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親父をホスピスで看取ってみる

2011年07月07日 | 雑記
【初回作成日:2012.9.29】

 このエントリでは、末期癌だった親父が終末医療を受け、看取ることになった(そして大変お世話になった)ホスピスでの体験記や感想を記載します。


1. ホスピスへの入院を検討してみる

 2011年のゴールデンウイークのときのこと。この頃の親父はすでに体調がかなり悪くなっており、本人の口から

 「もう、なごねーわい」
  (標準語訳: 私の寿命はもう長くはありません)

という言葉が出てくるようになる。また、「お腹の中にずっしりとした鉄の玉が入っているようだ」とも。

 また、かなり強めの痛み止めの薬を飲んでいるにも関わらず、我慢強い親父が痛みによる苦痛を訴えたり、食事も満足に取れない状態だったので、思い切って姉の方から切り出してみることに。

 「ゆふみ行ったらどげな」
 (標準語訳:大分ゆふみ病院に行ってみてはどうでしょうか?)

と。
 大分ゆふみ病院とは大分県で最初に出来たホスピスで、姉貴はそこの院長先生とツテがあるとのこと。ちなみにホスピスとは、主に末期癌の患者を対象に苦痛緩和等を主体とした終末医療を行い、人間らしい最後を向かえるための施設というか病院になります。

 ホスピスに行くということは、
 「生きてこの家に戻ることはありません」ということを覚悟するという意味でもあるのですが、親父も家族もそんなことはとっくに承知。

 それに対して親父も「判ったわ」ということで、とりあえず病院の下見というか説明会を聞きに行ってみることに。


2011年5月2日(月)

 この日は姉と一緒に、親父が治療を受けている大分県立病院に脚を運ぶ。その際に、主治医の先生にゆふみ病院への紹介状を書いてもらう。また、ゆふみ病院に入院するためには、治療履歴等や現在の病状が書かれた情報提供書や、レントゲン写真の提出が必要となるためセットで頂いてくる。併せて、ゆふみ病院に面談の予約を入れる。



2. 大分ゆふみ病院に下見に行ってみる

2011年5月6日(金)

 ゴールデンウイークの合間の平日であるこの日に、家族揃ってゆふみ病院へ。親父の車に家族4人が乗り込み、姉貴が運転する。家族4人が一緒に車に乗るなんて、20年以上前(私が小学校の頃)、今は亡き祖父母のところへ帰省したとき以来なのではなかろうかと。

 そして、「こうして家族揃ってドライブできるのもこれが最後なんだろうなぁ…」と思うと、思わず涙が出てきてしまいそうになる。(つД`)

 せっかくなので、家族水入らずのドライブシーンを動画に残そうとデジカメで撮影するが、親父を含めてあまり喋るようなこともなく、私はほぼドライブレコーダー状態に。

 そして1時間足らずでゆふみ病院に到着。病院に着いてからは、予約していた面談の時間まで少々時間があったので、院内の庭を散歩したり、ラウンジのソファーで休んだり、コーヒーを頂いたりする。



大分ゆふみ病院・入口


大分ゆふみ病院・庭のお花


ラウンジにて

 ゆふみ病院に入ってまず感じたことは、なんというか 「病院臭くない」こと。

 祖父が亡くなったときに入院していた病院は半分老人ホームのような状況で、消毒薬と屎尿の臭いの混じったのような独特な病院の臭いがしていたのに対し、この病院はそういった感じがありませんでした。

 また、「ホスピス=そろそろ死にそうな人ばっかり=暗い雰囲気」という勝手な思い込みがあったのですが、実際にはそうではなく、ラウンジはお洒落で落ち着いたカフェテリアのようになっていました。私達も、そのボランティアの方から美味しい紅茶をいただきました。
 そこの患者さんたちはボランティアの人と一緒に手芸品を作ったり、お茶を楽しんだり、お見舞いに来た人と談笑したり、車いすで外の空気を吸って庭のお花を愛でたりしていました。

