ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

フクジュソウの初々しい花を見る事ができました。

2014-01-31 13:56:38 | 草花
昨晩の雨が上がり、朝から強めの風が吹いています。
そんな中ですが、日差しはしっかりしたものが届いていて、蕾を開き始めているフクジュソウのことが気になり、ワクワクして過しています。

午前中に庭に出てみるとフクジュソウのこんな姿がありました。 ↓

ついに「咲いた」・・・・と言うレベルになりました。



もう少し近付いて ↓

初々しい姿をじっくりと観賞します。



角度を変えて ↓

少し角度を変えて眺めます。福寿草はこれからあと沢山花芽が上がってくるようですが、今のところはこの一輪だけが魁となっています。



先日遠くへの見通しの良さそうな日に例の高楼に昇って来ました。 ↓

14階まで外階段を歩いて上って行きます。



木曽御嶽 ↓

少し靄がかかっていますがそれなりに見えています。



中央アルプス ↓

この山域はかなり霞んでしまっています。



恵那山 ↓

こちらもぼうっと見える程度です。



大川入山 ↓

恵那山の右隣にある峰ですがこれも見づらさがあります。



白山 ↓

この白山と下の伊吹山はまるで判じ物のような見え方でしかありませんでした。



伊吹山 ↓

こんな見え方になってしまったのは時間帯の所為ですね。朝もう少し早ければもっとすっきりとした姿が見えたことでしょう。
病み上がりですので、気温の上がった昼過ぎを待って出かけたのが”失敗”でした。
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ネット復帰  しばらくは超スローペースでポツポツと・・・・・・・

2014-01-30 12:06:58 | 草花
1月の12日の晩から体調を崩し、それがインフルエンザと判り、治療に専念し、18日頃には抜け出ることが出来ましたが、そのまま風邪症状が続き、ずっと寝たきりの生活を余儀なくされていました。
この28日に床を上げて、少しだけ外に出て見ましたが、本来の健康状態からは相当遠いところにあるようで、わが事ながら驚いている次第です。

病を得て一番痛切に感じることは気分が萎えきってしまうことでした。
そんな筈はないのにも拘らず、「このまま身体が駄目になってしまうのではないか・・・」とか塞ぎこみがちになりますね。

昨日は暖かい陽射しでしたので、お昼過ぎから気持ちを鼓舞して、外に出ましたが、まだ4000歩くらい歩くのがやっとのことですね。

これから少しずつ身体を慣らして行き、山歩きを楽しめるところにまで持っていけるのは一体どのくらいの日数が掛かるのか・・・・と、少し心配しながら暮らしていくことになります。

昨日外を歩いて見かけたものを二回に分けてアップします。
フキノトウ ↓

拙庭のものですが、一つだけもっこりと顔を出していました。



フクジュソウ ↓

これは27日の姿です。黄色みのある蕾を見つけてビックリしました。花が開くのは近そうです。



フクジュソウ ↓

これは昨日お昼過ぎの姿で、ついに蕾を開き、日のめぐみを内部に取りこんでいますね。



ソシンロウバイ ↓

道沿いの民家の庭先にて花が咲きはじめていました。



ソシンロウバイ(近写) ↓

そのお宅に断りを入れて、花の近くで撮らせてもらいました。
良い香りに包まれ、病が癒えて、外に出られるようになった喜びを感じています。



サザンカ ↓

民家の生垣で、花びらに模様の入ったサザンカの花を見ました。



アロエ ↓

寒空の下で花の穂を立てた、力強い姿を見つけました。



ユリノキ ↓

別名:半纏木でしたね。 これだけ強く剪定されると花を付けられそうもありません。
それが残念ですね。



クヌギ ↓

こんな時季でも未だ枯れ葉をつけています。ややむさ苦しい印象にもなりますが、これはこの木の特徴でもありますから、一つの景色として収めておきます。



金柑 ↓

近所の大きく構えた屋敷の高い塀の上から顔を覗かせていました。我が家でしたら、きっと食べてしまうことでしょうね。

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インフルエンザの病み上がり前の闘病中です。

2014-01-21 10:24:10 | 草花
しばらくネットを休んでいました。
その間はインフルエンザのために床に臥せって過しました。

こんなことの無いように昨年10月早々に予防接種をしておいたのですが、今回はそれが効きませんでした。
もっとも同時に予防接種をしていた山の神様のほうは大丈夫でしたので、予防の価値はなくはないのでしょうね。

14日の夕方から大変な熱発で完全にヨロヨロの状態でしたが、お医者の言われるように安静に過してはいました。
熱は二日ほどで収まりましたが、そのあとは頭痛が来て、おまけに身体のあちこちでズキズキ痛み出し、その痛みのために何日も夜が安眠できません。
これには相当ダメージを受け、土曜日についに救急医療センターに掛かり、頓服薬を出してもらいました。
この薬が強い薬で、病み傷んだ身体に連続服用は厳しいみたいで、現在は隔日で服用するようにしています。

現在はインフルエンザは抜けているそうですが、風邪なのか、それともインフルの後遺症なのか、まだ「病み上がり」までには届いていなくて、「闘病中」という実感があります。

