#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【南国ドロップス】祈り -an anonymous song-

2008-06-17 | MUSIC
夢を成し遂げる 強さ求めたけれど
つつしみ学べと 弱さを得た

大いなること為す 身体望んだけれど
よりよく生きよと 病を授けられた

求めたもの得ずとも 願いはみな叶った
私こそが一番 恵まれし者


幸せになろうと 富を求めたけれど
賢くあれよと 貧しさ得た

誉められるほどの 力望んだけれど
天の助け知れと 不器用さを手にした

求めたもの得ずとも 願いはみな叶った
私こそが一番 恵まれし者
心の祈りはいま届いた 生まれてよかった

人生を楽しむ 術を求めたけれど
生きる理由知れと この道歩いてゆく


A creed for those who have suffered
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【DEUTSCH】ドイツから得たもの

2008-06-17 | MUNICH
3月17日。くもり。
市街地でドイツ土産を物色。

トラムで移動して、
アンティークショップや
古着屋を見て回る。

60euroの古着のジャケットを発見。
おお、約1万円!

この時期euro高騰で1euro172円!
それでも何か手にしたい…そんな衝動で
一目惚れのジャケットを購入。

みんなへのお土産も
スーパーで購入。
大量買いはスーパーが一番。

   ●

3月5日から17日までのミュンヘン滞在。
約2週間弱のあいだに、
ルートヴィヒのお城を堪能し、
第三帝国の残した負の財産を目の当たりにし、
ミヒャエル・エンデの真摯なまなざしに心打たれた。

どれもドイツのエキセントリックな部分。
その中で、エンデの姿勢だけは
ドイツ人の本来持ってるきまじめな目線だと、感じた。

エキセントリックな部分があるからこそ、
エンデの思想も花開いた。
そんな気がする。

東ベルリンに10日間滞在したときは、
独自の道を歩む首都ベルリンの活気を強く感じたが、

今回は、成熟した街、充足した街、ミュンヘンの
予定調和な部分、慣性に任された部分、置き去りにされた部分…と、
過去を振り返させる要素が多々あり、
とても考えさせられた。

人間をみつめる上で
欠かせない要素が詰まったドイツ。

   ●

週末、沖縄県芸術大学で開かれていた
ウォルサー・モーリッツ個展
を見に行った。

ミュンヘン芸術大学から来た交換留学生で27歳。

ドイツ・ミュンヘンの土壌から沖縄はどのように映ったのか…。
作品のスタンスは極私的で、沖縄の繊細な部分への興味も
感覚的なところに留まっていたが、「沖縄」が彼の中で育まれ、
ミュンヘンで花開くこと…を期待したい。

