きたへふ(Cチーム)のブログ

ファミスタとは特に関係ありません。タブレット・スマホをご利用の方は、できればPCモードで御覧ください。

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その13(飛行機の写真)

2005年10月31日 | 2ch
祖父のアルバムにあった報國第六十九号(共同漁業号)について、
2chの軍事板の質問スレで聞いてみました。

●初心者歓迎 スレを立てる前に此処で質問を 218
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1130411347/

そうしたら10分も経たないうちに回答が返ってきました。
知識のある人が集っている所って、やっぱりすごいと感じました。
(以下、その内容のコピペです)



571 名無し三等兵 2005/10/29(土) 22:31:01 ID:HGqf925/
戦時中の飛行機についてお伺いします。
下の写真の飛行機は、どういう機種で、何のために使われていたのか
教えていただけませんでしょうか?

報國第六十九号(共同漁業号)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/38/ca67b555181006e86727e27fe96fd46f.jpg


572 眠い人 ◆gQikaJHtf2 sage 2005/10/29(土) 22:34:42 ID:??? BE:?-#
>571
中島九五式水上偵察機ですかね。
基本的な任務は、近距離用の偵察、観測ですが、機動性の良さから、攻撃、
上空援護、迎撃などにも活躍しています。


574 眠い人 ◆gQikaJHtf2 2005/10/29(土) 22:39:32 ID:lCUrHQ83 BE:?-#
>572
自己レス。

もとい!!
同じ中島でも一世代前の九○式二号水上偵察機二型です。
米国製Vought O2U Corsair水上観測機の製造権を中島が購入して、それを
中島Jupiter発動機に換装して、国産化したものです。

任務は同じで、急降下爆撃とかもしていました。
上海事変~日華事変初期に掛けて艦隊に配備されました。

失礼しました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その12(写真一覧)

2005年10月22日 | 2ch
【補足】
 画像の一覧です。鑑定(コメント)いただいた内容も併せて載せます。
 一番最後の3つは、参考文献のコピー+メモ書きになります。
 参考文献:南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修道・小林進・福永慎次郎)



album01.jpg 昭和天皇

album02.jpg 谷第六師団長
・album02.jpgは眼鏡を外されていますが、谷寿夫第六師団長です。

album03.jpg 大谷智子様

album04.jpg 松井石根閣下
・松井石根(いわね)
 中支那方面軍司令官(南京攻略戦の陸軍側最上位指揮官)。大将。

album05.jpg 大佐2名+慰問中の写真
 ・album05.jpgの左は第47連隊長長谷川正憲大佐、右は不明確ですが大佐の肩章が見えます。
  同一旅団(第11旅団)の第13連隊(熊本)長 岡本保之大佐 ではないかと思います。

album06.jpg 柳川中將閣下+粟津兵 南京一番乗六勇士
・柳川中將
 第一〇軍司令官・柳川平助中将。第六師団の上級司令部でした。
・粟津定一等兵
 南京一番のりと言う写真は襟の連隊番号でもわかりますが
 47連隊(大分)の粟津定一等兵(当時、写真では上等兵の肩章です)ですね。
 中華門をよじ登られた三明中隊の六人のうちのおひとりです。野津町出身のようです。

album07.jpg うちのじーさんの若かりし頃(たぶん)

album08.jpg 餅つき+スナップショット

album09.jpg 九二式重機関銃

album10.jpg 日出生台での集合写真+祖父の手書きメモ
album10.jpgに興味深いことが書いてあります。右上部に
昭12.12.12/南京城外/クリーク乗船/「渡河中.ニカ./戦死./后二時/負傷ノ船中ニ/彼ノ死ヲ聞キ涙/ナキヲ得ズ.」
とあります。この戦死されたニカと読めるかたは上部左に 戦死/南京/荷川取
と書いてあるかたのことなのでしょうか。47連隊は第二中隊の陣中日誌が現存
しています。郷土部隊戦記も出版されましたが、この荷川氏の名前はまだ見つかり
ません。字を読み間違っているかもしれませんが。

album11.jpg 誰?+路上駐車お断り

album12.jpg 何かのお祭りの写真+スナップショット

album13.jpg 報國第六十九号(共同漁業号)
【2005.10.31追記】
同じ中島でも一世代前の九○式二号水上偵察機二型です。
米国製Vought O2U Corsair水上観測機の製造権を中島が購入して、それを
中島Jupiter発動機に換装して、国産化したものです。

任務は同じで、急降下爆撃とかもしていました。
上海事変~日華事変初期に掛けて艦隊に配備されました。

album14.jpg 吉岡さん(祖父の先輩らしい)

album15.jpg 胸のレントゲン写真+(日支事変)我機関銃隊の活躍 中外通信社提供■■■

album16.jpg 久邇宮妃殿下

P1010002.JPG アルバムの表面

P1010005.JPG アルバムの裏面

P1010006.JPG アルバム制作元

P1010007.JPG 見開き

P1010008.JPG 見開き拡大
P1010008.JPGを読み下しますと、
昭和十三年/二月二十五日/「熊本陸軍病院にて/慰問品として受く」と読めます。

P1010009.JPG アルバム内サンプル

P28南京追撃経路

P37中華門

P40南京城攻撃・退路図

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その11

2005年10月22日 | 2ch
【補足】
443氏より誘導を受けた↓のスレッドでの内容をコピペします。

あなたのおじい様の戦争体験を教えて その8
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1115479318/l50



894 名無し三等兵 sage 2005/10/14(金) 00:36:28 ID:???
便乗質問で済みませんが教えてください。
私は↓のスレの138以降で、南京攻略戦に参加した祖父にヒアリングして、
その結果を投稿している者です。

[ハングル板] スレッドを立てる迄も無い質問・雑談(58)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1127011524/

公式に残っている祖父の軍歴を調べてみたいのですが、祖父は南京戦で負傷して
昭和13年には帰国しており、終戦時は兵士ではありません。このような場合、
どこに問い合わせればよいものでしょうか?

あと祖父が所属していた47連隊(大分)が、いつどのような行動を行ったのかを
追いたいのですが、どういった資料を探せばよいでしょうか?
お薦めの参考文献等あれば、ご教授をお願いいたします。
(教えて君で済みません)



902 名無し三等兵 sage 2005/10/14(金) 20:18:47 ID:???
>>894
>どこに問い合わせればよいものでしょうか?
>>769

あと、四十七連隊の戦友会が間違いなく絶対にあるハズなので、
>>769のルートから辿れるハズです。


>>895
島尾敏夫もそんな事を言ってましたな→震洋艇で使っていた航空燃料



903 名無し三等兵 sage 2005/10/14(金) 23:13:35 ID:???
>>894
もしかしたら、昭和21年1月現在、ってところで引っかかってるのかもしれんが、
軍歴を保管してる都道府県ならそれ以前に退役した軍人の軍歴もたいていはある。
(というか、今でも軍歴を持ってる理由が恩給の資料とか戦没者の弔慰金の資料だから、
それ以前の軍歴も持ってないと困る)



6 前スレ894 sage 2005/10/16(日) 00:21:24 ID:???
前スレ >>902-903

コメント、ありがとうございますた。
大分県だと下記URLの課が担当のようなので、そこに問い合わせてみます。
http://www.pref.oita.jp/12300/shokai/index.html



【補足】
 誘導を受けた同一スレッド内のレスを転載します。



763 名無し三等兵 2005/09/26(月) 11:44:17 ID:SYhfOGis
「じいさまの軍歴が知りたい」っていう書き込みが
いくつかあったみたいなんで、知っているところだけ・・

