っていた外国奉行の岩瀬肥後守が幕府の政策を批判したためにリストラされ、家禄没収の処分を受ける。さらに重兵衛も、贅沢すぎる銅瓦で館の屋根を茸いたことによって当局側からマークされる始末。それでも盟友の勝海舟と世界進出の夢を語る重兵衛であったが、幕府による横浜への弾圧は益々厳しくなる。1860年、意を決した重兵衛は水戸烈士たちを陰から支援し、井伊大老を襲撃する計画を立てる。

 商社の製作による映画であるせいか、主人公の重兵衛を一介の商人ではなく何やらオールマイティなヒーローに仕立て上げているのには苦笑する。大仰に見得を切ってチャンバラ映画の主人公よろしく振る舞う様子は、まるで往年の東映時代劇の世界である。

 さらには、活劇場面を連発することによって強引な筋書きの欠点を糊塗しようというスタンスは、昔の日活アクションばりだ。そういえば監督の舛田利雄は“日活の舛田天皇”と呼ばれていたほど、このジャンルに精通している。

 だが、製作された時点を勘案しても、この映画は現在に通じるものが無い。骨太なテーマ性は不在で、単にビジネスマンである主人公の利害を追認しているだけだ。この企画は東映京都撮影所にも舛田利雄にも金銭的な恩恵をもたらしたと思うが、スポンサー及びその業界をヨイショするための仕事なので、あまり気が乗っていなかったと思われる。観た後は実に印象が薄いのも、そのためだろう。

 主演の北大路欣也をはじめ、黒木瞳、島田陽子、西郷輝彦、高橋悦史、江守徹など配役は豪華。さらに音楽は池辺晋一郎で谷村新司が主題歌を提供しているという、大盤振る舞いだ。しかしバブル後はトーメンは次第に勢いを無くし、ついには豊田通商に吸収合併されてしまう。時の流れを感じずにはいられない。
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「ドリーム」

2017-10-16 06:31:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:HIDDEN FIGURES)とても面白かった。人種問題に代表される時代の一断面を鋭く描きながらも、語り口は明るく、娯楽性たっぷりだ。取り上げられた題材もすこぶる興味深く、退屈するヒマもなくスクリーンに向き合える。本年度のアメリカ映画の収穫であると思う。

 1960年代初頭、アメリカとソ連は冷戦状態の中、熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていた。ヴァージニア州ハンプトンのNASAラングレー研究所の計算センターに勤務するキャサリンは、天才的な数学の才能を持っていたが、黒人であるため出世の道は閉ざされていた。しかし、ひょんなことから働きを認められた彼女は、黒人女性として初めて宇宙特別研究本部に配属される。だが、そこに待っていたのは同僚達の冷たい視線とあからさまな差別だった。一方、計算センターの管理職を目指すドロシーとエンジニアを志すメアリーも、理不尽な環境にもめげずに夢を追い続けていた。やがて3人はその才覚で逆境を跳ね返し、NASAにとって重要な人材になってゆく。マーキュリー有人飛行計画に関与した黒人女性たちの功績を追った実録物だ。

 当時の人種偏見の実態は、かなりヴィヴィッドに描かれる。宇宙特別研究本部には有色人種用のトイレは無く、キャサリンは用を足すため遠く離れた敷地内の別棟まで走らなければならない。職場内のコーヒーカップは同僚と明確に“区分け”され、せっかく資料を作っても手柄は白人の若造が横取りしてしまう。もっとも、当時のNASAは実際それほど酷い差別は存在しなかったようだが、時代の“空気”を再現する意味ではモチーフとして有用で、これらの描写はさほど問題にはならないと思う。

 本作の美点は、これほどまでにシビアなネタを扱っていながら、作風がとことんポジティヴであることだ。彼女たちは、何があってもめげない。逆風なんかユーモアとウィットで笑い飛ばし、生きることを楽しもうとしている。

 序盤、車がエンストして定時に職場に着くことが難しくなった3人を手助けしたのは、彼女たちがNASAに勤務していることを知った白人の警官であった。いくら差別が蔓延っていても、物事の本質を見ている人間は少なからず存在し、努力は必ず報われるというスタンスを作者は全く崩していない。