そして、ボクの中でも
ミュンヘンが開花することを。





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【DACHAU】レクイエム

2008-06-14 | MUNICH
3月16日。
沈痛な面持ちで
クレマトリウムを後にする。

有刺鉄線には、
誰かがその思いを
花に託したのか、

白バラが手向けられていた。




      「白バラ」潔白の証。




独裁による極端な思想が
12年間もの間、ドイツを翻弄し、
民族浄化の名目で1100万人を死に至らしめた。

その渦中にあった市民は
どれだけの恐怖を味わったのだろうか。

ボクたちにできることは
この史実を、しっかり後世に伝えること。
そして、死者を想うこと。
メメント・モリ。

人類最大の過ちを二度と繰り返さぬよう、
この記憶に刻み、伝え歩くこと。

「無知」なる涙をもって
自らの存在を見つめること。



      そして、与えられた命を全うすること。



無念の意志を受け継ぎ、
その懊悩を解放してあげることだ。

そのためにも、固まることなく
前を進んでいく。…それが、大事。








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【DACHAU】そして、クレマトリウム

2008-06-14 | MUNICH
3月16日。日曜日。
すでに3時。来館から4時間が過ぎた。

囚人棟が立ち並んでいたあたりの
糸杉並木をそのまま先まで歩く。

左手には、クレマトリウム。

crematorium…火葬場。

ナチス的にはガス室も含まれる
「死」処理施設。

これも当時のまま、残されている。

近づくと、浮遊する「魂」に押しつぶされそうな
…どーんっっと重い空気が、肩や背中にのしかかる。



        焼却炉。



虫の息となった極限状態の囚人を
手前の梁にぶら下げ、絞首し、
息の根を止めてから、焼却した…という。

生きたまま焼却することもあっただろう。



      「死」処理場。



シャワー室と偽って(なんと見え透いた!!)
ガス室に裸の囚人を放り込み、死に至らしめる連中だ。
大量殺人を処理したのは、先程の独居房の連中。
(ダッハウではガス室の使用はなかったとされる)

収容所は元々ドイツ復興(民族浄化)の
「前向き」な目的で作られた施設である。

"ARBEIT MACHT FREI"「労働は自由をもたらす」

ドイツのために労働できない人間は
「死」しか選択肢がなかった。

女や子どもはそのまま
ガス室に連行され、
服を脱がされ、「死」処理された。




       アウシュヴィッツでは
      600万人ものユダヤ人の「死」
         が処理された。



          600万だ。
          桁が違う!
     

        ホロコーストである。
         絶滅収容所である。
 

福岡県の人口以上の人間が
人為的に強制「死」処理されたのだ。
ユダヤ人だ…という理由で。


     やばい、心臓がバクバクしてきた。
     もはや、この場所には居られない。




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【DACHAU】独居房

2008-06-14 | MUNICH
3月16日。日曜日。
すべてが灰色に包まれた午後。

当時の状況を物語る独居房の棟へ。

ダッハウ強制収容所には
最大時40000人ほどの囚人が送り込まれたが、
それだけの数の人間が集まると、
もはや統制を取るのは難しい。

区切られた村のようなものだ。

そこで第三帝国は
囚人にランクを付け、
上下関係を構築することで
囚人が囚人を管理するシステムを作った。

この独居房は
主に政治犯が収められた。

共産主義者など
政府の政策を糾弾し、
捕らえられた者たちだ。

他にカトリック教の牧師が
3000人ほど拘留された。

第三帝国にとって
神は不要だった。

そのように捉えられた
博識ある人間たちは
政府にうまく利用された。

巧妙な取引で
命を細々とつなぐ
…そんな状況下に追い詰められた。

巧妙なだけに
信頼を失うと
極悪な刑に処せられた。

cell-roomといって、
細胞のように細かく区切られた
立っているのがやっとのような細長い空間に、
水も食事も与えず放置され、餓死するのを待つ刑。

睡魔に襲われ
横になりたくても
膝を曲げることすらできない。

足の筋肉が衰え、
関節が炎症を起こし、
もはや立つことすらできなくなる。

そのような究極の状況で
人間はどのような対処をして
死を受け入れるのだろう。

朦朧とした意識との格闘。
死を待つしかない究極の懲罰。

コンクリートの壁に残された
数々のひっかき傷や凹みが
…その懊悩を…訴えていた。



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【DACHAU】生きる糧

2008-06-12 | MUNICH
250人収容の施設に、
これだけの風呂場…とトイレ。

風呂もトイレも
完全管理の中で
時間を与えられて
処理していたのだろう。

汚物臭と体臭と
さまざまな臭気が
混じり合い、

どんどん人間性が失われていく。

嗅覚って実は
神経と直結な部分で
おぞましい臭いに長時間紛れると
完全にイカれてしまう…と思う。

それだけ人間は臭いに敏感だ。

このような劣悪非道な環境下で
250人、いや1000人、1600人…という
大量な囚人の汚物臭や死臭、体臭が
入り交じっていたのか…と思うと
吐瀉しても吐瀉しても、吐き気は収まらない。

