昨日は写真家熊谷聖司さんの個展を観に
monogram@学芸大学へ。
ボクの大好きな写真集「EACH_LITTLE_THING」の
内実が伺えるということもあって、
デザイナー高橋健介さんとのトークショー終了まで5時間、
しつこく写真家のそばで写真家の言葉を心に刻んできた。
2011.3.11以降
写真を撮る事とはどのような意味があるのか?
それを発表することについても考えてきました。
その結果、この作品達が生まれました。
同名のタイトルで10シリーズの写真集を制作予定しています。
「わたしの欲望とは何か」そのことを常に感じていたい。
これが写真展「EACH_LITTLE_THING」に向けた写真家の言葉だ。
熊谷さんは言う。
ニッポン人の感性や思考がどんどん閉じられた方向に向かっていると。
「一番洗脳されやすい国民だよね」
街を闊歩する人、電車に乗る人、カフェで珈琲を飲む人、
眼にする人々すべてが、耳にイヤホンを付け、ケータイの画面を指でスクロールしている。
眼を閉じ、耳を閉じ、口を閉ざす。
(見ザル、聴かザル、言わザル)
どんどん外界との関係を絶って、
ヴァーチャルな己の欲望の中で溺れている。
「わたしの欲望とは何か」
震災以後、ニッポン人はマスコミから発せられる情報が「真実」ではないことを思い知らされた。
TVや新聞の報道が、操作された既得権者にとって都合の良い内容であることに気付かされた。
そこからネットによる情報獲得が急速に浸透し、SNSのコミュニティに埋没する傾向が加速した。
海流の「大局」を捉えるよりも、さざ波の「細部」に一喜一憂し、日々流されることを好んだ。
しかしマスコミにせよ、SNSにせよ、操作された情報であることに違いはなく、
一元化された情報ソースに「付和雷同」するニッポン人社会は、どんどん閉塞感へと向かう。
「一番洗脳されやすい国民」とは、多様な思考に不寛容な国民であるということ。
島国であり、単一民族であると言われ、ただでさえ思考の一元化は免れないのに、
震災以後は、「見ザル、聴かザル、言わザル」の同調圧力によって、より「閉ざされて」しまった。
写真家熊谷聖司が提示している「EACH_LITTLE_THING」は、
写真家熊谷聖司そのままの「オープンマインド」な姿勢だ。
震災前も震災以後も、熊谷さんの「世界と対峙する距離感」は変わっていないように、ボクは思う。
変わったのは「世界」のほうだ。
そのことに熊谷さんは震災以後、意識的になった。無自覚から自覚へと変わった。
変わったのはそこだけ。
だから、いつ触れても熊谷さんの写真からは「世界の真意」が垣間見える。
「世界はこんなにも多様で、おもしろいものが溢れている」
もっと五感を奮わせ、世界が放つさまざまな「ナマ情報」をキャッチせよ!
EACH_LITTLE_THING…。
それぞれが、同じ小さな事柄。
しかし、それはただ「LITTLE」なだけでなく、「THING」…モノとしてそこにごろんと横たわっているのだ。
5時間の密着で、ボクはその感性に思考に、肉薄できたような気がする。
●
最後に「欲望」について、中上健次的な言葉を引用したい。
欲望は己の内部に自発したはずなのだが、
しかしそれは関係の中で外部の何かに投影され、
その何かにそそのかされ誘惑されるというカタチでしか作動しない。
欲望には常に対象が伴う。欲望は常に受動態なのだ。
「わたしの欲望とは何か」を問うことはつまり、「わたしにとって世界とは何か」を問うことなのだ。
monogram@学芸大学へ。
ボクの大好きな写真集「EACH_LITTLE_THING」の
内実が伺えるということもあって、
デザイナー高橋健介さんとのトークショー終了まで5時間、
しつこく写真家のそばで写真家の言葉を心に刻んできた。
2011.3.11以降
写真を撮る事とはどのような意味があるのか?
それを発表することについても考えてきました。
その結果、この作品達が生まれました。
同名のタイトルで10シリーズの写真集を制作予定しています。
「わたしの欲望とは何か」そのことを常に感じていたい。
これが写真展「EACH_LITTLE_THING」に向けた写真家の言葉だ。
熊谷さんは言う。
ニッポン人の感性や思考がどんどん閉じられた方向に向かっていると。
「一番洗脳されやすい国民だよね」
街を闊歩する人、電車に乗る人、カフェで珈琲を飲む人、
眼にする人々すべてが、耳にイヤホンを付け、ケータイの画面を指でスクロールしている。
眼を閉じ、耳を閉じ、口を閉ざす。
(見ザル、聴かザル、言わザル)
どんどん外界との関係を絶って、
ヴァーチャルな己の欲望の中で溺れている。
「わたしの欲望とは何か」
震災以後、ニッポン人はマスコミから発せられる情報が「真実」ではないことを思い知らされた。
TVや新聞の報道が、操作された既得権者にとって都合の良い内容であることに気付かされた。
そこからネットによる情報獲得が急速に浸透し、SNSのコミュニティに埋没する傾向が加速した。
海流の「大局」を捉えるよりも、さざ波の「細部」に一喜一憂し、日々流されることを好んだ。
しかしマスコミにせよ、SNSにせよ、操作された情報であることに違いはなく、
一元化された情報ソースに「付和雷同」するニッポン人社会は、どんどん閉塞感へと向かう。
「一番洗脳されやすい国民」とは、多様な思考に不寛容な国民であるということ。
島国であり、単一民族であると言われ、ただでさえ思考の一元化は免れないのに、
震災以後は、「見ザル、聴かザル、言わザル」の同調圧力によって、より「閉ざされて」しまった。
写真家熊谷聖司が提示している「EACH_LITTLE_THING」は、
写真家熊谷聖司そのままの「オープンマインド」な姿勢だ。
震災前も震災以後も、熊谷さんの「世界と対峙する距離感」は変わっていないように、ボクは思う。
変わったのは「世界」のほうだ。
そのことに熊谷さんは震災以後、意識的になった。無自覚から自覚へと変わった。
変わったのはそこだけ。
だから、いつ触れても熊谷さんの写真からは「世界の真意」が垣間見える。
「世界はこんなにも多様で、おもしろいものが溢れている」
もっと五感を奮わせ、世界が放つさまざまな「ナマ情報」をキャッチせよ!
EACH_LITTLE_THING…。
それぞれが、同じ小さな事柄。
しかし、それはただ「LITTLE」なだけでなく、「THING」…モノとしてそこにごろんと横たわっているのだ。
5時間の密着で、ボクはその感性に思考に、肉薄できたような気がする。
●
最後に「欲望」について、中上健次的な言葉を引用したい。
欲望は己の内部に自発したはずなのだが、
しかしそれは関係の中で外部の何かに投影され、
その何かにそそのかされ誘惑されるというカタチでしか作動しない。
欲望には常に対象が伴う。欲望は常に受動態なのだ。
「わたしの欲望とは何か」を問うことはつまり、「わたしにとって世界とは何か」を問うことなのだ。