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沖縄から東京へ!流転の写真日記

【May_31】環境が自然=世界であるより、人間=社会になった。

2020-05-25 | BOOKS&MOVIES
我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。

(2020/03/28DarwinRoom『料理の人類学』より宮台真司)

LOHASやSDGsがどこまでも胡散臭いのは、
人間の倫理に問いかけているようで実は損得勘定による動機付けがあるから。
【人間の存続は自明ではない】という事実は、
人間界隈に閉じ込められた人間主体の社会ゆえ葬られている。
そのような人間中心社会の最たる「料理」から、考察する講座。


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【May_22】ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。

2020-05-22 | BOOKS&MOVIES
ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。
「よく整えられたもの」を意味する。
理性とはまず神の事柄である。
人間にできることは、
自然の秩序に従うことである。
自然の秩序に学び、それに従うのが、
人間の理性というものである。
それとて、常に中途半端で、
間違ってばかりいる。
しかし、だからこそ、
中途半端であるという自覚をもって、
より優れた理性を磨かないといけない。
優れた理性とは、
自分がどれだけ多くのことを知らないか、
ということを正確に自覚するものである。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)

キリスト教を宗教として色眼鏡で語るのではなく、
イエスから生まれた思想として解きほぐそうとした田川建三の書。
一言一言が平易かつ実直な言葉で綴られていて突き刺さる。
人間は被造物である…というまごうことなき事実を、
77億人のうちの多くの民は体感しているのに、
一部の権力者やエスタブリッシュメントたちが、
大きなカンチガイで、世界を牛耳ろうとしているから、こんな時代になった。

人間の感性は、その人の経験の範囲にしかない。
考えなくともおのずと感じることが出来ることは、
その人がこれまで生きてきて、
自分の中に蓄えてきたことの範囲でしかない。
世の中には、自分が経験しなかったこと、
自分が接することのなかったもの、未知のものが大量にある。
未知のものは、自分の感性の中だけでは捉えきれない、
と知ったら、理解する努力をしないといけない。
それが理性、知性というものである。

そのことがよくわかるのは、
人と人との間の関係である。


感性を基礎にしてつきあって、
その人に対して隣人愛を持つことが出来るのは、
その人をある程度以上よく知っている場合、ないし、
その人と自分が非常によく似た生まれ育ちであり、
今生きている環境も似たり寄ったりというのでないと、
ありえないことである。
まったく未知の人たちに対して、
それもよく知らない他民族の人たちに対して、
温かい関係を築きうるには、
まずその人たちのことを
かなり多く知る努力をしないといけない。

人間どうしでさえ、そういうものである。
ましてや、人間を囲む自然世界に対しては。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)



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【May_07】人間は、生き物の死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる、一本の弱いチューブである。

2020-05-08 | BOOKS&MOVIES
藤原辰史『戦争と農業』。
いかに現代が食を過小評価し、邪険に扱ってきたか。
生活の重要な行為として、食に敬意を払わずおざなり過ぎたから、
このような社会形成と政治形態になってしまったのだと。
そもそも食を安易に捉えすぎ。
小学校の給食が、短時間で済まされていたことが間違い。

すべての国民が、小学校時代は午前中いっぱい毎日その日の献立と、
その食材のルーツ、収穫の方法を学んでいたら、
もっともっと現代社会は、遅効性を規範とした仕組みで成立していたことだろう。
教育における食が低レベルだから、この現代社会が低レベルなのだと、断言できるわ。

今からでも遅くはない。
コロナ禍で引きこもり生活だからこそ、
食のあれこれを深く考え実践し、
食に思いを馳せて欲しい。
然れば、自身がふたつの穴を持つ1本のチューブで、
様々な生命の亡骸からおこぼれをもらい、
沢山の微生物の働きで生かされているのだと会得することだろう。

