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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Oct_27】竹僑の人

2023-11-01 | KANAZAWA
【竹僑の人】森功著『北條秀一』読了。
竹野の気概、此処にあり…の激動人生に感服。
滿鐵を牽引し、満州の秩序を構築。

敗戦後も先陣を切って満州人の引揚に尽力、
帰国後も引揚者の補償に奔走。

帰郷後は『竹野郷外史』を執筆し、竹野愛の礎を築いた。

「今の竹野の子供がどれだけ郷土の自然、人間に触れ、
どれだけ理解し、血潮の中にその匂いがどれだけ融け込んでいるだろうか?
それらの関係はやがて彼等の生涯を支える重大な礎石となるのだ」


竹野小学校校長だった著者森功さんの筆致が力強い。
教育者として何が失われつつあると危惧していたか、この一文が物語っている。
遠く満州開拓に赴きながらも、礎石となる竹野を手本とし奔走した北條さんの、
その身体性を伝えようとする著者の熱意。

この『負けじ魂』の好奇心が、ネット社会の今、完全に枯渇している。

ROSENKRANZの100歳ピアノもまた、その様な好奇心の賜物であったことを思うと、
長期的視野が如何に大切か、コロナ後貧窮する社会において、こそ、
描かれるビジョンが未来を左右すること、絶望的展望を持ちながらも、
そのことは忘れないでいようと思う。

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【Mar_28】山尾三省を知る。

2023-03-28 | KANAZAWA
「ただ生きる、ということを、したいのよね」

表現と〈生きること〉とのあいだには、緊張がある。
表現は生を裏切る、ということについて、三省は、だれよりも深く感受している。

表現とは、あらわす、ということである。このように理解されている。
そして表現が、あらわす、ということであるかぎり、これはいつでも、いくぶんか、生を裏切る。
しかし表現は、あらわれる、ということであることもできる。

表現が〈あらわす〉ということではなく、
〈あらわれる〉ということであるかぎりにおいて、
表現は生を裏切ることのないものであることができる。

〈あらわす〉ことをそぎ落とすこと。
〈あらわれる〉ことに向かって、純化すること。
洗われるように現われることばに向かって、降りてゆくこと。
降りそそぐことばの海に立ちつくすこと。

              (『伝言』抜粋/真木悠介)

〈生きる〉ことを表そうと欲する現代社会の閉塞感が、
〈生きる〉ことの表れを感受できなくしている。
〈生きる〉ことは〈あらわれる〉こと…この真理を、
どれだけ多くの人間が体現できたら。

世界はもっと生き易くなるのではないか。

『諸行無常』とは、そのような共生のしくみを語ったモノだと、三省で知った。
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【Nov_20】わかなさんの舞踊

2022-11-21 | KANAZAWA
『ふれあい芸能まつり』
主催/竹野浜盆踊り振興会事業部

竹野の表現者のみなさんに初めて触れることが出来て、とても有意義。
竹野中学校吹奏楽も、北前太鼓も、詩吟もカラオケも、みなさんの熱量が塊となって伝わってきた!
特にわかなさんの舞踊は見惚れてしまいました。
この土地が持つ地力を感じた3時間。もっともっと皆さんのお力になりたいわ。

【on_Flickr】1120_FUREAI_FES

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【Apr_15】反知性主義by白井聡

2022-04-15 | KANAZAWA
社会の世俗化によって解放された近代性の発展は、
世界の中心を神から人へと移すこと、
つまり広義のヒューマニズムの原理の確立を伴っていた。
それゆえ、近代の学問は、「人間性の完成」という理念を、
相当に形骸化していたとしても、掲げてきた。
人間の知性の限りない発展は、統制的理念としてではあれ
人間性の最高度の発展を実現するという究極目標を持ち、
学問の発展はそれに貢献するものとみなされてきた。
しかし、いまわれわれが諸学問において目撃するのは、
こうした理念の死滅である。
つまり高度な知性と豊かな内面性を持った人間という理想像は、
いまやタテマエとしても消滅した。
「人間は死んだ」のである。

