#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Nov_27】神の存在が人間を堕落させた

2015-11-27 | JORDAN
【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN

ネボ山からエルサレムを見下ろす光景は、絶望的な土漠地帯である。
海抜マイナス400mの「死海」までゆるやかに土漠の裾野が広がっている。

ココに独り放擲されたら、あっという間に絶命するだろう…そのぐらいの厳しい自然環境。
だからこそ、ユダヤ教が生まれ、キリスト教が生まれ、イスラームが生まれた。

絶望的な自然環境の中で「生き延びるため」には、神の存在が必要だった。

ノマドの民が「水に通ずる道」がすなわちイスラームである。
神は絶対であり、人間の認識を超えたもっとも遠い存在である。

それは何故か。

厳しい自然環境の下では、どんな苦境も起こりうる。
その理不尽な処遇を受け入れるためには、神は遠い存在でなければならなかった。
たとえ飢え死にすることがあったとしても、その事実を肯うために。

しかし人間も知恵を付け、自然環境に抗う術を徐々に身につけるようになる。

その術が欲を生んだ。人よりも賢く生きたい、人よりも長く生きたい…という欲を。
運命共同体(ゲマインシャフト)の集団生活から、農耕的個人主義へ。

「神曰へリ、人を我等の像と、我等の肖とに從ひて造るべし」(旧約聖書1章26節)

いつの間にか、神と人間の距離が縮まり、人は神の似姿であると説かれる。
そして、人間は神に近づけ得る存在である…という、誤った至上主義が生まれてしまう。

神の前では、森羅万象生命のすべてはみな平等であった状態から、
人間だけが神に近づけ得る存在として、優位に立つ状態へ。

森も海も草花も獸も虫もひとしく等価な存在であった状態から、
人間だけが神に代わって司れ得る状態へ…と。

神の子イエス・キリストは、神の言葉そのものであり、
そのイエスを拝する教会は貴い場所であり、その祭司は崇めるべき聖職者である…と、

神の存在が人間に近づいてから、そのヒエラルキーが生まれ、
神に近い存在、神に遠い存在というグラデーションが人為的になされるようになる。

聖職者である祭司は、神の名の下に君臨し、信者を意のままに扱うようになる。
「告解制度=懺悔」を導入し、心の罪を暴くことで、聖職者が信者を精神的にも支配する構図

背信する者や、異教徒たちに対しては、心の闇を「言い訳」に断罪可能とする仕組みが生まれる。
どこまでも神の存在に近い、睥睨する人間の振るまいを可能にした

国家というフィクションの原型は、まさにここにある。

表向きは政教分離を掲げてはいるが、国家を崇める構図は信仰そのものだ。
背信する者や、異教徒たちに対して、心の闇を「言い訳」に断罪可能とするのが、宗教ではなく、何というのか

「共謀罪」は「魔女狩り」そのものじゃないか。

競争社会を促し、「資本主義」に殉ずる者を優遇し、「強い個体」だけが生き残れる【社会】という名の信仰

【社会】という空間には、人間以外の存在が排斥されている。
【世界】には、これだけの生命があふれているというのに。

人間が【世界】で「生き延びるために」生み出した神が、
いつのまにやら「神=人間」となって【社会】に君臨する。

【社会】は滅びても【世界】は存続しつづける。

その視点を養うことが、いまこの【社会】では急務だ。












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【Nov_27】イエスは神の言葉そのもの

2015-11-27 | JORDAN
【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN


第一は経典に対する態度です。

ユダヤ教徒はモーセの律法を歪曲したとイスラームは考えますが、
ユダヤ教が自分たちがモーセの律法と考えているモーセ五書を重んじ、
律法こそが人間に下したメッセージであり従うべき生きる指針である、
と考えていること自体は、イスラーム教徒の「クルアーン」に対する態度と似ています。

ところが、キリスト教は根本的に違っています。

キリスト教は、イエスその人が神の人類に対するメッセージ、神の言葉だと考えます。

聖書は神の言葉というよりも神の言葉であるイエスに対する教会の証言でしかありません。

だからキリスト教はイエスの伝記である福音書をギリシャ語で書き、
オリジナルなアラム語のイエスの言葉を保存することにまったく興味を示さなかったのであり、

キリスト教の正典としての「旧約聖書」も「ヘブライ語聖書」ではなく、
東方教会ではギリシャ後訳(セプトゥアギンタ)、
西方教会ではヒエロニムスのラテン語訳(ウルガータ)であったワケです。

