#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

沖縄の空はいつまでも雲に覆われていた。

2006-02-28 | Photo-diary
この週末、沖縄の空はずっと雲に覆われていた。
どんよりとした光が漂い、時には雨を伴った。

バンド仲間の10年来の友人が、突然この世を去った。まだ20代だった…と言う。

いたたまれなかった。
練習中に顔を合わす程度で、直接言葉を交わしたことはなかったが、
同じ空間に存在していた人物の、突然の訃報。

つい最近まで、そこに居た。
元気に笑っていた。
なんの前触れもなかった。

まさに運命のいたずら…としか、言いようがない。

この土日は、だからずっと「死」について考えていた。
暗がりの中で、「不在」を想うと身が凍った。
sudden-death…。
突然いなくなる事実。

自分もこうして、いずれいなくなる。

暴力的な喪失感だけを残して、
ここではない、どこかに逝く。

ピリオドは穿たれ、
人々の記憶の襞に、深く深く刻まれる。
「死」は何も語らない…奪い去るだけだ。

…そして、時間だけが、緩慢なく、流れていく。

立ち止まることすら、ゆるされていない。
すべての動きを完全停止させ、
哀しみに身を預けることすら、できない。

生きていることの不思議を想う。
そして、死ぬることの非情を嘆く。

ビックバンで拡がる宇宙空間の、銀河系の、太陽系の、地球の、
日本の現在に、「生」を授かり、「死」を引き受ける個々の人生を想う。
それは、ただ、ただ、はかない…つかのまの時間なのだろうか。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

宮沢賢治の詩がふと、よみがえる。
交流し、明滅する、ひとつの青い照明…。

…救われた気がした。
穿たれ、刻まれたピリオドが、
再びせはしく明滅する時を待とう…そう思った。
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ベンツは緑色の血を流して止まった。

2006-02-22 | memories
Paul Austerの小説「City of Glass」を読み終えたとき、
ボクは初めて起こした交通事故の状況を思い出していた。

今思い返しても背筋の凍る、自分にしてみれば、
天変地異と同等の事件だった。

22歳、広告写真スタジオのアシスタントとして社会人をスタートさせたボクは、
それまでの淫蕩な学生生活を払拭するように、厳粛かつ勤勉な社会生活を営もうとしていた。
実際、バブル期におけるカメラマンアシスタントの生活は、凄惨を極めていたし、
まともな精神では、すぐに破綻するような労働状況だったので、
振り子が大きく右から左に振れるように、極めてストイックな意識で
仕事に取り組んでいたように思う。

…まるで…出家したような気分だった。

だから、4トントラックを運転しろ…とボスに言われたときも
なんの疑いもなく、受け入れていた。
季節は、花見気分まもない5月で、ボクは3月に免許を取得したばかり。
4トントラックはおろか、車をまともに走らせたこともなかった…と言うのにだ。

判断系統が鈍くなっていたのも事実だった。
その日まで一週間、風呂にも入れず、一人暮らしのアパートにも帰っていなかった。
つまりは、寝ていなかった。
撮影と撮影の合間に、カポックと呼ばれるスチロールのボードを布団がわりにして、仮眠する程度だった。

だから、4トントラックも運転できると、勝手に思っていた。
…相当な勘違いをしていたのである。

事故前日、ボクはレンタカー屋から六本木のスタジオまで4トントラックを運転している。
撮影香盤はむちゃくちゃなスケジュールだったし、建て込みを伴う大がかりなものだったので、
前日に撮影機材、撮影商品を積み込んでおく必要があったからだ。

準備は明け方間近までかかってしまった。

仮眠をとった早朝、カメラマンに起こされ、ボクは4トントラックのエンジンをかける。
カメラマンの乗るFORDフェスティバが、早々と国道の車の流れに乗った。
見失うまいとボクは、必死に4トントラックを合流地点へ走らせる。

問題の交差点。

目的地に急ぐ車が信号の明滅に合わせて吐き出されるラッシュ時だ。
5m以上の車長がある4トン車をスムーズに入れ込むには、技術が要る。
運転手のボクも、瞬時にその苦境を理解する。
冷や汗が脂汗になるのを感じながら、そのタイミングを伺っていたその時、
反対車線で同じように流れの間隙を伺っていたタクシーが、手招きするのが見えた。

