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沖縄から東京へ!流転の写真日記

【Sep_29】伸治も生きてりゃ、50歳。

2017-09-30 | memories
今日、久々にこの曲を大音量で聴く。
FISHMANS MELODY

HAKASEのミニマルなピアノの旋律が心地良い。

♪窓からカッと飛び込んだ光で
 頭がカチッと鳴って
 20年前に見てたような 何もない世界が見えた
 すぐに終わる幸せさ すぐに終わる喜びさ
 なんでこんなに悲しいんだろう

 流れるミュージック
 暗いメロディ
 君がくれたメッセージ
 見えてる景色
 窓枠どおりの
 エンピツでかいたみたいな♪


一気にあの時の、不安定な心持ちが蘇る。
ふわふわしていて、どこにも行き場がなくて。
刹那に生きていた、あのころ。

心刻まれた楽曲は、スイッチを押すみたいに、ボクを強引に引き戻す。

死ぬ間際に、カラダ揺らして、酔い痴れたい。
命のみなもと…みたいな音楽。

伸治も生きてりゃ、50歳。


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【山本理顕05】政治的生活

2015-08-30 | memories
政治的生活とは多数者の中で多数者と共に自らの行うべきことを自ら決定する活動である。

その自ら決定する活動の力をアレントは「権力(power)」と呼んだ。

「権力が実現されるのは、ただ言葉と行為とが互いに分離せず、
リアリティ[共感の感覚]を明らかに(disclose)するために用いられ、
行為が関係を侵し破壊するのではなく、
関係を樹立し新しいリアリティを創造するために用いられる場合だけである」


それは「知を命令=支配と同一視し、活動を服従=執行と同一視した」という
プラトン的分離とは全く異なる活動の様式である。

このプラトン的分離は、あらゆる支配の根本である。

知を命令と同一視し、建築をつくるというような活動と服従を同一視する
という構図があらゆる支配の構図である。
すでに見てきたように、それは官僚制的統治のような
「無責任な権力意志を正当化」するものでしかない

「知と行為」が互いに分離せず
知と執行のプロセスが明らかに(disclose)なる場合にのみ、
リアリティが創造されるのである。



「権力は人びとが集まり、
約束や契約や相互誓約によって互いに拘束しあう場合に実現するものであった。
互恵主義(reciprocity)と相互性(mutuality)に基づくこのような権力だけが真実の正統的権力であった」


権力とはつまり、

「一つの空間を共有しその空間の中で他者と共に自ら行うべきことを自ら決断する」という、
その決断することのできる力のことなのである。

「権力(power)とは、常に潜在的能力(potential_power)であって、
実力(force)や体力(strength)のような不変の、測定できる、信頼できる実体ではない」、


「権力が発生する上で、欠くことのできない唯一の物質的要因は人びとの共生(living_together)である。
人びとが非常に密接に生活しているので活動の潜在能力が常に存在するところでのみ、権力は人びとと共に存続しうる
従って、都市国家としてすべての西洋の政治組織の模範になってきた都市の創設は、
実際、権力の最も重要な物質的前提条件である」。


都市という人工の物によってつくられた世界という空間がすでに権力の空間なのである。

「世界という空間」の中において初めて権力が生まれ
それが存続するものになることができたのである。

「活動の束の間の瞬間が過ぎ去っても人びとを結びつけておくもの(今日『組織』と呼ばれているもの)、
そして同時に人びとの共生(living_together)によって存続するもの、これが権力である」。


「権力は公的領域と出現の空間を保持する。そのようなものとして権力は、人間の工作物の活力の源泉でもある」。

人間の工作物(建築)は「権力」によってつくられると同時にその「権力」が活動する舞台なのである。

政治的生活の舞台である。
その舞台(建築)によって「権力」は持続性を与えられるのである。

「人間の工作物(建築)は、活動と言論の舞台でもなく、人間事象と関係の網の目の舞台でもなく、
活動と言論が生み出す物語の舞台でもないとしたら、究極的な存在理由を失う。
人びとによって語られることもなく、人びとの住家でもないならば、世界は、人間の工作物ではなく、
孤立した個人がめいめい勝手に対象物を一つ一つ付け加える関連のない諸物の堆積にすぎないであろう


