読めない「書」を巡って、師匠と大議論。
日本の代表的な書道展でも話題になり、至極、当然のテーマだと理解していたので、かつて、この様な議論になった試しは、内々ではなかった。
平安時代を中心に前後における国風文化勃興時の「書」は、我々に馴染みがなく、現代人には読めないし、必ずしも理解出来るとは限らない。
従って、「書道離れ」が起きていると理解しているが、「書」に没頭している連中には無縁の様で、自身が楽しんでいるという点では、何ら問題はない様だ。 従って、自身で当時の「万葉仮名」の和歌を書いたにしても、何と書いてあるのか理解せずに書くので誤字等が判らず、原文とは違った詩に仕上がったり、多くの場合、いつの時代の、どなたの詩で、どういったことを、どんな想いで謳っているのか等、詩の意味すらも解らずに書くことは、日常茶飯事らしく、どうでも良いことらしい。 素人の私には、全く理解不能。 まず、何と書いてあるのか読みたいが、当然だろう。
墨の濃淡、用紙、筆、余白の使い方・バランス、筆運び・点画・伸び等々が頭にあって、先に述べた様なことは眼中にないらしい。
従って、書道展開催に当り、出品目録や各作品の説明書きを準備する事務方としては、出品者に照会し、ご来場の鑑賞者が感じる(だろうと思われる)上記の様な点を掻い摘んで紹介したいと考えるも、話が噛み合わないし、「成る程」と言った話が返って来なくて、イラつく。 門前の小僧の大誤解、認識不足か?
今後、書道人口は更に減るだろうな。 昭和という大戦争を挟み、一から出直しの時代は、日本の歴史の中で最も過酷な時代で、「書」もそんな時代に脚光を浴びたかだが、既に昔話なんだろう。