「お先にどうぞ」タクシーの運転手が、苦境に愛の手を差し出した瞬間だ。

一心不乱にミッションレバーを一速に入れ込み、アクセルを踏む自分がいた。
…左右の事前確認もせず、交差点に4トントラックが入り込んだ。
けたたましいクラクションが鳴り響き、思考回路が停止した。
猛烈な勢いでベンツが視界に入ってくる…クラクションはもはやstuck状態。
…天敵に足のすくんだ小動物のごとく、ドデカい4トン車は交差点入り口で動かなくなる。

がっっしゃーん!!!!!

衝撃はスローモーションで、足先から頭の先まで伝わり、脳天をしたたか天面に打ちつけた。
「や、や、やってしもうた!」との間抜けなセリフすら出てくる余裕はなかった。
顔面蒼白で、大破したベンツを見つめていた。緑色のエンジンオイルが流血状態。
まだエアバックもない時代である。歪んだ顔の運転手が、フロントガラス越しに伺えた。

すべてがスローモーションだった。

いや、思考が皮膜一枚かぶったような感じだった。
つまり、すべての状況が他人事なのである。
当事者である自分が、傍観者として立ち会っている。
おそらく「認めたくない」意識が、潜在的に働いたのかもしれない。

ベンツが緑色の血を流して止まっている。

4トン車の前輪は、運転席側に深くのめり込んでしまって身動きもとれない。
立ち往生で国道の流れを完全に堰き止めてしまうほどの大事故である。

なのに、現実味もなく呆然としている自分がいた。
カメラマンの怒号がかすかに聞こえる。
巻き込まれた車のクラクションが響いている。

「City of Glass」の主人公Quinnも同じように現実と乖離していく。
夜の長さが昼の長さよりも次第に長くなっていき、
食事をしたり、ノートに記入したりする時間がどんどん短くなる現象に陥る。
そのうちに、活動できる時間はほんの数分となって、
食事を終えると、ノートに三行書くくらいの時間しか残らなくなってしまう。
そしてついには、ひと口かふた口食べると暗闇が再び辺りを被った…。

観念的な話のようだが、まぶたが閉じられるように現実が生気を失う瞬間は、実際に訪れた。

六本木の交差点で、ボクの意識のまぶたも閉じられようとしていた。
視界が感度を失い、徐々に冥くなっていった。周りの雑音がボリュームを落とすように小さくなった。
緑色の血を流した歪んだベンツが、歪んだ運転手の顔と区別がつかなくなり、
ドデカい4トン車が、ただの構造体にしか見えなくなった。



Paul Auster…、すざまじい作家に出会ってしまった。
もう少し、読み進めてみようと思う。



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春光乍洩~ブエノスアイレス~

2006-02-18 | BOOKS&MOVIES
Cu-Cu-Rru-Cu-Cu Palomaつながりで、
王家衛ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」を再見する。
そして、思い出してしまった。

張国栄~レスリー・チャン~の不在を。

この映画の上映は1999年。
そして、張国栄は2003年4月1日に自殺を図っている。
あまりにも衝撃的で、かなり引きづったことを、思い出してしまったのだ。

Dicen que por las noches         夜になっても
No mas se le iba en puro llorar      もう鳴くことはなかったという
Disen que no comia            食べもせず
No mas se le iba en puro tomar       飲むことすらしなかったという
juran que el mismo cielo          その涙が落ちる時
Se extremecia al oir su llanto        空が身を震わせたのがわかった
Como sufria por ella            死んでしまってなお
Que hasta en su muerte la fue llamando  その時の哀しみを忘れられない

Ay ay ay ay ay , Cantaba        歌っていたおまえ
Ay ay ay ay ay , Gemia         呻いていたおまえ
Ay ay ay ay ay , Cantaba        心を焼き尽くす炎のせいで
De paison mortal Moria         死んでいった

