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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ポゼッサー」

2022-04-01 06:19:53 | 映画の感想(は行)
 (原題:POSSESSOR )本作の興味の対象は、鬼才デイヴィッド・クローネンバーグ監督の息子ブランドンが、演出家としてどれほどのパフォーマンスを見せてくれるかだった。しかしながら、その期待は裏切られた。少なくとも現時点では、彼は父親の足元にも及ばない。そもそも、父の作品群と似たような題材を選んでいることが賢明だとは思えない。もっと別の分野を手掛けた方が良かったのではないだろうか。

 殺人請負会社のエージェントであるターシャ・ヴォスは、ターゲットとなる者の近くにいる人間の意識に入り込み、やがてその人物の内面を乗っ取る特殊能力の持ち主だった。乗っ取られた人間はターゲットを殺害し、その後は“宿主”を自殺に追い込んでターシャの人格はそこから“離脱”するというのがルーティンになっている。



 今回の殺人請負会社への依頼は、ある富豪の娘婿を乗っ取り、その妻と父親を始末することだったが、任務途中で彼女は“宿主”から抜け出せなくなってしまう。“宿主”の強い自我が、ターシャを圧倒しているのだった。彼女の上司であるガーダーは、事態を収拾すべく思い切った策に出る。

 こういうニューロティックなネタは元々デイヴィッド・クローネンバーグが得意としていたのだが、いくら息子のブランドンでも、真の“変態”である父親に容易に対抗できるものではない。全編これデイヴィッド作品の亜流のような、ホラーっぽい場面やスプラッターっぽい場面、あるいはシュールっぽい場面で埋め尽くされているが、どうも描き方が表面的だ。観る者を戦慄せしめるような“狂気”には、最後まで遭遇できなかった。さらに言えば、不自然に画面が暗いのも愉快になれない。

 映画はターシャには別居中の夫と息子がいて、そのあたりの葛藤も描き出そうとしているが、取って付けたような印象しかない。そもそも、この“能力”が民間企業に過ぎない暗殺専門会社に帰属しているという設定自体、随分と無理がある。とっくの昔に政府組織の所管になっていてもおかしくない。しかも、暗殺の手口は後先考えない大雑把なもので、これで捜査当局が介入してこないのも噴飯ものだ。

 主演のアンドレア・ライズボローをはじめ、クリストファー・アボット、ショーン・ビーン、ジェニファー・ジェイソン・リーといった顔ぶれは悪くはないが、皆何か肩に力が入っているようで印象が薄い。良かったのはジム・ウィリアムズによる音楽ぐらいだ。ブランドン・クローネンバーグ監督は、もっと違う作風を身に着けた方が良いような気がする。
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「ブルー・バイユー」

2022-03-07 06:20:35 | 映画の感想(は行)
 (原題:BLUE BAYOU)幾分展開に納得できない部分はあるが、問題提起は評価して良いしキャストの仕事ぶりも万全。演出リズムは及第点で、鑑賞後の満足度は高い。何より、映画で描かれているような事実を知ることは有意義だと思う。第74回カンヌ国際映画祭における「ある視点」部門の出品作である。

 主人公のアントニオ・ルブランは韓国で生まれたが、3歳の時に養子としてアメリカに連れてこられた。長じてシングルマザーのキャシーと結婚し、幼い娘のジェシーも含めた3人でルイジアナ州の地方都市で暮らしている。キャシーは第二子を妊娠中で金が必要だが、アントニオは本業のタトゥー職人以外にはなかなか仕事にはありつけない。



 ある日、彼は些細なことで警官とトラブルを起こして逮捕されてしまう。起訴はされなかったが、取り調べの途中で30年以上前の養父母による手続きの不備が発覚。移民局へと連行され、国外追放命令を受けてしまう。アントニオとキャシーは裁判を起こして異議を申し立てをしようとするが、そのためには多額の費用が必要だ。切羽詰まったアントニオは、仲間と共に捨て鉢な行動に出る。