 ↓ ↓ ↓

次に指摘されなければならないのは、
深いシニシズムがデモクラシーの基盤に据えられるという事実である。
いまや政治が「みんな」の利害を代表することが構造的に不可能であるのなら、
「グローバル化の促進が自らの階級的利益に反することを理解出来ない
オツムの弱い連中をだまくらかして支持させれば良いではないか」

このシニシズムが小泉自民党の赤裸々な本音だったのだろう。
こうした変化は、被治者と治者とがお互いに対して抱く感情の基礎が、
「信頼と敬意」から「軽信と侮蔑」に転換したことを意味しもする。

 ↓ ↓ ↓

立木は、新しい主体の在り方の核心には「否認」があると述べている。
精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防御機制の一つであり、
外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。
「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて
意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、
現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、
現実の一部または全部を、それを現実として認知することを拒絶するところにある。
「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う名文句があるが、
これは「否認」の心理状態を唄ったものと言える。

 ↓ ↓ ↓

そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語を持たない。
言い換えれば、過去や祖先や系譜に対して引き受けるべき負債を持たない。
ネオ主体はだから、何でも自分を基準に選びたがる。
たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない。

 ↓ ↓ ↓

教養主義的主体とは弁証法的主体であり、経験を通してそれまでの主体が否定されることでより高次の主体へと生成する、という所作を繰り返す。
かかる運動は否定性を通じた生成であり、ヘーゲルが「否定的なもののもとへの滞留」、
「死に耐えて死の中に自己を支えその中に留まる生こそが精神の生である」と言ったものに他ならない。

 ↓ ↓ ↓

ここで注目すべきは、「暴力」という言葉が_その正当性にも関わらず_広範な反知性主義的批判を呼び起こしたことであるように、私には思われる。
つまり、他でもなくこの言葉が反知性主義の噴出のきっかけになったという事実に、日本の反知性主義の特質が表れていると感じられるのである。
露になったのは一種のアレルギー反応、「否認」である。
すなわち自衛隊や警察とは、その本質上暴力装置であり、そうでなければならないという当然の事実が否定されなければならない、というところに
日本の国家主義に関係する反知性主義に特有の「否認」の構造を見て取ることができる。
つまり、国家の根幹には暴力があるという普遍的な事実が、この国では否定される。しかし、言うまでもなく、国家による暴力は存在する。
ゆえに、その暴力は、いわば、暴力であることを自ら否定する暴力、すなわち否認に貫かれた暴力として行使される。

 ↓ ↓ ↓

このような特異な暴力およびそれへの認識の在り方を示唆することによって私が念頭に置いているのは、天皇制国家における暴力である。
それは戦前戦中の共産主義者への弾圧、「転向」現象において、最も苛烈かつ典型的なかたちで表れた。
国家による思想信条の弾圧は古今東西ありふれた現象であるが、日本で起きた転向現象において特異な点は、
そこに介在した権力の温情主義である。特筆すべきことには、天皇制国家は反抗者たちに対して苛烈な暴力をふるったのと同時に、
「優しく」接したのであるが、この二面性は矛盾ではなかった

 ↓ ↓ ↓

ゆえに、天皇制国家原理においては、「国体の変革」を企てることとは、端的に不可能なこととして観念されていたと考えられなければならない。
日本人である限り、かかる考えを持つこと自体がそもそも不可能なのであり、したがって治安維持法違反などという犯罪は実はあり得ない
言い換えれば、国家権力と国民が対立するということが国体の論理においては不可能なのであり、
このような不可能性が、日本が「万邦無比の国体」を戴く特別な国家である_他の国家ではかかる対立が実際に生じている_ことの証左とされていたのであった。

 ↓ ↓ ↓

だから逆に云えば「国体の変革」という観念を信奉することとは、この国が家族の如きもの、矛盾葛藤なき「愛の共同体」ではない
そこには解消し得ない敵対性が内在しているという観念を確信することであった。そして治安維持法は、まさにこのことを禁じたのである。
この観念を捨てることとは、社会内在的な敵対性という「否定的なもの」の存在を否認することで、「愛の共同体」に復帰することに他ならない。
そして、愛の共同体の成員たちは、これを真摯な改心として受け容れる。

