ET KING 「晴レルヤ」
3月16日。日曜日。
縞模様の曇り空。
1945年4月29日。
連合軍がダッハウを解放する。
アメリカのテクノロジーを見せつけるがごとく
当時の記録係は、最新のカラー映写機で
解放されたダッハウ強制収容所をつぶさに記録した。
その映像が今、目の前で放映されていた。
カラーである。
戦慄を覚える…とは、このことを言うのだろう。
生命力がひからびた人間の表情とは、
こんなにも色気の引いたドス黒いものなのか。
骨と皮だけになった四肢をぶら下げ、
心も体も潤いを失い、
脂肪という蓄えもあらかた奪われ、
正気と狂気が入り交じった「生きたモノ」。
解放を歓ぶ輩も、もちろん居るが、
そのような気力も完全に失われた…
…たとえ解放されてもわたしの死期は変わらない…
…とでも言いたげな絶望を露わにした「生きたモノ」。
250人定員の囚人棟にぎゅうぎゅうにされ、
汚臭と死臭にまみれた空間で、
生きるための欲望も完全に剥奪され、
口に入れるも、尻から出すも、欲しなくなった「生きたモノ」。
人間、堕ちるところまで堕ちると
こんな状況にまで堕ちることができるんだ…と
目を覆っても、覆っても、脳裏から再生される。
そんな最低レベルの生活を、カラーで目の当たりにした。
どれだけの数の人間が、「死体」として山積みされているのか…
この手は、この足は、いつまで生命を宿していたのか…
「死」を恐怖と感じなくなると、人間はどこまで無神経で居られるのか…
なにからなにまで、自己の範疇を超えている。
広島の原爆直後の惨状を、連合軍が記録したカラー映像も見たことはあるが、
黒こげになった「生きたモノ」が水を求めさ迷う地獄は、
完全に想像の域を超えていた。
しかし、このすざまじい数の死体は、
生々しいだけに、逆に想像域内に収まってしまっていた。
ただ、認めたくなかった。
このような惨状が、75年前のこの地で
ド派手に繰り広げられていた…とは、
自分自身が認めたくなかった。
しかし、しかしである。
あああ、なんということか。
浅はかなクリエイターどもよ。
ボクは「ET KING」なるバンドのPVを
屋外ビジョンで目にした時、背中に戦慄が走った。
なんだ、そのストライプ柄は。
1945年4月29日のダッハウ解放のカラー映像。
そこで画面を横切る収容者は、どのような服を着て、
怨念の目をレンズに向けていた…というのだろう。
そのような想像力は、働かなかったのだろうか?
囚人の象徴として、ストライプ柄を着せたスタイリストは
ダッハウやアウシュヴィッツの囚人服をまさか参考にしたのだろうか?
あれだけの惨状の象徴としてのストライプ柄を、
「ET KING」なるバンドは嬉々として身に纏ったのだろうか?
いったい、どんな気持ちで、
彼らはこの史実を受け取るのだろう。
「無知」なる涙を流したのは、永山死刑囚だった。
しかし、日本国民がこのPVに違和感を覚えることなく
曲に合わせ無神経にケツを振り回しているかと思うと、
インターネットが進み、情報が多岐に交錯しても
世界を知ることの難しさ、世界を理解することの難しさは
決して変わらないのだ…と思い知らされるのだった。