軍歴
 終戦当時の本籍地の都道府県健康福祉部等に照会する。
 また、昭和21年1月現在で軍に在籍した軍人軍属の
 所属部隊名簿(部隊留守名簿)で調査可能。
 厚生労働省社会・援護局援護課資料室
 03-3503-1711
終戦時の内外地部隊の状況
 防衛庁防衛研究所戦史部
 03-5721-7005
※但し、終戦間際の招集だった場合には軍歴が
 ない場合あり。

引揚者給付金及び遺族弔慰金をもらっている
東京都の場合
 東京都庁生活福祉部援護福祉課援護係
 03-5321-1111
引揚者給付金受給者だけなら
 厚生労働省社会・援護局援護課給付係
 03-3503-1711

あと、徴兵通知からも分かるようですが、こちら
は徴兵されたときの本籍地の市町村役場となります。



765 名無し三等兵 sage 2005/09/26(月) 13:31:06 ID:???
>>763
間違いがいくつかある。

(軍歴)
・陸軍→本籍地都道府県の「援護主管課」
(と書かないと一般例として通用しない)
・海軍→厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室

※厚生労働省の電話番号が違う(03-5253-1111)。
 書かれているのは旧厚生省の代表番号
 (今は当然使われていない)

(引揚者給付金)
・本籍地都道府県知事(樺太・千島本籍者は北海道知事)の裁定なので
照会先は引揚者給付金の場合も都道府県。厚生労働省に聞かれてもわからない。



769 763 sage 2005/09/26(月) 14:59:04 ID:???
>>765
訂正ありがとうございます。
 ちょっと古い資料だったので。という訳で訂正版。
 なお、引揚者給付金は認可者は法律上は厚生労働大臣で
 都道府県が事務を行うという形のようですね。
 (引揚者給付金等支給法第3条、同23条)

軍歴
 昭和21年1月現在で軍に在籍した軍人軍属の
 所属部隊名簿(部隊留守名簿)で調査可能。
 陸軍→本籍地都道府県「援護主管課」
 海軍→厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室
  〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2 電話:03-5253-1111(代表)
(終戦時の内外地部隊の状況)
 防衛庁防衛研究所戦史部
 03-5721-7005
※但し、終戦間際の招集だった場合には軍歴が
 ない場合あり。

(引揚者給付金及び遺族弔慰金をもらっている場合)
 (例として東京都の場合)
 東京都庁福祉保健局生活福祉部計画課
 03-5320-4077
 
 あと、徴兵通知からも分かるようですが、こちら
 は徴兵されたときの本籍地の市町村役場となります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その10

2005年10月22日 | 2ch
416 138 sage 2005/09/30(金) 07:51:02 ID:csp23oHN
>>373
ありがとうございます。リアルで読めませんでした。情けなや…(;´Д`)

>>367さん
写真の解析、ありがとうございます。m(__)m
あの写真で、よくそこまで判るのだと驚いています。
祖父は機関銃を持って移動していたことや、「この機関銃は前と後ろと真ん中に
別れるんだよ」と詳しいことを知っていることから、機関銃を扱う部隊にいたと
思います。

所属についてはYes,Noレベルあれば、うちのおかんでも聞けると思うので
祖父に聞いてもらうことにします。(併せて荷川氏?のことも聞いてみます)

粟津兵については、祖父も「野津の人だったか、大野町の人だったか…」って
言っていました。残る5名の方も大分県の方なんでしょうか?

また>>391にある「郷土部隊戦記」を取得したいのですが、正式なタイトルや
出版社を教えていただけませんでしょうか?



427 367 sage 2005/09/30(金) 19:14:59 ID:8AcmAXBV
>>416

138 さん
「六勇士」のご出身と状況は次の通りです。

安藤軍曹;豊後高田市 中華門上で戦死 
中津留伍長;津久見市 敵の軽機を奪って奮戦、日の丸を振った方
真鍋一等兵;荻町 中華門上で戦死
寺山一等兵;荻町 中華門上で戦死
粟津一等兵;野津町 中華門で重傷
江口一等兵;院内町 中華門で重傷

本に関しては名前が不正確でした。『郷土部隊奮戦史』でした。
これは平松鷹史著 発行;大分合同新聞社
昭和58年1月20日発行 ですので新本入手は困難です。
三分冊された旧版もあるようです。

荷川氏の件よろしくおねがいします。ですが、無理されなくともけっこうです。

お祖父さま、お大事に。

 しかし、ここはハン板ですので内容的にちょっと気が引けています。



433 通りすがり。勝手に回答 sage 2005/10/01(土) 08:34:55 ID:a6v/gWBv
138さんこちらにたくさんの同様の経験者がいるようですので詳しいことを
お聞きになればいかかでしょうか。

あなたのおじい様の戦争体験を教えて その8
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1115479318/l50

また、厚生省の軍人恩給を扱っている方に聞けば軍籍は調査可能です。
また靖国神社の中に確かそれを扱っていいる部署があったと記憶しています。
畑違いのことですので間違っていたらすみません。



478 138 sage 2005/10/03(月) 08:39:23 ID:jLc0tMje
>>367さん、>>433さん
返答が遅くなりましたが、いろいろと情報提供、ありがとうございました。
参考にさせていただきまつ。
最後に締めの文章でも書こうと思っているのですが止まっています。(;´Д`)

1点、どなたか教えてください。
祖父の話を聞いているときに「こうしゅうは(高周波と同じ読み)」という単語が
何度か出てきたのですが、意味が分からずに話が進みませんでした。
どこかの地名でしょうか?



490 367 sage 2005/10/03(月) 21:05:10 ID:DjLzpN84
>>478
こうしゅうは→こうしゅうわん
ではないでしょうか。
「こうしゅうは」そのものとしては
地名、人名、建造物には思い当たりません。
杭州湾でしたら第10軍の第47連隊が
上陸した場所です。

『南京事件「証拠」写真を検証する』の
28p下段、29pの図では金山衛のあたりがそうです。
ただし、第10軍⊃第6師団⊃第11旅団⊃第47連隊
です。



785 138 sage 2005/10/09(日) 23:03:47 ID:why0ooR3
>>367さん
遅くなりました。家族経由で祖父に再ヒアリングできたので、
その結果をお知らせします。

>>391の荷川氏の件
まず祖父の所属ですが、第47連隊 第1大隊 機関銃中隊で合っていました。
写真の大江一二三少佐(南京戦時点)と足立首少尉と同じ部隊だそうです。

荷川氏についてですが、「彼について覚えていることを全部教えてくれ」と
お願いして出てきた情報が下記の通りです:
 ・沖縄出身。

 ・一緒に行動したのは、南京に攻め入る前日(つまり昭和12年12月11日)から
  であったため、彼の人となりの詳しいことは判らない。
  (実質的に一緒にいた時間は丸1日程度とのこと)

 ・祖父と同じ小舟に乗って中華門攻略に当たった。そのとき荷川氏は
  祖父の右半身が重なるくらいの位置におり、荷川氏は前で立った状態、
  祖父は後ろで座った状態であった。

 ・クリークを渡って城壁の手前を上ろうかと考えているときに銃撃を
  受けた。荷川氏はここで頭部に銃弾を受け戦死した。
  (このとき祖父は脚に被弾)

ポジション的に祖父の盾になったと思われます。(-人-)
祖父にとっても辛い思い出の一つのようです。



786 138 sage 2005/10/09(日) 23:05:03 ID:why0ooR3
>>357他
軍票の件ですが、祖父に使ったことがあるかどうか聞いたところ、
 「軍票があったのは知っているが、自身で使った経験は無い」
という、びみょーな回答でした。