以下コピペ。

↓↓↓

つまり、食べるというのは、宇宙を身体に貫通させると言ってもいいくらい、壮大な行為なのです。
しかも、人間は食べているとき、孤食であっても孤独に食べているのではありません。
ほとんど意識していませんが、人間は腸内に100兆個の細菌を育てています。
人間は細菌にとっては生態系です。
その細菌に食べかけのものを分解してもらい、消化を助けてもらう。
ここで起こる化学反応はハイスピードです。
そうした変化が即興的に繰り広げられる世界は、幽玄な機能美にあふれています。


↓↓↓

だったらせめて、人間のみなさんは、
消毒、殺菌、滅菌に血道を上げるのではなく、
細菌にとって棲み心地の良い家を提供するのが筋ではないでしょうか。
食べることは人間が育つことであるとともに、人間の生態系を育てることでもあります。
噛んで、味わって、飲み込むあいだに、生き物たちの死骸との駆け引きをうまくやらないと、
細菌たちはびっくりして活動を停止します。
既に述べたように、遅効性とは、誰かに効果を任せることでもあります。
誰かとはこの場合は腸内細菌です。
食べることは、ガソリンのチャージではありません。
食べることは、生き物たちの亡骸に自分の身体を通過してもらい、おこぼれをいただくことです。
いろんな種類の死骸に囲まれながら、食べ物は新しい世界へと旅立っていきます。
言い換えると、食べることは、それほど人間主導的な行為ではなく、
世界に自分を育ててもらう現象にほかなりません。


↓↓↓

食は、身体を通過する現象。農業は、助ける行為。教育は、見守る行為。
このように幅広く食と農業と教育の定義を拡げていくと、
これまでの講義で述べてきた大規模、大量生産、効率主義、即効性によって満たされた
マニュアル型の食と農業の生産様式が、そのまま子どもの「育成様式」と酷似していることがわかります。
経済的にゆとりのある家庭が、夜間にまで及ぶ受験塾に多額の授業料を払い、
苛烈な受験戦争に子どもをさらし、学問の営みを訓練に変え、
創造の能力よりは、情報処理の能力の得意な人間が高学歴を得て、政治と経済の中枢に坐る。
日本の教育の仕組みは、まさに、現在の食と農業が直面している状況と大きく変わりません。
人間の育成がこういう仕組みでなされているのであれば、
なぜ、政治が話し合いではなく処理になってしまうのかさえも、理解することができます。
ゴルフ場を開発したり、企業誘致をしたりすることばかりに目がいく地方活性化のアイディアの貧しさも、
このあたりから生じてきているのかもしれません。


↓↓↓

食と農業の再定義は、
効率主義による不公平な競争の仕組みを変えていく足がかりになるかもしれません。
飽食と飢餓が同時に存在するいまの状況を根本から疑い、
食本来のあり方をもっと引き出していきたいと思います。


↓↓↓

餓えない民の民主主義、排除なき民主主義というものは今まで存在したことがない。
誰かが切り捨てられることは未だに無くならない。
けれども、発酵の世界は、そういった政治のあり方にヒントを与えてくれます。
発酵を知ることは、自分たちがどれほど多くのものに生かされているかを知ることです。
生き物が複雑に絡み合いつつ跋扈する世界を、
人間の超越した力で牽引するのではなく、
じっと待ちながら「切り盛り」するという世界が、発酵革命の基本理念であると思います。

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【May_06】藤原辰史『戦争と農業』

2020-05-06 | BOOKS&MOVIES
言うまでもなく、農業は、人間が生きていくためのかけがえのない産業です。
そのために発達させてきたはずの技術が、しかし、実は人間を大量に殺す技術の基盤と重複している。
トラクターの生産技術は戦車に、化学肥料の生産技術は火薬に、毒ガスの生産技術は農薬に転用されました。
そのことは使用者である農業従事者たちも意識していない。責任者がすぐに頭のなかに浮かばない仕組みです。