 ↓ ↓ ↓

「家族国家としての日本への復帰」という転向のモチーフは、転向現象の大局的な構造において見出されるだけでなく、
転向を促す際の手段としても積極的に活用された。日本に復帰することは、家族の愛に目覚め、家族に復帰することと重ね合わされたのである。

 ↓ ↓ ↓

赤軍戦士のやったことは最悪の愚行であり、私は一片の共感も持ち得ない。
ゆえに、赤軍戦士の母は、息子たちの行動を理解し共感すべきだということではない。
だが、それでも私は、母たちのあのような行動はあまりに無惨なものだ、と考える。
なぜなら、いかに意味不明で単なる愚行に過ぎない行為に見えるとしても、
当人には当人自身の考えがある…たとえそれがいかに道理から外れたものであっても。
言い換えれば、息子には一個の人間として主体性があるという事実を、
この行為は無効化しようとするものに他ならないからだ。
かつそれは、息子たちの行為に伴う責任を免じようとするものでもある。
当人には自身の考えがあり、したがってその考えに基づいて行動することにおいて、
それに伴う責任はすべて本人がとるべきものだと考えるならば、
銃撃戦による死も含めて行動がどのように展開しようとも、
それは第三者が容喙出来る事柄ではない。

 ↓ ↓ ↓

要するにこの国には「社会」がない。社会においては本来、
その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が存在することが前提されなければならない
しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない
そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が事実上同義で使われるという著しい混乱が生じるはずがないのである。
あるいは「権利」も同様である。敵対する可能性をもった対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点をみつけるために
この概念があるのだとすれば、敵対性の存在しない社会にはそもそもこの概念は必要がない。ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、
「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。
ここではすべての権利は「利権」に過ぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。
まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷり浸かった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。

                                      (白井聡著『主権者のいない国』反知性主義より)


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【Mar_17】「価値」を入れ替える政治に転換せよ…白井聡

2022-03-17 | KANAZAWA
日和見的なモノの見方では、ポピュリズムに巻き込まれる。
自己の「価値」を見定め、どんな未来を描くか、その創造力こそが、これからはますます重要となる。
コロナで二分化、ハッキリしてきたと、我ながら実感。以下、コピペ。

特別寄稿・「価値」を入れ替える政治に転換せよ 
「維新的なものの勝利」の時代に野党に求められること

   ↓ ↓ ↓                   白井聡
佐伯啓思は、政治のポスト・トゥルース化について、それは民主主義の後退ではなく、
その全面化の帰結であると論じている。
すなわち、多数派の獲得を基礎原理とする民主政治は、
「真実」や「事実」を基準とする政治ではありえず、
イメージ操作によって大衆の支持を得ることで権力を追求する政治であり、
したがって「フェイク」や「ポピュリズム」は民主政治の本質である、と。

   ↓ ↓ ↓
かつ、佐伯が指摘している重要な事柄は、政治闘争がイメージの闘争となるとき、
闘争における決定的要因は「事実」ではなく「価値」なのだ、ということだ。
人々が「真理」ではなく「真理らしく見える」ことを求めているとすれば、
何が真理らしく見えるかは見る人の主観的価値観に依存する。
ゆえに、もっぱら問題になるのは、何が事実であるかではなく、
事実そのもの(と認識されるもの)が各人の持つ価値観によって決まる以上、
何を望ましく思い、何を望ましくないと思うかという価値観なのである。
「事実」は、「価値」に従って取捨選択されるにすぎない。

   ↓ ↓ ↓
問題なのは、「価値」を入れ替えることなのだ。
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【Oct_20】両国シアターカイ

2021-11-24 | KANAZAWA
ファミリーアーツwithエムズクルー『マリアの首』@両国シアターX

キャスト
那須野恵 新上貴美(演劇集団 円)
斎藤萌子(エムズクルー) 高橋未央(劇団 文化座)
小川沙織(劇団 文化座) 箕輪菜穂江
おのるみ 島村勝
菊地真之 吉田道広(無名塾)
今井聡 青木隼
大森寛人 石井智也
近童弐吉