ちなみに「軍用手票という言葉は聞いたことがない」とも言っているので、
軍の中では「軍票」としか言っていなかったかもしれません。



938 367 sage 2005/10/13(木) 10:33:29 ID:8pYsSSch
>>785
ありがとうございました。
亀ですみません。
私も身近の沖縄県出身者などに聞いてみましたが.,
荷川氏という苗字はどうも「荷川」ではなく「荷川取」という苗字のようです。
宮古島の苗字だそうです。

http://www.tukaerusite.com/navi/area_9060008/

 軍票については兵隊さんは「軍票」と言い習わしていたのでしょうね。
たしか、支那事変の紙幣そのものには「軍用手票」と印刷されていたと
記憶していますが、いま、どこにやったか、見つかりません。
お世話様ですが、また、何か情報ありましたら、お願いします。



【補足】
 2005.10.22現在、話はここで止まっています。
 なお元スレは1000に到達したため、新スレに移行しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その9

2005年10月22日 | 2ch
391 367 sage 2005/09/29(木) 14:18:48 ID:33hlrrrT
追加です。
album02.jpgは眼鏡を外されていますが、谷寿夫第六師団長です。
album05.jpgの左は第47連隊長長谷川正憲大佐、右は不明確ですが
大佐の肩章が見えます。同一旅団(第11旅団)の第13連隊(熊本)長 岡本保之大佐
ではないかと思います。
album10.jpgに興味深いことが書いてあります。右上部に
昭12.12.12/南京城外/クリーク乗船/「渡河中.ニカ./戦死./后二時/
負傷ノ船中ニ/彼ノ死ヲ聞キ涙/ナキヲ得ズ.」
とあります。この戦死されたニカと読めるかたは上部左に 戦死/南京/荷川取
と書いてあるかたのことなのでしょうか。47連隊は第二中隊の陣中日誌が現存
しています。郷土部隊戦記も出版されましたが、この荷川氏の名前はまだ見つかり
ません。字を読み間違っているかもしれませんが。
このような貴重な資料はご本人の当時の所属が大変重要ですので、是非お爺様のそれを
ご確認された方がよろしいかと思います。
ちなみに、47連隊は第Ⅰ大隊から第Ⅲ大隊まであり、
Ⅰ大隊の下に1から4中隊と機関銃中隊、歩兵砲小隊、
Ⅱ大隊の下に5から8中隊と機関銃中隊、歩兵砲小隊、
Ⅲ大隊の下に9から12中隊と機関銃中隊、歩兵砲小隊
の構成です。中隊長のお名前が分かれば何中隊かは分かります。
重機関銃の写真がありますので、機関銃中隊の所属でいらしたのかもしれません。
P1010008.JPGを読み下しますと、
昭和十三年/二月二十五日/「熊本陸軍病院にて/慰問品として受く」と読めます。
ありがとうございました。



392 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 16:27:50 ID:T6w8ZD9J
>>369
138氏DLさせていただきました。ありがとうございました。



396 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 19:26:22 ID:8kBybovW
南京攻略時の軍票については、上海派遣軍特務の岡田少佐が当時、
南京に直接出向いて「南京で軍票が 通用するかどうか」を調査しておりますね。
以下、岡田氏の証言から

「軍票が実際に通用しているかどうか見ていると、これがあまり使えない。
むりやり軍票を渡している日本兵もいました。それを確認したうえで十五日か十六日、
たぶん十六日だったと思いますが、上海に自動車で帰りました。」
(「南京事件」日本人48人の証言 より抜粋)



397 マンセー名無しさん sage 神風猫踊り 2005/09/29(木) 20:02:23 ID:0JT/m8nd
>>396
 具体事例の紹介どうもです。(^^) 占領後に難民対策を兼ねて特務で仕切って、
難民を労働者として雇用してその賃金を軍票で支払ったとのことですから、その
あたりの状況の視察だったんでしょうか。
 とりあえずは難民区に軍直営の交換所を設けることで対処していたようですが。

---------------------------------------------------------------

 軍使用苦力に対する賃銀は凡て軍票を以てせられたる関係上軍に於て之を
交換するの必要を認め一月五日先つ難民区に軍司令部直営の軍票交換所を
設け米穀、麺粉を米一俵(十円)麺粉一袋(二円五十銭)にて交換したるか
難民区の解散方針に依り一月十五日之を閉鎖して各区に(下関第五区を除く)
一箇所の交換所を設けたり 
         <井上久士編・解説 『華中宣撫工作資料』(不二出版)>



398 367 sage 2005/09/29(木) 21:08:25 ID:BpWUjjP7
 事変発生当初、日本軍は「軍需品は可及的に内地より追送すること」にして、
日銀券での現地支払いを出来るだけ縮小するつもりだつた。しかし、九月三日
に日本政府は「北支事変Lを「支那事変」に改称し、松井石根司令官の率いる
上海派遣軍が南京へ向かって西進するようになると、「内地追送により軍需を
満たす不便と不経済を避け、現地に於て軍の自由意志を以て現地物資を調達
しうる軍票」の発行が具体化する。
 十二年十月二二日、日本政府は「軍用手票の発行に関する件」を閣議決定し、
「原則として支那(北支方面を除く)に於ける派遣軍の軍人軍属の俸給、給与以
外の支払い」には軍票を使用することにして、十一月五日に杭川湾に敵前上陸
した第1O軍(柳川兵団)が日本銀行から引き渡された軍票を携行した。

多田井善生『大陸に渡った円の興亡』 下 より。



399 378 sage 2005/09/29(木) 21:32:04 ID:c3TP8BE0
>>379
ご丁寧なレスありがとう。やはり昔の事だからわかりませんよね。
ありがとうございました。



400 367 sage 2005/09/29(木) 22:05:45 ID:BpWUjjP7
判かりました。
album10.jpgの12年6月の日出生の集合写真がご祖父さまの隊であるということですので、
第47連隊、第Ⅰ大隊 機関銃中隊です。大江一二三少佐(写真では大尉ですが南京戦時点では
少佐です)と足立首少尉、(南京戦では大隊副官)の名前が写真にありますので判った次第です。



402 マンセー名無しさん sage 神風猫踊り 2005/09/29(木) 22:29:13 ID:0JT/m8nd
>>398
 ご教示ありがとうございます。(^^) 第1O軍は軍票を携行して上陸したとの
ことで、具体的な使用法がどのようなものであったのかやはり興味深いところ
です。
 南京戦当時、末端には(大隊主計あたりでも)回っていなかった印象を
持ってますが、どうなんでしょうか。



404 367 sage 2005/09/29(木) 23:29:19 ID:BpWUjjP7
残念ながら、上記の本は通貨金融政策が主の本ですので具体的な事例
は載っておりません。具体的な事例は宣撫資料等や個人の日記や回想記を
当たらなくてはならないと思います。
 ただ、徴発というのは本来、それ自体は、決まりに沿って行えば
みなさんご存じの通り、違法なものではありません、
それに外れたらば、徴発とは言ってはならず、違法行為ということになります。
どうも徴発=略奪と即、決めつけがイメージ操作なのか、されている
感じがしています。
 日本軍は方針の上ではあくまでも遵法の徴発を行うことであったことは上記
資料で判ります。しかし、違法行為としての不払い調達もあったとは思います。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その8

2005年10月22日 | 2ch
369 138 sage Passは「s121212」 2005/09/28(水) 23:38:23 ID:+728Yp30
とりあえず、>>367のところにうpしますた。
http://www.uploda.net/cgi/uploader1/index.php?dlpas_id=0000033081

オリジナルファイル名やコメントは冗談です。



370 マンセー名無しさん sage 2005/09/28(水) 23:52:15 ID:cEDxkTHE
>>369
ダウンできないよ
パスとかは?