もしも、この世の中から兵器をすべて廃棄できたとしても、この仕組みがある限り、
いつでもすぐに民間の技術は戦争に利用されるでしょう。
わたしたちは常に、戦争に陥りやすい、暴力が発生しやすいこの仕組みにがんじがらめになっている。
これだけの兵器と兵器に転用できる民生技術に囲まれた地球で戦争がなくなることなど、
魅力的な遊具のある公園ですべての子どもが遊具を使わないで遊ぶぐらい、
ほとんど不可能と言って良いでしょう。

トラクターと戦車、
化学肥料と火薬、
農薬と毒ガス、
原子力発電と核兵器。


戦時利用であれ、平和利用であれ、
どちらも似た性質を持っています。

どれもが、扱う対象に対して距離をとって、
人間が長年培ってきた勘やそれに基づく即興的な対応力ではなく、
マニュアルに依存して用いる道具です。

トラクターに乗っていると、
土壌中の湿気と微生物たちの活動に注意を払いにくくなるように、

戦車のなかに閉じこもっている限り、
戦場で腐敗した死者の肉の臭いを嗅がなくてもすみます。

農薬を大量に撒くことで死んでいく虫がどんな虫か、
場合によっては益虫かもしれないことも考えなくてもいい。

遠距離からガスを詰めた砲弾を発射すれば、
毒ガスによって爛れた皮膚を見なくてもいい。

原爆後の長崎で死んだ子どもを抱くお母さんの
虚ろな顔を見なくてもいい。

農薬によって畑の周囲の昆虫が激減し生態系が変わることも、
農業用水や地下水が汚染されることも、人々の健康が著しく害されることも、
特段気にする必要はありません。

とりわけ化学肥料やそれが含まれる養液を用いる植物工場では、
菌がつかないように厳重に衛生管理されていますから、
病気になったレタスを見なくてもすみます。
   
         
(藤原辰史著『戦争と農業』より)

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【Apr_28】藤原新也著『Mémento-Mori』

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
藤原新也『死を想い生を想う』

しおれ、悲しみ、滅入り、不安を抱え、
苦しみにさいなまれ、ゆらぎ、くじけ、うなだれ、
よろめき、めげ、涙し、孤独に締めつけられ、
心置き忘れ、打ちひしがれ、うろたえ、
落ち込み、夢失い、望みを絶ち…

あとは生きることしか残されていないほど、
ありとあらゆる人間の弱さを吐き出すがいい。


藤原新也著『メメント・モリ』より 

僕はインドで、ガンジスの火葬のシーンを随分見たんだけども、
一番ショックだったのは、死体を焼く職人がいるでしょう。
代々世襲制で、ずうっと死体を焼く職人を嗣ぐわけです。
例えば、一日に三体焼くとして、一ヶ月にまあ百体位、一年に千体位焼くんですよ。
仮に十年、そういう仕事をしているというのは、一万体位も屍を焼いてきている人なんですね。
職人として淡々として死体を焼いているわけですね。
例えば、風が横から吹いた時に、炎が横に逃げるから、
風上にサリーを翳して置く。

それで風が来ないようにしたりする。
焼けにくい部分というのは、例えば、頭とか、
そういうところは途中で大きな棍棒で叩き割るわけですよ。
そうすると、脳味噌がパッと飛び散って、沸騰しているから、
それに火がついて、花火みたいにパッと散ったりする。
膀胱に溜まっている水が沸騰して、火の中からシューッと小便が出たりする。
そういう火と水の凄い修羅場みたいなものを見てきた。

死体を焼く職人というのはそういうことを淡々とやっている。
特に、頭を叩き割るシーンを見て、なんか物を打ち割って、なるべく早くうまく焼くという。
それだけのために淡々と仕事をしているという。
そこが凄く最初は違和感を覚えたんです。
だんだん最後に人間が焼け残って、灰になって、彼らは最後に箒でパッと掃くわけですね。
それで川にパーンと灰を捨てる。川面に来ると灰が流れていく。
そういう光景をずうっと見続けて来て、逆に凄くわだかまっているものが消えていった。
今、人が死ねば、箒で一掃きで、最後はおれも箒で掃かれるのかという感じで、逆に未練が無くなった。
死んだらあの世に逝くとか、まだ輪廻の世界に望みを託している場合じゃない。
死んでしまえば箒で一掃きだという。