 キャサリンは夫を亡くし幼い子供を抱えて苦労しているが、やがてそんな頑張り屋の彼女を見初めた素敵な恋人が現れる。ドロシーやメアリーも、家族や仲間に恵まれて心置きなく目標に向かって邁進してゆく。それらが単なる御都合主義ではなく、主人公たちにとって“必然”であるかのように観る者に納得させる求心力が全編にみなぎっている。

 セオドア・メルフィの演出は堅実で、ドラマ運びに淀みがない。主人公を演じるタラジ・P・ヘンソンやオクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイの3人のパフォーマンスは実に達者で、脇を固めるケヴィン・コスナーやキルステン・ダンスト、マハーシャラ・アリらも良い味を出している。マンディ・ウォーカーのカメラによる南部らしいこってりとした色遣いが印象的な映像、そしてハンス・ジマーと共に音楽を担当するファレル・ウィリアムスとベンジャミン・ウォルフィッシュがナイスな楽曲を提供している。

 人を外観や出自だけで判断してしまうと、彼女たちのような優秀な人材を見い出せず、結局は業務に支障を来してしまうのだ。差別は道徳的にはもちろん、ビジネス面・経済面でも有害であることを改めて痛感する。
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「ダンケルク」

2017-10-09 07:10:56 | 映画の感想(た行)
 (原題:DUNKIRK )失敗作である。監督クリストファー・ノーランの“作家性”が中途半端に前面に出ており、それが作品のカラーとまったく合っていない。

 まず、時系列をバラバラにして並べるという手法は、明らかに「フォロウィング」(98年)や「メメント」(2000年)といった初期のノーラン監督作品から継承されてきたものだ。しかし、小規模なサスペンス劇では有効であったこのメソッドを、多くのキャラクターが登場する戦争映画に何の工夫も無く応用しようとしても上手くいくわけがない。



 この撮り方では開巻から間もない時点では目新しさはあるが、映画が進むごとに面倒くさくなり、終盤近くになると鬱陶しさだけが残る。当然のことながら戦争というのは“個人プレイ”では遂行できるわけはなく、多くの人員が投入されるのだが、それらを漫然と“仕分け”して、無理矢理に各時制に振り分けていること自体がナンセンス。どうしてもやりたいのならば、それぞれの時制の“登場人物”を一人に設定してミクロ的に描き切るべきである。

 さらに、この監督独自の映像センスがドラマの足を引っ張る。すべてが小奇麗で、戦争の生々しさというものが、ほとんど表現できていない。少なくとも「プライベート・ライアン」等とは別物で、かといって「史上最大の作戦」(62年)のような史劇としてのイベント性も無い。何しろ、戦況の説明も満足にされていない有様なのだ。しかもCGを使わないだの何だのという末梢的な事柄に拘泥したおかげで、戦闘シーンは実にショボい。全体として、単に作者の趣味を満足させるだけのシャシンと言えるだろう。



 どう見ても骨太なテーマやハッキリとした主張が感じられない作品だが、それでも何とか主題らしきものを見出そうとすれば、それはたぶん“戦意高揚”であり“英国万歳”といったものではないか。イギリス兵や救出作戦に船を提供した一般市民の英雄的な働きだけがクローズアップされ、それに対する賞賛も存分に映し出される。

 反面、今回助け出された兵士たちの中には、その後のノルマンディ上陸作戦などで非業の最期を遂げる者も少なくなかったはずだが、そういう不穏な影はない。ひたすら能天気に讃えるのみだ。エクステリアだけは現代風だが、中身はまるで戦時中の大本営発表モード(?)である。

 フィオン・ホワイトヘッドやトム・グリン=カーニーといった出演者は印象に残らず。ただホイテ・バン・ホイテマのカメラによる映像はとても美しく、ハンス・ジマーの不穏な音楽は効果的だ。アカデミー賞有力と言われているが、撮影賞や音響効果賞の候補にはなるかもしれない。
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「デッドコースター」

2017-09-03 06:50:01 | 映画の感想(た行)
 (原題:Final Destination 2 )2003年作品。間一髪で飛行機事故を逃れた高校生たちが、死神から追い回され次々と無惨な最期を遂げてゆくという「ファイナル・デスティネーション」(2000年)の続編。前回はアイデア倒れの凡作と言うしかなかったが、この二作目は「マトリックス リローデッド」のアクション監督をつとめたデイヴィッド・エリスが演出に当たり、かなり気合いの入ったサスペンス・ホラーに仕上がっている。

