早くも、既に、5日目だ。
時々、親鳥は巣を離れるが、基本的には在宅、抱卵。
ハクビシン、猫等が樹木に登らない様に、根元に防止ネットや針千本ネットを巻いておいた。 庭にヘビが出没するので気掛かりだ。 カラスは、いつもガタガタと人の気配があるので、近付かない筈。
早くも、既に、5日目だ。
時々、親鳥は巣を離れるが、基本的には在宅、抱卵。
ハクビシン、猫等が樹木に登らない様に、根元に防止ネットや針千本ネットを巻いておいた。 庭にヘビが出没するので気掛かりだ。 カラスは、いつもガタガタと人の気配があるので、近付かない筈。
コロナ禍の収束か経済かの2者択一ではない。 0か100ではない。
ウイルス根絶の新薬やワクチン開発が出来れば話は別だが、いつそうなるか見通しはないのでしょ。
ならば、仰る様に、ウイルスと上手く付き合って行くことになる。 それも自国だけの話ではなく、他国も含め、地球規模・グローバルな話でしょ。 この時代、自国だけで経済活動なんてあり得ないのでしょ。
日本では感染者が減ったり、増えたり。 感染者0が何日間か続いても、再発するのでしょうね。 当面、そんな繰り返しなんでしょうか。
0と100との、どこか中間で、感染拡大防止策と社会活動との折り合いをつけ、その比重を節目節目で見直しながら進んでゆくことになりましょうね。
身の回りを見た時、趣味の会等、「不要不急」だが、経済活動の側面を持っている。 コロナに慎重で安全に安全にと言っているだけでは能がなさ過ぎる様にも思うが。
夜の街でクラスター発生なんて、論外。
もう6月、今年の中間点まで差し掛かって来てしまった。
先日、植え替えやら、新たに挿し木をした鉢のポインセチアの新芽が動き始めた。 日当たりの良い場所に置き、新しい用土が乾き切らない様に、毎朝、チェック。
気温も上がり、新しい葉が俄かに目立ち始めた。 挿し木も何とか根付いて来ている様だ。 そろそろ肥料を与えてもいいだろう。
その調子で9月中旬までの約3か月半、しっかりと葉を茂らせ、その後、約2か月の短日処理を経て、赤い葉モドキを作り変身させたい。
市販品は、これでもか、と言わんばかりに赤一辺倒だが、プライベート製ポインセチアは赤と緑のバランスの取れた、納得の作品になるだろう。
マドンナも、きっと喜んでくれる筈だ。
ブルースハープ、暗譜レパートリーの追加に余念がない。
なかなか増えずに四苦八苦しており、手付かずの宿題曲は数多い。
漸く、「Caccini の Ave Maria」ヴァヴィロフ作 と 裕次郎の「赤いハンカチ」が、まずまずのところまで来た。
前者は、メロディーのみでアドリブソロは次のステップで、としたが、単調でフレーズの違いをなかなか覚え切らず、苦慮。 後者の場合、メロディーは問題ないのだが、前奏、第1間奏、第2間奏、後奏付きで、第1間奏には手古ずった。 前奏と同様、この曲に彩り変化をもたらす大切なパートになる様な気がしたので、何としてもクリアしたかった。
どうしても、安易に好きな曲に流れ勝ちだが、今年後半、2曲程度は宿題曲にチャレンジだ。 複音のベテランが、せめて1年1曲は、新曲を仕込みたいと仰っていたことが、いつも脳裏をかすめる。
「宣言」解除を受けて、教室再開に向け動き出した。
ウイルスは根絶されず、ワクチン・治療薬は未開発ゆえ、コロナ禍が収束した訳ではないので、再開の為の明確な基準があろう筈もない。 暫く感染者が減ったり増えたりして行くのだろう。
趣味の小人数グループ活動だが、先生と生徒では、無論、姿勢が違う。 生徒が安全に安全に、もう少し様子を見よう、と言えば、そうかも知れないし、7月以降になったら収まる保証がある訳でもなく、今と然して変わらないかも知れないので、ならば、ガイドラインに沿った出来るだけの対応策を講じつゝ、慎重に再開するか。
「緊急事態宣言」の「発令」であり、「解除」だったので、状況を見ながら、徐々に動き出してゆくことになるのだが、見ようによっては、お金や健康の絡む難しい判断となる。
尚、福祉施設でのボランティア演奏は、不要不急、更に慎重にならざるを得ず、これこそ、まだ先の話だろう。
27日の朝から抱卵開始の様子で、3日目。
小振りなヒヨドリの感じからメスなんだろう。 何時間おきかにチョット巣を空けるが、ずっと4個の卵を温めている風だ。
洗濯場の脇で、ガタガタと音を立てるが、脅すわけでもなく、これがヒヨドリにとっては良いのだろうか。
今のところ、順調に経過。
あゝ言えばこう言う、ではないが、何を以って「意図せざる」と仰るのだろうか。
日本には、高度な医療体制や国際的に活躍の経験豊富な医師や医療・医化学研究者、医療従事者、更には、世界で最も充実した国民皆保険制度がある。
幸か不幸か、最近は、感染症の世界的大流行に巻き込まれることはなく、安全・平和な安心日本だったので、降って湧いた様な大流行に対応する医療機器、扱う医療従事者や病床数は経済合理性の追求下、あり余る程潤沢ではなかっただけで、内情を熟知していたが故の「日本なりの対応」だった。 いずれにせよ、結果がすべて。 死者0が最上だが、少ないのはまだ救われる。 死者数万人、十数万人とは訳が違う。
言うに事欠いて、事情無知の臍曲がり論評は、願い下げだ。 いちいち反論しないのが日本的だが、時と場合により、キチンと論理的に先方の不備を論破しておくことも、世界を生き抜く上では重要だ。