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【aPR_24】わからないのならばしかたないですねとりあえずは信じておきなさい

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

本に寄稿したテキストに詳しく書いたけど、
人は、若いときは性愛について不自由で、大人になれば自由になれるって思えるわけです。
だから自由に憧れます。テクニックだけじゃなく、経験が、人や事態を理解できる能力を与えてくれます。
それが自由です。
その自由に対する反語が「3番線快速電車が……」という短歌です。
それによれば、自由になることが、よくないことなんです。
快速電車通過のアナウンスを、多くの人がちゃんと理解して下がります。
つまり自由なんです。理解できる人は自由だから下がります。
すると「理解できない人は下がって」っておかしいでしょ。
「理解できる人は下がるが、理解できない人は下がらないことをやめろ」みたいな二重否定文なんですよ。
「普通の人は下がる。あんたは普通じゃないので危ないから下がれ」みたいにも聞こえます。
そういう二重否定的な構造に、
昔なら誰もが良きものと考えていたシステムというものに対するアンビバレンスを感じます。
便利なシステムによってフラット化していく社会の中で、
どんよりしていくばかりの個人の在り方への、否定的感情が中澤さんにはあった。
当然だけど、不幸だから不幸な歌が詠めるんです。
そして、人は希望を抱くから失意に陥って不幸になるわけです。
また、失意の不幸ゆえに奇跡を待望したりもします。現実に起こらなくてもいい。
奇跡をリアルにイメージできるだけでも人は救われるからです。


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【Apr_24】属性としての外部のなきゆえに今朝も鏡の前で戸惑う

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

ルール通りということは、システム任せということです。
システム任せは、「望ましいけど悍ましい」。
逆に、ルール通りいかずにシステムに任せられないのは、
「悍ましいけど望ましい」。不思議なことに、世の中にはそういうことがいろいろあるんです。
「死」がそうです。
死は悍ましいけれど、死を意識するとフラットな日常が輝きに満ちたりもします。
ハイデガーもそういっていますよね。
SF作家のバラードも破滅三部作でそんな感覚を描いています。
「悍ましいけど望ましい事態」を僕たちは忘れちゃいけない。
さて「死」を意識すると、人は変性意識状態に入ります。
システム任せにしている時にシステムの外が露出すると、
やはり変性意識状態に入ります。変性意識状態とは、
雑多な感覚が遮断され、特定の感覚に没入した状態のことです。
反対が、通常意識状態ですね。


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【Apr_24】喩にあらぬ過剰なまでの物語携えたまま死にゆけばいい

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

隙に気がつくのは、実は細かくない人なんですよ。
だから、今の大学生よりも、僕が大学生だった頃の大学生の方が、隙を見分けられました。
たとえば、キメキメにきめている「高嶺の花」的な女がいれば、
大学生だった僕らは、それを戦略だと受けとったんです。
どんな戦略かというと、
見掛けに騙されずにハードルを越えてくる男を見極める戦略っていうことと、
キメキメに見えて随所に見せる隙をちゃんと見つけてくれる
「まともな男」「女の心を自分に映し出す男」を見極めるための戦略っていうことです。
ところが、ルールの外側に出たがらない昨今の「細かい男」は、
まじで馬鹿ぞろいになりました。
女の子が無理目に見えると、無理だと思っちゃうのね。
それが僕のいう「男の劣化」です。
そんな男を相手にしてしまう「劣化した女」が増えたのも、理由でしょう。
こうして残念なことが起り続けている中で、
残念なことが起こっていることに気がつく人たちが今もやはりいます。
そこには若い人たちもいます。
そんな人たちが中澤系さんのこの歌集を読んで、やはり……と受け止めているんだろうと、僕なんかは思うわけです。
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【Apr_24】システムの中に契約されて縛られたきみの姿が好きだ

