渾沌滅七竅

生命ある無秩序を愛する渾沌。

思考停止の日本人

2022年07月31日 | 日記

先日の参院選挙の期日前投票の投票立会いでも、そうだった。

普段、銀行窓口に行くことは、まず、なかった。  最寄り郵便局の切手販売窓口以外は、あまりお世話になることはなかった。

行ってびっくり、下にも置かない風で、まぁ、手取り足取りお世話を頂く風で、辟易とさせられる。  判らなければ、こちらから訊くだけの話で、先回りしてあゝでもないこうでもないと畳み掛けてくる。  幼児じゃないので「自分で判断し、行動する自由を頂戴」と言いたくなる。

投票立会いでも同じ事。  投票者が、投票用紙を片手に一瞬たりとも立ち止まって周囲を見回そうものなら大変だ。  選管職員・選挙事務スタッフ等が、一斉に寄ってたかって声を掛ける。    黙って見守り、考えさせろよ、と言いたくもなる。   スムーズに誘導したいのだろうが、何かはき違えている風に思えてならない。

これは、都心の百貨店へ行っても同じで、放って置いて頂戴と言いたくなる程、うるさく付き纏う。

若年・熟年層と高齢者層とでは、見られ方、対応のされ方は違うのかも知れないが。

週刊誌でも似たことを仰る方がいた。  駅を利用しても「お願い」の連呼、更に、政府の節電、コロナ対策、マイナ・カード等の「お願い」等々・・・と何から何まで、数え上げたらキリがない程の「お願い」のオンパレードだ。    己の脳で考えれば判断出来ることまで、謂わば、箸の上げ下ろしまで、細かくイチイチ「お願い」やら「お困りでは?」とアプローチを受けるが、同根だろう。

他人への気遣い・思いやりとは異質で、「お・も・て・な・し」の吐き違いだろう。

己で「考え」、見極め、判断し、行動する癖が、コロナ禍を経て、以前に比べ一層萎えてしまっている印象だ。

識者に依れば、「日本社会の知性の劣化」と一刀両断。

 

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