スタッフ
作/田中千禾夫
上演台本・演出/南英二
舞台美術/尾谷由衣
舞台監督/市川貴光
舞台監督補佐/栗林昌輝
照明/竹内右史
音響プラン/川口博
オペレーター/岸智美
音楽作曲/超阪部智彦
衣装/萩原玲子
映像製作/高橋和久 カンタロー 村中誠
宣伝美術/濱野カホル

写真UPしました〜!
【on_Flickr】1020_MARIAsHEAD



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【Jun_05】家主さま、見つけました。

2021-06-05 | KANAZAWA
本日、天井裏の大清掃。見つけました、家主様です。ありがたや〜。#photobybozzo
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【Apr_27】竹野ジャジャ山三十三観音菩薩像_33

2021-04-27 | KANAZAWA
竹野ジャジャ山の三十三観音菩薩像。

江戸時代後期に村人の手により30余年の歳月をかけ、
嘉永3年(1850)に建立された。
三十三は民間信仰で無限を表し、
観音様はあえて浄土には行かず、
三十三の姿に身を変え、
人々を苦しみから救うという。

信仰は文化が生活に根付いた格好の例である。

かように人間の営みは文化で形成される。
そのことをお忘れではあるまいか?

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【Apr_07】城崎温泉末代山温泉寺にて

2021-04-09 | KANAZAWA
温泉寺で和尚さんの話を聞く。
道智上人が神託を受け湧出したのが720年。
以来1300年もの隆盛を極めた温泉地が、ここ城崎。
長谷寺と同木同作の十一面観音像や、室町時代の文化財級掛け軸を拝観するに、
この場所が持つ宿命にも近いパワーを感じる。
今でこそ原宿のような温泉地に成り下がっているが、
もっと大きな影響力で世界を変える場だと思う。

【on_Flickr】0407_KINOSAKI

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【Mar_29】細川三郎Jr.@小松

2021-04-06 | KANAZAWA
東北を経巡り2,300㎞。
最後の目的地金沢ではALPオーナー
細川三郎Jr.に大変お世話になりました〜!

小松市の実家にウチらを泊めてくれ、
三郎さんの遺影ともご対面いたし、
Jr.の歴史を垣間見た思い。有難かったっす!
写真は明朝、実家前にて!
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【Mar_10】池内風@太平館

2021-03-11 | KANAZAWA
池内風(かわいいコンビニ店員飯田さん主宰)@大倉山太平館
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【Mar_10】DAWN

2021-03-11 | KANAZAWA
昨日の夜明け。
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【Feb_12】発端は泪橋

2021-02-13 | KANAZAWA
カワグチタカオ ダンス 『THE RED SUN』 with 大谷能生 (sax)
Friday Feb 12, 17:00 (Tokyo time) @恵比寿 AL
followed by a conversation with 高田冬彦

写真UPしました。
【on_Flickr】0212_REDSUN



『哀愁』と『華麗』がテーマでした(笑)

大谷さんと隆夫さんの駆け引きがごにょごにょと伝わってきて、
観衆が引き込まれてゆく様が密空間におけるナマの醍醐味だわぁと思わせるLIVE。
こういう皮膚感覚な体験って、オンラインでは求められないモノだと。
すげぇ良かった。
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【Feb_11&18】bozzo_WS@ZUCCOROCCA

2021-01-28 | KANAZAWA
昨日はズッコロッカで子どもたち相手に写真で遊んだよ。
真っ暗な部屋ペンライトで絵を描く。
フラッシュで撃ち合う男子、飛び跳ねる女子、
それぞれが長時間露光であら不思議、
トラがバターになるようにひとつの軌跡が定着しました。
2月には本格的なWSやります〜02/10【子供版】02/18【大人版】おたのしみに。

#photobybozzo

【bozzo_WS@ZUCCOROCCA】

2月10日(水)1600-1800
『ぺんらいとdeえがこっか!?子供ver.』

〜カラダとライトで写真に光の絵を描こう〜

【内容】
長時間露光って言葉は知ってますか?
カメラを三脚につけ、シャッターを長い時間開けて撮影するスタイル。
そうすると、動かないモノはクッキリ。動くモノはブレて写ります。
じゃあ、ペンライトを振り回すと…どうなるか?
動くモノと動かないモノ、光を使って、写真を描く。
そんな実験に参加したい人、集まれ!!