 本作は実話を元にしているが、まず斯様な事実が存在していたことが驚きだ。アメリカでは昔は外国からの養子縁組はいい加減な手続きが横行し、アントニオのように本国への強制送還を迫られるケースが多発しているという。近年救済措置が発効されたが、ある時期より前に養子として入国した者には適用されない。

 さらに、里親が養育義務を果たしていない場合も多く、アントニオは何組もの里親の間をたらい回しされている。この重篤な問題を提示してくれただけでも、本作の存在価値はある。もっとも、主人公の言動には疑問点も多く、自分で自分の首を絞めるような所業には首をかしげざるを得ない。ただ、韓国での生い立ちを暗示させるくだりや、アントニオが知り合うベトナム難民の女性とその家族の描写は見事だ。

 監督は主演も兼ねた韓国系アメリカ人のジャスティン・チョンで、初演出とは思えない達者な仕事ぶりを見せる。特に、ラストの空港でのシーンは観る者の涙を誘わずにはいられない。キャシー役のアリシア・ヴィキャンデルは的確な演技だが、よく考えるとむさ苦しいJ・チョン演じる男が彼女のような上玉をゲット出来るとは、にわかに信じがたい(笑)。

 マーク・オブライエンにリン・ダン・ファン、子役のシドニー・コワルスケなど、脇の面子も万全だ。あと、ヴィキャンデルがタイトルになっている“ブルー・バイユー”(ロイ・オービソン作。一般にはリンダ・ロンシュタットのバージョンが有名)を歌うシーンがあるが、意外に上手いので驚いた。
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「パーフェクト・ケア」

2022-02-26 06:55:53 | 映画の感想(は行)
 (原題:I CARE A LOT)これはつまらない。設定こそ目新しさはあるが、果たしてこれがリアリズムに準拠しているのかどうか不明。出てくるキャラクターは誰もがウソ臭いし、そもそも皆魅力が無い。ストーリー展開に至っては生温くて話にならず、鑑賞中は何度も中途退出しようと思ったほど。この程度のシャシンが本国では評価され、主演女優が第78回ゴールデングローブ賞の主演女優賞を獲得しているのだから、呆れてしまう。

 ボストン近郊で法定後見人の仕事をするマーラ・グレイソンは、高齢者に対するケアで実績を上げ、裁判所からの信頼も厚い。ところが彼女は裏で医師や怪しげな介護施設とグルになって、身寄りの無い年寄りから財産を搾り取るという超悪質な人物だった。そんな彼女が次のターゲットに定めたのが、親族のいない資産家の老女ジェニファーだった。

 まんまと医者にニセの診断書を書かせてジェニファーを施設に放り込むことに成功したマーラだったが、それから彼女の周りに怪しげな連中がうろつくようになる。実はジェニファーの息子はロシアン・マフィアのボスで、身寄りが無いという経歴はすべて偽装されたものだった。こうしてジェニファーの身柄をめぐって、マーラとマフィアとのつばぜり合いが展開する。

 いくらアメリカの福祉政策がいい加減だといっても、果たしてマーラがおこなっているような詐欺行為が罷り通るものか、甚だ疑問だ。もっとも、日本にも生活保護ビジネスなんてのがあるが、あれは実に反社会的行為ながら仕組みは分かる。対して、本作に描かれたような手口は(たとえ実在するとしても)現実感を欠く。

 また、マーラの造形が薄っぺらで悪女としての凄みが無い。彼女は仕事仲間のフランと同性愛関係にあるのだが、セクシャル度はほぼゼロだ。そして最大の敗因が、マフィア側の出方が稚拙なこと。いつからロシアン・マフィアはこんな手ぬるい仕事に終始するようになったのだろうか。事故や自殺に見せかけて始末するなど、甘い。これがシシリアン・マフィアやメキシコの麻薬カルテルだったら、問答無用でマーラたちをバラバラにしてブタのエサにしていたところだ。