371 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 00:05:28 ID:Gx54d4ul
>369
モロタ㌧。

なんか半角みたいな言い方になったな。
立派なアルバムだね。かっこいい。



372 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 00:06:54 ID:KGMLhxUV
>>370
メル欄



373 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 00:15:11 ID:a5VJ9aTQ
>369
>album16.jpg 久?宮妃殿下
これは↓ですね。
久邇宮妃殿下 「くにのみや」



374 367 sage 2005/09/29(木) 00:22:25 ID:DroH/KGZ
アップロードありがとうございました。
 早速拝見しました。全部は精査していませんが、
気のついたことを書きます。
 南京一番のりと言う写真は襟の連隊番号でもわかりますが
47連隊(大分)の粟津定一等兵(当時、写真では上等兵の肩章です)
ですね。中華門をよじ登られた三明中隊の六人のうちのおひとりです。
野津町出身のようです。あとの5人は
安藤康文軍曹、中津留大作伍長、真鍋彰一等兵、寺山勝見一等兵、
江口森次一等兵です。この後、中華門上で大激戦を行いました。
後続援軍も20メートルを越す城壁をよじ登り、死傷者続出の内、
昭和12年12月12日午後0時20分、
ついに中華門一帯を制圧、日の丸をたてたのです。



380 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 05:09:18 ID:HKKEsAjR
>369はマカーだと落とせない?
IE5.1.7なんだけど。



381 マンセー名無しさん sage 神風猫踊り 2005/09/29(木) 05:22:32 ID:0JT/m8nd
>>359

 ま、話はさっぱり噛み合ってないようですが(^^; 軍票というのは占領地だからこそそれなりに
通用する(額面通りのレートという訳でもない)ものであって、進撃途中の支配が未だ定まらない
地域で徴発の代価として使用出来るものでは無かろうと言うことです。
 
 また、成り行きと現地軍の突き上げて行き当たりばったりに始めたような南京攻略に際して、
上海に物資蓄積含めさほどの事前準備があったとも思われませんが、もし、軍票の用意が
あったにせよ後方の師団段列辺りならともかく、それが前線の兵の日々の食糧、日用品の
徴発に際して使用されていたという事例は寡聞にして知りません。

 138氏の御祖父様の談は、従来から聞き及ぶ徴発の実際と違和感の無い証言として
受け取れましたし、やはり南京攻略戦での徴発の実態はこのようなものであったのだろうと
理解しています。
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chouhatu.html



382 380 sage 2005/09/29(木) 07:41:12 ID:Y3dvhTIU
>>380
メール欄だってば!
ついでに、5.2.3が最新だけど。

>>138
ありがと。



383 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 07:42:41 ID:Y3dvhTIU
↑、名前間違い。
そーりー>おーる



385 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 11:04:43 ID:FJG2iH9s
>>381
当時の大陸は長期間の内戦状態なので、国民党発行のより日本軍発行のほうが
歓迎されたという話もあるんだがね。
「進撃途中の支配が未だ定まらない」なのか、「進撃によって混乱から解放された」のか、
結構重要と思われ。



386 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 12:22:39 ID:yfaReGmq
そういえば日中戦争中に日本軍が偽札をばら撒いたけど、
まったく経済には影響がなかったらしいなw



387 マンセー名無しさん sage 神風猫踊り 2005/09/29(木) 12:25:19 ID:0JT/m8nd
>>385

 国民党軍と比べるというのはまさに”相対的”であって、いわば目糞鼻糞の類な感じですが、
とりあえずは「進撃によって混乱から解放された」と言うに足るソース希望。



388 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 13:32:19 ID:hpd4GxmN
>>386
ちょとズレますが、満州中央銀行のOB談として、こんなことが語られました。

満中銀は敗戦により解散し引き上げたが、その後も満州では数年間にわたって、
満中銀の発行した通貨が使われていた。存在しない銀行の銀行券の方が、
中国軍閥の発行した通貨より信用されたのだ。これは満中銀OBとして
誇りであった。

(ソース↓が手元にないので、記憶による)
黄文雄「満州国は日本の植民地ではなかった」黄文雄/著 Yahoo!ブックス



389 マンセー名無しさん sage 2005/09/29(木) 14:05:05 ID:HKKEsAjR
>382
パス入れてもだめなんだよ。あきらめたす。ありがと。



390 382 sage 2005/09/29(木) 14:11:54 ID:Y3dvhTIU
>>389

漏れはSafari(2.0.1)でDLした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その7

2005年10月22日 | 2ch
327 マンセー名無しさん sage 2005/09/27(火) 04:19:37 ID:WY90kzj4
>138氏
うふぁ、なんかワクワクしてきたよ。貴重な証言をくださるおじい様
と138氏に感謝。



328 マンセー名無しさん sage 2005/09/27(火) 06:39:28 ID:kD7QrJCC
同じく感謝。想像しながら読んでますよ。



336 マンセー名無しさん sage 2005/09/27(火) 08:45:08 ID:57AdRxAr
>>318

おじいさんの証言、興味深く拝見させていただいております。
残念ながら、一部に強姦・略奪行為があったということは、
当時の記録や手記とも一致していますね。

ただ、民間人の虐殺っていうのは無いですね。
便衣兵処刑の記録しかありませんから。外国人の記録を見てもそうですね。

ところで、便衣兵狩りのさい、過って民間人を連行・処刑した可能性について、
おじいさんのお考えはどうでしょう?
できれば、お聞きしていただきたいのですが。



337 熱湯翼A ◆nattItFnqM sage 2005/09/27(火) 08:52:11 ID:2ePYH3I5
>>138どのの おじいさまの話、興味深く読みました。
どうもありがとう。
|-`).。oO( じいちゃん お大事に。



357 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/28(水) 00:53:49 ID:arQITPvJ
>325
 えー……確かに戦地においてその土地の通貨が準備できないってことは
よくあるのですが、 そういう場合、「軍票」というものを使って、支払いを行います。
 これは言ってみれば小切手のようなもので、あとで額面の通貨と交換できることを「日銀が」
保障していました(軍が、ではないことに注意。つまり勝手に刷ることはできません)。

 従って、通貨がないから代価を払っていない、ということには必ずしもなりません。

 戦争末期でもない限り、きちんと支払ってますよ。というか、一個軍で軽く6万を超えるよう
な大所帯ですから、略奪でどうこうってのは大変なことになってしまいます。



358 マンセー名無しさん sage 神風猫踊り 2005/09/28(水) 01:09:41 ID:KoS6rh2b
>>357

 占領後であれば軍票(軍用手票)もそれなりに通用はしたんだろうけれど、
南京攻略戦の最中に前線部隊の主計担当が軍票を持ち歩いてそれを使うというのは
考えにくいですけど。

 それに、軍票にしたところで適正な代価分が支払われたかどうかはまた別、
という面もまたある訳で。



359 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/28(水) 01:26:11 ID:arQITPvJ
>358
 南京攻略部隊は上海を策源地として行動してますから、事前に軍票を日銀から発行して
貰ってる可能性が非常に高いですが。
 そもそも上海で軍票が通用する状態ですしね。



360 通りすがり。勝手に回答 sage 2005/09/28(水) 05:45:53 ID:0sh89r9y
あらま、ずいぶん詳細に結果報告されていますね。私も大変勉強になります。
本来ここの住人ではなかったのでROMの終了間際にレスがつかないのを見て
思い付くがぎりのことでしたが民話の再収集方法を思い出して書いたしだいです。
スキルのある方どうぞ補足をお願いします。

