ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

ケサあった話

2020-07-10 | 雑記
先日、というより昨晩のことだが、帰宅した弟に怒鳴られたものである。

夜中晩飯を作っていて、鍋を火にかけしばし放置していた。少々火加減が強く、鍋の蓋がカチャカチャなっていたが、時間まで待とうと、アニメなんぞを見ていたら、ちょっと長引いてしまった。

そして戻ると同時位に弟が部屋から出てきた。うるさかったか?と聞いたら、「何がカタカタ鳴っているんだ?」と聞いてきたので、火加減がちと強すぎたようだと言っておいた。

その後水を飲んだ弟は黙って部屋に引き取った。ああ、これはと思ったところである。

ここしばらく仕事が忙しく、疲れた顔をしていたり声も覇気がなかった。

それはともかく、弟は昨晩帰ってくるなり、昨日の料理のことから怒り出し、火も見ずに放置するなんぞふざけるな、と怒った。

火なんぞ見てても見てなくも燃える時は燃えるだろうに、とは思うが、それはともかく、正論である。

しかし、その後が頂けなかった。

「どれだけ働いていると思っているんだ!」と。

拙は別に弟に経済的に依存して暮らしているわけではない。たまに作ったものを分けたりするが、料理も別々である。光熱費などは折半している。弟が金を出している状態のものもあるが、養われているという状態ではない。

別にそのセリフに腹をまったく立ててないわけではないが、横になりながら思ったものである。

「意味のない言葉だな」と。


仕事で疲れていて、その安眠を妨害をされたのを怒るのは当然だろうし、火の番云々も上の冗談のような言い草も通じるわけがないので、理解する。

しかし、間接的には関係あるとしても、やはり関係ないことを口にして八つ当たりするのは頂けない。そう感じたのである。

横になって考えていたら朝になっていた。そして思いついたことがあったので、書くか直接言うか考えてみたが、結局直接言っておいた。

昨日の夜の今朝でどう思っているかは分らんが、朝の挨拶はしてきたし、おどけて「昨日はおかげで眠れなんだぞ」というと、「すまんな」と返してきたものである。

イライラして怒鳴りつける形になったことは後悔しているのかもしれない。


さて。何を思いついたかというとである。


話は遡ること七年ほど前であろうか。

ここに何度も書いてきたことだが、掻い摘んで書くことにする。

とある夫婦(内縁のというやつだが)に、「(仲が良くて)羨ましいですね」と言ったら、夫の方が不機嫌になって「それは違う」と言い出し、後日、いつもやり取りしている会員制掲示板で罵倒された、という話である。

そのうちの言葉はこういう風であった。流石に完ぺきには思い出せない。

「この人(その妻)と一緒になるのにどれだけ苦労したと思っているんだ」と。

罵倒の締めは「苦しんで滅びろ!」であったことも記しておく。

拙だから理解できなかったとかそういう前提があるということにしても、無理がある。

近所の人にも同じように言われたら、烈火のごとく怒るのだろうか?

そんな思い出すと腹を立てる程の苦労をしたのだろうか?疑問は尽きないが、どうでもよい。

所謂不倫関係となっての同棲なので、色々あったには違いないが、拙にはこういう風に思えて仕方がない。

「そんなに苦労(嫌なことであろう)したのなら、それが故に成り立った今のその関係も苦労の塊では?」と。

今の関係が喜ばしいのなら、苦労したことも「色々あったけど、よかったな」で済む。

その時の嫌な感情でも噴き出したのか、拙のようなナマケモノに言われたのが腹が立ったのか。

ちなみに、その罵倒文の中に、「お前のような何もしようとしない奴に羨ましがられる筋合いはない」とあったことも記しておく。


こういう風に腹を立てるのは、別に上記の御仁特有でもない。拙にもあるし、冒頭から続いている話の弟もである。


恐らく、この手の話は何度もしてきたし、結構最近にも書いた気がするが、これはこういうことである。

「努力すれば報われる」という信仰である。日本人の大半が仕込まれている。無論、拙もそれに馴染んで過ごしてきた。

しかしこれは、裏面があって、よく忘れられている。

「努力しないと報われない」である。

太極図の陰陽の如く、これは表裏一体で不可分となっている。

問題は、「努力すれば報われる」は信仰箇条でしかないのである。

努力とはすなわち、上記の発言に準えて、「苦労」とほぼ同じだと言っていい。

これが個人の内側の葛藤だけで済んでいるならまだよろしい。喜ばしくはないが。

実際に周りを見てもらいたい。努力だとか苦労だとかとは無縁で平然と暮らしている人は確実にいるだろう。

この信仰が盲信になれば、言わずもがな。「己の努力が足りない」ともっともっと苦労を重ねるか、外側に攻撃するだろう。

俺は苦労している、もしくはしてきたのに、お前はしていないと。

上記の男性も弟も、同じ理屈から怒鳴ったというわけである。


別に弟の頭の中身を誹謗したいわけではない。上記の男性の話も思い出しつつ、「何故弟はああいう風に怒ったのか」を考えていたら、本当に朝になったので、弟が起きてきた時、昨日変え忘れたタオルを交換するついでに話をしたのである。昔もしたものだが、上記の男性の話を交えてである。