「生きる」糧など、あったもんじゃない。


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【DACHAU】ストライプ柄

2008-06-12 | MUNICH
ET KING 「晴レルヤ」

3月16日。日曜日。
縞模様の曇り空。

1945年4月29日。
連合軍がダッハウを解放する。

アメリカのテクノロジーを見せつけるがごとく
当時の記録係は、最新のカラー映写機で
解放されたダッハウ強制収容所をつぶさに記録した。

その映像が今、目の前で放映されていた。


      カラーである。


戦慄を覚える…とは、このことを言うのだろう。
生命力がひからびた人間の表情とは、
こんなにも色気の引いたドス黒いものなのか。

骨と皮だけになった四肢をぶら下げ、
心も体も潤いを失い、
脂肪という蓄えもあらかた奪われ、
正気と狂気が入り交じった「生きたモノ」。

解放を歓ぶ輩も、もちろん居るが、
そのような気力も完全に失われた…
…たとえ解放されてもわたしの死期は変わらない…
…とでも言いたげな絶望を露わにした「生きたモノ」。

250人定員の囚人棟にぎゅうぎゅうにされ、
汚臭と死臭にまみれた空間で、
生きるための欲望も完全に剥奪され、
口に入れるも、尻から出すも、欲しなくなった「生きたモノ」。

人間、堕ちるところまで堕ちると
こんな状況にまで堕ちることができるんだ…と
目を覆っても、覆っても、脳裏から再生される。

そんな最低レベルの生活を、カラーで目の当たりにした。

どれだけの数の人間が、「死体」として山積みされているのか…
この手は、この足は、いつまで生命を宿していたのか…
「死」を恐怖と感じなくなると、人間はどこまで無神経で居られるのか…

なにからなにまで、自己の範疇を超えている。

広島の原爆直後の惨状を、連合軍が記録したカラー映像も見たことはあるが、
黒こげになった「生きたモノ」が水を求めさ迷う地獄は、
完全に想像の域を超えていた。

しかし、このすざまじい数の死体は、
生々しいだけに、逆に想像域内に収まってしまっていた。
ただ、認めたくなかった。

このような惨状が、75年前のこの地で
ド派手に繰り広げられていた…とは、
自分自身が認めたくなかった。

     しかし、しかしである。

     あああ、なんということか。


浅はかなクリエイターどもよ。
ボクは「ET KING」なるバンドのPVを
屋外ビジョンで目にした時、背中に戦慄が走った。

     なんだ、そのストライプ柄は。

1945年4月29日のダッハウ解放のカラー映像。
そこで画面を横切る収容者は、どのような服を着て、
怨念の目をレンズに向けていた…というのだろう。

そのような想像力は、働かなかったのだろうか?

囚人の象徴として、ストライプ柄を着せたスタイリストは
ダッハウやアウシュヴィッツの囚人服をまさか参考にしたのだろうか?

     あれだけの惨状の象徴としてのストライプ柄を、
  「ET KING」なるバンドは嬉々として身に纏ったのだろうか?

いったい、どんな気持ちで、
彼らはこの史実を受け取るのだろう。

「無知」なる涙を流したのは、永山死刑囚だった。

しかし、日本国民がこのPVに違和感を覚えることなく
曲に合わせ無神経にケツを振り回しているかと思うと、

 インターネットが進み、情報が多岐に交錯しても
 世界を知ることの難しさ、世界を理解することの難しさは
 決して変わらないのだ…と思い知らされるのだった。


 