 その後、面談予定の時間になり、病院の院長先生と女性スタッフの方、及び、親父を含む家族4人の合計6人で病院の説明を受ける。ここでまず最初に言われたことは、

 「この病院は、末期癌の患者向けの苦痛を和らげるような医療を行うところで、治癒に向けた積極的な医療を行う病院ではありません。」
と。

 もちろん、家族一同そういったことは重々承知しておりますと。そして

 「“患者さん自身がこの病院に入りたい”という意志を持っていることが、この病院に入るための第一条件です。ここは家で手に負えない患者の面倒を診てもらいたいがために送り込むような、“家族が入って欲しい”と思う病院ではありません。」
と。

 それを聞いた親父は、「ここには私の意志で来ました」とはっきり回答。なんか涙が出てきそうです。(つД`)

 親父の意思も確認できたので、後は入院に向けた具体的な話に入るのですが、その際に次のようなことを言われます。

 「この病院に入る方には、まずは1週間のお試し入院をしてもらいます。この入院を通して、患者さんはこの病院が合っているかどうかを確認し、病院側は苦痛緩和方法等の治療方針を確認します。
 その後、一旦退院して出来る限り自宅で過ごして頂き、次に本当に具合が悪くなったときに、病院側で即時受け入れを行います。」
と。

 なるほど、これなら死ぬ直前まで馴染みのある自宅で余生を過ごすことができ、緊急時も即受け入れてくれるので家族も安心です。よく考えられています。
 ただしお試し入院に関しては、現在病室の空き待ち&順番待ち状態のため、今の段階では日程を決めることはできず、恐らく2週間程度待つことになるかもしれないとのこと。こればかりは仕方がありません。

 その後、医療費に関する説明を受けたり、入院同意書(連帯保証人)の紙を前もって書いたりする。そして患者用(親父)と家族(おかん)用のアンケートシートが渡される。

患者用のアンケートシートには、
 ・医者から本人に対して、病名/病状をどう伝えて欲しいか?
  (正確に全てを伝えて欲しいのか? 伝えて欲しくないのか?)

 ・同じく病状を伝えたい人、伝えたくない人はいるか?

 ・意思疎通が困難になった場合は、誰に医療方針を確認すべきか?

等の項目が書かれていたが、家族全員がどういう状況なのか理解していること、また隠し事するようなこともないので、

 「病状は正確に伝える」
 「病状を伝えたくない人は無し」
 「意思疎通が困難になった場合は、おかんか姉貴に任せる」

という内容を記入して提出。ちなみに親父は癌になる前から手が震える病気でペン書きができないため、結局親父用のシートも家族で書いてしまう。

また、家族用のアンケートシートには、
 ・家族構成と何かあった場合の連絡先

 ・親父の病気のことについてどう聞いているか?

 ・入院の際に、どのような希望を持たれているか?

等の項目が書かれていたが、

 「先が長くないことも知ってるので、親父の好きなようにさせたって。苦痛が酷いようなら麻薬打ちすぎで余命が短くなっても構わないので、最大限苦痛を緩和する方向でよろしくね(意訳)」

という内容で提出。親父には

 「『迷惑なこと言ったりして、あまりに手がかかるようであれば、早めに処分して構いません』って書いて出しといたよ!(笑)」

っと言ったところ

 「ばかたれ!(笑)」

と言って怒られる。看護婦さんも含み笑い。(うちの家って、こんなことが言い合える家庭です)

 続いてスタッフの方と一緒に病室の見学に伺う。ゆふみ病院は、病室は多くないものの全てが個室。また、個室でも1日5000円と1万円の差額ベッドの病室もあります。


5000円の差額ベッドの部屋より

 差額ベッドのある部屋では大人が横になれる2畳のスペースがあり、身内の人が寝泊まりできるようになっていました。また別料金で貸し布団や病院食(要事前予約)のサービスもありました。この日は下見を終えて、そのまま帰宅。



3. その後、親父が亡くなるまで

 下見の2週間後ぐらいに空きのベッドが出たので、お試し入院となる。1回目の入院当時の親父の具合は非常に悪くて、お試しではなく、本当にここままここで息を引き取ってしまうのではないかという状況に。

 ところがそこから信じられないレベルで体調がよくなり、食道癌の手術後より全く口にすることの出来なかったわかめの味噌汁すら口に出来るようになる。
(わかめ類は喉に引っかかるため、手術後は口に出来なかった)

