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理解できないから?

2018-11-07 | 雑記
今年の夏から再開している、某オンラインゲーム。

去年の夏ごろから続いていたシナリオが終結を迎え、その終わりと同時に、次のシナリオへと続く形を示して幕切れとなった。

もちろん、打ち切りではなく、来年のアップデートで新章が始まるという意味である。

漫画の終わりでいうと、敵を倒したー!と思ったらもっと強敵が出てきたー!続く!である。週刊漫画なら休載でもなければ来週になるが、こちらは何か月か待つこととなる。


その某オンラインゲームのシナリオの評判は、どちらかというと悪い。

具体的な内容をあげつらうつもりもないし、それにシナリオの批評をやるつもりもないが、何にでも当てはまる難点をいくつか挙げれば、設定の矛盾だとか、演出が悪いだとかはある。

もっと詳しい非難もある。シナリオライターが、かつての自身の小説の設定を流用して、その某オンラインゲームのシナリオに使っているだとか、読んだこともない人間にしたら、「よくぞそこまで調べたものだ」と思わなくもない。

思わなくもないが、実際にその点は危うくもある。シナリオライターが運営会社の財産を私物化している状態になるのでは?という指摘なのだが、そこまでいくと、シナリオの良し悪しに対する直接的な非難とはいえない。

古くはラヴクラフトが始めた小説のごとく、シェアワールド的なノリを、オンラインゲームのシナリオで展開しようという試みだったのかもしれないが、推測の域を出ない。しかも、ただの思い付きの推測である。


ここでたとえ話をする。


「桃太郎」と呼ばれるおとぎ話がある、などというと、馬鹿にしているのか?となるが、とりあえず。

始まりはこうだ、というまでもないが、改めて。

おばあさんが川へ洗濯に行くと、大きな桃がどんぶらこと流れてきて、じいさんと食べようと思い持って帰り、柴刈りから戻ってきたじいさんと共に切ろうとしたら、中から子供が出てきたと。

また、「竹取物語」だと、竹の中からこれまた子供が出てくるというのもお馴染みであろう。

馬鹿な!人がそんなところかから生まれるはずがない!こんな話は出鱈目だ!と非難するのを聞いたことはない。されているのかもしれないが、知らぬ。

ちなみに、「桃太郎」は実は改変されていて、川から桃が流れてくる点は同じなのだが、老夫婦がその桃を食べると若返り、そこから子作りをして生まれたのが桃太郎の主人公という流れだとか。

ああ、それなら…。いや!桃を食って若返って子作りなんぞあり得ない!こんな話は以下略!という非難の向きも聞いたことはないが、子供に子作り云々と直に言うのは近代社会ではタブー視されるので、現代に流布している形への改変となったようではある。

だが、こういう話はずっと昔から受け継がれてきた。なぜだろうか?こんな破綻した設定のシナリオがどうして?と思わないだろうか?


話を戻す。

某オンラインゲームのシナリオのジャンルは、「SF」である。SFは和製英語らしく、サイエンス・フィクションだとか言われたりしているが、厳密な定義はよくわからない。

とある漫画家だったかは、「少し不思議の略」だと申していたそうな。記憶が確かなら、藤子不二雄のどちらかだったかと記憶しているが、曖昧である。

話が出たついでに、藤子不二雄の漫画、厳密には藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の話でも思ってもらうとよかろう。

ダメな小学生ののび太のもとに、未来から猫には見えない猫型ロボットがやってきた。目的は、過去を改変するためである。

のび太がこのままでは未来の子孫が困ってしまうので、送られてきたという話だったはず。

こう書くと、映画の「ターミネーター」を思い出す。ロボットが助けに来るのは「2」の方だったが。

よくある考察だと、「ドラえもん」の流れでいけば、そも未来はもともとののび太がそのまま過ごした先にあるわけで、このままだったらダメになってしまう状態なら、その未来は生まれてこないはず。

なのに、ないはずの未来があって、そこから過去ののび太を助けるという矛盾が起こっているとなる。

「ドラえもん」を見ながら「なんだこの矛盾は!」と憤りながら見ている人は、寡聞にして知らない。怒らなくても、おかしいと思っているせいで仏頂面になりながら見ている人は、いるのかもしれないが、全国にアンケートを取って調べているわけでもないので、知りようはない。

未来が過去を助けるというこの理屈は、実は、時間が不可逆的なものではないという論理の元では当たり前の話となる。

いきなりなんだそれは?となるが、別にタイムマシンで飛んで行って助けてくるというのが当たり前だと言っているのではない。


あなたの過去にひどく辛いことがあったとしよう。ないという人もいるが、ともかく。

それを延々引きずっていて、今も辛いと。しかし、ある時、それに纏わる、当時はわからなかった事情を知ったりして、トラウマになっていた過去に対する評価が逆転してしまい、今ではむしろそのことに感謝するくらいで、今は快適だという話があるだろう。

実は、この理屈である。タイムマシンだとかはたとえである。実際にそのような物が未来に出てくるかは、拙には何とも言えないが。

トラウマの原因が実は、掛け替えのない物だった、などというのは、それが陰惨な事件だったりしたら、ひどいシナリオだと言われそうだが、そんなものである。


ある、名前は忘れたが、海外の文芸評論家が言っていた。「我々は批評家になりすぎている。作品をもっと楽しむべきなのだ」という具合の事を。楽しむこと自体に没頭するべきだ、だったか。


某オンラインゲームの、去年から先日まで続いていたシナリオは、言わば夢物語の世界を探索するというものだった。

「お話の世界」である。その結末の方では、実際に何でもありな状況が起こり、主人公の助けになっていき、結末を迎える。

こんな都合のいい流れなんぞあるか!だとか、めちゃくちゃで話が頭に入ってこない!という風な非難の向きがある。

「お話の世界」はなんでもありである。あなたが決め付けている、既定路線の外にもお話はある。


上記のたとえ話をもう一度。

トラウマの原因だった過去の事件が、例えば、目の前で親を殺されたことだったとして、実はその親が自分を殺そうとしていたのを、たまたま忍び込んだ泥棒が仏心を出して、止めるために殺してしまった、というのを知ったとしたら、どうなるだろうか?

その親がどうして殺そうとしてきたのかは、もはやわからないとしても、殺そうとしていたのも覆らない事実だったとしての上記の流れなら、感謝一辺倒にはならないかもしれないが、殺した相手を憎むだけにもなるまい。

めちゃくちゃな話ではある。



彼らは、彼ら自身の「お話の世界」を楽しむことができない。だから、シナリオをけなす。

自分の知識や感覚や想像力がなまくらだったりすることは、思いもしないことがほとんどである。

持って回った言い方をしてきたが、別にさっきから書いている、創作上の話のことだけを指しているのではない。

あなたは、我々は、もっと「己というお話の世界」を楽しむべきなのだと。


「お話の世界」はなんでもありなのだから。


では、よき終末を。