その某夫婦がかつての苦労を想起したかはしらんが、弟が怒声を上げたのと同じく苦労という言葉を掲げて罵倒してきたのは、つまりは嫌々やってきたし、今も嫌なんだろうと。

それでは、こうもなるだろうと。お前は金を稼ぐために嫌々仕事をしているのなら、それで稼いだ金は嫌なものにならんか?と。

だったら、金が大好きになったらいいのかもしれんなと。直接言った内容はこのぐらいである。


何故そう思ったのかというところが実は本題で、上記の夫婦は実は本題ではなかった。


以前にも弟とイザコザがあったことを書いたかもしれないが、その内で話し合った時に、弟がこう言っていた。

「俺はお金は大事だと思っているから」と。

ずっと何か引っかかっていた気がするし、実は拙自身にも関係があるのかもしれないので、寝られずに考えていたことはここだったのである。

某保険会社がアヒルにグワグワ言わせているCMで流れていた歌が思い浮かぶ人も多かろう。

大事とはなんだ?が気になったのである。

辞書を引けばいい、という問題ではない。その言葉をこういう文脈で使うということは、実際何を示していたかをである。


大事な人、というだろうが(普段使うかは別として)、似た言葉で大切な人とも表現する。

大事な人と大切な人。まったく同じに聞こえるかと言うと、違う。


大切な人だとか物とか事と聞いたとき、あなたはどういうイメージを浮かべるか?

拙の場合は、と断って言うが、好きな人や物事を指している気がしないだろうか?

一方の大事といった場合はである。

好きだとか嫌いといった感情を抜きにした立ち位置にある人や物事を示しているように思われるのである。

無論、常にそうなるという訳ではないし、その指し示しかたの良し悪しは一概には言えない。

ここでまた日本人論的な話に戻る。


努力すれば報われる云々とさっき書いたが、こういう信仰も昔から日本に根強く伝えられている。

「金は良くないもの」というものである。

キンではなくカネである。英語で言うとMoney。

陰謀論に片足を突っ込んでいた拙ならば、ロスなんたらがどうこうだとかいうところである。

それで金とか金融というものは害悪であると、よく言っていたものである。


しかし、金に良し悪しなんぞあるのか?と。

某狙撃手に百万ドル渡して仕事してもらうとする。

政敵の排除だったり商売敵だったり、はたまたはマフィアに都合の悪い証言をする人物だったりと、まあ色々ある。

結局は人殺しだが、法が裁かない人物を殺害するというのもあり得る話である。実際、某漫画にそんな話はある。


一方、養護施設だとか孤児院に同じ額を寄付したとする。

これは良いことだと、一般的に称賛されうる話である。

しかし、その寄付した孤児院の正体は、子供を奴隷として売り飛ばすマフィアの隠れ蓑だった、などとなれば、某狙撃手に渡した金と違いはないといえよう。

百万ドルは百万ドルである。しかし、如何様にも姿は変わる。

某狙撃手の仕事が世の中にとって良い方向になることがないとは言い切れないし、社会的に認められるはずの行為が実は社会悪そのものを助長していたりということもありうるわけである。


長々と書いたが、つまり、何気なく弟は「金は大事だと思っている」というその心根には、日本人が昔からよく馴染んできた可能性の高い思考回路「金は良くないもの」が前提にあるからでは?と考えたわけである。


そこまで考えていたとはいえ、話する時間もなかったので、上記に示した程度に留めたが、金に纏わること(上記の場合は労働である)に嫌な感情を向けているのなら、それは金を嫌なものと見ているのと同義である。洗脳されたかのように苦役を尊ばしいことだと思え、というのは無茶でおかしな話だが、嫌なことばかり見てても仕方がないということである。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはいう。腹立たしい坊主は確かに憎いかもしれないが、袈裟自体は関係ない。

というわけで、今朝は袈裟のことを考えていたということで、終わりにする。


では、よき終末を。