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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【MUNICH】根源からお金を問うこと…2

2008-06-02 | MUNICH
3月13日。雨に濡れる白鳥。
ルートヴィヒを想う。



「お金」が「お金」を生み出す「資本主義」。
そこにどんな無理が生じてくるのか。

もともとない「価値」を
「お金」の売買で架空に作り出している。
そこが無理な話ってこと。

何かを生産せずに対価を受け取ることは不可能だから、
「お金」を借りてしまった債務者は、
何かを生産しなければならない。

それがdevelopment「開発」。

あらかじめ想定した「売上げ」を申請して、
銀行から資金を借り、大きく土地を開発する…なんてこともある。

どちらにしても
「お金」が生んだ架空の「お金」を
実質的に生み出すために「開発」が生まれる。

利子が膨らめば、それだけ開発の規模も膨らむ。

「先物買い」みたいなイメージだろうか。

「モノ」と「モノ」の間を取り持つ「お金」が
未来に生み出す価値を「先に」生み出して大きくなっていく。

しかも右肩上がりに…留まることを知らず…。

それって、どういうこと?
「お金」が「お金」を生み出した分だけ、
ボクらは未来を食い散らしている。

未来の価値を雪だるま式に転がせば転がすほど、
未来に耕すはずだった土地は、どんどん開発され、
破壊され、急激な成長を生み、
債権者はどんどん金持ちになって、
債務者はどんどん蝕まれていく。

この100年で、世の中が急激に変わったな…と感じた原因は、
「資本」を先売りすることで「未来」を先買いした結果だったのだ。

そして、地球は環境破壊が進み、
素に戻れない状況まで追いつめられてしまった。

「お金」が「お金」を生み出すサイクルは、
どんどん加速の一途と辿っている。

ミヒャエル・エンデは、ここに警鐘を鳴らしたのだ。






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【MUNICH】根源からお金を問うこと…1

2008-06-02 | MUNICH
3月13日。木曜日。

ミヒャエル・エンデ博物館にて、
エドガーの画集やルイーデの絵を眺めて過ごす。

芳名帳には、日本から来た
たくさんのエンデファンが
その思いを日本語で綴っていた。

ボクも「来るべくして来ました」…と記した。

エンデの思索で感銘を受けたのは、
やはり「根源からお金を問うこと」

わかりやすく説明すると、

1.はじめは「モノ」と「モノ」の交換で暮らしていた。
 ⇒「パン」と「バナナ」を交換して、お互いが満足していた。

2.そこに「モノ」の価値を代用するものとして「お金」が生まれた。
 ⇒価値を定義する物差しとして「金」や「銀」が基準になった。

3.すべての価値を代用し、かつ風化しない「お金」は力を持ち出す。
 ⇒「バナナ」は腐るけど、「お金」は腐らない。

4.「お金」を蓄え、貸し出すことを商売として思いついた人間がいた。
 ⇒価値が不変だから、貸し出すことが可能になった。

5.貸し出す対価として「利子」を生み出し、儲けることに。
 ⇒「価値」を肩代わりする代わりに、手数料を払え…と。

6.モノの価値を代用する「お金」そのものが、商品となった。
 ⇒「お金」を預けると「利息」がつき、貸すと「利子」がついた。

この6が曲者で、
もともと対価の代用でしかなかった「お金」は、それだけで生産性はなく、
価値を生み出すことはできない。1000円はいつまでたっても1000円だ。

しかし、「お金」を商品として売り買い(貸し借り)することで、
「お金」にプラス手数料という価値が生まれてしまった。

「利息・利子」という名の手数料は、「お金」を借りた側の負担から生まれている。
債務者が生み出す価値である。もともとないはずの「価値」だ。

ここに問題が生じてくる。

「利子」はマイナスには転じない。ベクトルは常に上向きだ。

元金は、転がる雪だるまのように
どんどん利子にまみれ、大きくなる。
その増えた分は、債務者の手で生産しなければならない。

一方の債権者は、雪だるまが大きくなるように
資金を集める。「銀行」の始まりだ。

預ける側のメリットとして「利息」をつける。
「利息」を払うために「銀行」は債務者を急き立てる。

「お金」を商品にすることで「お金」が生まれている。
これはやっぱり、無理が生じてくる。

商品をつくって、その価値を対価として支払う仕組みから
「お金」そのものの「価値」を売買して「お金」を生み出す仕組みに。
…これが「資本主義」と呼ばれるもの。




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【MUNICH】父エドガーエンデ

2008-06-02 | MUNICH
3月13日。木曜日。すでに雨。

静まった公園に、
ほんとひっそりと
ミヒャエル・エンデ博物館はあった。

1階は国際青少年図書館になっていて
世界各国の絵本が、相当量置いてあった。

「これはこれで、一日過ごせるな…」

かなり興味深い空間だったのだけど、
まずはエンデ…ということで
3階にまで上がる。

屋根裏のようなこじんまりとした空間。
斜めになった天井がまた居心地よく、
エンデだけでなく、エンデの父や母の作品まで
キレイに並べられて、日本の和室を模した空間まであり、
静かな雨の日に訪れるには、最適な場所だった。

父エドガーの絵をまじまじと眺めたのは
初めての経験だったけど、
ミヒャエルがどうして根源的な問いを好むのか
父の絵をみて、合点がいった。

心の中で膨らんだ映像を忠実に再現すべく、
父はデッサンと称して一日中アトリエに籠もるらしいのだが、
そこからあぶり出された絵の断片を、
繰り返し繰り返し描き直すことで、ひとつの作品に昇華していく作業は、
何度も自問自答を繰り返し、削ぎ落としていく過程が伴う。

そこから導き出されたシュールレアリスムの絵画は、
たしかに万人の理解を超えた世界になっているが、
観る者になにかしらの「ひっかかり」を残す力があった。

そんな精神力の持ち主である父エドガーと対峙していたのだ。

考える力が宿るはずだ。






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