ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

君がため命死にきと世の人に 語りつぎてよ峰の松風  奎堂  「天誅組」

2024-05-28 05:06:12 | 草花

先日、刈谷市歴史博物館というところを見てきました。 ↓

そこに幕末に名を馳せた郷土出身の武士の功績が展示されていました。


尊王攘夷の「天誅組」の構成員のこのお二方です。:

総裁 松本奎堂 ↓

1832年生まれ(~1863年 33歳没)

 

 

決死隊の副隊長 宍戸弥四郎 ↓

1834年生まれ(~1863年 31歳没)

1858年の不平等な日米修好通商条約の締結以降、安政の大獄、桜田門外の変(1860)を経て、1863年は尊皇攘夷運動が最高潮に達した時期で、孝明天皇の「大和行幸」の詔(みことのり)が渙発されるに至ります。

これは古代より祭礼に勅使が派遣されていた大和の神武天皇陵、春日大社、伊勢神宮に天皇自らが赴いて攘夷の成功を祈願し、攘夷倒幕の兵を挙げるという、かなり無理筋な計画が画策されたものでした。
(この計画は孝明天皇の真意から出たものではなく、長州藩に気脈を通じる三条実美ら急進的な攘夷派公卿が主  
 張したものだったので、天皇は憔悴のため、ろくに寝食も取れない状態となったそうです。)

このあと天誅組組織の総裁となる三人、吉村虎太郎、松本奎堂、藤本鉄石らは「大和行幸」の先鋒となるべく「皇軍御先鋒」を組織して大和国へ赴くことになります。(「大和義挙」)

大和国の大部分は幕府の天領であったため、「行幸」に先立って幕府代官を討って大和を平定し、幕府が支配していた土地と人民を朝廷に返上し、兵を募って御親兵として天皇を迎えようとしたのです。

天誅組は8月17日に大和の国五條に到着し、五條代官所を襲撃したが、その直後、都では「8月18日の政変」により「大和行幸」は延期されてしまいます。
このために「大和行幸」の先鋒として挙兵した天誅組は、その活動を正当化する根拠を失ってしまいました。
そして、天誅組は孤立無援、あろうことか暴徒として逆に「追討の命」が下されてしまいます。

しかし、天誅組の幹部たちはこの「8月18日の政変」や「討伐の命」は天皇の逆臣たちの策謀であり、一時的なものであろうと考え、戦闘準備を整えていくことになり、兵士は一時1000人を超える規模になります。

その後、高取城攻撃に敗れ、時の経過ともに寄せ集めの兵士も続々と投降或いは離散して組織はバラバラになり、9月25日に藤本鉄石討ち死、松本奎堂自刃、9月27日に吉村虎太郎が被弾死と続き、総裁三人が亡くなって天誅組は壊滅します。

表題の和歌は刈谷市出身の天誅組総裁松本奎堂の辞世です。  

天誅組の日本史の中での歴史的意義は重大なものではなかったかも知れませんが、


1.尊王攘夷の倒幕運動の組織的な武力蜂起のはしり
2 .幕府の威光の失墜を更に進行させた
3.明治維新の先駆け
         と言ったような意味があるように思います。

 

27日深夜(日付が変わり28日午前0時頃)の月 ↓

だいぶ痩せてきていますね。月齢18.5.

コメント (10)
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