 友人達と遊びに行くため車を運転していたキンバリーは、インターチェンジから高速道路に入る直前に、大規模な玉突き事故が発生して自身を含めた大勢の犠牲者が出る白昼夢を見る。正気に戻った彼女は、現実が夢の中身をトレースしていることに気付き、自分の車でインター入り口を塞いで後続車が事故に巻き込まれるのを防ごうとする。



 すると現実に事故は起こり、多くの死亡者が出る中、夢の中では死ぬことになっていたキンバリー自身を含めた9人が生き残った。キンバリーは1年前に起きた(前作での)飛行機事故との共通点に思い当たり周囲にそれを伝えるが、誰も真面目に受け取らない。しかし、死神は着々と彼女達に迫ってくる。

 冒頭の自動車事故のシーンだけでも度肝を抜かれること請け合いだが、ヒロインの“予知夢”により九死に一生を得た人々が“死ぬ運命”から抜け出せずに一人また一人と倒れてゆく展開は前作の数倍衝撃度が高い。

 観客の“こう来るだろう”という予想を全て裏切るドミノ倒し的な“惨劇ショー”は、血生臭さよりも“この手があったのかー!”といった仕掛けの周到さに感服してしまう。ある時はじれったいほど場を引き延ばし、またある時は呆気なく登場人物を消し去る。そのメリハリの効いた演出リズムは圧巻で、最後まで観客の目を画面に釘付けにする。

 A・J・クックやアリ・ラーター、マイケル・ランデスといったキャストには馴染みは無いが、ヘタに有名な俳優を起用していない分、血祭りに上げられる順番が予測できないという“利点”がある。上映時間が1時間半と、コンパクトなのも良い。また続編を作れそうなラストのオチも相まって(まあ、実際この後3本出来るのだが)、プログラム・ピクチュアの最良の形を見せてくれる快作だ。よほどのホラー嫌いでなければ、観て損は無いと思う。
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「地中海殺人事件」

2017-06-30 06:32:15 | 映画の感想(た行)

 (原題:Evil Under The Sun)82年イギリス作品。70年代半ばから80年代前半にかけてジョン・ブラボーンとリチャード・グッドウィンのコンビが製作したアガサ・クリスティ原作の映画化は次々にヒットしてきたが、これはその中の一本。1941年に書かれた「白昼の悪魔」(私は未読)の映画化で、ガイ・ハミルトンの堅実な演出も相まって、水準を超えた出来になっている。

 イギリスの荒地で、ハイカーによって婦人の死体が発見される。その頃、ロンドンの保険会社でエルキュール・ポアロはホーレス卿から仕事を依頼されていた。ホーレス卿は婚約した女優のアリーナに20万ドルの宝石を与えたのだが、彼女は他の男と結婚してしまった。宝石を取り戻したところ、それがニセ物だったらしい。果たしてアリーナは本物を着服したのかどうか、ポワロに確かめて欲しいという。

 当のアリーナはアドレア海の孤島にあるホテルで休暇を過ごしているので、ポアロもそこへ乗り込む。ホテルは気難しい女主人ダフニーをはじめ、一癖も二癖もある人物達が顔を揃えていた。そんな中、アリーナが浜辺で殺されているのが見つかる。ホテルの滞在者には全員鉄壁のアリバイがあり、捜査は難航すると思われた。しかしポワロの灰色の脳細胞は確実に犯人を追い詰めてゆく。

 散りばめられていた伏線がラストに向かってキッチリと回収されていく様子は、実に気持ちが良い。使われているトリックは原作通りだと思われるが、実際に映画で見せつけられると“なるほど!”と納得してしまう。そして何より、舞台になる地中海のリゾート地の風景が観光気分を引き立てる。

 ピーター・ユスティノフ演じるポワロのキャラクターがケッ作で、気取ってはいるけど雰囲気が風光明媚な土地には似合わないというディレンマが面白おかしく表現されている。特に、泳げないのに一応は水着で浜辺に出て、水泳のマネゴトをしてお茶を濁すくだりは笑った。

 このシリーズでは付き物の豪華なキャスティングも魅力で、ジェーン・バーキンにジェームズ・メイソン、ロディ・マクドウォール、ダイアナ・リグ、マギー・スミスといった面々が持ち味を出したパフォーマンスを披露している。コール・ポーターの音楽とアンソニー・パウエルによる衣装デザインも要チェックだ。クリスティ作品をはじめとする本格派ミステリーの映画化は最近あまり見かけないが、そろそろ新しい作品も観たいところである。
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「トーク・レディオ」