これ以上は、関東にお住まいでしたら、軍人恩給を扱っているようなところで軍歴簿を取り、
また、同様の
1)復員軍人会の方に質問したり、
2)大学で「実証的歴史学に関する資料収集の方法」を質問されること
があなたの資料の価値を高めることになると思いますよ。
ただ、史学はお金のない研究分野なので、多分にあなたのような熱意に頼っているのが現状なようです。
(1.2両方とも背後関係を良く調べたほうがいいですが。こう書かざるを得ないのがつらい状況)
とにかく、あなたの熱意に敬意を表します。ぜひ続けてください。
今残さねばもう聞けない話です。もう戦後60年になりますから。
(私の祖父はもう鬼籍です。)



362 138 sage 2005/09/28(水) 07:06:33 ID:+728Yp30
皆様、コメントありがとうございます。
私は昨日まで休みを取って九州にいたのですが、今は関東に戻っています。

>>315
帰京する直前に祖父に会ってこの件だけ確認してきました。
 ・当時、軍では神式の葬儀を行っていたこと。
 ・神主さんは、軍の中にそういうことを仕事としている人がいたこと。
について、確認(証言)が取れました。

>>336
ごめんなさい、時間が無くて聞けませんでした。
次に聞けるとすれば正月に帰省したときになりそうです。



363 138 sage 2005/09/28(水) 07:21:17 ID:+728Yp30
>>357-359
当時、軍票を使っていたかどうか聞いてみたいところですね。
祖父にはキーワードを与えると記憶が出てくることがあるので、
南京までの行軍で使われていたかどうか判るかもしれません。

>>360
聞いてばかりで済みませんが、軍歴簿とはどこに行けばもらえるのでしょうか?

~~
祖父のアルバムの写真ですが、一部カラーコピーして持ち帰ったものを
スキャナで読み込んでデジタル化しますた。補正前の生データでもよければ
うpできます(10MBぐらい)。希望者がいれは挙手ください。



364 マンセー名無しさん sage 2005/09/28(水) 13:25:43 ID:eKbOm0zq
>363
ノシ
でも、何処かに適切なうpろだあるかな?



366 マンセー名無しさん sage 2005/09/28(水) 14:34:54 ID:cEDxkTHE
http://neko.loader.jp/loader/50M/
http://sakuratan.ddo.jp/up/upload.html
http://www.mystery-blue.com/
ここあたりのアップローダー、どうかな



367 マンセー名無しさん sage 2005/09/28(水) 19:42:17 ID:YTBoWfsN
>363 私も
ノシ

ローダーは
ttp://www.uploda.net/18.php

うpろだ 1号(中物用)
でいかがでしょうか
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その6

2005年10月22日 | 2ch
318 138 sage 2005/09/27(火) 02:35:11 ID:L0RUynip
遅筆で済みません。祖父の南京滞在中からの続きです。

【便衣兵について】
 Q. 中国の便衣兵はどのようなものだったか?
 A. 便衣兵のことは、「便衣団」「便衣軍」のように言っていた。
   (祖父の口ぶりでは、民間人の服を着た単独ゲリラというより、
   民間人の服を着た組織集団という感じでした)


【南京事件について】
 皆さんはこの点に興味があると思いますが(私もそうですが)、
 祖父の証言では、残念なことではありますが、少なくとも
   1. 一部のタチの悪い(ならず者の)日本兵による
   2. 民間人の殺害行為 と
   3. 性的暴力(要するにレイプ)
 は、『あった』と明言しております。(´・ω・`)

 より具体的な内容について聞いてみたかったのですが、当人はあまり喋りたく
 ないようで、詳しい話は聞けていない状況です。

 (続く)



319 138 sage 2005/09/27(火) 02:35:57 ID:L0RUynip
 とりあえず話の聞けた範囲で補足をしますと、

 1のタチの悪い兵隊とは自分の知らないの人であった。当時、南京には同郷の
 連隊以外に多くの兵がおり、どこの部隊の人かも判らなかった。

 2については、詳しい話は聞けていません。(目撃なのか伝聞なのかも不明)

 3の性的暴力については、祖父自身が中国人女性が数名の日本兵に囲まれて
 からかわれている様子を目撃し、「くだらんことをしよる!(怒&嘲笑)」と
 思いながら、引きずる脚で横を通り抜けたのを覚えている。

 …と証言しております。

 以降、私的な感想(推測)となりますが、いろいろと祖父の話を聞いている
 限りでは、「ヤクザ者の日本兵が現地人に因縁を付け、酷い場合は殺害まで
 してしまう不法行為があったが、日本軍が組織的に民間人の殺害行為を
 行ってはいなかった」ように感じました。(あくまで私の感想です)

 祖父からいろんな話を聞いていると思われる祖母も「(今の中国政府が言う)
 20万人も30万人も殺すなんてありえんわ」と言っているので、祖父から
 どのような話を聞いたのか確認してみたいと思います。



320 138 sage 2005/09/27(火) 02:37:58 ID:L0RUynip
【南京撤退から日本帰国とその後】
 残念ながら、南京から離れた時期や状況については、全くと言っていい程
 記憶がないそうです。

 祖父の証言では、南京→熊本→小倉と戻っていったとのことですが、
 手持ちのアルバムの写真を見ると
  ・アルバムの見開きに「昭和十三年二月廿五日 熊本陸軍病院にて
   慰問品として頂く」と書いてあり、

  ・東本願寺御裏方大谷智子様戦傷病者御慰問
   昭和十三年二月二十三日熊本陸軍病院藤崎台分院ニ於テ
   と説明書きのある写真があり、

  ・昭和13年2月と3月に小倉で撮った祖父の写真がある

 ことから、祖父が負傷した南京の戦闘から約2ヶ月後には日本に戻っていた
 ことになります。

Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjYさん、フォローありがとうございます。



321 138 sage 2005/09/27(火) 02:40:01 ID:L0RUynip
【祖父のアルバムと写真について】
  (アルバム本体)
  ・黒い表紙に戦地で戦う兵士の図が掘られています。
   いかにも戦時中という感じで、ぐんくつの音が聞こえてきそうです。

  ・アルバムと額縁 雅楽多 熊本市下通町 電話四〇四六番
   と書かれたシールが貼ってあります。(雅楽多は屋号)

  (頂き物の写真)
  ・白馬に乗った昭和天皇
  ・谷師団長
  ・大谷智子様(前述)
  ・熊本城
  ・松井石根閣下(前上海軍最高指揮官)の慰問写真 S13/3/25
  ・柳川中將閣下(杭州湾上陸軍司令官)の慰問写真 S13/4/10
  など

 (続く)



322 138 sage 2005/09/27(火) 02:41:31 ID:L0RUynip
 (祖父個人の写真)
  ・日出生台の演習で撮った写真
  ・熊本や小倉で撮った写真
  など

 (祖父の集合写真)
  ・昭和12年6月に撮影した日出生台での集合写真
  ・臼と杵でお餅をついている写真
  ・何かのお祭りの写真(軍服を着ている)

 (その他)
  ・胸や手のひらのレントゲン写真(他人)
  ・粟津兵 南京一番乗六勇士 と書かれた写真
    → 祖父と面識がある訳ではないとのこと。
    → 当時、南京一番乗りは名誉なことであったが、戦後悪者のように
      扱われてしまうのは大変不幸なことであると言っていました。

 その他、いろいろな写真が保管されています。
 個人的には興味深い&貴重な歴史資料だと感じています。



323 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/27(火) 03:14:42 ID:P4Z1bTM8
>318
 えー、こういってはなんですが、兵士による性的暴力というのは、「ない軍隊はまずない」って
くらい日常茶飯事だったりします(--;これは勝利側のみならず、敗北側でも発生します。従って、
そういうのが「なかった」という証言をされた方が、むしろ信憑性が薄いのです。
 ただ、それがあくまでも個人レベルでの暴発(普通の犯罪)になるか、それとも軍組織としての
行動になるかが異なるのです。