人びとの住家となる人間の工作物がなければ、
人間事象は遊牧民の放浪と同じように浮草のような、空虚で無益なものであろう。
『伝道の書』の陰鬱な知恵は語っている。
『空の空、空の空、一切は空である。‥日の下には新しいものはない。
‥前の者のことは覚えられることがない。また、来るべき後の者のことも、後に起こる者はこれを覚えることがない』


いま私たちが住んでいるそれぞれに隔離された住宅が集まった住宅地の風景は
「孤立した個人がめいめい勝手に対象物を一つ一つ付け加える関連のない諸物の堆積」でしかない。

それは「活動と言論の舞台でもなく、人間事象と関係の網の目の舞台でもなく、活動と言論が生み出す物語の舞台でもない」


               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)
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【山本理顕04】私生活の自由はあっても政治に参加する自由はない

2015-08-27 | memories
建築の設計はリアリティという感覚と深く関わっている。

どのような建築であったとしても、
その建築が実際にできあがる以前に
設計者によってそのアイデアが示されなければならないからである。

そしてそのアイデアが他者に共有され
承認されない限りその建築は実現しない。

つまり、リアリティがあると認められない限り決して実現しないのである。

今までに見たこともない新しいアイデアほどそれが共感されるのは難しい。
それがたとえその地域社会にとって有効な提案であったとしても、
それまでの建築に慣れ親しんだ人たちに
その新しいアイデアを説明することが極めて難しいのである。

だから多くの場合、
それまでにあった建築と同じような
考え方によって建築はつくられる。


過去の例に倣うのである。
特に日本の官僚制機構の中では
過去の例に倣うことが常態化しているのである。

官僚制機構の中の一セクションは
過去に自らが実現させた建築を決して否定しない
それを否定することは
官僚制機構のセクショナリズムそのものを
否定することになるからである。


建築は官僚制的に標準化されている。

その標準が常に最優先されるのである。
標準化された建築がその地域特性と
全く矛盾する場合であったとしても、である。

既に日本中につくりつづけらてきた標準的建築は、
多くの実績があるというそれだけの理由だけで、
リアリティがあると見なされるのである。

だから、
設計者が自らのアイデアを説明しなくてはならない相手は
誰よりもまずこの官僚制機構に対してなのである。

既に述べたように、彼らは非-主観的である
人格を持たない
彼らへの説明は自らのアイデアの説明ではなく、
官僚制機構の命令にいかに忠実に従っているか、
それを説明することなのである。


彼らの命令は社会的要請であるという装いを持つからである。

     ●

でも、建築は常にその場所に固有の空間である。

その建築にリアリティがあるかどうかを
決めるのはその建築を利用する人たちであり、
地域社会に住む住人である。

そしてそれを提案するのは建築の専門家である。

官僚機構ではない。

アレントが強調するのは、
このリアリティの獲得にいたるプロセスこそが
政治的生活と呼べる活動なのだということである。

リアリティという感覚は“common_sense”によって支えられている。

“common_sense”は他者と同じ空間の中に居るという感覚である。
それこそが、政治的生活を支えているというのである。

労働者を管理するための住宅から始まった私たちの住む住宅は
私生活の自由」については良く考えられてきたが、
政治に参加する自由とは全く無縁である。

それは近代建築運動の多くの建築家たちが全く意識しなかった自由である。

というよりも、むしろ意図的に排除してきた自由であった。

「1住宅=1家族」という管理された住宅に住む住人にとっては
本質的にたどり着けない自由なのである。

ミュルーズの労働者住宅のその均質な配置計画は、
できるだけ住人同士が出会わないように
細心の注意深さで計画されたのである。

出会うということは
「私が他人の眼に現われ、他人が私の眼に現われる」
ということである。

そうした「他人によって見られ聞かれる」空間が奪われるということは
リアリティを奪われることに等しい。
そのような配置計画である。

ヒルベルザイマーのベルリンのハイライズ・シティも同じ理念でつくられている。
そして戦後の公団住宅の考え方も全く同じであった。
他者と同じ空間の中に居るという感覚(“common_sense”)を奪う空間である

住民の政治参加をできるだけ妨げるように住宅はつくられ、
配置されてきたのである。


               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)


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【山本理顕03】コモンセンスとは空間を共有しているという感覚である