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【DACHAU】囚人棟

2008-06-12 | MUNICH
3月16日。日曜日。
死者の魂が
両肩にのしかかる…そんな重たい天気。

遠景より
再現された2棟の囚人棟を眺める。

ただのプレハブだ。

この極寒のドイツで
この収容施設は、
まさに地獄。

死体が転がる中で、
明日は我が身…と
生きる望みを失っていく。

その諦めが死期を早めるのだろう。


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【DACHAU】驚愕の連続

2008-06-12 | MUNICH
3月16日。日曜日。
鉛色のどんよりした天気。

強制収容所に
足を踏み入れる。

展示棟となっている建物は
ドイツ側の管理棟と思われる。

囚人棟の32棟はすでに取り壊され、
今あるモノは2003年に再建築されたもの。

かつての囚人棟は
コンクリートの土台を残すカタチで
その規模を再現していた。

1933年建立。
今から75年前。

1945年の解放までに
32099人が収容所内で死亡。
約1万人が疫病、栄養失調、自殺などで
ダッハウ周辺で息絶えた。

第三帝国の情勢が非常に厳しくなった1941年以降は、
政治犯や異分子がどんどん送り込まれ、
定員250人の囚人棟に約1000人が詰め込まれていた…という。

その大半はチフスなどの疫病にかかり、
食事も満足に与えられず、劣悪な環境の中で
どんどん死に追いつめられていった。

収容所内には巨大な焼却炉施設が併設され、
日に100人単位の死体が処理されていたが、
それでも追いつかず、死体の山がそのまま放置されていた…という。

まざまざと見せつけられる映像の数々。

ストライプ柄の囚人服をまとった群衆が、
死体脇で貧相にカメラを見つめた写真。

そこには「生きる」ことの意味すら、失われていた。

折り重なる手足、それを一輪車で運ぶ囚人。
囚人棟の室内いっぱいに積み重なった死体。
その脇で、目だけをギョロギョロさせ、
盛んに身体をひっかいている。

シブヤのスクランブル交差点…あの雑踏が
そのままこの収容所にあるような、そんなありさま。
最大時は40000人もの人間が、この区域に閉じこめられていた…。





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【DACHAU】ダッハウ強制収容所

2008-06-11 | MUNICH
3月16日。日曜日。
昨日と打って変わって、
雨模様の天気。

今日は、気合いを入れて
ダッハウ強制収容所へ。

ナチスの真髄を知るべく、
朝から列車に乗り込む。

ミュンヘン中央駅からS-bahn 2に乗り、ダッハウ駅へ。
さらに強制収容所行きのバス(724番か726番)で終着へ。

"ARBEIT MACHT FREI"「労働は自由をもたらす」

重々しい鉛色の空に、
重厚な鉄のトビラと
このスローガン。

これからはじまる
強制収容所の全貌を
予告するかのような
背中にドシッと来る情景。

このトビラは決して忘れることができない。




Dachau Concentration Camp Memorial Site (de)
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【SALZBURG】見よ、この絶景!

2008-06-10 | MUNICH
3月15日。土曜日。
快晴。

滞在中でもっとも晴れた。
ものすごく、気持ちの良い空。

ザルツブルクの駅は、
ミュンヘンとは違い、
雑然としている。

ナムチが言う。「経済力の違いだね」

ミュンヘンは自動車業界が牽引しているので、
全体的に所得も高く、余裕がある。

街も整然としているし、道路も広い。

その点、ザルツブルクは街並みのスケールも
道路の広さも、店舗の規模も、こぢんまりしてる…と思う。

しかし、しかし、
このアルプスを間近に見たら!

街のスケールってそんなところじゃ測れない…そう思った。

天気が良かったから、なおさら!
天地がぐぐぐぐーっと押し広げられて、
視界がががががーっと左右に拡大して、
地球の丸さが、どどどどーんと体感できた!

まさにそんな感じ。

いきなり目の前に広がったアルプス。
こんな山々のお膝元で、毎日を生活してたら、
自分と世界を対等に扱うだなんて、考えつかない。

息を呑む美しさ…とは、このこと。


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【SALZBURG】振り返ってみると…

2008-06-10 | MUNICH
3月15日。土曜日。
ヨーロッパ最後の週末。

3月5日から10日間、
自由気ままにミュンヘン周辺を
散策してきた。

でも、この10日間、
毎日がとても刺激的で、
発見と感動がいつも心を振るわせていた。

今ふりかえると、
なんと贅沢な時間を
共有していたんだろう。

海外の地で
自分の感性を剥き出しにして、
人とふれあい、事象とふれあい、
生きている歓びを得る。

秋葉原で起きた無差別殺傷事件。

世の中が、自分の手中にある…とでも思ったのだろうか?
自分のふがいなさは、この世の中に原因がある…とでも思ったのだろうか?