※南京攻略部隊の指揮官には、皇族もいた(中支那方面軍の上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王)の
で、軍組織としてそんな不祥事起こしたら大変です。

 なお、名前の出た将官ですが、
・松井石根(いわね)
 中支那方面軍司令官(南京攻略戦の陸軍側最上位指揮官)。大将。
・柳川中將
 第一〇軍司令官・柳川平助中将。第六師団の上級司令部でした。



324 138 sage 2005/09/27(火) 03:22:15 ID:L0RUynip
>>214
昨日、祖父を見舞える機会があったので、>>214,216の内容を印刷して
祖父に見せました。祖父は「おーおー、その通り、その通り」と言って
感心しながら読んでいました。

以下、祖父のコメントです。
・8/1 門司港では徹夜の作業があった。
・8/? 長~~い万里の長城の下を延々と歩いたのを思い出した。
・9/14 永定河渡河作戦 ⇒ 川を渡る前にやられた(襲撃を受けた?)
・9/24 保定城攻略戦 ⇒ 実際は3名が頑張ったところで、どうにかなるような
    もんじゃないよ…と冷めたコメント。
・>>219で質問した件、やはり大きな川は長江でした。

(続く)



325 138 sage 2005/09/27(火) 03:22:39 ID:L0RUynip
>>216の食料の現地徴発の件ですが、一緒にいた母が単刀直入に
「食料は買ってたの?それとも略奪してきたの?」と聞いたところ、

「買うこともあれば、かっぱらってきたこともあると思う。
 調達に行く輜重兵(食事を作る兵)がいつも十分な現地のお金を持っていた
 (もらっていた)とは思えないし、限られた時間の中で行動しなければ
 ならないことを考えると、無理にでも食料を調達してくることは
 十分に考えられる」

とのことでした。(証言ではなく推測のコメントです)

>>315
葬儀を行っていたのが、神主だったのかお坊さんだったのか、
もう一度確認してみます。(聞ければですが…)
この時は葬儀の有無を主題に聞いていたので、神式か仏式かについては
余りよく考えずに回答した可能性があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その5

2005年10月22日 | 2ch
221 138 sage 2005/09/26(月) 02:14:11 ID:231YUHk0
遅くなりましたが、>>192からの続きです。

【南京入城】
 ・祖父は負傷兵であったため、南京には物資を運ぶシチョウ車(漢字で
  書くと輜重車?)に載せられて入場した。

 ・輜重車の中から外は見えないため、入城時の様子は分からなかった。

 ・南京に降りたときは、日本軍が制圧した後であったため、周りには
  日本兵しかいない状況であった。
  (中国軍や一般の中国人は見かけなかった)

 ・南京に入城した日時は、私が聞きそびれていたため不明です。
  (なお、記憶が曖昧な祖父ですが、>>192の銃撃を受けた戦いがあった日は
   いつかと尋ねたら、昭和12年12月12日と即答しました。)



222 138 sage 2005/09/26(月) 02:15:59 ID:231YUHk0
【当時の南京の様子】
 残念ながら、街並みや風景に関する記憶がほとんどなく、祖父は

 ・負傷兵だったので病院のようなところにいた。

 ・軍医から「今歩かないと、一生歩けなくなるぞ」と煽られたため、
  頑張って歩いた。(なお祖父の脚には今でも銃弾が残っています)

 ぐらいの記憶しかありませんでした。

 >>159氏の質問の件ですが、話の持って行き方が難しかったので、
 下のような質問をしました。Qが質問、Aが回答です。

 Q. 南京入城後、お正月を迎える準備とかあったのか?
 A. 戦争やってる最中に、そんなものある訳ない。

 Q. 戦争で亡くなった日本兵の葬式はどうしてたのか?
   神主さんはいたのか?
 A. 葬儀については1ヶ月に1回ぐらいにまとめてやっていた。
   神主は、軍の中にそういうことを仕事としている人がいた。

 前者の質問については(負傷兵の)祖父が見聞きした範囲であること、
 後者については南京に限った話ではなく、当時の軍の葬儀方法について
 答えた可能性があるので、本来>>159氏が聞きたかった内容と論点が
 最初からずれている可能性がありますのでご留意ください。



224 138 sage 2005/09/26(月) 02:24:12 ID:231YUHk0
短くて済みませんが、今日はここまでにさせてください。
続きは便衣兵のこと、南京事件のこと、可能であれば帰国の途につくまでの
部分について書く予定です。

Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjYさんへ
南京入場後の第47連隊の動きが判れば教えてもらえませんでしょうか?
祖父は昭和13年2月には日本に戻っているのですが(写真がある)、
これは負傷兵だから早く帰れたのかどうか知りたいです。



315 159です sage 2005/09/27(火) 00:15:49 ID:ZQZagHqH
>>222
亀レスにて失礼 138氏
わざわざの返信恐縮です
>A. 葬儀については1ヶ月に1回ぐらいにまとめてやっていた。
   神主は、軍の中にそういうことを仕事としている人がいた。
もうこれだけでも十分です これで少なくとも神式の葬儀があったことの裏を取れたようなもんです



317 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/27(火) 01:50:44 ID:P4Z1bTM8
>224
 ちなみに南京占領は昭和12年12月13日とされていますので、お爺様はかなり最後に負傷された
ことになります。南京攻略戦での日本軍死傷者は6177人という記録があります。

 南京攻略後は徐州会戦(昭和13年4月7日~)、その後武漢攻略戦(昭和13年8月22日~)に参
加した後、新設の第48師団の基幹兵力となるために転属。
 太平洋戦争勃発後はフィリピン攻略、インドネシア攻略などに参加、終戦までインドネシア
に駐留していました(終戦時はチモール島に展開)。

 お爺様は負傷されたことで除隊(動員解除)となったのではないかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その4

2005年10月22日 | 2ch
201 ◆Z3OXfbmeho sage 2005/09/25(日) 12:06:48 ID:nMs6hnoZ
>199から一応続き
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa01/nanking2.htm>
ttp://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-ichgo1.html

(;@д@).。oO(3時間も掛けて明確な資料が見つからなかった何て言えないヨナァ)



202 野球文官 sage 2005/09/25(日) 12:33:50 ID:X1zrlxOM
>>191
>・谷タタキ氏(←漢字判りません)が師団長であった。(写真あり)

第6師団長で谷氏と言えば、谷寿夫氏かと。
http://ww1.m78.com/topix-2/tani.html



212 138 sage 2005/09/25(日) 23:14:56 ID:jWr8NP10
>>201-202
資料調査ありがとうございますた。
第6師団長は、谷寿夫氏が正しいみたいですね。(祖父の記憶違いのようです)
手元の写真だと眼鏡をかけていないのですが、同一人物のようです。

なお谷氏はBC級戦犯として、南京で銃殺されたようですね。(-人-)

>>202のリンク先で糧食を現地徴発した軍略に疑問符が付くという指摘に
ついては、うちの祖父も同様なことを言っていました。

>>189-192の続きは、これから書くところです。



214 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/25(日) 23:46:58 ID:3m5/cOHN
>191
 大分県出身であれば、第47連隊です。当時県民から「大分といえば四七」と言われるほど親
しまれたといいます。
 日本陸軍は郷土部隊制といって、その地方の人を集めて連隊を作りますので、同じ連隊には
同郷の兵士しかいないのです(沖縄は連隊区がないため、九州地方の連隊に入営します)
※近衛連隊は例外で、全国の各連隊区から集めてます