2015-08-24 | memories
この「社会という空間」に対立する空間が「世界という空間」であった。

それはそこに住む人たちのためにいつまでも存在し続ける空間である。
「社会」が私的利益のための空間であるとしたら、
その逆に「世界」はそこに住む人たちによって共有される空間である。

「世界はわれわれすべてに共有されるものである。…世界が共有されているからこそ、
われわれは世界のリアリティを判断することができるのである」(アレント)


リアリティがある、とは他者と共にその「世界」の内にいて
他者の存在を実感することができるという意味である。

すでに見てきたように「世界」は人工的な工作物によってできている空間であった。

「世界は、そこに個人が現れる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る」(アレント)

永続性、耐久性を持つ空間である。
その空間を共有しているという感覚が“common_sense”である。

「私たちの五感が[それぞれの人にとって]極めて個別的なものであり、
その五感が知覚する情報が[それぞれに]極めて特殊なものであるにもかかわらず、
それらの感覚を全体としてリアリティのあるものとして
実感させる唯一の感覚が“common_sense”なのである」(アレント)


“common_sense”とは他者と共に同じ空間の中にいて
それを共有しているという感覚である。

そして「リアリティ」とは、その共有された空間の中で、
私もまた他者と同じように感じているという感覚である。

他者と共に同じものを知覚して、
他者もまたそれを私と同じように感じているはずだとという
「共感の感覚」である。

「五感による知覚は、単に、私たち[個々人]の
神経の刺激あるいは肉体の抵抗感覚として感じられるばかりではない。
周知のように、それはリアリティ[共感の感覚]をも明らかにする。
それはこの“common_sense”のおかげである」(アレント)


  「私が知覚するものが実在的である[リアリティがある]ということは、
  一方では、私と同じように知覚する他人がいる世界と、
  この知覚されたものがつながっているということによって保証されるのである」(アレント)


つまり、「世界という空間」にあって、
そこで私と同じように知覚している他者を感じる、
という“共感の感覚”がリアリティという感覚である。

その感覚は他者と共に居るこの「世界」によって保証されているのである。

「見る、触る、味わう、嗅ぐ、聞く」という私の五感は非常に私的なものである。

「その感覚作用の質や程度を他人に伝えることができない」(アレント)

それにもかかわらずその私的な感覚にリアリティ
他者と共感しているという感覚)を確信できるのは、
他者と共有する「世界という空間」の内にいるからなのである。

アレントが強調するのはこの“リアリティ”こそが
「世界」の政治的生活を支えているということである。

「政治的」とは「多数性という人間の条件、すなわち、
地球上に生き世界に住むのが一人の人間(man)ではなく、
多数の人間(men)であるという事実に対応している」(アレント)


「世界という空間」の中に多数の他者と共にある。
その“共にある”という意識が“common_sense”であるとしたら、
政治的と言うのは、私という個人がその多数の人間(他者)によって
「見られ聞かれる」存在であるということである。

「世界という空間」は「私が他人の眼に現れ、他人が私の眼に現れる空間」なのである。

「他人によって見られ聞かれる」空間である。

政治的生活というのは、他者と共に住む「世界という空間」の中で
「他人によって見られ聞かれる」生活である。

「この空間を奪われることは、リアリティを奪われることに等しい。
…人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、
つまり他人の存在が万人に現れていることによって保証される」(アレント)
のである。

労働者住宅においては、
そのリアリティが住宅の中に閉じ込められたのである。

それはその住人が政治的生活を奪われたに等しい。
それこそが統治する側の意図だったのである。



               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)