2017-06-25 06:58:58 | 映画の感想(た行)
 (原題:Talk Radio)88年作品。いかにもオリヴァー・ストーン監督らしい、エキセントリックで挑発的な映画である。取り上げられているモチーフも面白い。ただし、鼻につくような独善的スタンスを隠していない作品でもある。公開当時は賛否両論あったようだが、それも納得できる。

 テキサス州ダラスの地方ラジオ局KGABの番組「ナイトトーク」のパーソナリティであるバリー・シャンプレーンは、リスナーからの悩み相談の電話に対してことごとく毒舌を振るう過激な姿勢がウケていた。全国ネットへの進出も間近になっていたが、当然のことながら彼を憎む者も多く、ネオ・ナチ・グループからは嫌がらせを受け、バスケットボールの試合に招かれた際には観客からのブーイングの嵐が巻き起こったりする。



 バリーは現在プロデューサーのローラと恋仲だが、別れた妻エレンのことが忘れられない彼は、全国放送出演が決まったことを彼女に告げる。しかしその日になって、局の幹部は全国オンエアの延期を決定する。ヤケになった彼は今まで以上に放送中での過激なパフォーマンスに走るのだが、やがて取り返しの付かない事態を招いていく。

 要するに、自分のスタイルで世間を挑発し続けていたラジオDJが、いつの間にか自身がそのスタイルに飲み込まれてしまい、破局に到るという話だ。言うまでもなく主人公はオリヴァー・ストーンの分身である。ヒステリックに観客に迫る姿勢が、知らぬ間に“過激のための過激”になり、自家撞着に陥る。そのことを映画の題材として取り上げることにより“過激さ”を冷静に外から眺めようとしているが、やはりそれも自分の“過激さ”の発露に過ぎなかったという、何ともやりきれない図式が提示されている。

 だが、スティーヴン・シンギュラーの原作を戯曲に仕上げ、今回主演も果たしたエリック・ボゴジアンの働きは凄いと思う。他者を攻撃すればするほど追い詰められていく屈折した人物像を、実に的確に表現していた。アレック・ボールドウィンやエレン・グリーン、レスリー・ホープといった脇の面子も良い。

 それにしても、こういうスタイルのラジオ番組が実在していることは、日本とは状況が違うことを如実に示していると思う。我が国では公衆の面前で罵倒の応酬が繰り広げられることはあまりない。せいぜい今ならネット上での陰湿なものになるのだろう。なお、音楽担当は“ポリス”のスチュワート・コープランドで、悪くないスコアを提供している。
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「誰かに見られてる」

2017-06-11 06:32:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:Someone to Watch over Me)87年作品。リドリー・スコット監督の唯一のラブ・サスペンスだが、彼がよく手掛けるSFや歴史物の大作とは勝手が違うせいか、あまり良い出来ではない。この手の映画に必要なキメ細かい描写や緻密なプロットが不在のまま、いつもの大味なタッチで臨んでしまったようだ。

 父の遺産で優雅な一人暮らしをしている若い女クレアは、男友達が殺されるのを目撃する。犯人のベンザは彼女に現場を見られたことを知って追いかけてくるが、何とか逃げ延びて警察に駆け込む。彼女の護衛を担当するのは、ニューヨーク市警の新米刑事のマイクと彼の先輩のT・Jだった。マイクはクレアのセレブな生活を知って驚くが、飾らない人柄の彼女に次第に惹かれていく。

 だが、マイクの妻はそれを知ってしまい、夫婦仲は険悪になる。やがてベンザは逮捕されるが、証拠不十分で釈放。彼は殺し屋をさし向けてマイクとT・Jを襲うと共に、マイクの妻子を人質にとってクレアの引き渡しを要求する。マイクは警察隊と共に現場に急行するのだった。

 目撃者が犯人に狙われるという話は、過去に数多く取り上げられてきたわけだが、本作に突出した見所があるわけではない。ストーリーは平板で山場が無く、濃いキャラクターが出てくるわけでもない。ラブストーリーとしても、クレアやマイクの妻の内面がほとんど描かれていないので、ほとんど盛り上がらない。そもそも、どちらも主人公にとって都合の良い存在でしかなく、もちろん恋のさや当てなんかには無縁である。