 昭和12年の日中戦争勃発後の第47連隊の動きは以下のとおり。

7/27
 動員下令
8/ 1
 出発し、門司港へ移動。輸送船舶の手当てのため二日間足留め
8/ ?
 北京郊外に展開。警備行動をしつつ作戦準備にあたる(およそ1ヶ月間)
 万里の長城を見たのは、おそらくこのときでしょう。
 このとき陸軍は北支那方面軍(司令官・寺内寿一大将)隷下に第一・第二の二個軍を編制、
第6師団は第一軍(司令官・西尾寿造中将)に所属して、河北作戦(北京-漢口間の制圧)に従事。
9/14
 永定河渡河作戦。白昼強行渡河となる
9/22
 補給の受けられないまま、保定の手前まで進出。
 ※このとき物資調達をしたのではないでしょうか?
9/24
 保定城攻略戦参加。三名の決死隊による城壁攻略などもあり、中国軍総崩れ。
10月中旬
 初期目的達成。上海方面へ転用となる。
11/5
 霧の中をついて、杭州湾へ上陸(第二陣)。激戦を繰り返しながら南京へ進撃



216 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/25(日) 23:55:16 ID:3m5/cOHN
>192
 第47連隊は同じく第6師団の第13連隊(熊本)などとともに、右翼隊として南京城中華門の
攻略を担当しています。

 なお、上海から南京までの進軍中、第6師団では部隊の進撃速度に補給が追いつかなかった
ため、軍用犬が補給活動にかりだされた、などというエピソードがあったりしますので、やは
りこの時期に食糧の現地調達(購入)をしていたのだと思われます。



219 138 sage 2005/09/26(月) 00:13:16 ID:hivqANwb
>>214,216
詳しい情報ありがとうございます。m(__)m
この情報を祖父にぶつければ、新たな記憶が出てくるかもしません。

>9/14
> 永定河渡河作戦。白昼強行渡河となる

消防の頃、祖父が「中国で対岸が見えない、まるで海のような大きな川を渡った」
という話をしていたのを思い出しました。ここのことでしょうか?



220 Jolly Rogers ◆I0h8/JeUjY sage 2005/09/26(月) 00:26:00 ID:Kz/nakNn
>219
 揚子江(長江)ではないでしょうか? 上海方面へ転用される際に渡っていると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その3

2005年10月22日 | 2ch
189 138 sage 2005/09/25(日) 02:18:15 ID:IF1bPBM/
>>138です。
祖父に戦争経験の話を聞いてきますた。その結果について書きます。

できる限り上に挙げられた質問内容を聞いてきたつもりですが、
話の流れの点から追い切れていないところがあります。
また65年以上前のことでもあり、記憶がはっきりしているところ、
不明確なところ、すっ飛んでるところがあります。

また話を聞くに当たっては、
 ・南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修道・小林進・福永慎次郎)
  から日本軍の経路等の図や写真を拡大コピーしたもの。
   → この本を参考文献1とします。

 ・祖父の軍隊時代の写真のアルバム

を持っていって、それを見ながら説明してもらったり、質問の回答をして
もらったりという感じで進めました。
祖父のアルバム写真については、追々デジタル化して公開できればと思って
いますが、今はうpできる環境にないので、その点はご容赦ください。



190 138 sage 2005/09/25(日) 02:21:07 ID:IF1bPBM/
【入隊~中国に行くまで】
 ・祖父のスペック:
   大正5年生まれ 大分県出身

 ・入隊した経緯:
   20歳の時の徴兵検査に合格したため。

 ・入隊してからの動向:
   毎日のように演習を行っていた。昭和12年6月の集合写真は、
   日出生台(現在の自衛隊の演習場があるところ)で撮影したもの。
    → この写真には後に南京で負傷/戦死した人の名前が書かれて
      います。(祖父の手書き)

 ・入隊した頃は二等兵で、後から一等兵になった。

 ・九二式重機関銃について(写真あり):
   当時は最新式の機関銃であった。とにかく重たかった。



191 138 sage 2005/09/25(日) 02:22:42 ID:IF1bPBM/
【中国上陸から南京まで】
 ・所属は、第6師団。所属の続き(なんたら歩兵連隊)は忘れたが、
  大分出身の人が多く含まれる部隊にいた。
  同僚に沖縄出身の人がいた。朝鮮人はいなかった。

 ・谷タタキ氏(←漢字判りません)が師団長であった。(写真あり)

 ・最初は北支那に上陸した。
  万里の長城(と思われるもの)を見た覚えがある。(←記憶曖昧)

 ・参考文献1 P29の日本軍(第13,第16,第6師団)の南京追撃経路 の図を
  見せたが、図の通りの経路を通ってきたのかは覚えていないとのこと。

 ・行軍は大変だったとのこと。具体的にどう大変か聞きたかったので、
  「参考資料によると、『ぬかるみとかで路面が悪くて大変だった』と
  書いてるけど?」と聞くと、「そうそう」と答えた。

 ・行軍途中、徴発を行った。具体的には、10数名の食事を賄うため、
  2~3名の兵士が一足先に向かい、食料を調達し、食事を用意した。
  現地人が使う大きな中華鍋を使った覚えがある。



192 138 sage 2005/09/25(日) 02:24:02 ID:IF1bPBM/
【南京での戦闘】
 ・戦闘に参加した場所は、具体的な地名は覚えていないが、城壁の近くに
  クリークがあるところであった。

  ※ 参考文献1 P37の中華門の写真が当時の情景に近いことと、P40にある
    日本軍の攻撃および中国軍の退路図 で第6師団が中華門(南門)を攻撃
    している記載があることから、中華門付近ではないかと考えられます。

 ・3人乗りの小さな舟でクリークを渡ろうとするが、川を渡りきらないうちに
  ふくらはぎに銃撃を受け、野原のような広いところに連れ戻された。
  (野原とは、上述の中華門の写真でいう右側のようなところ)

 ・一緒に舟に乗った沖縄出身の同僚は戦死した。


この後祖父は負傷兵として南京に入場するのですが、私の方が力尽きて
しまったので、続きは後日にさせてください。m(__)m

あと、第6師団が日本から南京までどのような経路を辿ったのかが判る
資料やホームページがあれば教えてもらえませんでしょうか?

よろしくお願いします。



193 我儘土木地質屋 ◆hEhpWu8cPo sage 2005/09/25(日) 02:29:39 ID:aDB1/MKH
>>192
お疲れ様でした。生の声は参考になります。
お休みなさい。



198 マンセー名無しさん sage 2005/09/25(日) 08:25:38 ID:elgh5a/X
>>192
138氏お疲れ様でした。お話聞けてよかったですねぇ。
続きもお待ちしております。



199 マンセー名無しさん sage 2005/09/25(日) 09:08:29 ID:nMs6hnoZ
>189‐192
乙であります。

>あと、第6師団が日本から南京までどのような経路を辿ったのかが判る
>資料やホームページがあれば教えてもらえませんでしょうか?

