#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Oct_18】立石裕美『イチキューロクマルVol.4』途中経過発表会

2020-10-19 | KANAZAWA
立石裕美『イチキューロクマルVol.4』途中経過発表会


2015年日暮里d倉庫初演から、カフェアリエ、BankART、テレプシコール…と関わってきた作品。
「自ら陶酔し観客を陶酔させること」に疑問を抱き、1960年代のアメリカのムーブメントに共鳴し始まったこの『1960』は、
5年の月日を経て、「管理体制などの国家システムに人生をかけて反発」する姿勢を先鋭化させた。
作品後半のケチャップとの死闘は、国家システムでこそぎ取られた内面の顕れだと、ボクには感じた。
血みどろの闘いを経てでも守らなければならないものが、あると思う。
摩耗するな、日本人。


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#サル化する世界

1960年代、若者や芸術家の叛乱が世界中で繰り広げられた。
高度経済成長期の真っ只中、テレビの普及によって情報が錯綜し
ベトナム戦争や社会での出来事がリアルタイムで伝わるようになった。
そんな中、ニューヨークのジャドソンチャーチで起こった革新的なダンスのムーヴメント。
その中心人物であったトリシャ・ブラウンとイボンヌ・レイナ―のした仕事や実践から
私は次のような事柄に興味を持った。

立つ、座る、横になるといった身体の基本的な動作からダンスをつくる。
パッションやセクシーさを見世物にしない。身体こそが唯一リアルなものであり続ける。
ダンスそのもののために文章を書き線を描く。


躍動の時代に冷静である事で新しいダンスを導いた。
そして当時の日本で若者や芸術家のした次のことに興味が湧いた。

フォークゲリラと名のる若者が公共空間を占拠しその機能を中断させた。
日本で舞踏を確立した土方巽は関節を曲げずに歩行し肉体行為の中心に「硬いもの」を求めた。
彼らは力による管理体制などの国家システムに人生をかけて反発した。


私はこれまでダンスで舞台に立ちダンスを教え報酬を得て生きていた。
回り、飛び、必要以上に大きなアクションをし、身体を酷使し、
自ら陶酔し観客を陶酔させることをダンスだと信じてやってきた。
けれどそれに何の意味も見いだせなくなっていき、
場合によっては観客に対し誘惑ともとれるような行為に不快感を覚えるようになった。
そのうちに身体が動かなくなった。

私の身体は昔から突然、一瞬だけ意識がなくなり身体が硬直する。
その度に色々なモノに身体をぶつけ、持っていたモノを投げ飛ばし怪我してきた。
全て無意識で覚えていない。

土方巽が「硬いもの」を求めたように自らの身体を意識して固めてみようと思った。
ただ淡々と身体を硬直させ、突然脱力するという行為を繰り返してみた。


(立石裕美)
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【Oct_18】ホワイトホリゾント芸術祭

2020-10-19 | DANCE

Npo法人舞踏創造資源
@旧中西夏之アトリエ
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【Oct_18】旧中西夏之アトリエ

2020-10-19 | DANCE
旧中西夏之アトリエ
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【Oct_18】宇野邦一@旧中西夏之アトリエ

2020-10-19 | ART
宇野邦一さん『幽かな身体』
…南半球の世界地図では日本は逆さに表示されていて、
インドネシア・フィリピンから連なる島嶼の国として、
とてもかぼそい存在であるのだけど、
中西夏之の後期作品はその日本の幽かな身体性を表していると。
その逆説が土方巽に通じるのだ。


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【Oct_06】日本海の似合う女。

2020-10-08 | PHOTO
日本海の似合う女。
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【Oct_08】「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」である

2020-10-08 | BOOKS&MOVIES
『急に具合が悪くなる』読了。
死に至る偶然性を通して、生きていることの偶然性を照射し、
「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」であることを、
2人の著者の往復書簡で共時的に繙かれた書。

「私が『いつ死んでも悔いが残らないように』という言葉に欺瞞を感じるのは、
死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、
そのつどに変化する可能性を見落とし、
未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。」
(宮野真生子)

分岐する未来を考え、リスクを計算し、複数の可能性を考慮し、
出来るだけ安全に生きていけるようにする。そうやって自分を守ることの、
何が薄っぺらいのか、と反論したくなる人もいるでしょう。
ええ、たしかに、そこでは未来という広がりが射程に収められてはいます。
しかし、それはあくまでも「自分」にとっての未来であり、
自分一人が流れる時間のなかを生きていると思っていませんかと私は問いたい。
(宮野真生子)

西田幾多郎⇒九鬼周造⇒三木清⇒木村敏⇒宮野真生子の京都学派の系譜に流れる【あいだ】の思想。
出会った他者を通じて自己を生み出す間主体性が「時」を生じさせているのだ…というビジョンの美しさ。
コロナ禍によって、リスク回避を最善とし、
身内の死よりも自身の生を選んでしまうエゲツない社会の存様の中で、
【偶然性】こそが己の生を引き受ける根源的な営みなのだと、
その開かれた「生きよう」を身を以て体現された哲学者の尊さに、涙。
「人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばし得るか(三木清)なのだ。

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