Que una paloma triste          まるで哀しいハトのように
Muy de manana             朝早く
Le va a cantar              歌っていたっけ
A la casita sola              誰もいないこの家で
Con las quertitas de par en par      どの扉も いっぱいに開いた家
Juran que esa paloma           そのハトは 
No es otra cosa mas que su alma      おまえの魂だったのだ
Que todavia la espera           不幸な女が
A que regrese la desdichada        戻ってくるのを待っていた

Cucurrucucu , Paloma           ククルククー ハトよ 
Cucurrucucu , No llores           ククルククー 何があっても もう鳴くな
Las piedras jamas Paloma          ハトよ おまえが恋について知るうることは
Que van a saber de amores         なんだろうか

張国栄の嘆きがそのままカタチになったような
切ない憂いを帯びてしまった。

映画「ブエノスアイレス」自体が切なすぎて言葉にならない。

異国の地、しかも祖国から一番遠いところで、途方に暮れてしまう。
自分はどこに行くのだろう。自分はどこに辿り着くのだろう。
愛する者との復元不可能な亀裂。
自暴自棄の日々。

心を焼き尽くす炎のせいで死んでいった。

映画と現実が交錯してしまっている。
張国栄は、映画の中でも心をむき出し、深く傷つき、
均衡を崩したまま行方知らずとなってしまうのだ。

ブエノスアイレスの石畳に沁み込む
Astor Piazzollaのbandoneonがまた、
露光不足の湿った空気にまとわりついて
きゅうきゅうと胸を締め付ける。

キッチンの裸電の下で踊る、張国栄と梁朝偉。
押し殺した感情が、音楽の昂揚とともに露わになり、
自身を投げつけるように激しく弄るシーンは
その不均衡を剥き出しにしていて、とても痛い。

轟くイグアスの滝。

この滝のように激しく、制御不可能なモノが
人間の内部には巣食っていることを、王家衛は描きたかったに違いない。
人間もまた、大いなる自然の一部であることを…。

合掌、張国栄。
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猫も杓子もリスも

2006-02-16 | Photo-diary
本日、局入れが終了した。
オキナワローカルの春キャン告知TVCM。

新しい音楽ケータイのサービスが始まるの受けて、
気持ちよい春の日差しの中、思わず口ずさんでしまいました…
とばかりに、女の子がアカペラでキャンディーズの「春一番」を歌う。

すれ違う男の子も、「恋をしてみませんか?」のフレーズにドキリ。
それって、「オレ?」と急ブレーキをかけて、振り返る…そんな設定だ。

しかし、オキナワにおける春の雰囲気って、見あたるはずもなく、
おまけに海風がびゅーびゅー通り過ぎるようなシチュエーション。
仕方ないから、作りました。
かわいらしい白い花を配置して、白砂を撒いて、土手を再現。
そこを行き交う男女の設定に、無理矢理作りました。

オキナワでは有り得ない情景だけど、春の原風景が展開され、
オキナワの人たちにも、春の気持ちよさが伝われば…大成功。

実際の撮影は、極寒そのもので、
ボクは見事に風邪を引いてしまったわけだけど。

オンエアは19日から。
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Cu-Cu-Rru-Cu-Cu Paloma

2006-02-15 | BOOKS&MOVIES
風邪を引いてしまった。
見事な悪寒と頭痛。典型的な風邪だ。
月曜日を丸一日、寝て過ごした。
それでも悪寒と頭痛は引かなかった。
辛くなってきたので、映画を見ることにした。
ショック療法である。

ぼおっとした頭で選んだ映画は「Hable con Ella (アブレコンエジャ)」
Pedro Almodovar監督の英題「Talk to Her」である。

DVD発売と同時に購入していながら、
今まで封印されていた代物。
確信があったから、見るべき時にと…置いておいたのだが、
何も、こんな状況で見なくても…。

しかし、始まってしまえば、すぐさまのめり込んでしまった。
なんといってもカエターノ・ヴェローゾの「ククルクク、パロマ」には
脳天から血潮が吹き上がった。

   ♪夜が来るたび、ただ泣くだけだったという
   ♪何も食べようとせず、ただ酒を浴びていたという
   ♪その叫びを聞いて、空さえ震えたという
   ♪彼女を想って苦しみ、死の床についても彼女を呼んでいた
   ♪彼は歌っていた、彼はうめいていた
   ♪心を焼きつくし、彼は死んだ

   ♪哀しみにくれた鳩が朝早くから彼の為に歌うだろう
   ♪扉から扉へと、孤独な彼の家へ向かって
   ♪きっとその鳩は彼の魂そのものなのだ
   ♪いまだに彼女が戻ってくるのを待っている
   ♪ククルクク、鳩よ
   ♪ククルクク、もう泣かないで
         (トマス・メンデス作<ククルクク・パロマ>)

孤独に打ちひしがれた男が、死に絶え、魂が鳩となって
それでも彼女の心を求めて鳴く…ククルクク…と鳴く。

ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」でも
イグアスの滝を背景にこの曲が流れるが、ここまで心に沁みては来なかった。
なんといってもカエターノ・ヴェローゾの哀しそうな顔がたまらない。
    ♪Cu-Cu-Rru-Cu-Cu,Paloma
    ♪Cu-Cu-Rru-Cu-Cu,No llores

映画全体の巧妙な流れも恐れ入ったし、衝撃の結末にも背中を裂かれる思いがしたが、
何より冒頭のピナバウシュとカエターノ・ヴェローゾの歌が、もう見事に脳髄蹴られた。
細かい話は次回につなぐ。
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ONE LIFE

2006-02-10 | Photo-diary
この世界には理解の及ばない大きな「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きている…と、前回書いたが、
その「何か」は「そうだ、宇宙だった。」…と、ひとりごちた。

「風の旅人」というスケールの大きな隔月刊誌がある。
その編集長、佐伯剛さんの巻末の言葉を読んで、納得した。

親鸞が説く「南無阿弥陀仏」を、宇宙的スタンスで捉えると
その言葉が非常に生き生きと感じられてくる。

小さな「自分」を超えた、大きな存在がある。
人と人との関わりの中に「自分」の存在はある。
自立より、他力でこそ、見えてくるものがある…と。

それは、つまり、宇宙に他ならない。

       宇宙に存在するすべてのモノは、個々が互いに影響を受け合いながら、
       誕生から成長と、衰退から解体を繰り返し、生々流転を続けている。

ONE LIFEだ。

森羅万象すべてのモノは、この大きなひとつの生に収斂され、
互い同士が細かな血管でつなぎ止められた存在なのだ。

佐伯編集長は、さらに理知に富んだ言葉を紡ぐ。

       人間が人間として生きはじめた時、従来の生物に比べて認識力が
       飛躍的に高まったとされる。そのことによって、自分が生きる世界の
       多くを知ることになった。多くを知れば知るほど、世界がミクロから
       マクロまで様々な領域に分断されて感じられ、寄る辺のない不安に
       晒されることになっただろうと想像できる。

人間の認識力の目覚めが、知恵の及ばない「何か」の存在を気づかせ、
不可解な「何か」を理解の裡に納めようと、さらなる探求心で世界の手の内を暴こうとする。
その原動力は、まさに「不知」の不安である。「知らない」ことへの不安だ。

       その不安を克服するために、世界から目をそらそうとした者もいただろうし、
       混沌の世界を秩序あるものとして掌握しようとする意志を持ち、苛酷な困難のなかで
       心身を深く傷つけ、痛切なまでの負荷に耐え忍びながら解決の糸口を探ろうとした
       者もいたのではないか。儀式や、神話や、芸術は、その痛みの裂け目から
       噴き出るように生じたのではないか。

自分の裡に「宇宙」の存在を感じ、100億光年彼方の銀河も地球上の生物も、
すべてが互いに影響を受け合いながら、混沌と「かたち」を繰り返し、
大きな流れの中で編み目のように連なって、生々流転を続けていると考えれば、
自分自身の「生」の尊さもひときわ際だってくるのではないか。

       この宇宙のなかで自分の心身に呼応するものは、
       ポジティブなものもネガティブなものも、一つの生が脈打つ
       無限の連なりのなかにある。自分自身を含めて、一つの生のなかに
       あるものは、無理矢理に排除することはできない。

つまり「因縁」である。
自分の存在は編み目の連なりのひとつであって、周りとの関係性のなかで存在している。
そのことを排除し、否定することはできないのだから、ここはひとつ、任せてみよう…と
説くのが「南無阿弥陀仏」の説法だ。

さらに、ここで「深い!」と唸らせたのが、
自分の存在を任せきる…そんな大きな心持ちになるには、
自分自身をみつめることだ…という逆説だが、
編集長の言葉はさらに続く。

       排除するのではなく、自分とどう関係しているのかを
       自分の感受できる範囲で知りたいと願い、あがき、考え続ける。
       そうした疼きのような負荷に堪え忍ぶことでしか、
       人間の新しい意識と現実は生まれてこないだろう。

説法どおりだ。
大きな流れの編み目の連なりであることを、その関係性を理解し、
自分のポジションを理解することで体得しなければ、流転の明日は来ないのだ。

日頃の生活に、常に「宇宙」を感じてみようと思う。


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オキナワの結婚式

2006-02-08 | Photo-diary
人と人との縁を形にした宴が、まさに結婚式。
この2月4日、何年ぶりかでオキナワの結婚式に出席する幸せに与かった。

総勢300人はくだらないだろう、人と人とのつながりで集まった人たち。
それぞれが、それぞれの思いで、ふたりの結実を祝福している。

3時間半にも及ぶ祝いの宴は、そこに居るだけで幸せな心持ちになった。

お互いの系譜が長い年月をかけて、巡り合い、関わり、結実する。
まさに「因縁」以上の言葉では説明がつかない関係性の成立だ。

宴の締めくくりはカチャーシー。舞台では、あらゆる縁が巴のように絡み合い、
祝福の舞で、主役のふたりのこれからを素直に喜び、称賛している。

1年前のちょうど今頃、自分もその祝福の輪の中心にいたんだ…と考えると、目頭が熱くなった。

長浜大樹くん、愛実さん、ご結婚おめでとう。いつまでもお幸せに。
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「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられる。

2006-02-08 | BOOKS&MOVIES
京都法然院の貫主、梶田真章の本「ありのまま」を読んだ。
毎日の生活をていねいに、楽に生きるためのヒントが詰まった本だ。
「散歩をする」「眠る」などの営みの中にある意味を
あらためてわかりやすく説いてある。

その中で非常に響いた一節が2つある。

○「縁」あればこそ
○ 任せきる

ひとつは、人と人との関わり合いについて。

わたしという存在は、父と母の因縁によって生まれてきているのであって
すべての存在はその関係性の中で成立しているのだ…

だから、「わたし」は自立しているのではなく、
まわりのいのちとの関わりの中で生かされているのだ…
確固とした「わたし」は実は存在していなくて
日々の移ろいやそれぞれの縁によって変化し続けている。

自分らしさを追い求め、躍起になったり、
その関係性が破綻したことで、自分を追い込んだり、
「想定内」「想定外」と自分の物差しですべてを決め込まない。

この世界には理解の及ばない、知恵の届かない「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きているのだから、
まずはそこをスタートにして、大きくとらえた方がいい。

ひとつは、自分自身をみつめることについて。

理解の及ばない部分がある…というところから出発すると
わかりやすいのだが、自分自身の内にも制御できない部分があって
その部分を解放してやることで「他力本願」の心が得られると…

「南無阿弥陀仏」とはまさに「他力本願」の極意を言葉にしたもので
「南無」とは任せる、「阿弥陀」とは「量り知れないいのち」、「仏」は「悟り」の意で
「すべては阿弥陀さまにお任せします」という意味になる。

小さな自分を超えた、大きな存在があるのだから、
あなたのすべてを阿弥陀さまに任せきりなさい…と説いているのだが、
すべてを任せるには、自分自身をしっかり見つめることが必要だ…という逆説になっている。

このふたつのプロットは、同じところにたどり着く。
「生を謳歌しなさい」「生きていることをもっと悦びなさい」
あなたの存在自体が、すばらしいことなのだから、ありのまま生きなさい。

毎日を分刻みで忙殺されている身には、複雑な思いが巡るが、
そんな毎日のいらだちもすべて収斂される大きな懐がこの本にはある。

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もうすぐ春ですね、恋をしてみませんか。

2006-02-04 | Photo-diary
本日、オーディションを行った。
TVCMの重要な役どころである女の子の選出だ。
春商戦のキャンペーンとして、
キャンディーズの「春一番」をアカペラで歌ってもらう。
♪恋をしてみませんか?と歌ったところで、
気になる異性とすれ違い、はにかむ感じを演技してもらった。

14歳から21歳の5人の女性が
殺風景な会議室に集合した。

背広を着たむさ苦しいサラリーマンと対峙して
彼女たちは、何を感じていたのだろう。

自分をアピールすることで精一杯…といった感じだろうか?
こんなときは相手を道ばたの石ころだと蔑んで見てもらった方が
いい演技ができる。

変に媚びようと欲を出してしまったら、緊張してしまうのだ。

監督とボクは、オキナワ版宮崎あおいを期待していた。
その場にいるだけで、空気を変えてしまう娘。
どんな理屈もいらない。その存在が、すべてだ。

5人の女性は、ほとんどがCM未経験者。素人と言っていいだろう。

カチコチの自己紹介を終え、それぞれが演技をする出番となった。

…いきなり一人目から、…来た。
………………………………驚いた。

その場の空気を変えるとは、こういう娘のことを言うのだ。
そんな逸材だった。
つまりは、自分の世界をしっかり持っているから、空気が変わるのだろう。
想像力のタマモノ。

春の気持ちよい朝、「春一番」を口ずさみたくなって、
大声で歌っていたら、気になる異性とすれ違った…。
…そんなシチュエーションが、彼女の頭の中で再現されたから、
その場に居合わせた、むさいサラリーマンも共演者になってしまったのだろう。

異性の背中を追いかけようと…、
…振り向いた、その横顔を、春一番が駆けめぐっていった。


彼女たちのコンポジットには
それぞれの身長とスリーサイズが記されている。

たった3センチ、4センチの違い。

メジャーで測れば、それだけの違いでしかない彼女たちの差異は、
空気を共有することで、とてつもない差となって顕れる。

ほんの5分。

それだけの共有で、完全に彼女の世界に引き込まれている自分がいる。

人間存在の不思議を想った。



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イエスの血は決して私を見捨てない。

2006-02-03 | MUSIC
「イエスの血は決して私を見捨てない、
 決して見捨てない、
 イエスの血は決して私を見捨てない、
 決して見捨てない、
 そのことを私は知っている、
 イエスは慈悲深いってことを」

浮浪者が旋律をつけて、イエスを想う賛美歌を口ずさむ。
永遠とループされる、その旋律にストリングスが絡んでくる。

作曲家ギャヴィン・ブライアーズの顔に、
五線譜が投影された印象的なジャケットのこの楽曲が、
頭の中でよみがえってきた。

クリスマスイブのこの日、教会には大勢の敬虔なるカトリック教徒が
ひざまずき、イエスの誕生を静かにたたえていた。
フィリピン人の80%はカトリック教徒。
まさに国民的なハレの日が、このクリスマスという訳だ。

Gavin Bryarsのこの楽曲は、永遠75分、浮浪者のリフレインに終始する。
「イエスの血は決して私を見捨てない」「イエスの血は決して私を見捨てない」…

その切実なる心情が、迫ってくる75分である。
盲目な宗教心が、その人の一生を恍惚な領域に押し上げてくれる。
曇り一つ存在しない、臨界を超えた光に包まれ、昇天する。

しかし、教会を一歩出ると、見事なミクスチャーワールドが開かれていた。
暗黒とも思えるような、絶望的なシーンに目を疑った。
…汚穢にまみれた子供が、ビニール袋を口元に押さえ、シンナーで昇天している…。

純白の牧師と、暗黒の浮浪者。

盲目の宗教心がなければ、成立しえないような
不均衡を超越した世界。

でも、ふと我に返る。

こんな夜中にパソコン相手に言葉を紡いでいる、オレはどうなんだ?
ネットゲームに夢中になり、夜を明かして出勤するサラリーマンはどうなんだ?
どこかで「イエスの血は決して私を見捨てない」と唱えていないか?

Jesus' blood never failed me yet

Never failed me yet

Jesus' blood never failed me yet

Never failed me yet

Jesus' blood never failed me yet

There's one thing I know

For he loves me so…


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