ウヰスキーのある風景

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されど、韜晦す

2017-09-12 | 雑記
最近はそうでもないし、それにそもそも、人と話す機会が労働中ぐらいで、そんな時はそういう風に受け取られる話もないので、めっきりなくなったといえるが、物知りと言われることもあった。

芥川龍之介の話だったと思うが、何某の本の何項になんと書いてあると、見ずに喋るといった具合のレベルで流石にはないので、たまたま周囲の人間知らなかったことをたまたま言っているだけなのだろうと思われる。

それはさておき。

先日、『魔術入門』の再読が終った。電車で読みながら途中で本を取り落としてしまったものである。寝不足で。

その冒頭になんと書いてあるのかというのは、以前に何度か書いた。

魔法の定義を、著者のバトラーはこう記す。「己の意識に思うがままに変革を起こす技術」だと。

さて、そうすると意識とはどういうものなのか?冒頭の章ではこの定義を示してのち、続きの章は意識とはどういうものなのかを解説していくとして、締めている。

意識という言葉だけだと、ひどく多様である。バトラーは、ユングの心理学を援用し、説を展開していた。

大別すると、顕在意識と無意識の二種になり、無意識の中にはさらに階層がある。この辺りは、ユングの心理学をご存知の方には説明はいるまい。

顕在意識とは、普段の状態で物を考えたり仕事したり飯を食ったりしている意識である。

この件については、野口晴哉も同じ指摘をしている。ユングの影響なのは、確か本人も言っていた。

曰く、「何々さん、と呼ばれて返事するが、それはそもそも、何々さんと自分で思い込んでいるだけのことなのだ」と。

何々さんと思い込んで生きている意識は、人間の意識全体から考えると、一部でしかないのだと指摘している。

大部分は無意識が生命を司っていることを、我々は常々忘れがちなのだと。

目玉を捨てろ、意識から離れろ、そうやってこそ生命の本質が理解できるのだ、と述べていた。


話が横道に逸れているが、もう少々。

野口整体というのは、身体のゆがみをいじるのが目的ではなく(最終目的ではないというべきか?)、心理カウンセラーの如き診察で人の心身を見るという。

この話も昔書いたが、ある社長さんが不調で診察を受けた。診察したのは、野口の弟子で、道場を開いている方である。

その御仁は、スポーツやったりで身体はしっかりしている。しかし、なんとなく調子が悪い。

そして、うつぶせに寝てもらって背中を診察した時に、背骨に力がないと判った。

背骨に力がないというのは、自分の意思がないか、薄弱なのだという。それで、その整体師は社長さんに、その件を伝えた。

すると、悲しげな顔をしてこう述懐したという。「たしかに、色々やってきたと思うが、どれもこれも自分でやろうと思ったものではなかった」と。

彼の不調は、上記で野口が指摘したとおり、自分だと思い込んでいるもののせいだったといえる。

本当は、無意識では嫌だと思っていたけど、意識でやりたいことだと自身に無理矢理言い聞かせたりしていた、という風に考えられるだろう。

話を戻す。


魔法の理論というのは何なのか。こちらも専門家ではないので、バトラーの言を伝えるに留まる。

しかし、実は横道の話そのものである。

『魔術入門』にもそのままの話がある。社長さんの背骨の話ではないが。

そもそも、日常の顕在意識というのは、環境による偶発的なものであり、偽りなのだと。

この偽りの自己を自分自身だと見なすのが、人類の問題の全てだというのである。

そこで、意識というものを「建てなおす」のである。全部破壊して更地から建てなおすわけではないが、以前の意識という土台をある程度残しつつ、改築する。

そして、魔法の理論では守護天使や、オカルト系の言葉だと「高位の自己」と呼ばれるものにアクセスするというのである。

そのために魔法の理論や修行方法があるというのである。

ここは書いてなかったと思うが、偽りの自己がイキアタリバッタリでする願い事を叶えるための超自然現象ではないのである。

魔法というのは超自然的なことをする、もしくはしようとするのが目的ではないのか?と思われるだろうが、そうではない。

そもそも、偽りの自己とそれを全てだと思う普段の生活からは隠されているだけの話で、決して自然を超えているわけではない。

普段の我々が知っている自然とは違うだけのことである。そして、偽りの自己の小さな視点を全てだと思っているから、嘘っぱちだと決め付けているだけのこと。


普段、我々が思ってないだけで、色々なところに魔法の理論が残っていたり駆使されたりしている。

バトラーの著作では、キリスト教の儀式についての記述がある。キリスト教だけでなく、例えば式典などの儀式の効用などについても、魔法の理論からなっているのだと。

上記の整体の診察の話で出た背骨社長(思いつきで名付けた仮名)も、診察という、生贄の儀式じゃないが、そうともいえるような状況で、己の偽りを気付かされたものである。



すぐ上からこう言うと変ではあるが、魔法の本質とは、実に宗教的なものなのだと。本来の意味でのスピリチュアルなのだといえる。

スピリチュアルについては、簡単な説明が以前紹介したブログにある。こちら。もっと詳しく書いているのはこちら


くどいが、森で生活することが人類のゴールだという方々は、ただのカルト宗教である。

かといって、文明生活を維持し、例えば日本で言うと、少子高齢化社会やら、経済やら、隣国のミサイルやら、日本だけの話じゃなくなるが、秘密結社の陰謀やらを解決することも、ゴールではないのである。


これらは全て、一つから端を発したものであり、一つなのだと理解できるかどうかである。イルミナティがいるから世界は戦争だらけ、ではないのである。


宗教を否定していると言った御仁が、先達の宗教家と同じ事を言い出す。ならば、それは疑いようのない真実だから到達したと考えるべきである。

それなのに、その著作を翻訳した人物は、「昔から言われていることに過ぎない」とのたまい、微塵も理解を示そうとしなかった。


その反応こそが、偽りの自己が全てだと心底うぬぼれきった言動だと、彼の者が毎時非難していた、「一般人」そのものだということを理解しないのである。


バトラーの書いたとおり、偽りの自己に囚われていることが、人類最大の問題なのである。



では、よき終末を。