(‐@∀@)ノ ちょっと探してみます。



200 猪口酔侯 ◆.xOp2Okxb6 sage 2005/09/25(日) 09:39:37 ID:TSuqidLr
>>189-192
お疲れ様でした。続きを期待しております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その2

2005年10月22日 | 2ch
【補足】
 基本的に該当スレッドのコピペですが、改行位置や、誤字、2ch用語については
 勝手に修正しているところがあります。



138 マンセー名無しさん 2005/09/23(金) 10:58:09 ID:eDfgUWOn
私事で恐縮なんですが、ハン板住人の方に依頼です。

うちのじーさんは、戦争時代に兵隊として大陸に渡り、中国で負傷して帰国した
過去があります。(消防時代に当時の写真や逸話を少々見聞きしたことがあります)

そのじーさんも老齢で入院中の身となり、恐らく先も長くない状況です。
生きているうちの当時の状況を聞き残しておきたいと思って昨日話を聞いたところ、
何とうちのじーさん、朝鮮に渡り、南京攻略戦に参加した経緯があるそうです。
# 身近にそういう体験者がいるとは知らなかった。_| ̄|○

当時の朝鮮兵や南京戦に関する証言が聞けるチャンスなのですが、
いざ聞こうとすると、何から聞いていいのやらで頭が混乱しています。
(当方、ハン板住人ですが、歴史や軍事に詳しい訳ではありません)

明日にでも詳しい話を聞きに再度お見舞いに行く予定なのですが、
みなさんの方で聞いておきたいことがあれば代わりに聞いてきますので、
希望される方はレスください。スレ違いでしたら誘導ください。

よろしくお願いします。



139 通りすがり。勝手に回答 sage 2005/09/23(金) 11:26:24 ID:o6bHV64/
さぞやご苦労なされたでしょう。無理はしないでね。なるべくたくさん見舞いに
行ってね。

入隊年月日
所属部隊名 再編成があったか、なかったか。
当時の上官名、同年の名前兵、最年少かそれに近い兵の名前
攻略戦の始まった日
南京入場の日
南京から離れた日
南京攻略から離京までの戦闘状態。参加状況
その間に見聞きしたもの。そのとき一緒にいたものの名前
その当時南京にいて現在日本に住んでいそうな者。

しかしだいぶ記憶が薄れていると思われるので、当時の南京の町の見取り図か写真、
当時の新聞などを持っていくとよいが 逆に記憶を補完してしまう恐れアリ。
一日にひとつ、またひとつと「見聞きしたことをすべて残したい。公平に当時のことを
知りたい」といって 本人が思い出したい順序で聞くのがいいとは思う。
「民俗学の昔話の採集」に例をとって聞くのが吉。
あせらず、何回でも聞きに行く。そうしているうちに本人もだんだん思い出してくる。

しかし、本人が思い出したくないことだったり、つらいなら事情聴取みたいなことはしない。
話す気になれば自然と思い出す。
お年よりになるとはかまってもらいたくて自然と話を相手の聞きたいことをいってしまう傾向アリ。 
簡単でスマソ



141 マンセー名無しさん sage 2005/09/23(金) 12:32:56 ID:CBy2OAev
>>138
漏れも歴史勉強中です。なので内容についてのアドバイスは出来ませんが、
爺様に逝かれてしまった先輩(嫌な先輩だけど)から言わせていただきます。
しゃべってくれる時には、どんどん話してくれます。
こちらの時間もおかまいなしにw。でも、聞いてあげてください。
自分の時間を優先して席を立つと必ず後悔します。
充実した時間を過ごされますようにお祈りしております。



142 マンセー名無しさん sage 2005/09/23(金) 12:38:30 ID:uDWycwqx
>>140
その質問は中国様の許可を(ry

>>138
(‐@∀@)ノ

南京攻略後、恐らく南京に駐在したと思うのですが、
そこで何をしてたのか、何を見たのか聞いてきて欲しいと思います。

おじいさんをお大事に。



143 マンセー名無しさん sage 2005/09/23(金) 12:49:59 ID:5h1ywjpm
あとで確認できるように録音録画できるならしておいた方がよろしいかと。



146 138 2005/09/23(金) 13:29:30 ID:lM2sV03e
>>139,141-143
コメントありがとうござまつ。
漏れは関東在住で、祖父は九州にいます。今回はたまたま友達の結婚式で九州に
帰省している状態なので、今回のヒアリングチャンスを逃すと、次はお正月に
なりそうです。
だから今のうちにまとめて聞いておきたいと考えています。

昨日の夜に「アルバム持って行っていいよ」言われたので、早速持って帰りました。
あと本屋で、 南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修道・小林進・福永慎次郎)
という本を買って、さわりの部分を読んだところです。

南京事件が起きたのが昭和12年12月で、昭和13年3月撮影した小倉の病院時代の
祖父の写真があるので、その間に引き上げてきたものと思われます。



159 マンセー名無しさん sage 2005/09/23(金) 17:03:40 ID:hplAVhlK
>>138
お言葉に甘えて

南京 戦線後方記録映画
製作 : 東宝映画文化映画部
収録時間 : 56分
発売元 : 日本映画新社
ストーリー:半世紀以上の時を経た数々の歴史的映像を収録し、戦前・戦中の記録を
伝えるドキュメンタリー シリーズ第4弾。昭和12年12月の南京入城後の日本軍と
荒廃した市内のリアルな映像を収録。今なおその存在の有無が争われている
“南京大虐殺”を巡る話題作。
↑ ご存知でしょうか
この中には神主さんが神式の葬儀?を行なっている場面や、正月用の蜜柑や樽酒、
餅等、日本から送られたものを荷揚げしている場面、更に餅つきやお飾りを作って
飾っている場面や捕虜になったシナ畜にタバコを与えている場面も在ります

そこで依頼です
1 神主さんが何処の神社から来られたのか お名前は?
2 日本から送られたものは何処から送られたのか
3 注連飾り等の正月の用意はしていたのか
4 捕虜になったシナ畜の待遇はいかなものか
覚えておられる範囲で結構ですので聞いて見て下さい

 それによってこのDVDの信憑性が増し南京など所詮まやかしであるとの更に
裏づけになります

宜しくお願いします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖父の戦争体験談を聞いてみた・その1

2005年10月22日 | 2ch
【はじめに】

私には90歳近くになる祖父がいます。祖父は戦時中、中国に行って戦争をし、
負傷して帰ってきたという話は、子供の頃から何度か聞いたことがありました。

その祖父も体調を崩して入院し、耳もかなり遠くなってきているし、
私は遠く離れたところに住んでいて簡単にお見舞いに行ける状態でもなく、
いつ永遠のお別れが来てもおかしくない状況になりました。(;_;)

そのため9月の連休に(友達の結婚式で)帰省したときに、祖父を見舞うついでに
当時の体験談をしっかりと記録しておこうと思い立ったのでした。
そして最初にお見舞いに行った日に祖父と軽く会話したをしたところ、
なんと祖父が南京攻略戦に参加していたことを初めて知ったのです。

南京攻略戦というと、日中戦争当時の中国の首都南京を日本軍が攻め落とし、
その後「南京大虐殺」と呼ばれる行為があったのか、なかったのかと議論されて
いる(そして今でも日中間の火種になっている)舞台となったところです。

「これは、祖父の見聞きしてきたことが貴重な証言になるかもしれない」と勝手に
色めき立ったのですが、あいにく私には南京事件の論議に加われるような知識も、
当時の日本軍に関する知識も無い状態なので、何を聞いて良いのやら…と頭を
悩ませていました。

そこで歴史に詳しい人がいる、2ちゃんねるのハングル板(本来は朝鮮半島関係の
ネタを扱うところですが)で質問してみたところ……というのが、これから記載する
内容のお話です。

スレッドを立てる迄も無い質問・雑談(58)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1127011524/

このスレッドの138が私なのですが、スレッドの中で私の話題に関する部分を
次記事以降に転載(コピペ)します。


【2005.10.23 追記】
話の中に出てくる写真については、その12にまとめています。
追々文中にも写真へのリンクを追加しようと思いますが、まだ未完成です。
ご容赦ください。(ご不便おかけします)

また全記事はブログ12ページに及ぶ内容になっています。続きを読む場合は、
ブラウザ右下の「次のページへ」のリンクを辿ってください。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする