ウヰスキーのある風景

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きみはきみが悪い

2018-05-08 | 雑記
前回の記事はいつにもまして、気味が悪かったと思われる。

何せ、言っている本人すら、「酔っているのだろう」と評したくなるところではある。

といっても、一人でそう考えたというより、あれを書くきっかけになった出来事(内容は直接的ではないが)があったからである。

詳細は省くが、数ヶ月前に、とある女性に一目惚れされた云々と書いたかもしれない。

結局その話は梨のつぶてという奴で、一目惚れの後にもう一度面会したっきりとなっている。

「一目惚れした人が知り合いに現れた」と伝えてきた人物がいるのだが、上記の面会の終了後、拙は連絡先を教えていなかったことを思い出し、面会の日にもいたその仲介役に、その女性に電話番号を伝えておいてくれと頼んだ。

人づてにするというのはなんともいえないが、何せ、仲介役の連絡先は知らないので、面会をセッティングした馴染みの店の店主に連絡をして、「頼んでおいてくれ」とやった。

それから二週間経って、知らない電話番号から電話が来た。掛け返したが、出ない。夜勤中に掛けられていたので、こちらは朝に掛け返したのだが、それは仕方ない。掛け返しておけば、何がしかの反応があるだろうと見越してである。

のだが、一向にない。そもそもこの電話番号は誰のものか、と思って、馴染みの店に帰りに寄って聞いてみたら、件の仲介役の電話番号だった。

すれ違いで、直接会って話する機会をこちらも逃してしまったりというのもあったのだが、拙が聞きたかったのは簡単なことである。

「電話番号を伝えたのかどうか」と。

こうやってとんぼ返りしてきたということは、無しになったというのは想像もつく。馴染みの店主もそう評していた。

のだが、それならメールアドレスは知らなくてもショートメールを打てるだろうし、その件で拙も度々店を訪れているのだから、店主に言伝でもしておけばよかろう。

「ダメだった」と。これだけで済む。ダメでなければ、その女性が続ける気があるなら電話してくる可能性がどれくらいあるかしらんが、少しはある。だから、引っ張る理由が判らない。


そしてまた日が経ち、かつて、麻原もどきのおっさんの元でラヂヲをやっていた時に作ったFacebookに、友達申請が舞い込んできた。


例の面会の日に、持っていることは持っている、とはしゃべったので、それを覚えていたか、数少ない友達リストに馴染みの店主もいるので、聞いたのかもしれないが、ともかく、例の仲介役からだった。

Facebookのメッセンジャーとやらは、他人から見られるのかどうかはよく判らないので、といっても、エシュロンが世界中のメールを調べまくってるとか言う話なので、心配する意味がないのだが、そやつに具体的な内容を伏せつつ問うてみたところ、ただ一言だけ返ってきた。

「ですね。そういう話でした」

拙も大人気ないので、「一言で済む話を何故ここまで引っ張った?」と怒ったものだが、一週間ほど経っても弁明も何もないので、友達申請をクーリングオフすることにしたものである。


ここからがまたオカルトな話になる。


そやつは、オーラが見えるのだとか言っておった。

ただ、拙と今はその店にいない店員のオーラをどちらも「黒っぽい色」だと述べていた。ここは記憶違いの可能性が高いが、馴染みの店主も黒と評していた気がする。

オーラとかいうもので検索してみると、そういうセミナーだとかがあって、そういうサイトで書かれていた話があった。これもかなりうろ覚え。

人によって同じものや人を見ても、見える色がまちまちになったりする。というのも、その人が見たい色を見出していたりするからというのである。

いわゆるオーラというのは、言ってしまえば水のようなもので、水に色のついた何かが混じればその色になる。評される色は全て溶け込んでいるわけで、人によって何が出るか出ないかはまちまちなだけである。

見出す方もまた、同じだといえる。よくあるオーラの色で性格だとか状態を評するところで見るのは、黒は調子が悪いときというものである。それだけではないが、そういう時が多いとは聞く。

そやつがいうには、職人気質な人の悪い意味の黒ではないとは言っておったが、実際は、そやつがくすんでおるだけではないのか?というのが拙の推測である。

そうではなく、そやつの言うとおりだとしたら、彼奴はインディーズのミュージシャンであり、だから黒ばかり見えるのだという話である。


こういった内容(すぐ上のは今回初めて書いた)を含んだ経緯を知り合いにメールでお知らせしたら、反応がなかった。そのメールを書いた後に前回の記事を書いたので、「こりゃきっと気味悪く思われたんだろうナァ」と考えた次第である。

そんなノリで書いたから、前回の記事も気味悪いものであろう、というところである。


とはいうものの、拙に言わせれば、この世がある、この世にいるという事自体がもはや「気味が悪い」のだと考えている。

かつての陰謀論者の端くれだった意味合いで言っているのでもなく、あとはスピ系陰謀論者がいうような、「魔術で世の中支配している奴らがどうこう」という意味もない。

魔術云々で、悪党のように言われている有名人がいる。善人とも評せないが、評するなら「途轍もない人物」といえる、アレイスター・クロウリーという魔術師である。

彼はこういう風に言っていたそうだ。

「人が思考し考えて行動するというのは、魔術なのだ」と。思考し考えて、というのは読んだところでそう書いていた。何せ記述するために書かれたものではないので、そうなっていたようだが、意味はおかしくなってはいないだろう。


前回の記事の冒頭で、「信じるものは云々」と始め、人が生きるというのは、信じる力が故、という風に書いた。

これはその時考えたわけではなく、かなり昔から思っていたことである。

人が生きるというのは、何かの宗教団体に所属することではない意味での宗教なのだと。信じる力が故というのに準えるならば、信仰が故なのだと。

かつて読んだ魔術のHPでも、気というのは信じてなければ判らないとあった。逆に言えば、無いと信じるのが一般の通念なので、無いことになっているとも言える。

人が考えて行動するというのはつまり、生きることである。結局、同じようなことに思い至ってしまったといえる。



拙はこういう話をもう何年も書き連ねてきたわけだが、実を言うと、己自身でも変に思っている。こういう話をどう感じるかという意味である。

こういう話を読んだり考えたり実践しながら、常々思っている。「気味が悪い」と。こうやって書いている言葉でなければ、「ばかくせぇ」とちょくちょく頭の中で響いてくるものである。


いわゆるオカルト染みた話を信じてもらおうとは思わない。まあ、信じてくれたら少しは嬉しいかもしれないが、拙のことは拙自身が判ればそれでよい。


気味が悪いのは君が悪いのだろうなどという冗談のような話が真実になりえるのが、さっきも書いた、この世にあること自体が「気味が悪い」の所以である。

「気味が悪い」と書いているが、別に文字通りの意味ではないことをお断りしておく。記事やメールを気味悪がられていただろうな、というところから引っ掛けた話である。


改めて問う。

気味が悪いと君は思うとして、それは何ゆえか?拙の話を頭から信じろという意味ではなく、何事に対してもである。

それは、君が君自身だと思いなしている偏頗な存在にしがみついているからではないか?

君が君自身だと思いなしているものからすれば、全ては気味が悪いだろう。そもそも、全てを判りはしないのだから。

気味が悪いのは君が悪い。だからこそ、この「気味が悪い」世は気味が悪いのである。


などと書くと、いやはや。気味が悪い。
この言いようは何様のつもりだ?と問われれば、お陰様で、と返すことにする。



「気味が悪い」ではなく気味が悪いと思いなせば、この世はそう動いてしまう。

どちらにしても、「気味が悪い」のだなと、思わざるを得ないのである。



では、よき終末を。