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沖縄から東京へ!流転の写真日記

【Jun_07】海辺の彼女たち

2021-06-08 | BOOKS&MOVIES
『海辺の彼女たち』

技能実習生の実態を描いた作品。
ドキュメントなカメラワークでベトナム人女子の現実を活写。
日本が舞台なのに、日本人がほとんど登場しない。
それだけこの国では移民が他人事の極み。
世界4位の移民大国でありながら分断されているのは、
国の姿勢が民に伝播しているから。

この矛盾した受入体制が、実習生の人権をも踏み躙る。
一事が万事だわ。

敗戦で大国に阿り枯渇をしのいだ精神そのまま。
品位が喪われたまま、権威振り回すことばかり。
都合良く振る舞うこの国の姿勢を、
そのまま引き継ぐ社会が民が、やるせない。


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【Feb_07】人、場所、歓待

2021-02-07 | BOOKS&MOVIES
金賢京著『平等な社会のための3つの概念_人、場所、歓待』
何人も等しいとする現代社会の欺瞞を『人、場所、歓待』の切り口で解きほぐす名著。
人は生まれた途端、名前を受け、社会に無条件で歓待される。
歓待とは、共同体の中で成員権を持つという意味だ。つまり、人であることは一種の資格であり、他人の承認を必要とする。
場所を与えられる…とは、「居ても良い」ということだ。これはいじめやホームレスで考えると分かりやすい。
いじめは「この教室にお前の席はない。お前はこの学級の一員ではない」というメッセージであり、
ホームレスはそれ自体が屈辱であり、社会が彼から居場所を奪うことで彼を侮辱している。

歓待とは他者に場所を与えること、または彼の場所を承認すること、
彼が楽に「人」を演技できるよう手助けすること、そうして彼をもう一度「人」にしてやることだ。
歓待とは与える力を与えることであり、受け取る人を与える人にすることだ。
(金賢京)

社会から無条件に歓待され、社会の一員として場所を与えられることで「人」になる。
つまり「人」とは社会との相補的な関係にあり、社会に含み含まれた存在なのだ。

だから、死刑制度は成立しないと著者は言う。
歓待され社会の中に存在する「人」が、社会の外に追いやられるのが死刑だからだ。
死刑は犯罪者を社会の外へと追いやり社会の敵として抹殺する。
彼が社会の敵ならば、彼は社会の規則に従う必要がない。
法の力が彼に及ばないのであれば、社会が彼を法で裁くことは出来ない。
彼は法の外にいるが故に、死刑は国家からの戦争であると。

犯罪者が社会の外にいるならば、わたしたちは彼にいかなる処罰の「権利」も主張できない。
権利について述べるためには、諸主体がまず相互承認関係の中に入らなければならないからだ。
(金賢京)

『何人も等しく尊い』の実感なしにうわべだけの理解で居るから、
「差別」が消えないのだとこの書は教えてくれる。

必読。
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【Jan_20】「島田を殴るのはオレで、ほかの奴には絶対殴らせない」

2021-01-21 | BOOKS&MOVIES
島田雅彦『君が異端だった頃』⇒会田誠『げいさい』的自伝青春小説。

80年代のエゲツない高揚感がそのまま収まってる。
POPEYEやWalkmanの浮かれた時代に、ロシア語と社会主義に傾倒し、
廻り道こそ作家への近道と愚昧を重ね、異端であり続ける努力を惜しまない姿。

雌伏の10年が花開いてからの、文壇の乱痴気に巻き込まれる辺りのドライヴ感が正にバブルで、
コロナの静寂を予期した作家の掻き乱し方が、人間の業の深さを思い起こさせる。

何より中上健次との格闘は涙。
「島田を殴るのはオレで、ほかの奴には絶対殴らせない」とのSM的関係は、
文壇の異端同士が共鳴する偏愛から生じていたのだと。

ふたりの、豊穣ゆえに蕩尽する生き様が、その天才性を逆に表していて、
残されたマゾ彦の空回り感、ハンパない。

島田は虚無ゆえに多弁な作家なのであった。
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【Jan_20】入れ替わるように、中上健次が故郷で身罷った。

2021-01-20 | BOOKS&MOVIES
それから1ヶ月後、ほとんど彌六と入れ替わるように、中上健次が故郷で身罷った。享年四十六。
暑い盛りに東京でのお別れの会があった。若い読者が千円の香典を持参して会場に駆けつけ、
「アニキ」に別れを告げる光景が見られた。君は滴り落ちる汗をぬぐいながら、遠くに見える遺影に向って、
「路地の荒くれ男たちの短命にして波瀾万丈の物語をなぞらず、
自己申告ではない、正真正銘の文豪になる手もあったじゃないですか」と虚しく呼びかけた。

これでようやくあの男の抑圧から解放されるのだと、君は考えようとしたが、何一つ恩返しできなかった負い目と
置いてけぼりを喰った寂しさの方が大きかった。中上のいない世界はどれだけ虚しく、退屈か、を想像すると、いたたまれなかった。
谷崎賞を渇望しながら、落とされ続けた無念に「風花」のカウンターでうなだれる中上、
佐伯に買ったばかりの革ジャンを気前よくやったくせに、惜しくなり、ずっとつきまとっていた中上、
手持ちのカネがなくなり、紀伊國屋書店に借りに行った中上、無頼だが、ナイーブな中上を思い出しては、微笑と涙を誘われた。

四十九日が過ぎた頃、慶應病院に付き添っていた文春の担当吉安が君にこんな話を報告してきた。
大江健三郎が朝日新聞の文芸時評で君の『彼岸先生』を否定的に評したのを読んで、中上は自分のことのように憤り、こういったのだそうだ。
ーーー島田を守れ。オレが死んだら、誰もあいつを守ってやれない。
君はその時初めて、弟分に惜しみなく注がれた中上の慈しみを痛感した。涙腺の鈍さには自信があったのに、涙が溢れるのを止められなかった。
君を殴ると宣言したり、パシリ扱いしたりしながらも、誰よりも君のことを気に掛け、守ってくれていたのが中上だったのだ。
おのが不運を嘆くあまり、中上の慈愛を信じられなかった自分が情けない。君は中上の墓前に立つ度にこんな誓いをする。
あなたから受けた恩恵の分け前を必ず後輩たちに施すようにします、と。
(島田雅彦著『君が異端だった頃』より)

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【Jan_20】オレの文体はワーグナーの無限旋律なんだ。

2021-01-20 | BOOKS&MOVIES
オレの文体はワーグナーの無限旋律なんだ。句読点も改行もなく、そろそろ終わるかと思うと、
もう一発、さらにもう一発かましてくる。トリスタンとイゾルデがまぐわう時のあの陶酔感は
変な和音の浮遊感を伴って、クライマックスが何度も畳み掛けられるだろう。あれに似てる。
よほどの体力がないと、中折れする。

それは見事な自己解析だった。中上は徒手空拳で偉大なる先達に決闘を申し込む癖があった。
相手はセリーヌだったり、ジャン・ジュネだったり、ドストエフスキーだったりする。
バフチンのポリフォニー理論のことも知っていて、
「自己の小説はドストエフスキーよりもさらにポリフォニックで、紀州の路地だけでなく、
世界中の路地にいる朋輩たちとの終わりなき対話を繰り広げている」と言い出したりする。

文豪にマウンティングするこの不遜、この自己顕示こそが中上だった。文学者は誰しも多かれ少なかれ自己愛の塊で、
肥大化した承認願望を抱えているものだが、君を含めて大抵の人は被害妄想に縮こまっており、自分教の布教にまでは至らない。
ところが、中上ときたら、創造の神は自分を贔屓にしていると信じて疑わないし、自分がメインで過去の文豪は前菜に過ぎない
…とまで思い上がることができた。中上教の教祖中上健次は夜な夜な新宿の裏道のバーをハシゴしながら、
たまたまそこにいる酔客相手にかなり効率の悪い伝道を行っていた。

週に八日間飲み歩いているともいわれた中上は一体、いつ書いているのか、それは誰もが抱いている疑問だったが、
彼はミューズの降臨をとともに待っていたのである。いよいよ、追い詰められ、担当編集者の顔が引きつってくると、
中上はまず酒を抜くために一日何もしない日をあいだに置く。そして、二日目の夜あたりからようやく机に集計用紙を広げ、
罫線に沿って丸みを帯びた丁寧な手書きの文字を連ねてゆく。無限旋律的なその文章は改行も句読点もなく、
写経しているかのように淀みなく、かなりの速度で書きつけられる。不眠不休、絶食で集中し、二日間の完徹もしばしばだった。
中上の生原稿をのちに寺田氏に見せてもらったが、万年筆で書かれた原稿に直しはほとんどない。基本、行組と校正は編集者任せで、
数日後には三日間で書いたとは思えない奇跡的な完成度の作品が活字になっている。
(島田雅彦著『君が異端だった頃』より)

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【Oct_08】「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」である

2020-10-08 | BOOKS&MOVIES
『急に具合が悪くなる』読了。
死に至る偶然性を通して、生きていることの偶然性を照射し、
「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」であることを、
2人の著者の往復書簡で共時的に繙かれた書。

「私が『いつ死んでも悔いが残らないように』という言葉に欺瞞を感じるのは、
死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、
そのつどに変化する可能性を見落とし、
未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。」
(宮野真生子)

分岐する未来を考え、リスクを計算し、複数の可能性を考慮し、
出来るだけ安全に生きていけるようにする。そうやって自分を守ることの、
何が薄っぺらいのか、と反論したくなる人もいるでしょう。
ええ、たしかに、そこでは未来という広がりが射程に収められてはいます。
しかし、それはあくまでも「自分」にとっての未来であり、
自分一人が流れる時間のなかを生きていると思っていませんかと私は問いたい。
(宮野真生子)

西田幾多郎⇒九鬼周造⇒三木清⇒木村敏⇒宮野真生子の京都学派の系譜に流れる【あいだ】の思想。
出会った他者を通じて自己を生み出す間主体性が「時」を生じさせているのだ…というビジョンの美しさ。
コロナ禍によって、リスク回避を最善とし、
身内の死よりも自身の生を選んでしまうエゲツない社会の存様の中で、
【偶然性】こそが己の生を引き受ける根源的な営みなのだと、
その開かれた「生きよう」を身を以て体現された哲学者の尊さに、涙。
「人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばし得るか(三木清)なのだ。

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【Jun_19】聖と賤の環流するこの日本的自然

2020-06-19 | BOOKS&MOVIES
やはり中上健次は巨人だった。『紀州木の国・根の国物語』で中上は、
自ら「路地」と名付けた被差別部落を経巡り、「差別被差別」について自問するのだが、
出自にかかわることだけに抉られるような凄みがある。


青年は作業場の一等奥、物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき、
切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から、毛を抜いていた。
自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。
腐肉のにおいの中で青年は、台に一台小さなラジオを置き、手ばやく毛を抜きとりそろえている。
肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが、毛に何匹ものアブがたかっていもいる。衝撃的だった。

その衝撃は、言葉をかえてみれば、畏怖のようなものに近い。
霊異という言葉の中心にある、固い核に出喰わした、とも、
聖と賤の環流するこの日本的自然の、根っこに出喰わしたとも、言葉を並べ得る。
だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。
私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが、
一瞬にして、語られる物語、演じられる劇的な劇そのものを見、
そして物語や、劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。
それが正しい。つまり、小説と小説家の関係である。
若い青年が腐肉のにおいを相手にして仕事をしなくても、他に色々仕事はある、と思いもしたし、
物の実体、ここでは自動車洗いに使うハケや歯ぶらしという商品であるが、
その物、商品の実体は、みにくいとも思った。
人が、そのみにくい実体に顔をむけ、手を加え、商品という装いにしてやる。
いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦(ゆんづる)になる。
バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。
音の本質、音の実体、それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。
音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。
弦は、だが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。
実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。

(『紀州木の国・根の国物語』朝来より中上健次)


後半の記述の激しさたるや。みにくい実体が、
聖と賤の均衡を破ってふきこぼれてしまう物。
音はみにくい…とし、馬の尻尾の毛は、脂や塩のべたべたする苦痛とともに、
快楽そのもののようにヒュンヒュンと音をたてる…と。

穢れの中に浄化があり、過剰さこそがすべてを包摂しうる…とでも言うように。
「路地」を書き貫いた男の筆致は、どこまでも光明だと思った。

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【Jun_10】日本人にはまだ憲法は書けない。by小室直樹

2020-06-09 | BOOKS&MOVIES
日本人にはまだ憲法は書けない』小室直樹氏

聖なるものの猛威、王権の猛威を
いかに囲い込むかが「憲法」であり、
その主体たる国民が、
統治に政治家を使うのが
「民主主義」である。

そのような道具としての
「憲法」と「民主主義」に
国民が徹底して通暁しなければ、
日本は近代のエートスで
自在にふるまうことができない。


(マル激トーク・オン・ディマンド 第212回より)

「憲法違反は政府にしかできない」と小室氏は言う。
主体はどこまでも国民にあり、憲法は統治権力に箍を嵌めるものであると。
宗教や王権の猛威から人権を守るために「憲法」は生まれたのであり、
そのような猛威に晒された経験のない日本国民には、
「憲法」の背景にあるその国民意志が理解できない。

宮台氏は続ける。

「我々に憲法意志なるマインドがあれば、
どんなマキャベリスティックな改正であっても、
本質を貫徹することができる」。


つまり、憲法の主体が国民であることを自覚さえしていれば、
政府の思惑など屁でも無いのだと。
同じように借り物であるデモクラシーも、
道具として使い道を知り尽くしていれば、ワケはない。

しかし、日本国民は近代のしくみが分かっていないので、
合理的に立ち振る舞うことができない。
蒙昧過ぎて付け入られてしまっている。
やはりそこには「自分で考え、自分で決める」学問的動機が薄い。

「悲しみ」や「怒り」などの不合理な経験による、
合理的であろうと欲する「希望」が育たないのだと。
その内発性こそ、プラグマティズムであり、
教育とはその内発性の発露を導くものであるのに、
短絡的な「にんじん」で損得勘定ばかり育てるから、
原理原則のない人間ばかりになるのだ…と。

小室直樹氏の偉大さは、
後に続く宮台真司氏のリスペクトぶりを見れば明らかである。
ミメーシスが、真理だ。


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【Jun_04】僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に 激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。

2020-06-04 | BOOKS&MOVIES
アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。
ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、
ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、
最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。
この人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、
僕たちは彼らになら共感することが出来た。
僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に
激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。
まさにそれゆえに僕たちは
アメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱く事が出来た。
反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、
これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことが出来る。
自分たちの祖先がネイティブアメリカンの土地を強奪したこと、
奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと、
それを口にすることが出来る。
そのような恥ずべき過去を受け入れることが出来る
という「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

国力とは国民たちが
「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」
というセルフイメージを持つことで増大すると言うようなものではありません。
逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。
失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、
正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。
国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。
失敗したときに補正できる力のことです。
でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことが出来るのは、
しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。
僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。

(『サル化する世界〜比較敗戦論のために』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。


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【Jun_04】今の日本の英語教育は 「母語の檻」からの 離脱など眼中にない。

2020-06-04 | BOOKS&MOVIES
外国語を学ぶのは
「日本人なら誰でもすでに知っていること」
の檻から逃れ出るためだ
という発想がみじんもない。
母語的な現実、
母語的な物の見方から
離脱すること。
母語的文節とは
違う仕方で
世界を見ること、
母語とは違う言語で
自分自身を語ること。
今の日本の英語教育は
「母語の檻」からの
離脱など眼中にない。

(『サル化する世界〜AI時代の英語教育について』より内田樹)

「今さえ良ければいい」というのは時間意識の縮減のことである。
平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。

「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる
自己意識の未成熟「今さえ良ければ、それでいい」のことであるが、
「自分さえ良ければ、他人のことはどうでもいい」というのは
自己同一性の空間的な縮減のことである。

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。
「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。
だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。
「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると
自己利益が増大するかどうか」を自らに問えば良いのである。

(『サル化する世界〜サル化する世界』より内田樹)

その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりも
むしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。

「制度がある限り、ルールに沿って制度は粛々と運用されるべき」
だという形式的な議論に私は説得されない。
それは「そもそもどうしてこの制度があるのか」という根源的な問い
のために知的リソースを割く気のない人間の言い訳に過ぎないからだ。

(『サル化する世界〜死刑について』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。


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【May_31】環境が自然=世界であるより、人間=社会になった。

2020-05-25 | BOOKS&MOVIES
我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。

(2020/03/28DarwinRoom『料理の人類学』より宮台真司)

LOHASやSDGsがどこまでも胡散臭いのは、
人間の倫理に問いかけているようで実は損得勘定による動機付けがあるから。
【人間の存続は自明ではない】という事実は、
人間界隈に閉じ込められた人間主体の社会ゆえ葬られている。
そのような人間中心社会の最たる「料理」から、考察する講座。


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【May_22】ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。

2020-05-22 | BOOKS&MOVIES
ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。
「よく整えられたもの」を意味する。
理性とはまず神の事柄である。
人間にできることは、
自然の秩序に従うことである。
自然の秩序に学び、それに従うのが、
人間の理性というものである。
それとて、常に中途半端で、
間違ってばかりいる。
しかし、だからこそ、
中途半端であるという自覚をもって、
より優れた理性を磨かないといけない。
優れた理性とは、
自分がどれだけ多くのことを知らないか、
ということを正確に自覚するものである。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)

キリスト教を宗教として色眼鏡で語るのではなく、
イエスから生まれた思想として解きほぐそうとした田川建三の書。
一言一言が平易かつ実直な言葉で綴られていて突き刺さる。
人間は被造物である…というまごうことなき事実を、
77億人のうちの多くの民は体感しているのに、
一部の権力者やエスタブリッシュメントたちが、
大きなカンチガイで、世界を牛耳ろうとしているから、こんな時代になった。

人間の感性は、その人の経験の範囲にしかない。
考えなくともおのずと感じることが出来ることは、
その人がこれまで生きてきて、
自分の中に蓄えてきたことの範囲でしかない。
世の中には、自分が経験しなかったこと、
自分が接することのなかったもの、未知のものが大量にある。
未知のものは、自分の感性の中だけでは捉えきれない、
と知ったら、理解する努力をしないといけない。
それが理性、知性というものである。

そのことがよくわかるのは、
人と人との間の関係である。


感性を基礎にしてつきあって、
その人に対して隣人愛を持つことが出来るのは、
その人をある程度以上よく知っている場合、ないし、
その人と自分が非常によく似た生まれ育ちであり、
今生きている環境も似たり寄ったりというのでないと、
ありえないことである。
まったく未知の人たちに対して、
それもよく知らない他民族の人たちに対して、
温かい関係を築きうるには、
まずその人たちのことを
かなり多く知る努力をしないといけない。

人間どうしでさえ、そういうものである。
ましてや、人間を囲む自然世界に対しては。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)



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【May_07】人間は、生き物の死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる、一本の弱いチューブである。

2020-05-08 | BOOKS&MOVIES
藤原辰史『戦争と農業』。
いかに現代が食を過小評価し、邪険に扱ってきたか。
生活の重要な行為として、食に敬意を払わずおざなり過ぎたから、
このような社会形成と政治形態になってしまったのだと。
そもそも食を安易に捉えすぎ。
小学校の給食が、短時間で済まされていたことが間違い。

すべての国民が、小学校時代は午前中いっぱい毎日その日の献立と、
その食材のルーツ、収穫の方法を学んでいたら、
もっともっと現代社会は、遅効性を規範とした仕組みで成立していたことだろう。
教育における食が低レベルだから、この現代社会が低レベルなのだと、断言できるわ。

今からでも遅くはない。
コロナ禍で引きこもり生活だからこそ、
食のあれこれを深く考え実践し、
食に思いを馳せて欲しい。
然れば、自身がふたつの穴を持つ1本のチューブで、
様々な生命の亡骸からおこぼれをもらい、
沢山の微生物の働きで生かされているのだと会得することだろう。

以下コピペ。

↓↓↓

つまり、食べるというのは、宇宙を身体に貫通させると言ってもいいくらい、壮大な行為なのです。
しかも、人間は食べているとき、孤食であっても孤独に食べているのではありません。
ほとんど意識していませんが、人間は腸内に100兆個の細菌を育てています。
人間は細菌にとっては生態系です。
その細菌に食べかけのものを分解してもらい、消化を助けてもらう。
ここで起こる化学反応はハイスピードです。
そうした変化が即興的に繰り広げられる世界は、幽玄な機能美にあふれています。


↓↓↓

だったらせめて、人間のみなさんは、
消毒、殺菌、滅菌に血道を上げるのではなく、
細菌にとって棲み心地の良い家を提供するのが筋ではないでしょうか。
食べることは人間が育つことであるとともに、人間の生態系を育てることでもあります。
噛んで、味わって、飲み込むあいだに、生き物たちの死骸との駆け引きをうまくやらないと、
細菌たちはびっくりして活動を停止します。
既に述べたように、遅効性とは、誰かに効果を任せることでもあります。
誰かとはこの場合は腸内細菌です。
食べることは、ガソリンのチャージではありません。
食べることは、生き物たちの亡骸に自分の身体を通過してもらい、おこぼれをいただくことです。
いろんな種類の死骸に囲まれながら、食べ物は新しい世界へと旅立っていきます。
言い換えると、食べることは、それほど人間主導的な行為ではなく、
世界に自分を育ててもらう現象にほかなりません。


↓↓↓

食は、身体を通過する現象。農業は、助ける行為。教育は、見守る行為。
このように幅広く食と農業と教育の定義を拡げていくと、
これまでの講義で述べてきた大規模、大量生産、効率主義、即効性によって満たされた
マニュアル型の食と農業の生産様式が、そのまま子どもの「育成様式」と酷似していることがわかります。
経済的にゆとりのある家庭が、夜間にまで及ぶ受験塾に多額の授業料を払い、
苛烈な受験戦争に子どもをさらし、学問の営みを訓練に変え、
創造の能力よりは、情報処理の能力の得意な人間が高学歴を得て、政治と経済の中枢に坐る。
日本の教育の仕組みは、まさに、現在の食と農業が直面している状況と大きく変わりません。
人間の育成がこういう仕組みでなされているのであれば、
なぜ、政治が話し合いではなく処理になってしまうのかさえも、理解することができます。
ゴルフ場を開発したり、企業誘致をしたりすることばかりに目がいく地方活性化のアイディアの貧しさも、
このあたりから生じてきているのかもしれません。


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食と農業の再定義は、
効率主義による不公平な競争の仕組みを変えていく足がかりになるかもしれません。
飽食と飢餓が同時に存在するいまの状況を根本から疑い、
食本来のあり方をもっと引き出していきたいと思います。


↓↓↓

餓えない民の民主主義、排除なき民主主義というものは今まで存在したことがない。
誰かが切り捨てられることは未だに無くならない。
けれども、発酵の世界は、そういった政治のあり方にヒントを与えてくれます。
発酵を知ることは、自分たちがどれほど多くのものに生かされているかを知ることです。
生き物が複雑に絡み合いつつ跋扈する世界を、
人間の超越した力で牽引するのではなく、
じっと待ちながら「切り盛り」するという世界が、発酵革命の基本理念であると思います。

#photobybozzo
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【May_06】藤原辰史『戦争と農業』

2020-05-06 | BOOKS&MOVIES
言うまでもなく、農業は、人間が生きていくためのかけがえのない産業です。
そのために発達させてきたはずの技術が、しかし、実は人間を大量に殺す技術の基盤と重複している。
トラクターの生産技術は戦車に、化学肥料の生産技術は火薬に、毒ガスの生産技術は農薬に転用されました。
そのことは使用者である農業従事者たちも意識していない。責任者がすぐに頭のなかに浮かばない仕組みです。

もしも、この世の中から兵器をすべて廃棄できたとしても、この仕組みがある限り、
いつでもすぐに民間の技術は戦争に利用されるでしょう。
わたしたちは常に、戦争に陥りやすい、暴力が発生しやすいこの仕組みにがんじがらめになっている。
これだけの兵器と兵器に転用できる民生技術に囲まれた地球で戦争がなくなることなど、
魅力的な遊具のある公園ですべての子どもが遊具を使わないで遊ぶぐらい、
ほとんど不可能と言って良いでしょう。

トラクターと戦車、
化学肥料と火薬、
農薬と毒ガス、
原子力発電と核兵器。


戦時利用であれ、平和利用であれ、
どちらも似た性質を持っています。

どれもが、扱う対象に対して距離をとって、
人間が長年培ってきた勘やそれに基づく即興的な対応力ではなく、
マニュアルに依存して用いる道具です。

トラクターに乗っていると、
土壌中の湿気と微生物たちの活動に注意を払いにくくなるように、

戦車のなかに閉じこもっている限り、
戦場で腐敗した死者の肉の臭いを嗅がなくてもすみます。

農薬を大量に撒くことで死んでいく虫がどんな虫か、
場合によっては益虫かもしれないことも考えなくてもいい。

遠距離からガスを詰めた砲弾を発射すれば、
毒ガスによって爛れた皮膚を見なくてもいい。

原爆後の長崎で死んだ子どもを抱くお母さんの
虚ろな顔を見なくてもいい。

農薬によって畑の周囲の昆虫が激減し生態系が変わることも、
農業用水や地下水が汚染されることも、人々の健康が著しく害されることも、
特段気にする必要はありません。

とりわけ化学肥料やそれが含まれる養液を用いる植物工場では、
菌がつかないように厳重に衛生管理されていますから、
病気になったレタスを見なくてもすみます。
   
         
(藤原辰史著『戦争と農業』より)

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【Apr_28】藤原新也著『Mémento-Mori』

2020-04-28 | BOOKS&MOVIES
藤原新也『死を想い生を想う』

しおれ、悲しみ、滅入り、不安を抱え、
苦しみにさいなまれ、ゆらぎ、くじけ、うなだれ、
よろめき、めげ、涙し、孤独に締めつけられ、
心置き忘れ、打ちひしがれ、うろたえ、
落ち込み、夢失い、望みを絶ち…

あとは生きることしか残されていないほど、
ありとあらゆる人間の弱さを吐き出すがいい。


藤原新也著『メメント・モリ』より 

僕はインドで、ガンジスの火葬のシーンを随分見たんだけども、
一番ショックだったのは、死体を焼く職人がいるでしょう。
代々世襲制で、ずうっと死体を焼く職人を嗣ぐわけです。
例えば、一日に三体焼くとして、一ヶ月にまあ百体位、一年に千体位焼くんですよ。
仮に十年、そういう仕事をしているというのは、一万体位も屍を焼いてきている人なんですね。
職人として淡々として死体を焼いているわけですね。
例えば、風が横から吹いた時に、炎が横に逃げるから、
風上にサリーを翳して置く。

それで風が来ないようにしたりする。
焼けにくい部分というのは、例えば、頭とか、
そういうところは途中で大きな棍棒で叩き割るわけですよ。
そうすると、脳味噌がパッと飛び散って、沸騰しているから、
それに火がついて、花火みたいにパッと散ったりする。
膀胱に溜まっている水が沸騰して、火の中からシューッと小便が出たりする。
そういう火と水の凄い修羅場みたいなものを見てきた。

死体を焼く職人というのはそういうことを淡々とやっている。
特に、頭を叩き割るシーンを見て、なんか物を打ち割って、なるべく早くうまく焼くという。
それだけのために淡々と仕事をしているという。
そこが凄く最初は違和感を覚えたんです。
だんだん最後に人間が焼け残って、灰になって、彼らは最後に箒でパッと掃くわけですね。
それで川にパーンと灰を捨てる。川面に来ると灰が流れていく。
そういう光景をずうっと見続けて来て、逆に凄くわだかまっているものが消えていった。
今、人が死ねば、箒で一掃きで、最後はおれも箒で掃かれるのかという感じで、逆に未練が無くなった。
死んだらあの世に逝くとか、まだ輪廻の世界に望みを託している場合じゃない。
死んでしまえば箒で一掃きだという。

#photobybozzo
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