 これにはうちのおかんも半ば呆れかえったような状態となる。そして6月上旬に一度退院し、自宅に戻る。この頃の親父の体調はよく、この間に知人らが次々と見舞いに来る。
 葬式の時に使った遺影になる写真も、このときに元会社の同僚がスナップ写真として撮ってくれる。この頃は本当に体調がよくて、冬まで持つのではとの話も出てくる。

 しかしながら、6月下旬に親父の具合が再び悪化。水も飲めない状況になり、ゆふみ病院に連絡して即再入院へ。

「2回目の入院=もう本当に最期」

ということはみんな認識していたので、覚悟を決める。

 この時親父は、おかんと対してホームポジションの座椅子の後ろに隠してあった(丁寧に紙に包んだ)100万円の札束を3つほどを渡す。皆までは言わんが、「俺の葬式代として使え」ということかと。



亡くなる3日ぐらい前の親父 (体のどの面をベッドにつけても辛いらしく、『身の置き所のない』と表現される苦しい状況となる)

 再入院した親父は、まずは苦痛を取ることを主体とした治療を受ける。この頃の親父はモルヒネすら効きにくい状態となっており、苦痛の酷い状態はより強力な麻酔薬を使うことに。麻酔薬を使うと意思疎通も満足にできなくなるので、「もう親父と会話できないのか…」と思うと涙が出てくる。


2011年7月2日(土)

この日は病院から家族に対して説明が行われる。
まず院長先生からの説明内容としては、
 ・そろそろ最期の日を迎えそうであること。
 ・容態はいつ急変するかは判らないこと。
 ・基本的に救命措置は行わないこと。
 ・アイバンクに献眼する場合は、死後の処置の前に摘出作業が発生するので、その後の対応遅れること。
等の話がある。

 続いて看護婦さんとのお話があり、最期を向かえる際の家族向けの手引きをもらい、亡くなった後にどのような作業が発生するのか等の説明を受ける。このときに、亡くなった後に親父に着せ替えたい服を決めておいて、予め病院に持って来ておいて欲しいとの話がある。

 この日の親父は、会話が出来る程度に体調はよかったため、死後着た衣服については直接本人に聞くことに。服についてはゴルフウェアに決定。この後、しばらく病院に付き添いっきりで疲れ気味であったおかんを自分の運転する車に載せて実家に連れて帰る。

 実家で闘病生活中の親父は、座敷にパラマウントベッドを置いて一日中双眼鏡で野鳥を眺めるような生活を送ってきたのだが、今後座敷は来客等でバタバタすることからベッドを片付けることに。

「親父のベッドを片付ける=もう親父が生きてこの家に戻ることはない」

 ことの現実を突きつけられて、思わず涙が出てくる。その後の葬儀や火葬などは淡々とこなしていたので、今思えば、このときが一番悲しい思いをしていた気がします。

 その間おかんは、親父に着せるゴルフウェアを選定。ほとんど着る機会の無かった、まだ新しいお洒落なウェアを選ぶが、おかんもおかんで、感極まって泣き出してしまう。

 この日は看病疲れのひどいおかんを実家に残して、自分一人で病院に行き、親父のすぐ近くで泊まり込むことにする。この日の親父は麻酔薬がなくても大丈夫な時間ができたので親父と最後の会話をする。

 自分が会ったことのない父方の祖父(親父の父)ってどんな人だったのか聞いてみたところ、祖父は親父が物心がつく前に亡くなったので、親父自身も全然覚えがないとのこと。他に親父のパソコンに残ったデータをどうするかとの話とかもする。


2011年7月3日(日)

 この日は姉とその子供(私の甥っ子、親父の孫)がやってくる。遊び盛りの小学生の甥っ子2名は、近くにいると強烈にやかましいので、闘病中は親父の近くに行かないように指導されていた。 そんなこともあり、この日も病室から追い出そうとしたが、親父は「今日はいい」とのこと。

 そして親父は、小学生の小遣いとしては相応しくない額である諭吉さんの紙幣を何枚かティッシュに包んだものを
「小遣いあげられるのも、これが最後だから」
といって渡してあげる。

 その後、姉が自分と交代で親父に付き添い、甥っ子は自分が連れて帰る。結局この日の会話が、親父との本当に最後の会話となる。

 私はこの後、大分から帰京。しかし翌7月4日の23時過ぎに危篤の連絡を受けて、7月5日の朝一の便で再び大分にとんぼ返りする。


2011年7月5日(火)