※しばらくネット交流は自粛しておきます(時宜を得た応答ができませんのでコメント欄は閉じておきます)が、悪しからずお願いいたします。



フクジュソウ ↓

枯れ葉をどかしてみると福寿草の花芽が上がってきていました。このあとはまた枯れ葉を乗せておきます。




ピンクのツバキ ↓

椿の花はどんどん咲きつづけて来ました。



水仙 ↓

水仙ももう「遠慮なく・・・」と言う感じに咲いていますね。



シキミ ↓

シキミは花芽が膨らみ始めていますが、咲き出すのには未だ日数が要るようです。



カトレア ↓

カトレアがやっと蕾を開き始めました。もう少し暖かければもっと伸び伸びとするのでしょうね。選りによって大寒の今に咲いて来るのですから、元気がありますね。



恵那山 ↓

免停中の身ですので、山の神様に乗せてもらい、畑地に行きました。山方面は雲が取り付いていました。
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風に向かって漕ぐ 自転車で小旅行  境川浄化センターまで

2014-01-11 12:31:20 | 草花
昨(1/10)日、午後から自転車でちょっと走りました。
始めは、自転車で少し走り、適当な場所に自転車を置いて、そこから歩きまわろうと考えていましたが、向かい風が強くて相当苦労して自転車を漕いでいる内に、歩くことは諦めて自転車だけで済ませるしかないと言うことになりました。

近くを流れる猿渡川の堤防の上を南西方向に走り、衣浦湾の河口まで行ってみることにしました。
堤防の上ですから、向かい風は殊更に強くて、これは良い運動になります。

周回図 ↓

一筆書きして、これでおよそ23kmとなっていました。



最遠点は浄化センター ↓

今回の最遠点を境川浄化センターとしました。この場所は境川・逢妻川・五ヶ村川・猿渡川の集まる場所で、ここから衣浦湾が始まる場所です。



(ウミ)ウ ↓

川岸でウが独特の形に羽根を拡げて乾かしていましたが、自転車を止めて写そうとすると、羽根をたたんでしまいました。



堤防沿いの道 ↓

風に向かって漕いで行きます。下の流れは猿渡川で、水面にはカルガモ・コガモたちをいくつかの集団で見ることができました。




浄化センター配置図 ↓

この付近の7市2町の下水を集中処理する施設で、今建造中のものも含めて最終的には約65万人規模の処理人口を目指して、処理日量は約40万立米近くになるそうですが、現在は12万立米/日の能力だそうです。
我が家から出す下水もここに集まってきますが、そのことによって支払う水道料金は1.8倍に跳ね上がりました。



浄化センター管理棟 ↓

ここに来ると、下水処理の過程で出た汚泥を乾燥させて、肥料としたものを購入することもできます。今回はこの建物の中には入らず外周を川沿いに漕いで行くことにします。



最終流路 ↓

浄化センターで集まった下水を処理したあとの水はこのパイプを通って衣浦湾に放流排水されます。



放流口 ↓

放流口まで降りてみました。 処理された水は音を立てて衣浦湾内の水面に流入しますが、全くの透明ではなくて、やや薄緑色をしているように見えました。
そのほかに浄化槽で感じるような薬品臭もわずかに漂っていますね。



衣浦湾 ↓

処理された水が吐出されたあたりには水鳥が沢山漂っていましたが、画角の関係でここでは写ってはいません。

このあとは別の川沿いに遡り、刈谷の市街地を通過して家に戻り、着いたのは日没後のことでした。
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俳人 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう) と お酒の「國盛」

2014-01-09 15:59:28 | 草花
知多半島の地酒を飲んでお正月を過ごしました。
写真の「國盛」(くにざかり)というブランド名は、明治維新を経て、文明開化の頃に更なる発展を願い、命名されたと聞いています。

お正月のお友達 ↓

ところでこのラベルの文字は明治から昭和に掛けて活躍した俳人河東 碧梧桐の書を元にしていると聞きます。



河東 碧梧桐の揮毫 ↓

河東 碧梧桐の書が知多半島の半田市にあるいきさつですが、彼は大正9年(1920)全国俳句行脚の折りに半田を訪れ、この酒造会社に逗留しています。
そして蔵の敷地内で句会を催し、この「國盛」の揮毫を残したものだということです。


ここで、河東 碧梧桐のことを知りたくなりました。
以下三句は彼の代表的な句ではないでしょうか。

赤い椿白い椿と落ちにけり

亡き人の向ひをるよな火燵かな

曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ 


河東 碧梧桐は愛媛県松山市出身で正岡 子規の直弟子の一人です。

明治22年(1889)彼は、帰郷した正岡子規に野球を教わったことが
きっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句
を学び、俳句へ傾倒していきます。
以後、子規を師と仰ぎ、子規の没後に新聞「日本」俳句欄の選者を
受け継いでいます。
碧梧桐と高浜虚子の二人を、お師匠の正岡子規は:「虚子は熱き事
火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評したそうです。

碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧」と謳われたが、守旧派として
伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していったそうです。

碧梧桐は1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれ
ない新傾向俳句に走り始め、1906年(明治39年)より1911年(明治
44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行い、
独自の作風を追求しました。

また新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を
自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動
を共にしたりしましたが、やがて袂を分かつことになります。

こんなところになりますが、1920年に半田を訪れたときに詠んだ句はどういうものだったかそれが判りませんでした。
また学友にして同居したこともあり、同時に子規門下生になった親友の虚子と何故激しく対立することになったのかその理由も知りたいと思いました。
下世話なことになりますが、高浜虚子は1897年(明治30年)に、元来碧梧桐の婚約者であった大畠いと(糸子)と碧梧桐の入院中に親密になり結婚。・・・・これって二人の間の相当強烈な出来事ではなかったでしょうか。
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