 ただし、全然観る価値は無いのかといえば、そうでもない。まず、キャストが良い。主演のトム・ベレンジャーは後年のオッサン然とした出で立ちとは大違いの、シャキッとした二枚目ぶりで、実に絵になる。クレアに扮するミミ・ロジャースは、往年のハリウッド黄金時代のスターを思わせるゴージャスさと気品がある。そして、この監督らしい人工的な映像美が光る。特にニューヨークの夜景はタメ息が出るほどだ。

 音楽はマイケル・ケイメンが担当して流麗なスコアを提供しているが、それよりも印象的なのはタイトルにもあるジャズのスタンダード・ナンバーだ。オープニングはスティング、エンディングはロバータ・フラックによって歌われているが、どちらも絶品である。内容に関しては深く突っ込まず、映画の“外観”だけをムーディーに楽しむには、もってこいの映画だと言える。
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「帝一の國」

2017-05-27 06:23:23 | 映画の感想(た行)

 全く期待していなかったが、意外や意外の面白さだった。理由はいろいろあるだろうが、一番の勝因はチャラチャラした色恋沙汰(のようなもの)がほとんどクローズアップされておらず、全編これ“オトコの映画”に徹していることだろう。もちろん、野郎ばかり出していれば内容は保証されるというわけではないが、本作には必然性と確固とした技巧が存在している。観る価値はある快作だ。

 私立の男子校である海帝高校は、飛び抜けた秀才たちが集まる全国屈指の名門だ。政財界に強力なコネを持つこの学校で生徒会長を務めた者には、有名大学への推薦はもちろん、将来の政治家への道が確約されている。事務次官の息子である赤場帝一は主席入学を果たすが、いずれは総理大臣になって自分の国を作るという野望を持っていた。その第一歩として、何としてでも生徒会長の座を得なければならない。

 帝一はその年の生徒会長選挙で候補になっている3人の2年生のうち、まずは最有力とされる氷室に取り入ろうとする。しかし、強引なやり方で顰蹙を買うようになった氷室に早くも愛想を尽かした帝一は、あっさりと2番人気の森園に鞍替えする。そんな中、奨学生の枠で入学してきた大鷹は人望が厚く、彼の動向が選挙の帰趨を決することなると察した帝一は気が気でない。古屋兎丸の同名コミック(私は未読)の映画化だ。

 キャストの大仰な演技とケレン味たっぷりの展開はヘタすると作劇を空中分解させるが、ここではそうならない。それは、物語の根幹が(普遍性の高い)政治的パワープレイをトレースしているからだ。力で押し通そうとする者、理想を掲げる者、権謀術数を駆使しようとする者、一歩引いて情勢を見極めようとする者etc.現実の政治の世界でも存在しそうなキャラクターを配し、いかにも“あり得そうな”言動を披露させることにより、ストーリーにリアリティを持たせている。

 もちろんここで言うリアリティとは普通の学園生活のそれではなく、野心を持った人間達の生態という次元における現実感である。また、単なる露悪趣味ではなく、若者の成長を描く青春映画の側面もしっかりとキープしているのがアッパレだ。もっとも、終盤における帝一の“成長”とはフィクサーとしてのあり方を模索するという極めてインモラルなものなのだが、その生き方も肯定していることにも感心する。

 永井聡の演出はノリが良く、最後まで飽きさせない。主演の菅田将暉は絶好調で、バイタリティの塊のような主人公像を上手く表現している。野村周平や竹内涼真、間宮祥太朗、志尊淳、千葉雄大といった他の若手の面子も実に達者だ。吉田鋼太郎や榎木孝明などのベテラン陣も影が薄くなりそうである。ヒロイン役の永野芽郁にさほど魅力が無いのは残念だが、あまり目立ちすぎると“オトコの映画”としてのスタイルが揺らいでくるので、これで良いのかもしれない(笑)。
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「ディアブリィ・悪魔」

2017-04-28 06:37:56 | 映画の感想(た行)
 (原題:DIABLY, DIABLY)91年ポーランド作品。それまで短編ドキュメンタリーを多く手掛けてきたドロタ・ケンジェルザヴスカ監督の長編デビュー作で、これ以降「僕がいない場所」(2005年)や「木洩れ日の家で」(2007年)などでを手掛け、広く知られるようになる。なお、この映画は日本では劇場公開されていない(私は第4回の東京国際映画祭で観ている)。