キリスト教にとっての最終権威は、
神の一つの位格であるイエス・キリストであり、

キリストの昇天後には、そのキリストを証し、
同じく神の位格の一つである聖書が宿る教会そのものであり、聖書ではないのです。

「聖書のみ」を掲げるプロテスタントであすら本質的には事情は変わっていません。
それゆえキリスト教においては、教会それ自体が聖化されますが、
実際には使徒の後継者たちとみなされる祭司たち、
カトリックの司祭、プロテスタントの牧師、が俗人に対して「聖職者」として権威を持ちます。

それに対してユダヤ教のラビ、イスラームのウラマー(イスラーム学者)は聖職者というよりは、
学者、特に法学者としての役割が重要です。この点もイスラームとユダヤ教の構造の似ている点です。


                      (内田樹×中田考「一神教と国家」より)



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【Nov_27】神と人間の距離

2015-11-27 | JORDAN
【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN


ですから、カトリックの告解制度というもの。
あれは恐ろしい制度だと、私思うんです。

人の内面を暴き出して、人を支配していくってことですから。

イスラームでは罪を犯してもできるだけ人には言いません。
あくまでも神と自分との関係とする。

それに対して、キリスト教は人の心を他人が知ることが出来て、
支配することもできると考える。

内面にフォーカスするキリスト教というのは、
一神教としてはもしかすると例外的なかたちなのかも知れませんね。


神と人間との距離が近くて、人間の内面の言葉を聞き取って貰えるわけですから。

ユダヤ教の場合、神と人間との距離はある意味絶望的に遠い。

戒律にしても、どうしてこんな戒律があるのか、説明がつかない。
むしろ人間の世界の実用性や合理性に基づいて戒律の適否や意味を論じてはならないということを
叩き込むために戒律はあるんじゃないかと思うんです。

キリスト教だと、戒律の採否は人間の側に決定権が委ねられる。
それだけ律法の制定者と信者の間の距離は近いということなんでしょうね。


                      (内田樹×中田考「一神教と国家」より)
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【Nov_27】遊牧民と農耕民

2015-11-27 | JORDAN
【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN


遊牧民は群れで共同生活をしますよね。生命の危険も多いし、食糧も少なく安定せず、
生き延びるために集団単位で命がけの大きな決断を迫られることが多いのです。

だからいろんなものを分かち合って、助け合って生きていかざるをえません。

これに対して、大文明を作った定住の農耕民は生産力が高く、
危険も少ないし、食糧も安定しているから、分かち合いの精神があまり育ちません。

日本人は典型的な定住の農耕民ですね。だから、そういう危機的状況に遭遇したときに、
瞬時に決断する協力なリーダーが要請されない。

飢饉にしても、自然災害にしても、
「さて困ったことになった、どうすればよかろう」と車座になって、
何日も議論するだけの時間的余裕がある。

「和を以て貴しとなす」というのが日本における集団の意志決定の基本ルールですけど、
これは定住的で、栽培食物で生きてきた共同体でなければ出てこない発想だと思います。

遊牧民で、牧畜を主とする共同体とボクたちとでは、
何よりまず集団の意志決定システムの創り方が違うのでしょうね。


そこから敷衍していくと、定住型の集団と遊牧型の集団とでは、
政治感覚、経済感覚、宗教性に至るまで、さまざまなところで違いが発生するプロセスが見通せます。

即断即決する強力な指導者を求めるか、
気長な合議を重んじるかの意志決定の違い。


もう一つは、そこから派生してくると思うんですけど、
遊牧型の社会では「成員たちは一個の共同的な身体を形成している」
という身体実感に近いモノがあるのではないかと思います。

水や食物を分かち合う文化、喜捨の文化というのは、宗教的戒律が命じるというより以前に、
「自分たちは一つの身体を形成している」のだから、どこかが壊れたら、どこかが傷ついたら、
もう機能しなくなる、そういう実感から由来したのではないでしょうか?