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

それで思うのは、女性が大勢いる中で失礼かもしれないけど、
最近の女性には見かけはきれいになった方がいっぱいいるけれど、
心の眼で見るとブサイクな女性が多くなったなあってことなんですね。
それが、見ず知らずの男女間で生じる余韻や余情に関係します。
最近の女性たちの心にダイヴして世界を見ても、
世界が輝いたりワクワクしたりしないんです。
社会学者としてよりもナンパ師の観察眼だけど、
社会のフラット化による心身の劣化現象、
心身の劣化による社会のフラット化=法化現象が、両方とも観察できるんです。


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【Apr_24】展望のない未来までシミュレイトしたくて暗い部屋に灯ともす

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

中澤さんの歌集を読むと、そういう言葉がいっぱい出てきます。
たとえば準急電車の「準急」。
この世に電車ができたときいきなり「準急」は出てこない。
まず「普通」があって、次に「急行」ができる。「準急」は絶対、その次ですよね。
あと、「切れてるチーズ」。これも、切れてないチーズがまずあって、それから「切れてるチーズ」ができる。
僕らの世代だと、その時系列やプロセスを追える。
けれど、いま20代の人とかは、いきなり準急や切れてるチーズ、
そして糖衣錠があるところに生まれてくる。
だから、普通から急行を経て準急となったという、
その時間の流れがわからないことがある。


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【Apr_24】ゆっくりと留め金が外れる音がするパラダイム変換の時の

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
中澤系さんの命日_20090424。

たとえば、「正露丸」っていう薬があって、
「正しい」の「正」に露西亜(ロシア)の「露」、それと「丸薬」の「丸」で「正露丸」です。
しかし、もとは「正」ではなく「征伐する」の「征」が使われていた。
つまり、日露戦争などのときに日本の軍人が携帯していった薬というような由来があった。
戦後、それじゃまずいので、じゃあ字を変えればよいとなって、征伐の「征」を「正」に変えたと。
でも、だからといって、露西亜が正しいといってる薬ではなくて、単純に名前を変えただけなんですね。
だから、価値観や善悪を別にすると、「征露丸」のほうが意味を持つ言葉だといえます。
言葉としての「正露丸」は、デクノボウなのです。


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【Apr_21】大浦信行『遠近を抱えた女』

2020-04-22 | BOOKS&MOVIES
大浦信行監督『遠近を抱えた女

天皇のタブーに切り込んできた美術家の映画。
コレ観て監督の問題意識が共有できた。
コロナ禍でこの国が停滞し、看過してきたモノが浮き彫りに。
天皇タブーは結局、敗戦タブーだってこと。
首都の中心に位置する皇居が虚ろに見えるのは、
この国の中心が虚ろなのと同義。
天皇タブーもドグマ不在の『日本教』ゆえアンタッチャブルなのだ。

そんな戦後を生きてきた大浦監督にしてみれば、
虚ろな『日本教』を解体することこそが自身を解体することで、
『遠近を抱えた女』はそのことを、
自身を痛める女性に相似的に投影して描いた作品なのだ。
痛みによって存在事由を得ようとする行為は、
虚ろに光を当て叩かれる美術家大浦信行と呼応する。
コロナ禍で生活世界が止まった今だからこそ、
日本のブラックホールを白日の下にさらす時なのではないか。
オンライン上映は05/08まで。

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【Apr_13】小室直樹の世界

2020-04-13 | BOOKS&MOVIES
引きこもりの読書体験でとてつもない「知の巨人」と出会った。

橋爪大三郎、副島隆彦、大澤真幸、宮台真司といった面々が師と仰ぐ小室博士。
敗戦を拠り所に「日本を戦争で負けない国に」するため、米国以上に近代の本質を理解すること。
情念が目標を与え、合理が手段をもたらす『和魂洋才』の精神で、
数学、経済学、物理学、統計学、社会学、政治学、心理学、人類学と知を横断し、
社会を科学的に構造/機能分析した警世家。