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【山本理顕02】住宅は27年で取り壊される

2015-08-24 | memories
1年前に25年住んだ仙台の実家を手放すこととなったとき、
非常な異和感を覚えたのだった。

建築家山本理顕氏がハンナアレントの「人間の条件」を読み解く
「権力の空間/空間の権力」という本は、
そういった意味で、ボクの中のモヤモヤを晴らすものであった。

元々親の転勤でひとつどころに定住することなく方々を転々とする子供時代を送った身として、
場所に寄り添う「記憶」の大切さ、切実さは人一倍感じる人間だったと思う。

その場所の記憶が、無惨に切り刻まれ、金銭として消費されてしまう「社会」。

ずっと持ち続けていたその「社会」への不確実さは、
ハンナアレントご指摘の通り、「孤独の大衆現象」として
ますます現代社会を覆い尽くしている。

山本理顕氏は、空間が思想を定義づける「物化」について強い警鐘を鳴らしている。

無意識裡のうちに、社会の思想に取り込まれてしまう…この「物化」は、
すでに私たちの思考を雁字搦めにしてしまっているのだ。

このままでは明るい未来は、ない。
絶望的な状況が刻一刻と差し迫っている。

この本の内容を抜き書きすることで、なにかしらのヒントを掴めれば…と思う。

    ●

プライバシーが守られることは自由が守られることだった。

「人民の自由は、その私的生活のなかにある。けっしてそれを侵害してはならない。
政府をして、この単純素朴な状態を暴力そのものから守る唯一の力たらしめよ」
と言ったのはサン=ジュストである。

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストは
ロベスピエールと共にジャコバン派を担った革命家である。

自由は私的生活の中にある。

こうした考え方は今でも私たちの中に十分に根を下ろしているように思う。
プライバシーを守ることこそが自由の象徴なのである。
それをプライバシーのためにつくられた住宅が象徴している。
自由は住宅の中に閉じ込められたのである。

性現象の場所を中心にする住宅はその役割を果たし終えれば、
つまり、自分の子孫を社会(経済的に組織された社会)の中に送り込めば、
もはやその役割を終える。

いつまでもそこにあり続ける必要はない。

実際、今の日本では住宅の存続期間はわずか27年である。

物理的な耐用年数はもっと長いにもかかわらず。
多くの住宅が平均して27年で取り壊されているのである。

世代サイクルことに作り替えられているわけである。
両親の死(世代の交代)によって家族の持続性はいとも簡単に消滅する。

27年で取り壊されるということは、
その都度、その場所に旧世代と共に、
そして周辺の地域社会の人びとと共に生きていたという
記憶の場所が消滅するということである。

「大衆社会は私的な家庭まで奪う」というのはそのような意味である。

世代サイクルごとに住宅は消滅する。

そしてその住宅の消滅は都市環境の継続性も破壊する。
隣に住んでいた家族がいなくなり、その住宅が取り壊されて、見知らぬ人たちが住みはじめる。

あるいはディベロッパーがいくつかの宅地を集約して、マンションに建て替える。
私たちの居住地ではそうしたことがすでに日常化してしまっているのである。

だれも今まであった景観に注意を払わなくなっているのである。
景観とはそこに住む人々の共有された記憶である。

もはや記憶は共有されない。

社会という空間の外観(景観)はめまぐるしく変わる。

だれ一人として、その景観の継続性に気を配る人がいなくなってしまったのである。
それが社会という空間である。

「孤独の大衆現象」とはそのような意味である。

その人がその場所に生きていたという記憶を切り刻んで、
それをことごとく金銭に変えて消費してしまう。

それが「社会」という空間である。

    ●

景観は凄まじく早いスピードで変化する。

「前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、
後に起こる者はこれを覚えることができない」(ハンナアレント「人間の条件」)


それが「社会」という空間である。私たちが住んでいる空間である。

「世界の物」をつくりたい。
未来に手渡す物をつくりたい…という意思を奪われ(労働力として搾取され)、
自らの未来への確信はただ子孫を残すことでしかない。

でも、その確信を記憶するような空間は一瞬にして失われてしまうのである。

自分が去った後、誰からも自分が記憶されない。

「1住宅=1家族」という住宅に住む住人たちは
プライバシーという密室の中に閉じ込められ、
そしていずれはその場所をすら失うことになる。

それは「自分たちが存在していた」という痕跡を奪われるに等しい。

自分が存在していたという痕跡を
何一つ残すことなく去らねばならないことを
恐怖したのはかつての奴隷たちであった。

「孤独の大衆現象」というのは労働者の奴隷化そのものである。

それが今の私たちの社会である。
現代社会においては「孤独の大衆現象」はますます加速化している。

そして建築はそうした社会に奉仕するものとなってしまっているのである。

建築の設計者は住宅を設計し、そして次にそれを取り壊すという世代サイクルの中心にいるのである。
その世代サイクルを前提とする都市空間の設計者なのである。


               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)

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【山本理顕01】「社会」という空間は他者と共にいるという感覚を剥奪する