それに対して、農耕文化は本質的に個人主義に宥和的になる。

自分の農地を境界線で囲って、
「ここからこっちはオレの土地だから入ってくるな」というカタチで資源を分割できる。

自我と内面とかいうものを研ぎ出してくるのは、農耕的、定住的な文化の産物かなと。


                    (内田樹×中田考「一神教と国家」より)

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【Nov_27】一神教の倫理観

2015-11-27 | JORDAN
【on_Flickr】JORDAN_2015

【on_Flickr】0920_JORDAN


一神教が生まれた中近東のあの荒蕪の地においては、砂漠の彼方から身に纏うものもなく、
飢え乾いた旅人が倒れるように幕屋を訪れることは、ある意味日常的な出来事だったと思うのです。

寡婦、孤児、異邦人的な様態は決して例外的なものではなかった。

それは「ひとごと」ではなく「わがこと」であった。

ボクたちはレヴィナスを読んでも、それは「寡婦、孤児、異邦人」のような
赤貧の人が家の扉を叩いた場合に私たちはどう振る舞うか…と、そういうふうに問題を立ててしまう。

「いい人」として迎え入れるべきか、「いやな人」として鼻先で扉を閉めるべきか。

そういう道徳論の枠内で考えてしまう。
いずれにせよ、
他者を歓待するかしないかの決定権は
主体である自分にあるということは、
無意識のうちに前提になっている。

自分自身が裸で、飢えて乾いて見知らぬ異境をさまよっていて、
知らない人の家の扉を叩くという場合を、まるで想定していない。

もしそういう立場であれば、否も応もない。
とにかく扉を開いて中へ入れてもらって、
食べ物と飲み物をもらわなければならない。

ここで今、歓待されなければ、凍えて、飢えて、死んでしまう。

そういう赤貧の状態をデフォルトにした倫理でなければ、
遊牧民的生活では通用しない。

そのキビシイ条件の上に一神教は成立したのだろうと思います。


                      (内田樹×中田考「一神教と国家」より)

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【Nov_06】向原徹_第4の男

2015-11-25 | DANCE
すこやかクラブ公演 「第4の男」@RAFT

写真UPしました〜!
【on_Flickr】1106_THE4thMAN

演出・構成:うえもとしほ
出演・振付:向原徹、大塚陽、中村理、ハチロウ

協力:和田幸子、石原夏実
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【Nov_06】中村理_第4の男

2015-11-25 | DANCE
すこやかクラブ公演 「第4の男」@RAFT

写真UPしました〜!
【on_Flickr】1106_THE4thMAN

演出・構成:うえもとしほ
出演・振付:向原徹、大塚陽、中村理、ハチロウ

協力:和田幸子、石原夏実
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【Nov_06】大塚陽_第4の男

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すこやかクラブ公演 「第4の男」@RAFT

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演出・構成:うえもとしほ
出演・振付:向原徹、大塚陽、中村理、ハチロウ

協力:和田幸子、石原夏実
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【Nov_06】ハチロウ_第4の男

2015-11-25 | DANCE
すこやかクラブ公演 「第4の男」@RAFT

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演出・構成:うえもとしほ
出演・振付:向原徹、大塚陽、中村理、ハチロウ

協力:和田幸子、石原夏実
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【on_Flickr】1106_THE4thMAN

2015-11-25 | DANCE
すこやかクラブ公演 「第4の男」@RAFT

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演出・構成:うえもとしほ
出演・振付:向原徹、大塚陽、中村理、ハチロウ

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【Nov_08】空の根kuu-no-ne

2015-11-25 | DANCE
菊地びよソロ「空の根」@Studio_Cypress

【on_Flickr】1108_BIYO

こなたかなたから 生じるからだ
「空の根 kuu-no-ne」
浮遊の背景とその在り様

照明:海野ひろみ
協力:泉 裕
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【Nov_08】菊地びよ

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菊地びよソロ「空の根」@Studio_Cypress

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こなたかなたから 生じるからだ
「空の根 kuu-no-ne」
浮遊の背景とその在り様

照明:海野ひろみ
協力:泉 裕
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【Nov_08】Studio_Cypress

2015-11-25 | DANCE
菊地びよソロ「空の根」@Studio_Cypress

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こなたかなたから 生じるからだ
「空の根 kuu-no-ne」
浮遊の背景とその在り様

照明:海野ひろみ
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【on_Flickr】1108_BIYO

2015-11-25 | DANCE
菊地びよソロ「空の根」@Studio_Cypress

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こなたかなたから 生じるからだ
「空の根 kuu-no-ne」
浮遊の背景とその在り様

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【Nov_23】凜ちゃん

2015-11-23 | PHOTO
増田凜ちゃん@多摩川河川敷
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