生涯に於いて【天皇】【田中角栄】【三島由紀夫】に関心を持ち、
彼ら同様、日本国構造体の外側から日本を救おうと決死に動いた。


その中で自分が特に響いたのが『日本教』というアプローチ。
「イスラム教が何故日本に入ってこなかったのか」という命題から⇒
日本には行動規範が成立しない、何故なら「神や仏あっての人間ではなく、神や仏は人間のための存在」だからと説く。
島(国)の外側に帰属意識がないから、入ってくる情報がご都合主義に陥りやすく、
よって「自分に役立てば良い、何でもありな状態が良い」という無規範・無連帯な行動規範(アノミー状態)に落ち着くからだと。

外の目が育たないから批判的に捉えることができない…という構造は、まさに今のニッポン。
外部からの指摘や批評が真正面に受け止められず、常に内輪話の空回りが常態化。
だから物事が常に右往左往する「空気」紐帯社会。

そんな島社会が【新コロナ】によって崩壊目前となった今日、
「国」存続を占うのは、どこに帰属性を求めるかだと思う。
小室直樹、掘り下げるわ。


以下コピペ ↓↓↓

日本社会はなぜ、危機にあるのか。それは日本人が構造的アノミー(無規範・無連帯)に陥っていて、そこから脱却する方法を見いだせないからだ。
社会を科学的に分析することもできず、教育によって社会を正常に再生産することもできず、経済が不均衡に肥大化した半面、
政治や文化や学術は停滞したままであり、歴史と直面することもできないし、国際社会と健全な交流をすることもできない。
これら戦後日本の宿痾というべき構造の病理は、アノミーとして、人々を蝕んでいる。
(『危機の構造』)

↓↓↓

平和とは、戦争がない状態。平和とは、戦争する能力がある諸国家が、努力に努力を重ねて戦争を実測しないで済んでいる状態。
ではなぜ戦後の日本人は、そのようなリアルな認識ができないのか。それは、日本が当事者能力を取り上げられ、失っていること。
その代価として、アメリカが当事者能力を日本に代わって買って出て、
米軍を日本に駐留させ、責任をもって、日本の平和を保障する立場にいるからである。
(『新戦争論』)

↓↓↓

ユダヤ教では罪なきゆえに責任を負うことによって同胞である証とするわけでしょう。
自分は何の罪もないのに、他人の罪を、罪の責任を負うことによって、彼と同胞である証とする。
日本ではこれと逆に自分が罪を犯すと自分と同じ共同体に属するものに自動的に罪を負わせることによって、贖わせてしまう。
罪なき同法に罪を負わせる構造になっている。
(『日本教の社会学』)

↓↓↓

憲法の本質は権力を拘束するもの。普通の法律とは役割が違う。
国民には憲法を守る義務なんか一切ありませんよ。
憲法は、憲法を尊重し、擁護し、憲法を守る義務なんかまったく国民には負わせていないんだ。
(『痛快!憲法学』)

↓↓↓

第二次大戦の敗北にも関わらず、天皇が退位せず、非難もされず、処刑もされず、かえって戦後日本の国民統合の象徴として甦ったこと。
天皇とはつまるところ、日本が近代化できた秘密が凝縮された存在である。
それは人であり神であるという、キリスト教のロジックを秘密の核にしているのではないか。
(『天皇恐るべし』)

↓↓↓

行政官僚に対抗し、選挙で支えられる有能な民主政治家を、法律上の形式犯で裁き、葬っても良いのか。(『田中角栄の呪い』)

↓↓↓

三島の自決は同志の死であると。日本の国家や官僚機構、企業体制やアカデミズム、などは近代を体現しておらず、
日本人民のためにもならない、エセ近代だという深い憤りを、小室博士は抱いていて、
それを三島由紀夫に仮託して述べている。
(『三島由紀夫が復活する』)