 朝一の便で大分空港に着いた私は、空港近くでレンタカーを借りて高速道路をひた走り、朝9時過ぎにゆふみ病院に到着。このときの親父は、まだ苦しそうに息をし、意識は無い状態。自分は

  「父ちゃん、頑張れ」

と声をかけるが、おかんは

  「もう頑張らんでもいいんで」

と涙ながらに声をかける。そして到着から約2時間後に、家族や知人に見守られて息を引き取る。

 近くにいても親の死に目に会えない人がいる中で、関東在住の自分がこの場に立ち会えたことはとても幸せなことだと感じる。逆に親父が、私が戻ってくるまで待っててくれたのかと思うと、涙が出てきてしまう。(つД`)



4. 親父が亡ってからの対応

 親父が息を引き取った後、家族とお見舞いに来ていた人が集まる中、院長先生直々に最後の診断をしていただく。心臓と息が止まったことや瞳孔反応の確認を行って、11時XX分に死亡を確認。この時間が死亡届けに記載する死亡日時となる。(今後の手続きで必要になるので、遺族は死亡日時を覚えておく必要あり)

 その後、悲しんでいる暇もなく親戚やらへの連絡に忙殺される中、親父は首より下の部分のエンゼルケアを受け、おかんが持って来たゴルフウェアに着せ替えられる。その後、アイバンクへのドナー対応(眼球提供)を行う。
アイバンクの件に関しては、こちらのエントリを参照

 アイバンクの対応が終わった後に続いて、看護婦さんによる親父の首より上の部分のお手入れに入る。このときの親父は髪は綺麗に洗髪されて、ドライヤーで乾かして、綺麗にセットしてもらえる。顔はひげを剃った後で、女性の化粧のようにしっかりファンデーションを載せて、自然な形で化粧を行ってくれる。親父の化粧はしっかりしていて、2日後の葬儀が終わるまで、崩れることなく持ってくれる。

 その後、親父は布団ごとベッドの台車に乗せられて、病院のスタッフの方に見送られながら、病院前で待機していたリムジン型の洋型霊柩車にて自宅経由で斎場へ向かいます。



5. ホスピスにお世話になった全体的な感想

 一言でいうと「とてもお世話になりました」という感謝の言葉に尽きます。亡くなった親父については、末期癌の苦痛を極力緩和してくれましたし、私ら身内についても、亡くなる前後でサポートを頂けました。おかげで親父も家族らもしっかり“死ぬ準備をして”その時を迎えられたと思っています。(特に家族の心の準備ができました)

 また、親父が亡くなった後も、まるで生きている人間と同じように丁寧に対応して頂けました。これはあたかも親父を俳優のように

 “これから(葬式という)晴れ舞台に送り出してくれた”

ような感じがして、身内としてはとても嬉しく感じました。月並みの感想ですが、自分が病気で最期の時を迎えるときがあれば、この病院のお世話になりたいと思いました。

 大分ゆふみ病院の先生及びスタッフの方々、大変お世話になりました。




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2 コメント

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さちさんへ (ブログ主)
2014-01-30 22:40:54
コメントありがとうございます。
ご主人様が末期癌であられるとのことでお察しいたします…。

ホスピスの費用ですが、普通の病院の入院費用と変わらないはずです。
1ヶ月も入院すると高額療養費制度のお世話になるので、
基本的な(かつ最低限の支払いとなる)医療費は、
高額療養費の負担額になると思います。
(うちの親父だと月8万円でした)

差額ベッドを使うのであれば、上記の費用に加えて
さらに1日5000円のような額が加わります。
ただしこれがバカになりません…

謝礼金に関してですが、それはその土地や病院に因るのではないでしょうか。
なお、ゆふみ病院ではそのようなものは不要で、
ちょっとした差し入れ的なお菓子(お土産)類でさえも、
受け取りをお断りしているようなお堅いところでした。
返信する
Unknown (さち)
2014-01-30 07:29:41
初めまして。主人が末期がんでホスピスの事を調べています。
金額的には一ヶ月にいくらかかるのでしょうか?
又担当医には謝礼金が必要なのでしょうか?
差し支えなかったら教えてくださると助かりますm(_ _)m
返信する

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