 60年代初頭のポーランドの小さな村に流浪の旅を続けるジプシーの一団がやって来た。村人は、ジプシー達の存在に恐怖と不安を覚えたが、少女マーラだけはこの不思議な訪問者に魅了される。だが、そのために彼女は村人から迫害されるようになる。封建的な村を舞台に、人種偏見の厚い壁を描きながら、大人になることに憧れるひとりの少女の体験と心の成長を綴った作品。



 とにかく映像の美しさに圧倒される。ショットのひとつひとつが一枚の絵画を思わせる様式美と透明感に満ちていて、約1時間半の間、魅了されっぱなしだった。まさしく映画とは映像の芸術であることを立証している。セリフが必要最小限に抑えられ、登場人物の内面は繊細な映像(極端なクローズアップと自然の風景をとらえる引きのショットとの対比が見事)、そして効果的に挿入される民族音楽のみで語られる。

 舞台挨拶に出てきたケンジェルザヴスカ監督は実に寡黙な人で、“私は饒舌ではないので、映画自体も静かな雰囲気を持ったのでしょう”と語っていたが、監督のキャラクターが作品に反映しているのは面白い。

 マーラ役のエスティーナ・シェムニーは美少女には違いないが、題名通りどこか悪魔的な風貌で強烈な印象を受けた。ところが、監督の話によると素顔の彼女はごくフツーのどこにでもいる女の子だそうで、あらためて映画の持つ魔術を思い知らされた。
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「チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」

2017-04-01 06:21:26 | 映画の感想(た行)

 欠点はかなり目立つのだが、決して嫌いではない(笑)。実録のスポ根ものという、鉄板の御膳立て。しかも漫画などの安易な映画化ではなく、オリジナル脚本で勝負。何より主要キャストの存在感と頑張りが強く印象に残る。

 福井中央高校に入学した友永ひかりは、密かに想いを寄せていた中学時代からの同級生・孝介がサッカー部に入部したことを知り、試合で彼を応援するためにチアダンス部に入ることにする。ところがクラブの顧問教師である早乙女薫子は、軽い気持ちでいたひかり達の出鼻をくじくように“全米制覇!”という無謀な目標をブチあげ、想像を絶する激しい指導を行う。あまりのスパルタぶりに退部者が続出するが、ひかりは部長に任命された彩乃をはじめとするチームメイト達と心を通わせ、部活を続けることにする。2009年に全米チアダンス選手権大会で優勝した福井商業高校のチアリーダー部をモデルにしたドラマだ。

 困ったことに、肝心のチアダンスの描写が不十分だ。練習の場面はまあ良いとして、試合のシーンはまるで要領を得ず、観ていてシラけてしまう。そもそも、主人公達が舞台でパフォーマンスを披露するのは不調に終わったデビュー戦と、クライマックスの全米大会の決勝戦のみ。2試合以外の振り付けが考案されていなかったのだろうが、見せ方を工夫して断片的でも良いから予選からの軌跡を印象付けて欲しかった。

 しかも、その決勝戦もカメラは大騒ぎする地元の者達に振られることが多く、ダンスに集中していない。試合直前になって変更されたフォーメーションの概要も説明されない有様だ。

 周囲の大人達の扱いはステレオタイプかつ不自然にマンガチック。特に早乙女先生に扮する天海祐希は、観ていて胸やけを起こすほどのオーバーアクトである。また、劇中で福井県の学校であることがやたら強調されるにも関わらず、ロケが新潟県で行われているのは納得できない。これでは“看板に偽りあり”だ。

 しかしながら“落ちこぼれどもが奮起して活躍する”というスポ根のルーティンを提示されると、笑って許したくなるのも事実(笑)。各部員のキャラクターも“立って”いる。ひかり役の広瀬すずは余裕の演技。若いのにこの貫禄は一体何だと思ってしまった。

 山崎紘菜や福原遥、太めで抜群のコメディリリーフを見せる富田望生、バレエが得意という設定ながら体型が(肉付きが良い)グラビアアイドルの柳ゆり菜など、いずれもイイ味を出している。最も興味を惹かれたのは彩乃に扮する中条あやみで、演技はまだ硬いがスラリとした品のある佇まいで画面に彩りを添える。なお、恥ずかしながらチアダンスとチアリーディングが別物であることを、この映画を観て初めて知った(苦笑)。
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