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【Apr_10】教育をめぐる虚構と真実

2020-04-10 | BOOKS&MOVIES
「小さな国家で知られる新自由主義はふたつ柱があります。
ひとつは先に述べた財政破綻の回避。ところがもうひとつある。能動的市民社会性の護持。
【国家は社会の補完物に過ぎないのに、社会が国家に依存するのはおかしい。社会は自立しなければいけない】とする発想です。
新自由主義はもともと市場原理主義ではありません。

能動的市民社会性、社会の自立、国家から自立した相互扶助、社会的包摂といった概念がひとまとまりになっています。
これらは新自由主義というより、今日の欧州主義の柱です。
グローバル化は不可避だが、グローバル化に個人が晒されないように、社会の分厚さによって
包摂された状態が望ましいとする考え方です。
ただしサッチャーやレーガンが、伝統護持と社会的包摂と等値し、規律や道徳を前面に押し出したので、
今日「ネオリベ」と揶揄されるイメージになりました。
社会的包摂の空洞化による不安を利用して、感情浄化をもたらす重罰化や戦争を奨励するイメージです。
いわば福祉国家的なリベラルの時代への、バックラッシュでした。

今日ではバックラッシュにかわってグローバル化が問題になってます。
グローバル化は不可避だが、個人が直接グローバル化の嵐に晒されては大変だ。
でも国家が個人をダイレクトに手当する財政的余力もない。だから社会的包摂_自律的相互扶助_によって、
個人を守る必要がある。ただし社会的包摂の手段は、伝統にこだわらずオープンに考える、と。

日本は経済の好調もあって、国家の財政破綻が問題化するのが遅れました。
同じく、経済の好調が背景で、教育が抱える困難の問題化が遅れました。
91年にバブルが崩壊して以降、先進国から20年遅れで、財政問題や教育問題が主題化されはじめ、
リベラル派が自己決定化、分権化、民権化、市場化などを主張するようになりました。

僕もこうした流れにコミットしましたが必ずしもうまく行かなかった。理由はポストモダン化です。
いわば「外が消えた状態」がポストモダン化です。
〈生活世界〉を生きる我々の便益のために〈システム〉を利用するという観念が崩れた状態。
〈生活世界〉の空洞化と〈システム〉の全域化のせいですべてが〈システム〉のマッチポンプに見える状態。

〈生活世界〉が空洞化しているので、「〈生活世界〉に任せます」というタイプの分権化・民権化・市場化は、不安をもたらしがちです。
そこにグローバル化の波が重なるので、そうした傾向に拍車がかかります。
「隣は何をする人ぞ」「やったもん勝ち」「勝ち逃げ万歳」といった雰囲気になります。

それ自体がふたたび不安を増幅しますから、規律化要求、監視化要求、重罰化要求が上昇して、
それに応える【不安のマーケティング】や【不安のポピュリズム】が経済と政治を席巻します。
かくして、市場原理主義的なもの小泉純一郎的なものと、国家主義的なもの安倍晋三的なものが、カップリングを見せ始めます。

「市場原理主義がもたらす不安を国家主義的なもので埋め合わせる」という循環を断ち切れないと、
鈴木さんや僕が言うような「真・善・美の判断能力」と「コミュニケーションスキル」に重きを置く教育は、
「新しい勝ち組志向」の一種になってしまうでしょう。それを回避するにはどうするべきかです。

市場原理主義と国家主義のカップリングを早く終わらせるには
「市場原理主義がもたらす痛みは国家主義程度じゃどうにもならない」という経験が不可欠です。

それにはもっと経済的に貧窮する必要があります。

幸か不幸か必ずそうした方向に向かうでしょう。
我々に出来るのは「気付きまでの時間をできるだけ短縮すること」です。

具体的には「みんなで懲りる」ことが必要です。
文科省が言うような中央集権化を徹底して、国民が要求する規律化・重罰化・監視化を行っても、
いじめも犯罪もモラルハザードもなくならない。それどころか失敗を象徴するような大事件がいくつか起こる。
かくして「昔と変わらないどころか、悪くなってるじゃないか」と気付くことが重要です。