 さらに、マーラが人間離れした“体術”を見せるに及び、完全に観る気が失せた。取って付けたようなラストも噴飯ものだ。ジョナサン・ブレイクソンの演出はテンポが悪く、ブラックなギャグも上滑りしている。主演のロザムンド・パイクをはじめ、ピーター・ディンクレイジ、エイザ・ゴンザレス、クリス・メッシーナ、そしてダイアン・ウィーストといったキャストはいずれも精彩を欠く。マーク・カンハムの音楽も印象に残らない。
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「ビバリーヒルズ・バム」

2022-02-11 06:17:31 | 映画の感想(は行)

 (原題:Down and Out in Beverly Hills )86年作品。ポール・マザースキー監督作としてはあまり知られていないが、間違いなく彼の政治的姿勢を示す映画だ。また、同時に製作時期におけるアメリカの社会情勢、およびそれに対するリベラル系(?)ハリウッド人種のスタンスも垣間見え、その意味では興味深い一本である。

 実業家のデイヴはビバリーヒルズの豪邸で妻子と共にリッチな生活を送っていたが、家族の内実は問題だらけであった。そんな中、邸宅敷地内のプールでホームレスの男が入水自殺しようとするのを目撃したデイヴは、彼を助けて一先ず邸内に住まわせることにした。

 男はジェリーと名乗り、今は貧しい身なりをしているが、実は学問や芸術に秀でたインテリであり、かつては映画の脚本家として実績を残していた。デイヴはそんな彼に興味を持つが、ジェリーの存在はデイヴ一家に波乱を引き起こす。1932年製作のジャン・ルノワール監督「素晴らしき放浪者」(私は未見)のリメイクである。

 ジェリーは明らかに、60年代にドロップアウトしていったヒッピーやフラワー・チルドレンの生き残りである。事実、ジェリーと一緒に海岸と過ごしたデイヴの周りには、ジェリーの仲間である“それらしい連中”が集まってくる。もちろん、彼らのライフスタイルは過去の遺物でしかないのだが、どうしてあえてジェリーのような人物とビバリーヒルズの住人を映画の中で引き合わせたのか、製作された頃の時代背景を考えればその理由は想像が付く。

 80年代のアメリカは保守主義が大手を振って罷り通っていた。映画界でも「ロッキー4 炎の友情」や「トップガン」といった威勢の良いシャシンが目立ち、反権力を身上とする従来のハリウッドの面子の居場所が無くなっていた。確かにこの時期はアメリカは高い経済成長率を誇ったが、世の中全体が金ピカでペラペラになり、人間性をどこかに置いてきたような風潮があった(少なくとも、この映画の製作陣はそう考えていた)。そこで元ヒッピーのジェリーをトリックスターとして登場させ、当時の世相を大いに皮肉ってみせたというのが本作の本質だろう。

 マザースキーの演出は軽快で、主演のニック・ノルティとリチャード・ドレイファスの掛け合いは楽しく見せる。脇にベット・ミドラーやトレイシー・ネルソン、エリザベス・ペーニャといったライトな面子を配しているのも納得だ(マザースキー自身も出演している)。ドナルド・マカルパインのカメラによる明朗な映像、そして音楽は元ポリスのアンディ・サマーズが担当しているのも面白い。
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「光と影のバラード」

2022-02-04 06:19:08 | 映画の感想(は行)
 (英題:Friend to Foes,Foe to Friends )74年ソビエト作品(日本公開は82年)。ロシアの代表的監督である、ニキータ・ミハルコフの長編デビュー作だ。ウェルメイドとは言い難いが、独特の雰囲気と劇中で扱われた時代性の描写はよく出来ていると思う。そして何より、ソ連映画でありながら完全にウエスタンのスタイルを取っていることが大いに興味をそそるところである。

 1920年代初頭。ロシア革命は終わったが、相変わらず国内では混乱が続いていた。民衆は貧困に苦しみ、反革命勢力の白軍も跳梁跋扈している。党地方委員会議長のサルィチェフ率いる赤軍は、貴金属と引き換えに外国から食料を調達することを決定。委員会はシーロフを隊長に任命し、集めた金をモスクワに届けようとしたのだが、輸送列車が白軍に襲われて金を奪われてしまう。ところが、その白軍も無政府主義者のブルィロフ率いる盗賊団の急襲を受ける。シーロフは名誉を挽回すべく、単身盗賊グループのアジトに乗り込むのだった。



 正直言ってミハルコフの演出はぎこちなく、ドラマ運びはスムーズではない。展開が間延びしている箇所も目に付く。しかしそれでも観ていられたのは、この時代の空気感がよく出ていたからだ。理想を追い求めて革命に走った者たちが、事が終わってしまうと虚脱感に苛まれ、それぞれが捨て鉢な行動に出る。この何とも言えない寂寞とした雰囲気が、作品に独特のカラーを付与させている。

 しかも、列車強盗に盗賊団と、西部劇のモチーフが満載である点が嬉しい。たぶん当時のロシアも、少し前のアメリカの荒野のような光景が繰り広げられていたのだろう。ただし、ここにはピンチになると駆けつける騎兵隊も、腕っ節の強い保安官もいない。まるで無法地帯だ。そしてそれは、革命後のロシアと今に続く彼の国の閉塞感を象徴している。

 シーロフ役のユーリー・ボガトイリョフをはじめ、アナトリー・ソロニーツィンにセルゲイ・シャクーロフ、アレクサンドル・ポロホフシコフ、ニコライ・パストゥーホフ、そしてブルィロフに扮したミハルコフ自身など、皆馴染みは無いが良い面構えをしている。なお、この映画を撮ったときミハルコフは29歳だったが、その3年後には「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」という秀作をモノにしている。やはり、元々才能のある作家というのは上達も早いということだろう。
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「ハウス・オブ・グッチ」

2022-01-29 06:55:51 | 映画の感想(は行)
 (原題:HOUSE OF GUCCI)正直言って、この映画を観るよりも98年に放映されたNHKスペシャル「家族の肖像 激動を生きぬく(第9回) グッチ家・失われたブランド」をチェックした方が数段面白いし、タメになる。実際の出来事がドラマティックであるならば、それを題材に劇映画に仕上げる際には、事実を凌駕するようなヴォルテージの高さが必要であるはずだが、本作にはそれが無い。ドキュメンタリー作品に後れを取るのは当然のことだ。

 95年3月、イタリアの代表的ブランド“GUCCI(グッチ)”の3代目社長マウリツィオ・グッチがミラノの街角で暗殺される。その事件の裏で暗躍していたのが、マウリツィオの妻パトリツィアだった。映画は2人の出会いの時期に遡り、グッチ家の複雑な事情と揺れ動くファッション業界を描く。

 マウリッツォの父親ロドルフォは昔気質の経営者だが、その兄アルドは積極路線で海外にも事業を広げていた。しかしアルドの息子パオロは出来損ないで、家業を傾ける可能性があった。そこに付け込んだのがパトリツィアで、彼女はアルド親子を追い落として夫を社長に据えると共に、グッチ内の実権を握ろうとする。サラ・ゲイ・フォーデンのノンフィクション小説の映像化だ。

 映画はパトリツィアを強欲な悪女として描こうとしているようで、実際に彼女はロクなものではなかったのだが、困ったことに確固とした行動規範が見られない。演じるレディー・ガガが俳優としてはキャリアが浅いことも関係していると思うが、とにかく“根っからの悪女”には見えず、単に行き当たりばったりに振る舞っているだけだ。これは脚本の不備だろう。

 そして致命的なことは、映画が事実をトレースしていないことだ。パオロは決して無能ではなく、60年代末にはデザイナーとして実績を残している。ただ、暴走してグッチを傾けたことは事実だが、無能ぶりといえばマウリツィオの方が甚だしい。手を出した事業が次々と失敗するのだが、映画ではセリフでサッと語られるだけで実相には迫っていかない。これでは、パトリツィアにおだてられたという筋書きが功を奏しない。

 また、パトリツィア自身がデザインした製品が売り出されたがほとんど評価されなかったことや、パオロの次男が別ブランドを立ち上げていることにも触れられていない。そもそも、グッチは創業者が皮革製品を手掛けたことから始まっているのだが、そのあたりの言及も希薄だ。

 リドリー・スコットの演出はピリッとせず、無駄に2時間40分にまで尺を伸ばしている。最も違和感を覚えたのは、全員がイタリアなまりの英語を話していることだ。これが実にワザとらしい。ハリウッド作品であるから“普通の英語”でも構わないし、R・スコットは製作総指揮に回ってイタリア人のキャストで映画化した方が遥かに良かった。

 ガガ以外にはアダム・ドライバーにジャレッド・レト、ジェレミー・アイアンズ、サルマ・ハエック、アル・パチーノ、カミーユ・コッタンなどが顔をそろえ、随分と豪華。しかし、それぞれの良さが出ていない。映像や音楽も特筆すべきものは無い。せっかくガガが出ているのだから、主題歌ぐらい担当させても良かったのではないか。
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「薔薇の名前」

2022-01-22 06:25:33 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE NAME OF THE ROSE)86年作品。公開当時はかなりの評判だったらしく、実際観ても面白い。歴史物としての佇まいと、本格ミステリーのテイストが絶妙にマッチし、独特の魅力をたたえている。また、原作者のウンベルト・エーコは記号論の大家でもあり、そのあたりを考慮して作品に対峙するのも面白いだろう。

 14世紀の北イタリア。イギリスの修道士ウィリアムとその弟子のアドソは、会議に参加するため山奥の修道院にやって来る。そこで彼らは、若い修道士が不審な死を遂げたことを知らされる。被害者は文書館で挿絵師として働いていたらしい。会議どころではなくなったウィリアムたちは事件の真相を探ろうとするが、何者かが彼らを妨害。やがて、さらなる殺人事件が起こる。老修道士は“これは黙示録の成就である!”と唱え、院内に動揺が走る。



 私は記号論に関してはまったくの門外漢だが(笑)、無理矢理に“それらしき解釈”をしてみると、本作の構図は各モチーフが見事に“記号化”していると言える。まず、主人公たち以外はマトモな人間が存在しない修道院内は、個人から隔絶された“世界”である。この“世界”というのは、映画の中の作品世界であると同時に、我々を取り巻く環境の暗喩だ。本当の“世界”は城壁に囲まれた修道院の外側にあり、ウィリアムたちはそこから遣わされた“超人”のような存在だろう。

 終盤に明かされる事件の真相は、まさしく“世界”の維持手段そのものが目的化してしまい、身動きが取れないリアルな状況を表現している。まあ、こう考えると一見複雑な本作の構成が、実は明確であることが分かる。加えて、ウィリアムとアドソの関係はシャーロック・ホームズとワトソンのそれと同等で、しかもウィリアムの出身地がバスカヴィルという設定には、主人公たちのヒーロー性がより強調される。

 ジャン=ジャック・アノーの演出は凝った舞台設定に足を引っ張られることなく、娯楽映画としてのルーティンを堅持している点が評価できる。主演のショーン・コネリーは“アクション抜きのジェームズ・ボンド”といった出で立ちで、存在感が屹立している。アドソ役のクリスチャン・スレーターも繊細な演技だ。

 他にF・マーリー・エイブラハムやロン・パールマン、フェオドール・シャリアピン・ジュニア、ヴォルカー・プレクテルといったクセの強い役者が顔を揃えているのは圧巻だ。そして何といっても、豪華なセットと“迷宮”のデザインの素晴らしさはこの映画のハイライトであろう。観る価値は十分にある。
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「ピクセル」

2022-01-09 06:14:50 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pixels)2015年作品。主演のアダム・サンドラー率いる“お笑い一座”の興行みたいな映画である。作品自体には深みも見応えも無く、真っ当なドラマツルギーとは縁遠い。ただし、お手軽な笑劇として割り切れば、あまり腹も立たずに最後まで付き合える。とにかく、中身の濃さを期待することは場違いなシャシンであることは確かだ。

 80年代初頭、当時大流行していたテレビゲームの大会の映像を、NASAが宇宙に向けて発信するという試みが実行された。ところが、偶然それを受信した地球外の知的生命体が、これは明らかに挑戦状であると勘違いしてしまう。それから30数年後、宇宙人は地球側から発信されたゲームのキャラクターに扮して、大々的な地球侵攻を仕掛けてくる。触れたものを全てピクセル化してしまう未知の能力には、地球上の通常兵器はまったく歯が立たない。そこで急遽集められたのが、かつてのゲームおたく共だ。彼らはそれぞれの“得意技”でエイリアンに立ち向かう。

 宇宙人がゲームの画像を見て勝手に挑発行為であると断ずるのは無理があるし、どうしてゲームのキャラクターに似せた格好で攻めてくるのか不明。そもそも、どうすれば地球侵略が達成できるのか分からないまま、何となく場当たり的に暴れ回るという行為に意味があるとは思えない。

 米軍がどうやって相手を撃退できる光線銃(みたいなもの)を開発したのか見当が付かないし、鬼のインドア派であるゲームおたく達がいきなり“実戦”で活躍するというのは、どう考えても無理がある。バトルシーンには緊張感の欠片も無く、ただバタバタしているだけだ。

 しかし本作の眼目はそこではなく、サンドラー扮する主人公のサムと、その取り巻きが織りなす脱力系ギャグの応酬にある。子供の頃は凄腕ゲーマーだったサムは、今はしがない町の電気屋。だがなぜかかつてのゲーム仲間のウィルは大統領になっており、サムはホワイトハウスに顔パスで出入りできるという無茶な設定は笑わせる。

 サムが仲良くなるシングルマザーのヴァイオレットはなぜか軍の中佐で、もう一人のゲームおたくのラドローは遠慮会釈無くサムに絡んでくる。彼らの掛け合い漫才が延々と続くうちに、いつの間にか映画は終わるという段取りには呆れつつも納得してしまう。まあ、監督が「ホーム・アローン」シリーズなどのクリス・コロンバスなので、多くを望むのは不適当だろう(笑)。

 サンドラー以外にはケヴィン・ジェームズやミシェル・モナハン、ピーター・ディンクレイジ、ジョシュ・ギャッド、ブライアン・コックスなどが顔を揃え、お笑いネタの披露に専念している。セリーナ・ウィリアムズとマーサ・スチュワートが本人役で出ているのも愉快だ。
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「ピースメーカー」

2022-01-07 06:29:28 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Peacemaker)97年作品。活劇編としては良く出来ている。ただし、細部の詰めは甘い。もっともそれは、製作年度を考えれば仕方が無いとも言える。もしも今撮るとすれば、この筋書きでは支持されないだろう。言い換えれば、そのあたりを無視すればかなり楽しめるシャシンであることは間違いない。

 冷戦が終結して数年後。ロシアが保有していた解体予定の核弾頭10発が盗み出され、そのうち1発は爆発する。残りの核弾頭を回収すべく、米国防総省は原子力科学者ジュリア・ケリーをはじめとする専門家たちを招集すると共に、テロ専門のデヴォー大佐は核弾頭を積んだトラックを探索する。その結果8発は確保できたが、残る1発は行方不明。そんな中、ボスニアの外交官デューサンが国連に派遣される。彼が核弾頭に関する情報を掴んでいると踏んだケリーとデヴォーは、デューサンを追う。



 まず、核兵器に関する知見があやふやなことが気になる。いくら米軍当局が上手く処理したつもりでも、これでは放射能が出っぱなしではないか。登場人物の大半は確実に被爆している。題名の“ピースメーカー”とは、平和維持を名目にユーゴ紛争に介入し、結果的に事態の混迷を招いたアメリカをはじめとする多国籍軍のことを揶揄したものだ。しかし、国際情勢というのは複雑なもので、一方を断罪するだけでは何もならない。その意味で本作が提示する解釈は一面的と言えるだろう。

 ただ、それらを抜きにすれば、この映画は退屈せずに最後まで対峙できる。ミミ・レダーの演出はパワフルで、展開は少しの淀みもなく、骨太のアクションを展開させている。また、本作は9.11よりも前に作られているのだが、あの事件を予感させるところがあるのも興味深い。主演はジョージ・クルーニーとニコール・キッドマンで、この2人が共演しての活劇というのは珍しいが、生き生きとスクリーン上を駆け巡っている。

 マーセル・ユーレスにアレクサンダー・バリュー、レネ・メドヴェセク、アーミン・ミューラー=スタールという脇の渋いキャスティングも効果的だ。なお、この映画はスピルバーグとジェフリー・カッツェンバーグ、デイヴィッド・ゲフィンが設立したドリームワークスSKGの第一作である(設立は94年)。正直言って当時は長続きしないと予想していたが、紆余曲折はあったにせよ、今でも存続しているのは大したものだと思う。
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「冬物語」

2022-01-01 06:20:31 | 映画の感想(は行)

 (原題:Conte D'Hiver )91年作品。通常ではとても映画にならない設定やモチーフを採用しながら、結果として味わい深い作品に仕上げてしまうのは、さすがフランス映画史に名を刻む名匠エリック・ロメールの仕事だけのことはある。いくらプロセスが不自然に見えても、人間を動かすものは外見や余計な講釈などではなく、純粋な気持ちとインスピレーション、そして偶然性であることを何の衒いも無く表明する。90年代に製作された“四季の物語”シリーズ第2弾である。

 パリに住む若い女フェリシーは、夏のバカンス先であるブルターニュでシャルルと出会い、恋仲になる。やがてバケーションは終わり、彼女は帰り際に料理の修行のために渡米するという彼に自分の住所を教えた。5年後の冬、フェリシーはシャルルとの間に出来た娘エリーズを抱えてシングルマザーとして生きていた。うっかり彼に間違った住所を教えてしまい、それから連絡が付かなくなってしまったのだ。

 離婚したばかりの男友達マクサンスは、彼女を後妻に迎えるべくプロポーズする。承知した彼女だったが、そのことを知ったもう一人の男友達ロイックは、フェリシーを自分になびかせるように猛チャージを掛ける。困った彼女だったが、それから思いがけないことが起こる。漫然と恋人に間違った住所を告げてしまうほど天然で、無教養であることを痛感しているヒロインが、何とか自分を取り戻すまでを描いたドラマだ。

 マクサンスとロイックは頼りない存在で、結婚相手に相応しくないのは誰の目にも明らかだが、フェリシーは当初“まあいいか”という感じで流されてしまう。ところがその状況が覆されるのが、彼女の能動的な自覚によるものでは無いのが面白い。

 いや、正確には彼女なりに周囲を見極めるスキルを徐々に積んではいるのだが、それが現実の行動に繋がるまでには程遠かったのだ。それが“ある切っ掛け”によって彼女の世界はコペルニクス的転回を見せ、加えて“あり得ない出来事”が起こって話は収まるところに収まってしまう。まさしく御都合主義の権化だが、実際はそんな偶然によって人生が変わるなんてことは珍しくないのだ。ただ、映画としてそれでは物語性に欠けるので、大抵の映像作家はやらないだけである。

 ところがそこはロメール御大、淡々としたタッチで自然体に徹し、観る者を納得させてしまう。これはひとえに、作者が主人公を信じ切っているからだろう。無垢で正直なフェリシーには、偶然が転機を引き込むだけの資格があるのだ。ここまで達観してしまうと、感心するしかない。主役のシャルロット・ヴェリをはじめ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリーシュ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリクといった顔ぶれには馴染みは無いが、皆良い演技をしている。リュック・パジェスのカメラがとらえた、パリをはじめとするフランス各地の風景は素敵だ。
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