平成11年、127年もの歴史を刻んだ木造校舎のこの小学校も廃校となる。
いまは、グリーンツーリズムの体験学校
「
さんさん館」として、地道な活動をなされていた。
「校舎の宿」というキャッチフレーズがいい。
実際、中を見学させてもらったのだけど、
127年もの時間が堆積した空間として、
訪れる者を包み込むような、柔らかな空気があった。
2階が宿泊施設になっていて、ベッドの数で1人部屋なら「1年1組」、
2人部屋なら「2年1組」、たたみ部屋なら6人まで行けるという意味で「6年1組」…と洒落ている。
山に囲まれた環境で、127年の時間が詰まった校舎で、昼間は虫が集い、夜は星がまたたく。
夏休みには、こんなところで長いこと過ごすのも、子どもたちには大事なことのように思う。
内田樹氏が、書いていた。
自然に抱かれることで、センサーの感度を最大化しろ…と。
目に見えない、耳に聞こえない、匂いもない、触感もない、
そういった「それ」を感知できるようになること、
そのような「存在」を畏怖の念でもって見守ること、
その欠如が、この戦後67年の歩みを誤った原因だと。
…その最悪の結果が今回の原発事故だったと。
人間がなぜ「死者」という概念を持ち、
靖国問題にもあるように死してまでも「合祀」というところにまで拘るようになったのか。
「死者」それは「存在しないものが切迫する」恐怖です。
この実感を手がかりにして、目に見えず、音が聞こえず、匂いもせず、手触りもしないが、
自分の生存にかかかわるかもしれない、何かとてつもなく危険なものが接近してくるときに
「アラーム」が鳴るように心身を訓練しました。あらゆる手立てを尽くして、その訓練をした、
ぼくはそれが人間性と呼ばれるもののもっとも原基的な形態ではないかと思っています。
(中略)
もちろん、たいへん安全でたいへん豊かな社会では、アラームなんか要りません。
そんなものの機能向上のために訓練するヒマがあったら、もっと実際的に役に立つ(すぐに換金できる)
知識や技術を身につけた方がいい。そうかも知れません。でも、人類の歴史が教えてくれるのは、
安全で豊かな社会に暮らせることは例外的幸運であって、人類史のほとんどの時期をぼくたちは
窮乏と危険にさらされて生きてきたということです。窮乏と危険をベースにして、それに対処できるように
人間は能力開発プログラムを作り出してきた…と。
(「大津波と原発」内田樹×中沢新一×平川克美鼎談「あとがき」より)
ま、そのような「アラーム」機能の恢復のためだけに、山に抱かれろ…と言っているわけではないのだけど、
最近、写真家の大森克己さんとお話する機会があって、
デジタルカメラというものは現在進行形だから、まだ誰も気づいていないけれど、実は歴史的大罪を犯しているはずだ
…という大森さんならではの感覚的発言があり、ボクも飲みの席だったので、うまく返すこともできずにいたのだが、
いま考えると、この「目に見えない、耳に聞こえない、匂いもしない、触感もない」存在に対してのひとつのアンサーが「写真」であった…と言えるのではないか。
実は、人間はカメラオブスキュラを使って、この見えない聞こえない匂わない触れない存在に対して、
「アラーム」を研ぎ澄ますだけでなく、それを掴もうと積極的に働きかけた…その一つの答えが写真だったのではないか…と思うのだ。
つまり、デジタルカメラの台頭で、人間はこの「目に見えない耳に聞こえない鼻に匂わない手に触れない世界」を
永遠に手放すことになるのではないか…と危惧するのだった。
ネガフィルムで撮影した写真には、確実に「それ」が写っている。
これは「心霊写真」を例に出すまでもなく、「写真」そのものが持っている力だった。
その存在を感知することで、少なくとも「写真」という媒体に触れることで、
広く門戸を開いていたであろう人間の感性は、デジタルという100%計算された世界の登場によって、
感度の多くを鈍らせ、鈍感な存在に陥るだけでなく、自分たちの世界は100%計算ずくなのだ…という錯覚をも引き寄せてしまった…ように思う。
毎日これだけ多くの写真を撮るようになって、
そう、デジタルでその多くを収めるようになって、
時々撮影するネガの写真から立ち現れるアウラにドキリとするのだ。
「見えないものを撮る」それが写真だと、ボクは確信した。