(宮台真司×神保哲生『教育をめぐる虚構と真実』より)
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【Apr_08】民主主義を目指さない社会

2020-04-08 | BOOKS&MOVIES
民主主義をめざさない社会(内田樹の研究室)


安倍政権が7年ものあいだ居座ってしまった理由は、
政権交代による民主主義の強化に主権者が疲れてしまった結果なのだと。
あの時も震災による未曾有の事態を受け止めることが出来なかった。
今回もコロナで民主制が試されている。

以下コピペ。↓↓↓

統治機構が崩れ始めている。公人たちが私利や保身のために
「公共の福祉」を配慮することを止めたせいで、
日本は次第に「国としての体」をなさなくなりつつある。


↓↓↓

私はこの現象をこれまでさまざまな言葉で言い表そうとして来た。
「反知性主義」、「ポピュリズム」、「株式会社化」、「単純主義」などなど。
そして、最近になって、それらの徴候が「民主主義をめざさない社会」に
固有の病態ではないかと思い至った。その話をしたい。


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民主主義はまだ存在しない。
私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。
民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、
つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。


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一神教の信者たちは
彼らが生涯ついに出会うことのなさそうな
救世主の到来を勘定に入れて今ここでの彼らの生活を律している。
ある概念の持つ指南力はそれが現実化する蓋然性とは関係がない。


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それと同じである。
そう考えると現代日本における民主主義の空洞化の説明がつく。


「主権者」とはどういう人間のことか。
私はこれを「自分の個人的運命と国の運命の間に
相関がある(と思っている)人間」と定義したいと思う。


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主権者の賢愚や善悪がそのまま国運を決する。
それなら民主制でも話は同じはずである。


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自分のただ一言ただ一つの行為によって
国がそのかたちを変わることがあり得るという信憑を手離さない者、
それが民主主義国家における主権者である。
だから、主権者は
「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」
「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。


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主権者のいない民主制国家では、
国民は自分の個人的な生き方と国の運命の間には相関がないと思っている。
自分が何をしようとしまいと、国のかたちに影響はないと思っている。
公共的圏域はあたかも自然物のように自分の外に存在しており、
自分が汚そうと傷つけようと蹴とばそうと盗もうと、
いささかも揺らぐことはないと思っている。
今の日本人はまさにそれである。


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主権者であることを止めた国民というのは
「高速道路が渋滞しているときに、路肩を走るドライバー」に似ている。


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どうやって「公共の福祉を配慮する人」と
「自己利益だけを追求する人」の比率をコントロールするか? 
それが民主制国家の直面する最大の現実的問題である。


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社会の民主化が進み、「大人」の数が増えるにつれて、
公共の福祉を顧みず利己的にふるまう人間(すなわち「子ども」)が得る利益は増大する。


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つまり、民主制とは、その構成員たちに絶えず
「他の連中には法と倫理を守らせ、常識に従わせ、
公共の福祉に配慮させておいて、
自分ひとりは抜け駆けして利己的・違法的・非民主的にふるまう」ように
誘いかけるシステムなのである。


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民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、
自助努力がそのまま国力の増大、
国運の上昇に結びつくと信じているからである。
自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。


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私が表現の適否を公的機関が判断することに反対するのは、
その機関がつねに誤った判断を下すと思っているからではない(多くの場合、その判断は正しいだろう)。
それが国民の適切な判断力の涵養に資するところがないからである。
国民の市民的成熟を目指さないからである。


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「あなたが判断しなさい」と権限を委ねない限り、
人は自分の判断力を育てようとはしない。
「あなたが決めるのです」と負託しない限り、
人は主権者としての自己形成を始めようとしない。


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 民主制はそのような「賭け」なのである。
今の日本で民主制が衰微しているのは、
私たちにその覚悟がなくなったからである。
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