2015-08-24 | memories
ミュルーズの労働者住宅以来、
住宅の相互隔離は
そこに住む労働者を管理するためのものであった。

今の日本の住宅も同じ目的によってつくられているのである。
でも、そのような空間に住む私たちは、
それがいかに特殊な空間なのかということを全く意識していない。

こんなにも閉鎖的な形式の住宅が戦後、大量に供給され、
こうした住宅こそが標準的な家族のための
標準的な住宅だと私たちが考えるようになったからである。


こうした住宅が大量に供給されることによって「1住宅=1家族」という形式が
標準的住宅として内面化され(刷り込まれ)ていったのである。

「1住宅=1家族」は平等という思想の“物化”である。

すべての住宅は他と同じ住宅として供給されてきたのである。
標準的な住宅である。
そこに住む私たちもまた他の家族と同じ標準的な家族としてそこに住んでいる。

私たちはこうした住宅に住むことによって
自らを標準化された家族として仕立て上げていったのである。

「社会という空間」は「1住宅=1家族」の標準化という
住宅の供給システムと深く関わっているのである。

でも「社会」の内側にいて、
私たちがこうした「1住宅=1家族」の住人である限り、
この「社会」の根源的な矛盾に気づくことはない。

根源的な矛盾というのは「社会」が「経済的に組織された」空間でしかないということである。

ただ私的な利益のみを目的として組織されている空間なのである。

この「社会という空間」の中では
多数の他者と“共にいる”という意識が徹底して排除される。

すべての他者はそれぞれに
ただ私的な利益を目的とする他者なのである。


多数性とは逆の同一性としての他者である。

この社会は「平等」に依存しているというよりもむしろ
「同一性に依存している」とアレントは言う。

「人間の多数性は、…平等と差異」によって成り立っている。

平等ではあっても差異が失われているということは
多数性そのものがもはや失われているということである。

それぞれに私的利益を目的としている彼らと“共にいる”理由は何一つない。

それにもかかわらず私たちはこの「社会という空間」の中に彼らと共に住まなくてはならない。
それこそが根源的な矛盾なのである。

「社会という空間」は、他者と共にいるという感覚、
他者を必要としているという感覚、
他者と共に世界を共有しているという感覚を剥奪する空間なのである。



               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)
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【まどみちお】どうしていつも

2014-03-05 | memories


 太陽
 月
 星

 そして
 雨
 風
 虹
 やまびこ

 ああ 一ばん ふるいものばかりが
 どうして いつも こんなに
 一ばん あたらしいのだろう



 ●



 この感性が、いまの日本人には、欠けている…ぞ、っと。
 104歳の宇宙観を残して、旅立たれたまどさん。
 今度こそ、しっかり、応えなきゃいけないんじゃないの?


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【Mar_04】仙台最後の夜

2014-03-05 | memories
ふたりにとっても、
一区切りのついた最後の夜だったに違いない。


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【Mar_04】仙台駅前の雑踏

2014-03-05 | memories
人々の営みは途切れることもなく。
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【Mar_04】仙台最後の夜

2014-03-05 | memories
名掛丁名店街。
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【Mar_04】実家の最期

2014-03-05 | memories
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【Mar_04】運命に抗うmomo

2014-03-05 | memories
仙台の実家を離れる事実に抗う愛犬、momo。
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【Mar_04】momo

2014-03-05 | memories
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【Feb_07】寺島靖国

2014-02-11 | memories
jazz喫茶MEG店主 寺島靖国氏。

まだご存命と聞いて、ビックリ。
御年76歳だとか。

20年前はJazz喫茶店主として書いた「辛口!JAZZノート」が爆発的に売れ、
Megを一躍有名にした頃で、Jazz雑誌に連載を抱え、レコード批評の依頼も多く、
月に一度か二度、店に顔を出すぐらいの売れっ子ぶり。

今は自身のレーベルも立ち上げ、書籍も40冊ほど出版され、
「メグの会」なるJazz愛好者の集いも定期的に開いているようで、
Jazz漬けの幸せな日々を送られている。
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【Feb_07】Megのトイレ

2014-02-11 | memories
jazz喫茶MEG

トイレ自体は改装されていた。
サインは改装後に書かれたミュージシャンのもの。

1990年のトイレも同じように落書きで埋め尽くされていたが、
1970年代の安保闘争の雰囲気漂う、
「アブサン」や「ハイミナール」などの言葉が殴り書きされていて、
それはそれは、鬱屈した時代そのものだった。


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