  この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
  世界はきみを入れる容器ではない。
  世界ときみは、二本の木が並んで立つように、
  どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
  きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。
  それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

海外に降り立つと、
自分の存在の小ささを感じる。
世界がボクのために存在する…だなんて
とてもじゃないが、思えなくなる。

異国の地では、あまりに無力で、あまりに無能だ。
言葉が通じない…という、そのことがどれだけ凹むか。

それでも世界は、無力な人間に
感動的なシーンを見せ、感動的な体験を与えてくれる。
異国に降り立つだけで、ただそれだけで、
感受性のすべてが開き、感動の針が大きく揺れる。

生きているそのことが、こんなにすばらしい…と感じられる。

秋葉原の歩行者天国に突っ込む前に、
なぜ、そのことが見えなかったのか…。

17人もの人間を巻き添えにする前に、
なぜ、そんなことがわからなかったのか…。

   無念で仕方がない。

ひとつには、日本の学校教育に
やはり問題がある…とボクは思う。

インターネットを操るだけで、
世界を知った気になっている…
そんな若者が、なんと多いことか。

海外より国内旅行を選ぶ輩が、なんと多いことか。

面倒、危険、難儀、知ってる…などと、
頭でっかちに世界を決めてかかる若輩が、
なんだか最近多くなっている。

その背景には、矮小な教育方針が見え隠れしてないか?
就職へのモチベーションを上げるべく、仕事の現場を覗かせたり、
体験をさせたりするのも結構。

しかし、その前に
自分は世界ではなんとちっぽけな存在なんだ…
…そんなことを、しっかり教えるべきなんじゃないだろうか?

   ホント、無念で仕方がない。

これで、彼もまた極刑だ。
異分子を抹消することしか、知らない。
病んだ日本の根本を見直すことをしようとしない。

   ある意味、彼も被害者だと、ボクは思う。




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【SALZBURG】列車で国境越え

2008-06-10 | MUNICH
3月15日。土曜日。
朝早く7時過ぎに中央駅へ。

今日はオーストリアは
ザルツブルグへの列車の旅。

東へ進むこと3時間ほどで、
モーツアルトの住んでいた地に着く。

途中の乗り換えもなく、
ひたすらバイエルンチケットで
車窓の変化を楽しむ。

ナムチ夫婦も
元気を取り戻し、
天候にも恵まれた
素敵な旅となった。


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奥武島海神祭 その4

2008-06-08 | Photo-diary
6月7日。土曜日。

「久米島の久米仙」と
同じレースに参戦したチームの中に
91歳のおじいがいた。

奥武島では名物おじい。

このおじいが奥武島のサバニを作っている。
しかも、人間国宝のお話が来るほどの職人。
さらに凄いのは、その話を断った…というから、驚き。

サバニの最後尾に坐って、舵取りをしていた。

91歳とはとうてい思えない動き。
微妙なさじ加減で、サバニを優雅に回転させた。

極めるってこういうことね。
笑顔が、とってもイキイキ。
カラダもしっかりしていて、
とてもご高齢には見えなかった。

おじい、すばらしい。




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奥武島海神祭 その3

2008-06-08 | Photo-diary
6月7日。土曜日。

昼過ぎになって、
職域レースがはじまった。

いわゆる一般参加のレース。

始めに奥武島出身者同士の
年代別レースがあり、

外国人ばかりのチームも参加したり…と、

熱戦が繰り広げられた。

天気も次第に回復し、
いよいよ「久米島の久米仙」チーム。

今年からの参加とあって、
事前練習まで行ったようだが、
結果はいかに。


健闘むなしく、惜敗。

腕がパンパンになるほど
櫂で漕ぐのは、力がいるらしい。

お疲れ様でした。



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