2月18日(木)1400-1630
『写真deエモろっか!?』

〜光と色で感情を表す写真術。スマホでも一眼レフでもOK!〜

【内容】
カメラ=写真は感情を表す道具です。
被写体との関係がそのまま写真に表れます。
遠い人はよそよそしく。近い人は親密に。
興味ある人には思わずカメラを向けるけど、
嫌いな人は撮ろうとも思わない。
そういう意味で、写真は感情表現なツール。
bozzoなりの、光と色を味方につけたエモる写真術お伝えします。

2月18日(木)1800-2000
『ぺんらいとdeえがこっか!?大人ver.』

〜カラダとライトで写真に光の絵を描こう〜

【伝える人、bozzo】
舞台写真家。91年多摩美GD卒。
カメラマン助手、Gデザイナー、アートディレクターと、
職と土地を流転し、2009年夏より沖縄から東京へ。写真家として独立。
ダンス、演劇、音楽等の舞台撮影を主な分野とする。
「写真には見えないものを見せる力がある」が信条。
www.bozzo.jp
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【Oct_18】立石裕美『イチキューロクマルVol.4』途中経過発表会

2020-10-19 | KANAZAWA
立石裕美『イチキューロクマルVol.4』途中経過発表会


2015年日暮里d倉庫初演から、カフェアリエ、BankART、テレプシコール…と関わってきた作品。
「自ら陶酔し観客を陶酔させること」に疑問を抱き、1960年代のアメリカのムーブメントに共鳴し始まったこの『1960』は、
5年の月日を経て、「管理体制などの国家システムに人生をかけて反発」する姿勢を先鋭化させた。
作品後半のケチャップとの死闘は、国家システムでこそぎ取られた内面の顕れだと、ボクには感じた。
血みどろの闘いを経てでも守らなければならないものが、あると思う。
摩耗するな、日本人。


#photobybozzo
#サル化する世界

1960年代、若者や芸術家の叛乱が世界中で繰り広げられた。
高度経済成長期の真っ只中、テレビの普及によって情報が錯綜し
ベトナム戦争や社会での出来事がリアルタイムで伝わるようになった。
そんな中、ニューヨークのジャドソンチャーチで起こった革新的なダンスのムーヴメント。
その中心人物であったトリシャ・ブラウンとイボンヌ・レイナ―のした仕事や実践から
私は次のような事柄に興味を持った。

立つ、座る、横になるといった身体の基本的な動作からダンスをつくる。
パッションやセクシーさを見世物にしない。身体こそが唯一リアルなものであり続ける。
ダンスそのもののために文章を書き線を描く。


躍動の時代に冷静である事で新しいダンスを導いた。
そして当時の日本で若者や芸術家のした次のことに興味が湧いた。

フォークゲリラと名のる若者が公共空間を占拠しその機能を中断させた。
日本で舞踏を確立した土方巽は関節を曲げずに歩行し肉体行為の中心に「硬いもの」を求めた。
彼らは力による管理体制などの国家システムに人生をかけて反発した。


私はこれまでダンスで舞台に立ちダンスを教え報酬を得て生きていた。
回り、飛び、必要以上に大きなアクションをし、身体を酷使し、
自ら陶酔し観客を陶酔させることをダンスだと信じてやってきた。
けれどそれに何の意味も見いだせなくなっていき、
場合によっては観客に対し誘惑ともとれるような行為に不快感を覚えるようになった。
そのうちに身体が動かなくなった。

私の身体は昔から突然、一瞬だけ意識がなくなり身体が硬直する。
その度に色々なモノに身体をぶつけ、持っていたモノを投げ飛ばし怪我してきた。
全て無意識で覚えていない。

土方巽が「硬いもの」を求めたように自らの身体を意識して固めてみようと思った。
ただ淡々と身体を硬直させ、突然脱力するという行為を繰り返してみた。


(立石裕美)
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